2019/01/22

老 舎「駱駝祥子―らくだのシアンツ」

駱駝祥子―らくだのシアンツ (岩波文庫)
駱駝祥子―らくだのシアンツ (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1980/12/16


2013年11月30日の読書会で、老 舎の『駱駝祥子―らくだのシアンツ』(岩波文庫、1980年)を読みました。
老 舎(1899年-1966年)は、20世紀の中国文学を代表する作家で、小説『駱駝の祥子』や『四世同堂』、戯曲『茶館』などが知られています。
清王朝時代の北京で生まれ、貧しい少年時代を経て教員となり、ロンドンへ留学、イギリス滞在中に創作活動を始め、帰国後も多くの作品を発表しました。
しかし、1966年に始まった文化大革命で、紅衛兵たちによって「造反派」として迫害され、侮辱や暴行に耐えられず、1966年8月25日に入水自殺したと言われています。
中国の翻訳家である文潔若は、老舎の死を「現代の屈原」であると語っています。(人民中国、2001年8月号より)


※ネタバレ注意※

シアンツの転落人生


老舎が1936年に発表した『駱駝祥子』は、1920年代の北京を舞台に、人力車夫である主人公・祥子(シアンツ)の転落を描いた物語です。
農村出身の素朴な若者である祥子(シアンツ)は、若さと肉体の頑健さだけを頼りに何年も真面目に働きますが、不運な事件の積み重ねで、働いても働いても、生活は貧しく、どんどん不幸になっていきます。
祥子(シアンツ)の不運な人生について、わたしは下の図を作成しました。
図の横軸に時間の流れ、縦軸の上方に「幸運・希望」の出来事、下方に「不運・失望」の出来事を整理しています。


祥子は、非常に過酷な肉体労働である「車引き」の仕事を天職だと考えており、自分の車を持つことを目標に、賃貸しの車を引き、少しずつ貯金します。
食事代を切りつめ、精一杯努力をして、やっと自分の車を買った直後、敗残兵たちに自分の車を奪われました。
兵隊たちの元から、祥子が駱駝(らくだ)を連れて逃げたことで、彼は「駱駝」というあだ名で呼ばれることになり、表題の「駱駝祥子」(ロートシアンツ)となります。
祥子は、再び車宿の賃貸しの車引きにもどり、自分の車を持つため、死ぬような思いで貯金をします。
その後、曹(ツァオ)先生に雇われ、屋敷に住み込みのお抱え車夫となり、良い待遇の中で順調に生活をします。
しかし、曹先生が「アカ」であると密告されたことで、もともと何の関係も無い祥子が孫(スン)刑事に捕まり、血のにじむような努力で蓄えた祥子の貯金玉は、孫刑事に奪われるのです。

このように、祥子が「自分の車を持つ」という希望を持って努力し、良い縁に恵まれると、その直後に必ず、何らかの不運な事件に遭遇し、希望が無残に打ち砕かれます。
彼は失望し、落ち込みますが、なんとか立ち直って、また自分の車を買うという希望に向かって努力し始めます。
この<希望から失望>というパターンが、祥子の人生において何度も繰り返されていくことが、上の図を見るとよく分かるでしょう。

祥子は、車宿の主人・劉(ラウ)親方の娘である虎妞(フーニウ)に誘惑され、関係を持ちます。
祥子は虎妞に愛情を持っていませんでしたが、妊娠したという虎妞の嘘に騙され、彼女と結婚することになります。
虎妞は、愛する祥子と結婚し、車宿の跡継ぎにと考えていましたが、劉親方は娘の結婚を認めず、虎妞と祥子は車宿から追い出されるのです。
その後、本当に妊娠した虎妞は、難産のためお腹の子とともに亡くなります。

虎妞との結婚後、同じ長屋の住人である二強子(アルチアンツ)の娘・小福子(シアオフーツ)と出会い、祥子は想いを寄せていきます。
虎妞の治療や祈祷、葬儀のために、結婚後に買った自分の車も売り、貯金を使い果たした祥子は、また再び賃貸しの車引きとして、車宿に戻ることになります。
小福子も祥子に想いを寄せていましたが、祥子は「待っていてくれよ。目鼻がついたら迎えにくるかな。きっと」(323頁)と言って、長屋を出ていきました。

賃貸しの車引きに戻った祥子は、かつて奉公していた曹先生と再会し、お抱え車夫として再就職する誘いを受けます。
曹先生は、祥子と小福子の事情に同情し、二人が結婚して一緒に曹家の屋敷に住み込み、祥子は車夫、小福子は使用人として働くという「夢のような話」(357頁)を提案します。
この時こそ祥子は、小福子との再婚を決意し、ついに小福子を迎えに行きました。
しかし、祥子が長屋に迎えに行った時、彼女は長屋を出され、淫売窟に売られており、すでに自殺していたことが分かったのです。

<希望から失望>を繰り返してきた祥子が、本当に恋心を抱いた女性と結ばれ、今度こそ自分の人生をやり直せるという「夢のような話」を受けた直後に、その「夢」は本当に打ち砕かれました。
<夢や希望>は大きければ大きいほど、打ち砕かれた時の<失望>も大きく、もはや立ち直れない<絶望>に至るのだと思います。
何度打ちのめされても、立ち直ってきた祥子ですが、小福子の死によって、彼の心は完全に折れてしまい、再び立ち直ることは出来ませんでした。
<希望から失望>を繰り返すうちに、しだいに若さと健康さが失われて、生来の素朴で真面目な性格も失われた祥子は、最後には車引きで身を立てることをあきらめ、その日暮らしをする無気力な生活、最下層の浮浪者同然の生活に落ちてしまったのです。

彼の目からは涙がとめどなく流れでた。これで、なにもかもなくなってしまった。小福子まで土の下にはいってしまった。彼は一所懸命に生きようとした。小福子も一所懸命に生きようとした。そして、彼に残ったのはなんの役にもたたない涙ばかりであり、彼女は彼女で首をくくらなければならなかった。筵にくるまれて無縁墓地に埋められる、彼女の生涯かけた努力の結果がこれだったのだ。(370頁)


資本主義社会、利己主義の生き方への警告


祥子の暮らしぶりが悪くなるにつれ、素朴で真面目だった性格も、しだいに歪んでいき、わたしは読み進めるのが非常に辛かったです。
祥子の人生のターニング・ポイントは、やはり小福子の自殺を知った時でしょう。
小福子は、アルコール中毒の父親の家庭内暴力によって母親を殺され、19歳で軍人の愛人として売られました。
その軍人に捨てられて実家にもどり、極貧生活の中、彼女が売春で得たわずかな稼ぎで、父親と三人の弟たちを養っています。
父親からの暴言・暴力にじっと耐えてきた小福子は、長屋を出され、淫売窟に売られた後、自殺したのです。
淫売窟において、小福子が、死ぬことでしか自分の尊厳を回復できない、人間性を傷つける出来事があったのかもしれません。

曹先生は、祥子の身の上を案じていてため、彼に真面目に働く気持ちさえあれば、再びお抱え車夫として勤めることは可能でした。
しかし、小福子の死をきっかけに、祥子は人生を完全に諦め、支援の手を自ら拒絶し、自分からどん底に転落してしまったと言えます。

曹先生のところへ行く気持はまったくなくなり、連絡をしようとも思わなかった。祥子の運命をかえることは曹先生にも所詮できはしないのだ。(370頁)

祥子が生きていた1920年代の北京は、現代のようなセーフティーネットが無く、労働者の権利も無く、おそらくは人権意識も根づいていない社会です。
祥子の奉公先の中でも、曹先生の屋敷は待遇が良く、仕える奉公人たちにとって、曹先生は<良い主人>であると言えます。
教養ある知識人である曹先生は、奉公人たちがより良く働けるよう心を配っていますが、曹先生では「運命をかえる」ことは出来ないと、作者は語っています。
作品全体を通して、祥子のような真面目な労働者がルンペンプロレタリアートに転落する過程は、奉公先が<良い主人>か<悪い主人>かに関係なく、当時の社会全体に定められた、決して逃れられない運命であるかのように、描かれているのです。

人間は、おのれを獣の仲間からひきずりあげた。しかし、いまにいたってもなお、おのれの同類を獣の群れに追いやっているのである。祥子は、文明の世界に身をおきながらも、獣にかわってしまった。彼自身、なにひとつまちがったことをしたわけでもないのに。彼は考えることをやめてしまった。したがって、たとえ人を殺そうが、彼の責任とはいえない。彼は夢も希望もすてて、自分でもわからぬまま底なしの穴へおちつづけた。おのれの心を人々にとりあげられ、心をなくした彼は、それゆえに、食い、飲み、女を買い、ばくちを打ち、怠け、ずるがしこくたちまわった。いまや、彼に残っているのは、腐れはてた無縁墓地に埋められるのを待つ大きな肉体だけだった。(371頁)

このように老舎は、祥子を「獣」に追いやった私たち人間社会を痛烈に批判しており、「文明の世界」とは名ばかりの未成熟さを明らかにしています。
老 舎の言うとおり、「人間」という広い視座で見れば、身分や階級の別は無く、車引きの祥子も、娼婦の小福子も、曹先生も、孫刑事も、みな「同類」、同じ仲間なのです。
老舎は、同胞を「獣」に追いやる人間社会を批判するとともに、これまで語ってきた祥子の生き方そのものについても、批判の目を向けています。

乞食はやりたくてもできなかった。どだい彼のような大男に、金を恵んでくれるような人はなかったし、からだに細工して縁日の人出を狙う方法も知らなかった。人の同情をひくためにくずれたからだをこしらえなければならないが、そのやり方を教えてくれる者もいなかったからだ。泥棒をやろうとしても、その腕がなかったし、泥棒には泥棒の社会があった。となると、彼はやはりだれにもたよらず、自分ひとりで食ってゆくしかなかった。彼は自分一個のために努力し、また自分一個のために死を準備したのである。彼はたとえこの世で息をひきとったあとでも、息のある亡者となるにちがいない。彼の魂は個人主義そのものであり、それは彼のからだとともに土のなかで腐りつづけてゆくであろうから...。(390頁)

ついに祥子は、車も引けないようなからだになり、冠婚葬祭の行列について歩き、日銭を稼いで暮らすようになります。
「背中をまるめて下をむき、ひろった吸いさしをくわえて、億劫そうにのろのろと歩く」祥子の末路を、老舎は厳しく突き放すように描いています。

あのいなせな、がんばり屋の、希望にあふれた、わが身ひとつをいとおしんだ、個人的な、たくましかった、偉大な祥子は、いまや、何度人の葬式に立ちあったことだろう。そして、いつは、どこかに、彼自身を埋めることになるはずだ。この堕落した、我利我利亡者の、不幸な、病める社会の子、個人主義のなれのはてを!(392-393頁)

この言葉から、老舎が当時の資本主義社会に対して、堕落した、不幸な、病める社会であると考え、疑義を呈していたことが明らかです。
さらに、自分の車を買うことに執着し、ひたすら金を貯めることだけを生きがいに働いてきた、祥子のような生き方を「個人主義」であると指摘しています。
ここで言う「個人主義」とは、人権意識が根づいていない社会が前提となるため、国家権力に対して自立した「個人」と言うような良いニュアンスの「個人主義」(individualism)ではなく、むしろ「利己主義」(egotism)に当たる、悪いニュアンスで用いていると言えます。
老舎は、資本主義社会全体を厳しく批判するとともに、祥子の転落人生を通して、利己主義の働き方・生き方の悲惨な末路についても、読者に警告を与えているのです。

このような老舎のメッセージを考えると、『駱駝祥子』という作品は、プロレタリア文学の一種と言えるかもしれません。
貧困を題材とした文学作品と言えば、マクシム・ゴーリキーの戯曲『どん底』(1901年)が非常に有名です。
『どん底』は、帝政ロシア時代末期を舞台に、ルンペンプロレタリアートたちを描いた群像劇であり、そのテーマやモチーフにおいて、『駱駝祥子』との共通性が感じられます。
群像劇である『どん底』の登場人物の中から、誰か一人をクローズアップし、深く掘り下げて描けば、『駱駝祥子』になると言えるでしょう。
日本では黒澤明監督が、この『どん底』を原作に、日本の江戸時代に舞台を置き換え、1957年(昭和32年)に映画化しています。


老舎の見た当時の労働運動、革命家たち:『蟹工船』と比較して


蟹工船・党生活者 (新潮文庫)
発売元: 新潮社
発売日: 1953/06/30

日本のプロレタリア文学と言えば、小林多喜二の『蟹工船』(1929年)や、徳永直の『太陽のない街』(1929年)が思い浮かびます。
『蟹工船』や『太陽のない街』と、『駱駝祥子』とは、下層労働者の悲哀を描いている点は共通していますが、労働運動についての表現には、大きな違いがあります。

『駱駝祥子』の後半では、祥子がデモに参加し、旗を振る場面がたしかに描かれていますが、それは彼が人権意識に目覚めたからではありません。
祥子が本気で労働者の権利に目覚め、車引き仲間たちと一致団結して、車宿の主人・劉(ラウ)親方に反抗し、待遇改善や賃料の値下げを要求する、という筋書きにはならないのです。
祥子がデモに参加するようになるのは、人生をあきらめ、「考えることをやめて」からであり、「車を引くよりたやすく金になる道」だからです。
冠婚葬祭の行列について歩くことと同じ目的意識で、彼がデモや請願について歩き、喜んで旗を振った様子が描かれています。

からだはすっかり鈍ってしまい、耳ばかりするどくなって、うまい話を聞きこむとなにをおいても駆けつけるようになった。デモであれ請願であれ、金になることならなんでもやった。二十銭でもよし三十銭でもよし、彼は一日じゅうでも喜んで旗を振り、人々の尻にくっついて歩いた。なんといっても車を引くよりましじゃないか、たいした金にはならなくても、だいいちからだが楽だ。彼はそんなふうに思っていた。旗を振って歩きながらも、彼は下をむき、陰気な顔でタバコをくわえて、黙りこくっていた。どうしてもスローガンを叫ばなければならないときには、口をパクパクやってみせるだけで、ぜったいに声はださなかった。喉を使ってはもったいないと思ったからだ。これまでさんざん汗を流して働いたあげくがなんにもならなかった経験から、彼は疲れるようなことはいっさいやらないことにしていたのである。デモの最中でも、ちょっとでも危ないと見ると、まっさきに逃げた。それもものすごいスピードで。(376-377頁)

このような、労働運動に対する祥子の態度は、『蟹工船』で描かれた労働者たちの様子とは、全く異なっています。
ソビエト領カムチャツカの領海に侵入して蟹を取り、これを加工して缶詰にするための蟹工船で働く季節労働者たちは、すべての人間的権利を剥奪され、奴隷的労働を強いられます。
言語を絶する虐待にたえかねて、労働者たちは自然発生的に団結し、ストライキに発展します。

「皆さん、私達は今日の来るのを待っていたんです。」-壇には十五、六歳の雑夫が立っていた。「皆さんも知っている、私達の友達がこの工船の中で、どんなに苦しめられ、半殺しにされたか。夜になって薄ッぺらい布団に包まってから、家のことを思い出して、よく私達は泣きました。此処に集っているどの雑夫にも聞いてみて下さい。一晩だって泣かない人はいないのです。そして又一人だって、身体に生キズのないものはいないのです。もう、こんな事が三日も続けば、キット死んでしまう人もいます。-ちょっとでも金のある家ならば、まだ学校に行けて、無邪気に遊んでいれる年頃の私達は、こんなに遠く…(声がかすれる。吃りだす。抑えられたように静かになった。)然し、もういいんです。大丈夫です。大人の人に助けて貰って、私達は憎い憎い、彼奴等に仕返ししてやることが出来るのです…。」
それは嵐のような拍手を惹き起した。手を夢中にたたきながら、目尻を太い指先きで、ソッと拭っている中年過ぎた漁夫がいた。
学生や、吃りは、皆の名前をかいた誓約書を廻して、捺印を貰って歩いた。
学生二人、吃り、威張んな、芝浦、火夫三名、水夫三名が、「要求条項」と「誓約書」を持って、船長室に出掛けること、その時には表で示威運動をすることが決った。-陸の場合のように、住所がチリチリバラバラになっていないこと、それに下地が充分にあったことが、スラスラと運ばせた。ウソのようにスラスラ纏った。
「おかしいな、何だって、あの鬼顔出さないんだべ。」
「やっきになって、得意のピストルでも打つかと思ってたどもな。」
三百人は吃りの音頭で、一斉に「ストライキ万歳」を三度叫んだ。学生が「監督の野郎、この声聞いて震えてるだろう!」と笑った。-船長室へ押しかけた。(小林多喜二『蟹工船』、129-130頁、新潮文庫)

このように、『蟹工船』における労働者たちは、自分たちの苦しみを分かち合い、団結を確かめ合うことで、ストライキに向かっていきます。
ストライキによって、労働環境を改善させたいという真剣な気持ち、労働運動に対する熱意が伝わってくるのです。
一方で、『駱駝祥子』の祥子にとっては、デモに参加することは、楽に日銭を稼ぐ手段でしかなく、議論を聞いて、人権意識や社会正義に目覚めることは全く無いのです。
祥子が参加するデモが、誰に何を訴えるデモなのか、全く描かれていないことから、自分が旗を振っているデモに対して、彼が本当に無関心であることが分かります。



『蟹工船』では、暴風雨で打ち上げられた川崎船が、現地のロシア人たち救われた場面が描かれています。
日本人の漁夫たちは、中国人の通訳を通して、ロシア人たちと交流し、「プロレタリア、一番偉い」と言われ、人権意識に目覚めるきっかけとなるのです。

「働かないで、お金儲ける人いる。プロレタリア、いつでも、これ。(首をしめられる格好、)―これ、駄目! プレタリア、貴方々、一人、二人、三人…百人、千人、五万人、十万人、みんな、これ(子供のお手々つないで、の真似をしてみせる。)強くなる。大丈夫。(腕をたたいて、)負けない、誰にも。分る?」
「ん、ん!」
「働かない人、にげる。(一散に逃げる格好。)大丈夫、本当。働く人、プロレタリア、威張る。(堂々と歩いてみせる。)プロレタリア、一番偉い。-プロレタリア居ない。みんな、パン無い。みんな死ぬ。-分かる?」(『蟹工船』、53頁)

日本人の若い漁夫たちは、ロシア人の言葉がいわゆる「恐ろしい赤化」であると気づきましたが、これが「赤化」であるなら、「馬鹿に「当たり前」のこと」であると感じられ、彼らの言葉に引きつけられて行きます。
非人間的な搾取を強いられてきた漁夫たちにとって、自分たちに人間の尊厳があり、資本家よりも自分たち労働者たちの方が尊いのだ、というメッセージは、彼らを心から勇気づけ、希望を与えたのだと思います。


『駱駝祥子』では、大学で教える曹(ツァオ)先生と、曹先生の教え子である阮明(ルアミン)が登場しますが、両者とも、祥子に権利意識を目覚めさせるような役割は演じません。
曹先生は穏健な社会主義者であり、阮明はより過激な思想に傾倒していましたが、阮明が曹先生と懇意にしていたのは、試験の成績がどんなにひどかろうと、合格点をつけてもらおうとの下心があったからでした。
しかし、曹先生が阮明に及第点をやらなかったため、阮明は曹先生を恨み、曹先生が若者たちに過激思想を宣伝している革命指導者であると、国民党の機関に告発します。
この密告によって、曹先生は警察に追われることになり、お抱え車夫であった祥子が逮捕され、理不尽に貯金を奪われることになるのです。

曹先生は、自分の「伝統美術愛好癖」と「社会主義思想の不徹底さ」(189頁)を自覚しており、いわば<悔悟する貴族>のような人物であったと考えられます。
そのため曹先生は、同じ知識階級の仲間うちで革命事業について議論することに満足し、実際の労働者たちに語りかけ、啓蒙し、団結してたたかう手助けをすることなど、全く無かったと言えます。

曹先生を密告した阮明は、役人となり、派手な洋服を着て、芸者買いをし、ばくちに手を出し、アヘンをたしなむようになります。
彼は「高尚な理想を振り棄てて」、「彼が以前打倒すべしとしていたさまざまなこと」(387頁)を満喫したのです。
そのような生活で遊興費が足りなくなり、阮明は「過激思想を利用して金儲け」(388頁)をしようと考えます。
阮明は、学生時代に教師とのコネを利用して及第点をせしめようとしたものと全く同じように、革命宣伝の機関に志願し、運動資金を貰いました。
運動資金をただ取りするわけにはいかないため、阮明は人力車夫を組織する工作に加わります。
阮明が工作した人力車夫たちのデモこそ、祥子が楽に日銭を稼ぐために参加し、スローガンを叫ぶふりをしながら、旗を振って歩いたデモであると考えられます。

阮明は金のために思想を売り、祥子は金のために思想を受け入れた。阮明は、いざというときには祥子を身代りに出せばよいと胸算用していた。祥子は別にそんなことを考えてはいなかったが、必要が起こったときに同じようにした。阮明を売ったのである。金のために働く者は、さらに多額の金の前には弱い。忠誠は金銭の前では成り立たない。阮明は自分の思想を信じ、思想が過激であることでもって自分のすべての低劣な行為を見逃すことができると思っていた。祥子は阮明の議論を聞いて、まったくその通りだと思う一方で、阮明の豊かな暮らしぶりを見て、「おれだって金さえあれば、この阮と同じように、楽しい思いができるのに」と心から羨ましく思った。金は阮明の人格を低下させ、金は祥子の眼をくらませた。(『駱駝祥子』、388-389頁)

このようにして、かつて曹先生を密告した阮明は、今度は自分自身が祥子によって密告され、銃殺刑となったのでした。
役人として贅沢で放漫な暮らしぶりが描かれている阮明は、英雄的な革命家だったとは言えないでしょう。
老舎は、阮明は「金のために思想を売り」、祥子は「金のために思想を受け入れた」と、労働運動の指導者・参加者どちらも痛烈に批判しています。
祥子は、「考えることをやめて」しまった生き方によって、生活がますます悪化し、浮浪者同然の生活に至ります。
老舎が「個人主義のなれのはて」と語ったように、祥子の「利己主義」の生き方は、自分自信を無自覚のうちに「底なしの穴」へ落したと言えます。

老舎は、資本主義社会を「堕落した、不幸な、病める社会」であると批判しながらも、当時の労働運動に対して決して礼賛せず、運動の指導者たちの腐敗や欺瞞、労働者たちの無自覚さを見抜いていたことが分かります。
『駱駝祥子』は、最後まで<目覚めなかった>労働者・祥子と、堕落した革命家・阮明、穏健な社会主義者・曹先生を描くことで、逆説的ですが、労働者自身が本当に人権意識や社会正義に目覚めることがいかに重要であり、難しいことであるか、伝わってきます。
そして、労働者が一致団結して、自分たちの立場や権利を守る組織が必要であること、極貧ゆえに娼婦となり、自死した小福子のような女性を救うためにも、セーフティーネットが必要だということが、伝わってくるのです。



初読了日:2013年11月30日