- ガン病棟〈第2部〉 (1969年)
- 発売元: 新潮社
- 発売日: 1969
★ソルジェニーツィン「ガン病棟」(1)
ソルジェニーツィン『ガン病棟』に登場する、オレーク・フィリモノーヴィチに注目してみましょう。
わたしは、オレークが、流刑地である農村に郷愁を感じ、強い愛着を持つのと、『マトリョーナの家』のイグナーチッチが農村に心の安らぎを見出すのは、同じメンタリティだろうと思いました。
イグナーチッチも、10年あまりラーゲリに抑留されています。
オレークの手紙には次のように綴られています。
特に長生きをしたいわけではないのです! 将来の計画を立てたところで何になりましょう。絶えず警護兵に監視され、あるいは絶えず痛みを感じながら生きてきたのですから、今は僅かの間でも警護兵と痛みの両者を抜きにして生きたい―それが精いっぱいの望みなのです。何もレニングラードやリオ・デ・ジャネイロに行きたいというのではなく、ただあの鄙びた村へ、つつましいウシ・テレクへ帰りたいだけなのです。もうじき夏ですね。この夏は星空の下で眠り、夜中に目醒めたら、白鳥座やペガソス座の傾き具合で時刻を知りたい。この夏、脱走防止用のライトに消されていない、あの星空を眺めることさえできれば、もう再び目醒めなくても構いません。
(ソルジェニーツィン『ガン病棟』小笠原豊樹訳、以下同)
一方で、オレークは都市の生活に対しては「疲労」と「吐き気」を感じます。
なんだって? 大勢の人間が塹壕の中で死に、同胞墓地や、極地のツンドラに掘った小穴の中へ投げこまれ、中継監獄で寒さに震え、鶴嘴を担いで疲労困憊し、継ぎあてをあてた綿入れ一枚で寒さを凌いでいたというのに、この潔癖な男ときたら、自分のルバシカのサイズのみならず、カラーのサイズまで覚えているのか?!
このカラーのサイズがオレークを打ちのめしたのである! カラーにまでいろいろなサイズがあろうとは夢にも思わなかった! 傷ついた呻き声を発しながら、オレークはルバシカ売り場から離れて行った。カラーのサイズか! なんのためにそんな繊細な生活を送らなければならないのか。なぜそんな生活に復帰しなければならないのだ。カラーのサイズを覚えるということは、すなわち、ほかの何かを忘れるということではないか! もっと大切な何かを!
あまりに非人間的な生活を体験した後では、オレークは「頭脳を根本的に裏返されてしまった」ため、「もう何であろうと無邪気に客観的に受け入れることはできない」のです。
都市の人々の、経済成長の恩恵を受けた豊かで文化的な―ラーゲリやそこに抑留されている人間としての尊厳を奪われたたくさんの人々が、まるで存在していないないかのような―生活は、オレークにとってうわべだけの"大切な何かを忘れた"生活に思えるのでしょう。
ここから、ソルジェニーツィンの分身と言えるオレークやイグナーチッチが、農村に心を寄せる理由がわかります。
そして、ソルジェニーツィンがマトリョーナ・ワシーリエブナやザハール・ドミトリッチのように、素朴で誠実な"人間らしい"人々を、愛情と尊敬を込めて描いた理由も、ここにあると思います。
◇◇◇
雑役婦のエリザヴェータ・アナトーリエヴナも、ラーゲリを終えた女性でした。
暇な夜勤のときなどフランス語の小説を読むほどの教養ある彼女が、看護婦は触れることのない不潔なもの、不都合なものの出し入れを一手に引き受け、まめまめしく働いています。
オレークやイグナーチッチが「古き良きロシア」に心の安らぎを覚えるように、彼女は古いフランスの小説を読みます。
「悲劇的な小説といっても、私たちの経験と比べれば、なんだか滑稽な話ばかりですね」と、エリザヴェータは言います。
彼女は、ほんとうは古いフランスの小説ではなく、現代のロシアの小説を読みたいのでしょう。
しかし「安全な道」を選んだ著者たちは、彼女にとって「現在生きている人たち、現在苦しんでいる人たちには、なんの関心もないように思えるのです。
表現はオレークと異なりますが、エリザヴェータも同じ違和感を共有しているのだと思います。
「いつになったら、私たちのことが小説に書かれるのでしょう。百年経たないと駄目なのですか」
彼女の心の叫びとも言える訴えが、強くわたしの胸に残りました。
読了日:第1部 2008年8月18日 / 第2部 2008年8月19日