2020/12/27

映画『テネット』(クリストファー・ノーラン監督)



クリストファー・ノーラン監督『テネット』(2020年)を観ました。

同監督の映画は、『メメント』(2000年)、『インセプション』(2010年)、『インターステラー』(2014年)を観ています。

テロリストがキエフのオペラハウスを襲撃し、CIA工作員である主人公が現地警察の特殊部隊に偽装して、劇場に突入する場面から映画が始まります。
劇場内で、主人公は見知らぬ傭兵から命を救われますが、そこで初めて逆行する銃弾を目撃します。
その後、主人公は現在世界の人類を守るために、未来世界の人類との戦争に巻き込まれていきます。

ネタバレにならないように感想を書くのが難しい作品です。

物語としては『インターステラー』の方が面白かったですが、映像は『インセプション』に匹敵するかそれ以上の芸術性です。
順行世界と逆行世界が融合したマジックリアリズムな映像を楽しめます。
この映像を観るだけでも2500円の価値はあるかも。

冒頭のオペラハウス突入で、中に観客がいるにもかかわらず、躊躇なく無力化ガスを使用する場面は、2002年のモスクワ劇場占拠事件が思い出されました。
この時、人質となった922人の観客のうち、129人が中毒死した痛ましい事件です。

以下、若干ネタバレ注意。


映像表現は複雑ですが、物語はいたってシンプルで、未来の人類と現在の人類の戦争を描いています。

現在世代の環境破壊によって、未来は生存に適さない環境になっており、未来の人々は絶望と怒りを過去の世代に向けています。
そして、過去の全人類を絶滅させ、未来の人類が過去世界(=主人公の生きる現在世界)に移住しようとしています。
現在世界では、未来世代の人々に協力し、全人類を滅ぼそうとする敵サイド(ロシア人の大富豪)と、その企みを食い止めようとする主人公サイドの攻防戦が行われます。

頭脳と暴力を自在に用いた戦いぶりは、スパイアクション映画としても楽しめます。
ボンドガールポジションに敵の妻がいて、主人公は彼女の命を救うために奔走。

一言で言えば、世代間倫理をテーマとする物語で、ありきたりとも言えなくもないですが、とにかく映像がすごいので、複雑な映像に複雑な物語では観客がついていけないから、物語はシンプルにしたのかなと思いました。


敵役であるロシア人実業家は、ソ連時代の閉鎖都市出身という設定です。

廃墟の砂漠となった閉鎖都市に主人公サイドの特殊部隊が突入する場面が、映画のクライマックスです。
ただ、ロシアに砂漠はないのでは、と思いました。
旧ソ連のカザフスタンにあった都市、という設定ならありえるかな。
ちなみに、このシーンの撮影場所はカリフォルニアの砂漠だそうです。

ロシアには、旧ソ連の兵器貯蔵施設が放棄され、森に埋もれてしまった場所が点在しているそうです。

ソ連時代は、実際に数多くの閉鎖都市が存在し、そこで核科学技術の研究開発が行われていました。
閉鎖都市の一つ、チェリャビンスク地方にある「40番の町」(現在のオジョルスク)を取材した『City40』(2016年)というドキュメンタリー映画を観たことがあります。


City 40(ロシア語タイトル:Сороковка)
Samira Goetschel監督による2016年のロシアのドキュメンタリー映画。
隠しカメラやソ連時代の記録映像、現代のインタビューなどから構成される。
2017年、エミー賞のニュース&ドキュメンタリー部門にノミネートされた。
ロシア語タイトルの 「ソロコフカ」は、「40番の町」を意味する俗称。

オジョルスクでは現在でも人々が暮らしていて、映画『テネット』で描かれたような廃墟ではなかったです。
ソ連時代は、選ばれたエリート科学者たちが住み、豊富な研究資金で思う存分研究でき、ほかの地方都市と比べて豊かで、生活や教育の水準が高い研究都市だったそうです。

閉鎖都市の一つ、サロフで生まれ育った住民の証言では、ほかの地方都市に行った時に、初めて物乞いを見て驚き、ショックを受けたと語っていました。
つまり、理想の研究都市には、物乞いも詐欺師も元受刑者も絶対にいないということ。
そのような人々には居住許可が出ないので、都市に入ることすらできない。

ちなみにサロフは現在も閉鎖都市で、ソ連時代とは違って地図上に名前がありますが、永住居住権を得るためには、その土地で生まれ育つか、物理学や数学の研究者となるか、原子力エネルギー分野の企業に就職するかしないといけないそうです。
もちろん外国人旅行者が観光することは不可能。
しかし、その分野の教育を受けたり、研究をしたり、仕事をしたいという若者にとっては理想的な都市環境だと言われています。


(2020年12月27日、対話形式にリライトした記事をNOVEL DAYSで掲載しています)

2020/12/07

柳美里「JR上野駅公園口」

JR上野駅公園口 (河出文庫)
  • 発売元: 河出書房新社
  • 発売日: 2017


2020年12月5日の読書会で、柳美里の『JR上野駅公園口』を読みました。
Morgan Gilesによる本書の英訳"Tokyo Ueno Station"が、2020年11月18日に全米図書賞翻訳部門(the National Book Award for translated literature)を受賞しました。
柳美里(1968年生まれ)は、日本で生まれ育った韓国人であり、日本語で文学作品を執筆しています。
ニューヨーク・タイムズの2020年11月27日刊行の記事によれば、柳美里の母親は韓国から小舟で日本に逃げてきた朝鮮戦争難民で、父親は韓国からの移民の息子です。

『JR上野駅公園口』の主人公は、福島県相馬郡八沢村(現・南相馬市)出身の男性です。
2011年3月11日発生の東日本大震災と原発事故をきっかけに、柳美里は同年4月21日に初めて南相馬市を訪れ、2015年から南相馬市に暮らしています。
2012年3月から2018年3月の閉局まで、臨時災害放送「南相馬ひばりFM」で、彼女は番組パーソナリティを務め、地元の人々の話を聞き続けました。
実は、柳美里と福島のつながりは震災の前からあり、日本へ逃げてきた朝鮮戦争難民の母親が最初に上陸したのが、福島の後に水力発電のダムに沈んだ村でした。
全米図書賞翻訳部門受賞を受けて、柳美里は「震災、津波、原発事故で苦難の道を歩んでいる南相馬の人たちと、この喜びを分かち合いたい。これはあなたのためのものです」と語っています。(上の記事より)

※ネタバレ注意※

【目次】
1.小説『JR上野駅公園口』について
...あらすじ
...感想と考察
2.英訳"Tokyo Ueno Station"について

1.小説『JR上野駅公園口』について

あらすじ

全体の構成

本書の語り手の男性は、上野公園内の摺鉢山に住んでいたホームレスであり、作品の結末で自死する語り手の言葉で、全編が語られています。
敗戦後から老年に至るまで、家族の死を織り交ぜながら、彼が自死に至るその瞬間まで語られています。
「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります、危ないですから黄色い線までお下がりください」というアナウンスの声と、「プォォォン、ゴォー…」という電車の轟音が作品の冒頭と結末で共通しており、作品の結末の自死から作品冒頭の語りが始まるという構成です。

語り手が現在見ている光景の、一見何の脈絡もない通りすがりの人々の会話の合間に、語り手自身の過去の思い出が断片的に挟み込まれるコラージュのような手法で書かれています。
このようなコラージュ的手法(断片的手法)の作品は、以前に読書会で読んだリュドミラ・ウリツカヤの『通訳ダニエル・シュタイン』を思い起こさせます。
『通訳ダニエル・シュタイン』は、語り手(視点人物)も複数配置されているため、より複雑で多声的な構成と言えます。
以下に、『JR上野駅公園口』の語り手の人生を時系列で整理したいと思います。


語り手の人生を時系列に整理する

昭和8年(1933) 福島県相馬郡八沢村生まれ。姓「森」、愛称「カズさん」
昭和20年(1945) 12歳で敗戦。父母と弟妹7人を養うために、いわきの小名浜漁港に出稼ぎに行く。15歳から20歳まで父のホッキ貝漁を手伝う。
昭和22年(1947)8月5日 行幸した昭和天皇を二万五千の人々と共に原ノ町駅で出迎えた。
昭和31年(1956) 23歳で節子(21歳)と結婚。
昭和33年(1958) 長女の洋子が生まれる。
昭和35年(1960)2月23日 皇太子(現・今上天皇)と同じ日に長男の浩一が生まれる。
「浩宮徳仁親王と同じ日に生まれたから、浩の字をいただき、浩一」と名づけた。
北海道厚岸郡浜中町へ昆布の狩り採りの出稼ぎに行く。同年5月24日発生のチリ地震津波で浜中町は11名が死亡。
昭和38年(1963) 30歳で東京に出稼ぎに行く。谷川体育(株)に入り、競技場や体育施設の建設現場で働く。
昭和39年(1964) 東京オリンピック開催。昭和天皇の開会宣言をラジオで聞く。

昭和56年(1981) 長男の浩一が21歳で死去。「レントゲン技師の国家試験に合格した」ばかりで、「下宿先のアパートで寝たまま死んで」いた。  
「位牌持ちが居なくなってしまった。位牌持ちが位牌になってしまった。」
「自分は、浩一の死を告げられてから努力している。
これまでも働く努力はしてきたけれど、今している努力は、生きる努力だ。
死にたいというよりも、努力することに、疲れた。」
平成5年(1993) 60歳で出稼ぎをやめ、郷里の八沢村に帰る。長男の帰郷を待っていたかのように、父母が相次いで死去。

平成12年(2000) 妻の節子が65歳で急死。「自分は酒に酔って熟睡し、隣で妻が息を引き取ったことに気付かなかった。自分が殺したも同然だ」と思う。
長女・洋子の娘である麻里が、祖父の世話のために同居を始め、孫娘と飼犬コタロウと暮らす。「浩一も節子も眠りに命をとられてしまった」と思い、不眠になる。
「二十一歳になったばかりの麻里を、祖父である自分とこの家に縛るわけにはいかない」と考え、「探さないでください」と書き置きを残して家出。
67歳の時から、上野恩賜公園でホームレスとして暮らす。
「ここで暮らしはじめた六十七歳の時から、何度この銅像を見上げたかわからない」
平成18年(2006年)11月20日 73歳の時、「山狩り」と呼ばれる行幸啓直前の「特別清掃」が行われ、上野公園を退去させられる。一か月間で「五度目」の「山狩り」。
「山狩り」当日、「天皇陛下の御料車」(現・上皇陛下夫妻)に出くわす。
同じ「昭和八年」生まれの天皇と自分を、「一本のロープ」が仕切っている。 「何か言えば聞いてもらえる」と思うが、「声は空っぽ」だった。
「自分は、一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた。」
昭和28年8月5日に原ノ町駅に行幸した昭和天皇の姿と「天皇陛下、万歳!」の二万五千人の声、ラジオから流れる昭和天皇のオリンピック開会宣言の声、長男・浩一が生まれた日にラジオから流れた「皇太子妃殿下は、本日午後四時十五分、宮内庁病院でご出産、親王がご誕生になりました。御母子共にお健やかであります」というアナウンサーの声がフラッシュバックした。
涙が込み上げ、生まれて初めて「悟る」という言葉を思い付いた。その直後、JR上野駅公園口の改札を通る。
「東北新幹線はやて」の文字を見たが、「もう望郷の念で胸が高鳴ったり、胸が締め付けられたりすることはなかった」。
「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります、危ないですから黄色い線までお下がりください」という、いつものアナウンスが聞こえ、「黄色い線」を越えて線路上に身を投げた。
「黄色い線の上に立って目を閉じ、電車が近付いてくる音に全身を傾けた。
プォォォン、ゴォー、ゴトゴト、ゴトゴトゴト、ゴト、ゴト......
心臓の中で自分が脈打ち、叫び声で全身が撓んだ。
真っ赤になった視界に波紋のように広がったのは、緑だった。」
語り手が自死した瞬間、故郷を大震災が襲い、大津波に孫娘・麻里と飼犬が飲み込まれる光景を見る。

平成24年(2012) 上野公園に語り手が戻ってくる。
「でも、気が付くと、この公園に戻っていた。」
語り手は公園の風景を見つめ、ラジオから流れる国会中継の声を聞き、ホームレス仲間の「シゲちゃん」が死んだという声を聞く。
上野の森美術館でルドゥーテの薔薇の絵を見て、美術展を訪れた婦人たちの話し声を聞く。
自死の直前に聞いた「まもなく2番線に...」というアナウンスの声と電車の轟音が、絶え間なく聞こえている。
ずたずたに引き裂かれたけれど、音は死ななかった。
捕まえて閉じ込めることもできなければ、遠くに連れ去ることもできない、あの音ー。
耳を塞ぐこともできなければ、立ち去ることもできない。
あの時からずっと、あの音の側に居る。


感想と考察

語り手の声は「死者の声」なのか?

語り手の自死は、「山狩り」当日の2006年11月の出来事です。
しかし、自死の瞬間に立ち現れる地震と津波の光景は、本人が知らない未来、2011年3月11日に起こった出来事です。
語り手の現在聞こえるものの中に、自死後に起こった未来の出来事が語られています。
「死んじゃったんだよ、シゲちゃん、コヤで冷たくなってたんだよ」
インテリホームレスであった「シゲちゃん」は、語り手の自死時点では生きていました。
語り手は、自分がシゲちゃんに何も言わずに自死したことで、次のように語ります。
「シゲちゃんのコヤでワンカップ大関を呑んだあの夜からひと月後に、自分は居なくなった。シゲちゃんは悲しんだろうか?」
語り手は自死後に死者となって上野公園へ戻り、死者の耳でホームレスの老女の噂話を聞き、シゲちゃんの訃報を知ったと言えます。
「死ねば、死んだ人と再会できるものと思っていた。遠く離れた人を、近くで見ることができたり、いつでも触れたり感じたりすることができると思っていた。死ねば、何かが解るのだと思っていた。その瞬間、生きている意味や死んでいく意味が見えるのだと思っていた。霧が晴れるようにはっきりと―。
でも、気が付くと、この公園に戻っていた。どこにも行き着かず、何も解らず、無数の疑問が競り合ったままの自分を残して、生の外側から、生存する可能性を失った者として、それでも絶え間なく考え、絶え間なく感じて―。」

すなわち、語り手の現在は死者であり、「生の外側」にある存在として、「この公園」に留まっているのです。

わたしが上に整理した年表で、語り手の現在を2012年と推測したのは、コヤのラジオから流れる国会中継の声が証拠です。
「昨年の三月の事故を踏まえて、複雑な感情を持っていらっしゃる国民がたくさんいらっしゃることも承知しておりますけれども、それを踏まえて、国論を二分するテーマについてもしっかりと責任ある判断をしなければいけないのが政治の役割だと思っておりますので、折につけそういうご説明はしていきたいという風に思います」
「サイトウヤスノリくん」
「その作られた安全基準というのが、安全神話のもとで作られた安全基準で、それを稼働させるということで、皆さんは矛盾に感じられて怒っているわけでございます。今回の再稼働はどう見たっておかしいという怒りの声ですので、是非、総理、よく考えて判断していただきたいと思います...」

「内閣総理大臣」
「色々なアンケートがあると思います。それぞれ色々なアンケートをしていることも承知でございますけれども、基本的には、被災者の皆様のためには、これは、我が政権は昨年の九月に発足をしましたけれども、震災からの復興、そして原発事故との戦い、日本経済の再生、これは最優先かつ最大限の課題として位置付けております。そして、被災者のために寄り添った政策というものは、しっかりとこれからもやっていきたいと思います」

この国会中継の声は、2011年9月発足の野田佳彦内閣に当たります。
国会中継の声から推測すれば、語り手の現在は東日本大震災後の2012年であると考えられます。
したがって、語り手は死者の視点で2012年の公園の風景を俯瞰し、ホームレスの話し声や通行人の話し声を耳にしながら、自分の過去の思い出を振り返っているのです。
彼の語りは、上野恩賜公園という場所を中心に、そこでホームレスとして過ごした彼の生前の生活と、彼の死後も続いているホームレスたちの日々を追っています。


語り手は「運がなかった」のか?

読書会では、語り手自身の「運がなかった」という言葉をめぐり、議論となりました。
作品冒頭で語り手は、「容姿よりも、無口なことと無能なことが苦しかったし、それよりも、不運なことが堪え難かった。運がなかった。」と語っています。
息子・浩一が21歳の若さで急死した時、母親の言われた「おめえはつくづく運がねぇどなあ…」という言葉を、彼は三度も繰り返して思い返しています。
このように、語り手自身や家族は「運がなかった」と言っていますが、本当に「運がなかった」だけでしょうか?
彼が12歳から出稼ぎに行って働かなければいけなかったのは、本当は社会の歴史的・構造的問題です。
しかし、彼自身はその社会の理不尽さに目を向けず、「運がなかった」と言って自分を無理に納得させ、受け入れていると言えます。
作者は、そんな語り手の姿を描くことで、彼の境遇は「運」だけの問題ではなく、社会の構造的な問題であり、その理不尽さに抵抗し、闘わなければならないというメッセージを読者に伝えている、という意見が出されました。
だからこそ作者は、語り手と天皇(現・上皇)を同じ年生まれ、息子・浩一と皇太子(現・今上天皇)を同じ年生まれに設定し、両者を対比させることで、天皇制の問題を描き出していると言えます。

語り手は「運がなかった」のではなく、教育の問題ではないかとわたしは感じました。
「終戦の時は、十二歳だった。戦争に敗けて悲しい、惨めだということよりも、食っていくこと、食わせることを考えなければならなかった」
教育を受けなければ、人権を意識することも、労働者の権利に目覚めることもないし、労働環境の改善のために一致団結するという考えも生まれません。
資源管理や自然環境保護という意識もないため、かつて父親を手伝っていたホッキ貝漁では、地元の漁師たちがホッキ貝が枯渇するまで採り尽くしてしまいます。
息子・浩一と妻・節子が、二人とも就寝中に突然死したことは、先天性心疾患の家系だったではと推測できますが、知識がなければ、元気なうちにあらかじめ検診や治療を受けようと思わないでしょう。
家族内で突然死が多発したとしても、遺伝的背景を疑う前に、やはり「運がなかった」と考えてしまうかもしれません。


インテリホームレスの「シゲちゃん」は、語り手とは対照的に、高い教育を受けてきたことが窺える登場人物です。
シゲちゃんは、上野恩賜公園につながりの深い歴史上の大事件を語り手に教えます。
寛永寺と関東大震災(1923年9月1日)、「時忘れじの塔」と東京大空襲(1945年3月10日)、「西郷隆盛像」と西南戦争(1877年)、「彰義隊士の墓」と上野戦争(1868年)など、元は教員であったかのような流暢な口調で語って聞かせます。

そんなシゲちゃんは、平成18年11月に「山狩り」の通告を受けて、「通りからは見えない場所にあるコヤまで撤去が強制されるということは、行幸啓の機会を利用して、上野公園で暮らす五百人ものホームレスを公園から追い出そう」という意図があり、「ホームレスは公園から締め出しを食らって路頭に迷う」、「行幸啓の時は、雨が降っていようが雪が降っていようが台風が接近していようが、コヤを畳んで公園の外へでなければならない」という理不尽さに憤り、飼い猫エミールに向かって自分が直訴状を書くから、天皇に「直訴してくれませんかね」と言うのです。
「わたしが直訴状を書くから、黒塗りの御料車が来たら、お願いの儀がございます! お願いの儀がございます! と飛び出して直訴してくれませんかね。エミールだったら警官にだって取り押さえられないでしょう。伏テ望ムラクハ聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。平成十八年十一月 草莽ノ微臣エミール誠恐誠惶頓首頓首」

この言葉は、足尾鉱毒事件について、田中正造が政府の対応に絶望し、議員辞職して、最後の手段として明治天皇へ直訴しようとしたその直訴状からとられています。
明治34年(1901)12月10日、明治天皇に直訴しようとしましたが、捕らえられて果たすことはできませんでした。
意味としては、「謹んでお願い申し上げることは、陛下が思いやりをお示しいただきたいことであります。そうしていただけるなら私は、感動の涙で泣き叫ぶことに違いありません。平成十八年十一月 在野のとるにたらない人間 エミール、恐れ多くも平伏して」となります。
シゲちゃんは、このような文語体の文章がすぐに思い浮かぶほどの教養の持ち主ですが、実際に「山狩り」当日に直訴をすることはありません。
一方、語り手は天皇(現・上皇)夫妻を乗せた車列が目の前を通った時、「何か言えば聞いてもらえる」と思いますが、「声は空っぽ」で何も言えず、「自分は、一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた」のです。
したがって作者は、語り手のような教育を満足に受けられず、「運がなかった」と社会の理不尽を受け入れるしかない人々と、高い教育を受け、社会の格差や断絶を理解していても、その問題に沈黙し続ける人々、その両方を描いていると考えられます。


「ルドゥーテの『バラ図譜』展」の意味とは?
本書に登場する、上野の森美術館の「ルドゥーテの『バラ図譜』展」は、2012年6月6日~25日の会期で実際に開催されていました。
語り手は、ルドゥーテの薔薇の絵を眺めながら、美術展を訪れた婦人たちの薔薇とは無関係な会話を聞きます。
これらは、語り手が自死した2006年以後の出来事であり、死者の目で薔薇展を見て、婦人たちの声を聞いています。
もしホームレスの肉体を持ったままだったら、警備員に排除され、美術展に自由に入って絵を眺めることなどなかったでしょう。

語り手は、「郷里の八沢村では薔薇を栽培している家なんてなかった」と思い、初めて手にした薔薇は、50歳頃に弘前の運動場建設の出稼ぎに行った時に、キャバレー「新世界」で触れた薔薇だったことを思い出します。
「新世界」のホステス純子は、福島県双葉郡浪江町の出身であり、彼女の兄弟は原発で働いていました。
浪江町は、東日本大震災と原発事故の影響を受けて、全町避難を強いられ、2020年現在も町内の大半が帰還困難地域とされています。
弘前へ出稼ぎに行っていた純子は、二十数年後には郷里の浪江町に戻り、夫や子供たちと暮らしていたかもしれません。
原発で働いていた彼女の兄弟も、浪江町で妻子や孫たちと暮らしていたことでしょう。
作者が、浪江町出身の純子という登場人物を配置したのは、ルドゥーテの美しい薔薇の絵を婦人たちが眺めていた時、純子や兄弟やその家族は避難を余儀なくされ、仮設住宅で暮らしていたのではないか、と読者に想像させる意図があったと考えます。

東日本大震災の死者・行方不明者は、関連死含めて二万人を超えます。
震災がれきは、2012年5月時点で、まだ1.1%しか処理できていない状況であり、数多くの被災者が仮設住宅で暮らしていました。
一方、東京では華やかな薔薇展が開かれ、美術展に訪れた人々は、被災地や被災者のことなど全く思い出すことがない光景が描かれます。
わずか1年でこれほど忘れ去られ、東京の人々は震災前と変わらない日常生活を送っていることに、被災地との深い断絶を感じました。
作者が、語り手の現在を2012年に設定したのは、大災厄の後も変わらない日常を描くことで、格差や断絶を伝えたかったからではないかと考えます。


『JR上野駅公園口』における死生観

語り手の死生観は、先祖代々の浄土真宗本願寺派の信仰に根ざしています。
文化3年(1806)に、越中国砺波郡(現在の富山県高岡市)の僧侶が、浄土真宗門徒を先導して現在の南相馬市鹿島郡に移民した郷土史が語られています。
江戸後期、天明の飢饉により藩領の人口が激減し、奥州中村藩では復興のため浄土真宗移民政策が行われました。
毎年10戸ずつ北越の人々を招き、天保11年には檀家数が80戸を超えたそうです。

語り手の妻・節子は、長男・浩一が急死した時、勝縁寺の住職に「浩一は浄土さ行ったんだべか?」と聞きます。
住職は「浄土真宗の教えでは、亡くなるということは、往生と言って、仏様に生まれ変わるということなので、悲嘆に暮れることはありませんよ。阿彌陀仏というのは全ての命を済うと誓ってくださった仏様です」と説法し、「浩一くんは菩薩として我々の許に還ってきますよ」と慰めました。

「気が付くと、この公園に戻っていた」という語り手は、先祖代々の信心に基づいて「菩薩」となって公園へ還ってきたのでしょうか?
語り手は、「死ねば、死んだ人と再会できると思っていた。遠く離れた人を、近くで見ることができたり、いつでも触れたり感じたりすることができると思っていた。死ねば、何かが解るのだと思っていた」ため、自死する直前は先に死んだ息子や妻との再会の希望を持っていたと考えられます。
しかし、自死した直後から始まった死後の生は、彼の予期していたものではなかったと言えます。
息子にも妻にも会えず、「どこにも行き着かず、何も解らず、無数の疑問が競り合ったまま」の自分があるだけでした。
語り手には、大津波に飲み込まれた孫娘・麻里と飼犬を救い出す力はなく、ただ見ることしかできなかったのです。
「抱き締めることも、髪や頬を撫でることも、名前を呼ぶことも、声を上げて泣くことも、涙を流すこともできなかった。犬の鎖を握り締めた麻里の右手の白くふやけはじめた指紋の渦をじっと見ていた」

すなわち、語り手は先祖代々の真宗門徒でしたが、「真実の悟り」を開いた「仏様に生まれ変わる」ことはなく、「阿彌陀仏様より位が下の菩薩となって還って」きたわけでもないと言えます。
「菩薩」となって「今この娑婆で苦しんでいる我々を済う」力があれば、孫娘の命を救うことも出来たでしょう。

以前、「異世界文学の系譜:「指輪物語」から「異世界転生」まで」という記事の中で、人間が生と死と向き合う際に、別世界の提示によって現実を多重化し、魂の救済を表していると考察しました。
清らかな「お浄土」に往って生まれ変わり、先に死んだ家族とも逢うことができるという死生観は、まさに別世界の提示による魂の救済と言えます。
しかし、作者は死後の生を「お浄土に往生」するのではなく、自分自身が不在の現世として描いています。
現世は苦しみであり、死後の生も苦しみであるなら、語り手の魂はどこにも救いがないことになってしまいます。
本書が「死者の声」によって語られた「死後の生」を描いた作品であり、この語り手には魂の救いが永遠にないと気づいた時、わたしは深い絶望を感じました。

作者が、現世に常に閉じられた空間(閉鎖的現世)として死後の世界を描いたことで、逆説的ですが、自死への戒めとして読者に伝わってきます。
また、現代の我々が、伝統宗教の死生観を信じきれず、死の意味や死後の生に対する不安や虚無感を強く持っていることを示しているとも言えるでしょう。
さらには、死後に辿り着く世界が苦しみの現世では絶望しかないため、現実世界を少しずつでも苦しみのない世界へと変えていかなければならない、という作者のメッセージかもしれません。



2.英訳"Tokyo Ueno Station"について


ニューヨーク・タイムズの2020年11月27日刊行の記事では、"Yu Miri won a National Book Award for “Tokyo Ueno Station,” a novel whose main character is the ghost of a homeless construction worker."(ホームレスの建設作業員の幽霊が主人公の小説『東京上野駅』で柳美里が全米図書賞を受賞)と題され、本書の内容や柳美里の経歴が詳しく紹介されていました。

この記事で、英訳者のMorgan Gilesは、最初にこの小説に惹かれたのは福島原発事故についての他の作品を読んでいたからだったが、この物語は"resonated much more globally. So many people are living in regions stripped of their resources and people and forgotten for that sacrifice."(より世界的に心に響いた。多くの人々が、資源や人を奪われた地域で暮らし、その犠牲のために忘れ去られている)と言っています。

読書会でも、本書における方言や浄土真宗、天皇制などの英訳がどうなっているのか話題になったので、抜粋してご紹介します。
まずは、天皇制をめぐる表現をどう英訳しているのか、見てみましょう。最初に原文、続いて英訳文を引用します。

「皇太子妃殿下は、本日午後四時十五分、宮内庁病院でご出産、親王がご誕生になりました。御母子共にお健やかであります」
昭和二十五年二月二十三日、ラジオのアナウンサーが快活な声でニュースを読み上げた。

TODAY AT FOUR FIFTEEN P.M., THE CROWN PRINCESS GAVE BIRTH TO A SON AT THE IMPERIAL HOSPITAL. MOTHER AND CHILD ARE DOING WELL.
It was the twenty-third of February, 1960. I heard the announcer read the news exultantly over the radio.

浩宮徳仁親王と同じ日に生まれたから、浩の一字をいただき、浩一と名付けようと思った。

As he was born on the same day as the crown prince’s first son, I decided that we would call him Kōichi, borrowing the first character of the prince’s name for the first of his own.
原文(日本語)では「浩宮徳仁親王」と表現している箇所が、the crown prince’s first son(皇太子殿下の長男)、同じく「浩の一字」という箇所が、the first character of the prince’s name(皇太子殿下の名前の最初の一字)と訳されています。

お召し列車から降りられたスーツ姿の天皇陛下が、中折れ帽のつばに手を掛けられ会釈された瞬間、誰かが絞るような大声で「天皇陛下、万歳!」と叫んで両手を振り上げ、一面に万歳の波が湧き起った-。

At the moment that the emperor, dressed in a suit, descended from the royal train and touched his hand to the brim of his fedora in greeting, we cried out, “Long live the emperor! Banzai!” as if it were being wrung out of us, and we raised our arms in the air, a wave of banzai welling up.

自分と天皇皇后両陛下の間を隔てるものは、一本のロープしかない。飛び出して走り寄れば、大勢の警察官たちに取り押さえられるだろうが、それでも、この姿を見てもらえるし、何か言えば聞いてもらえる。
なにか-。
なにを-。
声は、空っぽだった。
自分は一直線に遠ざかる御料車に手を振っていた。
声が、聞こえた-。
昭和二十二年八月五日、原ノ町駅に停車したお召し列車からスーツ姿の昭和天皇が現れ、中折れ帽のつばに手を掛けられ会釈された瞬間、「天皇陛下、万歳!」と叫んだ二万五千人の声-。

Only tape separated me and Their Majesties. If I ran out toward them, I was sure to be snatched by police, but they would see me and hear me if I said something
Something—
But what?
My throat was empty.
As the car went on into the distance, I waved after it.
He had heard my voice.
On August 5, 1947, Emperor Hirohito had appeared, wearing a suit, as he stepped down from the imperial train that had stopped at Haramachi Station, and the moment he put his hand to the brim of his hat in greeting, I was one of the twenty-five thousand voices that cried, “Long live the emperor!”

「天皇皇后両陛下」をTheir Majesties、「昭和天皇」をEmperor Hirohito、「天皇陛下、万歳!」をLong live the emperor!と訳しています。


次に、浄土真宗と方言をどのように英訳しているのか、見ていきます。

「如是我聞・一時佛在・舍衞國・祇樹給孤獨園・與大比丘衆・千二百五十人俱・皆是大阿羅漢・衆所知識・長老舍利弗・摩訶目犍連・摩訶迦葉……」
目を閉じ、呼吸を整え、阿彌陀経に集中しようとしたが、動悸が喧しく、喉の底から血の塊が突き上げ、吐くかもしれないと思ったほどだった。
南無阿彌陀、南無阿彌陀、南無阿彌陀と念仏を称えるお袋の声が右耳のすぐ側で聞こえ、和讃を称えるために口を動かしてみた。

“I, Ananda, heard the following from the Buddha, Shakyamuni. At one time, Shakyamuni was at the Jetavana in Shravasti, as many as twelve hundred and fifty people there assembled, and they were especially eminent monks, among them the elders Shariputra, Mahamaudgalyayana, Mahakashyapa. . . .”
I closed my eyes and took a breath, trying to focus on the Amida Sutra, but the palpitations were so strong I thought I might vomit, a mass of blood threatening to rise from the bottom of my throat at any moment.
Namu Amida Butsu, Namu Amida Butsu, Namu Amida Butsu . . . I heard my mother just next to my right ear chanting the nembutsu, and I tried to sing the hymns with the others.

これは、語り手の長男・浩一の葬儀の場面です。
「南無阿彌陀」という念仏は、Namu Amida Butsuと音訳していますが、「如是我聞...」は経文の意味を英訳しています。
この漢文を書き下し文にすると、「是の如く我聞く。一時、仏、舎衛国の祇 樹給孤独園にましまして、大比丘の衆、千 二百五十人と倶なりき。皆これ大阿羅漢 なり。衆に知識せらる。長老舎利弗、摩訶 目犍連、摩訶迦葉...」となります。
英訳の意味は、「私、アーナンダは釈迦牟尼仏から次のようなことを聞きました。ある時、釈迦牟尼はシュラヴァティのジェタヴァナにいましたが、そこには1250人もの人々が集まっていて、彼らは特に高名な僧侶であり、その中には長老シャーリプトラ、マハマウドガリヤーヤナ、マハーカーシヤパがいました。」となります。
日本語の読者にとって、漢文の経文は現代語訳ではないため、その意味するところが分かりにくいです。
英語の読者の方が、経文の意味を分かった上で、物語を読み進めることができそうです。

「弘誓ノチカラヲカフラズバ
イヅレノトキニカ娑婆ヲイデン
佛恩フカクオモヒツゝ
ツ子ニ彌陀ヲ念スベシ
娑婆永劫ノ苦ヲステゝ
淨土无爲ヲ期スルコト
本師釋迦ノチカラナリ
長時ニ慈恩ヲ報ズベシ」
親父とお袋は、どんなに具合が悪い時でも、朝な夕なのお勤めだけは欠かしたことがなかった。

“Without the strength of the Universal Vow
When could we leave this earthly world?
Thinking of the Buddha’s benevolence
We keep our minds on Amida
And forget the eternal pain of this world
We wait for the Pure Land
With the strength of the Buddha
Let his mercy and goodness be known to the ages. . . .”
My father and mother, no matter how sick they were, always did their devotions each morning and evening.

これは、長男・浩一の葬儀で和讃を称えようとして、語り手が自分の父親が称えていた和讃を思い出す場面です。
和讃とは、日本語で歌う仏教讃歌です。
語り手の父が歌った讃歌は、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人が1248年頃に著作した『高僧和讃』に基づいています。
『高僧和讃』は親鸞聖人が、浄土真宗の先達として選んだ七人の高僧を讃える119首の和讃が収められています。
『高僧和讃』の中から、「弘誓のちからをかぶらずは...」は、隋の時代に活躍した善導大師(613年-681年)の功績を讃える歌です。
「弘誓のちからをかぶらずは...つねに弥陀を念ずべし」は、「阿弥陀仏の本願力に救われることなくして、はたしていつ娑婆世界を出ることができるでしょうか。釈尊のご恩に心深く思いめぐらして、常に阿弥陀仏のみ名をお称えしなくては」という意味です。
「弘誓」(ぐぜい)とは、生きとし生けるものを救済しようとする決意、誓いを意味します。
「娑婆永劫の苦をすてて...」の意味は、「娑婆世界の永遠の苦悩を捨てて、阿弥陀仏の浄土に生まれ変わることを願って念仏するようになったのは、本師釈迦のおかげです。長きにわたり釈尊が私たちに慈悲をかけてくださるご恩を思い、念仏いたします」となります。
英訳では、先ほどの阿弥陀経と同じく意味を訳しており、英語読者が浄土真宗の信仰をより理解をしやすいように工夫された、素晴らしい翻訳だと思います。


語り手の父親は、越中国砺波郡から相馬郡八沢村に移住した先祖たちの苦労話を、豊かな方言で語っています。
おらたちは相馬の人のごどを「土着様」って呼ばって、相馬の人たちはおらたちのごどを「加賀者」って呼ばって、「門徒もの知らず」と蔑んだんだ。

“We called Sōma people ‘the natives,’ and they called us ‘Kaga people’ or ridiculed us for ‘not knowing how to worship right.’

「土着様」は、おらたち真宗門徒が朝夕称える「正信偈」の南無阿彌陀の声を遠くから聞いて、ふるさとの加賀に帰りてえって泣いてんだと勘違いして、「加賀泣き」と馬鹿にしただ。
かなり悔しい思いどがしたんだべ。親鸞上人は「念仏者は無碍の一道なり」とおっしゃった。加賀泣きどが言わっちゃぐらい虐めらっち、荒れた土地ごど耕してきた御先祖様のごど思えば、苦しみどが悲しみさ行く道を邪魔さいるごどはねぇ、我が身におきたごどを真っ直ぐ受け止めて生きていがいる-。

“The natives had another nickname for us. They heard our ancestors chanting Namu Amida Butsu during their devotions morning and night and from a distance thought they were crying because they wanted to go back to Kaga. So the natives mocked the ‘Kaga whiners.’
“Boy, did they suffer. But like Shinran said, ‘The nembutsu is the only path without obstacle.’ Our ancestors worked that barren land and were called names, but any pain or sorrow they felt didn’t keep them from their path. Whatever happens to me, I just think about how bad they had it and I take it straight and keep on living.”

息子の葬儀の場面で、父親がかつて語った先祖の苦労話を語り手が思い出したのは、自分の身に起きた一人息子の突然死という苦しみや悲しみを真っ直ぐ受け止めて生きていかなければいけない、と頭で分かっていても、心がついていかないことを表現しているのだと思います。


そして、インテリホームレスのシゲちゃんが、飼い猫エミールに語った文語体の直訴状をどう英訳しているのか、見てみます。

「わたしが直訴状を書くから、黒塗りの御料車が来たら、お願いの儀がございます! お願いの儀がございます! と飛び出して直訴してくれませんかね。エミールだったら警官にだって取り押さえられないでしょう。伏テ望ムラクハ聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。平成十八年十一月 草莽ノ微臣エミール誠恐誠惶頓首頓首」

Emile, I’m writing a letter of appeal, so when that black imperial car comes, you can jump out just like Tanaka Shōzō and say, ‘I have a request for Your Majesty!’

「伏テ望ムラクハ聖明矜察...」という文語体の直訴文が、you can jump out just like Tanaka Shōzō and say, ‘I have a request for Your Majesty!(田中正造みたいに飛び出して、「陛下にお願いがあります!」って言えばいいんだよ)と意訳していますね。
原文では、「田中正造」という名前は言わないため、読者は直訴状から田中正造や公害事件について想像する必要があります。
英訳では、Tanaka Shōzōと名前を台詞として言わせているため、シゲちゃんが引用した直訴状の由来をより理解しやすいでしょう。



最後に、わたしは本書を読んで初めて、「山狩り」と呼ばれる行幸啓直前の「特別清掃」について知りました。
キリスト教会がホームレス支援を行っていることは、以前から知っていましたが、ホームレスたちの現実の生活は今まで詳しく知りませんでした。
また、南相馬市に越中国砺波郡から真宗門徒が集団で移住してきたという歴史も、初めて知りました。
語り手の祖父が先祖の苦労話を語って聞かせるのは、移住から七代の末裔であっても、「よそもの」として差別されてきたという意識があることが窺えます。
本書で語られた断片的な人生の記録は、読んでいて心を揺さぶられ、最後の津波の場面では涙が出ました。
両親や弟妹や妻子を養うために、毎日必死に働いてきた語り手が、最後には家出してホームレスとなり、自死を選び取ったことは、他人が勝手にいいとか悪いとか言うことは許されない、と感じました。

孫娘が、見捨てられた飼犬を救助して逃げるのが遅れ、津波にのまれて死ぬ場面は、津波で死んだわたしの知り合いを思い出しました。
読書会でも、東日本大震災の思い出を分かち合い、「津波てんでんこ」という言葉の意味を皆さんと一緒に考えました。
「津波てんでんこ」とは、家族を見捨てて自分だけ逃げろ、という意味ではなく、家族が絶対に逃げていると信頼して、自分も逃げるという意味であり、家族との信頼関係があってこその言葉だそうです。
本書は、全米図書賞を受賞するにふさわしい一冊であると思いました。




引用:柳美里『JR上野駅公園口』(河出書房新社、Kindle版)
Miri Yu "Tokyo Ueno Station" Morgan Giles, Penguin Publishing Group, Kindle 版

参考:ミューラー、宇津木二秀『漢英和対照 英語で読む『般若心経』 付『仏説 阿弥陀経』』(Kindle版)



2020/11/29

メアリー・メラー「境界線を破る!-エコ・フェミ社会主義に向かって」



メアリー・メラーの『境界線を破る!-エコ・フェミ社会主義に向かって』(新評論)を読みました。
メアリー・メラー(Mary Mellor)は現在、ノーザンブリア大学の名誉教授であり、同大学の持続可能な都市研究所(the Sustainable Cities Research Institute (SCRI))の創設委員長を務めました。
メラーは、社会主義、フェミニスト、グリーンの視点を統合したオルタナティブ経済学について幅広く発表しています。
以下に、本書の要点をまとめた上で、メラーのディープ・エコロジー批判の妥当性について考察したいと思います。

【目次】
1.メアリー・メラー『境界線を破る!-エコ・フェミ社会主義に向かって』を読む
2.メアリー・メラーのディープ・エコロジー批判の妥当性に対する考察

◆◆◆

1.メアリー・メラー『境界線を破る!-エコ・フェミ社会主義に向かって』を読む


本書の論点は、①緑派の運動の潜在的可能性と限界、②家父長制的資本主義が女性と自然界に与えたインパクト、③男性支配の社会主義が資本主義と対峙するのに失敗した次第の考察、④女性の生活と仕事およびエコロジー的限界の拘束の分析を基礎にして、エコ・フェミ社会主義の諸要素の構築。


緑派の運動の代表的なグループ:

「俺の裏庭に足を踏み入れるな」NIMBYS(Not In My Back Yard)、「世界自然保護基金」WWF(World Wide Fund for Nature)、「ウィルダネス協会」(Wilderness Society)、「シエラ・クラブ」(Siera Club)、「グリーン・ピース」(Green Peace)、「地球の友」(Friends of the Earth)、「新時代における女性のオールタナティヴな発展をめざす」DAWN(Development Alternatives for Women in a New Era)、「世界女性環境会議」World WIDE(World Women Working for Women dedicated to the Environment)、「女性環境保護ネットワーク」(Women's Environmental Network)、「黒人環境保護ネットワーク」(Black Environmental Network)、「動物解放戦線」(Animal Liberation Front)、「地球第一!」(Earth First!)、「海の警察犬協会」(Canadian Sea Shepherd Conservation Socitety)

「グリーン・ピース」と「地球の友」はもっとも積極的な活動家たちの最大のキャンペーングループである。
「動物解放戦線」、「地球第一!」、「シー・シェパード協会」はキャンペーングループのなかで一番急進的であり、後者二つは「ウィルダネス協会」や「グリーン・ピース」から生まれてきた。このような急進的なグループのメンバーは、「エコタージュ」(エコロジー的に害を与えるものにたいする直接行動以外の、例えばサボタージュのようなもの)を実践しており、メラーによれば「地球を守るために」自ら進んで代償を払う「エコ革命家」である。
上記の代表的なグループについては、以前に読んだフレッド・ピアス『緑の戦士たち-世界環境保護運動の最前線-』に詳しく記されている。


緑の政治:

はじめて緑の党がつくられたのは、1973年イギリスにおいてであり、緑派がはじめて地方政権をとったのはフランスにおいてであるが、もっとも国際的に注目を集めたのは1983年にドイツ緑の党(グリューネン Die Grünen)が旧西ドイツ連邦議会で28議席を取得し、ペトラ・ケリーの名が世界中に知られたときである。
メラーによれば、グリューネンがつくり始めた四つの主な政治的原則(=エコロジー、社会主義、非暴力、分権化)は、エコ・フェミ社会主義的政治のヴィジョンである。
しかし、グリューネンはドイツ社会民主党との同盟以降、「レアロス」(現実派)と「フンディス」(原理派)とに分裂し、派閥間の対立に陥ってしまった。

フンディス(原理派)内には、ディープ緑派と「左翼的」緑派があり、レアロス内には「社会主義的」緑派とライトな緑派がいる。
さらに、草の根民主主義の原理に忠実であろうとするグループと、伝統的な路線を踏まえた政党をつくろうとするグループがあり、区分は複雑である。
グリューネン初期の指導的メンバーのひとりであったルドルフ・バーロは「たとえすべての提案が拒否されるとしても、全体的なメッセージを含んでいるわれわれの提案の方が、たとえ受けいれられはしても全体のプロセスがもっている自殺行為的な論理に手をつけずに、ただ徴候の修正に着手するだけの提案より、100倍もの価値がある」と述べている。
このバーロの立場は北アメリカの緑派の運動に影響をもたらしていると言える。
カリフォルニアでは強力な運動があったにも関わらず、ソーシャル・エコロジーを提唱するマレイ・ブクチンは、伝統的な政治システムの「薄汚れた現実」に関与すべきではない、と主張している。

メラーは、「改良主義か革命か」と選択をつきつけるのは、私たちを分断する「不要な境界線」であるとし、「革命家と改良主義者は対立すべきではなく、パートナー関係を結ぶべき」であると論じている。


ディープ・エコロジーとエコ・フェミニズムに関して

共通点:

メラーによれば、現在と過去、人間と自然、物質的なものと霊的精神的なもの、その間にある境界線に根底から挑戦してきたのが、エコ・フェミニストとディープ・エコロジストである。
両者とも、選挙に基づく政治や環境政策の問題を超えて、人間的実存にたいするもっと根源的な問いかけへと私たちを導いている。
エコ・フェミニズムは、ディープ・エコロジーとともに緑派の運動の内部において理論的、哲学的にいちばん活発に発展している分野である。

エコ・フェミニズム:

メラーによれば、エコ・フェミニストたちは女性のもっている自然との親和力と、男性の手による自然と女性の搾取というボーヴォワールの分析を共有しているが、彼女とは異なり、自然から「自由な」女性を求めてはおらず、むしろ自然と女性の親和的関係を讃え、これを利用して、男性がつくってきた自然と文化の間にある境界線をうち破りたいと考えている。
エコ・フェミニズムの考え方のなかには、次のような緊張関係が存在している。
女性と自然の関係は社会的につくられたもので、したがって社会的に解決できると考える人々と、特定の社会と時代を超えた生物学的かつ霊的精神的な親和関係があるため、女性と自然はより深い関係と考える人々の対立である。
キャロリン・マーチャントは社会主義的なエコ・フェミニズムのパースペクティヴから、アドリエンヌ・リッチはラディカル・フェミニズムのパースペクティヴから、生物学的なものと社会的なものは女性の生活のなかで絡みあっていると見ており、一方を他方から「きり離そう」としてきたものこそ男性的思考であると論じている。

親和的エコ・フェミニズムは、ニューエイジの考えとも、メアリ・ダリーやスーザン・グリフィンと結びついたラディカルな文化フェミニズムとも重なり合っている。
しかし、エコ・フェミニズムのインスピレーションの多くは、先住アメリカ人の文化がもっている霊的精神に由来しているため、埋もれた文化遺産を略奪する「文化的墓荒らし」に満足してしまう危険性があると、メラーは論じている。
社会的エコ・フェミニストのジャネット・ビールは、この種の研究は焦点を逸らすものであり、「私たちの神話をたんに『悪しき』ものから『良き』ものへ変えるだけで、私たちの社会的現実も変わるだろう、といった誤った前提をつくるもの」であると非難している。
一方で、霊的精神性とは社会的現実を変革する闘争のなかで女性を鼓舞する一源泉なのであり、スターホークによればエコ・フェミニズムの霊的精神性は「内在性、相互の結びつき、コミュニティ」の三本の糸によって貫かれている。

メラーは、女性は明るみに出されるべき真理を「その忠実な信者として」探し求めている、と仮定されうるのか、それとも、女性そのものが、新しい方法で、自然と関連している人間について「知ること」の源泉となりうるのか、と論じる。
この問いはエコ・フェミニズムの霊的精神性と政治行動の関係において重要な意味を持っている。
もし、神秘的なものが自然との親和関係を表す隠喩ではなく、「現実である」と考えられるのであれば、変化の動員は、社会や既成の政治組織を超えたところに移り、政治的な原動力は、各個人と神秘的源泉の間にあるということになる。
したがってメラーは、そのメッセージを「自覚して」いる人々や、それを「悟った」人々とそうでない人々との間に、ヒエラルキー的でも分裂的でもある関係をつくる結果になると、危惧している。
メラーは、「私たちに必要なのは、女性の惑星との生物学的な親和力に目を向けるより、男性にその親和力が欠けているのはなぜか、その理由を探ること」であり、「男性が母親にならないようにし向けているものはなにか」を問う必要があると主張する。

また、社会的エコ・フェミニズムに対して親和的エコ・フェミニズムが優勢になった場合、フェミニズムのダイナミズムを失ってエコ・フェミ二ンの原理、つまり「女性」原理、「フェミニン」原理の賞賛に転化してしまう危険性がある。
エコ・フェミニズムは男性がつくりあげてきた二元性の克服を強調する場合、男性の社会支配をフェミニズム的世界ととり替えることを求めているのか、それとも男性原理の圧倒的優位のバランスをとるために失われた二元性の半分である「フェミニン原理」を補うことを求めているのか、明確ではないとメラーは主張する。

メラーは、前者の立場をエコ・フェミニストと称するのは適切だが、後者の立場はエコ・フェミ二ンと表現するべきであると主張する。
フェミニンとは、男性的なものの失われた半片などではなく、家父長制的文化のなかで男性的なものをつくるために男性が必要としているものであり、ボーヴォワールが指摘しているように、男性の権力の源泉となっているものである。
したがって、家父長制的社会の中で、女性が抑圧を体験しているからこそ、自然に対するものも含めてそれ以外の抑圧と搾取の形態を分析するユニークな視点が女性に可能となるのである。

このように親和的エコ・フェミニズムによって、社会問題や政治問題から目が逸らさせることになる危険性はあるが、それでも女性の「生物学的特殊性」と霊的精神性は力を呼びおこす巨大な源泉であるとメラーは論じる。
メラーによれば、女性のもっている統合的な力を明証しているのがチプコ運動である。
結論としてメラーは、社会的エコ・フェミニズムと親和的エコ・フェミニズムの両者の洞察がともに必要なのであり、あれかこれかの問題ではないと主張する。

メラーが論じた「親和的エコ・フェミニズム」と「社会的エコ・フェミニズム」の対立は、以前に読んだイネストラ・キングが「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」の中でも詳しく論じられている。
リンク先記事に、イネストラ・キングによる分類に則り、リベラル、社会主義、文化の各フェミニズムの見取図を掲載しているので、参照のこと。
キングは、ラディカル・フェミニズムにおいて社会主義フェミニズムと文化フェミニズムの対立があることを示し、そのどちらの意見も取り入れたエコフェミニズムを提唱した。
社会的エコ・フェミニズムと親和的エコ・フェミニズムとの意見対立を乗り越えようとする姿勢は、メラーとイネストラ・キングは共通していると言える。

ディープ・エコロジー批判:

ディープ・エコロジーには、二つの原理的矛盾があるとメラーは指摘する。
第一の矛盾は、人間を含めて存在するものすべてに平等な内在的価値があるとする考え方(生物中心の平等主義)と、自然中心主義(エコ中心主義)の関係にある。
メラーによれば、ディープ・エコロジーの本質は、全体つまりガイアのニーズが優先権をもたねばならないということにあるため、エコ中心主義はアンチ・ヒューマニズムへと容易に転落する。

第二の矛盾は、自然の内在的価値という考えと、人間の自己実現という目的の関係にある。
ディヴォールとセッションズが「ディープ・エコロジーはいわゆる事実のレヴェルを越えて、自己と地球の叡知のレヴェルへと進み...包括的な宗教的、哲学的世界観を明瞭に表現し...エコロジー的意識を包含した私たち自身と自然を根本的に直感し体験する」と論じていることから明らかなように、ディープ・エコロジーの目的のひとつは自然界との関係を通じて「私たち自身をより深く体験すること」とされており、このような動機は自然中心ではなく、人間中心であり、ディヴォールにとって自然保護とは「自己防衛」なのである。
メラーは、この二つの矛盾の結果、ディープ・エコロジーは人間中心主義の底流にアンチ・ヒューマニズムの要素を結びつけることになり、潜在的に人種差別主義、性差別主義、階級差別主義であると論じる。
メラーは、有効なエコロジーの政治をつくりあげるためには、ディープ・エコロジーの洞察を、社会内部の社会的、経済的な分裂の理解と結びつける必要があると主張する。

メラーによれば、ディープ・エコロジー運動における北アメリカでもっとも強力な直接行動グループである「地球第一!」は、驚くほど性差別的である。
元海兵隊員のデイヴ・フォアマンらカウボーイ風の靴と帽子で身を固め、「たくましく元気な顔をした」6フィート5インチの長身ですっくと立ち、ブルドーザーの(おそらく同じように男性的な)運転手に立ち向かうといったイメージが賞賛されている。
そこで語られるロック・クライミング技術を使って300フィートの木によじ登るというような、メンバーの手柄話には肉体的な技術と力強さが要求されており、女性メンバーが多数いるにも関わらず、女性参加の歴史は書かれていない。
なお、カナダの強力な直接行動グループ「シー・シェパード協会」も同じである。
メラーによれば、原野保護の闘いのなかには強いフロンティア精神の匂いがあり、カウボーイとインディアンの代わりに、エコ戦士の移住者と木材伐採や道路建設の「新植民者」が登場する。
双方とも白人男性であり、最後のフロンティアに手を伸ばそうとしているが、ある者は搾取すべき原材料の源泉として、他方は体験すべき「処女」地として見ているのである。

しかし、原野保護の問題はけっして単純ではなく、潜在的な人種差別の要素があり、誰が原野の所有者なのかという階級的問題もあると、メラーは批判する。
ある土地が原野であると宣言することは、そこが(先住民もワイルドだと想定しないかぎり)先住民にとって故郷ではない、と想定することなのである。


エコ・フェミ社会主義(Feminist Green Socialism)

緑派の社会運動、緑の党の政治、エコフェミニズム、ディープ・エコロジーの議論を踏まえて、メラーが提唱する新しいヴィジョン.は、「女性中心でありなおかつ地球中心でもあるヴィジョンであり、人間社会のなかの、また人類と自然界の間の創造的関係を回復し再建することになるようなヴィジョン」である。

メラーによれば、従来の社会主義は「女性の不払い労働や、植民地化された人々の搾取と抑圧、地球資源の「無料」の搾取を無視したもの」である。
したがって、メラーは「私たちに必要なのは、男性と資本主義双方の拘束から私たちを解放できる社会主義」と主張する。

将来の社会主義(エコ社会主義):

メラーの提唱するエコ社会主義の出発点は、世界の天然資源が私的所有によっても、国民という境界線によっても分割されない状態をうちたてることでなければならず、私たちが持続可能で、社会的に公正な社会をつくらねばならないとすれば、富を共有するようにしなければならない。
将来の社会主義が意味するものは、真に分裂のない世界を実現することである。
神秘主義的転回を遂げた緑派の人々は、私たちが自然界との結びつきを意識の変革として認識すべきであると強く主張し、この結びつきを精神的かつ敬虔な仕方で認識すれば私たちの責任が自覚され、その責任感から行動するようになると仮定している。

一方でメラーは、私たちは地球との結びつきを認識していないかもしれない、実質的にはこれまで地球と結びつき、相互に結びつき合ってきていることに問題の本質があると論じる。
メラーによれば、「初期の社会が地球に対して抱いていた敬虔さはたんに精神的なものではなく、世界を文字どおり境界のないものと見なす物質的現実を反映したものであり、問題は、境界なき世界の精神的認識の再創造ではなく、国民国家、私的土地所有、分裂した個々人によって境界線を引かれている世界のなかで、境界なき世界を実質的現実として実現する政治ルートを発見すること」なのである。

エコ・フェミ社会主義:

メラーが提唱するエコ社会主義の社会が実現されるとすれば、それはフェミニズム的な社会でなければならない
エコ・フェミ社会主義の課題は、男性の利害と経験に基づいてうちたてられた世界、男性の体験する世界、私=ミーの世界から、女性の利害と経験に基づいてうちたてられた世界、女性の体験する世界、私たち=ウィーの世界へと転換することである。
女性の経験に基づくわれわれの世界が必要とするのは分権であり、エコロジー的、物理的、社会的な安全と言える。



◆◆◆

2.メアリー・メラーのディープ・エコロジー批判の妥当性に対する考察

メラーが論じた、ディープ・エコロジーにおける生物中心の平等主義と自然中心主義(エコ中心主義)は矛盾しており、アンチ・ヒューマニズムに陥りやすいという批判に関して考えてみたい。
ディープ・エコロジーを最初に提唱したアルネ・ネスは、次のように応答している。

平等の権利という言葉でもって定義された生命圏平等主義の原理は、これまで時々誤解され、人間の必要は人間以外のものたちの必要に対してけっして優先されるべきものではないことを意味していると受け取られた。しかしこのような意図はまったくない。実際において私たちは、たとえば私たちにより近いものに対しより大きな責任を負う。これは、義務には時として人間以外のものの殺生や傷害が含まれることを意味している。(アルネ・ネス『ディープ・エコロジーとは何か』文化書房博文社、1996年、271頁)

上記のように、ネス自身はそもそも、生態圏中心主義(自然中心主義またはエコ中心主義)という言葉を用いていない。
彼は、生態圏中心主義ではなく、生命圏平等主義ないし生態圏平等主義という言葉を用いている。
ネスの提唱した生命圏平等主義は、人間と人間以外のものすべての権利が尊重される社会である。
生態圏中心主義という言葉には、人間中心に対して生態圏中心という、人間対自然の二元論的思考が根底にあると言える。
ネスは、人間対自然の二元論的思考を回避するために、生態圏中心主義ではなく、生命圏平等主義を構想したと言える。
したがって、生態圏中心主義に対するメラーの批判は、ネスの哲学を厳密に読み解く限りにおいて、妥当ではない。

しかし、現実のディープ・エコロジストの多くは、生態圏中心主義という言葉を用いている上に、人間嫌いの傾向も強い。
このような事実から、ディープ・エコロジーは生態圏中心主義の立場からのウィルダネス保存の運動として誤解され、批判されてきたと言える。

さらに、メラーが論じたディープ・エコロジーにおける自然の内在的価値という考えと、人間の自己実現という目的の矛盾について考えてみたい。
アルネ・ネスが提唱した「エコソフィT」において、最高の規範、究極の目標を示す言葉として、「自己実現」(Self-realization)がある。
ネスによれば、この用語は次の四つの段階に厳密化される。
T0 : 自己実現(self-realization)
T1 : 自我実現(ego-realization)
T2 : 自己実現(self-realization)
T3 : 自己実現(Self-realization)
ネスは、自我(ego)と自己(self)を区別するだけでなく、小文字ではじまる自己(self)と大文字ではじまる自己(Self)を区別して、言葉を用いている。
個人主義的で功利主義的な思考の中で用いられる、自己実現、自己表現、自己利益などの言葉は、ネスの言う「自我実現」に対応している。
ネスは、我々が自我(ego)あるいは偏狭な自己(self)から出発して、深遠にして包括的なエコロジー的自己(Self)を目指すことを「エコソフィT」の究極の目標と構想したのである。

したがって、「エコソフィT」における「自己実現」(Self-realization)という概念は、他のものから導き出せない究極の規範であるため、自然の内在的価値という仮定から導出されたものではない。
「エコソフィT」において最も基本的な規範(最高の規範)である「自己実現」から導出された「生態学に由来する規範と前提」に、自然の内在的価値が含意される。
すなわち、自己実現と内在的価値は矛盾しないため、これについてのメラーの批判は妥当ではないと言える。

ネスの哲学は、すべてのものの相互関係性(関係主義的思考、ゲシュタルト的思考)を前提としており、自己実現(すなわち、自己の拡張)が進むことによって、我々自身にとっての最善が、また他の存在にとっての最善になる。
したがって、究極の目標としての「自己実現」の追求から、生態系全体における階級なき社会、すなわち「生態圏平等主義」(ecospherical egalitarianism)が導き出されるのである。
ネスは、「生態圏平等主義」あるいは「生命圏平等主義」というディープ・エコロジーの原理を、「全生物種の民主制」(a democracy of life forms)という言葉で説明してしている。

このように、ネスの「エコソフィT」における「自己実現」と「生態圏平等主義」を読み解けば、ディープ・エコロジーはアンチ・ヒューマニズムであり、人種差別主義、性差別主義、階級差別主義であるという批判は的外れであることが分かる。
しかし、メラーを含めたエコフェミニズム、ソーシャル・エコロジー、ポスト・コロニアリズムの人々が、ディープ・エコロジー運動をアンチ・ヒューマニズムであると批判する理由は、ディープ・エコロジーを標榜する急進的な活動団体の存在があると言える。
また、ネスの哲学を継承しディープ・エコロジー哲学を展開しているGeorge SessionsやBill Devallも、ウィルダネスと野性を重視し、原始を理想化する傾向がある。
ネス自身は、ウィルダネスの保存と拡充の必要性に言及してはいるが、ウィルダネス保存を重視することが人間を敵視し人権を蹂躙するアンチ・ヒューマニズムになってはならないと警告している。

メラーのディープ・エコロジー批判は、ネスの「エコソフィT」に対しては明らかに誤解と言えるが、一部のディープ・エコロジストの極端な意見や行動に対しては、妥当な批判であると言える。
メラーが批判したとおり、アンチ・ヒューマニズムな生態圏中心主義の思考を前提としたウィルダネス保存運動は、非常に差別的であり、貧しく抑圧された人々や女性に対して著しく公正さを欠いていると言えるだろう。
ディープ・エコロジストの極端に抑圧的で厭世的な意見は批判されるべきであると思うが、ネスの提唱した「エコソフィT」の「生態圏平等主義」の原理と、そこから導き出される「全生物種の民主制」は、メラーの提唱するエコ・フェミ社会主義の理想と重なり合う部分が多いのではないか、とわたしは考える。



読了日:2008年10月10日

2020/11/15

「ハイドリヒを撃て!」(ショーン・エリス監督)

ハイドリヒを撃て! 「ナチの野獣」暗殺作戦
  • 監督: ショーン・エリス
  • 発売日: 2018/2/2


ショーン・エリス監督の映画「ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦」(2016年、原題"Anthropoid")を観ました。
第二次世界大戦中の1942年に、チェコスロバキアのレジスタンスたちによって実行された「エンスラポイド作戦」(Operation Anthropoid)を題材とした映画です。
その作戦の目的は、ナチス・ドイツ軍によって占領されたボヘミアとモラビアの統治者であったラインハルト・ハイドリヒを暗殺することでした。
チェコ、イギリス、フランスの合作映画で、2015年の夏に、プラハの出来る限り実際の場所で撮影され、冬の場面も人工雪を用いて撮影されました。

わたしは、2014年6月の読書会でローラン・ビネの『HHhH プラハ、1942年』(2013年、東京創元社)を読んで、この「エンスラポイド作戦」について初めて知りました。
本作は、ローラン・ビネの歴史小説を原作とした映画ではなく、脚本はショーン・エリス監督自身とアンソニー・フルーウィンが執筆しています。
ショーン・エリス監督は、1970年イングランド・ブライトン生まれ。
アンソニー・フルーウィンは、1947年ロンドンのケンティッシュ・タウン生まれで、かつて映画監督スタンリー・キューブリックの個人アシスタントを務めたこともあり、現在はスタンリー・キューブリック・エステートの代表を務めています。
なお、ローラン・ビネの『HHhH』に基づいた映画は2017年に公開されており、そちらはセドリック・ヒメネス監督の「ナチス第三の男」(原題"HHhH")です。

※ネタバレ注意※

映画の冒頭、ナチス・ドイツ軍によるチェコスロバキアの占領後、親衛隊最高幹部で国家保安本部長官であったラインハルト・ハイドリヒが保護領副総督に就任し、抵抗運動を行うチェコ人たちを大量に逮捕し、公開処刑した事実を実際の記録映像を用いて説明しています。

1941年12月、在英チェコスロバキア亡命政府から密命を受けた二人の工作員、スロバキア人のヨゼフ・ガブチークとチェコ人のヤン・クビシュは、彼らの占領された祖国にパラシュートで降下しました。
ヨゼフ・ガブチークをキリアン・マーフィー(1976年アイルランド生まれ)が、ヤン・クビシュをジェイミー・ドーナン(1982年北アイルランド生まれ)が演じています。
着陸時に木を突き破って墜落したヨゼフは負傷しますが、二人はレジスタンス組織の連絡員に会うために出発します。
まもなく彼らは、二人のチェコ人に発見されますが、その二人はレジスタンスへの協力者を装った密告者でした。
密告に気づいたヨゼフは、躊躇なく一人を撃ち殺しますが、逃走したもう一人の男を追いかけたヤンは、撃つのにためらって逃走を許してしまいます。
この冒頭の短い戦闘場面で、占領統治下に暮らすチェコ人が、報奨金目当てに同胞であるレジスタンスを密告する現実を説明するとともに、ヨゼフとヤンの軍人としての覚悟の違いを表現しています。

ヨゼフとヤンはプラハに入りますが、市内の至る所にドイツ兵が立って市民を監視し、兵士たちを乗せた軍用車や軍用犬を連れた兵士が行き交います。
ヨゼフの負傷した足をエドゥアルド医師が手当し、その医師に手配によって、レジスタンス組織インドラの幹部であるラジスラフ・ヴァネックとハイスキーに会うことができました。
ヨゼフとヤンが自分たちの使命を明かすと、ヴァネックは報復を恐れて反対し、亡命政府を強く非難しますが、トビー・ジョーンズ演じるハイスキーは、「チェコスロバキアはナチス・ドイツに抵抗する意志があるか」試されていると言い、「エンスラポイド作戦」への協力を表明しました。

ヨゼフとヤンはレジスタンスの協力者であるモラヴェツ家に下宿することになり、アレナ・ミフロヴァ演じるモラヴェツ夫人は二人を温かく迎え入れます。
ビル・ミルナー演じるモラヴェツ家の息子アタは、ヴァイオリニスト志望の気弱そうな青年ですが、母親同様にレジスタンスの協力者です。
モラヴェツ家で働く若い家政婦のマリーも協力者であり、同じく協力者である処刑されたチェコ軍人の娘レンカを紹介します。
マリーを演じたのはシャルロット・ルボン(1986年カナダ生まれ)、レンカを演じたのはアンナ・ガイスレロヴァ(1976年チェコスロバキアのプラハ生まれ)です。
限られた情報と少ない装備で、ヨゼフとヤンはハイドリヒを暗殺する方法を見つけなければなりません。
ヨゼフはレンカと、ヤンはマリーと恋人同士を装って外出し、二人はレジスタンスの仲間たちと会合し、彼らと同様にパラシュートで送り込まれた他の工作員アドルフ・オパルカとカレル・チュルダと合流します。

ヤンとマリーは互いに愛し合うようになり、ヤンは結婚を申し込み、マリーも受け入れますが、ヨゼフはヤンに自分たちの使命を思い出させます。
ヨゼフもレンカと心を通わせていましたが、ヨゼフにとってはどんな感情よりも祖国のために使命を果たすことが重要でした。
作戦決行の前日、使用する銃の準備をしていたヤンは、至近距離で標的を射殺しなければならない恐怖によって、過呼吸の発作を起こしますが、ヨゼフはヤンに訓練どおり銃弾を込める動作をさせ、彼を落ち着かせます。
至近距離で暗殺作戦を実行することは、護衛兵の反撃によって自分たちも射殺されることが必ず想定されます。
映画の冒頭で密告者を撃てずに逃がしてしまったヤンは、マリーを愛したことによって、「死にたくない」という思いがより強まり、過呼吸を引き起こすほどの緊張と恐怖を感じたのでしょう。
特殊訓練を受けた軍人であっても、祖国のために命を捨てる覚悟を決めるには、言葉にできない恐怖や葛藤を乗り越えなければいけないのだと説得力を持って伝わり、心揺さぶられました。

1942年5月27日午前10時30分、暗殺作戦は実行されました。
ヨゼフのステン短機関銃は暗殺に失敗しますが、ヤンの投げた対戦車手榴弾が爆発してハイドリヒに重傷を負わせました。
ヤンは自転車に飛び乗って、コルトM1903を発砲しながら逃げ去り、ヨゼフは電信柱の後ろに隠れて発砲し、ハイドリヒと交戦しました。
逃げ惑うプラハ市民の間をヨゼフは逃走し、肉屋へ逃げ込みますが、肉屋の店主はナチスの協力者であり、店の外に飛び出して大声で叫び、追跡する兵たちを呼びよせます。
ハイドリヒの運転手を務めていた親衛隊曹長ヨハンネス・クラインがヨゼフを追って来て、彼はクラインを銃撃し、トラムに乗って逃走し、隠れ家までたどり着きました。
ハイドリヒは病院に運ばれたが、爆発の負傷によって、1942年6月4日に死亡しました。

暗殺実行犯を取り逃がしてしまった親衛隊の治安部隊は、チェコ人に対して凄まじい報復を行います。
リディツェ村は破壊され、16歳以上の男性は全員射殺され、子供や女性は強制収容所に送られるなど、虐殺が続きました。
路上でナチス兵から逃げようとしてレンカが殺されたことを知ったヨゼフは、ひどく取り乱し、ヤンに抑えられます。
これまで常に落ち着いた態度で感情を抑制していたヨゼフが、初めて感情を表に出した場面で、言葉に出さずとも、彼がレンカを心から愛していたことがよく分かります。
ヨゼフとヤンと作戦を実行したオパルカたち工作員は、プラハの聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂の神父に匿われ、聖堂で潜伏生活を始めます。
一方、ヨゼフたちと同じパラシュートで送り込まれた工作員でありながら、作戦決行当日に現場に来なかったカレル・チュルダは、仲間を裏切って暗殺犯の正体を明らかにし、彼らを匿っていたモラヴェツ家の情報を売りました。

カレルの裏切りによって、モラヴェツ家は多数のゲシュタポ将校に襲われ、モラヴェツ夫人は青酸カリの錠剤を飲んで自殺。
息子アタは残忍な拷問を受け、ついにナチスの要求に屈します。
カレルの裏切りが発覚した直後から、モラヴェツ家が襲撃されるまでの場面に、J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番「シャコンヌ」BWV1004が演奏され、この家族の過酷な運命を暗示するようで、悲愴感がいっそう際立ちました。
1942年6月18日、何百人ものナチス軍が大聖堂を襲撃し、ヨゼフとヤンを含む工作員たちは6時間に及ぶ壮絶な戦いの末、死んでいきました。
同じ時間に、レジスタンス組織を率いるハイスキーの家もゲシュタポ将校に襲撃されますが、彼も逮捕される直前に服毒自殺しました。

ナチス軍に包囲される中で、ヤンが「死にたくない」と恐怖するブブリークに訓練どおり銃弾を込める動作をさせ、落ち着かせる場面は、作戦決行前日にヨゼフがヤンを落ち着かせるために行ったものと同じでした。
ブブリーク同様に、かつては死の恐怖に怯えていたヤンは、自分の死を受け入れた上で、最後の戦闘に向かったように感じました。
ヨゼフたちが隠れていた地下墓地は水責めされ、流れ込んでくる大量の水の中で応戦し、最後まで残った工作員全員が自殺しました。
自殺を決意した瞬間、ヨゼフは光の中に自分を迎えに来たレンカの幻を見ます。
彼女はヨゼフに向かって手を伸ばし、引き金を引いた時のヨゼフの表情は穏やかで満足げで、地上では一緒になれなかった二人が、これから天上では永遠に一緒にいられるのだ、と思わせる演出でした。
最後の自殺の場面で、ロビン・フォスター作曲の"The Crypt"が流れ、静かで美しいピアノの旋律が心に残りました。
最終的には、ハイドリヒ暗殺の報復として、推定5000人ものチェコ人が親衛隊によって殺されたという事実が説明され、映画は終わります。



ローラン・ビネの『HHhH』を読んで、「エンスラポイド作戦」の結末まで知った上で観ましたが、やはり重苦しく辛く悲しい気持ちになりました。
実際の出来事は、ホラー映画よりもよほど恐ろしいと感じました。
一番観ていて辛かったのは、モラヴェツ家の息子アタが、カレル・チュルダの裏切りによってゲシュタポに逮捕され、惨たらしい拷問を受ける場面です。
映画鑑賞後に『HHhH』を読み返してみて、モラヴェツ家について、映画で描かれたとおりの歴史的事実が書かれていましたが、ほんの数行の文字を読むのと、実際に映像で見るのでは、衝撃が全く違うものだなと改めて感じました。
モラヴェツ家の17歳の息子アタは、一日中拷問を受けましたが、口を開くことを拒否しました。
少年はブランデーの飲まされた上で、切断された母親の頭を見せられ、口を割らなければ次は父親だと脅され、屈服したと記録されています。
アタと父親のモラヴェツ氏はマウトハウゼン強制収容所へ移送され、1942年10月24日に処刑されました。

映画では描かれませんでしたが、13,000人以上の市民が逮捕されて拷問を受け、カレル・チュルダの裏切りによって、レジスタンスの家族や協力者たち少なくとも254人が殺害されました。
その中にヤン・クビシュの恋人アンナ・マリノヴァ(Anna Malinová)、映画ではマリーとして描かれた女性も含まれており、彼女もマウトハウゼン強制収容所へ移送されて死にました。
最後に聖堂で立て籠もって戦い自殺した工作員の一人アドルフ・オパルカの父も殺害され、叔母もマウトハウゼン強制収容所に移送されて処刑されました。

パラシュートで送り込まれた工作員でありながら仲間を裏切り、親衛隊に自発的に情報を提供したカレル・チュルダが、その後どうなったのか、映画では描かれていません。
カレルは50万ライヒスマルクの報奨金を受け取り、彼の母と妹は拘留から解放され、彼は新しい名前とドイツ市民権を得ました。
1944年に親衛隊員の姉妹であるドイツ人女性と結婚し、プラハに住居と月給3,000ライヒスマルクを受け取り、ゲシュタポのために働くスパイとして終戦まで活動しました。
彼はレジスタンスのふりをしてベーメン・メーレン保護領を旅し、彼を匿った全ての人々をゲシュタポに引き渡しました。
1945年5月、彼はアメリカの占領地に逃げようとして、チェコのレジスタンス組織に逮捕され、釈放後に裏切り者であったことが明らかになって再逮捕され、裁判で重反逆罪により死刑判決を受けます。
裁判では、彼は反抗的で図々しい態度で、裁判官にパラシュート部隊員の仲間を裏切った理由を聞かれて、「100万マルクのためならあなたも同じことをする」と答えました。
判決を受けた当日、1947年4月29日に彼は絞首刑に処されました。

映画では、レジスタンスの秘密会合を行うカフェにナチス兵が立ち寄った時に、カレルが室内で大きな物音を立てる場面や、会合で暗殺作戦の中止に賛同する場面を描き、最終的には襲撃当日に現場に来ないという場面を描いて、カレルが裏切り者になる伏線を演出しています。
映画を見ると、チェコ人全員が一致団結してナチスに抵抗したわけではなく、ヨゼフやヤンやハイスキーのように自分の命を捨てて抵抗する意思を示す人々や、モラヴェツ家やマリーやレンカのようにレジスタンスに密かに協力する人々、カレルや肉屋の店主や最初に出会った密告者のようにゲシュタポに協力して同胞を裏切る人々などが隣り合って暮らしていて、占領下のチェコ社会の複雑さがよく分かりました。
ナチスの占領統治がチェコ人の間に断絶を生み出し、誰が敵か味方か分からず、いつ密告され逮捕されるから分からない恐怖で、常に緊張を強いられる生活は、人々に連帯して抵抗する力を失わせていると感じました。




映画のエンディングの一番最後に流れた"Dulce et Decorum Est"という合唱曲が、静かな祈りに満ちた美しい歌声で感動しました。
イギリスの作曲家ガイ・ファーリー(Guy Farley)が、本作のために作曲した合唱曲で、有名なレクイエムの一節とホラティウスの一節から成る歌詞が歌われています。

Requiem æternam dona eis, Domine,
et lux perpetua luceat eis.
主よ、永遠の安息を彼らに与えてください、
そして絶えることのない光が彼らを照らしますように。

Dulce et decorum est pro patria mori.
祖国のために死すは美しく名誉なり。

古代ローマの抒情詩人ホラティウスの『頌歌』第3巻第2歌(Odes III.2.13)の一節である、"Dulce et decorum est pro patria mori"とは、直訳すると「祖国のために死ぬことは甘美にして名誉あることだ」という意味です。
この名句は、イギリスの詩人ウィルフレッド・オーウェン(Wilfred Owen, 1893年-1918年)が、第一次世界大戦中に自身の悲惨な従軍体験を歌った反戦詩の表題として引用され、よく知られるようになりました。
映画の終曲に歌われた"Dulce et Decorum Est"を聞いて、わたしはオーウェンの"Dulce et Decorum Est"と題する詩を思い起こさずにはいられません。

My friend, you would not tell with such high zest
To children ardent for some desperate glory,
The old Lie: Dulce et decorum est
Pro patria mori.

友よ、君はそのような強い熱意をもって教えはしないだろう
命がけの名誉を求めている子供たちに
あの古くからの大嘘である「祖国のために死すは、美しくも名誉なり」を

オーウェンは"Dulce et Decorum Est"と題した詩の中で、醜くもだえ苦しみ、血泡を吹きながら死んでいく悲惨な兵士たちの姿を生々しく歌いました。
そして、祖国のために死ぬことを美化する価値観を真っ向から否定し、国家が若者たちを都合よく利用するための"The old Lie"であると厳しく批判したのです。
この詩は1917年から1918年に書かれ、オーウェンの戦死後、1920年に発表されました。
"Dulce et Decorum Est"というホラティウスの名句は、かつては戦没者の記念碑などに用いられましたが、1921年以降は戦争のプロパガンダとして批判的に解釈されるようになったと言われています。

映画の中では、ヤンやブブリークが「死にたくない」と恐怖する場面が印象的に描かれています。
実際のヤンは28歳、ヨゼフは30歳の若さで死んでいるのです。
二人が祖国のために覚悟を持って戦って死んでいったことは間違いなく、その行為をどう受けとめるかは、映画を観た一人ひとり違う思いを抱くでしょう。
このエンディング曲の歌詞には、"Requiem æternam dona eis"(主よ、永遠の安息を彼らに与えてください)というレクイエムの一節も用いられています。
ヨゼフとヤンたち7人のパラシュート部隊員をはじめ、モラヴェツ家やリディツェ村など、「エンスラポイド作戦」の影響で殺された5000人の人々へ、永遠の安息を祈るレクイエムであると感じます。
この曲は、静かな祈りと慰めに満ちた美しいレクイエムでありながら、"Dulce et decorum est pro patria mori"という言葉で、愛国心とは何か、祖国のために死ぬことは本当に美しく名誉なのか、問いかけてくるのです。


(2017年10月15日、映画館にて初鑑賞)

2020/10/30

マルセー・ルドゥレダ「ダイヤモンド広場」

ダイヤモンド広場 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 2019/8/21


2020年10月10日の読書会で、マルセー・ルドゥレダの『ダイヤモンド広場』を読みました。
マルセー・ルドゥレダ(1908年-1983年)は、スペイン・バロセロナに生まれ、カタルーニャ語で執筆した小説家です。
彼女の代表作『ダイヤモンド広場』(1962年)は、30以上の言語に翻訳され、映画や舞台にもなり、戦後のカタルーニャ文学の傑作の一つと言われています。
『百年の孤独』で有名なノーベル文学賞作家のガルシア・マルケスは、マルセー・ルドゥレダの愛読者であり、「『ダイヤモンド広場』は内戦後にスペインで出版された最も美しい小説である」(1983年)と絶賛しています。

『ダイヤモンド広場』は、1930年から50年代にかけて、スペイン・カタルーニャ州のバルセロナを舞台にした、一人の女性の半生の物語です。
本作は、第二共和国の到来とその後の内戦、戦後を背景としており、この歴史的な時代におけるバルセロナの人々の日常生活を忠実に記録しています。

※ネタバレ注意※

【目次】
1.小説『ダイヤモンド広場』について
...あらすじ
...感想と考察
2.映画"La plaza del Diamante"(1982年)について

1.小説『ダイヤモンド広場』について

あらすじ

若く初々しい主人公ナタリアが、バルセロナのグラシア街(Vila de Gràcia)にあるダイヤモンド広場(La plaza del Diamante)で、青年キメットと出会うことから物語は始まります。
ナタリアはケーキ屋で働き、ホテル・コロンで料理人として働くペラという許嫁がいましたが、彼女はペラと別れ、キメットと結婚します。
二人は古いアパートの一室を借りて新婚生活を始め、すぐに二人の子供(息子アントニ、娘リタ)に恵まれます。
キメットは木工所を自営する家具職人で、友人シンテットとマテウがいました。
彼の仕事は次第に上手くいかなくなり、ナタリアは旧家のお屋敷で家政婦として働き始めます。
キメットは家事や育児をナタリアにまかせきりで、鳩の飼育に夢中になっていきます。

1936年7月、スペイン共和国政府に対して王党派のフランコ将軍が軍事クーデタを起こし、スペイン内戦が勃発しました。
キメットやシンテットやマテウは共和国の民兵として出征し、前線へ行きます。
内戦が始まると、武装した民兵たちによって神父や地主、商店主などが処刑され、教会が燃やされ、土地や屋敷が接収されるようになります。
その状況の中で、ナタリアはお屋敷の家政婦の仕事を解雇され、市役所の清掃婦の仕事に就きますが、母子の生活は困窮を極めます。
ナタリアは、わずかな食料を手に入れるために、持っているものを全て売らなければならず、友人ジュリエタのすすめで息子アントニを困窮児童保護施設に預けます。
ナタリアが結婚する前からの友人ジュリエタは、共和国軍の民兵となっていました。
そしてキメットとシンテットが戦死し、マテウが銃殺されたという知らせを受けます。

困窮児童保護施設から帰ってきた息子アントニは、深刻な飢餓状態で、施設で暮らしている時に受けた虐待によって、別人のようになっていました。
明日の見通しが立たない中、持っているものは全部売り、掃除の仕事を掛け持ちして懸命に働きますが、ほとんど収入にならず食料は底をつき、飢え死の恐怖が迫ってきます。
極限まで追いつめられたナタリアは、二人の子供を殺して、自分も自殺することを決意します。
母子心中しようとしたナタリアを救ったのは、食料品店を営むアントニでした。
店主アントニは、塩酸を買い求めたナタリアが、お金を忘れたと明らかな嘘をついているのに気づきながら、塩酸を手渡します。
しかしアントニは、店から出たナタリアを追いかけ、彼女に家政婦として働くことを提案しました。
アントニの思いやりの提案を受けて、彼女は自殺のために手にした塩酸を店に返します。
そしてアパートに帰り、キメットの戦死を知った時でも泣かなかったナタリアは、ついに号泣したのです。

1939年、内戦はフランコ軍が勝利して終わりました。
以後、フランコの独裁は彼の死(1975年)まで続くことになります。
アントニの元で家政婦として働きながら、ナタリアはどん底の生活を少しずつ再建していきます。
その後、アントニは彼女に結婚を申し込み、貧しい未亡人であったナタリアは、彼の求婚を受け入れ、再婚しました。
再婚した夫アントニは、前夫キメットよりもはるかに理解がある男性であり、ナタリアの子供たちにとっても良い父親でした。
新しい生活に慣れようと必死だったナタリアは、娘リタから同じクラスの子の戦死したはずの父親が帰ってきた話を聞き、キメットも帰ってくるのではないかと悩み、恐怖におののきます。

時が経ち、息子アントニと娘リタは成人し、息子は継父の食料品店の跡継ぎを希望し、娘はバルを経営する実業家の青年と結婚しました。
娘の結婚式の夜、ナタリアはかつて暮らしていたアパートを一人で訪れ、キメットと初めて出会ったダイヤモンド広場へ行き、地獄のような叫び声を上げます。
そして前夫の呪縛から解放された彼女は、現在の夫アントニの家へ再び戻り、彼に愛情を感じながら眠りについて、健やかな朝の目覚めを迎えるところで物語は終わります。


感想と考察

本作は、スペイン内戦前(1-23章)、戦中(24-36章)、戦後(37-49章)の三つの部分から構成されています。
1929年に世界恐慌が起こり、1931年4月にスペイン革命が起きて、アルフォンソ13世が退位してブルボン朝の立憲君主体制が打倒され、第二共和政が成立しました。
新政府は政教分離を推し進め、土地改革も目指しましたが、これにカトリック教会、地主、資本家などが反発し、ファランヘ党というファシズム政党が誕生します。
これに対して、反ファシズムの運動が高まり、1936年2月に社会党や共産党などを中心としたスペイン人民戦線内閣が成立しました。
人民戦線内閣は労働者や貧農に支持された一方で、教会や地主、資本家は反発し、軍部を率いて人民戦線(共和国)政府に対する反乱を起こしたのが、フランコ将軍です。
このスペイン内戦は単に内戦にとどまらず、国際的な戦争に発展していきます。

まず人民戦線(共和国)政府を支援したのは、ソ連と世界各国から集まった義勇兵による国際義勇軍(国際旅団)でした。
国際義勇軍の中には、映画にもなった『誰がために鐘は鳴る』を執筆したアメリカ人のヘミングウェー、『人間の条件』を執筆したフランス人のアンドレ・マルロー、スペイン内戦の実態を『カタロニア讃歌』というルポルタージュにまとめた、イギリス人のジョージ・オーウェルなどが参加していました。
20世紀スペインを代表する詩人であり、『血の婚礼』を執筆したガルシア=ロルカは、内戦が始まった1936年8月19日の朝にフランコ側によって処刑されました。
一方、反乱軍を支援したのは、ナチス=ドイツ、イタリア、ポルトガルです。
イギリスとフランスは、スペインの内戦に対して介入せず、見て見ぬふりをする不干渉政策をとります。
そして1939年、スペイン内戦は人民戦線(共和国)側の敗北のうちに終結しました。

毎日の生活は、小さな頭の痛い問題はいくつかあったけれど、こんな風に流れていた。スペインが共和国になるまでは。キメットは浮かれちゃって、叫んだり、どこから引っ張り出してきたのか私にはついにわからなかった旗を振ったりしながら通りを行進している。私はまだあの日の冷たい空気を覚えている。あの空気は思い出しこそするけれど、二度と味わうことのできない空気だった。二度と。柔らかい葉っぱの匂いや花のつぼみの匂いと混ざり合った空気、逃げて行ってしまった空気、そのあとやってきたどの空気とも全然違っていたあの日の空気。私の人生にスパッと傷がつけられた。あの四月とまだつぼみの花たちと一緒に、私の小さな頭痛の種は大きな頭痛の種になり始めたから。(マルセー・ルドゥレダ『ダイヤモンド広場』、岩波文庫、89頁)

世界史上の転換点であったスペイン内戦を背景としているにもかかわらず、主人公ナタリアに内戦が与えた影響は、死と飢えだけでした。
ナタリアには、夫キメットが共和国軍で戦う意義(ファシズムから自由と民主主義を守る)が理解できず、勤め先のお屋敷の一家が武装した民兵によって虐げられると、民兵の仲間に夫がいることを恥じ入る気持ちになります。
第二共和政が成立が成立したその日に、ナタリアは「人生にスパッと傷がつけられた」ように思い、二度と味わうことのできない「冷たい空気」を感じており、旗を振って行進に加わり喜ぶ夫キメットとは真逆の不安やおそれを抱いています。
彼女にとっては、王政も共和国もファシズムも重要な問題ではなく、家族がそろって衣食住が満ち足りる生活であることを求めていたと言えます。

読書会では、このようなナタリアの政治的無関心を批判する意見も出されました。
以前、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(1813年)を取り上げた読書会においても、同様の批判が出されました。
『高慢と偏見』の時代背景には、アメリカ独立戦争やナポレオン戦争があったにも関わらず、作中でほとんど触れられていないため、身分制社会の矛盾に対する問題意識が無い、ナポレオン戦争と向き合っていないといった批判が出されたのです。
しかし、フランス革命からナポレオン戦争をめぐる激動の時代に生きていたオースティンが、革命や戦争をあえて主題とせず、女性の結婚だけを主題に執筆し続けたのは、それがまさに当時の女性たちの心情を反映していたからではないでしょうか。
オースティンと同じく女性の作家であるマルセー・ルドゥレダは、ナタリアを通して銃後の女性たちのリアルな心情を描いたのだと、わたしは考えます。

夫キメットが戦死し、貧窮のどん底にいたナタリアは、偶然訪れた教会で無数の「小さな玉」(197頁)が祭壇の上に現れる幻視をしました。
そして、天使たちの歌声で「お前たちは戦争で死んだすべての兵士たちの魂を目前にしているのだ」、「悪をよく見ろ、神が祭壇からあふれさせ給う悪を」(198頁)と歌う声を聞きます。
ナタリアには、戦死した夫も含めた「すべての兵士たちの魂」が、「大きな苦しみの井戸の底」にいるように感じられたのでしょう。
そして、夫が従軍した人民戦線(共和国)側も、夫を殺したフランコ将軍側も、どちらの側も神の目からは「悪」を犯しているのだ、と考えていたからこそ、彼女はこのような幻を見て、天使の声を聞いたのだと考えます。


ナタリアの夫キメットは、身勝手で利己的な男性であり、読んでいて不愉快に感じました。
二人が結婚する前に、キメットが「もし俺の嫁さんになりたければまず、俺がいいと思うものをいいと思えるようになるんだ」(19頁)と自分の好みを押し付け、彼女の意見は頭ごなしに否定し、「長々とお説教」をする場面があります。
彼女が働くケーキ屋の主人の悪口を言い、仕事を無理やり辞めさせようとしたり、彼女が元許嫁のペラと会っていたと言いがかりをつけ、謝罪を強要しました。

キメットは、ナタリアを名前で呼ばず、「小鳩ちゃん」を意味する「クルメタ」(Colometa)という愛称で常に呼びます。
婚前や新婚なら分かりますが、二児の母親となった妻に対して、このような子供っぽい愛称で呼び続けるのは、彼女を対等の人格として認めず、見下しているように感じられます。
またキメットは、「かわいそうなマリア...」(20頁)と時々つぶやいて、悲しげに溜息をつくことありました。
ナタリアは、「マリア」をキメットのガールフレンドだと考えて、夫の友人マテウに誰なのかを問いましたが、マテウは「キメットにマリアっていうガールフレンドがいたことはないよ、絶対に」(158頁)と答えます。
読書会でも、この「マリア」が一体誰を指すのか、議論となりました。
わたしは、この「マリア」とは女性の代名詞であり、「これだから女は...」(27頁)と女性を罵る言葉と同様の意味で使っていると考えます。
そして厳密に言えば、この「マリア」はナタリアを指しており、「クルメタ」と並ぶもう一つの彼女の愛称とも言えるでしょう。
キメットは、ナタリアに対して「お前はなにもわかっちゃいない」(19頁)と言い、自分の好みに合わせるように説教した後に、「かわいそうな...」という言葉をつぶやいています。
したがってキメットは、ナタリアが自分の意見を言ったり、彼の思い通りにふるまわなかった時に、何もわかっていないかわいそうな女だ、と彼女を蔑み、同情することで留飲を下げていたのではないか、とわたしは考えます。

ナタリアは、そんなわがままなキメットの全てを不平を言うことなく受け入れ、外では家政婦として働き、家では家事と育児に奮闘しました。
当時の多くの女性たちは、ナタリアと同じように、利己的な夫との幸福をもたらさない結婚に没頭し、夫を完全に主役にするために、自分を背景におき、自分のアイデンティティを放棄したのでしょう。
現代の読者は本作を通して、ナタリアが生きなければいけなかった時代の慣習、結婚生活の現実を知ることが出来るのです。

ナタリアが夫の全てを受け入れ、不平を口に出さないからと言って、彼女が不満を感じていないわけではありません。
彼女が、夫の愛玩する鳩たちをひそかに虐めたのは、夫との家庭生活におけるストレスが限界に達したからにほかなりません。
鳩の飼育に夢中になって、鳩小屋の掃除や世話を自分に押し付ける夫に対して、彼女は内心「我慢の限界だった」(147頁)のであり、「脳みその中に赤くくすぶる熾火」(144頁)を燃やしていたのです。
夫が大事にする鳩たちを虐め、ひそかに夫に対して反抗することを、彼女は「大革命」(148頁)と表現しています。
夫に従うことが当たり前の彼女にとっては、それは「革命」と呼べるほどの反抗だったと言えます。


スペイン内戦後、ナタリアは食料品店を経営するアントニと再婚します。
新しい生活に慣れようとしていた中、彼女はキメットとよく似てきた娘リタの目を見て、戦死したはずの彼が帰ってくるのではないかと怯えるようになります。
それから彼女は不眠に悩まされ、「生きるのが辛くなって」(227頁)、今で言えばうつ病の症状に長い間苦しめられるのです。
時が経って、娘リタの結婚をきっかけに、ナタリアはキメットと暮らしていたアパートを、再婚してから初めて見に行きます。
今や新しい住民が住むアパートの扉は開かず、その扉にナイフで「クルメタ」と刻み付け、彼女はダイヤモンド広場へ歩き出しました。

すると、すべての家が揺れ始めた。まるで全部水の中に浸けられて、誰かが水をゆっくりと動かしているみたいに。家々の壁は上へ上へと伸びていって、お互いにもたれ合い始めた。蓋の役目をしていた空はどんどん小さくなって、その穴が漏斗の出口になった。私は誰か連れに手を握られるのを感じた。それはマテウの手だった。彼の肩にサテンのネクタイをした鳩が止まった。私はそんな鳩は一羽も見たことがなかったけれど、羽は玉虫色だった。漏斗の中で渦を巻く暴風を感じた。漏斗の出口はもうほとんど閉じかけている。私は何を避けようとしているのかわからないまま両腕で顔を覆って、地獄の叫びをあげた。もう何年も前から私の体の中に閉じ込められていたに違いない叫びだ。その叫びはあんまり幅が広いんで、私の喉を通って口から出てくることができずにいたんだけど、その叫びと一緒に、「無」のかけらが、まるで唾でできたゴキブリのように飛び出した...その、ずいぶん長いこと私の中に閉じ込められていた「無」のかけらは、何だかわからない叫び声とともに逃げ去っていく私の若さなんだろうか...(263-264頁)

再婚した夫アントニは、ナタリアを「ナタリア」と名前で呼びます。
ナタリアにとって、「クルメタ」という愛称はキメットの妻として生きてきた過去の自分を象徴する言葉だったと言えます。
そのため、彼女はかつてのアパートの扉に「クルメタ」と刻んで立ち去ることで、「クルメタ」であった過去の自分と完全に決別したのでしょう。

そして、キメットと初めて出会った思い出のダイヤモンド広場に入り、彼女は渦を巻く「漏斗」の中に巻き込まれるような幻視をします。
この「漏斗」とは、彼女がかつて極限まで追いつめられ、塩酸を飲んで母子心中する決意をした時の象徴です。
当時、わずかな食料を買うため、持っていたものを全部売り、台所に残っていたのは「口を下に置かれた漏斗」(193頁)だけでした。
ナタリアは、漏斗を手にとって、「二人が寝ているあいだに一人ずつ順番に、口に漏斗を突っ込んで塩酸を流し込む。それから私も飲む。それで終わりだ」(193頁)と決意したのです。
アントニの勇気ある思いやりの行動によって、この母子心中を食い止めることが出来ましたが、子供たちを殺し、自分も死ぬと決めた時、ナタリアの心は一度死んでしまったのではないでしょうか。

「漏斗」の幻視の中で、彼女はマテウに手を握られたように感じますが、その手は「漏斗の出口」すなわち死の世界へ彼女を引き入れる手だったと解釈できます。
夫の友人マテウは、ナタリアと最後に会った時、「キメットは君みたいな奥さんに出会えて自分がなんて幸運なのかわかっていない」と言い、「君のことを尊敬していたし、君のことを大切に思っていたんだ」(159頁)と告白しました。
キメットは、このような感謝や愛情を言葉で言うことは一度もなく、妻の忍耐と献身を当たり前のこととしてふるまっていました。
マテウの言葉によって、初めて自分を認められたナタリアは、その後マテウが銃殺されたと知った時、キメットの戦死を知った時よりも衝撃を受けるのです。
その当時の彼女は、すでにキメットよりもマテウに心を寄せていたことが分かります。
母子心中を決意した時、教会から帰る途中で、ナタリアは「マテウが手を差し出しているのが見えた」(200頁)と感じていました。
だからこそ、「漏斗」の中で彼女の手を握ったマテウの手は、死の世界へ再び引き込もうとする手だったと言えます。

しかし、彼女は「地獄の叫び」をあげて死の誘惑を拒絶し、何年も前から彼女の心の中に閉じ込められていた「無」のかけらを吐き出すのです。
ナタリアは、キメットの全てを受け入れることで、自分のアイデンティティを放棄し、少しずつ「無」になっていたと考えられます。
そして母子心中を決意した時、彼女の心は一度死に、完全に「無」になってしまったと言えます。
彼女はその当時、「皆、死んでいた。すでに死んでしまった人たちは死んでいる。生き残った人たちも死んだようなものだ」(200頁)と感じていました。 アントニのやさしさのおかげで、ナタリアの心は死から蘇りましたが、癒しきれないトラウマは「無」のかけらとなって、その後も長い間彼女を苦しめ続けました。
「地獄の叫び」とともに、「無」のかけらを吐き出したことで、彼女はついに自分の力でトラウマを乗り越え、うつから抜け出すことができたのです。

「クルメタ」であった若い頃の自分と決別し、死の誘惑を拒絶し、「無」のかけらを吐き出して、ナタリアはようやく夫アントニと向き合うことが出来るようになります。
ダイヤモンド広場を出て、アントニの待つ家へ戻りながら、アントニは自分に何年も何年も感謝の言葉を言い続けてくれたのに、自分自身はアントニに一度もありがとうと言ったことがないことに気づくのです。
彼女は心の中で「ありがとう」とアントニに言います。
そして、彼女は「善き人生」(265頁)の象徴である、アントニと暮らす家へ帰り、心配して彼女を待っていたアントニと一緒に、眠りに着きます。
ナタリアは、アントニを抱きしめてやさしく撫で、「体の不自由な気の毒なこの人は私のものなのだから」と感じ、彼が「死んじゃ嫌だ」、「私のアントニがいなくなってしまわないように」(268頁)と願いながら眠りに落ちるのです。
それまで不眠に苦しんでいた彼女は、「石の眠り」(268頁)と表現されるほど、ぐっすりと眠ることができました。
したがって本書は、身勝手な夫と戦争に翻弄された女性の、死と再生の物語と言えます。
ナタリアが自分自身でトラウマを乗り越え、うつから脱出する場面は、読んでいて心揺さぶられました。
物語の最後に、一人ひとりの人生を小さな水たまりにたとえ、その水の一つ一つに小さな空が映っている情景描写は、非常に美しいと感じました。


最初の夫キメットは、ナタリアを「クルメタ」と呼び続け、一度も「ナタリア」と呼びませんでしたが、再婚した夫アントニは彼女を「ナタリア」と呼びました。
明らかにアントニの方が、彼女を一人の人格として尊重していると言えます。
キメットは「なかなかの見た目」(60頁)と表現されており、新婚初夜の場面では彼の容姿が、「キラキラ光る目」(59頁)や「全身がすらっとしている」(60頁)など、細部まで詳しく描写されています。
一方、再婚したアントニは「疱瘡でできた顔のあばた」(207頁)であり、決して美青年とは言えず、さらに不幸にも戦傷によって性的不具となったと書かれています。
たくましい美青年であったキメットよりも、あばた顔のアントニの方が圧倒的に人格は優れていると言えます。
しかし、もしナタリアが若く初々しい美少女だった頃に、キメットとアントニの両方からプロポーズされていたら、やはりキメットを選び、幸福をもたらさない結婚に苦しめられただろうと思います。
キメットと出会った時、彼女はペラという許嫁がいたにもかかわらず、ペラと別れて、キメットを選びました。
ダイヤモンド広場でキメットに強引にダンスに誘われ、一緒にダンスした時に、ナタリアは彼に一目惚れしてしまったのでしょう。
ナタリアはキメットとつき合い始めてから、彼の身勝手な性格を知って、ペラは「一度だって私に不愉快な思いをさせたことなんてなかった」(24頁)と気づきますが、結局はキメットと結婚しました。
利己的なキメットとの結婚生活と、極限の貧困生活を通して人生経験を重ねたからこそ、ナタリアはアントニの美徳を理解できるようになり、彼を心から愛せるまでに精神的な成熟を遂げたと言えるのです。


作者は、旧約聖書の「塩の柱」(創世記19章1-29節)をモチーフに、キメットとナタリア、アントニとナタリア、それぞれの関係性を描き出しています。

主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。(創世記19章24節、新共同訳)

結婚前に、ナタリアがキメットの実家で会食した時に、彼は母親の手料理の塩加減にひどく文句を言い、「聖書に出てくる例のロトの妻が、まっすぐ前を向いて進まなきゃいけないのに、旦那のことばを信じずに振り返ったとき以来、俺たちがみんな塩になっちゃってたらどうだろうな」、「ロトの妻は振り返るべきじゃなかった」(39頁)と説教します。
ソドムとゴモラの町が滅ぼされる時、主なる神は御使いを送り、ロトとその妻や娘たちに「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない」と指示しました。
もう少しで逃げ切れるというところで、ロトの妻は後ろを振り向き町を見て、塩の柱になってしまいました。
キメットは、ロトの妻が「旦那の言葉を信じずに振り返った」ことを批判し、振り返るべきではなかったと言います。
なぜロトの妻は後ろを振り返ってしまったのか、と彼女の心情について考えたり、思いやろうとはしません。
キメットは、ロトの妻の心情に配慮しないのと同様に、自分の妻であるナタリアの気持ちを思いやることはなく、自分の意見だけを押しつけ、妻がそれに従うことを求めます。
「ロトの妻は振り返るべきじゃなかった」というキメットの言葉には、妻は夫に黙って従うべきである、という考えが込められているのです。

その後、ナタリアが母子心中するために塩酸を買い、まっすぐアパートへ帰る途中で、誰かに呼ばれて「振り返ったとき、私は神様の言うことを聞かずに振り返ったため塩の柱にされてしまったロトの妻のことを思った」(204頁)のです。
後ろを振り返ると、食料品店の主人アントニが塩酸を買った彼女を追いかけてきたのであり、彼は自分の元で働くことを提案し、彼女と子供たちを死の運命から救い出しました。
一色義子は『エバからマリアまで―聖書の歴史を担った女性たち』(キリスト新聞社、2010年)の中で、「人々が逃げまどう時、嫁に行った娘や婿、孫を瓦礫の下に置いたままで逃げよと言われたら、自分に助けるだけの力がないと分かっていても、振り返らずにはいられないのではないでしょうか」(48頁)と論じています。
創世記には、ロトは嫁いだ娘たちの婿のところへ行き、ここから一緒に逃げるように言いますが、「婿たちは冗談だと思った」と記されています。
第二次世界大戦中に、東京の空襲を生き延びた一色は、「ロトの妻は、あの硫黄の火が降るソドムに嫁いだ娘たち、頑迷に神さまの警告を無視した婿たちのゆえに、孫もろとも一家が破滅するそのさまに耐えられなくて、思わず、痛ましい思いと愛の心で、家族を思って振り返ったのではないでしょうか」(48-49頁)と解釈しています。
このような解釈で読み直すと、「塩の柱」は、大切なものを捨てざるをえなかった時、どうしても捨てきれなかった女性の弱さと悲しみ、そして優しさと愛を象徴していると考えられます。

母子心中を決意した時、彼女の内心には「クルメタ、お前は後ろにこの世のすべての悲しみを引きずっている。この世のすべての悲しみとお別れするんだ」(200頁)という声が聞こえていました。
彼女を死の世界へ誘う声は、神の声ではなく、死んでしまったキメットやマテウの声だったのではないでしょうか。
ナタリアが後ろを振り向かないで、「この世のすべての悲しみとお別れ」しようとした時、彼女の心に残っていた未練は、やはり子供たちの命だったと考えます。
子供たちを殺したくないと思っていたからこそ、アントニの呼びかけに応えて、彼女は後ろを振り返ったのです。
もし呼びかけを無視して、救いの手を自ら拒絶していたら、彼女は子供たちを殺して自分も死んでいたはずです。
『ルカによる福音書』には、「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」(ルカ17章32-33節)と記されています。
急に思い立ってアントニがナタリアの後を追いかけたのは、主なる神がロトとその家族を救い出すために御使いを送ったように、自分の命を一度捨ててしまったナタリアを救い出すための、神の御計らいだったのかもしれません。


最後に、本作の主人公ナタリアは、作者マルセー・ルドゥレダの分身ではないと言えます。
作者は下町であるグラシア街の出身ではなく、サン・ジャルバジ地区の生まれで、教育を受け、文化人と交流があり、トロツキストの恋人を持ち、戦争中にスイスへ亡命しています。
本作は、亡命先のスイスで、故郷カタルーニャへのノスタルジアを持って執筆されました。
もし作家自身を投影させた主人公とするなら、ナタリアはインテリの女性で、共産主義の理想に燃え、ファシズムと戦う意志を強く持った女性となったことでしょう。
ナタリアの中に、ルドゥレダ自身の政治的立場や思想が全く反映されていないのです。
作家の多くは、自分の分身としてキャラクターを作り出すため、作家の思想や信条が投影されていない主人公というのは、実は珍しいと言えます。
作者ルドゥレダは、当時のカタルーニャを代表する女性像として、ナタリアを描いたのではないでしょうか。
『ダイヤモンド広場』という表題からも、戦争を乗り越えた下町そのものを描くことに、作者の意図があったと考えられます。
そのため、自分の思想の代弁者ではない、ナタリアやアンリケタおばさんといったキャラクターが生まれたのだと思います。


2.映画"La plaza del Diamante"(1982年)について


マルセー・ルドゥレダの『ダイヤモンド広場』は、1982年にFrancesc Betriu監督(フランセスク・ベトリュ、1940年-2020年)によって、カタルーニャで映画化されました。
Francesc Betriu監督は、カタルーニャのオルラニャ(Organyà)出身です。
バルセロナ出身の女優Sílvia Munt(シルヴィア・ムント、1957年生まれ)が、ナタリア役を演じています。
今回、わたしは原作小説を読んだ後に映画を観て、女性の心のうちが静かに伝わってくる良い映画だと感じました。
映画の脚本と演出は、多少の省略と改変があるものの、基本は小説に忠実であり、好印象でした。

映画の冒頭で、ナタリアが初登場する場面は、原作通りの白いワンピースに白い靴という「上から下まで真っ白な出で立ち」(10頁)で、彼女の初々しさと無邪気さが存分に伝わってきます。
映画撮影当時、ナタリアを演じたシルヴィア・ムントは23~24歳だったはずであり、女優の若さが輝いています。
ナタリアがキメットに誘われ、二人でいつまでもダンスを踊り続ける場面は、ナタリアが彼に一目惚れする気持ちが伝わってきます。
バルセロナ出身のLluís Homar(ルイス・ホーマー、1957年生まれ)が、明るく社交的で、すらりとたくましい美男子としてキメット役を演じました。

小説では、ダンスを踊った後に、ナタリアは恥ずかしさや戸惑いでキメットから逃げ出し、走っているうちにペチコートが地面に落ちてしまう場面が描かれていますが、映画では省略されています。
映画のナタリアとキメットのダンスシーンでは、最初はダンス会場にあふれるほど集まっていた人々がしだいに帰り始め、楽団の演奏も終わり、照明が消えてもまだ二人は踊り続けています。
その場面は、「ワルツが終わるとみんな帰り始めた。私が、ジュリエタを見失っちゃったわ、と言うと、その男の子は、俺はシンテットを見失った、と言った。みんなが家に入っちゃって、二人っきりになったらダイヤモンド広場でつま先立ちでワルツを踊るんだ...ぐるぐる回ってね...」(14頁)という小説の情景を再現したものでしょう。
周囲の変化が全く目に入らない二人だけの世界という演出は、許嫁がいたはずのナタリアがキメットに一晩で夢中になってしまった心情を表現するとともに、照明が落ちて暗くなることで、二人の結婚生活が暗いものになる可能性を暗示しているように思えました。

映画では、許嫁ペラとの別れ、ナタリアとキメットのグエル公園でのデート、ケーキ屋勤めをめぐる喧嘩、結婚と出産が矢継ぎ早に描かれます。
ガウディの個性的な建築が美しいグエル公園で、キメットがナタリアをからかって大きな柱の間を走り回る様子が演じられ、好きな子をからかっていじめて楽しむ、というキメットの性格が垣間見えます。
キメットがケーキ屋の主人を悪く言い、彼女の仕事を辞めさせようとして喧嘩になる場面は原作通りで、彼の嫉妬深く支配的な性格が分かります。
しかし、キメットがナタリアに長い説教をしたり、無理やり謝罪させたり、母親に塩加減でひどい文句をつけたりするなどの、原作に描かれたキメットの身勝手なふるまいの数々が、映画では大幅に省略されているため、原作よりも多少は好感の持てる人物像に感じられました。

第二共和政の成立と内戦の始まり、共和国軍の敗北とフランコ将軍側の勝利は、小説で読むよりも映画で見る方が分かりやすかったです。
武装した若い民兵の集団が車に乗って街中を我が物顔で走り、ナタリアの奉公先だったお屋敷の若旦那が、恐怖で身を隠す場面は印象的でした。
教会が焼かれ、神父たちが殺される中で、キメットと友人たちがジュアン神父の命を助けて、国外へ脱出させる筋書きは、映画では省略されています。
ナタリアが家政婦とした通ったお屋敷は、かつては権勢を誇ったが、現在は家賃収入でなんとか体面を保っているという没落した旧家で、一家の若旦那は「私は金払いがいい」(105頁)が口ぐせの憎めない人物です。
そんな若旦那が、ブルジョワを敵視する民兵に迫害されたことでファシストに転向してしまい、戦後に復職を願い出たナタリアを冷たくあしらう場面は、悲哀を感じました。

軍用機と軍靴の音が響き、空襲を恐れて照明を絞った薄暗いアパートで、母子三人が息をひそめるように暮らす様子は、彼女たちの心情の暗さを反映しているようで、とても痛ましく思いました。
教会の祭壇から「小さな玉」(198頁)があふれ出るのをナタリア幻視し、天使の声を聞く場面は省略されています。
映画では、教会の鐘が鳴り響く中でアパートの階段を駆け上がり、「私は登って行く、上へ、上へ、上へ。クルメタ、飛べ、クルメタ...」(200頁)と彼女が内心で叫ぶ印象的な場面に仕上がっています。
母子心中を決意した彼女の心の叫びに合わせて、鳴り響く教会の鐘は、あたかも葬送の鐘のように感じられました。

この直後に、母子心中の象徴である「漏斗」を手に取る場面が描かれ、彼女は漏斗を握りしめたまま、子供たちと一緒に眠りにつきます。
母親のただならぬ様子に気づきながらも、子供たちは何も言わず、台所からは止め忘れた水道から水が流れる音が聞こえ続けています。
一見、平静に見えるよう落ち着いてふるまっていたナタリアが、実は水を流し続けているのも全く気がつかないほど、精神的に追い詰められていた、ということがよく分かる演出です。
「私たちは誰にも迷惑はかけないし、誰も私たちを愛してはいないのだから」(193-194頁)という、彼女の絶望が真に迫り、映画の中で最も心揺さぶられる場面でした。

その後、アントニのおかげでナタリアは母子心中を思いとどまりますが、映画では彼女がアンリケタおばさんの前で号泣し、キメットとの結婚前にアパートの壁を剥す作業をしていた頃のマテウの幻を見る、という映画独自の場面が加えられています。
バルセロナ出身のJoaquim Cardona(ホアキム・カルドナ、1946年-1993年)が、やさしく気配りが出来る善良な好人物としてアントニを演じました。
アントニがナタリアにプロポーズする場面は、何度もためらい、言葉を選びながら、真剣に彼女に向き合っていて、彼の誠実な性格が分かります。

子供たちの初聖体拝領のお祝いに、ナタリアとアントニとアンリケタおばさんが、一緒に子供たちの晴れ姿を見ている場面は、まるで一つの家族のように見えました。
ナタリアは母親を早くに亡くしており、「お母さんは何年も前に死んじゃって、私に何も教えてくれない」(10頁)という心の声が何度も繰り返し語られています。
そんな彼女にとって、アンリケタおばさんは「いつもよい助言をしてくれる」(30頁)母親代わりのような存在と言えます。
映画では、戦争中にアンリケタおばさんが食料をナタリアのもとに届ける場面が描かれており、常にナタリアのことを気にかけている様子が伺えます。
そんなアンリケタおばさんが、ナタリアの子供たちの成長をを自分の孫のように喜ぶ場面は、血縁が無くても家族のような絆があるように感じました。

ナタリアが娘リタの目にキメットの面影を見て、戦死したキメットが戻ってくるのではないかと思いつめるようになった時、映画では「蛇口をほんの少しひねって、チョロチョロと水を出して指で右へ左へと水を切る」(228頁)という場面が描かれています。
うつろな表情で水を流し続ける様子は、かつて母子心中を決意し、漏斗を握りしめて眠った夜に流れ続けていた水音と重なり、非常に印象深い演出と言えます。

その後、娘リタの結婚披露パーティーで、年齢を重ねたナタリアと成人した息子アントニがダンスを踊る場面は、時間の流れを感じるとともに、母子の間のわだかまりが雪解けしたことを感じて、心打たれました。
戦争中に、ナタリアが嫌がる息子を困窮児童保護施設へ預ける場面は、母親に置き去りにされ、見捨てられたのだという息子アントニの悲しみや諦め、失望が伝わってきて、心に残る悲痛な場面でした。
そんな息子アントニが、妹の結婚を祝って笑顔で母親と踊る場面は、彼の心の傷が成長とともに癒されていったことが分かります。
ナタリアが息子アントニと踊る背後で、夫アントニがアンリケタおばさんと笑顔で踊っている様子は、再婚後の家族の温かさが伝わってきて、ほほえましく思いました。

結婚式の夜に、ナタリアがかつて住んでいたアパートを訪れる場面で、原作では扉に「クルメタ」と刻み付けますが、映画では扉に「天秤の絵」を描きます。
アパートの階段に彫られていた「天秤の絵」(33頁)の輪郭を、ナタリアが指でなぞる仕草は、原作でも描かれていますが、映画では彼女の癖として何度も繰り返し描かれています。
同様に、皿の絵の輪郭を指でなぞったり、床のタイル画を足でなぞったり、テーブルについた傷からパンくずを指でかき出したりする場面が映画ではたびたび描かれ、ナタリアの仕草の癖が印象に残ります。
不平や不満を感じても口に出さない彼女が、内心ではさまざまな思いをめぐらせていることを暗示させる仕草と言えるかもしれません。

クライマックスのダイヤモンド広場の場面で、映画の最初に描かれたダイヤモンド広場の祭が再び描かれ、映画冒頭の喧騒やジュリエタの声が重なり、ナタリアがキメットと出会った夜を思い出している様子が描かれています。
祭りが終わって人々は家に帰り、照明が落ちて暗いダンス会場の中で、ナタリアは天井の穴と漏斗の口を重ね合わせ、地獄の叫びを上げます。
映画で見ると、『ダイヤモンド広場』という表題にふさわしく、本作がダイヤモンド広場の祭りから始まり、ダイヤモンド広場の祭りで終わることがよく分かります。
最後は、アントニがナタリアを迎えに出て、二人で一緒に健やかな眠りにつく場面で終わります。

映画全体を通して、ナタリアを演じたシルヴィア・ムントの魅力が素晴らしいと思いました。
黒髪に彫りの深い顔立ちに、睫毛の長い大きな黒い瞳が美しく、初々しい素朴な少女から、年齢を重ねた母親までを演じきっています。
貧苦によって、痩せ細って頬がこけ、思いつめた彼女の目が、特に印象的でした。
映画音楽では、悲しげで憂愁なナタリアのテーマ"Tema de la Colometa"が変奏しながら繰り返し使われ、映画に静かな深みを与えています。
ダイヤモンド広場の祭りの曲、キメットと踊ったパソ・ドブレ、ショーウィンドウに飾られたおもちゃの熊さんの曲など、その場所を象徴する楽曲が繰り返し使われ、その曲が流れることで記憶が思い出され、同じ場所の過去と現在が重なり合う効果を生み出していると思いました。
作曲者であるRamón Muntanerが歌った映画主題歌"Canço de la Plaça del Diamant"は、アコースティックギターの旋律と物憂げな歌声が美しく、とても心に残りました。

ちなみに、最近でもLAS MIGAS(ラス・ミガス)という女性4人組の音楽グループが、この映画主題歌をカバーしています。
彼女たちは元々カタルーニャ高等音楽院の出身で、2004年に結成され、ヴォーカルとギターとヴァイオリンという編成で、バルセロナを中心に活動しています。
オリジナル楽曲も良いですが、彼女たちのフラメンコ風アレンジのカバーは、女性の強さと繊細さを感じさせ、美しいと感じました。
1982年公開の映画主題歌が、30年以上経ってもこうして歌われているのは、この映画の魅力であり、マルセー・ルドゥレダの原作小説が今なおカタルーニャで愛され続けているからだと思います。


2020/08/17

フォークナー「熊」

熊 他三篇 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 2000/6/16

2020年4月18日の読書会で、ウィリアム・フォークナーの『熊』を読みました。
ウィリアム・フォークナー(1897年-1962年)は、アメリカ南部ミシシッピ州生まれの作家で、1949年にノーベル文学賞を受賞し、20世紀アメリカ文学を代表する作家として、広く知られています。
『響きと怒り』(1929年)、『八月の光』(1932年)、『アブサロム、アブサロム!』(1936年)をはじめとする代表作には、アメリカ南部の歴史的な土地問題や人種問題、南北戦争などが取り上げられています。

今回の『熊』は、1870年~1880年頃のミシシッピ州の大森林において、オールド・ベンという名前を勝ち得ている大熊を狩る狩猟物語ですが、これは大熊を仕留めることで物語が終わってしまう、単なる狩猟物語ではありません。
池澤夏樹は、フォークナーの『熊』について、次のように紹介しています。

いかにもというパターンの話がある。何度も書かれたテーマで、だいたいこうなるだろうと思って読んでいくとやっぱりそうる。
森にすごく大きな強い熊がいて、ハンターたちが次々に挑戦するけど、どうしても倒せない。最後に主人公が対決して...。
これなんかパターンどおりの話に思えるだろう。神話から始まって、シートンの『動物記』とか。劇画やゲームにもそのまま応用できそう。一歩まちがうと陳腐になる。
フォークナーの「熊」という短篇がそれなんだ。でも中身は違う。まるっきり違う。こういうところで作家は実力が知れると思う。(池澤夏樹『池澤夏樹の世界文学リミックス』2015年、河出文庫より)

物語の主人公アイザックは、先住民と黒人奴隷の血を引くサム・ファーザーズから森での狩猟の智慧を学び、オールド・ベンを狩ることを通して、人間と自然について深く考えるようになります。
自然を通して人間を考えるようになった結果、大農園の跡継ぎであるアイザックは、白人の土地所有について、また白人と黒人の関係について深く考え、しだいに苦悩するようになるのです。
したがって『熊』は、自然への愛着あふれるネイチャー・ライティング(nature writing)の一種であるとともに、主人公アイザックの内面的な成長物語、ビルドゥングスロマン(人間形成物語)であると言えるでしょう。

『熊』には二つのテクストがあり、フォークナー自身の手による改作によって、両者の内容は大きく異なります。
一つは、1942年5月9日刊の『サタデー・イヴニング・ポスト』に発表され、後に『大森林』(Big Woods:the Hunting Stories,1955)に収録されています。
これは全四章から成る構成で、岩波文庫の『熊 他三篇』(加島祥造訳)に収められており、読書会で読んだのはこちらの作品です。
もう一つは、『行け、モーセよ』(Go Down,Moses,1942)に収録されたもので、『サタデー・イヴニング・ポスト』に発表後、新たな章として第四章がまるごと書き加えられて、全部で五章の構成になっています。
この新しい第四章が追加された『熊』は、『フォークナー全集16 行け、モーセ』(大橋健三郎訳、冨山房、1973年)に収められています。
まずは、この第四章を除いた狩猟物語としての『熊』に焦点を当て、人間と自然というテーマについて見ていきたいと思います。
次に、第四章を加えた『行け、モーセ』に収められた『熊』と比較し、第四章のある無しによって、どのような違いがあるのか考察したいと思います。


※ネタバレ注意※

【目次】
1.『大森林』における『熊』について
......第1章:アイク10歳から11歳、狩猟への入門
......第2章:アイク12歳から15歳
......第3章:アイク16歳、大熊狩の終焉
......第4章:アイク18歳
......『熊』における人間と自然に対する考え方について
2.『行け、モーセよ』における『熊』第4章について
3. 結びに



1.『大森林』における『熊』について

第1章:アイク10歳から11歳、狩猟への入門



まずは、『大森林』(Big Woods:the Hunting Stories,1955)に収められた『熊』について見ていきましょう。
『熊』の舞台は、1870年代から1880年代にかけてのミシシッピ州の大森林です。
当時は、「原始の野や森(the wilderness,the big woods)」がまだ残っていました。
その大森林には、「オールド・ベン(Old Ben)」と呼ばれる一匹の老いた大熊が生きています。
罠のせいで片足が曲がったこの大熊は、トウモロコシの納屋を破って中を荒らし、子豚や親豚や仔牛までまるごと喰い、罠や落とし穴を破り、猟犬をひき裂き、散弾銃ばかりかライフル銃の弾でさえ玩具の鉄砲ほどの効目しか無い、という伝説を持っていました。

なにしろこの無人の大自然は呪われた運命のもとにあったのだ。その周辺は斧や鋤を持つ人間たちによってたえず喰いかじられ狭められていた。元来、人間とは原始林を恐れるものだ、というのもそれが自然の造り物だったからであり、互いに名も知らぬ間柄の人間たちが、そこに群がり寄って喰い荒らしたのであり、喰い荒らされた森ではあの大熊が仇名を持つようになり、いつしかそれはただの生きた大熊であるばかりか、古い消えた時代からの不変の生存物と思われはじめた-いわば大熊は古来の大自然の命の亡霊、象徴、復活神といったものであり、その大いなる足もとに、ちっぽけな人間どもが虚しい怒りと嫌悪心で襲いかかり、しがみついているのだ-この老いた大熊、独りきりの、不屈で孤独な存在、連れとなる雌も子供もいないまま、死ぬ運命さえ越えた存在-それは老妻に死なれ息子たちみんなに先立たれたギリシャ神話のトロイ王にも似ていた。(フォークナー「熊」加島祥造訳、『熊 他三篇』、岩波文庫、13頁)

that doomed wilderness whose edges were being constantly and punily gnawed at by men with plows and axes who feared it because it was wilderness, men myriad and nameless even to one another in the land where the old bear had earned a name, and through which ran not even a mortal beast but an anachronism indomitable and invincible out of an old dead time, a phantom, epitome and apotheosis of the old wild life which the little puny humans swarmed and hacked at in a fury of abhorrence and fear like pygmies about the ankles of a drowsing elephant; - the older bear, solitary, indomitable, and alone; widowered childless and absolved of mortality - old Priam reft of his old wife and outlived all his sons. (William Faulkner, "The Bear", Chapter 1 (Big Woods))

この大熊は、死滅した古い時代から出現した不撓不屈にして無敵の時代錯誤(an anachronism indomitable and invincible out of an old dead time)であり、古い野生の生命の一つの幻影、一つの縮図、一つの神格(a phantom, epitome and apotheosis of the old wild life)であると語られてます。
大熊は、猟犬で追いかけ、銃弾を撃ち込むことが出来る現実的なこの世の獣(a mortal beast)であると同時に、大森林を象徴する神聖な幻影(a phantom)である、という二重の意味を持つ存在と言えます。

フォークナーは、さらに大熊をトロイア最後の王プリアモス(old Priam)に喩えています。
ホメロスの叙事詩『イーリアス』によれば、トロイア戦争によって、プリアモスの息子ヘクトールは殺され、トロイア滅亡後にプリアモスも殺されます。
大熊をプリアモスに喩えることによって、アガメムノン率いるアカイア人の軍勢によってトロイアが滅ぼされたように、やがて人間によって大森林が侵略され、大熊も殺される運命にあることを、第一章から暗示しているのです。


主人公アイザック・マキャスリン(Isaac MaCaslin、愛称アイク Ike)は、10歳になって初めて、「あの広大な大低地、あの大森林(the Big Bottom,the big woods)」(第1章)において、毎年11月に2週間に渡って行われる狩猟の仲間に加わります。
ド・スペイン少佐(Major de Spain)率いる狩猟の一団が目指す獲物は、この大熊オールド・ベンにほかなりません。
しかし不思議なことに、アイクにとっては、「彼らが熊や鹿を狩りに行くのでなくて、殺す気さえないあの大熊とただ出会うために出かけてゆくかのように」(To him, they were going not to hunt bear and deer but to keep yearly rendezvous with the bear which they did not even intend to kill.)思えたのです。
「あの大熊という死を知らぬ凄まじい存在とは、ただ毎年、出会いの儀式をするだけ」(the yearly pageant-rite of the old bear's furious immortality)と感じられたその特別な狩猟に、アイクは10歳から16歳まで毎年参加し続けることになります。

十歳で狩に入った時から、彼は、自分が新しく生まれ直したと感じた。それは奇妙なことでさえなかった。(「熊」岩波文庫、16頁)

It seemed to him that at the age of ten he was witnessing his own birth. It was not even strange to him. ("The Bear", Chapter 1)

狩猟の仲間に加わることを許され、初めて大森林に入った時、アイクは自分自身の誕生を目撃しているように思えました。
大森林に入った最初の年に、アイクは大熊を自分で獲物を狩ることも、あの大熊を見ることも出来ませんでした。
しかしアイクは、大熊を追う十一匹の猟犬たちの甲高く惨めな、泣き声のような吠え声を聞き、野営地に帰った猟犬たちの恐怖におじけ、音も立てずに目玉だけ光らせている光景や、裂かれた耳や肩を見ます。
そして、狩猟の達人であるサム・ファーザーズ(Sam Fathers)が、アイクを「冬の日の薄暗くなった原始の森の中」(in the thick great gloom of ancient woods and the winter’s dying afternoon)に連れて行き、腐った倒木につけられた大熊の爪の跡を見せ、濡れた地面につけられた、大熊の巨大な二本指の足跡を見せるのです。

その時アイクは、猟犬たちの恐怖とほとんど同じものを自分の中に感じました。
その恐怖は、疑惑や恐れとは違ったものであり、「怖いけれど近づきたい気持ち、偉大なものへの謙遜の心、太古からの森にたいする自分の小ささと無力感」(an eagerness, passive; an abjectness, a sense of his own fragility and impotence against the timeless woods, yet without doubt or dread)でした。
大森林における初めての狩猟を終えて、アイクはどうしても大熊と出会わなければならない、大熊を見なければならない(So I will have to see him, he thought, without dread or even hope. I will have to look at him.)という思いを強くしたのです。


アイクが11歳の夏、ド・スペイン少佐の一行とともに再び大森林へやってきた時に、彼は驚くべき行動に出ます。
毎朝彼は朝食をすますと、野営地から一人で森へ出かけ、遅くまであちこちを探し歩きました。
狩猟に加わって2年目の彼は、「クリスマスの贈り物」として「自分の銃」をすでに持っていました。
アイクがこの銃をその後70年ものあいだ使い続けることを、フォークナーは予見しています。(He had his own gun now, a new breech-loader, a Christmas gift; he would own and shoot it for almost seventy years)
三日目の夕暮れ時、大熊の足跡すら見つけられず途方に暮れるアイクに、サム・ファーザーズが「銃のせいだよ」(It's the gun.)と助言します。

サム・ファーザーズは、先住民のチカソー族の酋長と黒人の奴隷女性との間に生まれた男(son of a Negro slave and a Chickasaw chief)であり、大森林の野営地の近くに小さな小屋を建てて、独りで住んでいます。
この老いた狩人がまだ町に暮らしていた頃から、アイクは大森林や大熊の話を聞き、狩りの仕方を教わっていました。
アイクが10歳になり、ド・スペイン少佐の一団に加わった時から、彼はサムと一緒に本当の大自然での修練期に入った(He entered his novitiate to the true wilderness with Sam)のです。
フォークナーは、アイクが老サム・ファーザーズに師事し、大森林での狩猟の修行に入ることを'his novitiate'(彼の修練期)と表現しています。
novitiate(修練期)とは、修道生活を志す者が、修道の請願を立てる前の見習い期間(準備期間)を指す言葉です。
したがって、アイクが大森林へ入ることは、修道院へ入ることと同じであり、アイクにとって狩猟は単なるスポーツや娯楽を超えた、内的な、精神的な修行であると言えます。
大森林のそばで、妻子もなく、一人で生きているサム・ファーザーズは、まさに荒野で修道生活を送る修道者であり、アイクを教え導く老練な修練長であると言えるでしょう。

次の朝、サム・ファーザーズの「銃のせいだよ」(It's the gun.)という助言を受け入れて、アイクは自分の銃を持たずに、夜明け前の森へ出発しました。
彼は、磁石と彼の父親のものだった古い分厚い銀の懐中時計だけを頼りに、森の中を旅をしました(travelling now not only by the compass but by the old, heavy, biscuit-thick silver watch which had been his father’s.)。

なぜなら彼は銃を置いてきた身だからだ-それも彼自身の意志からしたことだ-自分を放棄してのことだ。それは熊と出会うための唯一の条件であり、それを彼は受け入れたのだ。それは大熊の変幻自在な動きばかりか太古からの狩人と狩られる者とのあいだのかけ引きのすべてを忘れることであり、彼はその条件を受けいれたのだ。もう心配さえなかった。たとえ恐怖にとりつかれた瞬間でさえ平気な気持でいられたろう-(「熊」岩波文庫、35頁)

He had left the gun; by his own will and relinquishment he had accepted not a gambit, not a choice, but a condition in which not only the bear’s heretofore inviolable anonymity but all the ancient rules and balances of hunter and hunted had been abrogated. He would not even be afraid, not even in the moment when the fear would take him completely ("The Bear", Chapter 1)

アイクは、野営地を出発してから9時間も探し続けましたが、大熊を見つけることが出来ませんでした。
彼は自分の必要性から、謙虚さと平和の中で、後悔することなく、自分自身をすでに放棄していました(He had already relinquished, of his will, because of his need, in humility and peace and without regret)。
そして、銃を捨ててきただけではまだ十分ではなかった(yet apparently that had not been enough, the leaving of the gun was not enough)と確信し、アイクは時計と磁石を捨て去り、大熊を求めてさらに旅を続けたのです(Then he relinquished completely to it. It was the watch and the compass.)。

フォークナーは、アイクが時計と磁石を持っていたことで、彼はまだ汚染されていたのだ(He was still tainted.)、と表現しています。
第1章の冒頭近くに、鋤や斧を持った人間によって絶え間なく、小さくかじられることを運命づけられた原生自然(doomed wilderness whose edges were being constantly and punily gnawed at by men with plows and axes)と語られているように、大森林は絶えず、少しずつ人間によって侵食されていました。
文明の発展とともに原生自然が侵略されてきたと考えれば、時計や磁石のような文明の利器は、自然にとっては武器と同じと言えるでしょう。
そのためフォークナーは、自然に対する武器を持ったままでいるアイクを、彼はまだ汚染されている、と表現したのだと思います。
アイクが大熊と出会うためには、文明の利器を全て放棄し、完全に非武装状態にならなければいけないのです。

アイクは、自分が道に迷ったことを自覚した時、「サムから受けた教えと訓練の通り」(he did as Sam had coached and drilled him)にしました。
彼は、輪を描くように歩き、いま来た道に出会うという方法を実践しましたが、自分が磁石と時計を残してきた茂みへ戻ることは出来ませんでした。
そこで今度は、サムが彼に教え、訓練してくれた第二の方法(he did next as Sam had coached and drilled him)を実践しました。
彼は、前とは反対方向にもっと大きく輪を描いて廻り、自分の来た踏み跡にぶつかるようにしましたが、どこまで歩いても彼自身の踏み跡にはぶつかりませんでした。
ついに彼は、サムが彼に教え、訓練してくれた最後の方法(he did what Sam had coached and drilled him as the next and the last)を実践しました。
彼は倒木に坐って、気を落ち着かせたのです。
するとその時、彼は大熊の歪んだ足跡が地面についているのを見つけました。
彼はその足跡を「疲れもせず、夢中で、恐れも疑いも持たず」(tireless, eager, without doubt or dread)追い続けました。

同時にそこに、あの木と茂み、枝に掛かった磁石と時計が木洩れ陽に当たって金色に光るのも見えた。それから彼は大熊を見た。それはぬっと現れたのではないし、にわかに飛び出たのでもなかった。前からもうそこに立っていたのだ。不動の様で、風のない昼の熱い木洩れ陽の中にくっきりと姿を現わしていた-それは彼が空想し夢に描いたものほど大きくなかったけれども、たぶんあれ位だと予期した大きさであり、斑な光の下なので輪郭が明らかでないせいか実際よりずっと大きな存在-それが彼を見つめていた。(「熊」岩波文庫、38頁)

It rushed, soundless, and solidified—the tree, the bush, the compass and the watch glinting where a ray of sunlight touched them. Then he saw the bear. It did not emerge, appear: it was just there, immobile, fixed in the green and windless noon’s hot dappling, not as big as he had dreamed it but as big as he had expected, bigger, dimensionless against the dappled obscurity, looking at him. ("The Bear", Chapter 1)

アイクは、サムに教わり訓練されたことだけを頼りにして、大熊の足跡へたどり着き、はじめて大熊を見ることが出来ました。
フォークナーは、大熊が姿を現わした瞬間を「それはぬっと現れたのではないし、にわかに飛び出たのでもなかった。前からもうそこに立っていた(It did not emerge, appear: it was just there)」と表現しています。
大森林の神聖な象徴である大熊は、文明的な武装を一つ一つ放棄していくアイクの様子を、実はアイクのすぐ間近でじっと見つめていたかのようです。
アイク自身は、大熊がすぐそばにいることに気づかず、彼が文明人として一度死に、大森林に完全に身をゆだねた時にようやく、大熊がすでに「そこに立っていた」ことに気づいたのです。

わたしは本作を初めて読んだ時、わずか11歳のアイクが、銃を持たずに一人で森の奥へ行き、磁石と時計までも捨て去り、大熊を求めて長い旅を続けたことに、大いに驚嘆しました。
池澤夏樹が「こういうところで作家は実力が知れる」と語っていたように、単に大熊を追跡する興奮とスリルを描いた狩猟物語ではないのだ、と思わせられました。

狩猟に加わって最初の年に、大熊におびえて震えている猟犬を見て、森の奥でサムから大熊の巨大な足跡を見せられた時、アイクは大熊に対する恐怖と自分の無力感を感じました。
その気持ちは、文明人が自然の猛威に対して抱く、恐怖と無力感と同じであると言えます。
鋤と斧を持つ人間は、自然を恐れたからこそ(men with plows and axes who feared it because it was wilderness)、それを絶えず喰いかじり続けたのです。
その翌夏、アイクは大熊に対する恐怖と無力感を克服して、文明人としての自分自身を放棄し、「謙遜した平和な心」(in humility and peace)で大森林と向き合い、初めて大熊を見出しました。
ここに、フォークナーの人間と自然に対する考え方がよく表現されていると思います。
自然の前では、人間は小さく無力な存在であり、自然に対して「偉大なものへの謙遜の心」や「謙遜した平和な心」を持ち続けなければならないのです。

フォークナーは、大森林の中で狩りをする男たちというのは、白人でもなければ黒人でも先住民でもなく、忍耐する意志と大胆さを持ち、生きのびるための謙遜と技術を持った男たち(It was of the men, not white nor black nor red but men, hunters, with the will and hardihood to endure and the humility and skill to survive)であると表現しています。
フォークナーの考えでは、自然の前に人間は、白人とか黒人とか先住民といった人種の優劣は存在せず、全員が同じくちっぽけなものであり、人間もまたその自然の一部であるのです。

第2章:アイク12歳から15歳


次の年、12歳となったアイクは、初めて牡鹿を射ち殺して、サム・ファーザーズがその鹿の血をアイクの顔に塗りつけ、イニシエーションの儀式としました。
『熊』第二章の冒頭に、「彼はすでに牡鹿を射ち殺していて、その温かい血をサム・ファーザーズが彼の顔になすりつける儀式を終えていた」(He had killed his buck and Sam Fathers had marked his face with the hot blood)とあります。
フォークナーは、サム・ファーザーズが行った儀式を'accolade'という言葉で表現しています。
'accolade'とは、「栄誉のしるし」といった意味であり、歴史的にはナイト爵位の授与式において、抱擁やキスによって授与のしるしとすること、あるいは剣で肩へ軽く打つ動作で授与のしるしとすることを指す言葉です。
『大森林』および『行け、モーセよ』に収録されている短編『むかしの人々』("The Old People")では、次のように語られています。
彼が引き金を引き、彼の撃って流した血をサム・ファーザーズが彼の顔になすりつけ、彼は子供であることを止めて、ひとりの狩人、ひとりの男になった。(「むかしの人々」岩波文庫、162頁)

He pulled trigger and Sam Fathers marked his face with the hot blood which he had spilled and he ceased to be a child and became a hunter and a man. ("The Old People", Chapter 2)

したがって、サム・ファーザーズの行動は、アイクに一人の男、一人の狩人としての誇りを与えるイニシエーションの儀式(accolade)であったと言えます。

両側の壁の上や背後からは大自然が彼らの過ぎるのを見張っていたが、いまはそれも敵意の薄い目であり、さらに敵意は薄れ消えてゆくだろう。なぜなら牡鹿はなおも永遠に跳ね走るだろうからだ-慄える銃身がしまいにはまっすぐ鹿に向けられ、発射されつづけるだろうが、それでも鹿は永遠の瞬間の中で永久に不死の姿で跳ね走りつづけるからだ。幌馬車は揺れたり跳ねたりして動いてゆき、なおも少年の思いはあの牡鹿との時間をたどり直していて、発射、サム・ファーザーズが彼自身とあの血、サムがあの血はあの血を彼に塗ることで彼と大自然を永久にひとつに結びつけ、大自然は彼を受け入れてくれた。というのもサムが彼は立派にやったと言ってくれたからだ。(「むかしの人々」岩波文庫、162-163頁)

The wagon wound and jolted between the slow and shifting yet constant walls from beyond and above which the wilderness watched them pass, less than inimical now and never to be inimical again since the buck still and forever leaped, the shaking gun-barrels coming constantly and forever steady at last, crashing, and still out of his instant of immortality the buck sprang, forever immortal; the wagon jolting and bouncing on, the moment of the buck, the shot, Sam Fathers and himself and the blood with which Sam had marked him forever one with the wilderness which had accepted him since Sam said that he had done all right, ("The Old People", Chapter 2)

このイニシエーションの儀式を終えて、大自然はアイクに対する敵意(inimical)を消して、彼を受け入れ、彼は大自然と永遠に一つになった、と語られています。
アイクは、自分が初めて牡鹿を殺した瞬間を何度も思い返し、その不滅の瞬間(his instant of immortality)の中で、牡鹿は永遠に跳躍し続ける(the buck still and forever leaped)のです。
アイクが初めて牡鹿を殺した思い出は、『熊』第四章(『行け、モーセよ』収録の『熊』第五章)にも挿話されています。
さらに、『行け、モーセよ』に収録されている短編『デルタの秋』("Delta Autumn")の中では、80歳近くなったアイクによって、次のように回想されています。

サムがその熱い血のなかに両手を浸して彼の顔に永遠の印をつけてくれたが、一方彼はふるえまいとつとめながら、十二歳の少年ではまだそのときはその気持ちを言葉にあらわすことはできなかったとは言うものの、おいらはお前を殺した、おいらはおまえの飛びさってゆく生命を辱めるような振舞をしてはならない。今から永久においらの振舞はおまえの死にふさわしいものにならなければいけない、といった、謙譲な、そしてまた誇り高い気持ちで立っていた、そういうことのために、いや、それ以上のことのために、サムは彼に印をつけてくれたのだった(「デルタの秋」大橋健三郎訳、冨山房、397頁)

Sam dipped his hands into the hot blood and marked his face forever while he stood trying not to tremble, humbly and with pride too though the boy of twelve had been unable to phrase it then: I slew you; my bearing must not shame your quitting life. My conduct forever onward must become your death; marking him for that and for more than that:("Delta Autumn")

イニシエーションの儀式を受けて、アイクは自分が殺した牡鹿の生命に対する謙遜の心(humbly)を持ち、その謙遜の心から、牡鹿の生命に恥じない行動を誓うことによって、さらに人間としての誇り(pride)を体得したのです。

フォークナーは、アイクを主人公とする一連の作品『熊』、『むかしの人々』、『デルタの秋』において、この'humbly'(謙遜して、謙虚に)という言葉を繰り返し用いています。
'humbly'および'humble'、'humbleness'という言葉が、『熊』には5回(『行け、モーセよ』収録の『熊』には6回)、『むかしの人々』には1回、『デルタの秋』には3回も用いられています。
さらに、'humbly and joyfully'「謙虚にそして喜んで」("The Old People")、'humble and proud'「謙虚で誇り高い」("The Bear")、'humbly and with pride'「謙虚にそして誇りを持って」("Delta Autumn")、'humbly,with joy and pride'「謙虚に、喜びと誇りを持って」("Delta Autumn")と何度も表現されています。
その謙遜の心(謙虚な心)は、大自然に対する恐怖や無力感とではなく、人間としての喜びや誇りへとつながっているのです。

上述した通り、『熊』第一章において、初めて大熊を見た時のアイクは、大自然に対して謙遜の心を持ち、自分自身を完全に放棄していました。
その後、初めて牡鹿を殺した時のアイクは、自然と動物に対する謙虚さを持つと同時に、殺した動物の生命に恥じない行動をすることを誓うことで、自己放棄の段階を乗り越え、人間としての喜びや誇りを感じる段階に到達したと言えます。
このアイクの精神的な成長過程に、フォークナーの人間と自然に対する考え方がよく表れていると言えるでしょう。

したがって、アイクが自然に対して謙虚になり、自分自身を放棄して、文明人として一度死ぬことは、彼の精神的修行(novitiate)の第一段階であったと考えられます。
自然に没入した自己放棄の状態から、自然に受け入れられ、自然の一員としての喜びや誇りを自覚することで、アイクは文明人として再び生まれ直したと言えます。
『熊』第一章において、アイクが10歳の時に、自分が新しく生まれ直したと感じた(It seemed to him that at the age of ten he was witnessing his own birth)と語っていたように、大森林における精神的修行は、アイクにとってまさに精神的誕生(his own birth)を意味していたのです。

フォークナーは、アイクの大森林における精神的修行の過程を次のように表現しています。

もしサム・ファーザーズを彼の師匠とするなら、彼の幼稚園は裏の原っぱでの兎やリス狩だったし、彼の大学はあの老いた大熊の走り廻る森であり、さらにあの老いた大熊そのものは-妻もなく子もなくて自分が祖先である大熊は-まさに彼の大学院といえるのだった。(「熊」岩波文庫、40頁)

If Sam Fathers had been his mentor and the backyard rabbits and squirrels his kindergarten, then the wilderness the old bear ran was his college and the old male bear itself, so long unwifed and childless as to have become its own ungendered progenitor, was his alma mater. ("The Bear", Chapter 2)

アイクにとって、サム・ファーザーズは彼の教師であり、兎やリスは彼の幼稚園であり、大森林は彼の大学であり、老いた大熊は彼の母校であったのです。
12歳のアイクは、殺した牡鹿の生命に恥じない行動をすることを誓い、人間としての喜びや誇りを体得して、精神的修行の第二段階に到達しました。
このようにして、アイクは精神的修行の過程で、自然に対する道徳的責任の意識を持つようになり、現実の問題を判断する価値基準を身につけていきます。
サム・ファーザーズを教師とし、大森林を大学、老いた大熊そのものを母校として修得したその道徳的責任の意識が、『行け、モーセよ』収録の『熊』第四章に描かれている、21歳となったアイクの決断へ直接つながっていると言えるでしょう。



アイクが13歳、狩猟に加わって4年目の夏に、サム・ファーザーズは「大熊を追いつめてつかまえられる犬」(He’s the dog that’s going to stop Old Ben and hold him.)を探し出し、「ライオン」(Lion)と名づけます。

あの朝のサムはもう見抜いていたのだ。彼は年をとった人だ。あの人には子供もいなければ世間もなく、もう一度会いたいような血筋のものはこの地上のどこにもいない。たとえ会えたとしても、彼は抱きあったり話したりできない。なぜって彼はもう七十年以上も黒人だったからだ。でももう、いまではそんなことも終わりかけていてそれが彼には嬉しかったんだ。(「熊」岩波文庫、47頁)

It had been foreknowledge in Sam’s face that morning. And he was glad, he told himself. He was old. He had no children, no people, none ofhis blood anywhere above earth that he would ever meet again. And even if he were to, he could not have touched it, spoken to it, because for seventy years now he had had to be a Negro. It was almost over now and he was glad. ("The Bear", Chapter 2)

第1章において、サム・ファーザーズは「まだ犬が来ていねえよ」(“We ain’t got the dog yet.”)とアイクに二度も語っています。
彼は、大熊に恐怖して惨めに鳴き声を上げる十一匹の猟犬たちではなく、大熊を追いつめてつかまえられる本物の犬を、長年探していました。
サム・ファーザーズは、牝鹿の咽喉をかみ裂き、小鹿を殺し、ド・スペイン少佐の仔馬までも殺した獣の足跡を見た時、それが「大熊を追いつめてつかまえられる犬」であると、見抜いたのだと思います。
彼が求めていた本物の犬が見つかったことで、年毎の大熊との出会いの儀式(yearly rendezvous with the bear)もついに終わることを予期し、彼は嬉しかった(It was almost over now and he was glad.)のでしょう。

その大犬ライオンは、マスチフ犬とエアデル犬とその他の血が混ざったような野生の犬であり、肩までの高さは30インチ(約76センチメートル)を越え、体重は90ポンド(約40キログラム)以上の超大型犬でした。
ライオンは、サム・ファーザーズによって手なずけられた後、次の年から狩猟の仲間であるブーン・ホガンベック(Boon Hogganbeck)の元で2年間に渡って飼育されます。
ブーンは、先住民のチカソー族の血が四分の一混じった白人であり、「鈍感で激しい気性の男」(the violent, insensitive, hard-faced man )で、「ほとんど子供に近い単純な心の人間」(the mind almost of a child)でした。
ブーンは、そのチカソー族の祖母から受け継いだ血を誇りに思っており、ウィスキーを飲んだ時には、自分の父親は純血のチカソー族で酋長だったなどと嘯くほどでした。

アイクが15歳の11月に、この大犬ライオンは大熊を追いつめ、猟犬たちも加わって、狩猟仲間であるコンプソン将軍(General Compson)が射撃した銃弾が、大熊についに血を流させます。
大熊は、猟犬を殺して包囲を破って逃げ出し、ブーンとライオンが追いかけましたが、最期には取り逃がしてしまいました。
ブーンは大熊まで25フィート(約7.6メートル)の距離まで近づき、五度も銃弾を撃ちましたが、全て命中しませんでした。

ブーンは、「今まで何を撃ってもはずれてしまう男」(Boon had never been known to hit anything.)でしたが、「ひとつの欠点とひとつの美点」(one vice and one virtue)を持っていた、とフォークナーは語っています。
その欠点とはウイスキーであり、その美点とはド・スペイン少佐とアイクのいとこであるマキャスリンに、絶対的な忠誠心を持っていたこと(He was brave, faithful, improvident and unreliable; he had neither profession, job nor trade and owned one vice and one virtue: whisky, and that absolute and unquestioning fidelity to Major de Spain and the boy’s cousin McCaslin.)です。
フォークナーは、ブーンを不器用で頼りないが、勇敢で忠実な、愛すべき人物として描いています。

ライオンが大熊を追いつめ、ブーンが撃ち損なって、その年の狩猟は終わりました。
しかしアイクは、この狩の中で、サム・ファーザーズと同じように、来るべき大熊の死を予期していたのです。

もはやこの狩ではすべてが決っているのだと彼は思った。何かは言えないが、もう何かが始まっているようだった-いや実際にはじまっていたのだ。いわば舞台の最後の幕があがろうとしていた。それは何かの終りのはじまりだった。それが来ても彼は嘆き悲しまないだろうと知っていた。自分がこの狩に参加できることに、いやただこの狩を見ることができることに、嬉しさと誇りを感じたのだ。(「熊」岩波文庫、66頁)

It seemed to him that there was a fatality in it. It seemed to him that something, he didn’t know what, was beginning; had already begun. It was like the last act on a set stage. It was the beginning of the end of something, he didn’t know what except that he would not grieve. He would be humble and proud that he had been found worthy to be a part of it too or even just to see it too. ("The Bear", Chapter 2)

第2章において、「だから彼はライオンを憎んだり恐れたりすべきだったのだ」(So he should have hated and feared Lion.)という表現が、三度も繰り返して語られています。
アイクにとって、大熊は大森林の象徴であり、「偉大なものへの謙遜の心」を教えられた神聖な存在と言えます。
ド・スペイン少佐やコンプソン将軍ら狩猟の仲間たちも、元来大熊を殺すつもりはなく、ただ毎年の出会いの儀式(yearly rendezvous with the bear which they did not even intend to kill.)を楽しんでいました。
しかし、大犬ライオンを飼育して、大熊を狩り立てる訓練をすることは、いずれ大熊を殺し、大森林の不滅の象徴が失われることを意味します。
大熊を殺すつもりはないにもかかわらず、大熊を狩り立てる、という矛盾した複雑な気持を、フォークナーは「だから彼はライオンを憎んだり恐れたりすべきだったのだ」と表現しているのです。


第3章:アイク16歳、大熊狩の終焉


次の年、アイクが16歳となった12月に、大犬ライオンは再び大熊を追いつめ、ブーンがナイフを手に大熊と戦います。

ブーンはナイフを手離さずにいて、少年の眼にはナイフを突き刺してさぐる彼の腕や肩の細かな動きが見てとれた。再び熊は大きく立ち上がった-人間と犬とをぶらさげたまま、身を廻し、二歩三歩、森のほうへと人の歩くように踏みだし、そして倒れ落ちた。それは崩れたのでもなければ、潰れたのでもなかった。木の倒れるのと同じように、体全体が倒れこんだのであり、人と犬と熊は、一体となって、一度だけバウンドしたかに見えた。(「熊」岩波文庫、90頁)

He had never released the knife and again the boy saw the almost infinitesimal movement of his arm and shoulder as he probed and sought; then the bear surged erect, raising with it the man and the dog too, and turned and still carrying the man and the dog it took two or three steps toward the woods on its hind feet as a man would have walked and crashed down. It didn’t collapse, crumble. It fell all of a piece, as a tree falls, so that all three of them, man, dog and bear, seemed to bounce once. ("The Bear", Chapter 3)

第2章において、「だから彼はライオンを憎んだり恐れたりすべきだったのだ」と三度も繰り返し表現され、アイクが大熊の死を予期した通り、ついに大熊オールド・ベンは殺されたのです。
大熊との戦いによって重傷を負った大犬ライオンは、医者の手術のかいなく、ブーンに手厚く看護されながら死にました。

大熊の死と同時に、サム・ファーザーズも突然倒れ、医者が「生きる気力をなくしちまった」(He just quit.)と診察する病状に至ります。
自分の小屋に寝かせられたサム・ファーザーズは、「それは老いた人であり、また野性人、森の人種からまだ一世代もへていない野性の人であり、そして子供はなく、親族もなく、隣人もなく-いまは動きもしない両眼を開いているがもはや人々を見ていなかった。」(the old man’s body, the old man, the wild man not even one generation from the woods, childless, kinless, peopleless—motionless, his eyes open but no longer looking at any of them)と表現されています。
サム・ファーザーズに付き添いながら、アイクだけが「サムも死んでゆく」(only the boy knew that Sam too was going to die.)と確信していました。

そしてサム・ファーザーズが自分の意志で死を望み、ブーンがサムの死を手助けしたことを、フォークナーは示唆します。
大犬ライオンを埋葬した低い丘で、ブーンとアイクは新しい壇の上にサムの遺体を安置し、四本の柱を立て、その間を若木でつないで囲い、先住民の伝統に則ったと思われる葬儀を行いました。
アイクの父親代わりであるマキャスリンに問い詰められ、ブーンは「サムはこうしてもらいてえんだ。おれたちに頼んだんだ。どうやってほしいか。ちゃんと教えたんだ。」(This is the way he wanted it. He told us. He told us exactly how to do it.)と叫び、サムの遺体を動かすことを強く拒絶します。

このようにして、大森林を象徴する神聖なものであった大熊は殺され、大犬ライオンも死に、長年に渡った大熊狩は終焉を迎えました。
その大熊の後を追うように、まるで大熊と運命を共にするかのように、サム・ファーザーズは自ら死を選び、第3章は終わります。


第4章:アイク18歳


大熊が殺され、サム・ファーザーズと大犬ライオンが死んだ狩を最後に、ド・スペイン少佐は二度と野営地を見ようとせず、大森林の所有地の材木伐採権をメンフィス市にある製材会社に売り渡すことに決めました。
いつもの狩仲間であるコンプソン将軍らは、ド・スペイン少佐に製材会社との契約を取り消すよう説得を試みますが、少佐は説得に応じませんでした。
かつては、毎年6月にド・スペイン少佐とコンプソン将軍の誕生祝いの狩を2週間に渡って行いましたが、その年は6月になっても誕生祝いを誰も口にせず、狩仲間たちの絆もしだいに薄れていきます。
同じ年の冬、コンプソン将軍とマキャスリンとアイクをはじめとする狩仲間たちは、幌馬車を二日間も走らせ、町から40マイルも離れた狩場へ出かけました。
彼らは、毎年通った野営地を遠く越えた場所で、2週間のテント暮らしをし、これがコンプソン将軍にとっての最後の狩となりました。

そして次の年の6月、アイクが18歳の時に、ド・スペイン少佐の許可を得て、彼は一人であの野営地へ出かけたのです。
再訪したアイクが見たのは、半分ほど出来上がっている新しい製材工場、新しい鉄道レール、クレオソートの鋭く臭う枕木の山、古い森の木々の間を轟音を立てて走って行く材木列車でした。
アイクは、二年前の最後の大熊狩の日に見た列車を思い起こして、今や列車自体が破壊を持ち込んでいるかのように感じます。

しかし今度は違っていた-まるで列車自体があの破壊を持ち込んでいるかのようだった(いや列車ばかりか彼自身がそうだし、さらにはあれを見てしまった彼の眼やあれを覚えこんだ彼の記憶までがそうであり、そればかりか衣服までが、ちょうど清くて柔らかな空気に病気や死の悪臭を持ちこむかのように)破壊をこの呪われた運命の森へ持ちこんでいるのだ-それも実際に斧が木々に打ちこまれず、製材所はまだ完成せず、レールや枕木はまだ敷かれないのにもう、森の破壊の影はどんどん侵入しているのだった(「熊」岩波文庫、120頁)

yet this time it was as though the train (and not only the train but himself, not only his vision which had seen it and his memory which remembered it but his clothes too, as garments carry back into the clean edgeless blowing of air the lingering effluvium of a sick-room or of death) had brought with it into the doomed wilderness even before the actual axe the shadow and portent of the new mill not even finished yet and the rails and ties which were not even laid; ("The Bear", Chapter 4)

アイクは、列車だけでなく、自分自身や自分の衣服さえもが森へ破壊を持ちこんでいるように感じられ、製材所や鉄道がまだ完成しないうちに、森の破壊を予期するのです。
フォークナーは、森のびっしり並び立った木々の間を列車が走り、新しい製材所が建設される光景を、清く柔らかな空気に病気や死が持ちこまれたようだ、と表現しています。
この光景を見たとたんに、なぜド・スペイン少佐がこの野営地へ二度と戻らなかったかをアイクは理解し、自分自身も今後は二度とこの思い出の地へ戻らないだろうと確信するのです。

列車が走り去り、レールの立てる音や排気音や汽笛の轟音が聞こえなくなると、アイクは森が以前と変わらず聳えたっていることに気づきます。森は「思いに耽る様子であり、他を省みず、数しれず、永遠に、緑に、どんな製材小屋よりも古く、どんな支線レールよりも長く」聳えたっていた(The wilderness soared, musing, inattentive, myriad, eternal, green; older than any mill-shed, longer than any spur-line.)のです。
アイクは夏の緑に取り囲まれ、寂しくはないが孤独の中にいて、森の木々は変わらないことを感じ、歳月を越えて変わりゆくことはないだろうと予期します。
「夏の緑や秋の野火や雨、鉄を思わす寒さ、時には雪の来る冬がめぐりゆくのと同じように」(They did not change, and, timeless, would not, any more than would the green of summer and the fire and rain of fall and the iron cold and sometimes even snow)、新しい製材工場や鉄道の建設によって森が破壊されることも、死と再生を繰り返す自然の営みの一部であると考えて、大森林は永遠に変わらないと確信するのです。

森の中を歩きながら、アイクは自分が12歳の時に初めて牡鹿を射ち殺し、サム・ファーザーズにその鹿の血を顔に塗りつけられた狩を思い起こします。
やがてアイクは、大熊の裂けた足指を入れたブリキ缶を墓標とする大犬ライオンの墓を通り過ぎ、サム・ファーザーズの墓にほんのわずか立ち止まっただけで、丘をおりました。

丘は死者の住居ではなかったからだ、なぜならそこには死などなかったからだ。ライオンの死もサムの死もないのだ。二人とも大地にしっかり止まっていないで大地の中で自由なのだ。いや大地の中というより大地そのものになって自由なのだ。あの万物の命に融けこみながら、なお個々の万物として生きているもの-木の葉と小枝と微細なもの、空気と太陽と雨と霧と夜、樫の木と葉とドングリは暗い夜から明け方へ、暗い夜から再び明け方へと数知れぬ繰り返しのつづく中にあって、万物であり、なおもその中のひとつなのであり、あの大熊もそうなのだ。あの大熊もそのひとつなのだ。(「熊」岩波文庫、131頁)

the knoll which was no abode of the dead because there was no death, not Lion and not Sam: not held fast in earth but free in earth and not in earth but of earth, myriad yet undiffused of every myriad part, leaf and twig and particle, air and sun and rain and dew and night, acorn oak and leaf and acorn again, dark and dawn and dark and dawn again in their immutable progression and, being myriad, one: and Old Ben too, Old Ben too; ("The Bear", Chapter 4)

サム・ファーザーズも大熊も大犬ライオンも、墓の下に眠っているのではなく、大地と一体化し、大地の一部として普遍の存在となったのだと、アイクは考えます。
「彼はぼくがここに来る前からもう知ってるんだ、今朝はぼくが森に来ていると知ってたんだ」(He probably knew I was in the woods this morning long before I got here, he thought)と思ったからこそ、アイクはサム・ファーザーズの墓前で、ほんのわずかしか立ち止まらなかったのでしょう。


『熊』における人間と自然に対する考え方について


これまで見てきた通り、『熊』に描かれたアイクの精神的修行の過程から、フォークナーの人間と自然との関係に関する考え方を読み解くことが出来ます。
精神的修行の第一段階において、アイクは自然に対して謙虚になり、自分自身を放棄し、文明人として一度死ぬことで、自然の一員として再び生まれ直します。
精神的修行の第二段階では、アイクは自分が殺した生命に恥じない行動をすべきであると考え、自然に対する道徳的責任の意識を持つとともに、人間としての喜びや誇りを体得します。
そして精神的な修行を終え、アイクがついに到達したのは、大自然の循環の中に永遠の命があるという自然観および死生観です。

読書会では、このフォークナーの自然観は、東洋思想の持つ自然観に近いのではないかという意見が出されました。
たしかにフォークナーの自然観は、人間が「暴君」のように好き勝手に自然を支配することを正当化してきた欧米の伝統的な哲学観および神学観と一線を画すると言えます。

アリストテレスは、植物は動物のために存在し、すべての他の動物は人間のために存在すると述べており、自然はすべてのものを人間のために作ったにちがいないと主張しています。
トマス・アクィナスは人間と自然の関係を神学的文脈に位置づけ、人間は動物を殺そうと、他の何らかの方法でそれを用いようと、何ら不正を犯すことなく、それを利用できると述べています。
アリストテレスとトマス・アクィナスに共通するのは、人間だけが道徳的地位を持っており、その他のすべてのものは人間の利益になるかぎりにおいてのみ価値を持っているにすぎない、という考え方です。

17世紀のルネ・デカルトは、すべての実在は「精神」と「肉体」に還元できると論じました。
デカルトの考えによれば、道徳的地位を持っているかどうかの判断基準は意識であり、動物と植物は「ものを考えない獣」、単なる機械にほかならないのです。
カントの倫理学説では、自由に、合理的に行動できる自律した存在だけが道徳的存在であると論じています。
18世紀の欧米人たちは、人間ではない動物や植物にはこうした能力は欠けていると信じていたため、「主体」と「目的」に権利と道徳的地位を限定しているカントの分析は、人間だけが道徳的地位を持っているという考え方をより強固にしたと言えます。
こうした伝統的な人間中心主義の考え方が、自然の搾取と支配するための理論的根拠を与え、多くの場面で環境破壊や環境劣化を正当化してきました。

リン・ホワイトは『現代の生態学的危機の歴史的根源』(1967年)において、『創世記』の創造物語に関して、人間は「神の形にかたどって」造られたため、すべての被造物の中で人間が特権的な地位を占めていると理解されてきた歴史を述べています。
こうした欧米の神学的伝統における、人間は自然よりも上位にあり、自然を従わせ、支配するよう神に命じられているという考え方が、今日の環境危機の根源にあるとホワイトは主張しました。
ホワイトは、環境危機を招いた根本原因であるキリスト教を排除し、科学的な手法のみで問題解決を図るべきだと主張しているわけではありません。
彼は、キリスト教の自然観が科学技術の進歩に与える影響を過小評価せず、原因が宗教に基づくのであれば、問題解決の方法も宗教的にならざるを得ないと論じています。

1942年に発表されたフォークナーの『熊』は、リン・ホワイトよりもはるかに早い時期に、自然に対する人間の侵略的行為を批判し、人間の罪深い歴史的な営みを深く考察しているのです。
読書会では、フォークナーの自然観が東洋思想に近いという意見が出されましたが、わたしはやはりキリスト教を基盤とする自然観であると考えます。
アイクの「ライオンの死もサムの死もないのだ」という表現は、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(『コリントの信徒への手紙 一』15章55節、新共同訳)を真っ先に思い起こすからです。

リン・ホワイトによる問題提起はさまざまな議論の端緒となり、現代のキリスト教神学では、自然を考慮した新しい神学的模索が展開されています。
アメリカのハーバード大学神学部教授で組織神学を教えたゴードン・カウフマン(Gordon D. Kaufman,1925年-2011年)は、『核時代の神学』(Theology for a Nuclear Age, 1985)の中で、キリスト論とキリスト教の救済論を再構築しようと試みています。

わたしたちは最近になって、「生命」は個々の生物が持っている力や性質だけでなく、個々の生物をふくんだすべての存在の相互にかかわる広範囲な織物であると自覚し始めた。それからはなれると、なにものも生きてゆけない。ところが、地球上に広がっていった人間は、今世紀になってその織物をよごし、引き裂き、それを支えている自然環境を汚染してきた。つまり、わたしたちは「神にさからって」生活し行動してきたのである。しかも、神の継続的行為(すなわち生命と幸福をもたらす力)は人間が地球上の生命の織物のうえで犯してきた悪を克服するために働きかけているのであるが、それでも人間のもたらすダメージはひろがり、ついに人間とその他の生物を衰弱させ破壊するかもしれないのである。(ゴードン・カウフマン『核時代の神学』ヨルダン社、1989年、79頁)

カウフマンは、わたしたち人間を含むすべての「生命」は、非常に古い複雑な織物に織りこまれた一本の糸であり、それを生み出し、生かし続けるその織物から離れては存在できない糸であると主張しました。

この『核時代の神学』から影響を受け、女性解放の神学者であるサリー・マクフェイグ(Sallie McFague, 1933年–2019年)は、"Models of God: Theology for an Ecological, Nuclear Age"(1987)を著しました。
マクフェイグは、世界そのものを「神の体」として理解しようとします。
彼女は、伝統的な親子のメタファーでのみ理解される三位一体論を乗り越え、新しい三位一体論のモデルを提示しながら、被造世界全体を有機的な「神の体」であると考えました。
その上で、彼女は「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(『マタイによる福音書』25章40節)という言葉を根拠に、人間の倫理的問題だけに限定せず、環境倫理にまで拡張しなければならないと主張したのです。
マクフェイグの試みは、自然を考慮した神の像理解を徹底して推し進めたものと言えるでしょう。

『熊』の中で、アイクが「ライオンの死もサムの死もないのだ」と語り、大自然の中に神の超越性と内在性を確信するフォークナーの自然観は、後にカウフマンやマクフェイグが著した新しい神学の先駆けであったと、わたしは考えます。


2.『行け、モーセよ』における『熊』第4章について


発売元: 冨山房
発売日: 1973

『行け、モーセ』に収録された『熊』は、大熊とサムの死で終わる第三章の後に、新たな第四章が書き加えられて、全五章の構成となっています。
アイクは、大熊とサム・ファーザーズ、大犬ライオンが死んだ16歳の時に、それまでずっと気に留めていたマキャスリン農園の古い「土地台帳」(the ledger)をはじめて読んでみました。
そして、彼が21歳となった年に、この農園の直系の相続者であるにも関わらず、自ら土地を「放棄」(Relinquish)することを決意します。
アイクは、なぜ自分が土地の放棄を決意したかを、彼の保護者であったマキャスリン・エドモンズに説明し、その二人の会話を通して、読者に「台帳」の内容が明かされます。

その「台帳」によれば、アイクの祖父であるキャロザーズ・マキャスリンが、自分の所有する奴隷女ユーニスにトマシーナ(通称トーミー)ど呼ばれる子供を産ませ、トマシーナが成長すると、今度は彼女に子供テレル(トーミーのテレル)を産ませていたのです。
この近親相姦の悲劇によって、奴隷女ユーニスは1832年のクリスマスの日に入水自殺したことが記されていました。

大森林における精神的修行を終え、自然に対する道徳的責任の意識を身につけたアイクは、「台帳」をきっかけに現実の「土地」と「人種」の問題に直面して、次のような考えに至ります。

エデンを奪いとられていなすったんだ。カナンの土地を奪いとられていなすったんだ。だから、最初の人間から奪いとったものたちは、すでに奪いとられた人間から奪いとったのにほかならないんだよ、そしてローマの浴場にいる不在地主の時代が五百年続き、次に北方の森林地帯からやってきた野蛮な人間の時代が千年も続いたんだが、その人間たちはローマの不在地主たちから奪いとり、すでに奪いさられていた実質をむさぼってまたもや順ぐりに奪いさり、それから、あんたの言う古い世界の何の値うちもない黄昏のなかで、古い世界のしゃぶりつくされた骨を奪いあって歯をむきだしたんだ、彼らは、神さまの御名において神さまをけがしたので、とうとう神さまが、たった一つの卵を使って、一つの国家がお互い同士の謙譲と憐みと寛容と誇りのなかに建設されるような新しい世界を、その人間たちに見つけだしておやりになったんだよ。そして、それにもかかわらず、それでもやっぱり、じいさまはその土地を実際に所有していたんだが、それは神さまがお許しになったからで、神さまが無力だったからでも、大目に見られたかれでも、盲目だったからでもなかったんだよ、なぜと言って、神さまはそれを命じ、それを見まもっていなすったからだ、神さまはイッケモテュッペやイッケモテュッペの父のイッセティッペハじいさんや、それからまた、イッセティッペハじいさんの祖先までがそれを持っていたときから、もうその土地が呪われていることを-白人がだれもそれを所有しないうちから、もうその土地が、じいさまやじいさまの種族である先祖がこの新しい土地に持ちこんできたものによって汚されているのを、見ていなすったんだ-この土地というものは、神さまが、寛容の気持ちから、憐みと謙虚と寛容と忍耐をもつという条件つきでじいさまたちにお与えになったものなのだが、あの人たちは、古い世界の腐った何の値うちもない黄昏のなかから、そういうものをいっぱい持ちこんできたんだ、まるで、古い世界の汚れた風を帆いっぱいにはらんで、それで船が走ったみたいにして-(『行け、モーセ』より『熊』冨山房、1973年、289-290頁)

Dispossessed of Eden. Dispossessed of Canaan, and those who dispossessed him dispossessed him dispossessed, and the five hundred years of absentee landlords in the Roman bagnios, and the thousand years of wild men from the northern woods who dispossessed them and devoured their ravished substance ravished in turn again and then snarled in what you call the old world’s worthless twilight over the old world’s gnawed bones, blasphemous in His name until He used a simple egg to discover to them a new world where a nation of people could be founded in humility and pity and sufferance and pride of one to another. And Grandfather did own the land nevertheless and notwithstanding because He permitted it, not impotent and not condoning and not blind because He ordered and watched it. He saw the land already accursed even as Ikkemotubbe and Ikkemotubbe’s father old Issetibbeha and old Issetibbeha’s fathers too held it, already tainted even before any white man owned it by what Grandfather and his kind, his fathers, had brought into the new land which He had vouchsafed them out of pity and sufferance, on condition of pity and humility and sufferance and endurance, from that old world’s corrupt and worthless twilight as though in the sailfuls of the old world’s tainted wind which drove the ships— (William Faulkner, "The Bear", Chapter 4 (Go Down, Moses))

アイクは、神が大地を創造し、生き物をそこに住まわせ、神はこれを見て「良し」とされ、それらのものを祝福したと言う『創世記』の言葉に基づいて、神は「神の代わりに大地を監督する者」(His overseer)として人間を創造した、と主張します。
アイクの考えでは、「大地」というものは本来人間の所有物ではなく、「だれの名前も特別についていない共同の状態で、損なわれない、お互いのものとして保っていく」べきものであり、人間にはそれを売買する権利は無いのです。
アイクによれば、神が要求した報酬は、「ただ、憐みと謙譲と寛容と忍耐と、それから、パンを求めて流す人間の汗だけ」でした。
しかし、人間はその大地「エデン」ないし「カナン」を神から「奪いとった」(dispossessed)のであり、そのために神が創造した大地を「人間自身が呪いをかけて汚した」のだ、と主張します。

大地を「奪いとられた」にもかかわらず、神は「寛容の気持ち」からそれを許し、さらには「古い世界の腐った何の値うちもない黄昏」(that old world’s corrupt and worthless twilight)から人間を解放し、「お互い同士の謙譲と憐みと寛容と誇りのなかに建設されるような新しい世界」(the new land which He had vouchsafed them out of pity and sufferance)へと連れてきてくださり、「憐みと謙虚と寛容と忍耐をもつという条件つき」(on condition of pity and humility and sufferance and endurance)で自分の祖父たちにお与えになったと、アイクは論じます。
さらに、アイクの考えでは、この「新しい土地」においても、同じように先住民たちが「イッケモテュッペ」や「イッセティッペハ」などの名で所有していたのであり、白人が来る前から、すでにその土地は「呪われていた」(already tainted even before any white man owned it)のです。
白人たちは、「古い世界の腐った何の値うちもない黄昏」をこの「新しい土地」へ持ちこみ、さらに「呪い」を加え、「汚した」のだ、とアイクは主張します。
アイクの言う、「古い世界の腐った何の値うちもない黄昏」の中から、新世界アメリカへ持ちこまれた「呪い」の一つが、奴隷制度であったと言えるでしょう。

アイクは、「この土地全体が、南部全体が呪われていて、そのなかから出てきてかりにもその乳房を吸ったおれたちは、全部、白人も黒人も、その呪いを蒙っている」(313頁)と語ります。
このように考えて、アイクはマキャスリン農園の相続放棄を決意し、「自由」となることを求めたのです。

アイクにとって、大熊とサム・ファーザーズこそが「自由」を象徴する存在と言えます。
猛々しく無慈悲な一頭の年老いた熊、それもただ生きんがために無慈悲になっているのではなくて 解放と自由を誇る猛々しい誇りを持っているが故に無慈悲であり、解放と自由を惜しみ誇りにしているが故に その自由がおびやかされるのを 恐怖や驚愕をもってではなしに ほとんど歓喜の情をもって眺めていた熊、自由を味わわんがためにわざわざその自由を危険に瀕せしめ 自由を守り保持せんがために 年老いた屈強な骨と肉を柔軟に敏捷に保っているかに見えた一頭の熊。そして一人の老人。黒人奴隷とインディアンの王との息子であり、一方では 苦悩を通じて謙譲を学び 苦悩を生きのびる忍耐を通じて誇りを知った民族の連綿とした歴史を受けつぎ、他方では 第一の民族よりも長くこの土地に住みついている民族の連綿とした歴史を受けついでいた老人、しかも今では ただ 一人の年老いた子供もない黒人の疎外された血と 一頭の年老いた熊の野性的な無敵な精神との 孤独な兄弟愛のなかにのみ存在しているにすぎなかった一人の老人。(333頁)

an old bear, fierce and ruthless not just to stay alive but ruthless with the fierce pride of liberty and freedom, jealous and proud enough of liberty and freedom to see it threatened not with fear nor even alarm but almost with joy, seeming deliberately to put it into jeopardy in order to savor it and keep his old strong bones and flesh supple and quick to defend and preserve it; an old man, son of a Negro slave and an Indian king, inheritor on the one hand of the long chronicle of a people who had learned humility through suffering and learned pride through the endurance which survived the suffering, and on the other side the chronicle of a people even longer in the land than the first, yet who now existed there only in the solitary brotherhood of an old and childless Negro’s alien blood and the wild and invincible spirit of an old bear; ("The Bear", Chapter 4 (Go Down, Moses))

アイクが相続を放棄することに強く反対していたマキャスリン・エドモンズは、アイクから辛抱強く説得されて、ついに彼の決定に同意します。
マキャスリンは、「土地」に対するアイクの考えを聞いて、アイクは「神さまに選ばれたのだろう」(Chosen)と言い、さらに「神さまは 一頭の熊と一人の老人と四年間という年月を ただおまえのためにお使いになったんだ。そしておまえがそこまで達するのに十四年間かかり、オールド・ベンには同じ年月、いや おそらくそれ以上かかり、サム・ファーザーズには七十年以上かかったのだ」(338頁)(And it took Him a bear and an old man and four years just for you. And it took you fourteen years to reach that point and about that many, maybe more, for Old Ben, and more than seventy for Sam Fathers.)と語りました。
マキャスリンが言った通り、大森林における精神修行があったからこそ、21歳のアイクはこのような「土地倫理」に到達したと言えるでしょう。
アイク自身も、「サム・ファーザーズがおいらを自由にしてくれたんだ」(339頁)(Sam Fathers set me free)と語っています。

その後、アイクは実際にマキャスリン農園を放棄して、マキャスリン・エドモンズに譲り、イエス・キリストに倣って大工となりました。
そして、アイクは一人の女性と結婚し、「新しい国が生まれたよう」な幸福を感じましたが、アイクがかつて相続放棄した農園に対して、妻は「あたしたちの農場よ。あんたの農場よ」(The farm. Our farm. Your farm)と言い、夫に農園を取り戻すよう懇願します。
この妻の要求を聞いて、アイクは「こいつも迷ってしまった。生まれながらにして迷っていたんだ。おれたちはみんな生まれながらにして踏み迷っているんだ」(356頁)(She is lost. She was born lost. We were all born lost)と考えます。
妻のこの言葉は、南部全体が呪われており、生まれながらにして自分たちは、白人も黒人も呪われていると言う考えを、アイクに改めて思い知らせたのです。

相続放棄によって自分は「呪われた土地」から「自由」になったと考えていたアイクが、一人でその考えを推し進め、妻を含む大勢の周りの人々の理解を得られないままでは、「呪われた土地」から決して逃れられないと気づかされたと言えます。
かつてマキャスリンが、「おまえはたった一人だけなんだよ。それなら まだこれからどれくらい長くかかるんだ? まだどれくらい長く?」(338頁)(And you are just one. How long then? How long?)と問いかけた言葉が示すように、「呪われた土地」から「自由」になると言うアイクの試みは挫折し、その理想が果たされるまでには長く険しい道程があることを、フォークナーは示唆していると言えるでしょう。



3. 結びに


『大森林』に収録された『熊』と、『行け、モーセよ』に収録された『熊』を比較すると、前者は人間と自然がテーマであり、エコロジーの神学の先駆けとも言える自然観が非常に印象に残ります。
後者は、人間の歴史的な営みにおける土地所有の問題に対して、神学的にアプローチし、自然と人種に考慮した土地倫理を提示しながら、その限界も描き出しています。

『大森林』における『熊』では、アイクが土地の相続を放棄する場面が存在しないため、こちらのアイクは順当に土地を相続し、大森林をこよなく愛し、先住民や黒人を人間として尊重する、善良な農園主となったのではないか、と想像します。
同じ『大森林』に収録されている『朝の追跡』(Race at Morning)には、ミスター・アーネストという農園主が登場します。
彼は、1年のうち11か月と二週間は、大麦や綿や豆や牧草を植えて手入れして取り入れ、「熱心に正直に」働き、残りの14日間は狩猟を楽しむ生活を送っています。
ミスター・アーネストには妻子がなく、孤児となった貧しい白人の子供を引き取って養い、学校に行かせてやります。
彼らの狩猟では、大鹿を追いつめ仕留める好機に、あえて殺さず逃がし、また次の年も狩りが楽しめるように配慮しています。
もしアイクが農園を相続していたら、ミスター・アーネストのような農園主になったのではないか、とわたしは思います。

一方、農園の相続を放棄したアイクのその後は、同じく『行け、モーセよ』に収録されている『デルタの秋』(Delta Autumn)に描かれています。
こちらのアイクは、80歳近い年になって、思いもかけない相手から、かつての相続放棄を責められます。
アイクが相続を放棄した農園は、マキャスリン・エドモンズが相続しましたが、マキャスリンの孫であるロス・エドモンズの子供を産んだ女性が、「あの人はまだ一人前の男にはなっていないわ。あんたが甘やかしすぎたのよ」と言い、「あんたがあの人のおじいさんにあの土地をあげてしまったからよ」と言って、老アイクを詰るのです。
アイクが晩年になっても、彼の試みの真意は誰にも理解されず孤独であり、「自由」を求めて自分が「呪われた土地」を放棄した結果、マキャスリン・エドモンズの子孫に新たな「呪い」を加えてしまったことに気づかされたアイクは、どれほど絶望したことでしょうか。

『大森林』収録の『熊』は『朝の追跡』とあわせて、非常に爽やかな読後感ですが、『行け、モーセよ』収録の『熊』は『デルタの秋』とあわせて、重苦しい読後感で、苦い失望がありありと伝わってきます。
本作は、大熊を狩るというシンプルな出来事だけを題材としながら、自然と人間の関係や、土地と人種が絡む歴史的な問題など、きわめて精神的、神学的な考察を描き出しています。
例えば、戦争や大虐殺など歴史的な大事件を題材とした作品は、その出来事自体が持つインパクトがあり、読者を引きつけます。
しかし、この『熊』は、そのような大きな出来事を題材とせず、大熊を狩るというシンプルな題材だけで、ここまで深く考えさせる作品に仕上がっているのです。
ノーベル文学賞作家であるフォークナーの圧倒的な筆力を実感させられる一冊であると、わたしは思いました。



英文引用:William Faulkner, Big Woods, Icaros Books.(Kindle版)
William Faulkner, Go Down,Moses, Icaros Books.(Kindle版)

参考:ジョゼフ・R.デ・ジャルダン『環境倫理学:環境哲学入門』(出版研、2005年)
ゴードン・D.カウフマン『核時代の神学』(ヨルダン社、1989年)
小原克博「「神の像」に関する一考察:フェミニズムとエコロジーへの応答」(『日本の神学』、1998年)
元田脩一「フォークナーの「熊」--アメリカ小説の一原型」(『文芸と思想』、1962年)
佐藤道夫「フォークナーとソローに関する研究--彼らの人間と自然に対する考え方について」(都留文科大学研究紀要、2000年)