- ソルジェニーツィン短篇集 (岩波文庫)
- 発売元: 岩波書店
- 価格: ¥ 798
- 発売日: 1987/06
現在、ソルジェニーツィン追悼月間です。
ソルジェニーツィンの「クレチェトフカ駅の出来事」を読了しました。
◇◇◇
大祖国戦争初期、ソビエト時代に育った正しく"成熟した純潔なソビエト青年"であるゾトフ中尉が、密告者に変貌する一瞬を切り取った短編です。
「いや、もう御心配なく、ゾトフさん」いろんな種類のボタンがついている汚れた上着の胸に、トベリチノフは片手の指を扇のようにひろげて押しあてた。「これだけで、もう充分に感謝しております」男の目つきも声つきも、もはや悲しそうではなかった。「おかげさまで体も心もあたたまりました。あなたは、いい方ですね。こういう苦しい時代には、たいへん貴重な体験です。で、教えていただきたいのですが、わたしはこれからどこを経由して、どう行ったらよろしいのですか」
「まずですね」と、ゾトフは満足そうに説明を始めた。「グリャージ駅まで行ってください。ああ、地図がないと説明に不便だな。わかりますか、グリャージがどの辺にあるか」
「いや、どうも、あまり........名前は聞いたことがあるようだけれども」
「そりゃ、あるでしょう、有名な駅だから! もしグリャージ到着が明るいうちでしたらこの証明書を持って―この駅を通られたことを、ここに添え書きしておきます―グリャージの司令部へ行ってください。司令官が配給所に紹介しますから、二日分の食糧が受け取れます」
「どうもいろいろお世話様です」
「もし到着が夜だったら、列車からおりずに、じっと乗っていてください! それこそ毛布がひとりでに運んでくれますよ! ......グリャージから、この列車はポボーリノへ行きます。ポボーリノにも配給所があるけれども、乗りおくれないように気をつけてくださいね! 列車はさらにアルチェーダまで行きます。アルチェーダで、あなたが乗り継ぐ列車は二四五四一三列車となっています」
ゾトフは遅延証明書をトベリチノフに手渡した。それを、上着の、ボタンのついているほうのポケットに収めてから、トベリチノフは訊ねた。
「アルチェーダ? それは聞いたことがありません。どの辺ですか」
「スターリングラードのちょっと手前ですよ」
「スターリングラードの手前」と、トベリチノフはうなずいた。だが、額に皺を寄せた。かすかに努力の色を見せて、訊き返した。「失礼ですが.......スターリングラードというと.......昔は何と呼ばれていましたか」
この瞬間、ゾトフの内部で何かが破裂し、ひんやりするものが胸をかすめた。こんなことがあり得るだろうか。ソビエトの人間が、スターリングラードを知らないのか。いや、こんなことは絶対にあり得ない! 絶対に! 絶対に! とうてい考えられない!
だが、ゾトフは辛うじて感情を隠した。なんとなく服装を直した。眼鏡にさわった。それから冷静な声で言った。
「昔はツァリツィンです」
(してみると、包囲脱出兵じゃないんだ。潜入したんだ! スパイだ! 白系のエミグラントかもしれない。だから、こんなに礼儀正しいんだ。)
ソルジェニーツィン「クレチェトフカ駅の出来事」(小笠原豊樹訳)
そしてゾトフは、「感じのいい喋り方」で「教養のある賢い男」と見なしていたトベリチノフを騙して勾留し、本部へ護送しました。しかし彼は、トベリチノフのことを一生涯、どうしても忘れることができませんでした。
◇◇◇
興味深いなぁと思ったのは、"非情な密告者"となったゾトフのメンタリティです。
彼の密告は、「良心の命じるままに」行われたものでした。
トベリチノフがほんとうに「変装した破壊活動分子」であったかどうかはゾトフには分かりません。しかし、最後に「こんなことは、あとで取り消すわけにはいかないのですよ!」と、トベリチノフが叫んだように、ゾトフの密告がトベリチノフの一生を無残に変えてしまったということは、ゾトフも気づいていたと思います。それゆえ、彼は「縞模様のワンピース姿の少女の写真」を大切に持っていたトベリチノフのことを、一生涯忘れることができなかったのでしょう。
"ソビエト青年"としてではなく、"人間"としての彼の良心が、一生涯消えない罪の意識を彼の心に刻みつけたのだと思います。 読了日:2008年8月13日