2019/03/13

異世界文学の系譜:「指輪物語」から「異世界転生」まで

妖精物語について―ファンタジーの世界
  • 発売元: 評論社
  • 発売日: 2003/12/1

日本の娯楽小説(ライトノベル、ウェブ小説)において、「異世界」を舞台とする多種多様なファンタジー作品が、多くの人々の興味を引きつけています。
近年、小説投稿サイトの「小説家になろう」では、現実世界から「異世界」への転移や転生を題材とする異世界探訪譚が数多く連載され、ウェブ小説から書籍化、漫画化された作品も多く、さらにアニメ化された人気作品もあります。
「小説家になろう」における異世界探訪譚は、内容の類似する「類話」が多いことが特徴であり、「なろう系」と一括りにされて呼ばれる場合が多いと言えます。
そうした類話は「テンプレート」、いわゆる「なろうテンプレ」とも呼ばれていますが、このような類話が多ければ多いほど、異世界探訪譚という題材の存在感は増大し、流行を感じさせます。
そこで、「小説家になろう」に見られる一連の異世界探訪譚群を対象に、『指輪物語』や『ナルニア国物語』、『はてしない物語』などと比較しながら、それらがどのような構造をもって現実世界から異世界への移動を表現しているのかを整理し、考察したいと思います。
また、異世界探訪譚群の中に多く見られる「転生」モチーフから、今日の死生観や宗教性を見ていきたいと思います。



【目次】
1.異世界文学の基本構造
(1)<単一世界>:『指輪物語』、『ゲド戦記』の系譜
......「冒険者」のルーツ
(2)現実世界から異世界へ:異世界探訪譚のルーツ
2.<多元的世界>と<混合世界>
(1)<多元的世界>:「異世界召喚」と「異世界転移」の特徴
(2)現実と異世界の<混合世界>
3.異世界転生
(1)「異世界転生」と「異世界憑依」:『はてしない物語』と比較して
(2)「異世界転生」の死生観:現代の輪廻転生観
......キリスト教と仏教における死生観
......日本における輪廻転生譚のルーツ
......現代の輪廻転生観
4.まとめ
おまけ:「冒険者ギルド」の考察

1.異世界文学の基本構造


はじめに、「ファンタジー」とはどのようなジャンルなのか、その成り立ちを振り返ってみます。
1860年頃から1930年頃にかけて、イギリスでは「ファンタジー」の古典と言われる名作が生まれ、「児童文学の黄金時代」と呼ばれる盛り上がりが見られます。
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』(1865年)が誕生し、第一次世界大戦前後から第二次世界大戦にかけて、J・M・バリーの『ピーター・パン』(1911年)、パメラ・トラヴァースの『メアリー・ポピンズ』(1934年)が生まれました。
そして第二次世界大戦以降に、C・S・ルイスの『ナルニア国物語』(1950-1956年)、J・R・R・トールキンの『指輪物語』(1954-1955年)、アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』(1968-2001年)という代表的なファンタジー文学作品が発表されました。

J・R・R・トールキンは、『妖精物語について』の中で、「ファンタジー」(fantasy)の定義について、「空想」(fancy)したものを一つの「世界」として提示するものであると主張しています。
『指輪物語』や『ゲド戦記』は、物語の舞台となる「基準世界」として、現実を超えた現象が可能な「異世界」が設定されています。
一方、『不思議の国のアリス』や『ナルニア国物語』は、現実世界を舞台にして、「異世界」へ移動する異世界往還譚であり、「現実世界」と「異世界」という二つの「基準世界」が設定されています。
このように、ファンタジー文学は、基準世界を<単一世界>と設定するか、<多元的世界>と設定するかによって、大きく二つに分類することができます。

基準世界を<多元的世界>と設定する作品については、より詳しく構造を分類することが出来ます。
『不思議の国のアリス』やL・F・ボームの『オズの魔法使い』(1900年)は、現実から異世界への一過性の移動を描いています。
一方で、『メアリー・ポピンズ』は、超自然的な要素が現実世界へ混合しており、J・K・ローリングの『ハリー・ポッター』(1997-2007年)は、現実から異世界への移動が何度も日常的に描かれてます。
『メアリー・ポピンズ』や『ハリー・ポッター』の舞台設定は、現実世界と異世界を融和・統合した<混合世界>と言えます。

以上のようなファンタジー文学の基本構造をふまえて、「小説家になろう」の作品を分類していきましょう。
「小説家になろう」の作品について、基準世界の構造、物語の特徴・傾向を分類し、わたしは下記の一覧表を作成しました。


「小説家になろう」において、書籍化されている作品の中から、私見をもって抽出し、上の一覧表に例示しました。
多様な作品例を示すため、主人公の性別や職業、社会的役割などが類似しないよう配慮して抽出しています。

(1)<単一世界>:『指輪物語』、『ゲド戦記』の系譜


『指輪物語』や『ゲド戦記』のように、徹底的に「異世界」を創作し、現実世界が全く登場しない作品として、上の一覧表では次の作品を例示しました。

  • 支援BIS『辺境の老騎士』:遍歴の老騎士を主人公とする騎士道物語。
  • のの原兎太『生き残り錬金術師は街で静かに暮らしたい』:女性錬金術師を主人公に、薬屋経営、精霊や魔法、冒険者や迷宮攻略が描かれる。
  • 三国司『平凡なる皇帝』:領主の屋敷で下働きをする少女主人公が、竜の国の皇帝の血筋であるとが分かり、竜人たちに守られながら、竜の国へと旅する貴種流離譚。
  • 壱弐参『悠久の愚者アズリーの、賢者のすゝめ』:魔法使いの青年を主人公に、少女弟子の育成、魔法大学での交流、魔王との戦いが描かれる。
  • まいん『食い詰め傭兵の幻想奇譚』:元傭兵の青年主人公と魔族でありながら知識の神に仕える女性神官が、滅亡した古代王国の謎に迫る冒険譚。
  • ざっぽん『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました』:勇者である妹を持つ青年主人公が、勇者の仲間にならなかった王女と共に、戦いを離れて辺境で薬屋経営をする物語。
  • 丘野優『望まぬ不死の冒険者』:冒険者である青年主人公が、迷宮で魔物へと変異し、骨人から屍鬼、吸血鬼へと進化を重ね、人間らしい外見や暮らしを徐々に取り戻していく物語。
  • とーわ『はぐれ精霊医の診察記録 ~聖女騎士団と癒やしの神業~』:軍医として従軍する青年主人公が、植物の精霊魔法を医療に用いて人々を癒やし、隣国との戦争、国内の権力闘争に巻き込まれていく。


発売元: 岩波書店
発売日: 2009/1/16

『悠久の愚者アズリーの、賢者のすゝめ』や『はぐれ精霊医の診察記録 ~聖女騎士団と癒やしの神業~』は、魔法学校で魔法を学ぶという要素が見られるため、『ゲド戦記』型のファンタジー作品と言えます。
『ゲド戦記』シリーズの第1作目『影との戦い』は、原題は「アースシーの魔法使い」(A Wizard of Erathsea)です。
人並外れた魔法の才能を持つゲド少年は、大魔法使いオジオンの弟子となり、もっと高度な術を学ぶため、魔法使いの学院へ旅立ちます。
未熟な魔法使いであるゲドが、やがて大賢者となる成長物語です。
魔法学校で学ぶというモチーフは、「小説家になろう」において数多く描かれており、後述する「異世界転生」作品の中でも、『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』や『悪役令嬢は、庶民に嫁ぎたい!!』に見られます。



また「小説家になろう」では、『指輪物語』における異人・異類の設定を共有する作品も非常に多く見られます。
魔法に長け、森の中に住む長命の種族エルフ、優れた鍛冶師で、力強く短躯な種族ドワーフ、ゴブリンやオークら魔物が、多くの作品で当然のように描かれています。
上記の中では、『悠久の愚者アズリーの、賢者のすゝめ』、『食い詰め傭兵の幻想奇譚』、『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました』にエルフが登場します。
後述する「異世界召喚・転移」の作品では、『聖女二人の異世界ぶらり旅』や『異世界落語』、『くま クマ 熊 ベアー』、『神さまSHOPでチートの香り』にエルフやドワーフが描かれています。
「異世界転生」の作品である『転生したらスライムだった件』や、<混合世界>の作品である『異世界食堂』にもエルフやドワーフが登場します。
「異世界転生」の作品である『四度目は嫌な死属性魔術師』や、「異世界憑依」の作品である『賢者の弟子を名乗る賢者』、『骸骨騎士様、只今異世界へお出掛け中』においてもエルフが見られます。
加えて、冒険者が魔物と戦うというモチーフの作品では、ほぼ全てにゴブリンやオークが登場します。

これらの作品において描かれるエルフやドワーフは、北欧神話や口承伝説を元にした「妖精」としてではなく、『指輪物語』型のエルフやドワーフなのです。
作者の個性や創造性が表現されるファンタジー作品において、これほど多くの作品が『指輪物語』の設定を共有しています。
現代のファンタジー作品にとって、『指輪物語』はもはや北欧神話や聖書のような位置付けであり、創作の源泉となっていると言えるでしょう。


発売元: 早川書房
発売日: 2012/3/31

「小説家になろう」の中で、『指輪物語』や『ゲド戦記』の系譜ではない作品として、『辺境の老騎士』があります。
『辺境の老騎士』は、辺境のテルシア家に長年仕えた老騎士バルド・ローエンが、地位と財産を返上し、遍歴の騎士となって、冒険の旅に出かける物語です。
『指輪物語』のようなエルフやドワーフは登場せず、ゲルカスト、ジャミーン、マヌーノ、ルジュラ=ティアントと呼ばれる、この作品固有の異人・異類が登場します。
『辺境の老騎士』は、中世ヨーロッパの「騎士道物語」をモデルとした作品と言えます。
中世ヨーロッパをモデルとした『辺境の老騎士』の世界観は、『指輪物語』や『ゲド戦記』よりも、ジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』(1996年~)との共通性が感じられます。
『氷と炎の歌』は、HBOによって『ゲーム・オブ・スローンズ』としてテレビドラマ化された人気作品であり、中世イギリスの内戦である薔薇戦争(1455-1485年)をモデルとした架空戦記です。
『辺境の老騎士』においても、主人公バルドが悪辣な封建領主の陰謀を打ち破り、権力闘争や諸国戦争に巻き込まれる物語が描かれます。


「冒険者」のルーツ


発売元: 岩波書店
発売日: 1953/10/5

「小説家になろう」のファンタジー作品では、「冒険者」という職業や、「冒険者」をとりまとめる「冒険者ギルド」という組織も多く見られます。
上記の中では、『生き残り錬金術師は街で静かに暮らしたい』や『悠久の愚者アズリーの、賢者のすゝめ』、『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました』、『望まぬ不死の冒険者』に登場します。
「異世界召喚・転移」の作品では、『とんでもスキルで異世界放浪メシ』や『くま クマ 熊 ベアー』の主人公が冒険者です。
「異世界転生・憑依」の作品においても、『賢者の弟子を名乗る賢者』や『転生したらスライムだった件』、『転生したら剣でした』、『四度目は嫌な死属性魔術師』などに描かれています。
「冒険者」が活躍する作品では、登場人物の能力を数値で表すゲーム的表現が用いられる場合もあります。

これらの作品における「冒険者」は、薬草採集から魔物の討伐、古代遺跡や迷宮の探索、要人の護衛まで幅広い仕事を請け負っている個人事業主です。
薬草採集と言えば、17世紀から19世紀に活躍したプラントハンターが想起されます。
古代遺跡や迷宮の探索は、大航海時代から近代の探検家や、現代のトレジャーハンターのイメージです。
魔物の討伐や要人の護衛は、17世紀頃の傭兵がモチーフと言えます。
三十年戦争(1618-1648年)の時代において、農村や都市に定住せず流浪し、出稼ぎの生活をする「渡り人」と呼ばれる人々がいました。
17世紀の「渡り人」を代表するのは、傭兵であったと言われています。
ファンタジー作品における、魔物の討伐をしながら旅をし、身分や階級制度にとらわれない「冒険者」のイメージは、この「渡り人」がルーツであると考えます。

ハンス・ヤーコプ・クリストッフェル・フォン・グリンメルスハウゼンの『ドイツの冒険者ジンプリチシムス』(1668年)は、『阿呆物語』という邦題で知られていますが、「冒険者」が描かれるファンタジー作品のルーツと言えます。
17世紀ドイツの民衆小説を代表するベストセラーと言われており、ロビンソン・クルーソーの先駆けと評価されています。
主人公ジンプリチウスは、身分や職業を変えながら放浪する「渡り人」であり、傭兵として三十年戦争に従軍します。
三十年戦争が終わり、ジンプリチウスは育ての父と再会し、貴族としての自分の本当の出自を知るのです。
父の案内で、黒い森のムンメル湖を訪れ、湖の王子である水の精の導きによって、ジンプリチウスは水の世界を旅します。

ジンプリチウスのような、傭兵として遍歴する「渡り人」に、プラントハンターや探検家、トレジャーハンターなどの要素を混ぜ合わせた職業が、現代のファンタジー作品の「冒険者」と言えるでしょう。
『ドイツの冒険者ジンプリチシムス』の中で、ジンプリチウスは医者に仕えて、薬作りを学び、薬を作る技を身につけています。
そのためファンタジー作品において、「冒険者」が戦闘能力だけでなく、薬草の種類や効能、生えている場所といった幅広い知識を要求されることは、不自然ではないと言えます。
支援BISの『狼は眠らない』では、冒険者である主人公が薬師に弟子入りし、薬草採取の知識や薬作りの技術を学びます。
『真の仲間じゃないと勇者のパーティーを追い出されたので、辺境でスローライフすることにしました』では、辺境に移住した主人公が、薬草採取が得意な冒険者として描かれており、やがて薬屋を開業します。

また、ファンタジー作品では、「冒険者」をとりまとめる「冒険者ギルド」や「冒険者協会」などと呼ばれる組織が多く描かれています。
おまけ:「冒険者ギルド」の考察で、詳しく考察します。



(2)現実世界から異世界へ:異世界探訪譚のルーツ


発売元: 法政大学出版局
発売日: 1999/03

現実世界から異世界へ移動する異世界探訪譚は、古くから世界各地の伝承・説話に見られるモチーフです。
『聖ブレンダンの航海』(9世紀前半頃)は、アイルランドの聖人ブレンダンが17人の修道士を率いて大西洋に旅立ち、7年の航海を経て「約束の地」へ至った物語です。
アイルランドだけでなく、ヨーロッパ中で流行し、「中世のベストセラー」と言えるほど広く親しまれた異世界航海譚です。
『聖パトリキウスの煉獄譚』(12世紀末頃)は、中世盛期のアイルランドで生まれた異世界探訪譚であり、騎士オウェインが聖パトリキウスの煉獄に入り、十の責め苦をの場を抜け、地上の楽園に到達し、天上の楽園の入口を見て、現実世界に戻ってくる物語です。

生と死を超越した楽園へ旅する異世界探訪譚は、大航海時代とともに、現実世界の旅行記や航海記に代わっていきます。
『マンデヴィルの旅』(14世紀末)は、イングランドの騎士マンデヴィルが、エジプト、エルサレム、カタイ(中国)、インドを旅する東方世界の旅行記です。
旅行者が「実際この目で見た」という体裁で記されていますが、半人半獣の怪物やフェニックスなど様々な怪異が登場し、東方世界を「異世界」として描いています。
この『マンデヴィルの旅』は、クリストファー・コロンブスに影響を与えた旅行記として知られています。
ジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』(1726年)も、船医ガリヴァーの旅行記という体裁の異世界航海譚であり、『マンデヴィルの旅』の手法を諷刺的に継承しています。

発売元: 岩波書店
発売日: 1985/10/16

日本では、『古事記』と『日本書紀』の中の「山幸彦と海幸彦」神話が、生死を超越した異世界へ旅する物語です。
山幸彦は海釣りに出かけて釣針を失くし、塩椎神に導かれて、小舟に乗って綿津見神宮(海神の宮殿)へ至ります。
山幸彦は大綿津見神(海神)に歓迎され、大綿津見神の娘である豊玉姫と結婚するのです。
この「山幸彦と海幸彦」神話が、民話「浦島太郎」のルーツとなっています。
『御伽草子』(室町時代)の「御曹子島渡」(おんぞうししまわたり)説話は、『マンデヴィルの旅』や『ガリヴァー旅行記』と共通する異世界航海譚です。
頼朝挙兵以前の青年の義経が、土佐の湊から旅立ち、「馬人」の住む島や女だけの島、背丈が扇ほどに小さい者が住む島などを巡り、最後には「蝦夷が島」(北海道)に至って大王に会い、大王の娘(天女)と結婚します。

このように、超自然的な高みの存在としての生死を超越した異世界は、現実の地平上の存在へと変化していきました。
近代以降、東方世界の多くが植民地とされる中で、現実の異世界は消失していきましたが、人々は異世界探訪譚を求め続けます。
『不思議の国のアリス』ではウサギ穴に落ちて、『鏡の国のアリス』では鏡を通り抜けて、異世界へ至ります。
『ナルニア国物語』シリーズの『ライオンと魔女』では、古い屋敷の衣装だんすを通り抜けて異世界へと至ります。
異世界は、人間の内面に、想像力によって生み出される存在へと変わったのです。
現実世界から異世界への移動を描いた現代のファンタジー作品は、『不思議の国のアリス』や『ナルニア国物語』のような、存在の場を変えた異世界探訪譚の系譜と言えます。



2.<多元的世界>と<混合世界>

(1)<多元的世界>:「異世界召喚」と「異世界転移」の特徴


「小説家になろう」において、現実世界と異世界が別個に独立して存在する<多元的世界>を舞台とする作品は、さらに二つに分けられます。
現実世界の身体のままで異世界へ移動する場合と、現実世界の身体を捨て去り、新しい身体で異世界へ移動する場合の二つです。

発売元: 角川書店
発売日: 2010/2/25

『不思議の国のアリス』や『ナルニア国物語』のように、現実世界の人格と身体を保った状態で異世界へ移動する物語は、「小説家になろう」の中で「異世界召喚」や「異世界転移」と呼ばれており、以下のような作品があります。

    <異世界召喚>
  • アネコユサギ『盾の勇者の成り上がり』:剣・弓・槍・盾という四つの武器の勇者として召喚された四人の青年のうち、盾の勇者である主人公が、不当な迫害を乗り越え、世界を守るために女神と戦う。
  • 江口 連『とんでもスキルで異世界放浪メシ』:勇者の召喚に巻き込まれた青年主人公が、美味しい手料理によって、強力な魔獣たちを仲間とし、冒険者として活躍する。
  • カヤ『聖女二人の異世界ぶらり旅』:聖女として召喚された二人の女性主人公が、瘴気の浄化をしながら、異世界の各地を旅する。
  • クレハ『復讐を誓った白猫は竜王の膝の上で惰眠をむさぼる』:巫女姫の召喚に巻き込まれた女性主人公が、不当に追放されるが、精霊に守られて竜の国へ逃げ、竜王に愛される物語。
  • 橘由華『聖女の魔力は万能です』:聖女として召喚された女性主人公が、不当な扱いに耐え、薬用植物研究所で働きながら、強力な回復魔法や浄化の力を発揮し、聖女として活躍していく。
  • 朱雀新吾『異世界落語』:救世主と間違われて召喚された噺家の青年主人公が、異世界に合わせて古典落語をアレンジして公演し、人々を元気づけ、楽しませていく。

上記の作品における「異世界召喚」は、主人公たちの承諾を得ず、無理矢理異世界へ連れ去るものであり、異世界への拉致・誘拐とも言えるでしょう。
「召喚」の目的は、「勇者」は強力な大量破壊兵器として、「聖女」は世界規模で広がる環境汚染物質の浄化装置として利用するためです。
『聖女二人の異世界ぶらり旅』では、異世界に召喚された主人公たちが、自分の身体の変化に戸惑い、二人きりになった時に涙する場面が描かれています。
『復讐を誓った白猫は竜王の膝の上で惰眠をむさぼる』では、主人公たちが異世界に召喚された後、現実世界では大騒ぎとなり、警察によって捜索が行われたことが描かれています。
主人公の両親や祖父は、自分たちの娘や孫のために、惜しまず仕事を辞め、異世界へ追いかけて行くのです。
本作のように、主人公が家族から愛され、恵まれた家庭環境で暮らしている場合は、異世界へ拉致・誘拐した実行犯たちの身勝手さがより強く感じられます。

    <異世界転移>
  • くまなの『くま クマ 熊 ベアー』:少女主人公が、神に選ばれて異世界に移動し、神から贈られたクマの着ぐるみ装備を着て、冒険者として活躍しながら、孤児院を支援し、カフェや食堂を経営する。
  • ダイスケ『異世界コンサル株式会社』:異世界へ突然転移したコンサルタントの男性主人公が、冒険者の経験を経て、駆け出し冒険者の支援を始め、冒険者向けの靴事業を起業、一流冒険者クランのブランド化を企画し、領地経営をしていく。
  • Swind『異世界駅舎の喫茶店』:名古屋行きの特急列車に乗っていた若い夫婦が、気が付くと蒸気機関車に乗っており、異世界の駅に辿り着く。妻は獣人に変異し、過去の記憶を失っていた。夫である主人公は、妻と共に異世界の駅舎で喫茶店を経営する。
  • EDA『異世界料理道』:料理人の息子である主人公が火災に遭い、気がついたら異世界にいた。主人公は狩人である「森辺の民」の一員となり、料理人として屋台を経営。料理を通して、「森辺の民」と宿場町の人々、城下町の貴族たちと絆を深めていく。
  • 佐々木さざめき『神さまSHOPでチートの香り』:ブラック企業で働く青年主人公が爆発事故に巻き込まれるが、商売の神に助けられ、異世界で復活する。主人公は商売を通してスラムの人々を救済するなど、商売神を広めるために各地を旅する。

『くま クマ 熊 ベアー』や『神さまSHOPでチートの香り』において、主人公たちは「神」から選ばれ、「神」の意志や力によって異世界へと招かれています。
人間の意志による身勝手な「召喚」と比較して、「神」の意志で異世界へ招かれた主人公たちは、「勇者」や「聖女」として政治や軍事に利用されることがないため、自由な立場で異世界を体験できると言えます。

『神さまSHOPでチートの香り』の主人公は、現実世界ではガス爆発事故に巻き込まれますが、爆発で死ぬ数瞬前に「商売神メルヘス」によって助けられ、異世界で復活するのです。
『異世界料理道』の主人公も、現実世界では火災で死亡したはずが、怪我や火傷も無く、異世界へ移動しています。
「小説家になろう」の中で、『神さまSHOPでチートの香り』や『異世界料理道』のように、現実世界で死亡しながら、異世界で復活する物語が多く見られます。
『異世界料理道』では、「神」と直接対話したり、メッセージを受け取る場面は描かれていませんが、何らかの超自然的な働きによって、異世界で生かされていると言えます。


『異世界コンサル株式会社』や『異世界駅舎の喫茶店』の主人公たちは、『不思議の国のアリス』のように、異世界へ迷い込んだと言えます。
『不思議の国のアリス』や『ナルニア国物語』、『オズの魔法使い』は、主人公たちが異世界へ迷い込み、そこでの冒険や戦いを通して成長し、現実世界へ再び戻ってくる異世界往還譚です。
現実世界から異世界へ旅し、また現実世界へ戻るという構成は、中世の異世界航海譚から『ナルニア国物語』まで共通する必須要素と言えます。
『盾の勇者の成り上がり』の結末では、主人公は「神」として世界を守る旅を続けながら、「自分の分身」を異世界と現実世界に分けます。
「神」の力を捨て、人間として現実世界へ戻った主人公は、大学を卒業後、大企業に就職し、異世界から連れ帰った女性と結婚しており、異世界往還譚の系譜と言えます。

しかし、『不思議の国のアリス』や『ナルニア国物語』のような異世界往還譚は、「小説家になろう」において、実はあまり多く描かれていません。
「小説家になろう」の中では、完結した作品が少ないため、異世界へ移動した主人公たちがどのような結末を迎えるのか、まだ描かれていない場合が多いとも言えます。
しかし、『神さまSHOPでチートの香り』や『異世界料理道』のように、現実世界において死亡している場合、現実世界への帰還は不可能です。
『神さまSHOPでチートの香り』や『異世界料理道』は、異世界往還譚ではなく、現実世界から異世界へ片道切符の旅として描かれているのです。
『とんでもスキルで異世界放浪メシ』や『聖女二人の異世界ぶらり旅』、『聖女の魔力は万能です』においても、異世界へ召喚された主人公たちが現実世界へ戻る方法はないと語られています。
後述する「異世界転生」の作品においても、主人公たちが現実世界では死亡しているため、異世界から現実世界へ戻ることは不可能です。

発売元: 岩波書店
発売日: 2002/12/7

トールキンは、『指輪物語』の前日譚として『ホビットの冒険:ゆきて帰りし物語』(1937年)を執筆しています。
物語世界で、主人公ビルボ・バギンズが、自らの冒険を書き記した手記の表題が『ゆきて帰りし物語』です。
この表題を真似すれば、「小説家になろう」における「異世界召喚」や「異世界転移」、「異世界転生」と呼ばれる作品群は、「ゆきて帰らざる物語」であることが、大きな特徴と言えるでしょう。
「異世界転生」については、後ほど詳しく考察します。



(2)現実と異世界の<混合世界>

日常の中に「異世界」の要素が紛れ込む

『メアリー・ポピンズ』シリーズの一作目である『風にのってきたメアリー・ポピンズ』は、ロンドンの桜町通り17番地を舞台に、バンクス家に雇われた主人公メアリー・ポピンズが、主人夫婦と四人の子供たちと共に暮らす中に、魔法の要素が紛れ込み、さまざまな騒動を起こります。
この設定は、現実世界と異世界が空間的にはっきり区切られているわけではなく、現実世界と異世界の<混合世界>と言えます。


『メアリー・ポピンズ』のような、日常生活の中に魔法が描かれる表現技法は、「エブリデイ・マジック」(everyday magic)と呼ばれています。
児童文学の分野で古くから用いられてきましたが、イーディス・ネズビット(1858-1924年)がジャンルとして確立し、現実性と同時代性を持つ魔法と冒険のファンタジー作品が生み出されました。
イーディス・ネズビットの影響を受けて、『メアリー・ポピンズ』が誕生したのです。
『ハリー・ポッター』シリーズは、現代のイギリスが舞台で、現実の世界と地続きのどこかにある魔法学校での出来事が描かれており、『メアリー・ポピンズ』型のファンタジー作品と言えます。
「小説家になろう」の中で、『メアリー・ポピンズ』や『ハリー・ポッター』のように「エブリデイ・マジック」の手法を用いた作品として、次の作品があります。

  • サザンテラス『クラスが異世界召喚されたなか俺だけ残ったんですが』:クラスメイトが異世界へ召喚された中で、主人公はこちらの世界に残る。魔法の力を使えるようになった主人公が、現実世界の日常の暮らしの中で戦いを余儀なくされる。
  • みのろう『日本国召喚』:日本国全体が異世界へ移動するが、外交努力によって食料や石油資源を確保し、国民の生活は元の世界と変わらず保たれる。異世界の覇権主義国家による侵略戦争に日本が巻き込まれていく。
  • 裂田『俺んちに来た女騎士と田舎暮らしすることになった件』:山間部で農業を営む青年主人公の元に、異世界から若い女騎士が迷い込む。自分の世界へ帰ることが出来ない彼女は、主人公と共に暮らすことになり、徐々に絆を深めていく。

『クラスが異世界召喚されたなか俺だけ残ったんですが』では、主人公が中学生時代に、「異世界の神メトロン」によってクラスメイトたちが「勇者」として異世界へ召喚されますが、主人公だけが現実世界に取り残されます。
現実世界では、行方不明事件として大きく騒がれ、主人公は警察から事情聴取を受け、メディアに追いかけられ、家族で引っ越しや転校を余儀なくされます。
主人公は、神メトロンから「スキル」と呼ばれる魔法の力を授かっており、強力な魔法使いに成長しますが、現実世界では魔法があっても「特に使い道がない」と考えています。
メトロンは、わがままな子供のような神であり、メトロンによって現実世界に異世界のモンスターなどがあらわれ、主人公は騒動に巻き込まれていきます。

『俺んちに来た女騎士と田舎暮らしすることになった件』は、異世界出身の人物が現実世界にあらわれる物語であり、『メアリー・ポピンズ』との共通性を感じます。

『日本国召喚』は、日本国全体が異世界に移動し、異世界での外交に奔走する外務省職員や、防衛出動する自衛隊員たちを描いた群像劇です。
高度な古代文明を発達させた魔法帝国の復活に対抗するため、「太陽神」が「太陽を国旗とする」日本国を召喚したことが、作中で示唆されています。
この異世界では、魔法技術を中心に文明を築いており、高度な魔法技術を持たなければ、「文明圏外の国」として蔑まれます。
このような異世界側の視点から、科学を基礎に高度な機械文明を築いている日本の国力に対する驚嘆が描かれます。
日本人が日常に暮らす現実世界の方が、あたかも異世界であるかのように、物語世界の人々から定義されるのです。
したがって『日本国召喚』は、『メアリー・ポピンズ』のように現実世界の中に異世界が紛れ込むのではなく、異世界の中に現実世界が紛れ込む設定と言えるでしょう。

現実世界と異世界を日常的に往還する

発売元: 新潮社
発売日: 1999/11

フィリップ・プルマンの『ライラの冒険』三部作(1995-2000年)では、現実のイギリスに似ているものの、鎧を纏ったクマの王や魔女が暮らし、教会が大きな権力を持つ世界を舞台に物語が始まります。
その世界では、人々はみな「ダイモン」と呼ばれる動物の姿をしたパートナー(自己の魂を動物化した存在)を持っています。
主人公の少女ライラは、失踪した友達のロジャーを救出する旅に出ますが、やがて彼女は自分たちの世界以外にも何十億と世界が存在することを知り、別の世界へ渡ります。
その後、さらに別の世界から来た少年ウィルと出会い、さまざまな世界へ通じる窓を切り開くことが出来る「神秘の短剣」を手に入れるのです。
しかし、「世界と世界をつなぐ窓」が開かれるたびに、奈落の一部が漂い出て、「ダスト」と呼ばれる重要な未知の粒子や、自己の分身である「ダイモン」が失われることが明らかになります。
ライラとウィルは短剣で開かれた窓を全部閉じることを決め、二人は愛し合いながらも、それぞれの世界に別れる結末です。

「小説家になろう」の中で、『ライラの冒険』のように、現実世界と異世界を何度も行き来する作品として、次の作品があります。

  • 犬塚惇平『異世界食堂』:商店街の一角にある老舗の洋食屋には、異世界へとつながる魔法の扉がある。毎週土曜日、異世界の各地からさまざまな客が店に訪れ、食事を楽しむ。
  • 蝉川夏哉『異世界居酒屋「のぶ」』:老舗料亭で修行した店主が、新規開業した居酒屋「のぶ」は、入口が異世界へつながってしまう。「のぶ」の料理は、異世界の人々に徐々に受け入れられ、常連客が増えて、異世界出身の給仕や見習い料理人を雇う。
  • すずの木くろ『宝くじで40億当たったんだけど異世界に移住する』:宝くじで高額当選した青年主人公が、金目当てに集まる人々に嫌気がさし、山奥にある古い屋敷へ引っ越す。その屋敷で異世界へつながる扉を発見し、飢餓に苦しむ農民たちを助け、異世界の人々から慕われる。現実世界と異世界を何度も行き来し、日本の食糧や医薬品、技術を持ち込み、農業や技術を進歩させ、人々を豊かにしていく。
  • 忍丸『異世界おもてなしご飯』:主人公姉妹が、自分たちの住む家と共に異世界へ召喚され、妹は「聖女」として世界の邪気を払い、姉は手料理で妹を支える。やがて姉は護衛騎士と愛し合うようになり、妹の使命が果たされた後、姉は騎士と一緒に現実世界へ帰り、毎週末に異世界へ行く暮らしを始める。

『異世界おもてなしご飯』では、両親を亡くし、姉妹二人きりで暮らしていた主人公が、「聖女」として召喚された妹と共に、住んでいた家ごと異世界へ移動します。
これまで、親代わりとなって妹の世話をしてきた主人公は、異世界においても、「聖女」である妹を手料理で支えます。
やがて主人公は、自分の護衛騎士である青年に思いを寄せ、互いに愛し合うようになります。
「聖女」がその使命を終え、姉妹が現実世界へ帰還する時に、護衛騎士は愛する人と一緒に現実世界、彼にとっての異世界へ行くことを決めるのです。
主人公と護衛騎士は共に暮らしながら、現実世界と異世界を毎週行き来し、結婚に向けた準備を進めます。
現実世界へ戻った妹が高校を卒業し、自立した後に、主人公は護衛騎士と二人で異世界で暮らす予定としています。

『ライラの冒険』において、主人公ライラとウィルは愛し合いながらも別れを余儀なくされましたが、『異世界おもてなしご飯』では、同じ世界で共に暮らすという結末です。
このような結末の違いは、現実世界と異世界の関係をどのように定義するかに拠ると言えます。
『異世界おもてなしご飯』において、現実世界と異世界を行き来するための道具として、精霊王の聖石が用いられます。
この聖石に魔力を充填するのに、人間の力では五十年程かかるため、主人公たちが現実世界に帰れば、再び異世界へ来られるのは五十年後となるはずでした。
しかし、妖精女王や精霊王たちが主人公のために手助けし、「世界を行き来する」生活が可能となるのです。

一方、『ライラの冒険』では、無数の世界は「パラレル・ワールド」として設定されています。
三部作の一作目である『黄金の羅針盤』では、世界の関係について、コイン投げの例を出して説明しています。
コインの表か裏か、落ちるまでは二つの可能性は等しく、表が出たとき、もうひとつの世界で裏が出ると語られています。
ある世界において、ひとつの可能性が実現した時、その可能性が実現していない点のみが異なる別の世界が、新しく出現するということです。
何十億という世界が、互いに「自己と分身」の関係であるため、「世界をつなぐ窓」が開かれ、ある世界が分身である別の世界と出会うことは、その世界にとって「ダスト」や「ダイモン」を失い、世界の「死」を意味します。
そのため、ライラとウィルは本来は出会うはずのない存在であり、同じ世界で暮らすことは不可能なのです。

『異世界食堂』や『異世界居酒屋「のぶ」』、『宝くじで40億当たったんだけど異世界に移住する』においても、現実世界と異世界をつなぐ扉が常に開かれています。
『ライラの冒険』と比較すると、これらの物語中の現実世界と異世界は、「自己と他者」の関係であると言えます。
『異世界おもてなしご飯』は、二人の世界が「自己と他者」の関係であるからこそ、愛し合う二人がそれぞれの世界を行き来しながら、同じ世界で暮らすことが出来るのです。


『異世界食堂』や『異世界居酒屋「のぶ」』において、物語の舞台となる洋食屋や居酒屋は、現実世界と異世界のはざまにある場所と言うこともできます。
このような設定は、『ナルニア国物語』の『魔術師のおい』に登場する「世界と世界のあいだの森」との共通性を感じます。



3.異世界転生

(1)「異世界転生」と「異世界憑依」:『はてしない物語』と比較して


「小説家になろう」における異世界探訪譚の中で、前述したように、「異世界召喚」や「異世界転移」は現実世界の身体のままで異世界へ移動する物語です。
一方で、「異世界転生」と呼ばれる物語は、現実世界の身体を捨て去り、新しい身体で異世界へ移動する設定です。
新しい身体で異世界へ移動した主人公が、現実世界で死亡する記述が無い場合を「憑依・幽体離脱」、死亡している場合を「転生」と分類して、以下の作品を例示します。

    <憑依・幽体離脱>
  • りゅうせんひろつぐ『賢者の弟子を名乗る賢者』:青年主人公が、自分が遊んでいたゲームと限りなく近い世界に移動し、美しい少女のキャラクターに憑依する。男性の人格と少女の肉体をあわせ持った主人公が、凄腕の召喚術師として、かつての仲間を探す旅をしていく。
  • 秤猿鬼『骸骨騎士様、只今異世界へお出掛け中』:青年主人公が、自分が遊んでいたゲームのキャラクターの姿で、見知らぬ異世界に移動する。聖鎧を纏った骸骨の姿となった主人公は、強力な魔法や剣の力で、奴隷のエルフや獣人たちを救出していく。
  • 泉『俺の死亡フラグが留まるところを知らない』:青年主人公が、自分が遊んでいたゲーム世界のシナリオが始まる前の時間軸に移動し、貴族の少年時代に憑依する。主人公は自分が憑依した少年の成長後、ゲームシナリオで悪役となることを知っている。ゲームの結末通りに、世界の滅亡を防ぐ必要があるが、自分が死ぬシナリオは回避したい主人公は、少年時代からシナリオと異なる行動をし、陰謀に巻き込まれていく。

発売元: 岩波書店
発売日: 1982/6/7

主人公が新しい身体で異世界へ移動する物語と言えば、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』(1979年)があります。
主人公のバスチアン少年は、背が低く小太りで、スポーツや勉強もできず、学校でいじめられています。
彼は母を亡くしたばかりで、父とはほとんど会話をせず、関係が悪化していました。
そんなバスチアンが、誰にも見つからない学校の物置部屋に隠れて、『はてしない物語』という本を読み、その本の中の世界であるファンタージエンへ移動するのです。
ファンタージェンにおいて、バスチアンは「すらりとした驚くほどの美少年」、「誇り高く毅然とした姿勢」、「細面の気品にあふれた男らしい顔」、「東方の若い王子のような姿」へと変身するのです。
そして、「色の砂漠の王のライオン」を乗りこなし、「四人の勇士」を打ち負かす英雄として冒険します。
ファンタージエンから現実世界へ帰還後、バスチアンは父と和解し、愛と信頼の関係を回復する結末です。

エンデの『はてしない物語』は、「いわば観客が舞台にとび上がって舞台の登場人物になり切ってしまい、その舞台で長々と演じたあと、そこからまた客席にもどる」(子安美和子『エンデと語る』、1986))というように構成された芝居と同じ構造を持っています。
『賢者の弟子を名乗る賢者』や『骸骨騎士様、只今異世界へお出掛け中』、『俺の死亡フラグが留まるところを知らない』では、自分が遊んでいたゲームのような世界に移動し、ゲームのキャラクターに変身する物語です。
これらは明らかに、『はてしない物語』型のファンタジー作品であると言えます。
「小説家になろう」における「憑依・幽体離脱」の異世界探訪譚は、『はてしない物語』の手法を継承しながら、本で読む物語世界ではなく、ゲームで遊んだ物語世界へ移動するという現代に合わせた設定としています。

    <異世界転生>=現実世界では死亡
  • 伏瀬『転生したらスライムだった件』:通り魔に刺殺された社会人主人公が、異世界のスライムとして生まれ変わる。強力な魔物として成長し、やがて大魔王として魔物たちの国家を建国する。
  • 馬場翁『蜘蛛ですが、なにか?』:異世界における勇者と魔王の戦いによって、世界の枠を超越して爆発が起き、巻き込まれた主人公を含めて、クラスメイトと教師全員が死亡し、魂が異世界へ流出する。女子高生の主人公は、異世界で蜘蛛の魔物として生まれ変わる。
  • 棚架ユウ『転生したら剣でした』:交通事故で死亡した青年主人公が、異世界で強力な剣として生まれ変わる。その剣は、邪神に支配された神獣フェンリルを封じる神剣で、邪神の影響を受けない魂として主人公が異世界の女神によって選ばれた。
  • 漂月『人狼への転生、魔王の副官』:異世界で人狼として生まれ変わった主人公が、人間の都市を侵略するも、人間らしい統治によって、魔物と人間が共に暮らす街を築き上げていく。
  • デンスケ『四度目は嫌な死属性魔術師』:世界が複数存在する設定で、「魂の輪廻を司る神ロドコルテ」が、客船の沈没で死亡した主人公を異世界へ転生させる。科学と魔法の世界へ生まれ変わった主人公は、二度目の人生でも不幸で、若くして死亡する。二度目の世界と別の世界へさらに生まれ変わった主人公は、三度目の人生を生き抜くため、仲間たちと共に成長し、神々と戦う。
  • 理不尽な孫の手『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』:引きこもりで無職の青年主人公が交通事故で死亡し、異世界の貴族の息子に生まれ変わる。いじめによって不登校となり、勉強も就職もせず、親兄弟とも不仲だった前世を反省し、今世の主人公は幼い頃から剣や魔法の修行を頑張る。
  • 桜木桜『異世界建国記』:孤児院出身の青年主人公が交通事故で死亡し、古代の異世界で孤児として生まれ変わる。グリフォンの庇護下で孤児たちと共に暮らし、多くの戦いを経て、やがて古代ローマ帝国のような国家を建国する英雄譚。
  • 高山理図『異世界薬局』:薬学研究者だった青年主人公が過労死し、異世界で宮廷薬師である貴族の息子に生まれ変わる。主人公は、現代の薬学知識で女帝の病気を治療し、若くして宮廷薬師の地位を得て、貴族だけでなく、一般市民も治療が受けられる薬局を開業する。
  • 杏亭リコ『悪役令嬢は、庶民に嫁ぎたい!!』:若い女性主人公が転落事故で死亡し、自分が遊んでいたゲームのキャラクターである公爵令嬢に生まれ変わる。主人公はゲームのシナリオと異なり、錬金術師の少年に思いを寄せ、さまざまな騒動に巻き込まれていく。

「小説家になろう」における「転生」の異世界探訪譚も、主人公が新しい身体で異世界へ移動する物語として定義すれば、『はてしない物語』型のファンタジー作品と言えます。
さらに、2.(1)<多元的世界>:「異世界召喚」と「異世界転移」の特徴で考察したとおり、「異世界転生」の場合は、現実世界で死亡しているため、現実の日常生活へ再び戻ってくることが出来ない、「ゆきて帰らざる物語」です。
また、「憑依・幽体離脱」のうち、『骸骨騎士様、只今異世界へお出掛け中』も異世界でゲームのキャラクターに変身したまま、現実世界へ戻ってこない結末であるため、「ゆきて帰らざる物語」と言えます。

『はてしない物語』では、ファンタージエンと人間界の境を越える道は「正しい道と誤った道」の二つがあるとされ、人間にも三つの類型があると提示されています。
①ファンタージエンに決して行けない人間
②ファンタージエンに行ったきりで戻ってこない人間
③ファンタージエンに行って戻ってくることのできる人間

ファンタージエンの女王である「幼ごころの君」は、①や②は「誤った道」、③は「正しい道」であると語っています。
主人公のバスチアンは、③に当たる人間と言えます。
このことから、物語世界における深い体験と現実世界への帰還は、その人に人間的な成長をもたらし、日常生活を変革する力を持っている、というエンデのメッセージが感じられます。

一方で、「小説家になろう」の「転生」や「憑依」の異世界探訪譚は、②型の人間、異世界へ行ったきりで現実世界へ戻らない主人公を描いています。
②の場合は、異世界での体験を通じて、どんなに人間的に成長したとしても、現実世界の日常生活を変革し、豊かにすることはないと言えます。
『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』では、『はてしない物語』のバスチアンと同じように、コンプレックスにとらわれた主人公が描かれています。
いじめによって不登校となり、勉強も就職もせず、親兄弟とも不仲だった主人公は、異世界で生まれ変わると、前世の人生を反省して、幼い頃から剣や魔法の修行を頑張り、より良い親子関係を築きます。
このように、自分の行いを反省し、努力を重ねて成長を遂げる主人公は、現実世界へ戻り、無職で引きこもりであった日常生活を変革し、親の死と向き合い、兄弟と和解して信頼関係を回復できるのではないでしょうか?
しかし、バスチアンが子供であるのに対して、『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』の主人公は34歳であり、交通事故で死亡した上で、異世界へ移動します。
このことから、自分の人生を反省し後悔したとしても、すでに大人になっていては、現実世界の日常生活を変革できず、家族との和解も不可能であるため、生まれ変わって赤子から人生をやり直した方が良い、という作者のメッセージを感じます。

芸術とはつねに真、善、美を描きだしていなければならないとする考え...は正しくありません。芸術はいつも醜いもの虚偽、悪を描いてきました。ゴヤの絵を思い出してください。あるいはミケランジェロ。ほんとうの芸術は耐えられないほどの悪や罪を描きます。悲劇の名作なんかほんとうに耐えがたいものです。でもそれが舞台という魔術的な次元に移しかえられることによって、ホメオパティー的方法で観客の中に逆方向の力を呼びさまします。観客をかえって健康にしてくれる力です。それが芸術の秘密です。(子安美和子『エンデと語る』、1986))

このエンデの言葉は、芝居や本などの物語世界が、読者や観客に対してもつ「芸術の治癒力」を説明しています。
エンデは『はてしない物語』を通して、世界中の多くのバスチアンのような子供たち、自分にコンプレックスを持ち、親子関係がぎくしゃくし、いじめっ子たちから逃げて本を読む楽しみしかない子供たちに、癒しと励ましを与え、自分の生きる道を再び歩み始める手助けをしたのです。

したがって、「異世界転生」を描いた現代のファンタジー作品も、主人公が不本意に死ぬところから始まりますが、別世界での人生のやり直しを通して、現実を生きる読者を励まし、生きる力を与えているのかもしれません。



(2)「異世界転生」の死生観:現代の輪廻転生観


上述したように、「小説家になろう」では、現実世界から異世界へ生まれ変わった者、転生者を主人公とする異世界探訪譚が多数見られます。
この「異世界転生」作品群において、主人公が事故や病気、殺人などによって突然の死を迎える場面が繰り返し描かれることに、わたしは強い疑問を感じていました。
<異世界>を現実世界から離れ、心を癒し、人格的に成長する<場>として位置付けるならば、『ナルニア国物語』ないし『はてしない物語』型の異世界探訪譚で充分に表現できるため、「なぜ最初に主人公が死ななければならないのか?」という疑問が生まれるのです。
主人公に外見や容姿のコンプレックスがあるならば、『はてしない物語』のように異世界で変身させる手法が一般的なものであり、異世界へ移動する直前に、主人公が死亡する必要性が感じられません。
しかし、「異世界転生」作品は、主人公の<死後の生>を描こうとするものと考えれば、物語において主人公の死は必要な要素と言えます。
主人公が死後どこへ行くのか、すなわち死後の魂の行方を描いているという点において、「異世界転生」作品はきわめて宗教的なのです。
ダンテ(1265-1321年)は、地獄、煉獄、天国を旅する叙事詩『神曲』(1304-1321年)において、豊かな想像力によって、死後の彼方にあるものを語りました。
「異世界転生」作品は、『神曲』のような<生と死を超越した異世界>ではなく、『指輪物語』や『ゲド戦記』型の異世界を提示して、主人公の<死後の生>を描いていると考えられます。
「異世界転生」作品において、死後の魂の行方がどのように描き出されているかを考察し、現代日本の死生観を明らかにしたいと思います。



キリスト教と仏教における死生観


旧約聖書によれば、古代のイスラエル人たちは、死者は「シェオール」(陰府)と呼ばれる場所にくだると信じていました。(「創世記」37章34節)
紀元前2世紀頃から、終末にともなう死者の復活が信じられ、永遠の生命と永遠の罰という審判思想が信じられるようになります。(「ダニエル書」12章1-3節)
人々への福音を説いたイエスも、神の審判が近い未来に来ると当然のように信じており、「天の国は近づいた」と宣べ伝えています。(「マタイによる福音書」4章17節)

4世紀後半以降、西方教会ではアウグスティヌス(345-430年)が、最終的な審判に先立って、死後に生前の罪の許しがあると認め、「死後の魂の浄化」が信じられるようになります。
アウグスティヌスの解釈を展開し、グレゴリウス1世(540-604年)は、善行によって良い生活をした人は、死後すぐに天国へ入り、死後すぐに天国に入ることができない魂にも救済があることを示しました。
死後の魂の「清めの場所」は、後に「煉獄」と呼ばれるようになり、12世紀末から13世紀に煉獄に関する教理が確立します。
死後の魂の救済の可能性が認められると、生きた人間が死者のために祈り、善行を施すことで、浄化の苦しみが軽減され、故人の魂の救済に役立つという「執り成しの祈り」という思想が現れます。
中世後期の西ヨーロッパ世界の人々にとって、最後の審判以前に、天国と地獄の間に煉獄があり、浄化の炎で焼かれて、現世で犯した罪を償うことは、当然の事実として受けとめられていました。

このように、天国や地獄あるいは煉獄という別世界を提示する死生観と、「異世界転生」作品で描き出された、現実世界で死んでいるが、異世界で生きているという死生観は、実は共通していると考えます。
人間が生と死と向き合う際に、別世界の提示によって現実を多重化し、魂の救済を表していると言えるでしょう。
しかし、「異世界転生」作品では、輪廻転生は当然の事実のように描かれており、ほとんどの作者が「転生とは何か?」という説明を省略しています。
この「異世界転生」作品における輪廻観は、仏教における業報・輪廻思想とは全く異なっており、現代的な死生観の一側面としてとらええることが出来ます。



原始仏教と呼ばれるニカーヤや阿含の経典類では、輪廻転生の教説が多数記録されており、業報・輪廻思想は、仏教の中心的な思想と言われています。
仏教では「三世の因果」として、過去・現在・未来の輪廻思想と、善因善果、悪因悪果の業報思想が結びつけて考えられています。
この輪廻思想と業報思想のルーツは、古代インドの思想であるウパニシャッドに見られます。

最初期の成立とされる『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』(紀元前800-500年頃)では、人間の心臓の中には、永遠不変なるアートマン(霊我)があり、人に死が迫ると肉体から霊我が離脱し、新たな肉体へ宿るとされます。
森で信仰と苦行と瞑想を行う出家者は、死後に神界や太陽、月を経て、ブラフマン(宇宙我)のもとへ行きます。
村で祭祀や布施を行う在家者の場合は、死後に祖霊界を経て、再び来た道を引き返し、風や霧、雲、雨などに変化し、地上へ降ります。
そして穀物や草木となって芽を出し、それを食べた人を通して母胎へ宿り、再び人間として生まれると述べられています。

『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』と並び、最初期の成立とされる『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、ヤージュニャヴァルキヤと呼ばれる哲人が、死後の運命について「人間は善業によって善者となり、悪業によって悪者になる」と語っており、業報思想のルーツと言われています。

ブッダの時代において、輪廻はあると当然のように信じられており、古代インドの各宗教はいずれも輪廻から解脱する方法について模索していました。
ブッダが他宗教と異なったのは、実体としての「我」、すなわちアートマンを認めず、全ての存在を因縁所生として考え、無我思想を説いた点にあります。
仏教において、実体我あるいは霊魂が存在しないのであれば、何が輪廻するのでしょうか?
ブッダが説く輪廻の主体は「業」であり、生命が「業」に従って絶えず変転、流転していくことが輪廻なのです。
したがって、仏教の核心は無我思想にあり、業と輪廻は切り離せない一つの教義であり、輪廻から解脱する道は「業相続」の断滅と言えます。

日本における輪廻転生譚のルーツ


発売元: 小学館
発売日: 1995/8/22

平安時代初期の成立とされる、日本最古の仏教説話集『日本霊異記』(822年頃)では、転生者を主人公とする説話が多数記録されています。

武蔵国多磨群の大領であった大伴赤麻呂が、死後に黒まだらの子牛に生まれ変わった。
その牛は自分で背に碑文を負っており、その碑文を読むと、「赤麻呂は自分で造った寺を荘厳にし、わがまま勝手の気分に従い、自分勝手に寺の物を借用し、まだ借りた物を返済しないうちに死去した。借物を償うために牛と生まれ変わったのである」と書いてあった。
このために親類縁者や同僚たちは、自分たちも反省すると恥じ入るばかりで、因果の報を恐れかしこんだ。(『日本霊異記』中巻第九)

伊賀国の高橋連東人は、たいへんな金持ちで財産が多かった。死んだ母のために法華経を写し、願をかけて、一人の乞食僧を招いた。
その夜、この乞食僧の夢に赤い牝牛が来て、「わたしはこの家の主人の母です。この家の牛の中に赤い牝牛がいます。その赤い牝牛がわたしです。わたしはずっと以前、前世で子の物を盗み用いました。そのため今、牛の身に生まれ変わって、前世の罪悪を償っているのです。あなたは明日わたしのために法華経を説こうとする僧ですから、尊んで、ていねいに知らせるのです。事の真偽を確かめたいのなら、説法の御堂の中に、わたしの座席を用意してください。わたしはその席に座りましょう」と言った。
乞食僧から夢の内容を聞いて、東人は座を設けて牝牛を呼ぶと、牝牛は座に座った。そこで東人はひどく泣いて、「本当にわたしの母だ。わたしは全く知らなかった。そのような因縁ならば、今わたしはすべて許して差しあげよう」と言った。
牛はその言葉を聞いて大きくため息をついた。法会が終わった後、その牛はそのまま死んだ。(中巻第十五)

紀伊国名草群三上村の人が、薬王寺のために広く薬の基金の増殖につとめていた。ある時、まだらの子牛が薬王寺の境内に入り、寺の人が追い出しても、やはりまた帰って来て、塔の下に伏して去らなかった。
人々に「この牛は誰の牛か」と尋ねたが、誰一人としてわたしの子牛だと答える人がいなかったので、寺の下男は子牛を飼った。子牛は年を経て成長し、寺の仕事に追い使われた。
それから五年たったある時、寺の檀家の岡田村主石人の夢にその子牛が現れ、「わたしは桜の村にいた物部麿です。わたしは以前、寺の薬の基金の酒二斗を借り用いて、まだ支払わないうちに死んだ。こんなわけで現在、牛の身に生まれ、酒の借りを返すために使われているのです。使われる年期は八年間ということになっています。現在五年使われて、まだ三年残っています。寺の人はいたわりの心がなく、わたしの背を打ち、酷使します。これはたいへん苦痛です。あなた以外には情けをかけてくれる人もいないので、窮状を訴えるのです」と言った。
寺のために酒を造っている家主であった石人は、それを事実と確認した後、寺僧や檀家の者たちとともに、ことの因縁を悟り、牛に哀れみをかけて、読経し供養してやった。
牛は八年の労役を終えて、どこかへ去って行った。そして再び姿を現さなかった。(中巻第三十ニ)

このように、『日本霊異記』では、悪業を働いた者が牛などの家畜に転生する説話が多く記されています。
寺物を借用して返さず、死後牛に生まれ変わって働かされるというテーマは、『日本霊異記』上巻二十話、中巻九話、中巻三十ニ話に見られます。
中巻三十二話「寺の利殖用の酒を借り用いて、返済しないで死に、牛となって使われ、負債を返済した話」では、「もし人が負債を支払わなければ、牛羊・鹿・驢馬などの家畜の類になって、その前世の負債を返済するのである」と警告されています。
平安時代末期に成立したとされる『今昔物語集』の巻二十第二十二話は、この説話を基とすると言われています。

大和国山辺群に住む僧善珠禅師は、熱心に学を修めて、知恵、修行ともども備わっていた。皇族をはじめ臣下から敬われ、僧や俗人に尊ばれていた。彼はひたすら仏法を広め人を教化するのを勤めとしていた。そこで天皇はその仏法修行の徳を尊び、善珠に僧正の位を賜った。
さて、その善珠のあごの右の方にほくろがあった。善珠は臨終にあたり、「わたしは必ず日本の国王の夫人、丹治比の胎に宿り、王子と生まれ来よう。わたしはほくろをつけたまま生まれるから、それで真偽のほどが分かるだろう」と言った。死後、丹治比が一人の王子を産んだ。そのあごの右の方にほくろがついており、それは先の善珠禅師のようであった。そんなわけで、御名を大徳の親王と申しあげた。(下巻第三十九、前半)

伊予国神野群に石鎚山という、高く険しく、普通の人は登ることができない山がある。ただ身心を清めて修行する者だけが石鎚山を登り得て、住むことができた。
この石鎚山に身心を清めて修行する僧がいて、その名を寂仙菩薩といった。当時の僧や俗人は寂仙が身心を清めて修行するのを尊んだので、あがめたたえて、菩薩と呼んだのである。
寂仙は臨終に及んで、文書を書き記し、弟子に与えて、「わたしは死後二十八年の後に、国王の御子に生まれ来て、名を神野というだろう。この名をもって、寂仙の生まれ変わりと知るがよい...」と告げた。
それから二十八年を経て、平安の宮に天下を治めになった桓武天皇の皇子に生まれ、その御名を神野の親王と申しあげた。今、平安の宮で十四年を通して、天下をお治めになっている嵯峨天皇がこの方である。(下巻第三十九、後半)

下巻第三十九「知恵と修行とを兼ね備えた僧が、再び人の身となって、天皇の御子に生まれ変わった話」は、『日本霊異記』の最終話です。
前半が、善珠禅師が桓武天皇の大徳親王に転生します。後半は寂仙菩薩がやはり桓武天皇の皇子として転生、即位して嵯峨天皇となり、聖君とうたわれます。
『霊異記』全体のまとめとして、作者・景戒は「人々の口伝えの話を選び、善悪を類別して不思議な話を書き留めた」と述べています。
景戒は、ひそかに出家した私度僧の一人であったと言われています。
官大寺の官度僧たちが貴族と結びついて教団を形成したのに対して、私度僧たちは民衆とつながり、仏の教えを伝道しました。
『霊異記』における転生譚は、自分たちが現実に見聞きした、この世のことがらとして、仏の善報悪報を語っています。
景戒は『霊異記』の最後に、「願はくは、此の福を以て、群迷に施し、共に西方の安楽国に生れむことを」(下巻第三十九)と述べています。
「迷える人々に功徳を授け、共に極楽浄土に生まれたい」という景戒のメッセージは、作者の深い信仰をあかしするものと言えるでしょう。



現代の輪廻転生観


『日本霊異記』は、後世の文学に大きな影響を与えたと評価されています。
上述した『今昔物語集』では、『霊異記』と共通するものが72話もあり、ほとんどが『霊異記』から直接引用されています。
平安時代中頃から後期には、仏教説話ではなく、『更科日記』や『浜松中納言物語』など、物語の中で輪廻転生のテーマが描かれるようになります。
この『浜松中納言物語』を典拠として、三島由紀夫(1925-1970年)が『豊饒の海』(1969-1971年)という、主人公が輪廻転生していく長編小説を執筆しています。

『霊異記』の転生譚で語られているように、仏教では業報思想と輪廻思想が結びつけられて、「業に従って輪廻する」と信じられてきました。
しかし、「異世界転生」作品では、仏教の業報・輪廻思想と異なり、業と輪廻が切り離された輪廻転生譚が描かれています。

『転生したらスライムだった件』や『蜘蛛ですが、なにか?』、『人狼への転生、魔王の副官』において、主人公がスライムや蜘蛛の魔物、獣頭人身の人狼に生まれ変わっていますが、生前に悪業を働いたことへの代償ではなく、「ただ輪廻しただけ」として描かれています。
『悪役令嬢は、庶民に嫁ぎたい!!』や『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』では、主人公が生前に善業を積んだわけではないにもかかわらず、貴族の子という高い身分に生まれ変わっています。
このように「異世界転生」作品では、「輪廻するが、業報は存在しない」という現代の輪廻観が見られるのです。


また、日本の伝統的死生観には、古来から「先祖祭祀」(祖霊信仰)がありますが、これは実は仏教の輪廻転生と矛盾していると言われています。
先祖が輪廻しているのならば、祖霊として一定の場所に落ち着いているわけではないため、祭祀は無意味となるからです。
仏教の伝来によって、「祖霊を祭祀する共同体内で生まれ変わりする」という民俗的輪廻観が生まれ、先祖祭祀と仏教的輪廻観を両立し、矛盾を解消してきました。
現代の日本でも、仏壇に安置してあるのは位牌であり、「ほとけさま」に手を合わせることは「ご先祖さまの霊」を拝むことを意味しています。
しかし、「異世界転生」作品では、日本人が当然のように外国人へ転生しており、伝統的な先祖祭祀意識の弱まりを強く感じます。
超文化的な輪廻観が多く語られるということは、祖霊を祭祀する共同体(「家」)からの離脱であると言えます。


現代の輪廻転生観は、「業」を主体とする仏教の輪廻思想とも、先祖祭祀と結びついた民俗的輪廻思想とも異なっています。
「業」は存在しないと考えるならば、何が輪廻するのでしょうか?
『転生したらスライムだった件』や『四度目は嫌な死属性魔術師』、『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』、『悪役令嬢は、庶民に嫁ぎたい!!』では、実体的な「魂」が肉体の死後も存在するものとして描かれており、人格の連続性が見られます。

『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』では、34歳で引きこもりの「俺」という人格が、交通事故で死亡した直後から、転生身である新生児に引き継がれており、転生直後は自分が死亡したことに気づかず、戸惑う様子が描かれています。
「俺」は、転生身の父親に対して「34歳の俺から見れば、若造」と見なしており、表向きは「父様」「母様」と呼びますが、内心ではパウロ、ゼニスと実の両親を他人のように呼んでいます。
「俺」は、前世の交通事故死が原因で、家の庭より外へ出ることを怖がっていましたが、ルーデウスとして5歳まで成長した時、魔術の先生の導きによって、ついに外へ出て、トラウマを克服します。
このことからも、「俺」の人格と、貴族の息子ルーデウスの人格が連続していることが明らかです。
したがって『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』は、引きこもりで34歳の「俺」が、新しい肉体で人生経験を積むことで、前向きな自己肯定に変わっていき、転生を通しての人格的成長が描かれていると言えます。


『悪役令嬢は、庶民に嫁ぎたい!!』において、主人公は自分が遊んでいたゲームの世界に、ゲームのキャラクターである公爵令嬢イザベラとして転生しており、転生身が6歳の時に前世の記憶を思い出し、コールセンターに勤める28歳の「私」という人格を取り戻します。
「私」は、ゲームに登場するウルシュ青年が好きであったため、少年時代のウルシュと出会った時、イザベラは前世から引き継いだ彼への思いを告白するのです。
自分の思いが彼に受け入れられた時、「前世から、命削ってまで思い続けてきた甲斐があった」と内心で語っており、「私」の人格が、イザベラに引き継がれていることが分かります。
前世の記憶を思い出した後も、彼女は両親や兄姉に対して家族として愛着を持って接していることから、6歳のイザベラがこれまで形成してきた経験的自我と、28歳の「私」という実体的自我が統合されたと考えられます。

『悪役令嬢は、庶民に嫁ぎたい!!』は、『ライラの冒険』のように複数の並行世界が存在する設定であり、「私」が遊んだゲームのシナリオは、自分が転生した世界の「並行世界」の一つと言えます。
その並行世界において、天才錬金術師であるウルシュは、大量破壊兵器を開発し、金貨に執着する「最凶災厄の大賢者」として成長しています。
大賢者ウルシュは、「生きた大量殺戮破壊兵器」である魔王を人工的に造り出すために、人間の魂に干渉する実験を行い、「私」の魂がイザベラとして転生しました。
しかし、「私」がイザベラとして生まれたことで、「私」の人格ではないイザベラが生きる世界、すなわち大賢者ウルシュが生きる世界とは異なる新しい世界が出現したと言えます。
「私」がウルシュに思いを寄せていたため、イザベラとウルシュは婚約し、ウルシュはイザベラを大切に思うようになり、大量破壊兵器や金貨に執着する「大賢者ウルシュ」とは、全く異なる人格へと成長していくのです。
イザベラの婚約者であるウルシュは、自分の豊かな才能をイザベラを守り、喜ばせるために用いており、多くの人々に役立つ先進的な道具を開発していきます。
大賢者ウルシュは、「私」の魂に魔王の要素を組み込みましたが、人格の観念が欠落していたため、「私」がイザベラに転生することの影響力を予測出来なかったと言えます。
このように『悪役令嬢は、庶民に嫁ぎたい!!』では、個人を個人たらしめているのは人格であるという作者のメッセージが強く感じられます。


人格の不滅


これまで見てきたように、「小説家になろう」の中における「異世界転生」を主題とする多くの作品群では、人格の連続性が存在する輪廻転生が描かれています。
仏教の輪廻思想は、業が相続されるだけで、人格の観念が欠けており、人格の連続性は存在しないと言えます。
仏教の業報思想とキリスト教の審判思想は、人々に善業をすすめ、悪業を戒める教えは似ていますが、人格性への着目が異なります。
業報思想では、行為者と、その行為の応報を受ける者とが、別の者であると考えられていますが、審判思想では、責任の基礎が人格にあると考えられており、輪廻転生は審判の基礎を危うくするものと言えます。
ギリシア哲学やキリスト教において語られてきた「人格の不滅」と輪廻転生を結びつけ、業報や審判思想を切り離したものが、「異世界転生」作品の死生観であると考えます。
前述したように、仏教の輪廻転生思想は本来、キリスト教の審判思想と矛盾するため、両立不可能ですが、現代の輪廻転生観では「業」も死後審判も存在しないため、この矛盾を無視しているのです。

和辻哲郎(1889-1960年)は、『原始仏教の実践哲学』(岩波書店、1927年)において、輪廻思想が成立するためには、前世と来世を貫く同一の「我」がどうしても必要である、と主張しています。
和辻は、輪廻の主体は「我」あるいは「霊魂」と呼ばれるような、「自己同一的な個人的或る者」でなくてはならない、と述べています。
ブッダの無我思想では、経験我は存在しても、実体我は存在しないと説かれており、輪廻の主体として「自己同一的な何か」を設定することを拒否しています。
和辻は、西洋哲学における人格の観念に強い影響を受けたためか、無我思想に基づく輪廻転生思想に反対し、輪廻転生思想は有我思想でなければ成立しないと主張しています。
このような和辻の輪廻転生観は、「異世界転生」作品における<人格の連続性が存在する輪廻観>と、共通していると言えるでしょう。

発売元: 岩波書店
発売日: 1998/2/16

古代ギリシアの哲学者プラトン(紀元前427-347年)は、『パイドン』において、ソクラテスと弟子たちによる議論を通して、「魂の不滅」について語っています。
「ひとが死ぬと、同時に、魂は散り散りになり、それが魂にとっては、存在することの終りではないのか」という死へのおそれに対して、ソクラテスは次のように述べています。

「その論証はすでに、シミアスにケベスよ、いまだって、じつはあるのだ」とソクラテスはいわれた、「それはもしも君たちが、いまの想起の説と、その前に同意した、すべて生あるものは死せるものから生じるという説とを、ひとつに結び付ける気になりさえすればね。なぜなら、一方では、魂がこの生以前にも存在するということがあり、他方では、魂がこの生へおもむき、生成してくる場合には、ほかでもなくそれは死から、すなわち死という状態から必然的に生じてくるのだとすれば、それらのことの必然の帰結として、すくなくとも魂はふたたび生じてくるべきである以上、魂が死後も存在するということにどうしてならないだろうか。したがって、君たちが指摘したことの論証は、いまもすでにあることはあるのだ」(『パイドン』23章、岩波書店)

ソクラテスが語った「魂の先在の論証」は、輪廻転生思想と共通しており、「魂の不滅」と輪廻転生を結び付けています。
『パイドン』31章から32章では、「魂がつながれる行先」すなわち転生身として、善因善果、悪因悪果と似た考えが示されています。
「大食や、ほしいままな行いや、暴飲などをつつしまず、それらをつねの習いとしてしまった者」は、「驢馬」や「獣の種族」に入りこむのが当然とされてます。
「不正とか専制とか略奪とかをなによりも好ましいとした者」は、「狼とか鷹とか鳶の種族」が入りこむのが当然とされています。
「公共の市民としての徳をおさめた者」は、自らに似た公共の生活をいとなむ順化された種族である、「蜜蜂とか雀蜂とか蟻などの種族」に至ることが当然とされ、ふたたび「善良な人間」として生まれてくることも当然ある、と述べられています。
さらにソクラテスは、「知を求めるいとなみ(哲学)に徹し、一点のくもりもなしに清浄となってこの世を去る者」は、「神々の一族に至る」と語っています。
『パイドン』は、ソクラテスが死刑となる当日を舞台とする作品であり、「魂の不滅」について語ることによって、ソクラテスは弟子たちを励まし、「死をおそれるな」というメッセージを伝えています。

『パイドン』37章の中で、ソクラテスの弟子ケベスは、魂と肉体の関係について、人間が衣服を着ることにたとえています。
人が衣服を何度も着つぶしては、新しい服に着がえるように、「魂というものは、そのおのおのが数多くの肉体をつぎつぎと使い古していく」と述べています。
魂を主体とする輪廻転生思想について、「肉体=衣服」という非常に珍しい比喩を用いて語っています。
使い古された衣服を、つねに新しい衣服に着がえること、すなわち輪廻を繰り返していくうちに、いつか魂が滅びるのではないか?と、ケベスはソクラテスに問いかけています。
ソクラテスは52章から56章において、魂の不死性と不滅性を論証し、「不死のものはまたけっして破滅をうけることはないとされる以上は、魂はまさに不死のものであるからには、また不滅なるものであることになる」(56章)と答えるのです。
したがってソクラテスの考えでは、魂は不死であり、不滅であり、輪廻を繰り返しても存在し続けると言えます。
このように、「異世界転生」作品における、人格の連続性が存在し、「人格の不滅」と結びついた輪廻観は、古代ギリシア哲学に源流を見ることができるのです。


(2)「異世界転生」の死生観:現代の輪廻転生観の最初に述べたように、「異世界転生」作品で描き出される<異世界>は、天国や地獄という死後の世界と、その本質的において同じであると考えます。
「異世界転生」作品において、『指輪物語』や『ゲド戦記』のような別世界が多く提示され、「死後の生」が語られることは、古代から中世にかけて、主要な宗教が形成してきた天国や地獄のような別世界へのアンチテーゼとも言えます。
したがって、現代の作家たちが「異世界転生」を主題に、輪廻する<私>の物語を描くことは、個体の死を超越した「人格の永続性」の希求であると思われます。



4.まとめ


「小説家になろう」における異世界探訪譚を対象に、それらがどのような構造をもって現実世界から異世界への移動を表現しているのかを整理し、考察してきました。
全体として、「小説家になろう」の中で描き出される「異世界」は、『指輪物語』や『ゲド戦記』の設定や世界観を共有する傾向が多く見られます。
「異世界転移」や「異世界召喚」と呼ばれる作品群は、現実世界から異世界へ移動を描いており、『不思議の国のアリス』や『ナルニア国物語』の系譜と言えます。
このような異世界探訪譚は、中世の『聖ブレンダンの航海』や『御曹子島渡』にも見られる古典的なモチーフであり、人間の普遍的願望が示されています。
また、「小説家になろう」では、「異世界転生」や「異世界憑依」と呼ばれる、現実世界の人格はそのままに、新しい身体で異世界へ移動する異世界探訪譚が人気であり、多数連載・出版されています。
「異世界転生」と「異世界憑依」は、主人公が異世界で変身するという点では同様であり、ともに『はてしない物語』の系譜と言えます。
しかし、「異世界転生」作品群は、現実世界から異世界へ生まれ変わった転生者を主人公としており、<主人公の死後の生>を主題とする、特異なものであると言えます。
『日本霊異記』における日本最古の転生譚を手がかりに、「異世界転生」作品に描き出される現代の輪廻転生観を検討したところ、「業」を主体とする仏教の輪廻思想とも、先祖祭祀と結びついた日本の伝統的死生観とも異なることが明らかになりました。
「異世界転生」作品における現代の輪廻転生観は、「業」や死後審判が存在せず、先祖祭祀からも離脱しており、人格の連続性だけが存在します。
ギリシア哲学やキリスト教において語られてきた「人格の不滅」と、インド古代思想から展開してきた輪廻転生思想が渾然一体となったものが、「異世界転生」作品に描き出される現代の死生観であると考えます。
古来より、天国や地獄のような<生と死を超越した異世界>が説かれてきたのと同様に、「異世界転生」作品は、現実を多重化し、主人公が死後、別の世界で生きていることを提示する点において、宗教的であると言えます。
「異世界転生」作品では、若い主人公が事故や病気、殺人などによって、心の準備もなく、突然に死を迎える場面が多く見られます。
そのような主人公の魂が死後、異世界へ行くことを描き出すことによって、「異世界転生」作品は、現実の不条理な死と向き合おうとしていると言えます。



おまけ:「冒険者ギルド」の考察


ギルド(guild)は多義的な言葉ですが、「同業組合」としての手工業的ギルド(craft guildあるいはZunft)が思い浮かびます。
「同業組合」の源流には、古代ローマ時代の同業団体「コレギア」があると言われています。
13世紀末から14世紀に入る頃に、「同業組合」の力が強くなり、同じ職業に携わる人は、明確に定められた規則を守り、監視役の審査員の権威を尊重するようになります。
同業者たちは、いわゆる「一つの金庫、一つの印璽、一つの標識」を持ち、多くの場合はキリスト教の「信心会」を母体としていました。

同じ聖人を崇敬することで結びついた「信心会」は、定期的に集まって食事し酒を飲み交わし、祭典では崇敬する聖人像をかかげて行列し、メンバー同士の慈善と扶助を原則としました。
そのような「信心会」は11世紀中頃からあり、例えばフランスの金銀細工師の場合は、聖エロワを自分たちの守護聖人として崇敬しました。
聖エロワ(エリギウス)は、6世紀末にリモージュで金細工を学び、フランク王国のクロタール2世の王冠を造り、数多くの教会や修道院を創建し、ノアイヨンの司教となった言われています。
13世紀末、パリの金銀細工師たちは、病気や貧窮に陥った仲間を助け、仲間の誰かが死んだ場合は、その遺児を一人前の職人に育てるなどの協力体制を作ったのです。
ドイツやイタリアの多くの「同業組合」でも、これらの相互扶助活動に加えて、互いの団結を強めるための日曜日の集会、新入りの職人の歓迎会、亡くなった仲間の追悼ミサを行っていました。

「信心会」を母体とする「同業組合」は、本来は慈善的な相互扶助のための共同体でしたが、近隣諸都市との競争の中で、生産のコントロールと規制のための階層化された組織体へと変化していったのです。
14世紀から15世紀にかけて、貧富の差はますます拡大してき、格差の拡大を抑制するために、「同業組合」は組合の管轄外での「闇作業」や出稼ぎ農民を雇うことを禁じたり、親方の数を制限したり、メンバー同士の競争を厳しく規制したり、新しい機械の導入を禁じたりしました。
やがて、どこの都市においても、親方資格を得ても親方になれない職人たちが多数を占めるようになり、人に雇われ給与で生活する労働者、いわゆる「プロレタリアート」の数が増えていくのです。

「小説家になろう」のファンタジー作品における「冒険者ギルド」は、「ギルド」と呼ばれていますが、上述したような「同業組合」と厳密には異なる組織であると言えます。
「冒険者ギルド」は、「冒険者」たちに薬草採取や魔物討伐、護衛などの仕事を紹介することが大きな役割として描かれています。
「冒険者」の仕事ぶりを審査して、等級を定めることも「冒険者ギルド」の役割とされています。
「同業組合」の場合は、一人前の親方になるためには、親方昇格作品を仕上げて、その力量と誠実さを示し、組合の入会金を用意し、メンバーの推薦も受けなければなりませんでした。
親方資格授与の儀式は、多くの証人の立ち合いで盛大に行われ、宣誓し、御馳走が振舞われたと言われています。
「冒険者ギルド」が、「冒険者」志願の若者たちの力量を模擬戦で試したり、「冒険者」の仕事を審査して、等級を上げたりすることは、「同業組合」と共通するところがあると言えます。

しかし、「冒険者ギルド」は、同じ信仰で結びついた「信心会」ではないため、「冒険者」同士の相互扶助や慈善活動はほとんど描かれていません。
『くま クマ 熊 ベアー』の主人公ユナは「冒険者」として活動しながら、孤児院の支援に尽力しています。
ユナは、養鶏業を起業して、鶏の世話や採卵を孤児院に委託したり、自分が経営するカフェの給仕として孤児たちを雇用するなど、孤児たちの自立を助けています。
『転生したら剣でした』では孤児院を経営する「冒険者」の女性が登場し、『とんでもスキルで異世界放浪メシ』の男性主人公も「冒険者」として活動しながら、孤児院や教会に多額の寄付を行っています。
このような「冒険者」たちの慈善活動は、個人的奉仕によるものであり、「冒険者ギルド」が貧民救済を行っているわけではないと言えます。
上述した、パリの金銀細工師たちの「同業組合」では、品物の売買のたびに、1リーヴルあたり1ドゥニエを収める市場税を積み立てた基金を使って、市立病院に入院する貧しい人々に施しを行っています。

また、「冒険者」のルーツで述べたように、「冒険者」を「17世紀頃の傭兵」として考えるならば、「冒険者」をとりまとめる「冒険者ギルド」は、まさに「三十年戦争期の傭兵軍」と言えるでしょう。
三十年戦争の時期の軍隊は傭兵軍であり、「傭兵隊長という軍事企業家によってつくられた企業」でした。
「傭兵隊長は、君主と契約を結ぶと、有能な連隊長たちに連隊編成の特許状を与えて業務を下請けさせ、連隊長たちは中隊長を任命して業務を孫請けさせた」(鈴木直志『ヨーロッパの傭兵』山川出版社、2016年)と言われています。
「冒険者ギルド」の中で、引退した上級「冒険者」が「ギルド長」を務めることが多く見られます。
魔物の暴走が都市を襲った時に、人望ある「ギルド長」が、「冒険者」たちを率いて都市を防衛する構図は、傭兵隊長に指揮される傭兵軍に近いものを感じます。
さらに、三十年戦争に従軍した傭兵たちは、それぞれ妻子を帯同していたため、傭兵軍の半数は女性や子供、すなわち非戦闘員で構成されていました。
傭兵の妻たちは、戦闘後の略奪に積極的に参加し、宿営でパンを焼いて販売するなど、家計を助けていたと言われています。
「冒険者ギルド」において、若い女性が働いている場面や、「冒険者」志願の子供などがよく描かれますが、傭兵軍が多くの女性や子供を包摂する一つの社会であったことを考えると、それほど不自然ではないのかもしれません。




参考:日本古典文学全集『日本霊異記』(小学館、1975年)
『プラトン全集1』より『パイドン』(岩波書店、1975年)
松尾宣昭「「輪廻転生」考(一) : 和辻哲郎の輪廻批判」(龍谷大學論集、2007年)
岡田明憲『死後の世界』(講談社、1992年)
時田郁子「怪物と移動 : グリンメルスハウゼン『ドイツの冒険者ジンプリチシムス』」(成城大学、ヨーロッパ文化研究、2018年)
前田珠子「異世界の作り方 : 『ハリー・ポッター』と『ライラの冒険』」(駿河台大学論叢、2006年)
ロベール・ドロール『中世ヨーロッパ生活誌』(論創社、2014年)

2019/01/22

老 舎「駱駝祥子―らくだのシアンツ」

駱駝祥子―らくだのシアンツ (岩波文庫)
駱駝祥子―らくだのシアンツ (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1980/12/16


2013年11月30日の読書会で、老 舎の『駱駝祥子―らくだのシアンツ』(岩波文庫、1980年)を読みました。
老 舎(1899年-1966年)は、20世紀の中国文学を代表する作家で、小説『駱駝の祥子』や『四世同堂』、戯曲『茶館』などが知られています。
清王朝時代の北京で生まれ、貧しい少年時代を経て教員となり、ロンドンへ留学、イギリス滞在中に創作活動を始め、帰国後も多くの作品を発表しました。
しかし、1966年に始まった文化大革命で、紅衛兵たちによって「造反派」として迫害され、侮辱や暴行に耐えられず、1966年8月25日に入水自殺したと言われています。
中国の翻訳家である文潔若は、老舎の死を「現代の屈原」であると語っています。(人民中国、2001年8月号より)


※ネタバレ注意※

シアンツの転落人生


老舎が1936年に発表した『駱駝祥子』は、1920年代の北京を舞台に、人力車夫である主人公・祥子(シアンツ)の転落を描いた物語です。
農村出身の素朴な若者である祥子(シアンツ)は、若さと肉体の頑健さだけを頼りに何年も真面目に働きますが、不運な事件の積み重ねで、働いても働いても、生活は貧しく、どんどん不幸になっていきます。
祥子(シアンツ)の不運な人生について、わたしは下の図を作成しました。
図の横軸に時間の流れ、縦軸の上方に「幸運・希望」の出来事、下方に「不運・失望」の出来事を整理しています。


祥子は、非常に過酷な肉体労働である「車引き」の仕事を天職だと考えており、自分の車を持つことを目標に、賃貸しの車を引き、少しずつ貯金します。
食事代を切りつめ、精一杯努力をして、やっと自分の車を買った直後、敗残兵たちに自分の車を奪われました。
兵隊たちの元から、祥子が駱駝(らくだ)を連れて逃げたことで、彼は「駱駝」というあだ名で呼ばれることになり、表題の「駱駝祥子」(ロートシアンツ)となります。
祥子は、再び車宿の賃貸しの車引きにもどり、自分の車を持つため、死ぬような思いで貯金をします。
その後、曹(ツァオ)先生に雇われ、屋敷に住み込みのお抱え車夫となり、良い待遇の中で順調に生活をします。
しかし、曹先生が「アカ」であると密告されたことで、もともと何の関係も無い祥子が孫(スン)刑事に捕まり、血のにじむような努力で蓄えた祥子の貯金玉は、孫刑事に奪われるのです。

このように、祥子が「自分の車を持つ」という希望を持って努力し、良い縁に恵まれると、その直後に必ず、何らかの不運な事件に遭遇し、希望が無残に打ち砕かれます。
彼は失望し、落ち込みますが、なんとか立ち直って、また自分の車を買うという希望に向かって努力し始めます。
この<希望から失望>というパターンが、祥子の人生において何度も繰り返されていくことが、上の図を見るとよく分かるでしょう。

祥子は、車宿の主人・劉(ラウ)親方の娘である虎妞(フーニウ)に誘惑され、関係を持ちます。
祥子は虎妞に愛情を持っていませんでしたが、妊娠したという虎妞の嘘に騙され、彼女と結婚することになります。
虎妞は、愛する祥子と結婚し、車宿の跡継ぎにと考えていましたが、劉親方は娘の結婚を認めず、虎妞と祥子は車宿から追い出されるのです。
その後、本当に妊娠した虎妞は、難産のためお腹の子とともに亡くなります。

虎妞との結婚後、同じ長屋の住人である二強子(アルチアンツ)の娘・小福子(シアオフーツ)と出会い、祥子は想いを寄せていきます。
虎妞の治療や祈祷、葬儀のために、結婚後に買った自分の車も売り、貯金を使い果たした祥子は、また再び賃貸しの車引きとして、車宿に戻ることになります。
小福子も祥子に想いを寄せていましたが、祥子は「待っていてくれよ。目鼻がついたら迎えにくるかな。きっと」(323頁)と言って、長屋を出ていきました。

賃貸しの車引きに戻った祥子は、かつて奉公していた曹先生と再会し、お抱え車夫として再就職する誘いを受けます。
曹先生は、祥子と小福子の事情に同情し、二人が結婚して一緒に曹家の屋敷に住み込み、祥子は車夫、小福子は使用人として働くという「夢のような話」(357頁)を提案します。
この時こそ祥子は、小福子との再婚を決意し、ついに小福子を迎えに行きました。
しかし、祥子が長屋に迎えに行った時、彼女は長屋を出され、淫売窟に売られており、すでに自殺していたことが分かったのです。

<希望から失望>を繰り返してきた祥子が、本当に恋心を抱いた女性と結ばれ、今度こそ自分の人生をやり直せるという「夢のような話」を受けた直後に、その「夢」は本当に打ち砕かれました。
<夢や希望>は大きければ大きいほど、打ち砕かれた時の<失望>も大きく、もはや立ち直れない<絶望>に至るのだと思います。
何度打ちのめされても、立ち直ってきた祥子ですが、小福子の死によって、彼の心は完全に折れてしまい、再び立ち直ることは出来ませんでした。
<希望から失望>を繰り返すうちに、しだいに若さと健康さが失われて、生来の素朴で真面目な性格も失われた祥子は、最後には車引きで身を立てることをあきらめ、その日暮らしをする無気力な生活、最下層の浮浪者同然の生活に落ちてしまったのです。

彼の目からは涙がとめどなく流れでた。これで、なにもかもなくなってしまった。小福子まで土の下にはいってしまった。彼は一所懸命に生きようとした。小福子も一所懸命に生きようとした。そして、彼に残ったのはなんの役にもたたない涙ばかりであり、彼女は彼女で首をくくらなければならなかった。筵にくるまれて無縁墓地に埋められる、彼女の生涯かけた努力の結果がこれだったのだ。(370頁)


資本主義社会、利己主義の生き方への警告


祥子の暮らしぶりが悪くなるにつれ、素朴で真面目だった性格も、しだいに歪んでいき、わたしは読み進めるのが非常に辛かったです。
祥子の人生のターニング・ポイントは、やはり小福子の自殺を知った時でしょう。
小福子は、アルコール中毒の父親の家庭内暴力によって母親を殺され、19歳で軍人の愛人として売られました。
その軍人に捨てられて実家にもどり、極貧生活の中、彼女が売春で得たわずかな稼ぎで、父親と三人の弟たちを養っています。
父親からの暴言・暴力にじっと耐えてきた小福子は、長屋を出され、淫売窟に売られた後、自殺したのです。
淫売窟において、小福子が、死ぬことでしか自分の尊厳を回復できない、人間性を傷つける出来事があったのかもしれません。

曹先生は、祥子の身の上を案じていてため、彼に真面目に働く気持ちさえあれば、再びお抱え車夫として勤めることは可能でした。
しかし、小福子の死をきっかけに、祥子は人生を完全に諦め、支援の手を自ら拒絶し、自分からどん底に転落してしまったと言えます。

曹先生のところへ行く気持はまったくなくなり、連絡をしようとも思わなかった。祥子の運命をかえることは曹先生にも所詮できはしないのだ。(370頁)

祥子が生きていた1920年代の北京は、現代のようなセーフティーネットが無く、労働者の権利も無く、おそらくは人権意識も根づいていない社会です。
祥子の奉公先の中でも、曹先生の屋敷は待遇が良く、仕える奉公人たちにとって、曹先生は<良い主人>であると言えます。
教養ある知識人である曹先生は、奉公人たちがより良く働けるよう心を配っていますが、曹先生では「運命をかえる」ことは出来ないと、作者は語っています。
作品全体を通して、祥子のような真面目な労働者がルンペンプロレタリアートに転落する過程は、奉公先が<良い主人>か<悪い主人>かに関係なく、当時の社会全体に定められた、決して逃れられない運命であるかのように、描かれているのです。

人間は、おのれを獣の仲間からひきずりあげた。しかし、いまにいたってもなお、おのれの同類を獣の群れに追いやっているのである。祥子は、文明の世界に身をおきながらも、獣にかわってしまった。彼自身、なにひとつまちがったことをしたわけでもないのに。彼は考えることをやめてしまった。したがって、たとえ人を殺そうが、彼の責任とはいえない。彼は夢も希望もすてて、自分でもわからぬまま底なしの穴へおちつづけた。おのれの心を人々にとりあげられ、心をなくした彼は、それゆえに、食い、飲み、女を買い、ばくちを打ち、怠け、ずるがしこくたちまわった。いまや、彼に残っているのは、腐れはてた無縁墓地に埋められるのを待つ大きな肉体だけだった。(371頁)

このように老舎は、祥子を「獣」に追いやった私たち人間社会を痛烈に批判しており、「文明の世界」とは名ばかりの未成熟さを明らかにしています。
老 舎の言うとおり、「人間」という広い視座で見れば、身分や階級の別は無く、車引きの祥子も、娼婦の小福子も、曹先生も、孫刑事も、みな「同類」、同じ仲間なのです。
老舎は、同胞を「獣」に追いやる人間社会を批判するとともに、これまで語ってきた祥子の生き方そのものについても、批判の目を向けています。

乞食はやりたくてもできなかった。どだい彼のような大男に、金を恵んでくれるような人はなかったし、からだに細工して縁日の人出を狙う方法も知らなかった。人の同情をひくためにくずれたからだをこしらえなければならないが、そのやり方を教えてくれる者もいなかったからだ。泥棒をやろうとしても、その腕がなかったし、泥棒には泥棒の社会があった。となると、彼はやはりだれにもたよらず、自分ひとりで食ってゆくしかなかった。彼は自分一個のために努力し、また自分一個のために死を準備したのである。彼はたとえこの世で息をひきとったあとでも、息のある亡者となるにちがいない。彼の魂は個人主義そのものであり、それは彼のからだとともに土のなかで腐りつづけてゆくであろうから...。(390頁)

ついに祥子は、車も引けないようなからだになり、冠婚葬祭の行列について歩き、日銭を稼いで暮らすようになります。
「背中をまるめて下をむき、ひろった吸いさしをくわえて、億劫そうにのろのろと歩く」祥子の末路を、老舎は厳しく突き放すように描いています。

あのいなせな、がんばり屋の、希望にあふれた、わが身ひとつをいとおしんだ、個人的な、たくましかった、偉大な祥子は、いまや、何度人の葬式に立ちあったことだろう。そして、いつは、どこかに、彼自身を埋めることになるはずだ。この堕落した、我利我利亡者の、不幸な、病める社会の子、個人主義のなれのはてを!(392-393頁)

この言葉から、老舎が当時の資本主義社会に対して、堕落した、不幸な、病める社会であると考え、疑義を呈していたことが明らかです。
さらに、自分の車を買うことに執着し、ひたすら金を貯めることだけを生きがいに働いてきた、祥子のような生き方を「個人主義」であると指摘しています。
ここで言う「個人主義」とは、人権意識が根づいていない社会が前提となるため、国家権力に対して自立した「個人」と言うような良いニュアンスの「個人主義」(individualism)ではなく、むしろ「利己主義」(egotism)に当たる、悪いニュアンスで用いていると言えます。
老舎は、資本主義社会全体を厳しく批判するとともに、祥子の転落人生を通して、利己主義の働き方・生き方の悲惨な末路についても、読者に警告を与えているのです。

このような老舎のメッセージを考えると、『駱駝祥子』という作品は、プロレタリア文学の一種と言えるかもしれません。
貧困を題材とした文学作品と言えば、マクシム・ゴーリキーの戯曲『どん底』(1901年)が非常に有名です。
『どん底』は、帝政ロシア時代末期を舞台に、ルンペンプロレタリアートたちを描いた群像劇であり、そのテーマやモチーフにおいて、『駱駝祥子』との共通性が感じられます。
群像劇である『どん底』の登場人物の中から、誰か一人をクローズアップし、深く掘り下げて描けば、『駱駝祥子』になると言えるでしょう。
日本では黒澤明監督が、この『どん底』を原作に、日本の江戸時代に舞台を置き換え、1957年(昭和32年)に映画化しています。


老舎の見た当時の労働運動、革命家たち:『蟹工船』と比較して


蟹工船・党生活者 (新潮文庫)
発売元: 新潮社
発売日: 1953/06/30

日本のプロレタリア文学と言えば、小林多喜二の『蟹工船』(1929年)や、徳永直の『太陽のない街』(1929年)が思い浮かびます。
『蟹工船』や『太陽のない街』と、『駱駝祥子』とは、下層労働者の悲哀を描いている点は共通していますが、労働運動についての表現には、大きな違いがあります。

『駱駝祥子』の後半では、祥子がデモに参加し、旗を振る場面がたしかに描かれていますが、それは彼が人権意識に目覚めたからではありません。
祥子が本気で労働者の権利に目覚め、車引き仲間たちと一致団結して、車宿の主人・劉(ラウ)親方に反抗し、待遇改善や賃料の値下げを要求する、という筋書きにはならないのです。
祥子がデモに参加するようになるのは、人生をあきらめ、「考えることをやめて」からであり、「車を引くよりたやすく金になる道」だからです。
冠婚葬祭の行列について歩くことと同じ目的意識で、彼がデモや請願について歩き、喜んで旗を振った様子が描かれています。

からだはすっかり鈍ってしまい、耳ばかりするどくなって、うまい話を聞きこむとなにをおいても駆けつけるようになった。デモであれ請願であれ、金になることならなんでもやった。二十銭でもよし三十銭でもよし、彼は一日じゅうでも喜んで旗を振り、人々の尻にくっついて歩いた。なんといっても車を引くよりましじゃないか、たいした金にはならなくても、だいいちからだが楽だ。彼はそんなふうに思っていた。旗を振って歩きながらも、彼は下をむき、陰気な顔でタバコをくわえて、黙りこくっていた。どうしてもスローガンを叫ばなければならないときには、口をパクパクやってみせるだけで、ぜったいに声はださなかった。喉を使ってはもったいないと思ったからだ。これまでさんざん汗を流して働いたあげくがなんにもならなかった経験から、彼は疲れるようなことはいっさいやらないことにしていたのである。デモの最中でも、ちょっとでも危ないと見ると、まっさきに逃げた。それもものすごいスピードで。(376-377頁)

このような、労働運動に対する祥子の態度は、『蟹工船』で描かれた労働者たちの様子とは、全く異なっています。
ソビエト領カムチャツカの領海に侵入して蟹を取り、これを加工して缶詰にするための蟹工船で働く季節労働者たちは、すべての人間的権利を剥奪され、奴隷的労働を強いられます。
言語を絶する虐待にたえかねて、労働者たちは自然発生的に団結し、ストライキに発展します。

「皆さん、私達は今日の来るのを待っていたんです。」-壇には十五、六歳の雑夫が立っていた。「皆さんも知っている、私達の友達がこの工船の中で、どんなに苦しめられ、半殺しにされたか。夜になって薄ッぺらい布団に包まってから、家のことを思い出して、よく私達は泣きました。此処に集っているどの雑夫にも聞いてみて下さい。一晩だって泣かない人はいないのです。そして又一人だって、身体に生キズのないものはいないのです。もう、こんな事が三日も続けば、キット死んでしまう人もいます。-ちょっとでも金のある家ならば、まだ学校に行けて、無邪気に遊んでいれる年頃の私達は、こんなに遠く…(声がかすれる。吃りだす。抑えられたように静かになった。)然し、もういいんです。大丈夫です。大人の人に助けて貰って、私達は憎い憎い、彼奴等に仕返ししてやることが出来るのです…。」
それは嵐のような拍手を惹き起した。手を夢中にたたきながら、目尻を太い指先きで、ソッと拭っている中年過ぎた漁夫がいた。
学生や、吃りは、皆の名前をかいた誓約書を廻して、捺印を貰って歩いた。
学生二人、吃り、威張んな、芝浦、火夫三名、水夫三名が、「要求条項」と「誓約書」を持って、船長室に出掛けること、その時には表で示威運動をすることが決った。-陸の場合のように、住所がチリチリバラバラになっていないこと、それに下地が充分にあったことが、スラスラと運ばせた。ウソのようにスラスラ纏った。
「おかしいな、何だって、あの鬼顔出さないんだべ。」
「やっきになって、得意のピストルでも打つかと思ってたどもな。」
三百人は吃りの音頭で、一斉に「ストライキ万歳」を三度叫んだ。学生が「監督の野郎、この声聞いて震えてるだろう!」と笑った。-船長室へ押しかけた。(小林多喜二『蟹工船』、129-130頁、新潮文庫)

このように、『蟹工船』における労働者たちは、自分たちの苦しみを分かち合い、団結を確かめ合うことで、ストライキに向かっていきます。
ストライキによって、労働環境を改善させたいという真剣な気持ち、労働運動に対する熱意が伝わってくるのです。
一方で、『駱駝祥子』の祥子にとっては、デモに参加することは、楽に日銭を稼ぐ手段でしかなく、議論を聞いて、人権意識や社会正義に目覚めることは全く無いのです。
祥子が参加するデモが、誰に何を訴えるデモなのか、全く描かれていないことから、自分が旗を振っているデモに対して、彼が本当に無関心であることが分かります。



『蟹工船』では、暴風雨で打ち上げられた川崎船が、現地のロシア人たち救われた場面が描かれています。
日本人の漁夫たちは、中国人の通訳を通して、ロシア人たちと交流し、「プロレタリア、一番偉い」と言われ、人権意識に目覚めるきっかけとなるのです。

「働かないで、お金儲ける人いる。プロレタリア、いつでも、これ。(首をしめられる格好、)―これ、駄目! プレタリア、貴方々、一人、二人、三人…百人、千人、五万人、十万人、みんな、これ(子供のお手々つないで、の真似をしてみせる。)強くなる。大丈夫。(腕をたたいて、)負けない、誰にも。分る?」
「ん、ん!」
「働かない人、にげる。(一散に逃げる格好。)大丈夫、本当。働く人、プロレタリア、威張る。(堂々と歩いてみせる。)プロレタリア、一番偉い。-プロレタリア居ない。みんな、パン無い。みんな死ぬ。-分かる?」(『蟹工船』、53頁)

日本人の若い漁夫たちは、ロシア人の言葉がいわゆる「恐ろしい赤化」であると気づきましたが、これが「赤化」であるなら、「馬鹿に「当たり前」のこと」であると感じられ、彼らの言葉に引きつけられて行きます。
非人間的な搾取を強いられてきた漁夫たちにとって、自分たちに人間の尊厳があり、資本家よりも自分たち労働者たちの方が尊いのだ、というメッセージは、彼らを心から勇気づけ、希望を与えたのだと思います。


『駱駝祥子』では、大学で教える曹(ツァオ)先生と、曹先生の教え子である阮明(ルアミン)が登場しますが、両者とも、祥子に権利意識を目覚めさせるような役割は演じません。
曹先生は穏健な社会主義者であり、阮明はより過激な思想に傾倒していましたが、阮明が曹先生と懇意にしていたのは、試験の成績がどんなにひどかろうと、合格点をつけてもらおうとの下心があったからでした。
しかし、曹先生が阮明に及第点をやらなかったため、阮明は曹先生を恨み、曹先生が若者たちに過激思想を宣伝している革命指導者であると、国民党の機関に告発します。
この密告によって、曹先生は警察に追われることになり、お抱え車夫であった祥子が逮捕され、理不尽に貯金を奪われることになるのです。

曹先生は、自分の「伝統美術愛好癖」と「社会主義思想の不徹底さ」(189頁)を自覚しており、いわば<悔悟する貴族>のような人物であったと考えられます。
そのため曹先生は、同じ知識階級の仲間うちで革命事業について議論することに満足し、実際の労働者たちに語りかけ、啓蒙し、団結してたたかう手助けをすることなど、全く無かったと言えます。

曹先生を密告した阮明は、役人となり、派手な洋服を着て、芸者買いをし、ばくちに手を出し、アヘンをたしなむようになります。
彼は「高尚な理想を振り棄てて」、「彼が以前打倒すべしとしていたさまざまなこと」(387頁)を満喫したのです。
そのような生活で遊興費が足りなくなり、阮明は「過激思想を利用して金儲け」(388頁)をしようと考えます。
阮明は、学生時代に教師とのコネを利用して及第点をせしめようとしたものと全く同じように、革命宣伝の機関に志願し、運動資金を貰いました。
運動資金をただ取りするわけにはいかないため、阮明は人力車夫を組織する工作に加わります。
阮明が工作した人力車夫たちのデモこそ、祥子が楽に日銭を稼ぐために参加し、スローガンを叫ぶふりをしながら、旗を振って歩いたデモであると考えられます。

阮明は金のために思想を売り、祥子は金のために思想を受け入れた。阮明は、いざというときには祥子を身代りに出せばよいと胸算用していた。祥子は別にそんなことを考えてはいなかったが、必要が起こったときに同じようにした。阮明を売ったのである。金のために働く者は、さらに多額の金の前には弱い。忠誠は金銭の前では成り立たない。阮明は自分の思想を信じ、思想が過激であることでもって自分のすべての低劣な行為を見逃すことができると思っていた。祥子は阮明の議論を聞いて、まったくその通りだと思う一方で、阮明の豊かな暮らしぶりを見て、「おれだって金さえあれば、この阮と同じように、楽しい思いができるのに」と心から羨ましく思った。金は阮明の人格を低下させ、金は祥子の眼をくらませた。(『駱駝祥子』、388-389頁)

このようにして、かつて曹先生を密告した阮明は、今度は自分自身が祥子によって密告され、銃殺刑となったのでした。
役人として贅沢で放漫な暮らしぶりが描かれている阮明は、英雄的な革命家だったとは言えないでしょう。
老舎は、阮明は「金のために思想を売り」、祥子は「金のために思想を受け入れた」と、労働運動の指導者・参加者どちらも痛烈に批判しています。
祥子は、「考えることをやめて」しまった生き方によって、生活がますます悪化し、浮浪者同然の生活に至ります。
老舎が「個人主義のなれのはて」と語ったように、祥子の「利己主義」の生き方は、自分自信を無自覚のうちに「底なしの穴」へ落したと言えます。

老舎は、資本主義社会を「堕落した、不幸な、病める社会」であると批判しながらも、当時の労働運動に対して決して礼賛せず、運動の指導者たちの腐敗や欺瞞、労働者たちの無自覚さを見抜いていたことが分かります。
『駱駝祥子』は、最後まで<目覚めなかった>労働者・祥子と、堕落した革命家・阮明、穏健な社会主義者・曹先生を描くことで、逆説的ですが、労働者自身が本当に人権意識や社会正義に目覚めることがいかに重要であり、難しいことであるか、伝わってきます。
そして、労働者が一致団結して、自分たちの立場や権利を守る組織が必要であること、極貧ゆえに娼婦となり、自死した小福子のような女性を救うためにも、セーフティーネットが必要だということが、伝わってくるのです。



初読了日:2013年11月30日