略歴メモ | ||
年代 | 出来事 | |
1918年 | コーカサスのキスロヴォツスク市に生まれる。 ソルジェニーツィン家は革命前まで南ロシア有数の裕福な家庭で、当時ロシアに9台しかなかったロールスロイスを所有していた。 | |
1936年 | 18歳。ドン河畔ロストフ市の中学を卒業、ロストフ大学理学部数学科へ入学。 | |
1941年 | 23歳。ロストフ大学理学部数学科を卒業。6月、独ソ開戦となり、輜重部隊へ編入される。 | |
1942年 | 24歳。偵察砲兵中隊長に任ぜられる。以後、レニングラード、オリョール・クールスク湾曲部の有名な戦闘に参加。白ロシア、ポーランドを経てベルリン進攻作戦に参加。この間、戦功により、「祖国戦争」ニ等勲章および赤い星勲章を授与される。 | |
1945年 | 27歳。2月、砲兵大尉として東プロシャのケーニヒスベルグ近郊において逮捕される。理由は友人宛の書簡において匿名ながらスターリンを批判したため。 ただちに、モスクワのルビャンカ刑務所へ送られ、6月、欠席裁判により8年の刑を宣告され、矯正労働収容所で働く。 数学と物理の専門家として『煉獄のなかで』の舞台となっている「特別収容所」へ移される。 | |
1950年 | 32歳。北カザフスタンのエキパトゥーゼ市の政治犯収容所へ移され、そこにおいて石工および鋳工として働く。『イワン・デニーソヴィチの一日』に舞台となったところである。ここにおいてガンを患い、手術を受けたが根治にいたらなかった。 | |
1953年 | 35歳。2月、8年の刑期を1か月余分に勤めあげて釈放され、行政命令によりコシテレク(カザフスタン南部)へ「永久追放」に処せられた。ガンがふたたび悪化し、生死の間をさまよった末、タシケントの病院へ送られた。そこが『ガン病棟』、『右手』の舞台となった。 3月、スターリン死去。 | |
1954年 | 36歳。密かに執筆活動をはじめる。 | |
1956年 | 38歳。2月、第20回ソ連共産党大会においてスターリン批判が行われる。ようやく追放を解かれ、ロシア・ヨーロッパ地区へ戻る。ウラジーミル州にて『マトリョーナの家』で描かれているエピソードを体験する。 | |
1957年 | 39歳。正式に名誉回復される。リャザン市に移り、同市の中学校で数学・物理を教えながら創作活動に没頭する。 | |
1962年 | 44歳。「ノーヴィ・ミール」誌11号に『イワン・デニーソヴィチの一日』が発表され、世界的な話題となった。シーモノフはじめ文壇の大御所たちから讃辞を浴び、ただちにソ連作家同盟の会員に推された。戯曲『鹿とラーゲリの女』をモスクワの「現代人」劇場で上演する契約ができた。しかし、最終的な上演許可がおりず、上演されなかった。 | |
1963年 | 45歳。「ノーヴィ・ミール」誌1号に『クレチェトフカ駅の出来事』、『マトリョーナの家』の2編を同時に発表する。同誌7号に『公共のためには』を発表。『イワン・デニーソヴィチの一日』はレーニン賞候補として最終予選まで残る。 | |
1965年 | 47歳。イギリスの「エンカウンター」誌3号に『十五の断章』が発表される。『煉獄のなかで』の草稿が国家保安委員会によって没収されるという事件が起こる。 | |
1968年 | 48歳。「ノーヴィ・ミール」誌1号に『胴巻のザハール』を発表。『ガン病棟』の一部が完成、作家同盟モスクワ支部の推薦を受けたが、各文芸誌からその掲載を断られる。 | |
1967年 | 49歳。いわゆる「ソルジェニーツィン事件」がはじまる。 | |
1968年 | 50歳。『ガン病棟』は西欧で出版される。 | |
1969年 | 51歳。『煉獄のなかで』も西欧で出版される。短編『右手』、『復活祭の行列』も西欧で出版される。11月12日、ソ連作家同盟リャザン支部より除名される。 | |
1970年 | 52歳。10月、ノーベル文学賞がソルジェニーツィンに決定する。 | |
1971年 | 53歳。『一九一四年八月』をパリのYMCA社から出版。ソ連では完全に黙殺された。春、息子エルモライ生まれる。 |
2008/08/07
ソルジェニーツィン ; 略歴メモ
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