- 鹿とラーゲリの女
- 発売元: 河出書房新社
- 発売日: 1970
★ソルジェニーツィン「鹿とラーゲリの女」(1)
ソルジェニーツィン『鹿とラーゲリの女』に登場する囚人、ロジオン・ニェーモフに注目してみましょう。
表題である「オレーニ」(鹿)は、ロシア人にとっては従順で臆病なトナカイのイメージであり、本書では「ラーゲリの掟」を知らない「お人好し」の囚人のことを意味しています。最近まで戦線にいた元将校ニェーモフは、まさに「オレーニ」です。彼のやさしさや正義感、道徳心がラーゲリにおける生活をより残酷なものにしていきいます。
ラーゲリ所長のオフチューホフは、作業主任に任命したニェーモフに次のように言います。
オフチューホフ それで、新しく来た奴らからいい品物をまきあげたか?
ニェーモフ おっしゃることがわかりません。
オフチューホフ ジャンパーだとか、皮外套だとか、絹のスカートだとか...自分でねこばばしておくつもりか?
ニェーモフ 失礼ですが、どうして、なんのために他人の品物をわたしがとったりしなければならないんですか?
オフチューホフ バカだな、生きるためだ! 「今日はお前死ね、おれはあしたにする」-これがラーゲリの掟だということを知らんのか?
ソルジェニーツィン『鹿とラーゲリの女』(染谷茂・内村剛介訳、以下同)
「ラーゲリの精神」を実践することができないニェーモフは、謀略によってたやすく作業主任の立場を追われ、危険な一般作業に就くことになります。そして死の労働に従事しながらも、次のように言うのです。
ニェーモフ あのね、ぼくは、その、ときどき考えるんだけど...ぼくたちがもっているいちばん大事なものは結局命じゃないんじゃないかって気がする。
リューバ (じっと目を据えて)それじゃ、なんなの?......
ニェーモフ ラーゲリでこんなこと言うのはなんだか具合がわるいが...でも...良心...じゃないかって気がする。
◇◇◇
ソルジェニーツィンは『収容所群島』において、ニェーモフのような「オレーニ」がどのような道を辿るのか述べています。
すでに刑期の大部分を終えたこの収容所住人の表情には、残酷で毅然としたものが目立っていた(それが《収容所群島》の住人たちの民族的な特徴であるということを、私は当時まだ知らなかった。おだやかな、優しい表情をもつ人びとはたちまち《群島》で死んでいく)。彼は私たちがもがく様子を、まるで生後二週間の仔犬でも眺めるように、皮肉な笑いを浮かべて見ているのだった。
ソルジェニーツィン『収容所群島 2』(木村浩訳、以下同)
ニェーモフは、ソルジェニーツィンがブトゥイルキ監獄の第75監房で同室であった年若いブブノフのように、「その性格の純粋さと真っ正直さのために」、おそらくラーゲリで死ぬにちがいないのです。
彼のような人間はあそこでは生きられないのだ。
読了日:2008年9月17日