2008/11/01

ソルジェニーツィン「風にゆらぐ燈火」

鹿とラーゲリの女
鹿とラーゲリの女
  • 発売元: 河出書房新社
  • 発売日: 1970

ソルジェニーツィン『風にゆらぐ燈火-汝の内なる光-』(1969年)を読みました。
ソルジェニーツィン追悼月間です。

◇◇◇

『風にゆらぐ燈火』は、1960年の"ラーゲリの外"を描いた戯曲です。
"ラーゲリの内"を描いた『鹿とラーゲリの女』とは、対をなす設定と言えます。
主人公アレックスは、刑事犯として10年の刑期のうち9年をつとめあげ、あと1年というところで殺人の真犯人がみつかり、釈放された元徒刑囚です。釈放後5年を経て、叔父のマヴリーキー宅を訪ねる場面から劇がはじまります。

本作では、都市に暮らすソビエト市民の「健康で人生を楽しんでいる」生活が描かれています。
音楽学校の教授である70歳のマヴリーキーは、「月刊食通」を購読し、自ら料理を楽しみ、「食事は人生の快楽」と断言します。
彼の自宅にはガス・レンジ、電気冷蔵庫、レコード棚があり、ステレオからはベートーヴェンのピアノ・コンチェルト二番の歓喜にあふれるロンドが流れています。
19歳の息子ジュームは父親に水上スキーをねだり、40歳の妻チーリヤは315馬力「バーガンディ・スプラッシュ」色のカブリオレ・スーパー88が持ちたくてしょうがありません。
彼女は、国際評論誌「アルゴル」の編集所で働くジャーナリストです。彼女によれば、「国内の方はわが国では万事オーケーだから、書くことがない」ため、「海外諸国の経済上の欠陥、その社会的病患の展望」を扱っており、「平和のために、力の均衡がわたしたちの側にいつも有利になるように闘っている」のです。

マヴリーキー  失われた年月というやつだな!
アレックス    いや、失われたというわけではありません。これはむずかしい問題です。もしかすると、かえって、必要な年月だったかも知れません。
マヴリーキー  どうしてまた「必要」だなんて? するとなんだね、お前の考えでは、人間には投獄は欠かせない、ということになるのかね? 監獄だなんで、こいつあみんな世の中から消え失せちまうがいいんだ!
アレックス    (溜息をつく)いや、そんなに手軽にはいかないのですよ。ぼくは、監獄よ、汝に祝福あれ、ということだってあります。
ソルジェニーツィン『風にゆらぐ燈火』(染谷茂・内村剛介訳、以下同)

このように言うアレックスは、釈放後そのままカレドニアに5年留まり、「九年じゃ足りなかったので、残って考え足し」ていました。一方、アレックスと小、中学校、大学、戦地でも一緒だった三十年来の親友であるフィリップは、同じ罪でラーゲリ生活を送りながらも、アレックスとは正反対の立場をとります。フィリップは、ラーゲリのことを周囲に隠し、「なかったこと」にしました。

アレックス    おれにはわからないな。おれは監獄にいたことを恥と思ってない。たいへんためになったし...
フィリップ    ためになった? よく君はそんなことがいえるな。ここのこの修理工用の大ばさみで、命の一片-やわらかい神経、赤い血、若い肉、をきりとられたようなもんじゃないか。おれたちは石切り場で猫車を押したり、鉱山で銅の粉を吸いこんだりしていたのに、奴らはここの砂浜でぬくぬくと白い肌のからだを伸ばしておれたんだ。アル、逆だよ、とりもどすんだ、モーレツにとりもどすんだ! (拳を振りまわす)人生から二倍でも三倍でもふんだくってやるんだ! それがおれたちの権利というもんだ!

釈放後、フィリップは、アレックスがカレドニアに留まっていた5年の間に学位論文を提出し、大学附属の生物サイバネチックス研究所の創設に奮闘し、研究所所長として実績をあげ、「もりもり上に昇っている」のです。あと二、三か月もすると博士になり、教授になる計算です。マヴリーキー宅の隣にあるフィリップの自宅には、ピアノ、ステレオ、電話のある大きな客間、テレビのある小さな客間があり、休日にはジュームがうらやむ水上スキーを楽しんでいます。

他方アレックスは、都市には「有害なのと無益なのとそれから鼻もちならんほどつまらないのと、あるだけ」であると実感し、「何ももたないから、何も失う心配がない」生活を選ぶのです。

◇◇◇

ラーゲリの"内と外"に対する、この二つの異なった受け取り方は、「苦しみ」をどのように位置づけるかに対応しています。それはすなわち、「幸福」をどのように定義するかということでもあります。
フィリップの研究所に実習生としてアフリカからきているカビンバと、アレックスは次のような対話をします。

カビンバ     ...みんな金持ちで、苦労がない。あの人たちには、ほかの人たちがなんで生きているのかわかることはない! わたしはあの人たちにくっついた自分を憎んでいます! あの人たちをみんな憎んでいます!
アレックス    カビンバ君! そう、ぼくもあの人たちからすっかり遅れてしまった。監獄のせいでね。だからといって、どうする? 彼らを押しのけるか? 彼らの鼻っぱしをなぐりつけるか? カビンバ君! 憎悪、憤懣というやつはなんのたしにもならない。地上で最もむなしい感情なんだ。高みに立って理解しないといけない-君とぼくは幾世紀か何十年かを喪くした、ぼくたちは侮辱され、おとしめられたけど、復讐するというわけにはいかないのだ。それに、その必要もない。いずれにしても、われわれの方が彼らよりも豊かなのだ。
カビンバ      (憤然と)われわれが? 何が豊かなのですか? 何が?
アレックス     非常に苦しんできたことさ、カビンバ君。苦しみは魂の成長の核心だ。満ち足りた者は常に心の貧しき者だ。だからそっとゆっくり築いていこうじゃないか。

「苦しみは魂の成長の核心」であるという確信が、アレックスに「監獄よ、汝に祝福あれ」と言わせるのでしょう。わたしはアレックスの、「人生の充実感は善い原因からも悪い原因からも起こり得る。学者の人生も充実していれば、病気の猫をたくさん治療してやってる孤独な老婆の人生も充実している。」という言葉が、すごく好きです。

◇◇◇

本作の「汝の内なる光」という副題は、新約聖書のルカによる福音書第11章33節~36節からきていると思います。"病気の猫をたくさん治療してやってる孤独な老婆"であるフリスチーナおばさんが、マヴリーキーの死に際してローソクのともし火のなかで、「誰も燈火をともして、穴蔵の中または升の下におく者なし。すべての者の光を見んために、燈台の上に置くなり/この故に汝の内の光、闇にはあらぬか、省みよ」と読み上げる言葉に、本作の副題が織りこまれています。

ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。
ルカによる福音書第11章33節~36節(新共同訳)

表題である「風にゆらぐ燈火」とは、内なるともし火-アレックスの言う「内面的道徳律」-が、「幸福者の船」である「バーガンディ・スプラッシュ」に乗り、水上スキーで遊び、「もりもり上昇」することを求める"風"にゆらぎ、今にもかき消されそうになっている現代の状況を意味しているのだと思います。わたしのなかのともし火は、濁っているでしょうか、明るいでしょうか...。



読了日:2008年9月17日