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2021/01/04

山城むつみ『ドストエフスキー』



山城むつみの『ドストエフスキー』(2015年、講談社)は、彼が文芸誌の『文學界』と『群像』において発表した論考をまとめた論文集です。
全六章仕立で、各章は単独でも独立した作品論として読むことが出来ます。
章題として掲げられているのは、『悪霊』『罪と罰』『作家の日記』『白痴』『未成年』『カラマーゾフ』ですが、ドストエフスキーの全生涯と全作品が縦横無尽に取り上げられています。
ドストエフスキーの五大長編のうち、どれか一作でも読んでいるかたに、ぜひおすすめしたいです。

本書を読んで、特に驚きだったのが第六章「カラマーゾフのこどもたち」です。
わたし自身、「『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む」と題した記事を書いているとおり、『カラマーゾフの兄弟』が大好きです。
読書メーターの自己紹介欄の「好きな本」の項目で、一番上に名前をあげているくらい、忘れがたい作品であります。
好きだからこそ、より深く知りたいと思い、『カラマーゾフの兄弟』論はこれまでたくさん読んできました。
著名な翻訳家によるものでは、江川卓の『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』(1991年、新潮選書)や、亀山郁夫の『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』(2007年、光文社新書)などを読みました。

江川卓は、「カラマーゾフ」は「黒く塗られた」という意味であるといった語源学的解釈や、ロシア正教の分離派である去勢派から作品を読み解こうとします。
亀山郁夫は、未完であることにこだわって、書かれなかった「続編」に関心を向けていました。
一方、山城むつみの読み方には、ロシア語やロシア正教や皇帝暗殺事件などの知識を必要としません。
知識勝負ではないという意味で、山城むつみが最も真正面から、ドストエフスキーの作品自体と向き合っていると感じました。

ひとつ、山城流の読み解き方を具体的にご紹介しましょう。
イワンがアリョーシャに向かって語った物語詩「大審問官」の場面です。わたしは以前、この物語詩に着目して記事を書きましたが、山城は物語詩自体ではなく、イワンがどんな顔で語っているかに注目するのです。

イワンの長広舌において焦点を置くべきポイントは、イワンが何を喋っているかではない。それを彼がどんな顔で喋っているかなのだ。語られている理論よりも、それを語っているイワンがどういう人間なのかに注目して耳を傾けるべきなのだ。(山城むつみ『ドストエフスキー』Kindle版より、以下同)

「大審問官」は、十六世紀のスペインに再臨したイエス・キリストに対して、老枢機卿が「三つの誘惑」について論じ、イエスを拒絶する物語詩です。キリスト教における自由意志、良心の自由を問う寓話的な風刺が語られています。
しかし、この物語詩の内容には一切言及せず、「だが、イワンの奇妙な表情に注目してしまった以上もはやこれを哲学的神学的に分析する気はしない」という山城の言葉に、わたしは心底驚きました。

「大審問官」を語り出す直前、イワンは何の罪も無いのに虐待され、苦しめられる子供たちの事件についてアリョーシャに語り、「神が創った世界を認めない」とまで言います。
しかし山城は、この種の事件を手帳に書き留めて蒐集していること自体が嗜虐的であると断じるのです。
たしかにそう言われてみると、この世界の不条理を告発するのであれば、不慮の事故や不治の難病がたまたま降りかかってきた子供たちの苦しみを引き合いに出すのでもよかったのですよね。
そのような確率的災難には一切触れず、虐待されている子供たちの苦しみばかり語るのは、幼児虐待者の「嗜虐的な愉楽」をイワン自身も感じているからだ、と山城は論じます。

イワンの顔が苦しみでゆがむのは、「嗜虐的な愉楽」を感じる自己と「悲しみに引き裂かれる」自己との間で分裂しつつあったから。この自己分裂が悪化して、後の悪魔とイワンの対話の場面につながる、と山城は読み解きます。

山城によれば、イワン自身の中にいる悪魔は、「善良な弱者の顔に恥辱と苦しみをなすりつけることから生まれるあの不条理な享楽の化身」です。
イワンに幼児虐待事件や「大審問官」を語らせているのは、イワンの中の悪魔なのです。
そして、イワンの中に悪魔がいたように、ドミートリィの中にも悪魔がいます。

カチェリーナが公金を横領した父親のために自分を犠牲に捧げようとして、一人でドミートリィの部屋を訪れた時、彼は五千ルーブリの五分利付き無記名債権を彼女に渡して、そのまま部屋から送り出しました。
高慢なカチェリーナはこの施しを受け取った後、「額が地につくようなロシア式のお辞儀」をして、彼のもとを去ります。
ドミートリィの施しは、一見高潔に見えますが、彼女に性的関係を強要する以上の嗜虐的な快楽を得たはずだ、と山城は論じます。

彼の意識にとって常に死角に隠れ続けるのは、むしろ高潔な贈与という外見のもと になされたあの嗜虐的な淫蕩なのだ。父殺しに関して何の罪もなく、したがって何ら罪責感を覚えていないにもかかわらず、彼が裁判で有罪の判決を受け入れようとするのも、カチェリーナに対するこの 嗜虐的贈与に伴う精神的淫蕩に関して根源的な罪を感じるからだ。

え、そうなの!? と、この読み解きにわたしは再び驚きました。
イワンを苦しめている嗜虐性と同じか、それ以上にむごたらしい嗜虐性をドミートリィは隠していたのだと言うのです。
善良な人間を虐待し辱めることから「ばかげた快楽」が生まれるのはなぜなのか。
もし本当にこの世界が神によって創られたのなら、神はなぜこんな「ばかげた快楽」を許しているのか。
「大審問官」を通して語ったイワンの問いかけと同じ問いを、作中でドミートリィは次のように語っています。

言ってくれよ。焼き出されの母親たちが立っているのはなぜなんだ、みんなが貧しいのはなぜなんだ、ややこがみじめなのはなぜなんだ、曠野が荒れはてているのはなぜなんだ……

山城は、永遠に手の届かない「未完のカラマーゾフ」を追い求めるではなく、目の前にある物語を完成品として向き合っています。
その作品に対する誠実な眼差しを、わたしも見習いたいと思いました。
山城は、わたしたち読者が見落としていたさまざまな手がかりを教えてくれます。
ただし心に留めておきたいのは、山城の読み解きが唯一絶対の「正しい」解釈ではないということです。

読者が作品を読み解く手がかりは、作家の日記や手紙を繙くまでもなく、作家自身によって物語中に書き込まれているのです。
本書を読んで、もう一度『カラマーゾフの兄弟』を読みたくなりました。読むたびに新しい発見がある奥深さこそが、ドストエフスキーの文学の魅力ですね。


2013/01/09

ドストエフスキー「九通の手紙にもられた小説」


ドストエフスキー『九通の手紙にもられた小説』(1847年)を読みました。
新潮社『ドストエフスキー全集 1』に収録されている、小泉猛訳です。
ドストエフスキー全作品を読む計画の第3作目です。

1845年5月、24歳の若い無名作家だったドストエフスキーは、駆け出し作家のグリゴローヴィチと、詩人ネクラーソフに『貧しき人びと』を絶賛され、当時の批評界の大立者であったベリンスキーに紹介されます。
同年夏に、ドストエフスキーは『分身』の執筆を始めます。
『分身』執筆中に、ドストエフスキーはネクラーソフ、グリゴローヴィチと3人で、ユーモア雑誌「ズボスカール」(嘲笑う人)を企画します。
同年11月、「ズボスカール」のために、ドストエフスキーは『九通の手紙にもられた小説』を一夜で書き上げたのです。
雑誌刊行の許可が下りなかったため、『九通の手紙にもられた小説』は1847年に、ネクラーソフとパナーエフによる雑誌「同時代人」に掲載されました。


『九通の手紙にもられた小説』は、デビュー作『貧しき人びと』と同じく、書簡体小説です。
ピョートル・イワーヌイチと、イワン・ペトローヴィチとの間で交わされる往復書簡で構成されています。
ロシア文学者・翻訳者として有名な米川正夫氏は、「彼の作中もっとも無価値のものであることは間違いない」と酷評していますが、わたしは抱腹絶倒でした!
チェーホフのユーモア小説がお好きな方は、楽しめる作品だと思います。


以下に、物語の構成を整理してみましょう。

<第1の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (おそらく11月7日付)
    イワン・ペトローヴィチに相談があり、直接会って話したい。 イワン・ペトローヴィチ宅を訪問したが会えず、ダンスパーティーや劇場を探しても会えなかった。→嘘
    エヴゲーニイ・ニコラーイチを、何とか遠ざけてもらいたい。→嘘?

<第2の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ
    自分を探していたらしいが、自分はちゃんと自宅にいた。
    昨日はピョートル・イワーヌイチ宅を訪問したが会えず、ペレパルキン氏宅で探しても会えず、翌日もピョートル・イワヌーイチ宅を3回訪問したが会えなかった。
    ピョートル・イワヌーイチは自分との約束を無視している。 エヴゲーニイ・ニコラーイチは富裕な地主貴族の生まれ。

<第3の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ
    昨晩5時に叔母が卒中を起こし、危篤であるため、一晩中付き添っていた。→嘘
    翌日、叔母が持ち直したので、イワン・ペトローヴィチ宅へ伺ったが、会えなかった。→嘘
    タチヤーナ・ペトローヴナから、イワン・ペトローヴィチがスラヴャーノフ宅を訪問すると聞いたので、自分もスラヴャーノフ宅を必ず訪問する。→嘘

<第4の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ
    自分はスラヴャーノフ宅を訪問する予定は無かったが、ピョートル・イワーヌイチの手紙を読み、スラヴャーノフ宅を訪問するように、という指示であると判断して、スラヴャーノフ宅を訪れたが、会えなかった。 今朝もピョートル・イワヌーイチ宅を訪問したが、会えなかった。

<第5の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月11日付)
    昨夜の午後11時に、叔母が死去したため、イワン・ペトローヴィチに会えなかった。→嘘
    先週、イワン・ペトローヴィチから受け取った銀貨350ルーブリは、借用証書が存在していないので、借用したわけではない。→嘘?

<第6の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ (11月14日付)
    自分は、エヴゲーニイ・ニコラーイチが、ピョートル・イワーヌイチ宅へ出入りするよう仕掛けた。
    カード賭博で、エヴゲーニイ・ニコラーイチから金を巻き上げ、ピョートル・イワーヌイチと自分とで利益を折半する約束だった。
    しかし、ピョートル・イワーヌイチは、自分から銀貨350ルーブリを借り、エヴゲーニイ・ニコラーイチから巻き上げた金をも独り占めしようとしている。 銀貨350ルーブリと、約束したカード賭博の利益の分け前を要求する。

<第7の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月15日付)
    今後いついかなる場合にも、イワン・ペトローヴィチと会うことはない。自分の妻が、タチヤーナ・ペトローヴナから借りていた『ラマンチャのドン・キホーテ』を返却する。

<第8の手紙①> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ (11月16日付)
<第8の手紙②> アンナ・ミハイロヴナより、エヴゲーニイ・ニコラーイチへ (11月2日付)

<第9の手紙①> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月17日付)
<第9の手紙②> タチヤーナ・ペトローヴナより、エヴゲーニイ・ニコラーイチへ (8月4日付)


イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチは、カード賭博詐欺師であり、裕福な青年貴族のエヴゲーニイ・ニコラーイチから多額の金を巻き上げる計画をしていました。
カード賭博詐欺の利益をめぐって、イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチが仲間割れします。
イワン・ペトローヴィチは、腹いせに、ピョートル・イワーヌイチの妻アンナ・ミハイロヴナが、エヴゲーニイ・ニコラーイチと浮気していることを暴露します。
ピョートル・イワヌーイチも負けずに、イワン・ペトローヴィチの妻タチヤーナ・ペトローヴナが、エヴゲーニイ・ニコラーイチの元恋人であることを暴露するのです。

◆◆◆

ドストエフスキーの作品は、登場人物たちの生き生きとした会話や、大胆な心情吐露が魅力だと思います。
ドストエフスキーは、<会話>と<独白>の天才を遺憾無く発揮するために、デビュー作『貧しき人々』において、書簡体小説という形式を選んだのかもしれませんね。

『九通の手紙にもられた小説』も、ドストエフスキーらしい<会話>の面白さがあります。
イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチの、強烈な嫌味と皮肉の応酬には、思わず吹き出してしまいます。

(第2の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
すぐさま愚妻を伴い、失費をも顧みず、馬車を雇って、六時半ごろ、貴宅へ参上したところ、貴兄はお留守で、奥様がお出迎えくださいました。十時半まで貴兄のお帰りを待ちましたが、それ以上は不可能でしたので、再び愚妻を伴い、失費をも顧みず、馬車を雇い、愚妻を自宅へ送り届け、小生自身はペレパルキン氏宅へ向かいました。そこでならお会いできるのではあるまいかと思ったのですが、またしても計算違いでした。帰宅後も一晩中眠れず、不安の中に夜を明かし、翌朝は九時、十時、十一時の三回、失費をも顧みず、馬車を雇って貴兄宅を訪問したにもかかわらず、またしても、貴兄にしてやられました。

(第3の手紙 ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ)
かぎりなく尊いわが友イワン・ペトローヴィチ!
失礼、失礼、失礼、重ね重ね失礼、しかし取り急ぎ弁明いたします。

(第4の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
この手紙は貴兄のお宅で、貴兄の部屋で、貴兄のデスクに向かって書いております。ペンを取る前に二時間半あまりも貴兄をお待ちしたのです。

(第7の手紙 ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ)
貴兄の百姓じみた、しかも同時に奇怪な書簡を受け取ったとき、最初、小生はずたずたに引き裂いてしまおうかと思いましたが―珍品として保存することにいたしました。

(第8の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
貴兄に言われるまでもなく、小生はもはや二度と再び貴兄のお宅に足を運ぶようなことは致しません。無駄に紙を一枚汚されたものですな。

第2の手紙で、イワン・ペトローヴィチが「失費をも顧みず」と、3回も繰り返して書いているところは、笑えますね~。

『九通の手紙にもられた小説』の原題を見てみると、さらに笑えました。
原題は、《Роман в девяти письмах》です。
роман(ラマーン)は「長編小説」という意味で、直訳すると「九通の手紙からなる長編小説」となります。

ロシア語で「小説」という言葉は、роман(ラマーン)「長編小説」、повесть(ポーヴェスチ)「中編小説」、рассказ(ラスカース)「短編小説」と、はっきり区別されています。
このような短編小説に、роман「長編小説」という大げさな表題が付いているのですから、笑いを誘います。

『九通の手紙にもられた小説』は、作品のタイトルからジョークであり、ドストエフスキーが随所に笑いを盛り込んだユーモア小説であることが分かりますね。



読了日:2011年12月25日

2012/02/20

『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (3)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
  • 発売元: 光文社
  • 発売日: 2006/11/09

『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (1)
『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (2)

イワンが創作した物語詩「大審問官」は、全編を通して「自由」の問題がテーマとなっています。
「大審問官」において、イエスは「奇跡と神秘と権威」に従う「囚人の奴隷的な」信仰ではなく、人間の「自由な愛」を望み、「信仰の自由」「良心の自由」を増大させたと語られていました。

イワンから「大審問官」を聞かされた時、アリョーシャ自身も「奇跡」に対する信仰に縛られていたと言えるでしょう。

長老が亡くなられるときは並々ならぬ栄光が修道院にもたらされるはずだという確信が、アリョーシャの心を支配していた。(1巻 p.76-77)

大聖人として慕われたゾシマ長老の死後、奇跡が行われることへの期待は、修道院の僧侶たちをはじめ、つめかけた巡礼や町の人々にとって共通のものでした。
身内の病人や病気の子どもたちを連れた人々は、治癒の奇跡がすぐにも現れることを期待していました。
遺骸はいっさい腐敗せず、光輝き、芳香すら感じられるはずでした。

これほど性急かつ露骨に示された信者たちの大きな期待が、もはや忍耐の緒も切れ、ほとんど催促に近いものを帯びてきたのを目にして、パイーシー神父にはそれはまぎれもない罪への誘惑のように思えた。(3巻 p.12)

しかし、奇跡は実現しなかったのです。
ゾシマ長老の遺骸は、すぐに治癒の力を発揮する代わりに、またたくまに腐敗しはじめ、腐臭を発します。
奇跡が実現せず、ゾシマ長老が「卑しめられ」「名誉がうばわれた」ことは、アリョーシャの心を無残に、唐突に傷つけ、動揺させました。
イワンは、大審問官の口を通して「人間は奇跡なしに生きることはできない」と語りましたが、アリョーシャもまた信仰を失ってしまうのでしょうか?

彼は自分の神を愛していたし、神に対してにわかな不満も抱きかけたが、それでも神をゆるぎなく信じていた。しかし、昨日イワンと交わした会話を思い出すと、何か漠とした重苦しい、悪い印象が、彼の魂のなかで今またふいにうごめきだし、それがますます力をおびて、魂の表面へ浮かび出ようとするのだった。(3巻 p.45)

ぼくはべつに、自分の神さまに反乱を起こしているわけじゃない、ただ『神が創った世界を認めない』だけさ。(3巻 p.47-48)

アリョーシャの『神が創った世界を認めない』という言葉は、イワンの言葉の影響が明らかであり、アリョーシャの信仰の揺らぎを意味しています。

このおれは神の世界というのを受け入れていないことになるんだ。むろん、それが存在していることは知っているが、でも、ぜったいにそれを認めない。おれが受け入れないのは神じゃない、いいか、ここのところをまちがうな、おれが受け入れないのは、神によって創られた世界、言ってみれば神の世界というやつで、こいつを受け入れることに同意できないんだ。(2巻 p.218-219)

そして、アリョーシャを「堕落」させようとするラキーチンに誘われて、アリョーシャはグルーシェニカのもとを訪れました。
しかし、「恐ろしい女性」グルーシェニカのもとで、アリョーシャは『一本の葱』という寓話を聞き、グルーシェニカの魂に「誠実な姉さん」「愛する心」、すばらしい「宝」を見出すのです。
アリョーシャは、グルーシェニカに対して「あなたがいま、ぼくの心を甦らせてくれたんです」と語っています。

その後、修道院へ戻ったアリョーシャは、つい先ほどまでは「恐ろしい不名誉なこと」に思えた腐臭についても、「あのときのような悲しみやいきどおり」を感じませんでした。
ゾシマ長老の棺が置かれた庵室で、福音書の「カナの婚礼」の朗読を聞き、アリョーシャの心は「歓び」で満たされます。
歓びに満ちあふれたアリョーシャは庵室を出て、大地に倒れこみ、大地に泣きながら口づけし、「大地を愛する」「永遠に愛する」と誓ったのです。

ドストエフスキーは、「長老が多くの人々を惹きつけたのは、奇跡というよりはむしろ愛の力」によってであると語っています。
したがってアリョーシャは、ゾシマ長老が生前に何度も語った「人を愛するものは、人の喜びをも愛する」という「愛の力」によって、「奇跡」を求める<誘惑>に打ち勝ったのだと思います。


※『カラマーゾフの兄弟』からの引用文は、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳です。


読了日:2011年10月22日

『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (2)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
  • 発売元: 光文社
  • 発売日: 2006/11/09

★『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (1)

★「三つの問い」の意味
大審問官は、福音書の「三つの誘惑」について論じることで、「彼」に問いかけている。
「悪魔が三つの問いのなかでおまえに告げ、おまえが退けたもの、つまり聖書のなかで<誘惑>と呼ばれている問い以上に、真実なことがほかに言えただろうか。」p.265
→大審問官は、福音書において「三つの誘惑」こそが「世界と人類の未来の歴史をあますところなく言い当てる」ものであると考えている。

  • 「三つの誘惑」(マタイによる福音書 第4章1節から11節)の位置づけ
    →イエスは、荒れ野で悪魔から試みを受けた。
    荒れ野での40日は、旧約聖書でイスラエルの人々が荒れ野を放浪した40年間を象徴している。
    悪魔の試みに対抗するために、イエスは旧約聖書の申命記から引用して応答している。
    申命記は、モーセが死を目前にしてイスラエルの人々にした説教であり、出エジプト以降のイスラエルの人々の足跡を辿る内容となっている。
    神がどのようにイスラエルを導いたか、神の導きにもかかわらずイスラエルの人々がたびたび不信仰に陥り、その不信仰の結果、40年間荒野を放浪したことが強調されている。
    ※申命記は、これまでモーセが民に伝えてきた律法の要約。「申命」とは「重ねて命じる」という意味。
  • ※マルコ1章12節から13節、ルカ4章1節から13節も「三つの誘惑」のバリアント。


→大審問官は、福音書の「三つの誘惑」をどのように解釈したのか?

第1の誘惑
  • <マタイによる福音書>
    さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
    イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」


    イエスの応答→申命記8章3節からの引用「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

  • <大審問官>
    「おまえは世の中に出ようとし、自由の約束とやらをたずさえたまま、手ぶらで向かっている。ところが人間は生まれつき単純で、恥知らずときているから、その約束の意味がわからずに、かえって恐れおののくばかりだった。なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ!」p.267
    「その石ころをパンに変えてみろ、そうすれば人類は、感謝にあふれるおとなしい羊の群れのようにおまえのあとから走ってついてくるぞ。」p.267
    「ところがおまえは、人間から自由を奪うことを望まずに、相手の申し出をしりぞけてしまった。なぜなら、もしもその服従がパンで買われたなら、何が自由というのかと考えたからだ。」p.267-268
    「非力でどこまでも罪深く、どこまでも卑しい人間という種族の目からみて、天上のパンは、はたして地上のパンに匹敵しうるものだろうか?」p.269
    「パンを与えてみよ、人間はすぐにひざまずく。」p.272

    →大審問官は、イエスが最も大切にしたものは「自由」(=「信仰の自由」「良心の自由」)であると考えている。
    大審問官の考えでは、人間は「非力で、罪深く、ろくでもない存在でありながら、それでも反逆者」であるため、お互い分け合うことが出来ず、「自由」(=「天上のパン」)と「地上のパン」は両立しがたいものである。
    「自由」の問題の根底には、人間は「いっしょにひざまずける相手を求める」という問題がある。人間は、「地上のパン」を与えてくれる相手(=「ひざまずくべき相手」)に、自分の自由を喜んで差し出す。

    →しかし、「三つの誘惑」においてイエスは石をパンに変える奇跡を行わなかった。イエスは人間の「自由」を支配することをよしとせず、「地上のパン」を退けたことを意味している。
    イエスは「確固とした古代の掟」に従うのではなく、人間の「自由な愛」を望み、人間の自由を増大させた。
    →人間の自由が増大した一方で、「何が善で何が悪か」を自分なりに判断していかなくてはならないこと(=「良心の自由」)は、人間にとって恐ろしい重荷、苦しみとなった。


第2の誘惑
  • <マタイによる福音書>
    次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
    イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。


    ※第1の誘惑において、イエスが旧約聖書の言葉を引用して誘惑を退けた。そのため第2の誘惑では、悪魔自身も旧約聖書の言葉を引用して、巧みに誘惑している。

    悪魔の誘惑→詩編91章11節から12節の引用「主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び 足が石に当たらないように守る。」
    イエスの応答→申命記6章16節の引用「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」

  • <大審問官>
    「おまえはその誘いをしりぞけ、誘いに負けて下に飛び降りることはしなかった。」p.275
    「しかしくり返すが、おまえのような人間が、はたして数多くいるものだろうか?」p.275
    「はたして人間の本性が、奇跡をしりぞけるように創られているものだろうか?」p.276
    「ところが、おまえは知らなかった。人間が奇跡をしりぞけるや、ただちに神をもしりぞけてしまうことをな。なぜなら人間というのは、神よりもむしろ奇跡を求めているからだ。」p.276
    「人々がおまえをからかい、あざけりながら『十字架から降りてみろ、そしたらおまえだと信じてやる』と叫んだときも、おまえは十字架から降りなかった。おまえが降りなかったのは、あらためて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。」p.276-277

    →大審問官は、第2の誘惑では「奇跡」の問題を中心に論じている。人間の「自由」を支配することになるため、イエスは「奇跡」による信仰を退けた。
    この「奇跡」をめぐる議論も、第1の誘惑と同じく「自由」をめぐる問題が根底にある。大審問官の考えでは、イエスの望んだ「自由」に持ちこたえられる人間は数万人程度であり、残りの数十億人は「自由」を受け入れることが出来ない。
    →したがって大審問官たち(ローマ・カトリック)は、「自由」を重荷とする数十億人に対して、「信仰の自由」「良心の自由」よりも、「やみくもに従わなくてはならない神秘」こそが大事であると教えてきた。


第3の誘惑
  • <マタイによる福音書>
    更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
    すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


    イエスの応答→申命記6章13節の引用「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」

  • <大審問官>
    「われわれは、もうだいぶまえからおまえにつかず、あれについている。おまえが憤ってしりぞけたもの、そう、あれがおまえに地上のすべての王国を指さして勧めた最後の贈りもを、あれから受け取ってちょうど八世紀になる。われわれはあれからローマと皇帝の剣を受け取り、われこそは地上の王、唯一の王と宣言した。」p.281
    「強大な悪魔のあの第三の忠告を受け入れていれば、おまえは、人間がこの地上で探しもとめているすべてを、埋め合わせられたではないか。つまり、だれにひざまずくべきか、だれに良心をゆだねるべきか、どのようにして、ついにはだれが、文句なしの、共通の仲むつまじい蟻塚に合一できるのかということだ。」p.282
    「世界と皇帝の帝衣を受け入れれば、全世界の王国の礎石を置き、全世界の平安を与えることができたのだ。なぜなら、人々の良心を支配し、その手に人々のパンを携えているものでなければ、人々を支配することはできないからだ。われわれは皇帝の剣を手にし、剣を手にすることで、むろんおまえをしりぞけ、あれのあとについて歩み出した。」p.282-283

    →大審問官の言う「あれ」とは、イエスを誘惑した「悪魔」を意味している。
    大審問官たち(ローマ・カトリック)は、イエスの「偉業を修正」して、「奇跡と神秘と権威」の上に築き上げた。「奇跡と神秘と権威」という三つの力こそ、イエスが「悪魔」から誘惑され、退けたものである。


→大審問官の解釈では、第1の誘惑と第2の誘惑は、「奇跡」「神秘」の問題を論じており、第3の誘惑は「権威」の問題を議論している。


★なぜアリョーシャは、物語詩「大審問官」を「イエス賛美」と言ったのか?

大審問官自身も、かつてはイエスの望んだ「自由」に耐え抜ける「選ばれた人々」の仲間となりたいと望み、荒れ野での修行に耐えた。
しかし、「自由」を重荷とする「従順な人々の幸せ」「何十億人の幸せ」のために、自分の「良心の自由」を犠牲にして、イエスの「偉業を修正」した人々(=「忌まわしい幸福のために権力を渇望する」)の仲間に入ったのである。

大審問官は、イエスではなく「悪魔」についていると語るが、実はイエスが大切にした「自由」(「信仰の自由」「良心の自由」)を批判しているのではなく、イエスの理想が絶対的に正しいと熱烈に信じている。

→そのため、アリョーシャはイワンの物語詩を「イエス賛美」と評したのである。
大審問官は、「自由」を受け入れられない何十億の人々に絶望しているが、同時に愛しており、彼らの望む幸福(=「囚人の奴隷的な歓び」)を与えるために、イエスの教えに反した自分の罪を自覚しながら、人々の「自由」を支配する権力者となった。

→イワンは、自らが創作した大審問官というキャラクターを「偉大な悲哀に苦しみ、人類を愛する受難者」「人類への愛を癒しきれなかった人間」と説明している。



※『カラマーゾフの兄弟』からの引用文は、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳です。
※聖書からの引用文は、新共同訳です。


★『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (3)

『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (1)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
  • 発売元: 光文社
  • 発売日: 2006/11/09

2011年の読書会では、6月から10月まで4回に渡って、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』から「大審問官」を読みました。
『カラマーゾフの兄弟』を初めて読んだのは、2007年9月で、今でも大好きな作品です。
初めて読んだ時は、愛着が強すぎて、作品を対象化出来ず、感想を書けなかったのでした。
今回は約4年ぶりに再読したということで、思ったことを書きます。
引用は、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳です。


★物語詩「大審問官」の舞台設定
「彼が自分の王国にやってくるという約束をして、もう十五世紀が経っている。」p.253
「心が語りかけることに対する信仰だけがあった。」p.254
=「当時は奇跡もたくさんあった。」p.254
→加熱する聖人信仰、天使信仰、聖母信仰。

「人々のあいだに、そういった奇跡の信憑性に対する疑いが早くも生まれはじめたんだ。」
「ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現れたのはまさにそのときだった。」p.254
→宗教改革の始まり。1517年、ルター『95ヶ条の論題』
「これらの異端者たちは、奇跡を冒瀆的に否定しはじめた。」p.254
→プロテンスタントは聖人信仰、聖母信仰を批判、拒否。

「ところが、そのまま信仰を失わずにいた連中は、逆にますますはげしく信じるようになった。」p.254
「おれの物語詩は、スペインのセヴィリアが舞台だ。」p.255
→スペイン異端審問は、15世紀にセヴィリアから始められた。主にユダヤ教徒、イスラム教徒を対象とした。
 宗教改革の時代では、プロテスタントも対象とし、反宗教改革を推進する。


★「大審問官」の物語構成
  • スペインのセヴィリア「南国の町」に、「彼」が姿を現す。
    →「彼」とは、「人間の姿を借りて」降臨したイエス・キリスト。
    降臨した場所は「熱い広場」で、つい前日には「百人ちかい異端者たちが、枢機卿である大審問官の手でいちどに焼き殺された」ばかり。
  • 民衆は「彼」の方に殺到し、「救ってください」と叫ぶ。
  • 大審問官が「彼」を捕えるよう命じ、「彼」を神聖裁判所の牢獄に閉じ込める。
     「明日にはおまえを裁きにかけ、最悪の異端者として火焙りにしてやる。そうしたら、今日おまえの足に口づけした民衆も、明日はわたしの指一本の合図で火焙りの焚き火めがけ、われ先に炭を投げ込むのだよ、それがわかっているのか?」p.261
    →「彼」の行う奇跡と群衆の熱狂は、福音書のアナロジー。
    イエスが「癒しの奇跡」「よみがえりの奇跡」を行い、民衆は「ホザナ」と叫んでエルサレムに迎え入れるが、逮捕され処刑が決まると、民衆はイエスをあざけり、罵倒する。
  • 大審問官が「彼」に問いかける。
    「いったいおまえはなぜ、われわれの邪魔をしにやってきたのか?」p.265
    「悪魔が三つの問いのなかでおまえに告げ、おまえが退けたもの、つまり聖書のなかで〈誘惑〉と呼ばれている問い以上に、真実なことがほかに言えただろうか。」p.265
    「おまえは世の中に出ようとし、自由の約束とやらをたずさえたまま、手ぶらで向かっている。ところが人間は生まれつき単純で、恥知らずときているから、その約束の意味がわからずに、かえって恐れおののくばかりだった。なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ!」p.267
    「非力でどこまでも罪深く、どこまでも卑しい人間という種族の目からみて、天上のパンは、はたして地上のパンに匹敵しうるものだろうか?」p.269
    「パンを与えてみよ、人間はすぐにひざまずく。」p.272
    「われわれはおまえの偉業を修正し、それを奇跡と神秘と権威のうえに築きあげた。」p.280
    「われわれははたして人類を愛していなかったのか? あれほど謙虚に人類の無力さを認め、愛情をこめてその重荷を軽くしてやり、彼らの非力な本性を思って、われわれの許しさえ得れば罪さえも許されることにしてやってことが。」p.280
    「われわれは、もうだいぶまえからおまえにつかず、あれについている。」p.281
    「われわれはあれからローマと皇帝の剣を受け取り、われこそは地上の王、唯一の王と宣言した。」p.281
    「何十億の幸せのために、天上の永遠の褒美をえさに、彼らを呼び寄せる。」p.288
    「そして、彼らの幸せのために罪を引き受けたわれわれは、おまえの前に立ってこう言う。『できるものなら、やれるものなら、われわれを裁くがいい』と。」p.288
  • 「彼」は大審問官の話を聴き、何ひとつ反論しない。無言のまま、「彼」は大審問官にキスをする。
  • 大審問官は牢獄のドアを開け、「彼」を解放する。「彼」は町の暗い広場を立ち去って行く。
    →「彼」が奇跡を行い、逮捕・投獄されるところは福音書と同じだが、処刑を免れ、生き延びる結末は福音書と大きく異なる。

★「彼」が大審問官にキスをした意味
キス=祝福、受容、赦しの意思表示
→神は、大審問官の言うような人間の弱さ、惨めさ、愚かさを初めから理解していて、その上で人間を愛している。



★『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (2)
★『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (3)

2012/02/02

ドストエフスキー「分身」


ドストエフスキー『分身』(1846年)を読みました。
新潮社『ドストエフスキー全集 1』に収録されている、江川卓訳です。
ドストエフスキー全作品を読む計画の2作目です。

下級官吏のゴリャートキン氏は、上役の娘であるクララに恋をし、彼女の誕生日を祝う晩餐会に招かれていないのに赴きますが、玄関ですげなく断られてしまいます。裏階段からなんとかもぐりこみますが、クララの前で大失態を演じ、会場から追い出されてしまいました。
その帰り道、自分と瓜二つの男と出会います。翌日出勤すると、昨晩の男が同じ職場に着任しており、同じゴリャートキンという名前だと知ります。
新ゴリャートキン氏は、上司にうまく取り入り、同僚に愛想を振りまき、役所での地位を乗っとります。旧ゴリャートキン氏は、新ゴリャートキン氏が自分を破滅させようとしていると思いこみます。"私と駆落ちしてください"と懇願するクララからの手紙を信じ、馬車で彼女を迎えに行った旧ゴリャートキン氏は、思いがけず屋敷に招き入られ、集まった上役一同から涙ながらの同情を受けます。
旧ゴリャートキン氏は、医者に連れられ、馬車に乗せられます。行き先は精神病院でした。

◇◇◇

【登場人物整理】

ヤコフ・ペトローヴィチ・ゴリャートキン(旧ゴリャートキン)...九等官、係長補佐
新ゴリャートキン...九等官、旧ゴリャートキンと瓜二つの顔、同じ姓、同じ土地の出身
ペトルーシカ...旧ゴリャートキンの従僕

アンドレイ・フィリッポヴィチ...課長
アントン・アントーノヴィチ...係長
オルスーフィイ・イワーノヴィチ・ベレンジェーエフ...五等官 旧ゴリャートキンのかつての後盾 クララの父
クララ・オルスーフィエヴナ...老五等官オルスーフィイの一人娘
ヴラジーミル・セミョーノヴィチ...八等官、アンドレイ課長の甥、26歳
ネストル・イグナーチエヴィチ・ワフラメーエフ...十二等官、役所の当直
役所の同僚...二人の記帳官(十四等官)、二人の書記(オスターフィエフ、ピサレンコ)
クリスチャン・イワーノヴィチ・ルーテンシュピッツ...内科兼外科医、旧ゴリャートキンの主治医
カロリーナ・イワーノヴナ...ドイツ人女性、食堂の女将、旧ゴリャートキンと結婚の約束をしていた

◇◇◇

主人公のゴリャートキン氏は、役所勤めをしながらも、クリスチャン医師の治療(投薬+カウンセリング)を受けている人物として、作品冒頭から設定されています。
彼は独身で、750紙幣ルーブリの蓄えがあり、アパート暮らしで使用人もおり、暮らし向きも世間並み以下ということはない。

★新ゴリャートキン氏は何者なのか?
→旧ゴリャートキン氏の「分身」=妄想(幻覚・幻視・幻聴)
理想の自分(新ゴリャートキン氏)と現実の自分(旧ゴリャートキン氏)

★『分身』に描かれているエピソードは、どこから妄想でどこが現実なのか?

  • 第1章...起床~貯金額を数える~出掛ける準備→現実 語り手「作者」
  • 第2章...クリスチャン医師のカウンセリングを受ける→現実
  • 第3章...オルスーフィイ家の玄関で追い返される→現実
  • 第4章...晩餐会の様子→現実 語り手「作者」
    裏階段から旧ゴリャートキンが晩餐会にもぐり込む→現実 旧ゴリャートキンの「意識の流れ」が地の文に描かれ始める。
  • 第5章...みぞれの中、分身に出会う→妄想
  • 第6章...翌朝、役所に新ゴリャートキンが着任→妄想?
  • 第7章...旧ゴリャートキン宅に新ゴリャートキンが招かれ、すっかり仲良くなる→妄想?
  • 第8章...新ゴリャートキンが役所で旧ゴリャートキンに冷たくし、仕事を横取りする→妄想?
  • 第9章...新ゴリャートキンに手紙を書く→妄想の手紙?
    ワフラメーエフの手紙を受け取る→妄想の手紙(第10章で手紙が消えている)
  • 第10章...役所で新ゴリャートキンとひと悶着→妄想?
  • 第11章...クララの手紙を受け取る→妄想の手紙(第13章で手紙が消えている)
    クリスチャン医師から処方された薬を見つけて錯乱する→現実?
  • 第12章...従僕が勝手に退職を決め、引っ越す準備をしている→現実
    オルスーフィイ家を訪れ、上役たちに弁明する→現実
  • 第13章...クララが駆落ちのために現れるのを待つ→現実
    オルスーフィイ家に招かれ、上役たちから歓待を受ける→現実
    クリスチャン医師と馬車に乗る→現実
    馬車の窓から新ゴリャートキンが馬車と共に走り続けているのが見える→妄想

『分身』は、幻想と現実が交錯していて、すごく面白いです。
<分身>というモチーフは、ゴーゴリ『鼻』から着想を得ていると思います。
『分身』の副題「ペテルブルグ叙事詩」は、プーシキンの叙事詩『青銅の騎士』へのオマージュだと思います。
『青銅の騎士』は、ペテルブルグを舞台に哀れな下級官吏の青年が発狂する物語です。
『分身』のゴリャートキン氏は、<ペトローヴィチ>という父称ですから、”ピョートルの息子”という意味です。ゴリャートキン氏は、ピョートル大帝の都=ペテルブルグが生んだ一類型の人間であることを示しているのかもしれません。
『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンと悪魔の対話は、<分身>のモチーフの発展だと思います。



読了日:2011年1月8日

二重人格 (岩波文庫)
二重人格 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1981/08/16

2011/01/04

ドストエフスキー「貧しき人びと」

貧しき人びと (新潮文庫)
貧しき人びと (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 460
  • 発売日: 1969/06

2010年の年末から2011年の年明けに、ドストエフスキー『貧しき人びと』(1846年)を読みました。
新潮社『ドストエフスキー全集 1』に収録の、木村浩訳です。
今年は、ドストエフスキーを全作品読むという長期計画のスタート年にしようと思っています。


『貧しき人びと』は、ドストエフスキーが23歳の若さで書いたデビュー作です。
ペテルブルグを舞台に、中年で独り身の下級官吏マカール・ジェーヴシンキンと、身寄りのない薄幸の娘ワルワーラ(愛称 ワーレンカ)との間で交わされる往復書簡で構成された、書簡体小説です。

マカール・ジェーヴシンキンは、ゴーゴリの『外套』(1842年)のアカーキー・アカーキエヴィッチと同じく、筆耕を職業とする万年九等官です。
帝政ロシアの官僚制度は、18世紀にピョートル大帝が設定した「官吏等級表」に基づいていて、一から十四等級まで分けられています。
ノンキャリアの場合、十四等官からスタートして、どんなに努力しても九等官までしか出世することが出来なかったそうです。
この哀れな小役人を題材にした<役人もの>が当時流行し、ゴーゴリの『外套』はその最大の見本でした。

ドストエフスキーは、『貧しき人びと』で『外套』をパロディ化しています。
『貧しき人びと』の中には、マカール・ジェーヴシンキンが、ゴーゴリの『外套』を読んで、直ちに自分と重ねてしまい、憤るエピソードがあります。

せめてあの結末のところで思い直して、もうすこし調子をやわらげ、たとえばあの男が頭の上へ紙切れを振りかけられる件のあとに、それにも拘らず彼は善良な市民であり、同僚からこんな仕打ちを受けるいわれのない人間であり、上司の命令によく従い(ここに何か実例をあげてもいいでしょう)、誰にも悪かれと望んだことはなく、信心ぶかく、そして死んだときにも(作者がどうしてもこの男を死なせたいなら)みなから惜しまれて泣かれた―とでもすればよかったのです。でもなんといっても、いちばんいいのはこの気の毒な男を殺さないでおいて、なくなった外套もみつかり、あの将軍は彼の善行をくわしく知って、自分の役所へ引き取り、官等をあげ、月給もあげてやった、というようにすることですよ。そうすれば、悪は罰せられ、善はさかえ、仲間の役人たちは何も得をしなかったことになるでしょう。
(木村浩訳『貧しき人びと』、以下同)

ゴーゴリの『外套』は、滑稽でグロテスクな笑いが特徴ですが、『貧しき人びと』には、無名の小さな人間への敬意と愛着があります。

◇◇◇

マカール・ジェーヴシンキンは、ワルワーラを支えようとすればするほど、貧しくなり、孤立を深めていきます。

ワルワーラさん! わたしの可愛い人! わたしは破滅しました、わたしたちは二人とも破滅しました。二人一緒に、もう取り返しのつかないまでに破滅したんです。わたしの評判も、名誉も、なにもかもだめになってしまいました。...(中略)...晩にはラタジャーエフのところで、誰やらがきみあてのわたしの手紙の下書きを声高々に読みあげました。それはわたしが書きあげたものを、うっかりポケットから落した代物です。みんながよってたかってそれは冷やかしました! わたしたちのことをさんざんはやしたて、笑いころげました!

マカールは憂さ晴らしにウォッカを飲み、失態を重ねますが、ワルワーラは彼を励まし、懸命に支えようとします。

マカール・ジェーヴシンキンさま! いったいあなたはどうなさったんですの?...(中略)...どうか立派な人間になってくださいまし。不幸にもめげずにしっかりしていてくださいまし。貧乏は罪ではない、ということを忘れないでくださいまし。それに、こんなことはみんな一時のことじゃありませんか! 神さまがすっかり立てなおしてくださいますよ、今はただあなたさえ頑張ってくださればいいのです。

ところがある日、地主のブイコフが、ワルワーラのもとを訪れ、結婚を申し込みます。
彼女は、自分の「恥辱をそそぎ、名誉を回復」し、「貧困と欠乏と不幸」から抜け出すために、ブイコフとの結婚を承諾します。
ワルワーラは、マカールに「永久にお別れ」をして、ブイコフの領地へ慌ただしく旅立っていきました。
残されたマカールは、出すあてのない手紙を書き続けるのです。

わたしにとってかけがえのない可愛いワーレンカ! きみは連れて行かれるのです。きみは行ってしまうのです! ああ、きみを取り上げられるくらいなら、わたしはこの心臓を掴みだされた方がずっとましです! いったいきみはどうしたんです! だってきみは泣きながら、しかも発っていかれるんですね? 今きみからのお手紙を受けとりました。すっかり涙でにじんでいます。ということは、きみは行きたくないんですね。つまり、きみは無理に連れて行かれるのですね、つまり、きみはわたしをかわいそうだと思っているんですね。つまり、きみはわたしを愛してくださっているんですね!

◇◇◇

ゼラニウムの鉢植えや、お菓子を1ポンドも贈るなど、自分の生活を犠牲にしてワルワーラに愛情を注いだマカールの姿は、愚かで滑稽ですが、どこか愛すべきところがあります。
ちっぽけで無力な人間の、喜怒哀楽の模様を見つめる、ドストエフスキーの温かい眼差しを感じました。
二人の交わす心温まる手紙は、マカールの古いアパートの思い出や、ワーレンカの少女時代の思い出など、貧しくも幸福な生活が、抒情豊かに、センチメンタルな情景描写で彩られています。

『貧しき人びと』は、<涙を通した笑い>があり、若きドストエフスキーの素朴なヒューマニズムとセンチメンタリズムが魅力だと思いました。


読了日:2011年1月1日