2020/04/08

芥川竜之介「奉教人の死」

奉教人の死・煙草と悪魔 他十一篇 (岩波文庫)
奉教人の死・煙草と悪魔 他十一篇 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1991/8/8

2018年3月17日の読書会で、芥川竜之介の『奉教人の死』と『きりしとほろ上人伝』を読みました。
芥川竜之介(1892年-1927年)は、国語の教科書に採用されている『羅生門』をはじめ、『地獄変』、『藪の中』、『蜘蛛の糸』など、誰もが一度は読んだことがある名作を数多く遺しています。
『羅生門』や『地獄変』のように、『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』といった日本の古典を典拠とする作品は、世代を越えて幅広い人々に読まれています。
このような「王朝物」を得意とした一方で、芥川は『煙草と悪魔』、『神々の微笑』、『誘惑』などの、いわゆる「切支丹物」の作品を初期から死の年まで書き続けました。
『奉教人の死』と『きりしとほろ上人伝』は、一連の切支丹物の中でも、代表作に数えられています。
『羅生門』と比べれば、『奉教人の死』はあまり知られていませんが、芥川のキリスト教やキリスト教信仰に対する視点が描かれている、興味深い作品と言えます。
今回は『奉教人の死』を対象に、その典拠となった『黄金伝説』の「聖女マリナ」の物語と比較しながら、「聖女マリナ」と「ろおれんぞ」の違いを整理し、考察したいと思います。
また、「まるちり」の語源を繙きながら、「ろおれんぞ」の死は「まるちり」なのかについて、考えてみたいと思います。

※ネタバレ注意※

【目次】
1.『奉教人の死』:「ろおれんぞ」の物語
2.『奉教人の死』のルーツを探る
(1)『黄金伝説』より「聖女マリナ」の物語
(2)「聖女マリナ」と『奉教人の死』を比較する
......容姿と年齢
......伴天連、いるまん衆、奉教人衆
......傘張の娘:『十二夜』と比較して
......<無自覚なエゴイズム>:『奉教人の死』から『続西方の人』へ
3.「まるちり」とは何か?
......「ろおれんぞ」の死は「まるちり」なのか?
4. 結びに
おまけ:「聖女マリナ」と「ろおれんぞ」の男装についての考察


1.『奉教人の死』:「ろおれんぞ」の物語

去んぬる頃、日本長崎の「さんた・るちや」と申す「えけれしや」(寺院)に、「ろおれんぞ」と申すこの国の少年がござった。これは或年御降誕の夜、その「えけれしや」の戸口に、飢え疲れてうち伏しておったを参詣の奉教人衆が介抱し、それより伴天連の憐みにて、寺中に養われる事となったげでござるが、何故かその身の素性を問えば、故郷は「はらいそ」(天国)父の名は「でうす」(天主)などと、何時も事もなげな笑に紛らいて、とんとまことは明した事もござない。(芥川竜之介『奉教人の死』、岩波文庫『奉教人の死・煙草と悪魔 他十一篇』より、37-38頁)

このような語り出しで始まる『奉教人の死』(1918年)は、キリシタン時代の長崎を舞台に、主人公「ろおれんぞ」の短い生涯を描いた物語です。
作品の構成における大きな特徴は、「天草本平家物語」を模した歴史的な文体と、文禄慶長期の口語で語る語り手です。
この古風な文体と語り口によって、私たち読者はキリシタン時代に記された本物の古文書史料を読んでいるかのような気持ちになります。

あるクリスマスの夜に、長崎の「さんた・るちや」と呼ばれるキリスト教会の戸口に、「ろおれんぞ」と呼ばれる孤児が行き倒れており、教会に保護されることになったのが、この物語の発端です。
「ろおれんぞ」自身は、自分の出自を明らかにしませんでしたが、手くびにかけていた青玉の「こんたつ」(念珠)を見て、伴天連や「いるまん」(法兄弟)衆は、彼の親はキリスト教徒であろうと考え、彼を手厚く養育しました。
幼い「ろおれんぞ」の信仰の堅固さに、「すぺりおれす」(長老衆)は驚き、彼をよりいつくしみました。

三年あまりの年月が経ち、「ろおれんぞ」が元服すべき時節となった頃、「怪しげな噂」が伝わり始めます。
奉教人衆の一人である「町方の傘張の娘」が「ろおれんぞ」と親しくしているという噂です。
伴天連は、この淫らな噂について「ろおれんぞ」に問いましたが、彼は「そのような事は一向に存じようはずもござらぬ」と涙ながらに否定しました。
一度は疑いが晴れましたが、その「傘張の娘」が妊娠し、彼女が「腹の子の父親は「ろおれんぞ」じゃ」と断言したことで、伴天連と「いるまん」衆一同は「ろおれんぞ」の破門を決定し、彼は教会を追放されました。

行き倒れの孤児であった「ろおれんぞ」にとって、教会からの破門と追放は、その日から生活の手段が絶たれ、衣食住全てにおいて窮することを意味します。
追放後、「ろおれんぞ」は「町はずれの非人小屋に起き伏しする、世にも哀れな乞食」となります。
町を歩けば、「ろおれんぞ」は、「ぜんちょ」(異教徒)の町人たちにさげすまれ、子供たちにあざけられ、石を投げられるようになります。
長崎の町に「恐ろしい熱病」がはびこった時には、「ろおれんぞ」は七日七夜の間、道ばたに伏して、苦しみ悶えました。
このような極貧の乞食生活の中でも、「ろおれんぞ」は朝夕の祈りを忘れず、夜毎ひそかに教会に参詣し、「御主「ぜす・きりしと」の御加護」を祈り続けました。
一方、「傘張の娘」は、娘を出産しましたが、「ろおれんぞ」が姿を見せないのを、怨めしく歎いていました。

追放から一年あまりの後、長崎の町を大火事が襲います。
「傘張の娘」の赤ん坊が火の中に取り残されましたが、あまりの火勢に誰も助けに入らないでいたところ、「ろおれんぞ」が火の中に飛び入って、赤ん坊を助け出したのです。
集まった奉教人衆は、「ろおれんぞ」の行いを「さすが親子の情あい」と罵り、批判しますが、「傘張の娘」だけが狂おしく大地に跪いて、一心不乱に祈りました。
救い出された赤子を抱きしめ、「傘張の娘」は伴天連の足もとに跪いて、ついに真実を告白します。

『この女子は「ろおれんぞ」様の種ではおじゃらぬ。まことは妾が家隣の「ぜんちょ」の子と密通して、もうけた娘でおじゃるわいの』と、思いもよらぬ「こひさん」(懺悔)を仕った。その思いつめた声ざまの震えと申し、その泣きぬれた双の眼のかがやきと申し、この「こひさん」には、露ばかりの偽さえ、あろうとは思われ申さぬ。道理かな、肩を並べた奉教人衆は、天を焦がす猛火も忘れて、息さえつかぬように声を呑んだ。
娘が涙をおさめて申し次いだは、『妾は日頃「ろおれんぞ」様を恋い慕うておったなれど、御信心の堅固さからあまりにつれなくもてなされる故、つい怨む心も出て、腹の子を「ろおれんぞ」様の種と申し偽り、妾につらかった口惜しさを思い知らそうと致いたのでおじゃる。なれど「ろおれんぞ」様の御心の気高さは、妾が大罪をも憎ませ給わいで、今宵は御身の危さをもうち忘れ、「いんへるの」(地獄)にもまがう火焔の中から、妾娘の一命を辱くも救わせ給うた。その御憐み、御計らい、まことに御主「ぜす・きりしと」の再来かともおがまれ申す。さるにても妾が重々の極悪を思えば、この五体は忽「じゃぼ」(悪魔)の爪にかかって、寸々に裂かれようとも、なかなか怨む所はおじゃるまい。』娘は「こひさん」を致いも果てず、大地に身を投げて泣き伏した。(47-46頁)

「傘張の娘」は、「ろおれんぞ」を恋い慕っていましたが、彼が自分の思い通りにならないため、恋心がしだいに怨む心に変わり、「ろおれんぞ」を陥れるために、彼に妊娠させられたと嘘をついていたのです。
伴天連や「いるまん」衆たちは、「傘張の娘」の嘘を信じ込み、「ろおれんぞ」を破門し、教会から追放しました。
「傘張の娘」の「こひさん」(懺悔)によって、「ろおれんぞ」が冤罪であると明らかになり、奉教人衆は「まるちり」(殉教)じゃ、「まるちり」じゃと口々に叫び始めます。

二重三重に群がった奉教人衆の間から、「まるちり」(殉教)じゃ、「まるちり」じゃという声が、波のように起こったのは、丁度この時の事でござる。殊勝にも「ろおれんぞ」は,罪人を憐れむ心から、御主「ぜす・きりしと」の御行跡を踏んで、乞食にまで身を落いた。して父と仰ぐ伴天連も、兄とたのむ「しめおん」も、皆その心を知らなんだ。これが「まるちり」でのうて、何でござろう。(48頁)

はじめ奉教人衆は、「ろおれんぞ」が「傘張の娘」の赤ん坊を助け出したのは、彼らが実の「親子」である証として考え、彼を罵り、批判していました。
しかし、「ろおれんぞ」が冤罪であったと聞いて、彼が火の中から救い出した赤ん坊は、彼の実子でないばかりか、自分を乞食の境涯に陥れた女性の子供であったのだと、奉教人衆はようやく理解します。
「傘張の娘」の罪を憎まず、自分の身の危険を顧みずに、彼女の子供を救い出した「ろおれんぞ」の心の気高さ、憐み深さに感動して、奉教人衆はにわかに「まるちり」であると叫び始めたのです。
そして、重い火傷を負った「ろおれんぞ」の死の間際で、彼の正体が明かされます。

見られい。「しめおん」。見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、声もなく「さんた・るちや」の門に横わった、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、清らかな二つの乳房が、玉のように露れておるではないか。今は焼けただれた面輪にも、自らなやさしさは、隠れようすべもあるまじい。おう、「ろおれんぞ」は女じゃ。「ろおれんぞ」は女じゃ。見られい。猛火を後にして、垣のように佇んでいる奉教人衆。邪淫の戒を破ったに由って「さんた・るちや」を逐われた「ろおれんぞ」は、傘張の娘と同じ、眼なざしのあでやかなこの国の女じゃ。(49頁)

奉教人衆は、「ろおれんぞ」の焦げ破れた衣服の隙間から、清らかな乳房を目撃し、「ろおれんぞ」が女性であることを発見したのです。
「ろおれんぞ」が男装の少女であると明らかになったことで、「傘張の娘」が語った「こひさん」(懺悔)が真実であり、「ろおれんぞ」の潔白が完全に証明されます。
「ろおれんぞ」は、「安らかなほほ笑み」を浮かべて、静かに息を引き取ります。
しかし、無実の罪で「ろおれんぞ」を追放し、乞食に追いやった伴天連や「いるまん」衆、奉教人衆が、自分たちの罪を悔い改め、「ろおれんぞ」に謝罪する場面が一切ないまま、物語は終わるのです。


2.『奉教人の死』のルーツを探る

(1)『黄金伝説』より「聖女マリナ」の物語


発売元: 平凡社
発売日: 2006/6/8

芥川竜之介の『奉教人の死』を論じるにあたって、その典拠とされる「聖女マリナ」の物語について見ていきましょう。
「聖女マリナ」の物語は、ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230頃–98)による『黄金伝説』Legenda aurea(1267年頃)の第79章に採録されています。
『黄金伝説』はラテン語で書かれた聖人伝集で、中世ヨーロッパにおいて広く読まれました。
イエス、マリアの生涯をはじめ、ペトロ、パウロ、アンデレなどの使徒行伝や、ミカエルなどの天使物語、迫害時代に処刑された殉教者たちや、死後に聖人とみなされた各地の修道士・修道女たちの生涯が採録されています。
「聖女マリナ」の物語は、次のような筋書きです。

童貞女マリナは、父親のひとり娘であった。しかし、父親は、修道院に入ることになったので、娘を男装させ、男の子に見えるようにした。そして、修院長と修道士たちにたのんで、ひとり息子をつれて修道院に入ることを許してくださいと言った。院長たちは、この願いをみとめた。こうしてマリナは、修道院の一員にくわえられ、修道士マリノスとよばれることになった。以後、彼女は、霊的修道の生活に入り、院長をはじめすべての修道士たちに従順であった。マリナが二十七歳になったとき、父親は、死期の近いことをさとって、娘を呼びよせ、その修道の志を支持し、女であることをだれにも明かしてはならないと厳命した。(ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説 2』、平凡社、「七九 聖女マリナ」328頁)

父とともに男装して修道院に入った一人娘マリナは、マリノスと名乗り、修道士として成長しました。
修道士マリノスは、修道院へ薪を運ぶ仕事を任されることが多くあり、出かけた先の家に泊めてもらうことにしていましたが、その家の娘がある騎士の子を宿してしまいます。
この娘は、修道士マリノスによって妊娠させられたと嘘を言ったのです。
どうしてそんな大罪を犯したのかと尋ねられると、マリノスは罪をみとめて、「わたしは、極悪非道な罪人です」と言い、慈悲を乞いました。

こうして、マリノスは修道院を追放され、修道院の門の近くに住みつき、貰いもののパンくずで飢えをしのぎました。
娘の産んだ赤ん坊は、乳ばなれするとマリノスに引き渡され、彼の手で育てられることになります。
マリノスは、幼児を育てながらさらに二年間を修道院の門前ですごしましたが、「どんな苦労や難儀も辛抱づよく耐えしのび、つねに神に感謝する」ことを忘れませんでした。
ついに修道士たちも、マリノスの「忍耐とへりくだり」を見て、気の毒だと思い、再び修道院に引きとって、いちばん下働きの仕事をやらせることにしました。
マリノスは、いやな顔ひとつしないでその仕事を引き受け、黙々と辛抱づよく言いつけられた任務をはたしました。

こうして長年のあいだ善行をつんだのち、われらの主に召されて世を去った。ところが、修道士たちが修院内の粗末な片隅に葬るために遺体を洗おうとしたところが、マリノスが女であったことがわかったのである。修道士たちは、神に生涯をささげたこの女性にとんでもない侮辱をくわえたことを知って、びっくり仰天した。この大きな奇跡を聞いたすべての修道士たちは、われがちに遺体のそばに集まり、自分たちの不明と犯した罪の赦しを乞うた。それから、聖女の遺体をねんごろに葬った。一方、むかし嘘をついてこの神のはしために自分の罪をなすりつけたあの娘は、その後悪霊にとりつかれて、みなのまえで罪を白状しなくてはならない羽目になった。しかし、彼女が聖女の墓前に近づくと、たちまち悪霊は、彼女からはなれた。このことがあってからは、たくさんの善男善女が墓を詣でるようになり、多くの奇跡が起こった。(329頁)

修道士たちの同情により、再び修道院に下働きとして迎え入れられたマリノスは、その死後にやっと女性であることを発見されるのです。
たとえマリノスが自ら無実の「罪をみとめた」としても、娘の嘘を見破れず、マリノスに長年の労苦を強いた修道士たちの罪は重いでしょう。
修道士たちが自らの罪を悔い改め、死後のマリノスを「聖女マリナ」として崇敬したところに、この説話の宗教的メッセージがあると言えます。

ペトロやアンデレ、パウロの物語のように、異教徒から迫害を受けて拷問の末に処刑される<殉教譚>と、「聖女マリナ」の物語は全く異なります。
マリナ(=マリノス)を苦しめた加害者は、異教徒ではなく、信仰を同じくする修道士たちなのです。
マリナが、娘の嘘を否認せず、無実の罪を認めたのは、騎士の子であることを明かしたくない、娘の心情を思いやったからかもしれません。
嘘をついた娘は、無実の罪を認めたマリナの思いやりに悔い改めることなく、自分の子の養育を押しつける厚顔無恥なふるまいで、罪の上塗りをしています。
娘から押しつけられた他人の子を、自分の子として大切に育て上げたマリナは、篤い信仰心を持ち、忍耐強く、愛情深い女性であると言えるでしょう。

被害者マリナの死を介して、加害者の修道士たちが回心するという構図は、イエスを信じ切れず、「知らない」と否認し(マタイ26:69-75)、十字架の死に追いやってしまった弟子たちが、イエスの死と復活によって、信仰を確かなものにしていく過程とアナロジーがあると言えます。


乙女が男装して修道士となり、死後に女性であったことが発覚するという<修道士処女(モナコパルティノス)>の物語は、もともと東方起源の伝承で、古代教会時代や中世の聖人譚によく登場します。
この「聖女マリナ」伝は、ギリシア語、ラテン語、シリア語、アラブ語、コプト語その他による伝説的な伝記が伝わっています。
実在の「聖女マリナ」は、おそらく5世紀頃、ビテュニア(黒海沿岸部のローマ属州)の生まれで、父に連れられてアンティオキア近在のケノビン、あるいはレバノン北西部のトリポリにある修道院に入ったと伝えられています。

『黄金伝説』に採録されている<修道士処女>の類話としては、聖女テオドラ(87章)、聖女エウゲニア(128章)、聖女ペラギア(144章)、聖女マルガリア(145章)があり、いずれも「聖女マリナ」と同じ系列の聖人伝です。


(2)「聖女マリナ」と「奉教人の死」を比較する



『黄金伝説』の「聖女マリナ」と、芥川竜之介の『奉教人の死』を整理した図表を作成しましたので、比較してみましょう。(上表参照)
上図で示したとおり、「マリナ」と「ろおれんぞ」の共通点と相違点は、次の通りです。

    【共通点】
  • 男装の女性であり、死後に女性であることが発見される
  • 女性を妊娠させたという冤罪で、信仰共同体から追放される

    【相違点】
  1. 家庭環境...マリナ:父子家庭 / ろおれんぞ:孤児
    男装の理由...マリナ:父に命じられて男装 / ろおれんぞ:理由記載なし
  2. 追放された年齢...マリナ:27歳以降 / ろおれんぞ:元服すべき時(14~16歳頃)
    容姿...マリナ:容姿記載なし / ろおれんぞ:美しい顔
  3. 信仰共同体への復帰...マリナ:数年間の乞食生活を経て修道院へ戻る / ろおれんぞ:「さんた・るちや」へ戻れないまま
  4. 死因...マリナ:長年の善行を積み修道院で死ぬ / ろおれんぞ:火事の中から赤ん坊を救出して死ぬ
  5. 死後...マリナ:修道士たちは自分の罪を悔い改め、マリナを聖女として崇敬 /
    ろおれんぞ:伴天連、いるまん衆、奉教人衆は自分たちの罪を悔い改めない。奉教人衆のみが「まるちり」と叫び、伴天連はろおれんぞを聖女として認定しない。

こうして比較すると、「マリナ」と「ろおれんぞ」は、共通点よりも相違点の方が多いことに気づきます。


容姿と年齢


マリナは、父とともに男装して修道院に入りましたが、27歳で父を亡くした後も、自分の意志で男装の修道生活を続けました。
実在したマリナは、5世紀頃に生きていたと伝承されていますが、ローマ帝国時代において、男性の平均寿命は41歳、女性は29歳と言われています。(アルベルト・アンジェラ『古代ローマ帝国 1万5000キロの旅』河出書房新社)
当時、女性の初産の年齢が非常に若かった(14歳以下)ことを考えると、マリナは年齢を重ねた、分別のある熟年女性と言えます。
現代で言えば、40代から50代頃の女性に相当するでしょうか。
乞食生活を耐えしのび、他人の子を養育したマリナは、年齢を重ねた女性にふさわしい落ち着きと忍耐強さ、愛情深さが感じられます。
『黄金伝説』の語り手は、マリナの人格の高潔さにのみ関心があり、彼女の容姿の美醜については全く語っていません。

一方、「ろおれんぞ」が無実の罪で追放されたのは、元服すべき時(14歳から16歳前後)であり、追放から1年あまり後に火事で命を落とします。
また『奉教人の死』の語り手は、「ろおれんぞ」の容姿について、「顔かたちが玉のように清らか」、「美しい顔を赤らめて」、「したたかその美しい顔を打った」、「哀れにも美しい眉目のかたち」と何度も繰り返して、彼女の美しさを語っています。
マリナと比較すると、「ろおれんぞ」は極めて若く、美しい少女と言えます。
「ろおれんぞ」が美少女だったからこそ、男装した際には「傘張の娘」が恋い慕うほどの美少年に見えたのでしょう。
「傘張の娘」との噂が流れた時、「ろおれんぞ」は「涙声」で噂を否定し、問い詰った「しめおん」を逆に咎めた直後、「涙に濡れた顔」で「しめおん」のもとに駆け込んで謝罪します。
分別があり、落ち着いたマリナと違って、「ろおれんぞ」は思春期らしい感情の揺れ動きが見られます。

「さんた・るちや」の中で、「ろおれんぞ」は、「いるまん」の「しめおん」と特に仲睦まじかったことが語られています。
二人の仲睦まじさは、「鳩になずむ荒鷲のよう」とか、「「ればのん」山の檜に、葡萄かずらが纏いついて、花咲いたよう」という、まるで恋人や夫婦を思わせる比喩を用いて語っています。
この「しめおん」に相当する登場人物は、「聖女マリナ」の物語では全く存在しないため、芥川が独自に創作したキャラクターです。
「しめおん」が「ろおれんぞ」に向ける強い愛情は、ホモソーシャル(同性間の社会的絆)ではなく、ホモセクシュアル(性的なもの)に近いように感じます。
「ろおれんぞ」の方も、「しめおん」に対し、信仰共同体における兄弟愛を超えた、異性愛に近い感情を向けています。

このように「聖女マリナ」の物語と比較すると、『奉教人の死』は「ろおれんぞ」の美しい容姿や豊かな表情について、過剰とも感じられるほど多く語っています。
作者である芥川は、「ろおれんぞ」の人間性よりも、女性としての<身体>に、読者の関心を向けさせようとしてるのではないでしょうか。
芥川は、「ろおれんぞ」の若さと美しさを強調し、読者の好奇心をそそった上で、最後に「ろおれんぞ」の「清らかな二つの乳房」を大勢の人目にさらして、なまなましく秘密の暴露を演出したのです。

「聖女マリナ」を下敷きとしたのならば、「ろおれんぞ」が数年間の乞食生活の後に、「さんた・るちや」へ再び戻り、長年の善行を積んで年を重ね、穏やかで静かな死を迎えるという筋書きでも良いはずです。
しかし芥川は、「ろおれんぞ」が追放後からわずか1年あまりで、火事の中から赤ん坊を救出して命を落とすという、ドラマティックな死に方を創作しています。
年を重ねてから女性であったと分かるよりも、若く美しいまま急死した方が、より強烈なエロス的感動を読者に与えるからでしょう。



伴天連、いるまん衆、奉教人衆


「聖女マリナ」を含め、<修道士処女>の系譜の物語において、女性であると発見されることは、彼女たちの名誉回復と聖女への叙列を意味しています。
しかし『奉教人の死』では、伴天連やいるまん衆は「ろおれんぞ」に謝罪していないため、「ろおれんぞ」は名誉回復も聖女への叙列も受けられず、ただの「奉教人の死」とされ、大勢の人々に「刹那の感動」を消費されただけなのです。
本作品が、『聖ろおれんぞ伝』ではなく、『奉教人の死』と題されていることに、「聖女マリナ」と「ろおれんぞ」の最も大きな違いがあり、芥川の意図が表現されていると言えます。
「傘張の娘」の「こひさん」を聞いた直後、伴天連は次のように奉教人衆へ語りかけます。

『悔い改むるものは、幸じゃ。何しにその幸なものを、人間の手で罰しようぞ。これより益、「でうす」の御戒を身にしめて、心静に末期の御裁判を待ったがよい。また「ろおれんぞ」がわが身の行儀を、御主「ぜす・きりしと」とひとしく奉ろうず志はこの国の奉教人衆の中にあっても、類稀なる徳行でござる。別して少年の身とはいい--』(49頁)

「ろおれんぞ」を陥れた罪を告白し悔い改めた「傘張の娘」に対して、人間が罰するものではなく、最後の審判に際して、神が裁くものであると、伴天連は教会の権威を持っておごそかに説教します。
続けて、「ろおれんぞ」の行いを「類稀なる徳行」と誉めますが、伴天連は「ろおれんぞ」を破門した自らの愚かさには全く目を向けていないのです。
「ろおれんぞ」が女性であると発見した伴天連は「ろおれんぞ」に対する説教を最後まで言い終えることなく、「かれびた頬の上には、とめどなく涙が溢れ流れる」ばかりとなります。

伴天連が涙したにもかかわらず、その後に「ろおれんぞ」が聖女としてねんごろに葬られたという記述はありません。
伴天連は、「いるまん」衆や奉教人衆を導く宗教的指導者であるため、自らの罪を認めて悔い改め、「ろおれんぞ」の名誉を回復し、死後の「ろおれんぞ」を聖女としてねんごろに葬る責任があります。
「聖女マリナ」の物語で、修道士が果たしていたこの役割を、伴天連は全く果たしていないのです。
伴天連が立場にふさわしい責任を果たしていないせいで、伴天連が涙した場面は、<加害者の回心>という聖人伝本来の宗教的感動による涙ではなく、「清らかな二つの乳房」の「エロス的感動」によって涙したかのように解釈できます。
芥川は、「ろおれんぞ」の若さと美しさを強調して<女性の身体の発見>を描き出した上で、<加害者の回心>はあえて描かないことによって、読者に伴天連への疑いをいっそう深めさせる効果を生み出しているのです。


「傘張の娘」の「こひさん」を聞いて、「傘張の翁」と「しめおん」は「胸を破った」(48頁)と語られています。
「ろおれんぞ」が本当は無実であったことに、「胸を破った」ほど驚いたにもかかわらず、二人とも「ろおれんぞ」を苦しめたことに対する謝罪の言葉を何も言わないまま、介抱している様子に、読者としては違和感を感じます。
<加害者の回心>が描かれていない点においては、「しめおん」を含む「いるまん」衆も、「傘張の翁」を含む奉教人衆も同じと言えるでしょう。
奉教人衆は、自分たちの罪を悔い改めない上に、「ろおれんぞ」の行いを「まるちり」(殉教)と勝手に名付けて、伴天連に代わって「ろおれんぞ」を聖化しようとしています。
伴天連が「ろおれんぞ」の名誉を回復し、聖女として認める前に、勝手に「ろおれんぞ」を聖化しようとする奉教人衆の言動は、逆説的に伴天連を批判することとなり、教会の権威を内側から傷つけていると言えます。

伴天連や教会の公認を通り越して、「まるちり」と叫ぶ奉教人衆の内心には、非業の死を遂げた人の魂を鎮め、神として祀る御霊信仰と近い意識が、根強くあると解釈できます。
本来の「聖女マリナ」の物語では、<加害者の回心>が最も重要な宗教的メッセージです。
奉教人衆が回心しないまま「ろおれんぞ」を聖化しようとする行為は、今後も全く反省なく、第二・第三の「ろおれんぞ」を生み出す<加害者>であり続ける危険性を示唆しています。
したがって、「ろおれんぞ」の物語において、芥川は宗教的に最も重要な<加害者の回心>を削除し、「ろおれんぞ」を聖化せず、一人の「奉教人の死」としたことで、全く異なるメッセージの物語へと書き換えたと言えるのです。


傘張の娘:『十二夜』と比較して


発売元: 光文社
発売日: 2007/11/20

また、「聖女マリナ」の物語では、マリナが女性であると発見され、修道士が自分たちの罪を悔い改め、彼女を聖女としてねんごろに葬った後に、マリナを陥れた女性が「みなの前で罪を白状しなくてはならない羽目になった」と語られています。
一方、「ろおれんぞ」の物語では、「傘張の娘」が自分の罪を告白した場面の後に、「ろおれんぞ」の女性の身体の発見が配置されています。
嘘つきの女性の懺悔が、<女性の身体の発見>の前なのか、後なのかでは、その懺悔の解釈が大きく変わってきます。

自分の嘘が発覚した後で、嫌々ながら罪を白状した女性と比較して、「傘張の娘」は自分の嘘が発覚する前に、「ろおれんぞ」の自己犠牲に心動かされ、自分の意志で罪を告白しています。
「ろおれんぞ」の物語の中で、この「傘張の娘」だけが<加害者の回心>をしていると言えます。
「傘張の娘」は、大勢の人々の前で自分の罪を認めて悔い改め、「ろおれんぞ」の無実を明らかにしたことで、贖罪を果たしたと解釈できます。
前述したように、伴天連や「いるまん」衆、奉教人衆に対して、芥川はかなり批判的に、いっそ悪意を感じさせるほど皮肉に描き出しています。
彼らとは対照的に、芥川は「傘張の娘」には懺悔と贖罪の機会を与え、「聖女マリナ」の嘘をついた女よりも同情的な筋書きへと変えているのです。

「ろおれんぞ」の美しさを過剰に強調する演出によって、「傘張の娘」が「ろおれんぞ」に魅了され、強く恋い焦がれる心情が、読者に分かりやすく伝わります。
ウィリアム・シェイクスピアの『十二夜』(1601年-1602年頃)では、「ろおれんぞ」と「傘張の娘」の関係と同じように、男装した女主人公をめぐる恋のすれ違いが描かれています。
女主人公ヴァイオラは、シザーリオという名前で男装し、オーシーノ公爵に仕える小姓として生活していましたが、伯爵令嬢オリヴィアに一目惚れされてしまいます。
ヴァイオラは、主であるオーシーノ公爵をひそかに愛しており、自分の恋がかなわない気持ちと、オリヴィアの恋が決してかなわないことを重ねて、悲しむ場面がとても印象的です。

お目当ての男とは、この私なのね! もしそうなら―いえ、そうとしか思えないけど、かわいそうに、あの方、いっそ、夢にでも恋するほうがましというもの! 表を偽るこの変装というやつ、なんて悪いやつなの、お前は。この手を使って、ずるい悪魔も美しい上面を飾り、ひどい悪事を働くんだわ。外見だけは立派でも、腹の黒い男どもが、ロウのように柔らかい女の心に、その姿形を刻印するのは、いかにたやすいことだろう。でも、その原因は、女心の力なさ、私たちが悪いんじゃない。だって、悲しいことに、私たち、そう生まれついているんだもの。でも、いったい、どうなるの? これ。オーシーノ様は、あんなにあの方を恋してらっしゃる。そして私は―女で、男の、この化物みたいな私は、こんなにもオーシーノ様を愛している。おまけにあのお嬢様は、私を男と思い違えて、私に夢中になっているらしい。どうなるというんだろう、これは。私は男。オーシーノ様の愛を得られる望みはない。私は女。かわいそうに、オリヴィア様がどれほど嘆きを募らせようと、甲斐はない! ああ、ここまで絡んでしまった糸の縺れ、私の手では、もう、どうにも解きようはない。「時」の手にゆだねるほかに、手はないのね。(ウィリアム・シェイクスピア『十二夜』、二幕二場より、光文社)

『十二夜』のヴァイオラと同じく、男装の女性である「ろおれんぞ」が、「傘張の娘」の恋心をかなえることは絶対に出来ません。
ヴァイオラと比較すると、「ろおれんぞ」が「傘張の娘」に対して、彼女を騙している後ろめたさを感じたり、決して成就することのない彼女の想いに同情する様子は描かれていません。
一方で、「傘張の娘」との噂を問い詰めた「しめおん」には、「ろおれんぞ」は彼を咎めた後に、わざわざ戻って来て「私が悪かった。許して下されい」(40頁)と謝罪します。
この台詞から、「ろおれんぞ」が「しめおん」に対して、自分の性別を偽っていることへの罪悪感を抱えていたことが分かります。
「ろおれんぞ」は、自分が性別を偽り、「しめおん」を騙しているせいで、彼が自分と「傘張の娘」との噂を信じ、自分を問いただしたことを、きちんと理解していたと言えます。
このように「ろおれんぞ」は、「しめおん」の心情に対しては理解し、配慮していますが、「傘張の娘」に対しては配慮する場面が全く無いため、「傘張の娘」の心情を理解していないか、理解しながら無視していたことになります。

「傘張の娘」との噂が立つほど、彼女の積極的なアプローチを受けて、「ろおれんぞ」が「傘張の娘」の恋心に気づいかないはずがありません。
「ろおれんぞ」は、「傘張の娘」の恋心に気づいていながら、彼女の恋心の真剣さを侮っていたと言えるでしょう。
「ろおれんぞ」が「傘張の娘」の心情を無視し続け、「あまりにつれなく」(47頁)接したせいで、彼女の内心に「怨む心」が生じる結果となります。
「傘張の娘」の気持ちが本気だったからこそ、「ろおれんぞ」に「あまりにつれなく」され、「つらかった口惜しさを思い知らそう」(47頁)として、彼女は「ろおれんぞ」を貶める嘘をついたのです。

『十二夜』では、ヴァイオラが生き別れとなった双子の兄セバスチャンと再会し、彼女の正体が明らかになります。
オリヴィアは、男装したヴァイオラと見分けがつかないほど似ているセバスチャンと婚約し、ヴァイオラもオーシーノ公爵への想いがかなって、二組は同じ日、同じ時に結婚式を行う運びとなり、幸福な結末を迎えます。

オリヴィア   オーシーノ様、今ここで起こったさまざまな出来事を考え合わせて、今までは妻にとお望みになっていたこの私のことを、もしむしろ妹と呼んでもよいとお考えくださるのでしたら、いかがでございましょう、同じ日、同じ時に、私たち二組 の結婚の儀式を、晴れやかに挙げることにしてはと存じますが。それも、よろしければ、この私の邸で、私に準備させていただけますなら。
オーシーノ   そのお申し出、心から喜んでお受けしよう。(ヴァイオラに)召使いとしてのお前の務めは、主人たる私が、今、ここに解く。これまでの仕事、女としてはつらかったろう、やさしく、しとやかな生まれ育ちからすれば、卑しいこととも思えたろうに、よく、 尽くしてくれたな。私のことを、これほど長く、主人と呼んでくれたお前、さ、この手を取ってくれ。今より後は、お前は、お前の主人の、女主人だ。
オリヴィア  (ヴァイオラに)そう、そして、私のお姉様。(『十二夜』五幕一場)

シェイクスピアは、オーシーノに対するヴァイオラの恋心と、男装したヴァイオラに対するオリヴィアの恋心、この両方を成就させて、ヒロインを二人ともハッピーエンドにするために、ヴァイオラの双子の兄という都合の良いキャラクターを登場させています。
シェイクスピアと違って、芥川は「傘張の娘」の恋心をかなえるための、都合の良い「ろおれんぞ」の双子の兄など決して登場させません。
そのため、「ろおれんぞ」はせめて「傘張の娘」にだけは、自分の本当の性別を明かすべきであったと感じます。
「ろおれんぞ」が「傘張の娘」の恋心に誠実に向き合い、彼女を騙していたことを謝罪していれば、「ろおれんぞ」を陥れるほどに「傘張の娘」が思いつめることはなかったはずです。
「傘張の娘」が嘘をついて陥れなければ、「ろおれんぞ」は無実の罪で「さんた・るちや」を追放され、乞食となることもなかったでしょう。

芥川は、「聖女マリナ」の物語から「ろおれんぞ」の物語に書き換えるに当たって、原典には全く含まれていなかった、恋愛の要素を大きく盛り込んでいます。
このように恋愛の要素を取り入れることで、「ろおれんぞ」を陥れる役どころの「傘張の娘」の人物像をより掘り下げて、彼女がなぜ嘘をついたか、非常に分かりやすく表現しています。
『十二夜』において、シェイクスピアはヴァイオラとオリヴィアの両方を幸せにしようと苦心していますが、芥川は「ろおれんぞ」と「傘張の娘」の両方に不幸な結末を与えています。
芥川は、「傘張の娘」の恋心を強調し、彼女の犯した罪を同情的に演出することによって、彼女の心情を無視して、誤解を解こうともせず、男装を続ける「ろおれんぞ」の無自覚なエゴイズムを描き出しているのです。


<無自覚なエゴイズム>:『奉教人の死』から『続西方の人』へ


発売元: 新潮社; 改版
発売日: 1968/11/19

この<無自覚なエゴイズム>というテーマは、「ろおれんぞ」のみならず、恋心を暴走させた「傘張の娘」や、嘘を信じ込んで「ろおれんぞ」を殴った「しめおん」、冤罪が明らかになった後も、自分たちの非を認めない伴天連や奉教人衆など、物語全体に共通する問題であるとわたしは考えます。
「ろおれんぞ」と「傘張の娘」、「しめおん」のすれ違いは、個人個人それぞれが持っている<無自覚なエゴイズム>を描き出しています。
そして、「ろおれんぞ」を迫害していながら、「まるちり」とほめたたえる奉教人衆の姿は、集団における<無自覚なエゴイズム>を描き出していると言えます。
伴天連や奉教人衆の姿を通して表現された集団的エゴイズムは、ありきたりの単純なキリスト教批判ではなく、あらゆる人間社会が常に内包している問題です。
したがって、芥川は、「聖女マリナ」の物語を下敷きにしながら、本来の宗教的メッセージを完全に消し去り、人間の内面に対するより深い洞察と疑義を描き出していると言えます。

芥川は、登場人物たちの中でも、奉教人衆の愚かさを特に際立たせて描いているように感じます。
彼が晩年に執筆し、遺稿となった『西方の人』と『続西方の人』(1927年)では、イエス・キリストと、イエスを「知らない」と否認した弟子、イエスを死に追いやった多くの人々に対して、次のように考察しています。

クリストの一生の最大の矛盾は彼の我々人間を理解してゐたにも関らず彼自身を理解出来なかつたことである。彼は 庭鳥の啼く前にペテロさへ三度クリストを知らないと云ふことを承知してゐた。彼の言葉はその外にも如何に我々人間の弱いかと 云ふことを教へてゐる。しかも彼は彼自身もやはり弱いことを忘れてゐた。(芥川竜之介『続西方の人』、「12 最大の矛盾」より)

クリストは比喩を話した後、「どうしてお前たちはわからないか?」と言つた。この歎声も亦度たび繰り返されてゐる。それは彼 ほど我々人間を知り、彼ほどボヘミア的生活をつづけたものには或は滑稽に見えるであらう。しかし彼はヒステリツクに時々かう 叫ばずにはゐられなかつた。阿呆たちは彼を殺した後、世界中に大きい寺院を建ててゐる。が、我々はそれ等の寺院にやはり彼の 歎声を感ずるであらう。「どうしてお前たちはわからないか?」―― それはクリストひとりの歎声ではない。後代にも見じめに 死んで行つた、あらゆるクリストたちの歎声である。(『続西方の人』、「15 クリストの歎声」)

「阿呆たちは彼を殺した後、世界中に大きい寺院を建ててゐる」という痛烈な批判は、「ろおれんぞ」を苦しめた自分たちの愚かさに気づかず、「まるちり」と叫ぶ奉教人衆の姿と重なります。
したがって芥川は、後年に『西方の人』と『続西方の人』で示した、キリスト教に対する理解とキリスト教信者たちへの深い洞察を、1918年に発表した『奉教人の死』の中で、すでに描き込んでいたと言えるでしょう。



3.「まるちり」とは何か?


二重三重に群った奉教人衆の間から、「まるちり」(殉教)じゃ、「まるちり」じゃという声が、波のように起こったのは、丁度この時の事でござる。殊勝にも「ろおれんぞ」は、罪人を憐む心から、御主「ぜす・きりしと」の御行跡を踏んで、乞食にまで身を落いた。して父と仰ぐ伴天連も、兄とたのむ「しめおん」も、皆その心を知らなんだ。これが「まるちり」でのうて、何でござろう。(芥川竜之介『奉教人の死』、岩波文庫、48頁)

『奉教人の死』の中では、火事の中から赤ん坊を救出した「ろおれんぞ」に対して、奉教人衆が「まるちり」じゃと叫び出す様子が描かれています。
この「まるちり」という独特の言い回しは、「殉教」を意味するポルトガル語の「マルチリヨ」(Martirio)に由来します。
キリシタン時代において、宣教師たちは「殉教」を「マルチリヨ」(Martirio)、「殉教者」を「マルチル」(Martir)として、ポルトガル語の原語をそのまま音訳して教えていました。
当時のラテン語・ポルトガル語・日本語の対訳辞書である『羅葡日辞書』(1595年、天草コレジョ刊)では、「マルチル」という言葉は、「証拠人、デウスのご奉公に対して呵責を受け、命を捧げられたる善人」と説明されています。

「マルチル」の第1語義が「証拠人」と記されていたように、もともとキリスト教における「殉教者」とは、ギリシア語の「証人」を意味する「μάρτυς」という言葉に由来します。

あなたがたはこれらのことの証人となる。(『ルカによる福音書』24章48節)

ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」(『ヨハネによる福音書』1章15節)

そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて、天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。(『使徒言行録』1章21-22節)

ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。(『ヨハネの黙示録』1章2節)

このように、新約聖書の中では、「証人」を意味するギリシャ語「μάρτυς」が、<イエスの生涯とその復活の証人>を指す言葉として、何度も繰り返し用いられています。
しかし、初期キリスト教徒たちが激しい迫害を受けた時代に、信仰のために血を流し、自ら死を選んだ信徒が「殉教者」と位置づけられるようになっていきます。

『使徒言行録』の中で、ユダヤ人たち(その中にはサウロ、すなわち回心前のパウロもいた)によって石打ちにされ、殺されたステファノは、キリスト教最初の殉教者として位置づけられました。
死して自らの信仰を証しする「証人」こそが「殉教者」である、と解釈されるようになると、死を伴わない「証人」は「証聖者」という新たな言葉を用いて、区別されるようになります。
『黄金伝説』(1267年頃)では、「白いというのは、貴重な証聖者であり、福音史家である聖ヨハネのことであり、赤いというのは、最初の殉教者となった聖ステパノのことである」(『黄金伝説』、「8章 聖ステパノ」)と記されています。

キリスト教が公認された4世紀以降、初期キリスト教における迫害時代の記憶が「殉教者伝」として記録され、「殉教者=聖人」として尊ばれ、殉教者の遺骨や遺物がもてはやされるようになります。
聖人崇拝が高まった時代については、藤木稟「バチカン奇跡調査官 ジェヴォーダンの鐘」の記事中でも詳しく書いておりますので、ご参照ください。
『黄金伝説』は、ステファノのような殉教死者をはじめ、「聖女マリナ」のような刑死を伴わない殉教者=本来の「証人」としての殉教者を含む、数多くの聖人伝を収録しています。
13世紀半ば以降、『黄金伝説』は中世ヨーロッパで広く読まれ、修道士たちが修道生活を行う中で、聖人たちの生涯を模範としたのです。

宗教改革に先立ち、共同生活兄弟団(1370年代に創設)が提唱した「近代的敬虔」(Devotio moderna)と呼ばれる敬虔な生活の復興が、ネーデルラントからドイツ、北フランスにかけて広まります。
この「近代的敬虔」運動が隆盛する中で、トマス・ア・ケンピスが書いたとされる信心書『イミタティオ・クリスティ』(Imitatio Christi)が出版され、中世の末からヨーロッパ各地で聖書に次いで広く読まれたと言われています。
『イミタティオ・クリスティ』とは、「キリストに倣いて」を意味しており、イエス・キリストの受難を黙想し、キリストに倣うことが推奨され、「近代的敬虔」の精神を説いています。


16世紀半ばの日本にキリスト教を伝えたイエズス会は、このような「近代的敬虔」運動やカトリック改革の精神を背景に、対抗宗教改革の旗手として設立されました。
巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノの主導によって、1590年に西洋式活版印刷機が日本に導入され、イエズス会は伝道に必要な教理書や聖人伝、信心書、ラテン語・ポルトガル語の辞典類など、現代では「キリシタン版」と呼ばれる書物を出版しています。

『サントスの御作業のうち抜書』(1591年、加津佐刊)は、現存する最古のキリシタン版の刊行物であり、『黄金伝説』に収録されているステファノ、ペテロ、パウロなどの殉教者の物語を中心とした聖人伝です。
日本人信徒のために、仏教用語や仏教教説を転用し、中国の始皇帝や醍醐天皇までも出しながら、分かりやすい意訳をしています。
このことから、イエズス会士たちが宣教開始の早い時期から、殉教者伝や聖人伝を教材として、日本の信徒たちにイエス・キリストの受難と復活を説いていたことが分かります。

『サントスの御作業のうち抜書』が出版されたのは、伴天連追放令(1587年)の後ですが、聖人伝の翻訳作業自体は、すでに宣教初期(1556年頃)から行われていました。
宣教師たちが、来るべき弾圧を予見して殉教教育を行っていたと考えるよりも、当時の日本人に共感を呼び起こし、尊敬や信頼を抱かせるための教材として、殉教者伝や聖人伝を用いたと考える方が自然です。

「近代的敬虔」運動を代表する信心書『イミタティオ・クリスティ』も、キリシタン版のローマ字本『コンテンツム・ムンヂ』(1596年、天草刊)や、国字本『こんてむつすむん地-世をいとひゼス・キリシトをまなび奉るの経』(1610年、京都刊)が刊行されています。
同様に、「罪人の導き」を意味する信心書『Guia do pecador』の日本語抄訳である『ぎやどぺかどる』(1599年、長崎刊)までも刊行されています。
このように、イエズス会は宗教改革前の西欧で広く読まれていた信心書を教材とし、日本の信徒たちの信仰生活の指南書としたのです。

ちなみに、芥川は『奉教人の死』のエピグラフに、この『Imitatio Christi』と『Guia do pecador』の一節をそれぞれ引用しています。

たとひ三百歳の齢を保ち、楽しみに身を余るといふとも、未来永々の果しなき楽しみに比ぶれば、夢幻の如し。-(慶長訳Guia do pecador)-

善の道に立ち入りたらん人は、御教にこもる不可思議の甘味を覚ゆるべし。-(慶長訳Imitatio Christi)-(『奉教人の死』、岩波文庫、37頁)

この『イミタティオ・クリスティ』の言葉は、現代の日本語では次のように訳されています。

キリストの教えは、聖人たちのあらゆる教えにも優っている。その精神を学びえた人は、その中にかくれている霊の食物(マナ)を見つけるだろう。(『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』「第1章 キリストにならい、世の空しいものをすべて軽んずべきこと」より)

「不可思議の甘味」という訳語が、現代では「霊の食物(マナ)」という表現へと変わっています。
「マナ」とは、イスラエルの民がエジプトを脱出して、荒れ野を旅していた時に、天から与えられた食物(『出エジプト記』16章14節-35節)のことです。
イエス・キリストは、マナに代わり「命のパン」(『ヨハネによる福音書』6章22節-58節)をお与えになったと言われています。
キリシタン時代の翻訳者は、天から与えられた食物である「マナ」について、中国古来の伝説における「甘露」(天から降る甘い露)をイメージして、「甘味」と訳したのかもしれません。


これらの聖人伝や信心書は、日本の信徒たちに、イエス・キリストの受難と復活の教義を理解させ、「殉教」の精神を育て、信心を高める手助けをしたことでしょう。
「日本二十六聖人の殉教」(1597年)や「元和の大殉教」(1622年)をはじめとして、日本で現実に殉教が起こったことから、「殉教」の精神が当時の信徒たちに受容されていたことは間違いないと言えます。


「ろおれんぞ」の死は「まるちり」なのか?


『奉教人の死』における「ろおれんぞ」の死は、「元和の大殉教」のようなキリシタン迫害による死とは、全く異なります。
「ろおれんぞ」を迫害したのは、キリスト教を弾圧する異教徒たちではなく、「ろおれんぞ」と信仰を同じくするキリスト教徒たち、すなわち伴天連や「すぺりおれす」(長老衆)、「いるまん」(法兄弟衆)、奉教人衆です。
「ろおれんぞ」は「傘張の娘」に陥れられ、伴天連や「いるまん」は姦計に気づかず、「ろおれんぞ」を教会から追放し、乞食の生活に追いやりました。

「ろおれんぞ」は、「町はずれの非人小屋に起き伏しする、世にも哀れな乞食」となりましたが、決して信仰を棄てませんでした。
禁教期に、表向きは棄教のふりををして処刑を免れ、密かに信仰を持ち続けた潜伏キリシタンたちのように、伴天連がいくら「ろおれんぞ」を破門し、教会から追放したとしても、「ろおれんぞ」の信仰心を奪うことは出来なかったのです。

長崎の町にはびこった、恐ろしい熱病にとりつかれて、七日七夜の間、道ばたに伏しまろんでは、苦み悶えたとも申す事でござる。したが、「でうす」無量無辺の御愛憐は、その都度「ろおれんぞ」が一命を救わせ給うのみか、施物の米銭のない折々には、山の木の実、海の魚貝など、その日の糧を恵ませ給うのが常であった。由って「ろおれんぞ」も、朝夕の祈は「さんた・るちや」にあった昔を忘れず、手くびにかけた「こんたつ」も、青玉の色を変えなかったと申す事じゃ。なんのそれのみか、夜ごとに更闌けて人音も静まる頃となれば、この少年はひそかに町はずれの非人小屋を脱け出いて、月を踏んで住み馴れた「さんた・るちや」へ、御主「ぜす・きりしと」の御加護を祈りまいらせに詣でておった。
なれど同じ「えけれしや」に詣ずる奉教人衆も、その頃にはとんと、「ろおれんぞ」を疎んじはてて、伴天連はじめ、誰一人憐みをかくるものもござらなんだ。ことわりかな、破門の折から所行無慚の少年と思いこんでおったに由って、何として夜ごとに、独り「えけれしや」へ参るほどの、信心ものじゃとは知らりょうぞ。これも「でうす」千万無量の御計らいの一つ故、よしない儀とは申しながら、「ろおれんぞ」が身にとっては、いみじくもまた哀れな事でござった。(『奉教人の死』、岩波文庫、42-43頁)

「ろおれんぞ」は、クリスマスの夜に教会に保護されて以来、伴天連や「すぺりおれす」、「いるまん」、奉教人衆から「天童の生まれがわり」などと、ちやほやされて育ちました。
しかし、伴天連によって破門され、教会を追放されたことで、「ろおれんぞ」に憐みをかけるものは誰一人いなくなりましたが、主なる神だけは「ろおれんぞ」を変わらず愛し、憐み続けたことが記されています。
「施物の米銭」が無い時には、「ろおれんぞ」のために「山の木の実、海の魚貝など、その日の糧を恵ませ給うのが常」であったという記述は、アハブ王から命を狙われた預言者エリヤが、主なる神によって養われた物語(列王記上17章1-15節)を思い起こさせます。
主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むが良い。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」エリヤは主に言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んできた。水はその川から飲んだ。しばらくたって、その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。(『列王記上』17章2-7節)

また主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」と言った。エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。
主が地の面に雨を降らせる日まで
壺の粉は尽きることなく
瓶の油はなくならない。」
やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならなかった。(『列王記上』17章8-15節)

エリヤを生かすために、烏にパンと肉を運ばせたり、餓死寸前だった母子家庭に必要なだけの小麦と油を備えたように、主なる神は「ろおれんぞ」が恐ろしい熱病に罹った時は命を救い、「施物の米銭」が無い時には「山の木の実、海の魚貝など、その日の糧を恵ませ給う」たのです。
主なる神が一体どのような方法で「山の木の実、海の魚貝など」を「ろおれんぞ」に恵ませたか、芥川は具体的に書いていませんが、「ろおれんぞ」が神の御計らいによって生かされていると感じていたことは明らかです。
そのため、「ろおれんぞ」は、教会で何不自由なく暮らしていた頃よりも、いっそう主なる神に立ち返り、主イエス・キリストにのみ依り頼むようになったと言えるでしょう。
誰にも頼れない孤独な乞食生活だったからこそ、「ろおれんぞ」は主なる神の「無量無辺の御愛憐」に感謝し、朝夕の祈りを欠かさず、毎夜密かに町はずれの非人小屋から教会に参詣し続けたのかもしれません。

『奉教人の死』の語り手は、「ろおれんぞ」が教会を追放され、乞食生活の中で、信仰をより確かにしていく過程を、「「でうす」千万無量の御計らいの一つ」と語っています。
すなわち、「ろおれんぞ」が無実の罪で追放され、孤独な乞食生活に苦しむことはすべて、主なる神の御計画のうちにあり、試練の一つであると、語り手は解釈していると言えます。


教会を追放されてから一年あまり、「ろおれんぞ」は試練にさらされましたが、主なる神を恨んだり、棄教することなく、信仰をよりつよく篤くしました。
そして長崎の町の大火事が起こった時、燃えさかる「傘張の娘」の家に取り残された赤ん坊の命を救うため、「ろおれんぞ」はまっしぐらに火中に飛び込んだのです。

多くの人を押しわけて、駆けつけて参ったは、あの「いるまん」の「しめおん」でござる。これは矢玉の下もくぐったげな、逞しい大丈夫でござれば、ありようを見るより早く、勇んで焔の中へ向うたが、あまりの火勢に辟易致いたのでござろう。二、三度煙をくぐったと見る間に、背をめぐらして、一散に逃げ出いた。して翁と娘とが佇んだ前へ来て、『これも「でうす」万事にかなわせたまう御計らいの一つじゃ。詮ない事とあきらめられい』と申す。その時翁の傍から、誰とも知らず、高らかに「御主、助け給え」と叫ぶものがござった。声ざまに聞き覚えもござれば、「しめおん」が頭をめぐらして、その声をの主をきっと見れば、いかな事、これは紛れもない「ろおれんぞ」じゃ。清らかに痩せ細った顔は、火の光に赤うかがやいて、風に乱れる黒髪も、肩に余るげに思われたが、哀れにも美しい眉目のかたちは、一目見てそれと知られた。その「ろおれんぞ」が、乞食の姿のまま、群る人々の前に立って、目もはなたず燃えさかる家を眺めておる。と思うたのは、まことに瞬く間もないほどじゃ。一しきり焔を煽って、恐ろしい風が吹き渡ったと見れば、「ろおれんぞ」の姿はまっしぐらに、早くも火の柱、火の壁、火の梁の中にはいっておった。「しめおん」は思わず遍身に汗を流いて、空高く「くるす」(十字)を描きながら、己も「御主、助け給え」と叫んだが、何故かその時心の眼には、凩に揺るる日輪の光を浴びて、「さんた・るちや」の門に立ちきわまった、美しく悲しげな、「ろおれんぞ」の姿が浮かんだと申す。(『奉教人の死』、岩波文庫、44-45頁)

「しめおん」は、火中に飛び入ることをためらい、「傘張の娘」と「傘張の翁」に「これも「でうす」万事にかなわせたまう御計らいの一つ」と、まるで赤ん坊の死が主なる神の御計画のうちかのように言い聞かせます。
しかし、主なる神の御計画かどうかは、神ならぬ身である「しめおん」に分かるはずもないため、本当は自分が赤ん坊を助けられない後ろめたさを、主なる神のせいにしていると言えます。

一方で、「ろおれんぞ」は「御主、助け給え」とだけ言って、まっしぐらに火焔の中に飛び入り、赤ん坊を助け出そうとしました。
燃えさかる家を眺めていたまさに一瞬の間、「ろおれんぞ」は赤ん坊の死が主なる神の御計画かどうかなどは考えず、ただひたすら主イエス・キリストに依り頼み、赤ん坊の命を助けることだけを考えていたことでしょう。
火中に飛び込んだ「ろおれんぞ」を見て、「しめおん」は「ろおれんぞ」が教会から追放された日の光景を思い出します。
その時居合わせた奉教人衆の話を伝え聞けば、時しも凩にゆらぐ日輪が、うなだれて歩む「ろおれんぞ」の頭のかなた、長崎の西の空に沈もうず景色であったに由って、あの少年のやさしい姿は、とんと一天の火焔の中に、立ちきわまったように見えたと申す。(『奉教人の死』、岩波文庫、41-42頁)

「しめおん」の拳でしたたかに打たれて、教会を追い出される「ろおれんぞ」の姿は、「天の火焔の中に、立ちきわまったように見えた」と語られています。
芥川は、このような極めて美しく印象的な「ろおれんぞ」の追放を描くことで、その後の「ろおれんぞ」の苦難の日々と受難を暗示していると言えます。
また、「凩にゆらぐ日輪」、「凩に揺るる日輪の光」と繰り返し語っていることから、太陽の円光を背景にして立つ「ろおれんぞ」の姿は、イエス・キリスト像や聖母子像、聖人像で必ず描かれる光背(後光)のイメージと重なるのです。
「傘張の娘」は「こひさん」(懺悔)の中で、「「ろおれんぞ」様の御心の気高さは、妾が大罪をも憎ませ給わいで、今宵は御身の危さをもうち忘れ、「いんへるの」(地獄)にもまがう火焔の中から、妾娘の一命を辱くも救わせ給うた。その御憐み、御計らい、まことに御主「ぜす・きりしと」の再来かともおがまれ申す」と語っています。
芥川が、頭の後方から眩しく光が差す「ろおれんぞ」の姿を描いたのは、イエス・キリストの受難と重ね合わせていたからでしょう。

「ろおれんぞ」が火中に飛び込み、赤ん坊の命を救った行為が「まるちり」なのかどうか考えるにあたって、再び思い起こすのは、本来、キリスト教における「殉教者」は「証人」を意味するという点です。
「殉教」が「信仰の証し」をすることであると定義すれば、「ろおれんぞ」の行為は「イエス・キリストに倣う」という信仰の実践にほかならず、まさに「まるちり」(殉教)であると考えられます。
この「ろおれんぞ」の「まるちり」は、『イミタティオ・クリスティ』(「キリストに倣いて」)で説かれた「近代的敬虔」の精神と同じものであると言えます。

しかし、愛のためになされることは、どんなに小さくつまらないことでも、すべて実りの多いものとなる。神は、人がどんなことをするか、というよりも、どれほど大きな愛から行動するかを、よけいに考量されるのである。(トマス・ア・ケンピス『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』「第15章 愛のためになされる業について」より、講談社)

「ろおれんぞ」が「御主、助け給え」と、主イエス・キリストに依り頼み、まっしぐらに火焔の中に飛び入ることが出来たのは、教会から追放されて以来、常に主なる神に支えられ、主の恵みに生かされていたからこそだと思います。
もし、「ろおれんぞ」が教会から追放されず、今まで通りに伴天連や「すぺりおれす」、奉教人衆からちやほやされ、「しめおん」と仲睦まじく過ごしていたら、燃えさかる家を前にした時、「しめおん」と同じように赤ん坊の命をあきらめたことでしょう。

「ろおれんぞ」は、赤ん坊の命を救うことに成功しましたが、結果的に火傷によって自らの命を落としました。
しかし、「ろおれんぞ」の死が最も重要なのではなく、たとえ「ろおれんぞ」が命を落とさなかったとしても、赤ん坊を救い出した行為は「イエス・キリストの愛」の実践であり、「まるちり」=「信仰の証し」であると言えるでしょう。



一方、「ろおれんぞ」とは対照的に、「しめおん」は火焔の中へ入るのをためらい、「詮ない事とあきらめられい」と言って、赤ん坊の命を見捨てようとしました。
その「しめおん」が、「ろおれんぞ」を救い出すために、火の嵐の中へ真一文字に躍りこんだのです。

それより先に「しめおん」は、さかまく火の嵐の中へ、「ろおれんぞ」を救おうず一念から、真一文字に躍りこんだに由って、翁の声は再び気づかわしげな、いたましい祈りの詞となって、夜空に高くあがったのでござる。これは元より翁のみではござない。親子を囲んだ奉教人衆は、皆一同に声を揃えて、「御主、助け給え」と、泣く泣く祈りを捧げたのじゃ。して「びるぜん・まりや」の御子、なべて人の苦しみと悲しみとを己がものの如くに見そなわす、われらが御主「ぜす・きりしと」は、遂にこの祈りを聞き入れ給うた。見られい。むごたらしゅう焼けただれた「ろおれんぞ」は、「しめおん」が腕に抱かれて、早くも火と煙とのただ中から、救い出されて参ったではないか。(『奉教人の死』、岩波文庫、46-47頁)

「ろおれんぞ」にとって、この赤ん坊は全くの他人であるだけでなく、自分を陥れた「傘張の娘」が生んだ子供です。
敵の子供であっても、命をかけて救い出そうとした「ろおれんぞ」は、まさに「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(『マタイによる福音書』5章44節)と説いた「イエス・キリストの愛」を実践したと言えます。
一方、「しめおん」は、赤ん坊の命は見捨てようとしましたが、「ろおれんぞ」を救い出すためならば、命がけで火の嵐の中に飛び入りました。
このことから、「しめおん」が本当に心から「ろおれんぞ」を愛していたことが窺えます。
「しめおん」の愛は、「イエス・キリストの愛」とは異なり、「ろおれんぞ」だけに向けられていたと言えます。

赤ん坊の命を見捨て、「ろおれんぞ」だけを助けようとした「しめおん」は、決して冷酷非情な人間というわけではなく、誰もが「しめおん」と同じように、命の優劣をつけて生きているはずです。
従順、貞潔、清貧という三つの誓願を立て、修道生活を入った「いるまん」である「しめおん」であっても、このように「イエス・キリストの愛」を実践することは難しいのです。


『奉教人の死』の語り手は、「なべて人の苦しみと悲しみとを己がものの如くに見そなわす、われらが御主「ぜす・きりしと」」と語っています。
したがって芥川は、イエス・キリストは全ての人の苦しみと悲しみとを自分のことのように御覧になる御方である、と解釈していたと言えます。
そして、芥川が「如何に我々人間の弱いか」(『続西方の人』、「12 最大の矛盾」)と語った通り、わたしたちは他人に無量無辺の愛憐の気持ちを感じることなど出来ないし、他人の苦しみや悲しみを自分のこととして感じることも出来ないのです。
「ろおれんぞ」を陥れた「傘張の娘」も、「ろおれんぞ」の無実が明らかになっても自分たちの不明を認めず、罪を悔い改めようとしない伴天連や奉教人衆も、同じ弱い人間であると言えます。
「イエス・キリストに倣う」生き方を実践することが極めて困難だからこそ、「信仰の証し」を立てた「ろおれんぞ」の生き方は尊敬すべきものであり、まさに「まるちる」=「証人」であると言えるでしょう。


4. 結びに


『奉教人の死』は、次のような結びの言葉が語られています。

その女の一生は、この外に何一つ、知られなんだげに聞き及んだ。なれどそれが、何事でござろうぞ。なべて人の世の尊さは、何ものにも換えがたい、刹那の感動に極るものじゃ。暗夜の海にも譬えようず煩悩心の空に一波をあげて、いまだ出ぬ月の光を、水沫の中へ捕らえてこそ、生きて甲斐ある命とも申そうず。されば「ろおれんぞ」が最後を知るものは「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか。(『奉教人の死』、岩波文庫、50頁)

仏教の教えでは、「光明」は仏の智慧や慈悲を象徴しており、その光に照らされていない状態を「無明」と呼びます。
そして人間の心身を悩ませ苦しめる心のはたらきを「煩悩」と呼び、この「煩悩」が智慧の光を妨げ、迷いや苦しみを生みだす原因であると説かれています。
『奉教人の死』の語り手は、光明に照らされていない状態である「煩悩心」を「暗夜の海」に譬えて、「暗夜の海」のような悩み苦しむ心の空に、一つの波を起こし、未だ姿を現わさない月の光を水沫の中に見てこそ、「生きて甲斐ある命」と言うことが出来るだろう、と語っています。

わたしは当初、この結びの言葉の中で、唐突に「煩悩」といった仏教用語が用いられていることに、違和感を感じました。
しかし、キリシタン版の聖人伝や信心書において、多くの仏教語が訳語として採用され、教理の説明に仏教教説が援用されていたことを知って、この結びの言葉の奇妙さが、むしろ自然に思えてきました。
芥川は、キリシタン版の文体を模して『奉教人の死』を執筆していますが、仏教語を転用したキリシタン時代の不自然な言い回しまでも、巧みに再現しているのです。
芥川がキリシタン版の文体模倣として仏教語を用いていると考えれば、この結びの言葉は仏教ではなく、キリスト教の信仰に基づいて解釈すべきでしょう。

「暗夜の海」で水沫の中に未だ出ぬ月の光を見るという情景は、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(『ヨハネによる福音書』8章12節)という言葉を思い起こさせます。
『イミタティオ・クリスティ』の冒頭でも、この聖書箇所を引用して、わたしたちが「心の闇」から解放されるために、イエス・キリストに倣って生きることを勧めています。

私にしたがう人は闇の中を歩まない(ヨハネ八の一二)、と主はいわれる。これはキリストの言葉だが、もし私たちがほんとうに愚かさを捨て、心の闇をすっかり去って解放されるのを望むなら、あの方の生涯や行いにならえと、すすめるものである。(『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』「第1章 キリストにならい、世の空しいものをすべて軽んずべきこと」より)

「暗夜の海」で、未だに月の光が出ない状態にもかかわらず、どうして水沫の中に月の光を捕らえることが出来るでしょうか。
「ろおれんぞ」が、未だに月の出ない「暗夜の海」のような苦しみの中で、水沫の中に「光」を見たとすれば、その光は「ろおれんぞ」自身が内側に持っている「命の光」であると考えます。
「ろおれんぞ」が教会を追放されてからは、自分に憐みをかけるものは誰一人いない孤独な乞食生活であり、まさに月の出ない「暗夜の海」を漂流している状態と同じです。
しかし、「ろおれんぞ」はこのような絶望的な「暗夜の海」にあっても、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(『ヨハネによる福音書』8章12節)と言われた通り、イエス・キリストという光を捕らえていたからこそ、決して自暴自棄になったりせず、「生きて甲斐ある命」を全うしたのだと思います。

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々に、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(『マタイによる福音書』5章14節-16節)

『奉教人の死』の結びの言葉では、「なべて人の世の尊さは、何ものにも換えがたい、刹那の感動に極るもの」であり、「ろおれんぞ」の最後を知るものは「ろおれんぞ」の一生を知るものであると語っています。
つまり、「ろおれんぞ」が火焔の中から赤ん坊を救い出したという「最後」にこそ、「ろおれんぞ」の人生の尊さがあらわれており、何ものにも換えがたい「刹那の感動」があると解釈できます。
「イエス・キリストの愛」を実践した「ろおれんぞ」の「最後」には、たしかに「ろおれんぞ」の人生の尊さが極まっていると言えるかもしれません。
「あなたがたは世の光である」とイエス・キリストが言われた通り、「ろおれんぞ」が「暗夜の海」のような「煩悩心の空」にあげた「一波」は、未だに月の出ない中で、人々の前に光輝いたのだと思います。




おまけ:「聖女マリナ」と「ろおれんぞ」の男装についての考察


女性が男装して修道士となり、死後に女性であったことが分かる修道士処女(モナコパルティノス)の物語は、古くから伝えられています。
『黄金伝説』には、聖女マリナをはじめ、聖女テオドラ、聖女エウゲニア、聖女ペラギア、聖女マルガリアの伝記が採録されています。
彼女たちは、なぜ男装していたのでしょうか?

「聖女マリナ」の物語では、マリナは父親に伴って修道院に入り、父親に命じられて男装し、父親の死後も修道生活を自分の意志で続けたと記されています。
しかし、なぜ父親はマリナに男装を命じたのでしょうか?
父親が修道の志を持ち、世俗を捨てて、修道院に入る際に、自分の娘は他家へ嫁がせるか、修道女見習いとする方が自然です。

マリナは、5世紀頃に実在した女性であることから、FtMトランスジェンダー(生まれつきの性別が女性で、性自認が男性)であった可能性も考えられます。

マリナが父に命じられて男装していた期間は、修道の請願を立てる前の修練期(志願期)=見習い期間に当たると言えます。
もしマリナの性自認が女性であったならば、父親の命令に従い、自分の意志に反して男装をしていたことになります。
マリナが不本意ながら男装をしていたとすれば、父親の死を契機に、還俗して、本来の性別へ回帰し、結婚して子育てする人生を選ぶことも出来たはずです。

しかし『黄金伝説』には、父親が死の際に、改めてマリナに修道の志を問うた時、マリナが自ら修道生活を選び取ったと記されています。
マリナは、見習い期間を終え、正式に「清貧・貞潔・服従」の三つ誓いを立てて、修道士となったのです。
マリナが父の死後も男装を続け、死ぬまで男性として生きたことから、マリナは自ら望んで男装していたと考えるべきでしょう。
マリナの父親は、結婚して子育てするという、当時の人々が考える<女の幸せ>を、自分の娘が望んでいないと理解していたのではないでしょうか。
自分の娘が、結婚も修道女も望んでいないと分かっていたからこそ、マリナを「息子」と偽って、一緒に修道院へ連れて行ったのではないか、と考えます。

修道者は、男性も女性も終身独身であるため、マリナの本当の性別が何であっても、生涯独身を貫くことには変わりがないと言えます。
修道士マリノスとして、祈りと奉仕を通じて、神への愛に生涯を奉げる修道生活を生きたマリナは、男/女というジェンダーに囚われない、神の前に一人の<人間>としてのアイデンティティを持っていたのかもしれません。

マリナが無実の罪で修道院を追放された時、自分が女性であることを明かせば、二年間乞食生活を送ることも、他人の子を押しつけられることもなかったでしょう。
しかし、マリナは本来の性別を明かさず、これまで通り男性として生きることを選んだのです。
マリナは、よほどの強い覚悟と、強い意志を持って、男装し続けていたと言えます。
死ぬまで男性として生き抜いたマリナにとって、死後に女性であることが発覚し、<聖女>とされたのは、本懐ではなかったのでは、と思います。

一方、『奉教人の死』の「ろおれんぞ」は、「聖女マリナ」を下敷きに、芥川が創作したキャラクターです。
「ろおれんぞ」の男装理由は、作中で特に語られていませんが、「ろおれんぞ」の美しさを強調する描写や、「しめおん」との関係描写から、「ろおれんぞ」の性自認は女性であると言えるでしょう。
芥川は、「聖女マリナ」がトランスジェンダーであった可能性など、全く想定していなかったのではないか、と思います。

芥川によって、<男装の美少女>として描き出された「ろおれんぞ」は、ウィリアム・シェイクスピアやピエール・ド・マリヴォーの喜劇に登場する男装ヒロインたちと同じ系譜と言えます。
『お気に召すまま』のロザリンドや、『十二夜』のヴァイオラと同じく、「ろおれんぞ」は自分の身を守るために男装していたと考えるのが自然です。

男装するヒロインというモチーフは、古代から現代まで、人々を魅了し続けています。
シェイクスピアは、『お気に召すまま』のロザリンド、『十二夜』のヴァイオラ、『ヴェニスの商人』のポーシャといった男装ヒロインを生み出しています。
シェイクスピアは、男装ヒロインたちに、本来の性別への回帰と、幸福な結婚=<女の幸せ>という結末を与えています。

日本の古典で男装ヒロインと言えば、『とりかへばや物語』(平安時代後期)と『有明の別れ』(平安時代末期)です。
『とりかへばや物語』と『有明の別れ』の主人公たちは、『お気に召すまま』や『十二夜』の主人公たちと違って、身を守るために男装をしていたわけではありません。
当時は男性の楽器とされていた笛の名手であり、優れた漢籍の教養を持つなど、男性官人社会において活躍する男装ヒロイン像が描かれています。
『とりかへばや物語』と『有明の別れ』では、本来の性別への復帰と、入内という結末が提示されますが、それは主人公たちが持つ本来の才能が隠され、内へ閉じ込められることを意味します。
入内し、帝から寵愛された彼女たちが幸せだったかどうかは、読者によって解釈が分かれるでしょう。

『奉教人の死』の「ろおれんぞ」は、シェイクスピア喜劇の男装ヒロイン像を踏襲しているように思えます。
もし、「ろおれんぞ」が教会を追放されなければ、いずれは還俗して女性の姿に戻り、「「ればのん」山の檜に、葡萄かずらが纏いついて、花咲いたよう」に仲睦まじかった「しめおん」と結婚する未来もあり得たかもしれません。
「ろおれんぞ」と「しめおん」の関係描写からも、教会で暮らしていた当時の「ろおれんぞ」は、シェイクスピア的な男装ヒロインだったと言えるでしょう。

しかし、教会から追放され、乞食生活という試練にさらされたことで、「ろおれんぞ」はシェイクスピア的な男装ヒロインではなく、「聖女マリナ」のような性別に囚われない自律した存在へと大きく変化したと考えられます。
つまり「ろおれんぞ」は、追放前と追放後とは、全く別な人間のようになったのではないでしょうか。
神の前に一人の<人間>となったからこそ、「ろおれんぞ」は「イエス・キリストの愛」を実践できたのだと思います。




参考:ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説 2』(平凡社、2006年)
トマス・ア・ケンピス『イミタチオ・クリスティ キリストにならいて』(講談社、2019年)
狭間芳樹「キリシタン時代における殉教の理解と記憶」『アジア・キリスト教・多元性』(2019年、京都大学)
狭間芳樹「キリシタンと武士道:殉教精神の涵養とキリスト教の倫理」『アジア・キリスト教・多元性』(2010年、京都大学)
篠崎美生子「奉教人の死」における〈内破〉と〈疎外〉: 『黄金伝説』を手がかりに」『国文学研究』(2012年、早稲田大学国文学会)