- 熊 他三篇 (岩波文庫)
- 発売元: 岩波書店
- 発売日: 2000/6/16
2020年4月18日の読書会で、ウィリアム・フォークナーの『熊』を読みました。
ウィリアム・フォークナー(1897年-1962年)は、アメリカ南部ミシシッピ州生まれの作家で、1949年にノーベル文学賞を受賞し、20世紀アメリカ文学を代表する作家として、広く知られています。
『響きと怒り』(1929年)、『八月の光』(1932年)、『アブサロム、アブサロム!』(1936年)をはじめとする代表作には、アメリカ南部の歴史的な土地問題や人種問題、南北戦争などが取り上げられています。
今回の『熊』は、1870年~1880年頃のミシシッピ州の大森林において、オールド・ベンという名前を勝ち得ている大熊を狩る狩猟物語ですが、これは大熊を仕留めることで物語が終わってしまう、単なる狩猟物語ではありません。
池澤夏樹は、フォークナーの『熊』について、次のように紹介しています。
いかにもというパターンの話がある。何度も書かれたテーマで、だいたいこうなるだろうと思って読んでいくとやっぱりそうる。
森にすごく大きな強い熊がいて、ハンターたちが次々に挑戦するけど、どうしても倒せない。最後に主人公が対決して...。
これなんかパターンどおりの話に思えるだろう。神話から始まって、シートンの『動物記』とか。劇画やゲームにもそのまま応用できそう。一歩まちがうと陳腐になる。
フォークナーの「熊」という短篇がそれなんだ。でも中身は違う。まるっきり違う。こういうところで作家は実力が知れると思う。(池澤夏樹『池澤夏樹の世界文学リミックス』2015年、河出文庫より)
物語の主人公アイザックは、先住民と黒人奴隷の血を引くサム・ファーザーズから森での狩猟の智慧を学び、オールド・ベンを狩ることを通して、人間と自然について深く考えるようになります。
自然を通して人間を考えるようになった結果、大農園の跡継ぎであるアイザックは、白人の土地所有について、また白人と黒人の関係について深く考え、しだいに苦悩するようになるのです。
したがって『熊』は、自然への愛着あふれるネイチャー・ライティング(nature writing)の一種であるとともに、主人公アイザックの内面的な成長物語、ビルドゥングスロマン(人間形成物語)であると言えるでしょう。
『熊』には二つのテクストがあり、フォークナー自身の手による改作によって、両者の内容は大きく異なります。
一つは、1942年5月9日刊の『サタデー・イヴニング・ポスト』に発表され、後に『大森林』(Big Woods:the Hunting Stories,1955)に収録されています。
これは全四章から成る構成で、岩波文庫の『熊 他三篇』(加島祥造訳)に収められており、読書会で読んだのはこちらの作品です。
もう一つは、『行け、モーセよ』(Go Down,Moses,1942)に収録されたもので、『サタデー・イヴニング・ポスト』に発表後、新たな章として第四章がまるごと書き加えられて、全部で五章の構成になっています。
この新しい第四章が追加された『熊』は、『フォークナー全集16 行け、モーセ』(大橋健三郎訳、冨山房、1973年)に収められています。
まずは、この第四章を除いた狩猟物語としての『熊』に焦点を当て、人間と自然というテーマについて見ていきたいと思います。
次に、第四章を加えた『行け、モーセ』に収められた『熊』と比較し、第四章のある無しによって、どのような違いがあるのか考察したいと思います。
※ネタバレ注意※
【目次】
1.『大森林』における『熊』について
......第1章:アイク10歳から11歳、狩猟への入門
......第2章:アイク12歳から15歳
......第3章:アイク16歳、大熊狩の終焉
......第4章:アイク18歳
......『熊』における人間と自然に対する考え方について
2.『行け、モーセよ』における『熊』第4章について
3. 結びに
1.『大森林』における『熊』について
第1章:アイク10歳から11歳、狩猟への入門
まずは、『大森林』(Big Woods:the Hunting Stories,1955)に収められた『熊』について見ていきましょう。
『熊』の舞台は、1870年代から1880年代にかけてのミシシッピ州の大森林です。
当時は、「原始の野や森(the wilderness,the big woods)」がまだ残っていました。
その大森林には、「オールド・ベン(Old Ben)」と呼ばれる一匹の老いた大熊が生きています。
罠のせいで片足が曲がったこの大熊は、トウモロコシの納屋を破って中を荒らし、子豚や親豚や仔牛までまるごと喰い、罠や落とし穴を破り、猟犬をひき裂き、散弾銃ばかりかライフル銃の弾でさえ玩具の鉄砲ほどの効目しか無い、という伝説を持っていました。
なにしろこの無人の大自然は呪われた運命のもとにあったのだ。その周辺は斧や鋤を持つ人間たちによってたえず喰いかじられ狭められていた。元来、人間とは原始林を恐れるものだ、というのもそれが自然の造り物だったからであり、互いに名も知らぬ間柄の人間たちが、そこに群がり寄って喰い荒らしたのであり、喰い荒らされた森ではあの大熊が仇名を持つようになり、いつしかそれはただの生きた大熊であるばかりか、古い消えた時代からの不変の生存物と思われはじめた-いわば大熊は古来の大自然の命の亡霊、象徴、復活神といったものであり、その大いなる足もとに、ちっぽけな人間どもが虚しい怒りと嫌悪心で襲いかかり、しがみついているのだ-この老いた大熊、独りきりの、不屈で孤独な存在、連れとなる雌も子供もいないまま、死ぬ運命さえ越えた存在-それは老妻に死なれ息子たちみんなに先立たれたギリシャ神話のトロイ王にも似ていた。(フォークナー「熊」加島祥造訳、『熊 他三篇』、岩波文庫、13頁)
that doomed wilderness whose edges were being constantly and punily gnawed at by men with plows and axes who feared it because it was wilderness, men myriad and nameless even to one another in the land where the old bear had earned a name, and through which ran not even a mortal beast but an anachronism indomitable and invincible out of an old dead time, a phantom, epitome and apotheosis of the old wild life which the little puny humans swarmed and hacked at in a fury of abhorrence and fear like pygmies about the ankles of a drowsing elephant; - the older bear, solitary, indomitable, and alone; widowered childless and absolved of mortality - old Priam reft of his old wife and outlived all his sons. (William Faulkner, "The Bear", Chapter 1 (Big Woods))
この大熊は、死滅した古い時代から出現した不撓不屈にして無敵の時代錯誤(an anachronism indomitable and invincible out of an old dead time)であり、古い野生の生命の一つの幻影、一つの縮図、一つの神格(a phantom, epitome and apotheosis of the old wild life)であると語られてます。
大熊は、猟犬で追いかけ、銃弾を撃ち込むことが出来る現実的なこの世の獣(a mortal beast)であると同時に、大森林を象徴する神聖な幻影(a phantom)である、という二重の意味を持つ存在と言えます。
フォークナーは、さらに大熊をトロイア最後の王プリアモス(old Priam)に喩えています。
ホメロスの叙事詩『イーリアス』によれば、トロイア戦争によって、プリアモスの息子ヘクトールは殺され、トロイア滅亡後にプリアモスも殺されます。
大熊をプリアモスに喩えることによって、アガメムノン率いるアカイア人の軍勢によってトロイアが滅ぼされたように、やがて人間によって大森林が侵略され、大熊も殺される運命にあることを、第一章から暗示しているのです。
主人公アイザック・マキャスリン(Isaac MaCaslin、愛称アイク Ike)は、10歳になって初めて、「あの広大な大低地、あの大森林(the Big Bottom,the big woods)」(第1章)において、毎年11月に2週間に渡って行われる狩猟の仲間に加わります。
ド・スペイン少佐(Major de Spain)率いる狩猟の一団が目指す獲物は、この大熊オールド・ベンにほかなりません。
しかし不思議なことに、アイクにとっては、「彼らが熊や鹿を狩りに行くのでなくて、殺す気さえないあの大熊とただ出会うために出かけてゆくかのように」(To him, they were going not to hunt bear and deer but to keep yearly rendezvous with the bear which they did not even intend to kill.)思えたのです。
「あの大熊という死を知らぬ凄まじい存在とは、ただ毎年、出会いの儀式をするだけ」(the yearly pageant-rite of the old bear's furious immortality)と感じられたその特別な狩猟に、アイクは10歳から16歳まで毎年参加し続けることになります。
十歳で狩に入った時から、彼は、自分が新しく生まれ直したと感じた。それは奇妙なことでさえなかった。(「熊」岩波文庫、16頁)
It seemed to him that at the age of ten he was witnessing his own birth. It was not even strange to him. ("The Bear", Chapter 1)
狩猟の仲間に加わることを許され、初めて大森林に入った時、アイクは自分自身の誕生を目撃しているように思えました。
大森林に入った最初の年に、アイクは大熊を自分で獲物を狩ることも、あの大熊を見ることも出来ませんでした。
しかしアイクは、大熊を追う十一匹の猟犬たちの甲高く惨めな、泣き声のような吠え声を聞き、野営地に帰った猟犬たちの恐怖におじけ、音も立てずに目玉だけ光らせている光景や、裂かれた耳や肩を見ます。
そして、狩猟の達人であるサム・ファーザーズ(Sam Fathers)が、アイクを「冬の日の薄暗くなった原始の森の中」(in the thick great gloom of ancient woods and the winter’s dying afternoon)に連れて行き、腐った倒木につけられた大熊の爪の跡を見せ、濡れた地面につけられた、大熊の巨大な二本指の足跡を見せるのです。
その時アイクは、猟犬たちの恐怖とほとんど同じものを自分の中に感じました。
その恐怖は、疑惑や恐れとは違ったものであり、「怖いけれど近づきたい気持ち、偉大なものへの謙遜の心、太古からの森にたいする自分の小ささと無力感」(an eagerness, passive; an abjectness, a sense of his own fragility and impotence against the timeless woods, yet without doubt or dread)でした。
大森林における初めての狩猟を終えて、アイクはどうしても大熊と出会わなければならない、大熊を見なければならない(So I will have to see him, he thought, without dread or even hope. I will have to look at him.)という思いを強くしたのです。
アイクが11歳の夏、ド・スペイン少佐の一行とともに再び大森林へやってきた時に、彼は驚くべき行動に出ます。
毎朝彼は朝食をすますと、野営地から一人で森へ出かけ、遅くまであちこちを探し歩きました。
狩猟に加わって2年目の彼は、「クリスマスの贈り物」として「自分の銃」をすでに持っていました。
アイクがこの銃をその後70年ものあいだ使い続けることを、フォークナーは予見しています。(He had his own gun now, a new breech-loader, a Christmas gift; he would own and shoot it for almost seventy years)
三日目の夕暮れ時、大熊の足跡すら見つけられず途方に暮れるアイクに、サム・ファーザーズが「銃のせいだよ」(It's the gun.)と助言します。
サム・ファーザーズは、先住民のチカソー族の酋長と黒人の奴隷女性との間に生まれた男(son of a Negro slave and a Chickasaw chief)であり、大森林の野営地の近くに小さな小屋を建てて、独りで住んでいます。
この老いた狩人がまだ町に暮らしていた頃から、アイクは大森林や大熊の話を聞き、狩りの仕方を教わっていました。
アイクが10歳になり、ド・スペイン少佐の一団に加わった時から、彼はサムと一緒に本当の大自然での修練期に入った(He entered his novitiate to the true wilderness with Sam)のです。
フォークナーは、アイクが老サム・ファーザーズに師事し、大森林での狩猟の修行に入ることを'his novitiate'(彼の修練期)と表現しています。
novitiate(修練期)とは、修道生活を志す者が、修道の請願を立てる前の見習い期間(準備期間)を指す言葉です。
したがって、アイクが大森林へ入ることは、修道院へ入ることと同じであり、アイクにとって狩猟は単なるスポーツや娯楽を超えた、内的な、精神的な修行であると言えます。
大森林のそばで、妻子もなく、一人で生きているサム・ファーザーズは、まさに荒野で修道生活を送る修道者であり、アイクを教え導く老練な修練長であると言えるでしょう。
次の朝、サム・ファーザーズの「銃のせいだよ」(It's the gun.)という助言を受け入れて、アイクは自分の銃を持たずに、夜明け前の森へ出発しました。
彼は、磁石と彼の父親のものだった古い分厚い銀の懐中時計だけを頼りに、森の中を旅をしました(travelling now not only by the compass but by the old, heavy, biscuit-thick silver watch which had been his father’s.)。
なぜなら彼は銃を置いてきた身だからだ-それも彼自身の意志からしたことだ-自分を放棄してのことだ。それは熊と出会うための唯一の条件であり、それを彼は受け入れたのだ。それは大熊の変幻自在な動きばかりか太古からの狩人と狩られる者とのあいだのかけ引きのすべてを忘れることであり、彼はその条件を受けいれたのだ。もう心配さえなかった。たとえ恐怖にとりつかれた瞬間でさえ平気な気持でいられたろう-(「熊」岩波文庫、35頁)
He had left the gun; by his own will and relinquishment he had accepted not a gambit, not a choice, but a condition in which not only the bear’s heretofore inviolable anonymity but all the ancient rules and balances of hunter and hunted had been abrogated. He would not even be afraid, not even in the moment when the fear would take him completely ("The Bear", Chapter 1)
アイクは、野営地を出発してから9時間も探し続けましたが、大熊を見つけることが出来ませんでした。
彼は自分の必要性から、謙虚さと平和の中で、後悔することなく、自分自身をすでに放棄していました(He had already relinquished, of his will, because of his need, in humility and peace and without regret)。
そして、銃を捨ててきただけではまだ十分ではなかった(yet apparently that had not been enough, the leaving of the gun was not enough)と確信し、アイクは時計と磁石を捨て去り、大熊を求めてさらに旅を続けたのです(Then he relinquished completely to it. It was the watch and the compass.)。
フォークナーは、アイクが時計と磁石を持っていたことで、彼はまだ汚染されていたのだ(He was still tainted.)、と表現しています。
第1章の冒頭近くに、鋤や斧を持った人間によって絶え間なく、小さくかじられることを運命づけられた原生自然(doomed wilderness whose edges were being constantly and punily gnawed at by men with plows and axes)と語られているように、大森林は絶えず、少しずつ人間によって侵食されていました。
文明の発展とともに原生自然が侵略されてきたと考えれば、時計や磁石のような文明の利器は、自然にとっては武器と同じと言えるでしょう。
そのためフォークナーは、自然に対する武器を持ったままでいるアイクを、彼はまだ汚染されている、と表現したのだと思います。
アイクが大熊と出会うためには、文明の利器を全て放棄し、完全に非武装状態にならなければいけないのです。
アイクは、自分が道に迷ったことを自覚した時、「サムから受けた教えと訓練の通り」(he did as Sam had coached and drilled him)にしました。
彼は、輪を描くように歩き、いま来た道に出会うという方法を実践しましたが、自分が磁石と時計を残してきた茂みへ戻ることは出来ませんでした。
そこで今度は、サムが彼に教え、訓練してくれた第二の方法(he did next as Sam had coached and drilled him)を実践しました。
彼は、前とは反対方向にもっと大きく輪を描いて廻り、自分の来た踏み跡にぶつかるようにしましたが、どこまで歩いても彼自身の踏み跡にはぶつかりませんでした。
ついに彼は、サムが彼に教え、訓練してくれた最後の方法(he did what Sam had coached and drilled him as the next and the last)を実践しました。
彼は倒木に坐って、気を落ち着かせたのです。
するとその時、彼は大熊の歪んだ足跡が地面についているのを見つけました。
彼はその足跡を「疲れもせず、夢中で、恐れも疑いも持たず」(tireless, eager, without doubt or dread)追い続けました。
同時にそこに、あの木と茂み、枝に掛かった磁石と時計が木洩れ陽に当たって金色に光るのも見えた。それから彼は大熊を見た。それはぬっと現れたのではないし、にわかに飛び出たのでもなかった。前からもうそこに立っていたのだ。不動の様で、風のない昼の熱い木洩れ陽の中にくっきりと姿を現わしていた-それは彼が空想し夢に描いたものほど大きくなかったけれども、たぶんあれ位だと予期した大きさであり、斑な光の下なので輪郭が明らかでないせいか実際よりずっと大きな存在-それが彼を見つめていた。(「熊」岩波文庫、38頁)
It rushed, soundless, and solidified—the tree, the bush, the compass and the watch glinting where a ray of sunlight touched them. Then he saw the bear. It did not emerge, appear: it was just there, immobile, fixed in the green and windless noon’s hot dappling, not as big as he had dreamed it but as big as he had expected, bigger, dimensionless against the dappled obscurity, looking at him. ("The Bear", Chapter 1)
アイクは、サムに教わり訓練されたことだけを頼りにして、大熊の足跡へたどり着き、はじめて大熊を見ることが出来ました。
フォークナーは、大熊が姿を現わした瞬間を「それはぬっと現れたのではないし、にわかに飛び出たのでもなかった。前からもうそこに立っていた(It did not emerge, appear: it was just there)」と表現しています。
大森林の神聖な象徴である大熊は、文明的な武装を一つ一つ放棄していくアイクの様子を、実はアイクのすぐ間近でじっと見つめていたかのようです。
アイク自身は、大熊がすぐそばにいることに気づかず、彼が文明人として一度死に、大森林に完全に身をゆだねた時にようやく、大熊がすでに「そこに立っていた」ことに気づいたのです。
わたしは本作を初めて読んだ時、わずか11歳のアイクが、銃を持たずに一人で森の奥へ行き、磁石と時計までも捨て去り、大熊を求めて長い旅を続けたことに、大いに驚嘆しました。
池澤夏樹が「こういうところで作家は実力が知れる」と語っていたように、単に大熊を追跡する興奮とスリルを描いた狩猟物語ではないのだ、と思わせられました。
狩猟に加わって最初の年に、大熊におびえて震えている猟犬を見て、森の奥でサムから大熊の巨大な足跡を見せられた時、アイクは大熊に対する恐怖と自分の無力感を感じました。
その気持ちは、文明人が自然の猛威に対して抱く、恐怖と無力感と同じであると言えます。
鋤と斧を持つ人間は、自然を恐れたからこそ(men with plows and axes who feared it because it was wilderness)、それを絶えず喰いかじり続けたのです。
その翌夏、アイクは大熊に対する恐怖と無力感を克服して、文明人としての自分自身を放棄し、「謙遜した平和な心」(in humility and peace)で大森林と向き合い、初めて大熊を見出しました。
ここに、フォークナーの人間と自然に対する考え方がよく表現されていると思います。
自然の前では、人間は小さく無力な存在であり、自然に対して「偉大なものへの謙遜の心」や「謙遜した平和な心」を持ち続けなければならないのです。
フォークナーは、大森林の中で狩りをする男たちというのは、白人でもなければ黒人でも先住民でもなく、忍耐する意志と大胆さを持ち、生きのびるための謙遜と技術を持った男たち(It was of the men, not white nor black nor red but men, hunters, with the will and hardihood to endure and the humility and skill to survive)であると表現しています。
フォークナーの考えでは、自然の前に人間は、白人とか黒人とか先住民といった人種の優劣は存在せず、全員が同じくちっぽけなものであり、人間もまたその自然の一部であるのです。
第2章:アイク12歳から15歳
次の年、12歳となったアイクは、初めて牡鹿を射ち殺して、サム・ファーザーズがその鹿の血をアイクの顔に塗りつけ、イニシエーションの儀式としました。
『熊』第二章の冒頭に、「彼はすでに牡鹿を射ち殺していて、その温かい血をサム・ファーザーズが彼の顔になすりつける儀式を終えていた」(He had killed his buck and Sam Fathers had marked his face with the hot blood)とあります。
フォークナーは、サム・ファーザーズが行った儀式を'accolade'という言葉で表現しています。
'accolade'とは、「栄誉のしるし」といった意味であり、歴史的にはナイト爵位の授与式において、抱擁やキスによって授与のしるしとすること、あるいは剣で肩へ軽く打つ動作で授与のしるしとすることを指す言葉です。
『大森林』および『行け、モーセよ』に収録されている短編『むかしの人々』("The Old People")では、次のように語られています。
彼が引き金を引き、彼の撃って流した血をサム・ファーザーズが彼の顔になすりつけ、彼は子供であることを止めて、ひとりの狩人、ひとりの男になった。(「むかしの人々」岩波文庫、162頁)
He pulled trigger and Sam Fathers marked his face with the hot blood which he had spilled and he ceased to be a child and became a hunter and a man. ("The Old People", Chapter 2)
したがって、サム・ファーザーズの行動は、アイクに一人の男、一人の狩人としての誇りを与えるイニシエーションの儀式(accolade)であったと言えます。
両側の壁の上や背後からは大自然が彼らの過ぎるのを見張っていたが、いまはそれも敵意の薄い目であり、さらに敵意は薄れ消えてゆくだろう。なぜなら牡鹿はなおも永遠に跳ね走るだろうからだ-慄える銃身がしまいにはまっすぐ鹿に向けられ、発射されつづけるだろうが、それでも鹿は永遠の瞬間の中で永久に不死の姿で跳ね走りつづけるからだ。幌馬車は揺れたり跳ねたりして動いてゆき、なおも少年の思いはあの牡鹿との時間をたどり直していて、発射、サム・ファーザーズが彼自身とあの血、サムがあの血はあの血を彼に塗ることで彼と大自然を永久にひとつに結びつけ、大自然は彼を受け入れてくれた。というのもサムが彼は立派にやったと言ってくれたからだ。(「むかしの人々」岩波文庫、162-163頁)
The wagon wound and jolted between the slow and shifting yet constant walls from beyond and above which the wilderness watched them pass, less than inimical now and never to be inimical again since the buck still and forever leaped, the shaking gun-barrels coming constantly and forever steady at last, crashing, and still out of his instant of immortality the buck sprang, forever immortal; the wagon jolting and bouncing on, the moment of the buck, the shot, Sam Fathers and himself and the blood with which Sam had marked him forever one with the wilderness which had accepted him since Sam said that he had done all right, ("The Old People", Chapter 2)
このイニシエーションの儀式を終えて、大自然はアイクに対する敵意(inimical)を消して、彼を受け入れ、彼は大自然と永遠に一つになった、と語られています。
アイクは、自分が初めて牡鹿を殺した瞬間を何度も思い返し、その不滅の瞬間(his instant of immortality)の中で、牡鹿は永遠に跳躍し続ける(the buck still and forever leaped)のです。
アイクが初めて牡鹿を殺した思い出は、『熊』第四章(『行け、モーセよ』収録の『熊』第五章)にも挿話されています。
さらに、『行け、モーセよ』に収録されている短編『デルタの秋』("Delta Autumn")の中では、80歳近くなったアイクによって、次のように回想されています。
サムがその熱い血のなかに両手を浸して彼の顔に永遠の印をつけてくれたが、一方彼はふるえまいとつとめながら、十二歳の少年ではまだそのときはその気持ちを言葉にあらわすことはできなかったとは言うものの、おいらはお前を殺した、おいらはおまえの飛びさってゆく生命を辱めるような振舞をしてはならない。今から永久においらの振舞はおまえの死にふさわしいものにならなければいけない、といった、謙譲な、そしてまた誇り高い気持ちで立っていた、そういうことのために、いや、それ以上のことのために、サムは彼に印をつけてくれたのだった(「デルタの秋」大橋健三郎訳、冨山房、397頁)
Sam dipped his hands into the hot blood and marked his face forever while he stood trying not to tremble, humbly and with pride too though the boy of twelve had been unable to phrase it then: I slew you; my bearing must not shame your quitting life. My conduct forever onward must become your death; marking him for that and for more than that:("Delta Autumn")
イニシエーションの儀式を受けて、アイクは自分が殺した牡鹿の生命に対する謙遜の心(humbly)を持ち、その謙遜の心から、牡鹿の生命に恥じない行動を誓うことによって、さらに人間としての誇り(pride)を体得したのです。
フォークナーは、アイクを主人公とする一連の作品『熊』、『むかしの人々』、『デルタの秋』において、この'humbly'(謙遜して、謙虚に)という言葉を繰り返し用いています。
'humbly'および'humble'、'humbleness'という言葉が、『熊』には5回(『行け、モーセよ』収録の『熊』には6回)、『むかしの人々』には1回、『デルタの秋』には3回も用いられています。
さらに、'humbly and joyfully'「謙虚にそして喜んで」("The Old People")、'humble and proud'「謙虚で誇り高い」("The Bear")、'humbly and with pride'「謙虚にそして誇りを持って」("Delta Autumn")、'humbly,with joy and pride'「謙虚に、喜びと誇りを持って」("Delta Autumn")と何度も表現されています。
その謙遜の心(謙虚な心)は、大自然に対する恐怖や無力感とではなく、人間としての喜びや誇りへとつながっているのです。
上述した通り、『熊』第一章において、初めて大熊を見た時のアイクは、大自然に対して謙遜の心を持ち、自分自身を完全に放棄していました。
その後、初めて牡鹿を殺した時のアイクは、自然と動物に対する謙虚さを持つと同時に、殺した動物の生命に恥じない行動をすることを誓うことで、自己放棄の段階を乗り越え、人間としての喜びや誇りを感じる段階に到達したと言えます。
このアイクの精神的な成長過程に、フォークナーの人間と自然に対する考え方がよく表れていると言えるでしょう。
したがって、アイクが自然に対して謙虚になり、自分自身を放棄して、文明人として一度死ぬことは、彼の精神的修行(novitiate)の第一段階であったと考えられます。
自然に没入した自己放棄の状態から、自然に受け入れられ、自然の一員としての喜びや誇りを自覚することで、アイクは文明人として再び生まれ直したと言えます。
『熊』第一章において、アイクが10歳の時に、自分が新しく生まれ直したと感じた(It seemed to him that at the age of ten he was witnessing his own birth)と語っていたように、大森林における精神的修行は、アイクにとってまさに精神的誕生(his own birth)を意味していたのです。
フォークナーは、アイクの大森林における精神的修行の過程を次のように表現しています。
もしサム・ファーザーズを彼の師匠とするなら、彼の幼稚園は裏の原っぱでの兎やリス狩だったし、彼の大学はあの老いた大熊の走り廻る森であり、さらにあの老いた大熊そのものは-妻もなく子もなくて自分が祖先である大熊は-まさに彼の大学院といえるのだった。(「熊」岩波文庫、40頁)
If Sam Fathers had been his mentor and the backyard rabbits and squirrels his kindergarten, then the wilderness the old bear ran was his college and the old male bear itself, so long unwifed and childless as to have become its own ungendered progenitor, was his alma mater. ("The Bear", Chapter 2)
アイクにとって、サム・ファーザーズは彼の教師であり、兎やリスは彼の幼稚園であり、大森林は彼の大学であり、老いた大熊は彼の母校であったのです。
12歳のアイクは、殺した牡鹿の生命に恥じない行動をすることを誓い、人間としての喜びや誇りを体得して、精神的修行の第二段階に到達しました。
このようにして、アイクは精神的修行の過程で、自然に対する道徳的責任の意識を持つようになり、現実の問題を判断する価値基準を身につけていきます。
サム・ファーザーズを教師とし、大森林を大学、老いた大熊そのものを母校として修得したその道徳的責任の意識が、『行け、モーセよ』収録の『熊』第四章に描かれている、21歳となったアイクの決断へ直接つながっていると言えるでしょう。
アイクが13歳、狩猟に加わって4年目の夏に、サム・ファーザーズは「大熊を追いつめてつかまえられる犬」(He’s the dog that’s going to stop Old Ben and hold him.)を探し出し、「ライオン」(Lion)と名づけます。
あの朝のサムはもう見抜いていたのだ。彼は年をとった人だ。あの人には子供もいなければ世間もなく、もう一度会いたいような血筋のものはこの地上のどこにもいない。たとえ会えたとしても、彼は抱きあったり話したりできない。なぜって彼はもう七十年以上も黒人だったからだ。でももう、いまではそんなことも終わりかけていてそれが彼には嬉しかったんだ。(「熊」岩波文庫、47頁)
It had been foreknowledge in Sam’s face that morning. And he was glad, he told himself. He was old. He had no children, no people, none ofhis blood anywhere above earth that he would ever meet again. And even if he were to, he could not have touched it, spoken to it, because for seventy years now he had had to be a Negro. It was almost over now and he was glad. ("The Bear", Chapter 2)
第1章において、サム・ファーザーズは「まだ犬が来ていねえよ」(“We ain’t got the dog yet.”)とアイクに二度も語っています。
彼は、大熊に恐怖して惨めに鳴き声を上げる十一匹の猟犬たちではなく、大熊を追いつめてつかまえられる本物の犬を、長年探していました。
サム・ファーザーズは、牝鹿の咽喉をかみ裂き、小鹿を殺し、ド・スペイン少佐の仔馬までも殺した獣の足跡を見た時、それが「大熊を追いつめてつかまえられる犬」であると、見抜いたのだと思います。
彼が求めていた本物の犬が見つかったことで、年毎の大熊との出会いの儀式(yearly rendezvous with the bear)もついに終わることを予期し、彼は嬉しかった(It was almost over now and he was glad.)のでしょう。
その大犬ライオンは、マスチフ犬とエアデル犬とその他の血が混ざったような野生の犬であり、肩までの高さは30インチ(約76センチメートル)を越え、体重は90ポンド(約40キログラム)以上の超大型犬でした。
ライオンは、サム・ファーザーズによって手なずけられた後、次の年から狩猟の仲間であるブーン・ホガンベック(Boon Hogganbeck)の元で2年間に渡って飼育されます。
ブーンは、先住民のチカソー族の血が四分の一混じった白人であり、「鈍感で激しい気性の男」(the violent, insensitive, hard-faced man )で、「ほとんど子供に近い単純な心の人間」(the mind almost of a child)でした。
ブーンは、そのチカソー族の祖母から受け継いだ血を誇りに思っており、ウィスキーを飲んだ時には、自分の父親は純血のチカソー族で酋長だったなどと嘯くほどでした。
アイクが15歳の11月に、この大犬ライオンは大熊を追いつめ、猟犬たちも加わって、狩猟仲間であるコンプソン将軍(General Compson)が射撃した銃弾が、大熊についに血を流させます。
大熊は、猟犬を殺して包囲を破って逃げ出し、ブーンとライオンが追いかけましたが、最期には取り逃がしてしまいました。
ブーンは大熊まで25フィート(約7.6メートル)の距離まで近づき、五度も銃弾を撃ちましたが、全て命中しませんでした。
ブーンは、「今まで何を撃ってもはずれてしまう男」(Boon had never been known to hit anything.)でしたが、「ひとつの欠点とひとつの美点」(one vice and one virtue)を持っていた、とフォークナーは語っています。
その欠点とはウイスキーであり、その美点とはド・スペイン少佐とアイクのいとこであるマキャスリンに、絶対的な忠誠心を持っていたこと(He was brave, faithful, improvident and unreliable; he had neither profession, job nor trade and owned one vice and one virtue: whisky, and that absolute and unquestioning fidelity to Major de Spain and the boy’s cousin McCaslin.)です。
フォークナーは、ブーンを不器用で頼りないが、勇敢で忠実な、愛すべき人物として描いています。
ライオンが大熊を追いつめ、ブーンが撃ち損なって、その年の狩猟は終わりました。
しかしアイクは、この狩の中で、サム・ファーザーズと同じように、来るべき大熊の死を予期していたのです。
もはやこの狩ではすべてが決っているのだと彼は思った。何かは言えないが、もう何かが始まっているようだった-いや実際にはじまっていたのだ。いわば舞台の最後の幕があがろうとしていた。それは何かの終りのはじまりだった。それが来ても彼は嘆き悲しまないだろうと知っていた。自分がこの狩に参加できることに、いやただこの狩を見ることができることに、嬉しさと誇りを感じたのだ。(「熊」岩波文庫、66頁)
It seemed to him that there was a fatality in it. It seemed to him that something, he didn’t know what, was beginning; had already begun. It was like the last act on a set stage. It was the beginning of the end of something, he didn’t know what except that he would not grieve. He would be humble and proud that he had been found worthy to be a part of it too or even just to see it too. ("The Bear", Chapter 2)
第2章において、「だから彼はライオンを憎んだり恐れたりすべきだったのだ」(So he should have hated and feared Lion.)という表現が、三度も繰り返して語られています。
アイクにとって、大熊は大森林の象徴であり、「偉大なものへの謙遜の心」を教えられた神聖な存在と言えます。
ド・スペイン少佐やコンプソン将軍ら狩猟の仲間たちも、元来大熊を殺すつもりはなく、ただ毎年の出会いの儀式(yearly rendezvous with the bear which they did not even intend to kill.)を楽しんでいました。
しかし、大犬ライオンを飼育して、大熊を狩り立てる訓練をすることは、いずれ大熊を殺し、大森林の不滅の象徴が失われることを意味します。
大熊を殺すつもりはないにもかかわらず、大熊を狩り立てる、という矛盾した複雑な気持を、フォークナーは「だから彼はライオンを憎んだり恐れたりすべきだったのだ」と表現しているのです。
第3章:アイク16歳、大熊狩の終焉
次の年、アイクが16歳となった12月に、大犬ライオンは再び大熊を追いつめ、ブーンがナイフを手に大熊と戦います。
ブーンはナイフを手離さずにいて、少年の眼にはナイフを突き刺してさぐる彼の腕や肩の細かな動きが見てとれた。再び熊は大きく立ち上がった-人間と犬とをぶらさげたまま、身を廻し、二歩三歩、森のほうへと人の歩くように踏みだし、そして倒れ落ちた。それは崩れたのでもなければ、潰れたのでもなかった。木の倒れるのと同じように、体全体が倒れこんだのであり、人と犬と熊は、一体となって、一度だけバウンドしたかに見えた。(「熊」岩波文庫、90頁)
He had never released the knife and again the boy saw the almost infinitesimal movement of his arm and shoulder as he probed and sought; then the bear surged erect, raising with it the man and the dog too, and turned and still carrying the man and the dog it took two or three steps toward the woods on its hind feet as a man would have walked and crashed down. It didn’t collapse, crumble. It fell all of a piece, as a tree falls, so that all three of them, man, dog and bear, seemed to bounce once. ("The Bear", Chapter 3)
第2章において、「だから彼はライオンを憎んだり恐れたりすべきだったのだ」と三度も繰り返し表現され、アイクが大熊の死を予期した通り、ついに大熊オールド・ベンは殺されたのです。
大熊との戦いによって重傷を負った大犬ライオンは、医者の手術のかいなく、ブーンに手厚く看護されながら死にました。
大熊の死と同時に、サム・ファーザーズも突然倒れ、医者が「生きる気力をなくしちまった」(He just quit.)と診察する病状に至ります。
自分の小屋に寝かせられたサム・ファーザーズは、「それは老いた人であり、また野性人、森の人種からまだ一世代もへていない野性の人であり、そして子供はなく、親族もなく、隣人もなく-いまは動きもしない両眼を開いているがもはや人々を見ていなかった。」(the old man’s body, the old man, the wild man not even one generation from the woods, childless, kinless, peopleless—motionless, his eyes open but no longer looking at any of them)と表現されています。
サム・ファーザーズに付き添いながら、アイクだけが「サムも死んでゆく」(only the boy knew that Sam too was going to die.)と確信していました。
そしてサム・ファーザーズが自分の意志で死を望み、ブーンがサムの死を手助けしたことを、フォークナーは示唆します。
大犬ライオンを埋葬した低い丘で、ブーンとアイクは新しい壇の上にサムの遺体を安置し、四本の柱を立て、その間を若木でつないで囲い、先住民の伝統に則ったと思われる葬儀を行いました。
アイクの父親代わりであるマキャスリンに問い詰められ、ブーンは「サムはこうしてもらいてえんだ。おれたちに頼んだんだ。どうやってほしいか。ちゃんと教えたんだ。」(This is the way he wanted it. He told us. He told us exactly how to do it.)と叫び、サムの遺体を動かすことを強く拒絶します。
このようにして、大森林を象徴する神聖なものであった大熊は殺され、大犬ライオンも死に、長年に渡った大熊狩は終焉を迎えました。
その大熊の後を追うように、まるで大熊と運命を共にするかのように、サム・ファーザーズは自ら死を選び、第3章は終わります。
第4章:アイク18歳
大熊が殺され、サム・ファーザーズと大犬ライオンが死んだ狩を最後に、ド・スペイン少佐は二度と野営地を見ようとせず、大森林の所有地の材木伐採権をメンフィス市にある製材会社に売り渡すことに決めました。
いつもの狩仲間であるコンプソン将軍らは、ド・スペイン少佐に製材会社との契約を取り消すよう説得を試みますが、少佐は説得に応じませんでした。
かつては、毎年6月にド・スペイン少佐とコンプソン将軍の誕生祝いの狩を2週間に渡って行いましたが、その年は6月になっても誕生祝いを誰も口にせず、狩仲間たちの絆もしだいに薄れていきます。
同じ年の冬、コンプソン将軍とマキャスリンとアイクをはじめとする狩仲間たちは、幌馬車を二日間も走らせ、町から40マイルも離れた狩場へ出かけました。
彼らは、毎年通った野営地を遠く越えた場所で、2週間のテント暮らしをし、これがコンプソン将軍にとっての最後の狩となりました。
そして次の年の6月、アイクが18歳の時に、ド・スペイン少佐の許可を得て、彼は一人であの野営地へ出かけたのです。
再訪したアイクが見たのは、半分ほど出来上がっている新しい製材工場、新しい鉄道レール、クレオソートの鋭く臭う枕木の山、古い森の木々の間を轟音を立てて走って行く材木列車でした。
アイクは、二年前の最後の大熊狩の日に見た列車を思い起こして、今や列車自体が破壊を持ち込んでいるかのように感じます。
しかし今度は違っていた-まるで列車自体があの破壊を持ち込んでいるかのようだった(いや列車ばかりか彼自身がそうだし、さらにはあれを見てしまった彼の眼やあれを覚えこんだ彼の記憶までがそうであり、そればかりか衣服までが、ちょうど清くて柔らかな空気に病気や死の悪臭を持ちこむかのように)破壊をこの呪われた運命の森へ持ちこんでいるのだ-それも実際に斧が木々に打ちこまれず、製材所はまだ完成せず、レールや枕木はまだ敷かれないのにもう、森の破壊の影はどんどん侵入しているのだった(「熊」岩波文庫、120頁)
yet this time it was as though the train (and not only the train but himself, not only his vision which had seen it and his memory which remembered it but his clothes too, as garments carry back into the clean edgeless blowing of air the lingering effluvium of a sick-room or of death) had brought with it into the doomed wilderness even before the actual axe the shadow and portent of the new mill not even finished yet and the rails and ties which were not even laid; ("The Bear", Chapter 4)
アイクは、列車だけでなく、自分自身や自分の衣服さえもが森へ破壊を持ちこんでいるように感じられ、製材所や鉄道がまだ完成しないうちに、森の破壊を予期するのです。
フォークナーは、森のびっしり並び立った木々の間を列車が走り、新しい製材所が建設される光景を、清く柔らかな空気に病気や死が持ちこまれたようだ、と表現しています。
この光景を見たとたんに、なぜド・スペイン少佐がこの野営地へ二度と戻らなかったかをアイクは理解し、自分自身も今後は二度とこの思い出の地へ戻らないだろうと確信するのです。
列車が走り去り、レールの立てる音や排気音や汽笛の轟音が聞こえなくなると、アイクは森が以前と変わらず聳えたっていることに気づきます。森は「思いに耽る様子であり、他を省みず、数しれず、永遠に、緑に、どんな製材小屋よりも古く、どんな支線レールよりも長く」聳えたっていた(The wilderness soared, musing, inattentive, myriad, eternal, green; older than any mill-shed, longer than any spur-line.)のです。
アイクは夏の緑に取り囲まれ、寂しくはないが孤独の中にいて、森の木々は変わらないことを感じ、歳月を越えて変わりゆくことはないだろうと予期します。
「夏の緑や秋の野火や雨、鉄を思わす寒さ、時には雪の来る冬がめぐりゆくのと同じように」(They did not change, and, timeless, would not, any more than would the green of summer and the fire and rain of fall and the iron cold and sometimes even snow)、新しい製材工場や鉄道の建設によって森が破壊されることも、死と再生を繰り返す自然の営みの一部であると考えて、大森林は永遠に変わらないと確信するのです。
森の中を歩きながら、アイクは自分が12歳の時に初めて牡鹿を射ち殺し、サム・ファーザーズにその鹿の血を顔に塗りつけられた狩を思い起こします。
やがてアイクは、大熊の裂けた足指を入れたブリキ缶を墓標とする大犬ライオンの墓を通り過ぎ、サム・ファーザーズの墓にほんのわずか立ち止まっただけで、丘をおりました。
丘は死者の住居ではなかったからだ、なぜならそこには死などなかったからだ。ライオンの死もサムの死もないのだ。二人とも大地にしっかり止まっていないで大地の中で自由なのだ。いや大地の中というより大地そのものになって自由なのだ。あの万物の命に融けこみながら、なお個々の万物として生きているもの-木の葉と小枝と微細なもの、空気と太陽と雨と霧と夜、樫の木と葉とドングリは暗い夜から明け方へ、暗い夜から再び明け方へと数知れぬ繰り返しのつづく中にあって、万物であり、なおもその中のひとつなのであり、あの大熊もそうなのだ。あの大熊もそのひとつなのだ。(「熊」岩波文庫、131頁)
the knoll which was no abode of the dead because there was no death, not Lion and not Sam: not held fast in earth but free in earth and not in earth but of earth, myriad yet undiffused of every myriad part, leaf and twig and particle, air and sun and rain and dew and night, acorn oak and leaf and acorn again, dark and dawn and dark and dawn again in their immutable progression and, being myriad, one: and Old Ben too, Old Ben too; ("The Bear", Chapter 4)
サム・ファーザーズも大熊も大犬ライオンも、墓の下に眠っているのではなく、大地と一体化し、大地の一部として普遍の存在となったのだと、アイクは考えます。
「彼はぼくがここに来る前からもう知ってるんだ、今朝はぼくが森に来ていると知ってたんだ」(He probably knew I was in the woods this morning long before I got here, he thought)と思ったからこそ、アイクはサム・ファーザーズの墓前で、ほんのわずかしか立ち止まらなかったのでしょう。
『熊』における人間と自然に対する考え方について
これまで見てきた通り、『熊』に描かれたアイクの精神的修行の過程から、フォークナーの人間と自然との関係に関する考え方を読み解くことが出来ます。
精神的修行の第一段階において、アイクは自然に対して謙虚になり、自分自身を放棄し、文明人として一度死ぬことで、自然の一員として再び生まれ直します。
精神的修行の第二段階では、アイクは自分が殺した生命に恥じない行動をすべきであると考え、自然に対する道徳的責任の意識を持つとともに、人間としての喜びや誇りを体得します。
そして精神的な修行を終え、アイクがついに到達したのは、大自然の循環の中に永遠の命があるという自然観および死生観です。
読書会では、このフォークナーの自然観は、東洋思想の持つ自然観に近いのではないかという意見が出されました。
たしかにフォークナーの自然観は、人間が「暴君」のように好き勝手に自然を支配することを正当化してきた欧米の伝統的な哲学観および神学観と一線を画すると言えます。
アリストテレスは、植物は動物のために存在し、すべての他の動物は人間のために存在すると述べており、自然はすべてのものを人間のために作ったにちがいないと主張しています。
トマス・アクィナスは人間と自然の関係を神学的文脈に位置づけ、人間は動物を殺そうと、他の何らかの方法でそれを用いようと、何ら不正を犯すことなく、それを利用できると述べています。
アリストテレスとトマス・アクィナスに共通するのは、人間だけが道徳的地位を持っており、その他のすべてのものは人間の利益になるかぎりにおいてのみ価値を持っているにすぎない、という考え方です。
17世紀のルネ・デカルトは、すべての実在は「精神」と「肉体」に還元できると論じました。
デカルトの考えによれば、道徳的地位を持っているかどうかの判断基準は意識であり、動物と植物は「ものを考えない獣」、単なる機械にほかならないのです。
カントの倫理学説では、自由に、合理的に行動できる自律した存在だけが道徳的存在であると論じています。
18世紀の欧米人たちは、人間ではない動物や植物にはこうした能力は欠けていると信じていたため、「主体」と「目的」に権利と道徳的地位を限定しているカントの分析は、人間だけが道徳的地位を持っているという考え方をより強固にしたと言えます。
こうした伝統的な人間中心主義の考え方が、自然の搾取と支配するための理論的根拠を与え、多くの場面で環境破壊や環境劣化を正当化してきました。
リン・ホワイトは『現代の生態学的危機の歴史的根源』(1967年)において、『創世記』の創造物語に関して、人間は「神の形にかたどって」造られたため、すべての被造物の中で人間が特権的な地位を占めていると理解されてきた歴史を述べています。
こうした欧米の神学的伝統における、人間は自然よりも上位にあり、自然を従わせ、支配するよう神に命じられているという考え方が、今日の環境危機の根源にあるとホワイトは主張しました。
ホワイトは、環境危機を招いた根本原因であるキリスト教を排除し、科学的な手法のみで問題解決を図るべきだと主張しているわけではありません。
彼は、キリスト教の自然観が科学技術の進歩に与える影響を過小評価せず、原因が宗教に基づくのであれば、問題解決の方法も宗教的にならざるを得ないと論じています。
1942年に発表されたフォークナーの『熊』は、リン・ホワイトよりもはるかに早い時期に、自然に対する人間の侵略的行為を批判し、人間の罪深い歴史的な営みを深く考察しているのです。
読書会では、フォークナーの自然観が東洋思想に近いという意見が出されましたが、わたしはやはりキリスト教を基盤とする自然観であると考えます。
アイクの「ライオンの死もサムの死もないのだ」という表現は、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(『コリントの信徒への手紙 一』15章55節、新共同訳)を真っ先に思い起こすからです。
リン・ホワイトによる問題提起はさまざまな議論の端緒となり、現代のキリスト教神学では、自然を考慮した新しい神学的模索が展開されています。
アメリカのハーバード大学神学部教授で組織神学を教えたゴードン・カウフマン(Gordon D. Kaufman,1925年-2011年)は、『核時代の神学』(Theology for a Nuclear Age, 1985)の中で、キリスト論とキリスト教の救済論を再構築しようと試みています。
わたしたちは最近になって、「生命」は個々の生物が持っている力や性質だけでなく、個々の生物をふくんだすべての存在の相互にかかわる広範囲な織物であると自覚し始めた。それからはなれると、なにものも生きてゆけない。ところが、地球上に広がっていった人間は、今世紀になってその織物をよごし、引き裂き、それを支えている自然環境を汚染してきた。つまり、わたしたちは「神にさからって」生活し行動してきたのである。しかも、神の継続的行為(すなわち生命と幸福をもたらす力)は人間が地球上の生命の織物のうえで犯してきた悪を克服するために働きかけているのであるが、それでも人間のもたらすダメージはひろがり、ついに人間とその他の生物を衰弱させ破壊するかもしれないのである。(ゴードン・カウフマン『核時代の神学』ヨルダン社、1989年、79頁)
カウフマンは、わたしたち人間を含むすべての「生命」は、非常に古い複雑な織物に織りこまれた一本の糸であり、それを生み出し、生かし続けるその織物から離れては存在できない糸であると主張しました。
この『核時代の神学』から影響を受け、女性解放の神学者であるサリー・マクフェイグ(Sallie McFague, 1933年–2019年)は、"Models of God: Theology for an Ecological, Nuclear Age"(1987)を著しました。
マクフェイグは、世界そのものを「神の体」として理解しようとします。
彼女は、伝統的な親子のメタファーでのみ理解される三位一体論を乗り越え、新しい三位一体論のモデルを提示しながら、被造世界全体を有機的な「神の体」であると考えました。
その上で、彼女は「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(『マタイによる福音書』25章40節)という言葉を根拠に、人間の倫理的問題だけに限定せず、環境倫理にまで拡張しなければならないと主張したのです。
マクフェイグの試みは、自然を考慮した神の像理解を徹底して推し進めたものと言えるでしょう。
『熊』の中で、アイクが「ライオンの死もサムの死もないのだ」と語り、大自然の中に神の超越性と内在性を確信するフォークナーの自然観は、後にカウフマンやマクフェイグが著した新しい神学の先駆けであったと、わたしは考えます。
2.『行け、モーセよ』における『熊』第4章について
発売元: 冨山房
発売日: 1973
発売日: 1973
『行け、モーセ』に収録された『熊』は、大熊とサムの死で終わる第三章の後に、新たな第四章が書き加えられて、全五章の構成となっています。
アイクは、大熊とサム・ファーザーズ、大犬ライオンが死んだ16歳の時に、それまでずっと気に留めていたマキャスリン農園の古い「土地台帳」(the ledger)をはじめて読んでみました。
そして、彼が21歳となった年に、この農園の直系の相続者であるにも関わらず、自ら土地を「放棄」(Relinquish)することを決意します。
アイクは、なぜ自分が土地の放棄を決意したかを、彼の保護者であったマキャスリン・エドモンズに説明し、その二人の会話を通して、読者に「台帳」の内容が明かされます。
その「台帳」によれば、アイクの祖父であるキャロザーズ・マキャスリンが、自分の所有する奴隷女ユーニスにトマシーナ(通称トーミー)ど呼ばれる子供を産ませ、トマシーナが成長すると、今度は彼女に子供テレル(トーミーのテレル)を産ませていたのです。
この近親相姦の悲劇によって、奴隷女ユーニスは1832年のクリスマスの日に入水自殺したことが記されていました。
大森林における精神的修行を終え、自然に対する道徳的責任の意識を身につけたアイクは、「台帳」をきっかけに現実の「土地」と「人種」の問題に直面して、次のような考えに至ります。
エデンを奪いとられていなすったんだ。カナンの土地を奪いとられていなすったんだ。だから、最初の人間から奪いとったものたちは、すでに奪いとられた人間から奪いとったのにほかならないんだよ、そしてローマの浴場にいる不在地主の時代が五百年続き、次に北方の森林地帯からやってきた野蛮な人間の時代が千年も続いたんだが、その人間たちはローマの不在地主たちから奪いとり、すでに奪いさられていた実質をむさぼってまたもや順ぐりに奪いさり、それから、あんたの言う古い世界の何の値うちもない黄昏のなかで、古い世界のしゃぶりつくされた骨を奪いあって歯をむきだしたんだ、彼らは、神さまの御名において神さまをけがしたので、とうとう神さまが、たった一つの卵を使って、一つの国家がお互い同士の謙譲と憐みと寛容と誇りのなかに建設されるような新しい世界を、その人間たちに見つけだしておやりになったんだよ。そして、それにもかかわらず、それでもやっぱり、じいさまはその土地を実際に所有していたんだが、それは神さまがお許しになったからで、神さまが無力だったからでも、大目に見られたかれでも、盲目だったからでもなかったんだよ、なぜと言って、神さまはそれを命じ、それを見まもっていなすったからだ、神さまはイッケモテュッペやイッケモテュッペの父のイッセティッペハじいさんや、それからまた、イッセティッペハじいさんの祖先までがそれを持っていたときから、もうその土地が呪われていることを-白人がだれもそれを所有しないうちから、もうその土地が、じいさまやじいさまの種族である先祖がこの新しい土地に持ちこんできたものによって汚されているのを、見ていなすったんだ-この土地というものは、神さまが、寛容の気持ちから、憐みと謙虚と寛容と忍耐をもつという条件つきでじいさまたちにお与えになったものなのだが、あの人たちは、古い世界の腐った何の値うちもない黄昏のなかから、そういうものをいっぱい持ちこんできたんだ、まるで、古い世界の汚れた風を帆いっぱいにはらんで、それで船が走ったみたいにして-(『行け、モーセ』より『熊』冨山房、1973年、289-290頁)
Dispossessed of Eden. Dispossessed of Canaan, and those who dispossessed him dispossessed him dispossessed, and the five hundred years of absentee landlords in the Roman bagnios, and the thousand years of wild men from the northern woods who dispossessed them and devoured their ravished substance ravished in turn again and then snarled in what you call the old world’s worthless twilight over the old world’s gnawed bones, blasphemous in His name until He used a simple egg to discover to them a new world where a nation of people could be founded in humility and pity and sufferance and pride of one to another. And Grandfather did own the land nevertheless and notwithstanding because He permitted it, not impotent and not condoning and not blind because He ordered and watched it. He saw the land already accursed even as Ikkemotubbe and Ikkemotubbe’s father old Issetibbeha and old Issetibbeha’s fathers too held it, already tainted even before any white man owned it by what Grandfather and his kind, his fathers, had brought into the new land which He had vouchsafed them out of pity and sufferance, on condition of pity and humility and sufferance and endurance, from that old world’s corrupt and worthless twilight as though in the sailfuls of the old world’s tainted wind which drove the ships— (William Faulkner, "The Bear", Chapter 4 (Go Down, Moses))
アイクは、神が大地を創造し、生き物をそこに住まわせ、神はこれを見て「良し」とされ、それらのものを祝福したと言う『創世記』の言葉に基づいて、神は「神の代わりに大地を監督する者」(His overseer)として人間を創造した、と主張します。
アイクの考えでは、「大地」というものは本来人間の所有物ではなく、「だれの名前も特別についていない共同の状態で、損なわれない、お互いのものとして保っていく」べきものであり、人間にはそれを売買する権利は無いのです。
アイクによれば、神が要求した報酬は、「ただ、憐みと謙譲と寛容と忍耐と、それから、パンを求めて流す人間の汗だけ」でした。
しかし、人間はその大地「エデン」ないし「カナン」を神から「奪いとった」(dispossessed)のであり、そのために神が創造した大地を「人間自身が呪いをかけて汚した」のだ、と主張します。
大地を「奪いとられた」にもかかわらず、神は「寛容の気持ち」からそれを許し、さらには「古い世界の腐った何の値うちもない黄昏」(that old world’s corrupt and worthless twilight)から人間を解放し、「お互い同士の謙譲と憐みと寛容と誇りのなかに建設されるような新しい世界」(the new land which He had vouchsafed them out of pity and sufferance)へと連れてきてくださり、「憐みと謙虚と寛容と忍耐をもつという条件つき」(on condition of pity and humility and sufferance and endurance)で自分の祖父たちにお与えになったと、アイクは論じます。
さらに、アイクの考えでは、この「新しい土地」においても、同じように先住民たちが「イッケモテュッペ」や「イッセティッペハ」などの名で所有していたのであり、白人が来る前から、すでにその土地は「呪われていた」(already tainted even before any white man owned it)のです。
白人たちは、「古い世界の腐った何の値うちもない黄昏」をこの「新しい土地」へ持ちこみ、さらに「呪い」を加え、「汚した」のだ、とアイクは主張します。
アイクの言う、「古い世界の腐った何の値うちもない黄昏」の中から、新世界アメリカへ持ちこまれた「呪い」の一つが、奴隷制度であったと言えるでしょう。
アイクは、「この土地全体が、南部全体が呪われていて、そのなかから出てきてかりにもその乳房を吸ったおれたちは、全部、白人も黒人も、その呪いを蒙っている」(313頁)と語ります。
このように考えて、アイクはマキャスリン農園の相続放棄を決意し、「自由」となることを求めたのです。
アイクにとって、大熊とサム・ファーザーズこそが「自由」を象徴する存在と言えます。
猛々しく無慈悲な一頭の年老いた熊、それもただ生きんがために無慈悲になっているのではなくて 解放と自由を誇る猛々しい誇りを持っているが故に無慈悲であり、解放と自由を惜しみ誇りにしているが故に その自由がおびやかされるのを 恐怖や驚愕をもってではなしに ほとんど歓喜の情をもって眺めていた熊、自由を味わわんがためにわざわざその自由を危険に瀕せしめ 自由を守り保持せんがために 年老いた屈強な骨と肉を柔軟に敏捷に保っているかに見えた一頭の熊。そして一人の老人。黒人奴隷とインディアンの王との息子であり、一方では 苦悩を通じて謙譲を学び 苦悩を生きのびる忍耐を通じて誇りを知った民族の連綿とした歴史を受けつぎ、他方では 第一の民族よりも長くこの土地に住みついている民族の連綿とした歴史を受けついでいた老人、しかも今では ただ 一人の年老いた子供もない黒人の疎外された血と 一頭の年老いた熊の野性的な無敵な精神との 孤独な兄弟愛のなかにのみ存在しているにすぎなかった一人の老人。(333頁)
an old bear, fierce and ruthless not just to stay alive but ruthless with the fierce pride of liberty and freedom, jealous and proud enough of liberty and freedom to see it threatened not with fear nor even alarm but almost with joy, seeming deliberately to put it into jeopardy in order to savor it and keep his old strong bones and flesh supple and quick to defend and preserve it; an old man, son of a Negro slave and an Indian king, inheritor on the one hand of the long chronicle of a people who had learned humility through suffering and learned pride through the endurance which survived the suffering, and on the other side the chronicle of a people even longer in the land than the first, yet who now existed there only in the solitary brotherhood of an old and childless Negro’s alien blood and the wild and invincible spirit of an old bear; ("The Bear", Chapter 4 (Go Down, Moses))
アイクが相続を放棄することに強く反対していたマキャスリン・エドモンズは、アイクから辛抱強く説得されて、ついに彼の決定に同意します。
マキャスリンは、「土地」に対するアイクの考えを聞いて、アイクは「神さまに選ばれたのだろう」(Chosen)と言い、さらに「神さまは 一頭の熊と一人の老人と四年間という年月を ただおまえのためにお使いになったんだ。そしておまえがそこまで達するのに十四年間かかり、オールド・ベンには同じ年月、いや おそらくそれ以上かかり、サム・ファーザーズには七十年以上かかったのだ」(338頁)(And it took Him a bear and an old man and four years just for you. And it took you fourteen years to reach that point and about that many, maybe more, for Old Ben, and more than seventy for Sam Fathers.)と語りました。
マキャスリンが言った通り、大森林における精神修行があったからこそ、21歳のアイクはこのような「土地倫理」に到達したと言えるでしょう。
アイク自身も、「サム・ファーザーズがおいらを自由にしてくれたんだ」(339頁)(Sam Fathers set me free)と語っています。
その後、アイクは実際にマキャスリン農園を放棄して、マキャスリン・エドモンズに譲り、イエス・キリストに倣って大工となりました。
そして、アイクは一人の女性と結婚し、「新しい国が生まれたよう」な幸福を感じましたが、アイクがかつて相続放棄した農園に対して、妻は「あたしたちの農場よ。あんたの農場よ」(The farm. Our farm. Your farm)と言い、夫に農園を取り戻すよう懇願します。
この妻の要求を聞いて、アイクは「こいつも迷ってしまった。生まれながらにして迷っていたんだ。おれたちはみんな生まれながらにして踏み迷っているんだ」(356頁)(She is lost. She was born lost. We were all born lost)と考えます。
妻のこの言葉は、南部全体が呪われており、生まれながらにして自分たちは、白人も黒人も呪われていると言う考えを、アイクに改めて思い知らせたのです。
相続放棄によって自分は「呪われた土地」から「自由」になったと考えていたアイクが、一人でその考えを推し進め、妻を含む大勢の周りの人々の理解を得られないままでは、「呪われた土地」から決して逃れられないと気づかされたと言えます。
かつてマキャスリンが、「おまえはたった一人だけなんだよ。それなら まだこれからどれくらい長くかかるんだ? まだどれくらい長く?」(338頁)(And you are just one. How long then? How long?)と問いかけた言葉が示すように、「呪われた土地」から「自由」になると言うアイクの試みは挫折し、その理想が果たされるまでには長く険しい道程があることを、フォークナーは示唆していると言えるでしょう。
3. 結びに
『大森林』に収録された『熊』と、『行け、モーセよ』に収録された『熊』を比較すると、前者は人間と自然がテーマであり、エコロジーの神学の先駆けとも言える自然観が非常に印象に残ります。
後者は、人間の歴史的な営みにおける土地所有の問題に対して、神学的にアプローチし、自然と人種に考慮した土地倫理を提示しながら、その限界も描き出しています。
『大森林』における『熊』では、アイクが土地の相続を放棄する場面が存在しないため、こちらのアイクは順当に土地を相続し、大森林をこよなく愛し、先住民や黒人を人間として尊重する、善良な農園主となったのではないか、と想像します。
同じ『大森林』に収録されている『朝の追跡』(Race at Morning)には、ミスター・アーネストという農園主が登場します。
彼は、1年のうち11か月と二週間は、大麦や綿や豆や牧草を植えて手入れして取り入れ、「熱心に正直に」働き、残りの14日間は狩猟を楽しむ生活を送っています。
ミスター・アーネストには妻子がなく、孤児となった貧しい白人の子供を引き取って養い、学校に行かせてやります。
彼らの狩猟では、大鹿を追いつめ仕留める好機に、あえて殺さず逃がし、また次の年も狩りが楽しめるように配慮しています。
もしアイクが農園を相続していたら、ミスター・アーネストのような農園主になったのではないか、とわたしは思います。
一方、農園の相続を放棄したアイクのその後は、同じく『行け、モーセよ』に収録されている『デルタの秋』(Delta Autumn)に描かれています。
こちらのアイクは、80歳近い年になって、思いもかけない相手から、かつての相続放棄を責められます。
アイクが相続を放棄した農園は、マキャスリン・エドモンズが相続しましたが、マキャスリンの孫であるロス・エドモンズの子供を産んだ女性が、「あの人はまだ一人前の男にはなっていないわ。あんたが甘やかしすぎたのよ」と言い、「あんたがあの人のおじいさんにあの土地をあげてしまったからよ」と言って、老アイクを詰るのです。
アイクが晩年になっても、彼の試みの真意は誰にも理解されず孤独であり、「自由」を求めて自分が「呪われた土地」を放棄した結果、マキャスリン・エドモンズの子孫に新たな「呪い」を加えてしまったことに気づかされたアイクは、どれほど絶望したことでしょうか。
『大森林』収録の『熊』は『朝の追跡』とあわせて、非常に爽やかな読後感ですが、『行け、モーセよ』収録の『熊』は『デルタの秋』とあわせて、重苦しい読後感で、苦い失望がありありと伝わってきます。
本作は、大熊を狩るというシンプルな出来事だけを題材としながら、自然と人間の関係や、土地と人種が絡む歴史的な問題など、きわめて精神的、神学的な考察を描き出しています。
例えば、戦争や大虐殺など歴史的な大事件を題材とした作品は、その出来事自体が持つインパクトがあり、読者を引きつけます。
しかし、この『熊』は、そのような大きな出来事を題材とせず、大熊を狩るというシンプルな題材だけで、ここまで深く考えさせる作品に仕上がっているのです。
ノーベル文学賞作家であるフォークナーの圧倒的な筆力を実感させられる一冊であると、わたしは思いました。
英文引用:William Faulkner, Big Woods, Icaros Books.(Kindle版)
William Faulkner, Go Down,Moses, Icaros Books.(Kindle版)
参考:ジョゼフ・R.デ・ジャルダン『環境倫理学:環境哲学入門』(出版研、2005年)
ゴードン・D.カウフマン『核時代の神学』(ヨルダン社、1989年)
小原克博「「神の像」に関する一考察:フェミニズムとエコロジーへの応答」(『日本の神学』、1998年)
元田脩一「フォークナーの「熊」--アメリカ小説の一原型」(『文芸と思想』、1962年)
佐藤道夫「フォークナーとソローに関する研究--彼らの人間と自然に対する考え方について」(都留文科大学研究紀要、2000年)