- 大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)
- 発売元: 新潮社
- 価格: ¥ 580
- 発売日: 1980/08
サリンジャーの『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章-』(野崎孝/井上謙治訳、新潮社)を読了しました。
『フラニーとゾーイー』につづく、グラース家の物語です。
ここまで読んでくると、『ナイン・ストーリーズ』に収められているいくつかの短編も、いわゆる"グラース・サーガ"の重要な一部分であることが分かってきました。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」と「シーモア-序章-」は、グラース家の次兄バディの語りによって書かれています。
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「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」は、長兄シーモアの結婚式当日の数時間を描きながら、ブーブーに言わせれば「最低」だけれど「すごい美人」のミュリエルと、シーモアがなぜ結婚することになったかの真相を浮かび上がらせています。
ミュリエルにとって結婚は、「まっ黒に日焼けして、どこかいきなホテルのフロントへ行って、主人がもう郵便物を持って行ったかと尋ねてみたい」、「カーテンの買い物がしたい」、「マタニティ・ドレスを買ってみたい」、「母親のクリスマス・ツリーではなくて、自分のクリスマス・ツリーの飾りつけを毎年箱から取り出してみたい」といった欲求を満たすためであり、そのことをシーモアはよく理解しています。
彼女の結婚の動機を、彼女そのものを、バディやブーブーやフラニーのようなグラース家の子供たちは軽蔑するでしょう。
ミュリエルの母親に対しても、同じでしょう。
ブーブーは、「お母さんという人は絶望ね―あらゆる芸術にちょっぴりずつ通じていて、週に二度ずつユングの流れを汲む立派な精神分析の先生に会っています」と、バディに書き送っています。
一方で、グラース家の子供たちではなく、ミュリエルを取り巻く人々から見れば、ミュリエルや彼女の両親は「そりゃすてきな人たち」であり、「本当にいい人たち」なのです。
シーモアは、ミュリエルの母親に言わせれば「同性愛の気があって、精神分裂症の傾向を持っている」のであり、彼女の親戚からは「いつまでも大人になれないでいる」、「イカレタ気違い」に見えるのです。
このコントラストは、非常に象徴的ですね。
しかしながら、シーモアは、バディやブーブーがミュリエルやミュリエルの母親を軽蔑するようには、彼女たちを軽蔑しません。
シーモアは日記のなかで、ミュリエルの結婚の動機について次のように書きます。
彼は彼女を軽蔑するだろう。が、しかし、それははたして軽蔑さるべき動機だろうか? ある意味ではたしかに軽蔑されても仕方あるまい。だが、ぼくには実に人間並みで美しく思われて、これを書いている今ですら、それを思うと深い深い感動を禁じ得ない。
(サリンジャー「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」野崎孝訳、以下同)
ミュリエルの母親に対しても、シーモアは次のように書いています。
独善的で、いらいらさせられる女で、バディの我慢ならないタイプだ。おそらく彼女のありのままの姿を見ることは彼にできないだろう。事物を貫いて流れている、万物を貫いて流れている太い詩の本流、これに対する理解力をも愛好心をも、生涯ついに恵まれることのなかった人間。むしろ死んだ方がましかもしれないが、それでも彼女は生き続けてゆく。デリカテッセンに立ち寄ったり、かかりつけの分析医に会ったり、毎晩一編ずつ小説を読破したり、ガードルを着けたり、ミュリエルの健康と繁栄のために画策したりしながら。ぼくは彼女を愛している。想像を絶するほど勇敢な人だ
わたしはシーモアがミュリエルとの結婚を決めた理由は、ここにあると思います。彼の哲学は、『フラニーとゾーイー』における「太っちょのオバサマ」の比喩と同じテーゼです。
「フラニー」(1955年)→「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」(1955年)→「ゾーイー」(1957年)という執筆順からも分かるように、サリンジャーの"答え"は、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」の時点ですでに固まっていたのでしょう。
サリンジャーの哲学において、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」のシーモアが到達点であり、『フラニーとゾーイー』はフラニーが、ミュリエルやミュリエルの母親を軽蔑するような人間観を、乗り越える過程を描いているのだろうと思いました。
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結婚後の二人がどうなったかは、「バナナフィッシュにうってつけの日」(『ナイン・ストーリーズ』に収録されています)に描かれています。
シーモアがなぜ自殺したかは、謎のままです。
読了日:2008年8月9日