2021/01/04

山城むつみ『ドストエフスキー』



山城むつみの『ドストエフスキー』(2015年、講談社)は、彼が文芸誌の『文學界』と『群像』において発表した論考をまとめた論文集です。
全六章仕立で、各章は単独でも独立した作品論として読むことが出来ます。
章題として掲げられているのは、『悪霊』『罪と罰』『作家の日記』『白痴』『未成年』『カラマーゾフ』ですが、ドストエフスキーの全生涯と全作品が縦横無尽に取り上げられています。
ドストエフスキーの五大長編のうち、どれか一作でも読んでいるかたに、ぜひおすすめしたいです。

本書を読んで、特に驚きだったのが第六章「カラマーゾフのこどもたち」です。
わたし自身、「『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む」と題した記事を書いているとおり、『カラマーゾフの兄弟』が大好きです。
読書メーターの自己紹介欄の「好きな本」の項目で、一番上に名前をあげているくらい、忘れがたい作品であります。
好きだからこそ、より深く知りたいと思い、『カラマーゾフの兄弟』論はこれまでたくさん読んできました。
著名な翻訳家によるものでは、江川卓の『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』(1991年、新潮選書)や、亀山郁夫の『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』(2007年、光文社新書)などを読みました。

江川卓は、「カラマーゾフ」は「黒く塗られた」という意味であるといった語源学的解釈や、ロシア正教の分離派である去勢派から作品を読み解こうとします。
亀山郁夫は、未完であることにこだわって、書かれなかった「続編」に関心を向けていました。
一方、山城むつみの読み方には、ロシア語やロシア正教や皇帝暗殺事件などの知識を必要としません
知識勝負ではないという意味で、山城むつみが最も真正面から、ドストエフスキーの作品自体と向き合っていると感じました。

ひとつ、山城流の読み解き方を具体的にご紹介しましょう。
イワンがアリョーシャに向かって語った物語詩「大審問官」の場面です。わたしは以前、この物語詩に着目して記事を書きましたが、山城は物語詩自体ではなく、イワンがどんな顔で語っているかに注目するのです。

イワンの長広舌において焦点を置くべきポイントは、イワンが何を喋っているかではない。それを彼がどんな顔で喋っているかなのだ。語られている理論よりも、それを語っているイワンがどういう人間なのかに注目して耳を傾けるべきなのだ。(山城むつみ『ドストエフスキー』Kindle版より、以下同)

「大審問官」は、十六世紀のスペインに再臨したイエス・キリストに対して、老枢機卿が「三つの誘惑」について論じ、イエスを拒絶する物語詩です。キリスト教における自由意志、良心の自由を問う寓話的な風刺が語られています。
しかし、この物語詩の内容には一切言及せず、「だが、イワンの奇妙な表情に注目してしまった以上もはやこれを哲学的神学的に分析する気はしない」という山城の言葉に、わたしは心底驚きました。

「大審問官」を語り出す直前、イワンは何の罪も無いのに虐待され、苦しめられる子供たちの事件についてアリョーシャに語り、「神が創った世界を認めない」とまで言います。
しかし山城は、この種の事件を手帳に書き留めて蒐集していること自体が嗜虐的であると断じるのです。
たしかにそう言われてみると、この世界の不条理を告発するのであれば、不慮の事故や不治の難病がたまたま降りかかってきた子供たちの苦しみを引き合いに出すのでもよかったのですよね。
そのような確率的災難には一切触れず、虐待されている子供たちの苦しみばかり語るのは、幼児虐待者の「嗜虐的な愉楽」をイワン自身も感じているからだ、と山城は論じます。

イワンの顔が苦しみでゆがむのは、「嗜虐的な愉楽」を感じる自己と「悲しみに引き裂かれる」自己との間で分裂しつつあったから。この自己分裂が悪化して、後の悪魔とイワンの対話の場面につながる、と山城は読み解きます。

山城によれば、イワン自身の中にいる悪魔は、「善良な弱者の顔に恥辱と苦しみをなすりつけることから生まれるあの不条理な享楽の化身」です。
イワンに幼児虐待事件や「大審問官」を語らせているのは、イワンの中の悪魔なのです。
そして、イワンの中に悪魔がいたように、ドミートリィの中にも悪魔がいます。

カチェリーナが公金を横領した父親のために自分を犠牲に捧げようとして、一人でドミートリィの部屋を訪れた時、彼は五千ルーブリの五分利付き無記名債権を彼女に渡して、そのまま部屋から送り出しました。
高慢なカチェリーナはこの施しを受け取った後、「額が地につくようなロシア式のお辞儀」をして、彼のもとを去ります。
ドミートリィの施しは、一見高潔に見えますが、彼女に性的関係を強要する以上の嗜虐的な快楽を得たはずだ、と山城は論じます。

彼の意識にとって常に死角に隠れ続けるのは、むしろ高潔な贈与という外見のもと になされたあの嗜虐的な淫蕩なのだ。父殺しに関して何の罪もなく、したがって何ら罪責感を覚えていないにもかかわらず、彼が裁判で有罪の判決を受け入れようとするのも、カチェリーナに対するこの 嗜虐的贈与に伴う精神的淫蕩に関して根源的な罪を感じるからだ。

え、そうなの!? と、この読み解きにわたしは再び驚きました。
イワンを苦しめている嗜虐性と同じか、それ以上にむごたらしい嗜虐性をドミートリィは隠していたのだと言うのです。
善良な人間を虐待し辱めることから「ばかげた快楽」が生まれるのはなぜなのか。
もし本当にこの世界が神によって創られたのなら、神はなぜこんな「ばかげた快楽」を許しているのか。
「大審問官」を通して語ったイワンの問いかけと同じ問いを、作中でドミートリィは次のように語っています。

言ってくれよ。焼き出されの母親たちが立っているのはなぜなんだ、みんなが貧しいのはなぜなんだ、ややこがみじめなのはなぜなんだ、曠野が荒れはてているのはなぜなんだ……

山城は、永遠に手の届かない「未完のカラマーゾフ」を追い求めるではなく、目の前にある物語を完成品として向き合っています。
その作品に対する誠実な眼差しを、わたしも見習いたいと思いました。
山城は、わたしたち読者が見落としていたさまざまな手がかりを教えてくれます。
ただし心に留めておきたいのは、山城の読み解きが唯一絶対の「正しい」解釈ではないということです。

読者が作品を読み解く手がかりは、作家の日記や手紙を繙くまでもなく、作家自身によって物語中に書き込まれているのです。
本書を読んで、もう一度『カラマーゾフの兄弟』を読みたくなりました。読むたびに新しい発見がある奥深さこそが、ドストエフスキーの文学の魅力ですね。