2020/12/27

映画『テネット』(クリストファー・ノーラン監督)



クリストファー・ノーラン監督『テネット』(2020年)を観ました。

同監督の映画は、『メメント』(2000年)、『インセプション』(2010年)、『インターステラー』(2014年)を観ています。

テロリストがキエフのオペラハウスを襲撃し、CIA工作員である主人公が現地警察の特殊部隊に偽装して、劇場に突入する場面から映画が始まります。
劇場内で、主人公は見知らぬ傭兵から命を救われますが、そこで初めて逆行する銃弾を目撃します。
その後、主人公は現在世界の人類を守るために、未来世界の人類との戦争に巻き込まれていきます。

ネタバレにならないように感想を書くのが難しい作品です。

物語としては『インターステラー』の方が面白かったですが、映像は『インセプション』に匹敵するかそれ以上の芸術性です。
順行世界と逆行世界が融合したマジックリアリズムな映像を楽しめます。
この映像を観るだけでも2500円の価値はあるかも。

冒頭のオペラハウス突入で、中に観客がいるにもかかわらず、躊躇なく無力化ガスを使用する場面は、2002年のモスクワ劇場占拠事件が思い出されました。
この時、人質となった922人の観客のうち、129人が中毒死した痛ましい事件です。

以下、若干ネタバレ注意。


映像表現は複雑ですが、物語はいたってシンプルで、未来の人類と現在の人類の戦争を描いています。

現在世代の環境破壊によって、未来は生存に適さない環境になっており、未来の人々は絶望と怒りを過去の世代に向けています。
そして、過去の全人類を絶滅させ、未来の人類が過去世界(=主人公の生きる現在世界)に移住しようとしています。
現在世界では、未来世代の人々に協力し、全人類を滅ぼそうとする敵サイド(ロシア人の大富豪)と、その企みを食い止めようとする主人公サイドの攻防戦が行われます。

頭脳と暴力を自在に用いた戦いぶりは、スパイアクション映画としても楽しめます。
ボンドガールポジションに敵の妻がいて、主人公は彼女の命を救うために奔走。

一言で言えば、世代間倫理をテーマとする物語で、ありきたりとも言えなくもないですが、とにかく映像がすごいので、複雑な映像に複雑な物語では観客がついていけないから、物語はシンプルにしたのかなと思いました。


敵役であるロシア人実業家は、ソ連時代の閉鎖都市出身という設定です。

廃墟の砂漠となった閉鎖都市に主人公サイドの特殊部隊が突入する場面が、映画のクライマックスです。
ただ、ロシアに砂漠はないのでは、と思いました。
旧ソ連のカザフスタンにあった都市、という設定ならありえるかな。
ちなみに、このシーンの撮影場所はカリフォルニアの砂漠だそうです。

ロシアには、旧ソ連の兵器貯蔵施設が放棄され、森に埋もれてしまった場所が点在しているそうです。

ソ連時代は、実際に数多くの閉鎖都市が存在し、そこで核科学技術の研究開発が行われていました。
閉鎖都市の一つ、チェリャビンスク地方にある「40番の町」(現在のオジョルスク)を取材した『City40』(2016年)というドキュメンタリー映画を観たことがあります。


City 40(ロシア語タイトル:Сороковка)
Samira Goetschel監督による2016年のロシアのドキュメンタリー映画。
隠しカメラやソ連時代の記録映像、現代のインタビューなどから構成される。
2017年、エミー賞のニュース&ドキュメンタリー部門にノミネートされた。
ロシア語タイトルの 「ソロコフカ」は、「40番の町」を意味する俗称。

オジョルスクでは現在でも人々が暮らしていて、映画『テネット』で描かれたような廃墟ではなかったです。
ソ連時代は、選ばれたエリート科学者たちが住み、豊富な研究資金で思う存分研究でき、ほかの地方都市と比べて豊かで、生活や教育の水準が高い研究都市だったそうです。

閉鎖都市の一つ、サロフで生まれ育った住民の証言では、ほかの地方都市に行った時に、初めて物乞いを見て驚き、ショックを受けたと語っていました。
つまり、理想の研究都市には、物乞いも詐欺師も元受刑者も絶対にいないということ。
そのような人々には居住許可が出ないので、都市に入ることすらできない。

ちなみにサロフは現在も閉鎖都市で、ソ連時代とは違って地図上に名前がありますが、永住居住権を得るためには、その土地で生まれ育つか、物理学や数学の研究者となるか、原子力エネルギー分野の企業に就職するかしないといけないそうです。
もちろん外国人旅行者が観光することは不可能。
しかし、その分野の教育を受けたり、研究をしたり、仕事をしたいという若者にとっては理想的な都市環境だと言われています。


(2020年12月27日、対話形式にリライトした記事をNOVEL DAYSで掲載しています)

2020/12/07

柳美里「JR上野駅公園口」

JR上野駅公園口 (河出文庫)
  • 発売元: 河出書房新社
  • 発売日: 2017


2020年12月5日の読書会で、柳美里の『JR上野駅公園口』を読みました。
Morgan Gilesによる本書の英訳"Tokyo Ueno Station"が、2020年11月18日に全米図書賞翻訳部門(the National Book Award for translated literature)を受賞しました。
柳美里(1968年生まれ)は、日本で生まれ育った韓国人であり、日本語で文学作品を執筆しています。
ニューヨーク・タイムズの2020年11月27日刊行の記事によれば、柳美里の母親は韓国から小舟で日本に逃げてきた朝鮮戦争難民で、父親は韓国からの移民の息子です。

『JR上野駅公園口』の主人公は、福島県相馬郡八沢村(現・南相馬市)出身の男性です。
2011年3月11日発生の東日本大震災と原発事故をきっかけに、柳美里は同年4月21日に初めて南相馬市を訪れ、2015年から南相馬市に暮らしています。
2012年3月から2018年3月の閉局まで、臨時災害放送「南相馬ひばりFM」で、彼女は番組パーソナリティを務め、地元の人々の話を聞き続けました。
実は、柳美里と福島のつながりは震災の前からあり、日本へ逃げてきた朝鮮戦争難民の母親が最初に上陸したのが、福島の後に水力発電のダムに沈んだ村でした。
全米図書賞翻訳部門受賞を受けて、柳美里は「震災、津波、原発事故で苦難の道を歩んでいる南相馬の人たちと、この喜びを分かち合いたい。これはあなたのためのものです」と語っています。(上の記事より)

※ネタバレ注意※

【目次】
1.小説『JR上野駅公園口』について
...あらすじ
...感想と考察
2.英訳"Tokyo Ueno Station"について

1.小説『JR上野駅公園口』について

あらすじ

全体の構成

本書の語り手の男性は、上野公園内の摺鉢山に住んでいたホームレスであり、作品の結末で自死する語り手の言葉で、全編が語られています。
敗戦後から老年に至るまで、家族の死を織り交ぜながら、彼が自死に至るその瞬間まで語られています。
「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります、危ないですから黄色い線までお下がりください」というアナウンスの声と、「プォォォン、ゴォー…」という電車の轟音が作品の冒頭と結末で共通しており、作品の結末の自死から作品冒頭の語りが始まるという構成です。

語り手が現在見ている光景の、一見何の脈絡もない通りすがりの人々の会話の合間に、語り手自身の過去の思い出が断片的に挟み込まれるコラージュのような手法で書かれています。
このようなコラージュ的手法(断片的手法)の作品は、以前に読書会で読んだリュドミラ・ウリツカヤの『通訳ダニエル・シュタイン』を思い起こさせます。
『通訳ダニエル・シュタイン』は、語り手(視点人物)も複数配置されているため、より複雑で多声的な構成と言えます。
以下に、『JR上野駅公園口』の語り手の人生を時系列で整理したいと思います。


語り手の人生を時系列に整理する

昭和8年(1933) 福島県相馬郡八沢村生まれ。姓「森」、愛称「カズさん」
昭和20年(1945) 12歳で敗戦。父母と弟妹7人を養うために、いわきの小名浜漁港に出稼ぎに行く。15歳から20歳まで父のホッキ貝漁を手伝う。
昭和22年(1947)8月5日 行幸した昭和天皇を二万五千の人々と共に原ノ町駅で出迎えた。
昭和31年(1956) 23歳で節子(21歳)と結婚。
昭和33年(1958) 長女の洋子が生まれる。
昭和35年(1960)2月23日 皇太子(現・今上天皇)と同じ日に長男の浩一が生まれる。
「浩宮徳仁親王と同じ日に生まれたから、浩の字をいただき、浩一」と名づけた。
北海道厚岸郡浜中町へ昆布の狩り採りの出稼ぎに行く。同年5月24日発生のチリ地震津波で浜中町は11名が死亡。
昭和38年(1963) 30歳で東京に出稼ぎに行く。谷川体育(株)に入り、競技場や体育施設の建設現場で働く。
昭和39年(1964) 東京オリンピック開催。昭和天皇の開会宣言をラジオで聞く。

昭和56年(1981) 長男の浩一が21歳で死去。「レントゲン技師の国家試験に合格した」ばかりで、「下宿先のアパートで寝たまま死んで」いた。  
「位牌持ちが居なくなってしまった。位牌持ちが位牌になってしまった。」
「自分は、浩一の死を告げられてから努力している。
これまでも働く努力はしてきたけれど、今している努力は、生きる努力だ。
死にたいというよりも、努力することに、疲れた。」
平成5年(1993) 60歳で出稼ぎをやめ、郷里の八沢村に帰る。長男の帰郷を待っていたかのように、父母が相次いで死去。

平成12年(2000) 妻の節子が65歳で急死。「自分は酒に酔って熟睡し、隣で妻が息を引き取ったことに気付かなかった。自分が殺したも同然だ」と思う。
長女・洋子の娘である麻里が、祖父の世話のために同居を始め、孫娘と飼犬コタロウと暮らす。「浩一も節子も眠りに命をとられてしまった」と思い、不眠になる。
「二十一歳になったばかりの麻里を、祖父である自分とこの家に縛るわけにはいかない」と考え、「探さないでください」と書き置きを残して家出。
67歳の時から、上野恩賜公園でホームレスとして暮らす。
「ここで暮らしはじめた六十七歳の時から、何度この銅像を見上げたかわからない」
平成18年(2006年)11月20日 73歳の時、「山狩り」と呼ばれる行幸啓直前の「特別清掃」が行われ、上野公園を退去させられる。一か月間で「五度目」の「山狩り」。
「山狩り」当日、「天皇陛下の御料車」(現・上皇陛下夫妻)に出くわす。
同じ「昭和八年」生まれの天皇と自分を、「一本のロープ」が仕切っている。 「何か言えば聞いてもらえる」と思うが、「声は空っぽ」だった。
「自分は、一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた。」
昭和28年8月5日に原ノ町駅に行幸した昭和天皇の姿と「天皇陛下、万歳!」の二万五千人の声、ラジオから流れる昭和天皇のオリンピック開会宣言の声、長男・浩一が生まれた日にラジオから流れた「皇太子妃殿下は、本日午後四時十五分、宮内庁病院でご出産、親王がご誕生になりました。御母子共にお健やかであります」というアナウンサーの声がフラッシュバックした。
涙が込み上げ、生まれて初めて「悟る」という言葉を思い付いた。その直後、JR上野駅公園口の改札を通る。
「東北新幹線はやて」の文字を見たが、「もう望郷の念で胸が高鳴ったり、胸が締め付けられたりすることはなかった」。
「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります、危ないですから黄色い線までお下がりください」という、いつものアナウンスが聞こえ、「黄色い線」を越えて線路上に身を投げた。
「黄色い線の上に立って目を閉じ、電車が近付いてくる音に全身を傾けた。
プォォォン、ゴォー、ゴトゴト、ゴトゴトゴト、ゴト、ゴト......
心臓の中で自分が脈打ち、叫び声で全身が撓んだ。
真っ赤になった視界に波紋のように広がったのは、緑だった。」
語り手が自死した瞬間、故郷を大震災が襲い、大津波に孫娘・麻里と飼犬が飲み込まれる光景を見る。

平成24年(2012) 上野公園に語り手が戻ってくる。
「でも、気が付くと、この公園に戻っていた。」
語り手は公園の風景を見つめ、ラジオから流れる国会中継の声を聞き、ホームレス仲間の「シゲちゃん」が死んだという声を聞く。
上野の森美術館でルドゥーテの薔薇の絵を見て、美術展を訪れた婦人たちの話し声を聞く。
自死の直前に聞いた「まもなく2番線に...」というアナウンスの声と電車の轟音が、絶え間なく聞こえている。
ずたずたに引き裂かれたけれど、音は死ななかった。
捕まえて閉じ込めることもできなければ、遠くに連れ去ることもできない、あの音ー。
耳を塞ぐこともできなければ、立ち去ることもできない。
あの時からずっと、あの音の側に居る。


感想と考察

語り手の声は「死者の声」なのか?

語り手の自死は、「山狩り」当日の2006年11月の出来事です。
しかし、自死の瞬間に立ち現れる地震と津波の光景は、本人が知らない未来、2011年3月11日に起こった出来事です。
語り手の現在聞こえるものの中に、自死後に起こった未来の出来事が語られています。
「死んじゃったんだよ、シゲちゃん、コヤで冷たくなってたんだよ」
インテリホームレスであった「シゲちゃん」は、語り手の自死時点では生きていました。
語り手は、自分がシゲちゃんに何も言わずに自死したことで、次のように語ります。
「シゲちゃんのコヤでワンカップ大関を呑んだあの夜からひと月後に、自分は居なくなった。シゲちゃんは悲しんだろうか?」
語り手は自死後に死者となって上野公園へ戻り、死者の耳でホームレスの老女の噂話を聞き、シゲちゃんの訃報を知ったと言えます。
「死ねば、死んだ人と再会できるものと思っていた。遠く離れた人を、近くで見ることができたり、いつでも触れたり感じたりすることができると思っていた。死ねば、何かが解るのだと思っていた。その瞬間、生きている意味や死んでいく意味が見えるのだと思っていた。霧が晴れるようにはっきりと―。
でも、気が付くと、この公園に戻っていた。どこにも行き着かず、何も解らず、無数の疑問が競り合ったままの自分を残して、生の外側から、生存する可能性を失った者として、それでも絶え間なく考え、絶え間なく感じて―。」

すなわち、語り手の現在は死者であり、「生の外側」にある存在として、「この公園」に留まっているのです。

わたしが上に整理した年表で、語り手の現在を2012年と推測したのは、コヤのラジオから流れる国会中継の声が証拠です。
「昨年の三月の事故を踏まえて、複雑な感情を持っていらっしゃる国民がたくさんいらっしゃることも承知しておりますけれども、それを踏まえて、国論を二分するテーマについてもしっかりと責任ある判断をしなければいけないのが政治の役割だと思っておりますので、折につけそういうご説明はしていきたいという風に思います」
「サイトウヤスノリくん」
「その作られた安全基準というのが、安全神話のもとで作られた安全基準で、それを稼働させるということで、皆さんは矛盾に感じられて怒っているわけでございます。今回の再稼働はどう見たっておかしいという怒りの声ですので、是非、総理、よく考えて判断していただきたいと思います...」

「内閣総理大臣」
「色々なアンケートがあると思います。それぞれ色々なアンケートをしていることも承知でございますけれども、基本的には、被災者の皆様のためには、これは、我が政権は昨年の九月に発足をしましたけれども、震災からの復興、そして原発事故との戦い、日本経済の再生、これは最優先かつ最大限の課題として位置付けております。そして、被災者のために寄り添った政策というものは、しっかりとこれからもやっていきたいと思います」

この国会中継の声は、2011年9月発足の野田佳彦内閣に当たります。
国会中継の声から推測すれば、語り手の現在は東日本大震災後の2012年であると考えられます。
したがって、語り手は死者の視点で2012年の公園の風景を俯瞰し、ホームレスの話し声や通行人の話し声を耳にしながら、自分の過去の思い出を振り返っているのです。
彼の語りは、上野恩賜公園という場所を中心に、そこでホームレスとして過ごした彼の生前の生活と、彼の死後も続いているホームレスたちの日々を追っています。


語り手は「運がなかった」のか?

読書会では、語り手自身の「運がなかった」という言葉をめぐり、議論となりました。
作品冒頭で語り手は、「容姿よりも、無口なことと無能なことが苦しかったし、それよりも、不運なことが堪え難かった。運がなかった。」と語っています。
息子・浩一が21歳の若さで急死した時、母親の言われた「おめえはつくづく運がねぇどなあ…」という言葉を、彼は三度も繰り返して思い返しています。
このように、語り手自身や家族は「運がなかった」と言っていますが、本当に「運がなかった」だけでしょうか?
彼が12歳から出稼ぎに行って働かなければいけなかったのは、本当は社会の歴史的・構造的問題です。
しかし、彼自身はその社会の理不尽さに目を向けず、「運がなかった」と言って自分を無理に納得させ、受け入れていると言えます。
作者は、そんな語り手の姿を描くことで、彼の境遇は「運」だけの問題ではなく、社会の構造的な問題であり、その理不尽さに抵抗し、闘わなければならないというメッセージを読者に伝えている、という意見が出されました。
だからこそ作者は、語り手と天皇(現・上皇)を同じ年生まれ、息子・浩一と皇太子(現・今上天皇)を同じ年生まれに設定し、両者を対比させることで、天皇制の問題を描き出していると言えます。

語り手は「運がなかった」のではなく、教育の問題ではないかとわたしは感じました。
「終戦の時は、十二歳だった。戦争に敗けて悲しい、惨めだということよりも、食っていくこと、食わせることを考えなければならなかった」
教育を受けなければ、人権を意識することも、労働者の権利に目覚めることもないし、労働環境の改善のために一致団結するという考えも生まれません。
資源管理や自然環境保護という意識もないため、かつて父親を手伝っていたホッキ貝漁では、地元の漁師たちがホッキ貝が枯渇するまで採り尽くしてしまいます。
息子・浩一と妻・節子が、二人とも就寝中に突然死したことは、先天性心疾患の家系だったではと推測できますが、知識がなければ、元気なうちにあらかじめ検診や治療を受けようと思わないでしょう。
家族内で突然死が多発したとしても、遺伝的背景を疑う前に、やはり「運がなかった」と考えてしまうかもしれません。


インテリホームレスの「シゲちゃん」は、語り手とは対照的に、高い教育を受けてきたことが窺える登場人物です。
シゲちゃんは、上野恩賜公園につながりの深い歴史上の大事件を語り手に教えます。
寛永寺と関東大震災(1923年9月1日)、「時忘れじの塔」と東京大空襲(1945年3月10日)、「西郷隆盛像」と西南戦争(1877年)、「彰義隊士の墓」と上野戦争(1868年)など、元は教員であったかのような流暢な口調で語って聞かせます。

そんなシゲちゃんは、平成18年11月に「山狩り」の通告を受けて、「通りからは見えない場所にあるコヤまで撤去が強制されるということは、行幸啓の機会を利用して、上野公園で暮らす五百人ものホームレスを公園から追い出そう」という意図があり、「ホームレスは公園から締め出しを食らって路頭に迷う」、「行幸啓の時は、雨が降っていようが雪が降っていようが台風が接近していようが、コヤを畳んで公園の外へでなければならない」という理不尽さに憤り、飼い猫エミールに向かって自分が直訴状を書くから、天皇に「直訴してくれませんかね」と言うのです。
「わたしが直訴状を書くから、黒塗りの御料車が来たら、お願いの儀がございます! お願いの儀がございます! と飛び出して直訴してくれませんかね。エミールだったら警官にだって取り押さえられないでしょう。伏テ望ムラクハ聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。平成十八年十一月 草莽ノ微臣エミール誠恐誠惶頓首頓首」

この言葉は、足尾鉱毒事件について、田中正造が政府の対応に絶望し、議員辞職して、最後の手段として明治天皇へ直訴しようとしたその直訴状からとられています。
明治34年(1901)12月10日、明治天皇に直訴しようとしましたが、捕らえられて果たすことはできませんでした。
意味としては、「謹んでお願い申し上げることは、陛下が思いやりをお示しいただきたいことであります。そうしていただけるなら私は、感動の涙で泣き叫ぶことに違いありません。平成十八年十一月 在野のとるにたらない人間 エミール、恐れ多くも平伏して」となります。
シゲちゃんは、このような文語体の文章がすぐに思い浮かぶほどの教養の持ち主ですが、実際に「山狩り」当日に直訴をすることはありません。
一方、語り手は天皇(現・上皇)夫妻を乗せた車列が目の前を通った時、「何か言えば聞いてもらえる」と思いますが、「声は空っぽ」で何も言えず、「自分は、一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた」のです。
したがって作者は、語り手のような教育を満足に受けられず、「運がなかった」と社会の理不尽を受け入れるしかない人々と、高い教育を受け、社会の格差や断絶を理解していても、その問題に沈黙し続ける人々、その両方を描いていると考えられます。


「ルドゥーテの『バラ図譜』展」の意味とは?
本書に登場する、上野の森美術館の「ルドゥーテの『バラ図譜』展」は、2012年6月6日~25日の会期で実際に開催されていました。
語り手は、ルドゥーテの薔薇の絵を眺めながら、美術展を訪れた婦人たちの薔薇とは無関係な会話を聞きます。
これらは、語り手が自死した2006年以後の出来事であり、死者の目で薔薇展を見て、婦人たちの声を聞いています。
もしホームレスの肉体を持ったままだったら、警備員に排除され、美術展に自由に入って絵を眺めることなどなかったでしょう。

語り手は、「郷里の八沢村では薔薇を栽培している家なんてなかった」と思い、初めて手にした薔薇は、50歳頃に弘前の運動場建設の出稼ぎに行った時に、キャバレー「新世界」で触れた薔薇だったことを思い出します。
「新世界」のホステス純子は、福島県双葉郡浪江町の出身であり、彼女の兄弟は原発で働いていました。
浪江町は、東日本大震災と原発事故の影響を受けて、全町避難を強いられ、2020年現在も町内の大半が帰還困難地域とされています。
弘前へ出稼ぎに行っていた純子は、二十数年後には郷里の浪江町に戻り、夫や子供たちと暮らしていたかもしれません。
原発で働いていた彼女の兄弟も、浪江町で妻子や孫たちと暮らしていたことでしょう。
作者が、浪江町出身の純子という登場人物を配置したのは、ルドゥーテの美しい薔薇の絵を婦人たちが眺めていた時、純子や兄弟やその家族は避難を余儀なくされ、仮設住宅で暮らしていたのではないか、と読者に想像させる意図があったと考えます。

東日本大震災の死者・行方不明者は、関連死含めて二万人を超えます。
震災がれきは、2012年5月時点で、まだ1.1%しか処理できていない状況であり、数多くの被災者が仮設住宅で暮らしていました。
一方、東京では華やかな薔薇展が開かれ、美術展に訪れた人々は、被災地や被災者のことなど全く思い出すことがない光景が描かれます。
わずか1年でこれほど忘れ去られ、東京の人々は震災前と変わらない日常生活を送っていることに、被災地との深い断絶を感じました。
作者が、語り手の現在を2012年に設定したのは、大災厄の後も変わらない日常を描くことで、格差や断絶を伝えたかったからではないかと考えます。


『JR上野駅公園口』における死生観

語り手の死生観は、先祖代々の浄土真宗本願寺派の信仰に根ざしています。
文化3年(1806)に、越中国砺波郡(現在の富山県高岡市)の僧侶が、浄土真宗門徒を先導して現在の南相馬市鹿島郡に移民した郷土史が語られています。
江戸後期、天明の飢饉により藩領の人口が激減し、奥州中村藩では復興のため浄土真宗移民政策が行われました。
毎年10戸ずつ北越の人々を招き、天保11年には檀家数が80戸を超えたそうです。

語り手の妻・節子は、長男・浩一が急死した時、勝縁寺の住職に「浩一は浄土さ行ったんだべか?」と聞きます。
住職は「浄土真宗の教えでは、亡くなるということは、往生と言って、仏様に生まれ変わるということなので、悲嘆に暮れることはありませんよ。阿彌陀仏というのは全ての命を済うと誓ってくださった仏様です」と説法し、「浩一くんは菩薩として我々の許に還ってきますよ」と慰めました。

「気が付くと、この公園に戻っていた」という語り手は、先祖代々の信心に基づいて「菩薩」となって公園へ還ってきたのでしょうか?
語り手は、「死ねば、死んだ人と再会できると思っていた。遠く離れた人を、近くで見ることができたり、いつでも触れたり感じたりすることができると思っていた。死ねば、何かが解るのだと思っていた」ため、自死する直前は先に死んだ息子や妻との再会の希望を持っていたと考えられます。
しかし、自死した直後から始まった死後の生は、彼の予期していたものではなかったと言えます。
息子にも妻にも会えず、「どこにも行き着かず、何も解らず、無数の疑問が競り合ったまま」の自分があるだけでした。
語り手には、大津波に飲み込まれた孫娘・麻里と飼犬を救い出す力はなく、ただ見ることしかできなかったのです。
「抱き締めることも、髪や頬を撫でることも、名前を呼ぶことも、声を上げて泣くことも、涙を流すこともできなかった。犬の鎖を握り締めた麻里の右手の白くふやけはじめた指紋の渦をじっと見ていた」

すなわち、語り手は先祖代々の真宗門徒でしたが、「真実の悟り」を開いた「仏様に生まれ変わる」ことはなく、「阿彌陀仏様より位が下の菩薩となって還って」きたわけでもないと言えます。
「菩薩」となって「今この娑婆で苦しんでいる我々を済う」力があれば、孫娘の命を救うことも出来たでしょう。

以前、「異世界文学の系譜:「指輪物語」から「異世界転生」まで」という記事の中で、人間が生と死と向き合う際に、別世界の提示によって現実を多重化し、魂の救済を表していると考察しました。
清らかな「お浄土」に往って生まれ変わり、先に死んだ家族とも逢うことができるという死生観は、まさに別世界の提示による魂の救済と言えます。
しかし、作者は死後の生を「お浄土に往生」するのではなく、自分自身が不在の現世として描いています。
現世は苦しみであり、死後の生も苦しみであるなら、語り手の魂はどこにも救いがないことになってしまいます。
本書が「死者の声」によって語られた「死後の生」を描いた作品であり、この語り手には魂の救いが永遠にないと気づいた時、わたしは深い絶望を感じました。

作者が、現世に常に閉じられた空間(閉鎖的現世)として死後の世界を描いたことで、逆説的ですが、自死への戒めとして読者に伝わってきます。
また、現代の我々が、伝統宗教の死生観を信じきれず、死の意味や死後の生に対する不安や虚無感を強く持っていることを示しているとも言えるでしょう。
さらには、死後に辿り着く世界が苦しみの現世では絶望しかないため、現実世界を少しずつでも苦しみのない世界へと変えていかなければならない、という作者のメッセージかもしれません。



2.英訳"Tokyo Ueno Station"について


ニューヨーク・タイムズの2020年11月27日刊行の記事では、"Yu Miri won a National Book Award for “Tokyo Ueno Station,” a novel whose main character is the ghost of a homeless construction worker."(ホームレスの建設作業員の幽霊が主人公の小説『東京上野駅』で柳美里が全米図書賞を受賞)と題され、本書の内容や柳美里の経歴が詳しく紹介されていました。

この記事で、英訳者のMorgan Gilesは、最初にこの小説に惹かれたのは福島原発事故についての他の作品を読んでいたからだったが、この物語は"resonated much more globally. So many people are living in regions stripped of their resources and people and forgotten for that sacrifice."(より世界的に心に響いた。多くの人々が、資源や人を奪われた地域で暮らし、その犠牲のために忘れ去られている)と言っています。

読書会でも、本書における方言や浄土真宗、天皇制などの英訳がどうなっているのか話題になったので、抜粋してご紹介します。
まずは、天皇制をめぐる表現をどう英訳しているのか、見てみましょう。最初に原文、続いて英訳文を引用します。

「皇太子妃殿下は、本日午後四時十五分、宮内庁病院でご出産、親王がご誕生になりました。御母子共にお健やかであります」
昭和二十五年二月二十三日、ラジオのアナウンサーが快活な声でニュースを読み上げた。

TODAY AT FOUR FIFTEEN P.M., THE CROWN PRINCESS GAVE BIRTH TO A SON AT THE IMPERIAL HOSPITAL. MOTHER AND CHILD ARE DOING WELL.
It was the twenty-third of February, 1960. I heard the announcer read the news exultantly over the radio.

浩宮徳仁親王と同じ日に生まれたから、浩の一字をいただき、浩一と名付けようと思った。

As he was born on the same day as the crown prince’s first son, I decided that we would call him Kōichi, borrowing the first character of the prince’s name for the first of his own.
原文(日本語)では「浩宮徳仁親王」と表現している箇所が、the crown prince’s first son(皇太子殿下の長男)、同じく「浩の一字」という箇所が、the first character of the prince’s name(皇太子殿下の名前の最初の一字)と訳されています。

お召し列車から降りられたスーツ姿の天皇陛下が、中折れ帽のつばに手を掛けられ会釈された瞬間、誰かが絞るような大声で「天皇陛下、万歳!」と叫んで両手を振り上げ、一面に万歳の波が湧き起った-。

At the moment that the emperor, dressed in a suit, descended from the royal train and touched his hand to the brim of his fedora in greeting, we cried out, “Long live the emperor! Banzai!” as if it were being wrung out of us, and we raised our arms in the air, a wave of banzai welling up.

自分と天皇皇后両陛下の間を隔てるものは、一本のロープしかない。飛び出して走り寄れば、大勢の警察官たちに取り押さえられるだろうが、それでも、この姿を見てもらえるし、何か言えば聞いてもらえる。
なにか-。
なにを-。
声は、空っぽだった。
自分は一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた。
声が、聞こえた-。
昭和二十二年八月五日、原ノ町駅に停車したお召し列車からスーツ姿の昭和天皇が現れ、中折れ帽のつばに手を掛けられ会釈された瞬間、「天皇陛下、万歳!」と叫んだ二万五千人の声-。

Only tape separated me and Their Majesties. If I ran out toward them, I was sure to be snatched by police, but they would see me and hear me if I said something
Something—
But what?
My throat was empty.
As the car went on into the distance, I waved after it.
He had heard my voice.
On August 5, 1947, Emperor Hirohito had appeared, wearing a suit, as he stepped down from the imperial train that had stopped at Haramachi Station, and the moment he put his hand to the brim of his hat in greeting, I was one of the twenty-five thousand voices that cried, “Long live the emperor!”

「天皇皇后両陛下」をTheir Majesties、「昭和天皇」をEmperor Hirohito、「天皇陛下、万歳!」をLong live the emperor!と訳しています。


次に、浄土真宗と方言をどのように英訳しているのか、見ていきます。

「如是我聞・一時佛在・舍衞國・祇樹給孤獨園・與大比丘衆・千二百五十人俱・皆是大阿羅漢・衆所知識・長老舍利弗・摩訶目犍連・摩訶迦葉……」
目を閉じ、呼吸を整え、阿彌陀経に集中しようとしたが、動悸が喧しく、喉の底から血の塊が突き上げ、吐くかもしれないと思ったほどだった。
南無阿彌陀、南無阿彌陀、南無阿彌陀と念仏を称えるお袋の声が右耳のすぐ側で聞こえ、和讃を称えるために口を動かしてみた。

“I, Ananda, heard the following from the Buddha, Shakyamuni. At one time, Shakyamuni was at the Jetavana in Shravasti, as many as twelve hundred and fifty people there assembled, and they were especially eminent monks, among them the elders Shariputra, Mahamaudgalyayana, Mahakashyapa. . . .”
I closed my eyes and took a breath, trying to focus on the Amida Sutra, but the palpitations were so strong I thought I might vomit, a mass of blood threatening to rise from the bottom of my throat at any moment.
Namu Amida Butsu, Namu Amida Butsu, Namu Amida Butsu . . . I heard my mother just next to my right ear chanting the nembutsu, and I tried to sing the hymns with the others.

これは、語り手の長男・浩一の葬儀の場面です。
「南無阿彌陀」という念仏は、Namu Amida Butsuと音訳していますが、「如是我聞...」は経文の意味を英訳しています。
この漢文を書き下し文にすると、「是の如く我聞く。一時、仏、舎衛国の祇 樹給孤独園にましまして、大比丘の衆、千 二百五十人と倶なりき。皆これ大阿羅漢 なり。衆に知識せらる。長老舎利弗、摩訶 目犍連、摩訶迦葉...」となります。
英訳の意味は、「私、アーナンダは釈迦牟尼仏から次のようなことを聞きました。ある時、釈迦牟尼はシュラヴァティのジェタヴァナにいましたが、そこには1250人もの人々が集まっていて、彼らは特に高名な僧侶であり、その中には長老シャーリプトラ、マハマウドガリヤーヤナ、マハーカーシヤパがいました。」となります。
日本語の読者にとって、漢文の経文は現代語訳ではないため、その意味するところが分かりにくいです。
英語の読者の方が、経文の意味を分かった上で、物語を読み進めることができそうです。

「弘誓ノチカラヲカフラズバ
イヅレノトキニカ娑婆ヲイデン
佛恩フカクオモヒツゝ
ツ子ニ彌陀ヲ念スベシ
娑婆永劫ノ苦ヲステゝ
淨土无爲ヲ期スルコト
本師釋迦ノチカラナリ
長時ニ慈恩ヲ報ズベシ」
親父とお袋は、どんなに具合が悪い時でも、朝な夕なのお勤めだけは欠かしたことがなかった。

“Without the strength of the Universal Vow
When could we leave this earthly world?
Thinking of the Buddha’s benevolence
We keep our minds on Amida
And forget the eternal pain of this world
We wait for the Pure Land
With the strength of the Buddha
Let his mercy and goodness be known to the ages. . . .”
My father and mother, no matter how sick they were, always did their devotions each morning and evening.

これは、長男・浩一の葬儀で和讃を称えようとして、語り手が自分の父親が称えていた和讃を思い出す場面です。
和讃とは、日本語で歌う仏教讃歌です。
語り手の父が歌った讃歌は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が1248年頃に著作した『高僧和讃』に基づいています。
『高僧和讃』は親鸞聖人が、浄土真宗の先達として選んだ七人の高僧を讃える119首の和讃が収められています。
『高僧和讃』の中から、「弘誓のちからをかぶらずは...」は、隋の時代に活躍した善導大師(613年-681年)の功績を讃える歌です。
「弘誓のちからをかぶらずは...つねに弥陀を念ずべし」は、「阿弥陀仏の本願力に救われることなくして、はたしていつ娑婆世界を出ることができるでしょうか。釈尊のご恩に心深く思いめぐらして、常に阿弥陀仏のみ名をお称えしなくては」という意味です。
「弘誓」(ぐぜい)とは、生きとし生けるものを救済しようとする決意、誓いを意味します。
「娑婆永劫の苦をすてて...」の意味は、「娑婆世界の永遠の苦悩を捨てて、阿弥陀仏の浄土に生まれ変わることを願って念仏するようになったのは、本師釈迦のおかげです。長きにわたり釈尊が私たちに慈悲をかけてくださるご恩を思い、念仏いたします」となります。
英訳では、先ほどの阿弥陀経と同じく意味を訳しており、英語読者が浄土真宗の信仰をより理解をしやすいように工夫された、素晴らしい翻訳だと思います。


語り手の父親は、越中国砺波郡から相馬郡八沢村に移住した先祖たちの苦労話を、豊かな方言で語っています。
おらたちは相馬の人のごどを「土着様」って呼ばって、相馬の人たちはおらたちのごどを「加賀者」って呼ばって、「門徒もの知らず」と蔑んだんだ。

“We called Sōma people ‘the natives,’ and they called us ‘Kaga people’ or ridiculed us for ‘not knowing how to worship right.’

「土着様」は、おらたち真宗門徒が朝夕称える「正信偈」の南無阿彌陀の声を遠くから聞いて、ふるさとの加賀に帰りてえって泣いてんだと勘違いして、「加賀泣き」と馬鹿にしただ。
かなり悔しい思いどがしたんだべ。親鸞上人は「念仏者は無碍の一道なり」とおっしゃった。加賀泣きどが言わっちゃぐらい虐めらっち、荒れた土地ごど耕してきた御先祖様のごど思えば、苦しみどが悲しみさ行く道を邪魔さいるごどはねぇ、我が身におきたごどを真っ直ぐ受け止めて生きていがいる-。

“The natives had another nickname for us. They heard our ancestors chanting Namu Amida Butsu during their devotions morning and night and from a distance thought they were crying because they wanted to go back to Kaga. So the natives mocked the ‘Kaga whiners.’
“Boy, did they suffer. But like Shinran said, ‘The nembutsu is the only path without obstacle.’ Our ancestors worked that barren land and were called names, but any pain or sorrow they felt didn’t keep them from their path. Whatever happens to me, I just think about how bad they had it and I take it straight and keep on living.”

息子の葬儀の場面で、父親がかつて語った先祖の苦労話を語り手が思い出したのは、自分の身に起きた一人息子の突然死という苦しみや悲しみを真っ直ぐ受け止めて生きていかなければいけない、と頭で分かっていても、心がついていかないことを表現しているのだと思います。


そして、インテリホームレスのシゲちゃんが、飼い猫エミールに語った文語体の直訴状をどう英訳しているのか、見てみます。

「わたしが直訴状を書くから、黒塗りの御料車が来たら、お願いの儀がございます! お願いの儀がございます! と飛び出して直訴してくれませんかね。エミールだったら警官にだって取り押さえられないでしょう。伏テ望ムラクハ聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。平成十八年十一月 草莽ノ微臣エミール誠恐誠惶頓首頓首」

Emile, I’m writing a letter of appeal, so when that black imperial car comes, you can jump out just like Tanaka Shōzō and say, ‘I have a request for Your Majesty!’

「伏テ望ムラクハ聖明矜察...」という文語体の直訴文が、you can jump out just like Tanaka Shōzō and say, ‘I have a request for Your Majesty!(田中正造みたいに飛び出して、「陛下にお願いがあります!」って言えばいいんだよ)と意訳していますね。
原文では、「田中正造」という名前は言わないため、読者は直訴状から田中正造や公害事件について想像する必要があります。
英訳では、Tanaka Shōzōと名前を台詞として言わせているため、シゲちゃんが引用した直訴状の由来をより理解しやすいでしょう。



最後に、わたしは本書を読んで初めて、「山狩り」と呼ばれる行幸啓直前の「特別清掃」について知りました。
キリスト教会がホームレス支援を行っていることは、以前から知っていましたが、ホームレスたちの現実の生活は今まで詳しく知りませんでした。
また、南相馬市に越中国砺波郡から真宗門徒が集団で移住してきたという歴史も、初めて知りました。
語り手の祖父が先祖の苦労話を語って聞かせるのは、移住から七代の末裔であっても、「よそもの」として差別されてきたという意識があることが窺えます。
本書で語られた断片的な人生の記録は、読んでいて心を揺さぶられ、最後の津波の場面では涙が出ました。
両親や弟妹や妻子を養うために、毎日必死に働いてきた語り手が、最後には家出してホームレスとなり、自死を選び取ったことは、他人が勝手にいいとか悪いとか言うことは許されない、と感じました。

孫娘が、見捨てられた飼犬を救助して逃げるのが遅れ、津波にのまれて死ぬ場面は、津波で死んだわたしの知り合いを思い出しました。
読書会でも、東日本大震災の思い出を分かち合い、「津波てんでんこ」という言葉の意味を皆さんと一緒に考えました。
「津波てんでんこ」とは、家族を見捨てて自分だけ逃げろ、という意味ではなく、家族が絶対に逃げていると信頼して、自分も逃げるという意味であり、家族との信頼関係があってこその言葉だそうです。
本書は、全米図書賞を受賞するにふさわしい一冊であると思いました。




引用:柳美里『JR上野駅公園口』(河出書房新社、Kindle版)
Miri Yu "Tokyo Ueno Station" Morgan Giles, Penguin Publishing Group, Kindle 版

参考:ミューラー、宇津木二秀『漢英和対照 英語で読む『般若心経』 付『仏説 阿弥陀経』』(Kindle版)