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2009/10/01

トマス・ハーディ「テス」

テス 上 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1960/10/5

ハーディ(Tomas Hardy,1840-1928)の『テス』(Tess of the D’Urbervilles,1891)を読了しました。
『テス』は、美貌と豊満な肉体にめぐまれ、清純な心と強い感受性を持ったテスが、貧困ゆえにつぎつぎと苛酷な運命に弄ばれ、短い生涯を終える悲劇です。
なぜ彼女はこのような悲劇的人生を送らなければならなかったのでしょうか?
テスの生涯を通して、個人の自由意志と運命について考えてみました。

1.『テス』における「運命」とは何か?


テスがアレクのために純潔を汚された後、語り手はテスに同情し、彼女の運命の不合理さに憤ります。同時に、なぜそのような悲劇が起こったのかと問い、

あの片田舎に住むテスの村の人たちが、宿命論的にお互いのあいだで飽きもせず言っているように、「そうなるようになっていた」のだ。ここにこの事件の哀れさがあった。
(ハーディ『テス』 井上宗次・石田英二訳、第1編 第11章)

として、当然なるべくしてなった悲劇と結論づけます。
そしてこの事件を契機に、テスは悲劇の道をまるで追われるかのように突き進むのです。

しかしわたしは、この「宿命」あるいは「運命」と呼ばれるものを生み出しているのは、実際にはいわゆる「神」ではないと思います。
それは、「測り知れぬほど深い社会の裂け目」(1-11)、すなわち彼女を取り巻く社会環境です。
家庭の貧困こそが、この悲劇の根本なのです。悲劇の第一歩を踏み出す契機をつくった女中奉公に行かねばならなかったのは、家庭の貧しさゆえであり、夫に捨てられた後、フリントコム・アッシュの荒涼たる農場で苛酷な労働に従事しなければならないのも、この貧困のためです。
また、父の急死によって家を追い出された家族を救うためにアレクに身を任さなければならないのも、経済的困窮によるものなのです。


経済的困窮に加えて、テスの悲劇をつくりだした社会環境の第二の大きな要因として、男性の存在があります。
それは、アレクとエンジェルの対照的な二人の人物像として描かれています。
アレクは肉欲的で唯物主義的性格であり、エンジェルは教養もあり進歩的思想をいただいた、理想主義・精神主義的性格です。テスに向けられた二人の愛は、どちらもその悲劇を加速させるだけでした。

彼らどちらも、テスの中に"自然"を連想しています。
アレクにとってテスは「野獣」そのものであり、征服の対象であるウィルダネスでしかありませんでした。

一方、エンジェルにどうでしょうか。
彼は、テスを「自然の娘」と見ることで、彼女を理想化しました。
エンジェルは知性と教養といった表面の下に、強い因襲と硬直した道徳的偏見を保持していました。
すなわち、彼は無意識のうちに、日ごろ軽蔑していたヴィクトリア朝道徳にとらわれていたのです。
エンジェルが選んだ農業や農場での生活は、生まれ育った彼の基盤である厳格な福音主義や、近代的な都市での生活への反発として向かったユートピアにすぎませんでした。
彼はテス一家が辿る貧窮の生活も、農村社会の崩壊状態も知りません。
このようなエンジェルの牧歌的な自然観は、上記のテスへの理解の質に現れています。
エンジェルがテスに残酷な心変わりをすることは、彼自身の限界ゆえの必然であったと言えるでしょう。



2.「運命」に個人の自由意志は対抗しうるか


エンジェルの精神世界の限界性を鑑みると、反逆と自由のために農場経営に夢を燃やす彼の自由意志は、「運命」すなわち社会環境には対抗できないということを示しています。
テスの告白を聞いて、エンジェルの描いていた牧歌的世界と「清純な乙女」の夢は瓦解しました。
彼の精神世界は、両親のヴィクトリア朝的中産階級の、清教徒的な道徳から抜け切れていないのです。

エンジェルの因襲性とは対照的に、テスは近代的自我の持ち主ではないでしょうか。
彼女は性に対して、いわゆる「新しい女性」のように解放された考え方をする訳ではありません。
一方では処女性に自らこだわりながら、他方では自らの精神の潔白と品位とを守り抜くことで、自らの誇りを回復する女性だと言えます。
このアンビヴァレントな考え方に、20世紀のヒロインの原型を見ることができます。

テスは、単に置かれた社会環境に屈服し、敗北することなく、彼女の回復力、適応性、独立心ゆえに、自らの肉体を支配する男からわが身を解き放ち、尊厳と勇気とを持って厳しい現実に決然として立ち向かいました。
そして精神的な意味で、ようやく安住の地を見出し、ほんのひとときの幸福を得たテスは、自らの意思で、自らの犯した罪を償うために刑死を選ぶのです。

「そうなるのが当然ですわ」と、彼女はつぶやいた。「エンジェル、あたし、うれしいくらいなの―ええ、うれしいんですわ! このしあわせは、長つづきするはずがなかったんですもの。あまりしあわせすぎました。もう十分です。これで、もう、あなたに軽蔑されるために生きなくってすむんです!」
彼女は立ちあがると、身をゆすって塵をはらい、前に進みでた。男たちは、だれ一人として動かなかった。
「どうぞ」と、彼女は静かに言った。(第7編第58章)

これは、自らの「運命」に果敢に立ち向かった彼女の自由意志が、最後には勝利をおさめたとは言えないでしょうか。


3.おわりに


まとめとして、テスの悲劇をうみだした「運命」は社会環境であると思います。
その根本にあるのは、小農民ゆえの貧困であり、文明として表象される男性によって自然として見なされる、女性であることです。
ヴィクトリア朝時代において、自然は文明の征服、支配の対象であり、自然の表象である女性も同様でした。
ロレンスは、「女であり、生命であるテスは、共同体社会の法律の名の下に、機械的運命に滅ぼされるのだ」と表現しています。
すなわち『テス』は、ハーディによる近代文明批判であるとも言えます。

さらに、このような「運命」に敗北するか否かは、個人の自由意志にかかっています。
エンジェルは彼の知性と教養によって文明生活に反発し、農村への回帰を図りましたが、これは彼の精神世界の限界性を意味しています。
都市での生活を否定して農村を選んだ彼にとって、そこは必然的に理想化され、現実の厳しさに対して無理解のままだからです。

エンジェルという人物像は、ヴィクトリア朝中産階級出身者が自らの身分を批判し、そこから脱却を試みようとした場合の典型的な例であり、その牧歌的な観念と現実認識の甘さに対する、ハーディの強烈な批判が込められているのです。
そのようなハーディが示した新しい人間像、すなわち「運命」に対抗しうる近代的自我が、テスその人なのだと思います。



読了日:2007年2月4日

2009/05/09

ディケンズ「オリバー・ツイスト」

オリバー・ツイスト〈上〉 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 2005/12/14

ディケンズの『オリバー・ツイスト』(中村能三訳、新潮社)を読了しました。
主人公オリバーがひたすら不幸になる鬱展開で、それが(読者の同情を引き、劣悪な制度に対する怒りを誘うための)作者の狙いだとは分かっているのですけれど、やっぱり読んでいて辛くなりました。もちろんディケンズですから、結末は読者の期待どおり、典型的なメロドラマ風の大団円に終わります。
彼の作品は、読者に後味のよい泣き笑いを与えてくれる<大衆小説>だと思います。その役割を、ひと昔前のハリウッド映画だったり、連続テレビドラマだったりが担っていたような気がします。あるいは、テレビアニメや漫画が。

◇◇◇

オリバーの人物描写に関して、あまりに平面的で現実味を欠いているといった批判がしばしば見られます。Allan Grantは、「オリバーには個性も子供らしい性質もなく、作品内容の伝達手段にすぎない」と批判しています。
オリバーが批判にさらされる一方、ナンシーはその人物描写において高く評価されています。Wilkie Collinsは、ナンシーを「ディケンズが描いた最もよい人物」と述べているし、Brian Murrayは、ナンシーをディケンズの初期作品の中では比較的現実的な登場人物であると評価しています。

オリバーの存在が、主人公であるにも関わらず、希薄な印象を受けるのは確かです。
誕生から、養育院、救貧院、サワベリーの店、フェイギンの巣、ブラウンローによる救出が描かれる1章から16章までは、オリバーを中心に展開されます。しかし22章から23章に至る押し込み強盗の場面では、サイクスの脇役的存在となり、28章から36章に至るメイリー家での場面は、ローズやロスバーン、ハリーの方に重点が移ります。さらに、オリバーの出生の秘密を探る過程から、オリバー自身が除外され、37章から50章に至るまで、41章を除くと、オリバーは全く登場しません。
つまり、物語の進展とともに、オリバーの登場する場面が減っていくという作品構成になっているのです。

『オリバー・ツイスト』が、主人公オリバーの成長物語ではないことと、オリバーの人物描写が現実離れしていることは、結びついていると思います。
ディケンズは、1841年の序文でオリバーに対して "the principle of Good" という表現をしています。つまりオリバーは、「善の原理」を体現する<無垢な少年>として、精神的成長が止められた存在なのだと思います。そのため、彼はひたすら受動的=受苦的存在に甘んじなければいけません。
オリバーが少年期のさまざまな葛藤や苦しみ、喜びを経ながら精神的成長を得れば、その代償として「善の原理」=聖性を喪失するわけですから、作品の構造上不可能ですよね。

オリバーのそれに対して、ナンシーの人物造型が高い評価を得ているのは、彼女がこの作品中で、<成長する>ほとんど唯一のキャラクターだからでしょう。ナンシーは聖性を備えたオリバーと出会うことで、自分の運命と闘います。それは、キリストにおける改心と救済の寓話だと思います。


読了日:上巻 2009年4月27日 / 下巻 2009年5月5日

2008/07/25

コンラッド「闇の奥」

闇の奥 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1958/1/25


コンラッド『闇の奥』(Heart of Darkness,1902)を読了しました。
『闇の奥』は、彼が河蒸気船の船長として、1890年6月12日から12月4日まで、ベルギー領コンゴに滞在した体験に基づいて書かれている、自伝的小説です。
コンラッドが所属していた「奥コンゴ貿易会社」は、奥地開発を名目として、象牙採集で原住民たちを搾取する会社であったことは、作品にある通りです。
彼が初めて目にしたアフリカ奥地の真実は、船乗りコンラッドを殺して、植民地事業の実体を告発する作家としてのコンラッドを生みました。
コンゴ最奥地の密林でマーロウ、すなわち作者コンラッドが見た「闇の奥」(Heart of Darkness)とは何だったのでしょうか?


1.植民地事業という「闇」


マーロウにとって、はじめ「闇の奥」は、文明の光がさしていない、暗黒大陸アフリカの奥地を意味していました。
彼は、そのアフリカ大陸を蛇にたとえます。そして蛇に魅入られた小鳥のように、アフリカ行きを望むのです。

とぐろを解いた大蛇にも似て、頭は深く海に入り、胴体は遠く広大な大陸に曲線を描いて横たわっている。そして尻尾は遥かに奥地の底に姿を消しているのだ。とある商店の飾窓に、その地図を見た瞬間から、ちょうどあの蛇に魅入られた小鳥のように、―そうだ、愚かな小鳥だ、僕の心は完全に魅せられてしまった。
(コンラッド『闇の奥』中野好夫訳、以下同)

しかし、アフリカに到着して、マーロウの抱いていた夢は、急速に悪夢の色を帯びはじめます。

まるで過熱した墓穴を思わせるような、沈黙と土臭のする大気、侵入者を拒もうという大自然の意志のように、危険な渚の涯しなくつづく索漠たる海岸、生きながら死相を湛えた大気の流れ、―それらの到るところで、死と貿易との陽気な舞踏がつづけられているのだった。

そして、マーロウが河口の出張所で目にするものは、原住民を酷使する非能率な白人たちの姿でした。
鉄道敷設の工事をやっているらしいトロッコは、まるで「動物の死骸」のように横たわり、レールは錆びついて放り出されています。
痩せ衰えた6人の黒人が首に鉄の枷をはめられ、よろめきながら歩いています。木陰を歩くと、「病苦と飢餓との黒い影」すなわち瀕死の黒人たちが雑然と転がっています。
森は、彼らの「死を待つところ」だったのです。
マーロウは、「まるで暗澹たる地獄にでも飛び込んだような気がした」と語ります。
マーロウは黒人たちを、単なる搾取の対象と見なしてはいなかったのでしょう。
鉄枷をはめられた黒人たちを目撃して、彼は「この人間どもを、どう考えてみても、敵だとは言えまい。」と感じます。
マーロウは、白人によって、「海岸のあらゆる僻陬から連れて来られ、不健康な環境、慣れない食物に蝕まれ、やがて病に仆れて働けなく」なるまで酷使される黒人の惨状、すなわち植民地化の実体を目の当たりにするのです。

植民地事業の理念とは、商業を活発化し、産業を起こし、進歩をもたらし、蛮族を教化するという大義です。
しかし、果たして本当に白人たちは、そのような文明化の使命に燃えてアフリカへ向かったのでしょうか。
「もちろん金儲けのためさ。どう、いけないかい?」と、マーロウと中央出張所への旅路をともにした白人は、いかにも侮蔑するように答えます。
中央出張所の白人たちは、まるで象牙に向かって祈ってでもいるかのような「破戒無慙の巡礼」であり、「その祈りの中には、あたかもあの死屍から発する腐臭にも似た、愚かな貪婪の臭い」がただよっていました。
マーロウは、あらゆる白人たちが押し込み強盗のように、理想も持たず、貪欲さに支配されていることを知るのです。

このように、植民地事業は、原住民を教化する大儀の下で、実は象牙という物質的利益を得ようとする事業でした。
「闇の奥」という言葉は、前述の通り、アフリカ出発前はマーロウにとってアフリカの奥地を意味していました。
しかしアフリカに到着し、植民地事業の理念と現実との大きな隔たりを目撃した時、「闇」は、植民地事業そのものを意味するようになったと思います。
この言葉は、政治的な広がりを持ちはじめたと言えるでしょう。


2.「闇の奥」-クルツを変貌させた「闇」


マーロウは、病気のクルツを収容するため、河蒸気船に乗って最奥地の出張所へ旅立ちます。すなわち、「闇の入り口」から「闇の奥」への旅を始めるのです。
マーロウは、「地上には植物の氾濫があり、巨木がそれらの王者であった原始の世界へと帰って行く思い」であると語り、奥地へ向かう自分たちを「先史時代の地球、そうだ、まだ未知の遊星という相貌を残していた地球上の放浪者」であると見なしています。
河蒸気船が一歩一歩、深く奥地へ進むにつれて、マーロウの言葉には原始性を暗示させるものがしだいに表れ始めます。
そして、何百万の樹々に囲まれ、「人間の卑小さ」をひしひしと感じるのです。
そうした意識の芽生えはマーロウに、飢えに苛まれながら汗して働く黒人たちと、文明開化の炉火を掲げてやってきた白人たちとが、同じ人間であることを強く認識させます。

彼等は唸り、跳ねり、旋廻し、そして凄まじい形相をする。―だが、僕等のもっとも慄然となるのは―僕らと同様―彼らもまた人間だということ、そして僕自身と、あの狂暴な叫びとの間には、遥かながらもはっきりと血縁があるということを考えた時だった。

「闇の奥」を訪れたマーロウが目撃したのは、文明の使者から原住民たちの神へと変貌した、クルツの姿でした。クルツは、彼自身が「蛮習抑制国際協会」のための報告書に記しているように、

僕等白人が、現在到達している文明の高さから考えて、「彼等(蛮人)の眼に超自然的存在として映るのはやむをえない、―吾々はあたかも神の如き力をもって彼等に接するのである」(同上)

文明の力によって湖沼地帯の原住民部族を打ち従え、彼等に崇められる支配者となったのです。本来のクルツは、「非常に非凡な人物」でした。
彼は、文明社会のあらゆる美徳を身につけており、文明化の理想に燃えて、コンゴ奥地の貿易支部を熱心に志願したのでした。なぜ教養ある文明人である彼が、原住民を支配する神、すなわち象牙略奪の悪魔として、その地方一体を荒らしまわったのでしょうか。
わたしは、クルツが全身を浸していた西欧文化こそが、彼の変貌の根底にあると考えます。
原住民たちを支配し、神として野蛮の権化と化したクルツは、それを可能にする原住民たちへの憎悪と、常に同居していたと言えます。
前述の報告書の最後に付け加えた、「よろしく彼等野獣を根絶せよ!」という言葉から明らかです。
これは、決して彼の性格に起因するものではありません。
彼が受けてきた教育の成果なのです。
西欧の文明化をもたらした啓蒙思想は、理性と教養ある市民のみを人間とみなすものと言えます。
それゆえ、人間の枠に入れられることがなかった二級市民としての貧困層や女性、そして何より植民地の原住民たちへの搾取を正当化しました。
わたしは、こうした差別の思想がクルツの原住民に対する憎悪を増長させ、彼の支配と抑圧を思想的に正当化したと思います。

すなわち、クルツが象牙への際限のない欲望に身を委ね、自分に逆らった原住民たちの首を柱の先にのせて並べる悪魔と化したのは、人間を人間と見なさない差別の思想が根本にあったと言えるのではないでしょうか。
植民地事業が「闇の入り口」であるとするならば、闇の奥へ深く入っていったマーロウが発見した「闇の奥」は、文明化の思想の根底にある、深刻な差別意識だったと言えるでしょう。


3.おわりに


クルツと同じ旅路を辿ったマーロウは、しだいに黒人たちを支配の対象としてではなく、同じ人間として親近感すら抱くようになります。
彼は、クルツのような多くの白人にとっては「サハラ砂漠の砂一粒ほどの値もない」黒人の舵手の死を悼み、非常な悲しみを感じるのです。

あの彼が傷を負った時、じっと僕の顔を見た底知れぬ親愛に満ちた表情は、―いわば人生至上の瞬間に突如として確認される遥かな肉親の繋がりのように―いまなお僕の記憶にはっきり残っている。

この点において、クルツとマーロウは大きく異なると言えます。
原始の闇に包まれ、孤独と恐怖にさいなまれた二人は、全く異なる人間観を抱くに至りました。理性と教養を兼ね備えたクルツではなく、
根っからの船乗りであるマーロウが、植民地事業に対する疑問や、黒人に対する愛着を、直観的に見出すのです。
これは、きわめて暗示的です。


コンラッドは、『闇の奥』を通して、文明開化を唱えながら物質的利益獲得のためには、原住民を搾取する植民地主義を批判しているだけではありません。
たとえクルツのような、文明社会の理想に対するひたむきな姿勢があったとしても、搾取と抑圧の構造をもたらすことを指摘していると思います。
言い換えれば、文明開化の理念そのものを、告発しているのです。
そして、理性と教養の限界性を告発し、人間性の回復を図る担い手となるのが、「生ける人間」としての労働者であることを、暗示しているのではないでしょうか。




読了日:2007年2月18日

2007/10/13

ディケンズ「大いなる遺産」

大いなる遺産(上) (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 1951/11/1

ディケンズ『大いなる遺産』(Great Expectations,1860-1) を読了しました。
ディケンズ後期の代表作である『大いなる遺産』 は、主人公ピップが語り手となり、生い立ちを回想する一種の「自伝」として構成されています。
そのため、「大遺産相続の見込み」をめぐって、ピップがどのように自己を形成していくかが主要なテーマだと思います。
ピップがどのように「野心」を持ち、なぜ「覚醒」するに至ったのかについて見ていきたいです。


1.ピップの「野心」


ピップの「野心」が芽生える最初のきっかけは、自分自身に対する失望です。
彼は、美しい貴族の娘エステラによって、貧乏人の鍛冶屋の家庭で育った自分の身の上を、恥だと知らされます。
すなわち、エステラによって知恵の実を与えられたために、初めて自らの境遇に対する幻滅と不満が生まれたのです。

自分はつまらない労働者の子供だということ、自分の手がざらざらしていること、自分の靴は厚いどた靴だということ、自分は兵隊をジャックだなんていういやしい癖がついているということ、自分はゆうべ考えたよりかはるかに無知だということ、そして、つまり自分は、下等な、いやらしい生活をしているのだということを、つくづく考えた。(山西英一訳、以下同)

自分自身に対して失望すると同時に、ピップは自分の家や職業に対しても不満を持ち始めます。
「この上もなく高雅な客間」や、「神厳な殿堂の神秘不可思議な正門」は消え失せ、「大人となり、独立独行するための輝かしい道だと信じていた」鍛冶場は、完全に一変して「粗野で下等なもの」にすぎなくなるのです。

この自分と自分の家に対する不満は、冷酷な美少女エステラへの恋心が根底にあると言えます。
ピップの言葉、服装、容姿のすべてを労働者のものと蔑むエステラは、二人の間の近づきがたい距離を強調します。エステラの影響から階級意識が芽生えたピップは、二人の距離を生み出しているのは、階級差であると認識します。
すなわち、ピップは報われない恋を階級差の問題に置き換えて、紳士に成り上がる「上昇の夢」に、魅せられていくのです。これこそが、ピップの「野心」の芽生えであると言えるでしょう。
彼の「野心」は、謎の恩人から莫大な遺産相続の見込みを得て、かねてから不満を抱いていた自分の家や友をあっさりと捨て、ロンドンにおもむかせます。

わが少年時代の単調な友よ、さらば! わが行く手は、ロンドンであり、偉大なるものの世界である! 鍛冶屋の仕事やおまえたちではないのだ!

こうして義兄で親友のジョー・ガージャリを見捨て、ロンドン紳士への道を歩み始めたピップは、「スノッブ」(snob)としての人間像を見出すことができます。
スノッブとは、社会的地位や富を大げさに持ち上げ、社会的に身分の低い親戚縁者を恥ずかしがり、上流階級にへりくだり、外見によって価値判断する気質を持つ人を意味しています。
バーナーズ・インで思いがけなくジョーの訪問を受けた際の、「もし金で彼を遠ざけておくことができたとしたら、わたしはきっと金をだしたことだろう。」というピップの態度は、スノッブとしての特徴を端的にあらわしているでしょう。

これはみんな自分のせいであって、もし自分がジョーに気楽にたいしたら、ジョーは自分にたいしてもっと気楽になれたろうと悟ることができるほど、わたしは分別もなければ、良い感情ももっていなかった。わたしは彼にたいしていらいらし、不きげんだった。こんな気分でいるところへ、彼はわたしの頭上に燃えさかる炭をつみあげたのだった。
「わたしたちはふたりきりですのでね、あんた!」と、ジョーがいいはじめた。
「ジョー」と、わたしは怒りっぽく口をはさんだ。「あんた、どうしてぼくをあんただなんていうんだい?」
ジョーはほんの一瞬間、かすかにとがめるような眼つきでわたしを見た。彼のえり飾りやえりがまったく途方もないものだったにもかかわらず、わたしはその眼つきに一種の威厳を感じた。

ピップにとってジョーは、もはや愛情あふれる父親代わりの鍛冶屋の親方ではなく、話しかけられることも嫌悪する貧しい労働者にすぎなかったのです。


2.ピップの「覚醒」


ピップの人生が生産よりも浪費に向かうことは、前述の通りスノッブであることから予測されます。
ピップが紳士として労働のない生活の中で、意志力の麻痺とともに倦怠感に取り付かれ始め、退廃ムードに深入りしていくのも、当然の成り行きと言えます。

かつて誇りと憧れに胸をふくらませながらはじめてロンドンへとやってきたピップの眼前に、「醜い、いびつな、狭っくるしい、うす汚い」街並みが現れたのは、非常に暗示的です。
また、ピップが幼少期の原体験として持っている罪の意識も、ロンドンに赴くことによってますます意識されています。
ロンドン生活において、何ともいえない苛立ちと歯がゆさに悩まされる日々が続くのも、そのためです。

ピップの大いなる期待は、ことごとく期待はずれに転じ、徐々に失望を味わっていくのです。
そして、10年間も続いた大いなる期待は、マグウィッチ出現によって大いなる幻滅に転じます。
それによって、ミス・ハヴィシャムがピップの恩人でなかったばかりか、「機械の心臓をもった人間の模型」として「都合のいい道具」になっていただけだという真実に気づくのです。

考える力がやっとよみがえったとき、はじめて自分がどんなにみじめであるか、いままで自分がのっていた船が、どんなに粉みじんにくだけさったかということが、はっきりとわかりはじめた。

このようにして、ピップの成功の神話はその虚構性を暴露され、完全に消滅するのです。
この大いなる失望が、彼の精神的「覚醒」への第一歩であると言えます。
当初、ピップはマグウィッチに対して、反感と嫌悪をあらわにします。
しかしこれが、犯罪者に対して誰もが持つ、道徳的嫌悪感の表れでないことは、のちにマグウィッチに対する嫌悪感を克服し、深い愛情と憐憫の気持ちを抱くようになるピップが肯定的に描かれていることから、明らかです。

命がけで自分の信じる善を尽くしたマグウィッチの前で、ピップがその身分を失いながらも、マグウィッチ救済のために献身的な働きに乗り出す瞬間こそ、彼の「覚醒」であると言えるでしょう。
紳士の体面に固執するのではなく、それを乗り越えることによって、彼の受動的な幻想が能動的な現実認識に変わったからです。
マグウィッチの国外逃亡計画の挫折、国による財産の没収、そしてマグウィッチの死。
この間にあらわれてくるピップと、マグウィッチすなわちピップの「第二の父」との間の完全な溶け合いの中に、新たな紳士像の誕生を見出すことができます。


3.おわりに


『大いなる遺産』において最も重要なのは、紳士階級をめぐる大きい社会的な物語でしょう。
サチス荘を中心としたロマンスは、ヴィクトリア朝の人々が共有した階層意識の枠組みと、紳士への夢の上に描かれています。
ピップがつかんだ「大遺産相続の見込み」が、19世紀イギリス社会の夢を象徴していることは、エドガー・ジョンソンが指摘している通りです。

ピップは、エステラが提示した階層の枠組みによって、労働者としての自分の立場を発見し、彼女への恋心を社会的上昇の夢に読みかえて紳士に成り上がっていきます。
しかし、階級的にはロンドン紳士となったピップを、ディケンズはあえてスノッブとして表現し、従来の成功のロマンティシズムに対して、反対の立場をとっています。
そして、マグウィッチによって恩人の正体が明かされ、ピップのロマンスが崩壊することで見えてくるのは、彼のロマンスを支えていた紳士階級をめぐる虚構と、その実体です。

ピップは、この虚構の物語を乗り越えて「覚醒」し、マグウィッチと自分との関係をとらえなおしていく物語の終盤は、ディケンズによる新しい紳士像の提案であると言えます。
すなわち、遺産相続の見込みの上につくられた、虚構と欺瞞に満ちたロンドン紳士ではなく、階級性を超越した精神的な意味での紳士像です。
まとめとして言い換えれば、『大いなる遺産』は、ピップの遍歴によって、ディケンズが価値の再編成を提示した物語であると言えるのです。




読了日:2007年1月11日

2007/07/29

ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」

ダロウェイ夫人 (角川文庫)
  • 発売元: 角川書店
  • 発売日: 2003/04

はじめに


ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」を読了しました。
『ダロウェイ夫人』は、それまでウルフが実験的に試みてきた「意識の流れ」(stream of consciousness)の新手法を、みごとに使いこなした作品です。
ダロウェイ夫人の内的独白から始まり、彼女をとり巻く複数の登場人物たちの間で、その流れるような意識の主体となる「語り手」はリレーされていきます。そうして、とぎれとぎれの行動と心理が連鎖して、とりとめもない一日は過ぎていくのです。『ダロウェイ夫人』は、6月のロンドンの日常を映し出した群像劇です。

このたゆたうような「意識の流れ」のリレーの中で、劇的な「筋立て」を与えられている人物がいます。
セプティマス・ウォレン・スミスとその妻、ルクレチアです。
戦争の後遺症から精神錯乱に陥ったセプティマスと、夫の変貌に困惑し悩みながらも、必死に彼を支えるルクレチア。彼らにとって、この一日は再び繰り返すことのない、永遠に記憶される一日でしょう。
セプティマスが、窓から身を投げて自殺をしたのです。
なぜ、彼は自殺しなければならなかったのでしょうか。
セプティマスとルクレチアに注目し、発狂するセプティマスについて考えてみたいと思います。


1.発狂するセプティマス


セプティマス・ウォレン・スミスは、その登場から発狂する"ちっぽけな人間"としての表象を与えられています。

顔が蒼白く、鼻がとんがり、褐色の靴とみすぼらしい外套をつけ、榛色の眼をしているが、その眼は、あの見ず知らずの他人にまで不安をいだかせるような不安の色をたたえている。(富田彬訳、以下同)

セプティマスは、「自分自身に話しかけ、死人に話しかけ」ます。常に罪の意識に苛まれ、恐怖に眼を瞠っています。
一方、若い妻のルクレチアは、夫の変貌を敏感に察知し、夫が自殺を口にすることに恐れおののきます。しかし、イタリア人である彼女に話し相手はおらず、「人々」に夫の変化を悟られないように振舞うのに必死です。実の母親にでさえ、不安を打ち明けることができません。ルクレチアは、「もう誰にも話せない」と語ります。それゆえ、彼女の悩みと苦しみは、どんどんふりつもっていくのです。

わたしがレースの襟をかける。新しい帽子をかぶる。それでもあのひとは気づかない。わたしなんかいなくても、あのひとは幸せでいられるんだわ。わたしは、あのひとなしでは、どうしたって幸せにはなれない!

戦争から帰ってきたセプティマスは、ルクレチアにとって「もうセプティマスじゃない」のです。


ですが、作中で暗示されているように、彼は第一次大戦従軍中の「砲弾炸裂などによる精神障害(shell shock)が遅れて出てきた症例」の一つでした。ここにおけるルクレチアの不幸は、セプティマスを正しく診断できる精神科医がいなかったことでしょう。彼女は、「ホームズ先生はなんでもないと言っている」と町医者の誤診を信じてきっているのです。
セプティマスにとっても、ルクレチアの理解を得られないことは不幸でした。彼にとって、自身の精神は正常だったのですから。彼は、自らをキリストの再来と信じて、新しい宗教を模索していたのです。

ルクレチアの「心の闇」。すなわち、セプティマスに対する不信は、結婚指輪をはずすに至って決定的になります。指輪がするりとはずれるほど、生活苦により彼女の指は細くなっていました。それは、夫婦の絆の弱まりをも意味していると言えます。指輪をはずした妻に、セプティマスは、「二人の結婚はおしまいだ」と感じます。
このとき、二人の長い一日のうち、半日が過ぎようとしていました。


2.セプティマスはなぜ自殺したのか


12時きっかりに、夫婦は有名な老医師ウィリアム・ブラッドショー卿を訪ねます。ルクレチアは夫を治してくれるよう、なかば最後の望みをかけて。

ブラッドショー卿は、セプティマスを目にした瞬間に症状を見抜きました。ブラッドショー卿は、ただちにセプティマスに対して転地療養を命じ、ルクレチアに彼と離れるよう諭します。「万事私にまかせておきなさい」と言うブラッドショー卿に、激しく失望する、ルクレチア。

こんな、こんな、苦しい思いをしたことは、レチアは生まれてはじめてだった! 彼女は助けを求めたのに、みはなされたのだ! あのひとはわたしたちを見すてた! ウィリアム・ブラッドショー卿は親切なひとじゃない。

ブラッドショー卿は、礼儀正しい偉大な医者でしたが、本質的にはホームズと同様、差別的な人間でした。ルクレチアが直観的に見抜いたのは、彼の本姓であったと言えるでしょう。

狂人どもを隔離し、彼らが子を生むことを禁じ、彼らが絶望するのは罪悪であると宣告し、適当ならざる人間が自分の意見など発表すべきではない、

すなわち彼の実際の目的は、社会の秩序を乱すものを排除することにあったのです。

夕刻。家へ帰って内職の帽子を縫っているルクレチアを見て、セプティマスは「なんにもおそれることなんかありやしない」と気づきます。「奇跡も、啓示も、苦痛も、孤独も」必要ないことを悟ります。そしてはじめて、彼は「あたりまえの口」で妻に話しかけることができたのです。
それによってルクレチアは、「このひとは、今われにかえったんだわ。今笑ったんだわ」と幸福に打ち震え、再びセプティマスへの愛に目覚めます。彼女は、ホームズの誤診からの夫への不信を克服し、
"正しい診断"をしたブラッドショー卿をも、乗り越えるのです。

たといあのひとたちがあなたを連れて行くとしても、と彼女は言った。わたしあなたといっしょに行くわ。あのひとたちは、わたしたちがいやなら、わたしたちを引きはなすことなんかできないわ、と彼女は言った。

二人が夫婦の絆を回復し、はじめて互いに理解しあったと言えるでしょう。


夜、ホームズが訪れます。彼とブラッドショー卿は、どちらもセプティマスが「人間性」と呼んで嫌悪しています。それは、冷酷に彼を排除する、既成の社会秩序そのものを象徴しているからだと思います。ホームズが戸を開けた瞬間。
セプティマスは「これでも、食らえ!」と勢いよく力いっぱいに、窓から飛び降りたのです。そうして、夫婦の二度と来ない一日は終わりました。



彼の自殺は、ホームズらが判断したように、精神錯乱による「咄嗟の衝動」ではありません。その時彼は、目覚めていたのですから。「死ぬのはいやだ。人生はいい」と。決して社会への絶望など、していませんでした。

それではなぜ、セプティマスは窓から身を投げたのでしょうか。

それは、「これでも、食らえ!」という言葉が示しているように、セプティマスのような人間を排除する社会秩序に対する"異議申し立て"だったのではないでしょうか。彼は命を投げ捨てて彼らを抑圧する館力に対して抵抗を試みたのです。

ウォレン・スミス夫妻を中心に、『ダロウェイ夫人』を見てきましたが、これらの出来事は、すべてたった一日に起こったことです。刻々と変化する心理を描き出し、一日小説という枠組みを実に見事に使いこなしています。
この一日には、二人の人生そのものが凝縮されていると言っても、過言ではないかもしれません。


セプティマスの不幸は、彼を正しく理解することができなかった社会。あるいは正しく判断していながらも受け入れなかった社会の責任です。セプティマスに不信を持ち、反発しながらも最後には理解して受け入れるルクレチアは、オルタナティブな社会の姿を暗示していると思います。
ウルフは、スミス夫妻を通して、他者排除的な既存の社会を批判し、マイノリティに対する寛容性を訴えているのではないでしょうか。



3.クラリッサ・ダロウェイから見た<セプティマスの死>


セプティマスの死を、主人公クラリッサ・ダロウェイの視点からアプローチしたいと思います。
クラリッサ・ダロウェイは、政治家夫人。「あだっぽい女」と表現される、美しい女性として登場します。

五十の坂をこして、病気をしてからはめっきり頭の白さがめだってきたようなものの、まだまだ鳥のような、青味をおびた緑色の軽快で活発な懸巣のようなところがある

今夜、自邸で「総理大臣もくる」重要なパーティを予定しているクラリッサ。彼女は、「十八世紀以前の家柄の出」であり、

今やクラリッサは、白髪まじりの髪もいかめしく、得々と歩を遊び、光彩をはなちながら、首相閣下につき添って部屋を通った。耳輪をつけ、銀縁の人魚の衣服かと思われるドレスを着て。

ダロウェイ夫妻のパーティに、少し遅れてブラッドショー夫妻が到着します。セプティマスを初めて"正しく診断"したウィリアム・ブラッドショー卿とその夫人です。
ウィリアム卿とクラリッサの夫リチャードは、ウィリアム卿が議会を通過させたがっている法案について話しています。二人を見ながら、想像をふくらませるクラリッサ。

ある患者のことに、ウィリアム卿は声をひそめてふれている。その患者のことは、砲弾炸裂による震盪の遅発影響について彼の話していることに関係があるんだわ。この法案へある規定条項をいれなければならないので。

すると、ブラッドショー令夫人がクラリッサにささやきます。

「ちょうど出がけに、主人に電話がかかりましたの、とてもいたましい事件なんです。若い男が(主人のウィリアム卿がダロウェイ氏に話しているのはこのことなんです)自殺したんです。戦争に行ったひとです」

この「若い男」こそ、セプティマス・ウォレン・スミスその人でしょう。クラリッサの意識のなかに、泉のようにあふれだす想念。セプティマスの自殺の話を聞いて彼女は、その死を追体験します。

窓から飛びおりたんだって。上に、地面に突きあがった。彼の体へ、つまづき進み、傷痕を負わせながら、錆びた釘がつきささる。そこに彼は横たわる。脳天がズキン、ズキン、ズキン、と脈打ち、それから息もとまりそうな闇黒が押し寄せてきて。こんなふうに彼女はその死を眼のあたりに見た。

セプティマスに「とっても似ているような気がする」クラリッサ。彼女は、かつて「今死んだら、これ以上の幸せはなかろう」と、自分に言い聞かせていたことを、思い出します。

大切な一つのものがある。わたし自身の生活では、おしゃべりの花環で飾り立てられ、よごされ、曖昧なものにされてしまい、毎日腐敗と嘘とおしゃべりとなって、滴りおとされる一つのものが。この大切なものを彼は保存していたのだ。死は挑戦なのだ。死は中心部に通じようとする企てなのだ。人々は、中心部に達することが不可能だと感じている。それは神秘的に彼らを避けるのだ。近さは遠くなり、有頂天は消え失せて、ひとはひとりぽっちになる。死の中にこそ抱擁があるのだ。

クラリッサにとって、「挑戦」であり、「大切なもの」を保存することであり、その中にこそ「抱擁」がある「死」に、セプティマスは到達したのです。


クラリッサは、昔サーペンタイン池に銀貨を一枚投げたことがありました。しかし、自分の体は投げ込みませんでした。銀貨は、彼女の代わりに池へ身を投げたと言えます。
セプティマスの自殺は、クラリッサにとって、かつて彼女が池に投げこんだ銀貨と同じ役目を果たしたと言えるでしょう。
すなわち、身がわりの「死」です。

作者ヴァージニア・ウルフが。『ダロウェイ夫人』の「序文」でもらすように、セプティマスは、クラリッサの「分身」として描かれていると言えるでしょう。

のちにはダロウェイ夫人の分身にもち出したセプティマスは、最初の草稿では存在しなかったということ、それからもう一つは、初めはダロウェイ夫人が自殺をするか、おそらくパーティのあとで死ぬかするようになっていたということ。(「モダン・ライブラリ版への序文」)

議員の夫をもちパーティを取り仕切るクラリッサは非常に裕福でしたが、けっして「幸福」ではありませんでした。
クラリッサは、セプティマス同様に「人生は堪え難い」と感じ、セプティマスが嫌悪した卑俗な「人間性」すなわち、ウィリアム・ブラッドショー卿のような「やつらが、人生を堪え難くする」と感じています。
彼女の心の奥には、常に「おそろしい恐怖」と「圧倒的な無力感」があるのです。

もしあそこにリチャードが「タイムズ紙」を読んでいてくれなかったとしたら、わたしは滅び去っていたにちがいない。わたしはのがれた。だけど、その若い男は自殺した。

同じ「生き難さ」の中に身をおきながら、セプティマスは「自殺」を選び、クラリッサは「生きる」ことを選びました。彼女は、「大切なもの」を守りたいと思いながらも、「ベックスバラー夫人などのような一人になりたい」と「出世」を望んだのです。
それは、クラリッサにとって果たして"正しい選択"だったのでしょうか。

それは、わたしにあたえられる災難―わたしに加えられる恥辱なんだわ。この深い闇の中で、ここで一人の男が、あそこで一人の女が、沈んで姿を没するのを見ているのは、しかもわたしは夜会服を着てここに立っていなければならないというのは、わたしに科された罰なんだわ。

卑俗の中に、恥辱と刑罰に堪えながら、孤独と不安と対峙して生きること。それが、ウルフの提示したもう一つの道だと思います。クラリッサは、シェイクスピアの「もうおそれるな」という言葉に支えられながら、常に"生の不安"と戦っています。

もうおそれるな烈日を
猛り狂う厳冬も
(シェイクスピア作『シンベリン』第四幕第ニ場に出てくる挽歌から)

『ダロウェイ夫人』の中で、繰り返し語られるこの警句は、クラリッサを「みな」のところにつなぎとめる、ひとつの「呪文」なのでしょう。

そのひとがそれをやりおおせたことがうれしいの、それを投げすてたことが、みなは生きているのに。時計が鳴っている。鉛の輪が空に溶ける、そのひとはわたしにうつくしさを感じさせてくれる、おもしろさを感じさせてくれる。でも、わたしは行かなければなかない。みなといっしょにならなくちゃ。

そうして、「死」の誘惑からもう一度、クラリッサは「生」を選びとるのです。


4.おわりに


ピーター・ウォルシュやサリー・シートンなど、彼らに視点をおいて複雑に絡み合っている意識の糸を、丹念にほぐし、その「生」を追っていけば、わたしたちはまた新たな「物語」に出会うことができるでしょう。

ウルフ自身が「序文」の中で言っているように、本当は「意識の流れ」の手法がどのように使われているかなんて、気にしなくったっていいのです。
それは、ウルフの言葉を使えば、『ダロウェイ夫人』という「観念」が、自分の「住む家」を創り出した「観念の住むべき家」の設計図なのですから。

読者は、どうかこの本の手法の有無など、考えないでください。この本が全体として心にあたえた効果だけを考えるのです。このいちばん大事な問題については、読者は著者よりもはるかにすぐれた裁判官である。実際、自分の意見をつくりあげるだけの時間と自由があれば、読者こそけっきょく誤つことのない裁判官なのである。では、著者は読者に『ダロウェイ夫人』をゆだねて、判決が即刻の死であろうと、あと何年かの命と自由であろうと、どちらの場合も公正であるものとの確信をもって、法廷を去ることにする。(「モダン・ライブラリ版への序文」)




読了日:2007年2月19日