- ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
- 発売元: 白水社
- 価格: ¥ 924
- 発売日: 1984/05
サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳、白水社)を再読しました。
今回、再読してはじめて、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンは、『フラニーとゾーイー』のフラニーへとつながっているのだと気づきました。
ホールデンは、彼が「インチキだ」と告発するあらゆるものから結局は逃れることができず、その抵抗は挫折します。
『ライ麦畑でつかまえて』が、ホールデンが精神病院で医師に語った話という形式になっているのも、それをいっそう際立たせています。
皮肉ですね。
ホールデンが「どっか遠くへ」行って、「唖でつんぼの人間のふり」をして一生をすごそうと願うのと同じように、フラニーは『イエスの祈り』を唱えます。
ホールデンが、「遠くへ行く」ことを思いとどまらせる役割をしているのは、フィービーという子供ですが、フラニーにとってそれはゾーイーという大人が行っています。この変化は、何かすごく意味があるように思えます。
- フィービー=子供→生れながらの純粋さが保たれていて、大人の社会との間で葛藤がない存在。
- ゾーイー=大人→ホールデンやフラニーが経験した葛藤を乗り越え、純粋さを失わずに社会に順応している存在。
フィービーがホールデンと共に遠くへ行こうとするのに対照的に、ゾーイーはフラニーを「インチキ」な現実に引き戻そうと必死になります。
ゾーイーに言わせれば、フラニーの『祈り』の目的は「お人形と聖者とがいっぱいいて、タッパー教授が一人もいない世界」を求めるもので、「きみを両腕に掻き抱いて、きみの義務をすべて解除し、きみの薄汚い憂鬱病とタッパー教授を追い出して二度と戻ってこなくしてくれるような、べとついた、ほれぼれするような、神々しい人物と密会する、居心地のよい、いかにも清浄めかした場所」を設定することです。
それは、「祈りの使い方を誤ってる」ことだと彼は言います。
ゾーイーは、フラニーがその葛藤を乗り越え、"痛々しいまでの純粋さ"を保ったまま、社会に再び戻っていくことを促す役割です。
フラニーは、ゾーイーが話す『太っちょのオバサマ』の喩えによって、彼女が軽蔑していたあらゆるものを、受け入れることができるようになります。
ゾーイーは言います。
「『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ。その中にはタッパー教授も入るんだよ、きみ。それから何十何百っていう彼の兄弟分もそっくり。」
そして、この『太っちょのオバサマ』こそが、「キリストその人にほかならない」のです。
これは、サリンジャーが辿り着いたひとつの"答え"だろうと思います。
読了日:2008年8月4日