2008/07/27

サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)
ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 460
  • 発売日: 1986/01

サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳)を読了しました。
『復活』のあとに、『ナイン・ストーリーズ』を読んだので、ギャップがすっごく大きくて、1940~50年代のアメリカ文化に慣れるのにしばらく時間がかかりました。

収録作品は、「バナナフィッシュにうってつけの日」、「コネティカットのひょこひょこおじさん」、「対エスキモー戦争の前夜 」、「笑い男」、「小舟のほとりで」、「エズミに捧ぐ」、「愛らしき口もと目は緑」、「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」、「テディ」という9つの短編です。

やっぱりサリンジャーを読むのは、夏にかぎります。
『ナイン・ストーリーズ』を読んで、モンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」(1924-43)をイメージしました。
乾いていて歯切れがよく、活気がある都会のリズム。

◇◇◇

サリンジャーは、子どもを描くのが、ほんとうに上手い作家だなぁと思いました。
「コネティカットのひょこひょこおじさん」、「小舟のほとりで」、「笑い男」、「テディ」など、すばらしいですね。
子どもたちの痛々しいまでの純粋さ、感受性の強さが生き生きと表現されています。

ラモーナはベッドのぎりぎりの端っこに寄って眠っていた。右のお尻が外にはみ出している。眼鏡はきちんと畳んで、ドナルド・ダッグの絵のついたかわいいナイト・テーブルの上に、つるを下にして置いてあった。
「ラモーナったら!」
娘ははっと息をのんで目を覚ました。そして、パッチリと目を開けたが、とたんにそれを細くしかめながら「ママ?」
「あんた、ジミー・ジメリーノは車に轢かれて死んじまったって言ったでしょ」
「なあに?」
「とぼけたってだめ。どうしてこんな端っこに寝るの?」
「だって、ミッキーが痛くすると困るんだもん」
「誰ですって?」
「ミッキーよ」ラモーナは鼻をこすりながらそう言った「ミッキー・ミケラーノ」
エロイーズは思わず悲鳴に近い甲高い声で「ベッドの真ん中でお寝みなさい。さあ、早く」
ラモーナは、すっかりおびえきって、ただエロイーズを見上げているばかりである。
(サリンジャー「コネティカットのひょこひょこおじさん」)

ところで、サリンジャーの文章は、言葉遊びがとても多いですね。
野崎訳は、名文だと思いますけれど、
この言葉遊びの多さは、訳出するのがさぞ大変だったでしょう。
苦心のあとがみられます。

「コネティカットのひょこひょこおじさん」に登場する、ジミー・ジメリーノとかミッキー・ミケリーノという名前も、言葉遊びが面白いですよね。
ゴーゴリの『外套』に出てくるアカーキイ・アカーキエヴィチみたいです。
なんて笑える名前でしょう。
ゴーゴリ作品も、言葉遊びのオンパレードですね。



読了日:2008年7月26日

「炎のアンダルシア」(ヨーセフ・シャヒーン監督)

炎のアンダルシア [DVD]
炎のアンダルシア [DVD]
  • 発売元: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2003/10/25

ヨーセフ・シャヒーン監督「炎のアンダルシア」(1997年、原題 المصير)を観ました。
原題は、アラビア語で「運命」を意味する「アル・マスィール」。
エジプト映画界の巨匠ヨーセフ・シャヒーン監督の、壮大な歴史ロマンです。
カンヌ映画祭第50回記念特別賞を受賞し、「心のパルムドール」と賞賛されました。

舞台は12世紀、世界の文化の都アンダルシア。
ムワッヒド朝第3代カリフ、マンスールの権力転覆を企てる原理主義セクトの陰謀で、哲学者アヴェロエス(アラブ名イブン・ルシュド)の思想が焚処刑にされていきます。

  • アヴェロエスの本を救おうとする弟子たちの奮闘
  • アヴェロエスを敬愛する兄王子ナセルと、アヴェロエスの娘サルマの恋
  • 弟王子アブダッラーと酒場で働くサラの身分違いの恋
  • サラの姉マヌエラとその夫マルワーンの、アブダッラーを息子のように思う愛情
  • 原理主義者セクトと、それを背後で操る富豪のシェイフ・リヤードの大きな陰謀

このように複数の物語が同時に進行して、繁栄を享受していた時代のイスラーム社会の「イントレランス」(不寛容)を描き出しています。

◇◇◇

作品の中でアブダッラーは、原理主義セクトに洗脳され、人格が豹変します。
アブダッラーの豹変に悲しむサラでしたが、マヌエラとマルワーンは、アブダッラーに人間の心を取り戻そうと、励ますのです。

映画に登場する原理主義セクトは、明らかに現代のイスラム原理主義組織がモチーフとして表現されていますが、実際にムワッヒド朝にそのようなセクトが実在したわけではないようです。
シャヒーン監督は、歌や踊り、飲酒、化粧、男女が街中を一緒に出歩くことなどを厳しく取り締まり、ユダヤ教徒やアヴェロエスのような思想家を弾圧したマンスール治世のムワッヒド朝を、現在の宗教的過激主義と重ね合わせているのでしょう。

「思想には翼がある。その羽ばたきは誰にも止められない」というシャヒーン監督のメッセージは、イスラム原理主義だけではなく、人間の尊厳を奪うあらゆるイントレランスに対して、批判の眼差しを向けているのだと思います。
ここには限りなく普遍的な、シャヒーン監督のヒューマニズムがあるのです。



鑑賞日:2008年6月19日

2008/07/26

「生きる」(黒澤明監督)

生きる [Blu-ray]
生きる [Blu-ray]
  • 発売元: 東宝
  • 発売日: 2009/12/18

黒澤明監督「生きる」(1952年)を観ました。
製作当時、黒澤監督は42歳。
日本が戦後の混乱期を終え、高度成長期へと入っていった時代の作品です。
ベルリン映画祭で銀熊賞を受賞しています。


『生きる』は、「死」から「生」への再生のドラマです。
「いすを守るだけの人生」を送ってきた市役所の市民課長渡辺は、ある日突然、自分が胃がんであと半年しか生きられないだろうということを知ります。
これまでの人生で、「生きた時間」がなかった彼は、役所を無断欠勤し、生の意味を求めて夜の歓楽街をさまよいますが、歓楽街をいくらめぐっても、彼の心の空白は埋まらず、彼の彷徨はつづきます。

市役所にいると退屈で死にそうだと辞職願を持ってきた、部下の若い女性職員、とよ。
渡辺は、生き生きとした生命感のあふれるような彼女に強く惹かれ、食堂へ行き、スケートで一緒に滑り、公園へ、映画館へ彼女を連れまわします。
滑稽にすら見える彼の行動は、彼自身にとっては真剣そのものでした。
嫌がるとよに頼み込み、最後に喫茶店で会ったとき、渡辺は自分の死期が近いことを告げ、どうしたら君のように生きられるのか教えてくれと迫ります。
とよは驚き、答えに困りながらも、風呂敷から自分で作ったうさぎのおもちゃを取り出し、ネジを巻いてみせます。
彼女はおもちゃを製造する町工場に転職していたのでした。
「こんなもんでも、作ってると楽しいわよ。私、これ作り出してから日本中の赤ん坊と仲良しになったような気がするのよ。課長さんもなにか作って見たら...」
渡辺は、かたかたと動くうさぎをじっと見つめます。
その、鬼気迫る異様な眼。
その時、渡辺の表情が急に変り、「いや...遅くはない...いや...無理じゃない...あすこでも...やればできる...ただ...やる気になれば...」
渡辺はうさぎをつかむと、よろめきながら出て行きます。
彼はまさにこの瞬間、生まれ変わったのでした。

二人の背景には、誕生パーティを準備する学生たちのにぎやかな光景が置かれています。
出ていく渡辺が階段を降りるのとすれ違いに、祝ってもらう少女が上がってきます。
階段の上から学生たちがいっせいに、「ハッピー・バースディー・トゥー・ユー」と歌いだします。
その歌声はまるで、生まれ変わった渡辺の、新しい誕生を祝う歌のように響くのです。
なんて象徴的で優れた演出でしょう。
自分の人生を歩き始めた渡辺は、住民から陳情されたまま放置されていた公園の建設に、残された一生をかけるのです。

◇◇◇

『生きる』は、わたしが初めて観た黒澤映画です。
今まで観た日本映画の中で、最高の名作だと思いました。
苦悩する「小さな人間」である渡辺が、死を目前にして、「他者のために生きること」に、生の意味を見出すというところが、一番心に響きました。

同じ時期に読んだ、トルストイの『イワン・イリイチの死』は、透きとおった何かきれいなもので、心が浄化されるように感じました。
映画「生きる」は、濁っているけれど、あたたかくて、やわらかいもので、心がいっぱいになりました。



鑑賞日:2008年5月24日

2008/07/25

コンラッド「闇の奥」

闇の奥 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1958/1/25


コンラッド『闇の奥』(Heart of Darkness,1902)を読了しました。
『闇の奥』は、彼が河蒸気船の船長として、1890年6月12日から12月4日まで、ベルギー領コンゴに滞在した体験に基づいて書かれている、自伝的小説です。
コンラッドが所属していた「奥コンゴ貿易会社」は、奥地開発を名目として、象牙採集で原住民たちを搾取する会社であったことは、作品にある通りです。
彼が初めて目にしたアフリカ奥地の真実は、船乗りコンラッドを殺して、植民地事業の実体を告発する作家としてのコンラッドを生みました。
コンゴ最奥地の密林でマーロウ、すなわち作者コンラッドが見た「闇の奥」(Heart of Darkness)とは何だったのでしょうか?


1.植民地事業という「闇」


マーロウにとって、はじめ「闇の奥」は、文明の光がさしていない、暗黒大陸アフリカの奥地を意味していました。
彼は、そのアフリカ大陸を蛇にたとえます。そして蛇に魅入られた小鳥のように、アフリカ行きを望むのです。

とぐろを解いた大蛇にも似て、頭は深く海に入り、胴体は遠く広大な大陸に曲線を描いて横たわっている。そして尻尾は遥かに奥地の底に姿を消しているのだ。とある商店の飾窓に、その地図を見た瞬間から、ちょうどあの蛇に魅入られた小鳥のように、―そうだ、愚かな小鳥だ、僕の心は完全に魅せられてしまった。
(コンラッド『闇の奥』中野好夫訳、以下同)

しかし、アフリカに到着して、マーロウの抱いていた夢は、急速に悪夢の色を帯びはじめます。

まるで過熱した墓穴を思わせるような、沈黙と土臭のする大気、侵入者を拒もうという大自然の意志のように、危険な渚の涯しなくつづく索漠たる海岸、生きながら死相を湛えた大気の流れ、―それらの到るところで、死と貿易との陽気な舞踏がつづけられているのだった。

そして、マーロウが河口の出張所で目にするものは、原住民を酷使する非能率な白人たちの姿でした。
鉄道敷設の工事をやっているらしいトロッコは、まるで「動物の死骸」のように横たわり、レールは錆びついて放り出されています。
痩せ衰えた6人の黒人が首に鉄の枷をはめられ、よろめきながら歩いています。木陰を歩くと、「病苦と飢餓との黒い影」すなわち瀕死の黒人たちが雑然と転がっています。
森は、彼らの「死を待つところ」だったのです。
マーロウは、「まるで暗澹たる地獄にでも飛び込んだような気がした」と語ります。
マーロウは黒人たちを、単なる搾取の対象と見なしてはいなかったのでしょう。
鉄枷をはめられた黒人たちを目撃して、彼は「この人間どもを、どう考えてみても、敵だとは言えまい。」と感じます。
マーロウは、白人によって、「海岸のあらゆる僻陬から連れて来られ、不健康な環境、慣れない食物に蝕まれ、やがて病に仆れて働けなく」なるまで酷使される黒人の惨状、すなわち植民地化の実体を目の当たりにするのです。

植民地事業の理念とは、商業を活発化し、産業を起こし、進歩をもたらし、蛮族を教化するという大義です。
しかし、果たして本当に白人たちは、そのような文明化の使命に燃えてアフリカへ向かったのでしょうか。
「もちろん金儲けのためさ。どう、いけないかい?」と、マーロウと中央出張所への旅路をともにした白人は、いかにも侮蔑するように答えます。
中央出張所の白人たちは、まるで象牙に向かって祈ってでもいるかのような「破戒無慙の巡礼」であり、「その祈りの中には、あたかもあの死屍から発する腐臭にも似た、愚かな貪婪の臭い」がただよっていました。
マーロウは、あらゆる白人たちが押し込み強盗のように、理想も持たず、貪欲さに支配されていることを知るのです。

このように、植民地事業は、原住民を教化する大儀の下で、実は象牙という物質的利益を得ようとする事業でした。
「闇の奥」という言葉は、前述の通り、アフリカ出発前はマーロウにとってアフリカの奥地を意味していました。
しかしアフリカに到着し、植民地事業の理念と現実との大きな隔たりを目撃した時、「闇」は、植民地事業そのものを意味するようになったと思います。
この言葉は、政治的な広がりを持ちはじめたと言えるでしょう。


2.「闇の奥」-クルツを変貌させた「闇」


マーロウは、病気のクルツを収容するため、河蒸気船に乗って最奥地の出張所へ旅立ちます。すなわち、「闇の入り口」から「闇の奥」への旅を始めるのです。
マーロウは、「地上には植物の氾濫があり、巨木がそれらの王者であった原始の世界へと帰って行く思い」であると語り、奥地へ向かう自分たちを「先史時代の地球、そうだ、まだ未知の遊星という相貌を残していた地球上の放浪者」であると見なしています。
河蒸気船が一歩一歩、深く奥地へ進むにつれて、マーロウの言葉には原始性を暗示させるものがしだいに表れ始めます。
そして、何百万の樹々に囲まれ、「人間の卑小さ」をひしひしと感じるのです。
そうした意識の芽生えはマーロウに、飢えに苛まれながら汗して働く黒人たちと、文明開化の炉火を掲げてやってきた白人たちとが、同じ人間であることを強く認識させます。

彼等は唸り、跳ねり、旋廻し、そして凄まじい形相をする。―だが、僕等のもっとも慄然となるのは―僕らと同様―彼らもまた人間だということ、そして僕自身と、あの狂暴な叫びとの間には、遥かながらもはっきりと血縁があるということを考えた時だった。

「闇の奥」を訪れたマーロウが目撃したのは、文明の使者から原住民たちの神へと変貌した、クルツの姿でした。クルツは、彼自身が「蛮習抑制国際協会」のための報告書に記しているように、

僕等白人が、現在到達している文明の高さから考えて、「彼等(蛮人)の眼に超自然的存在として映るのはやむをえない、―吾々はあたかも神の如き力をもって彼等に接するのである」(同上)

文明の力によって湖沼地帯の原住民部族を打ち従え、彼等に崇められる支配者となったのです。本来のクルツは、「非常に非凡な人物」でした。
彼は、文明社会のあらゆる美徳を身につけており、文明化の理想に燃えて、コンゴ奥地の貿易支部を熱心に志願したのでした。なぜ教養ある文明人である彼が、原住民を支配する神、すなわち象牙略奪の悪魔として、その地方一体を荒らしまわったのでしょうか。
わたしは、クルツが全身を浸していた西欧文化こそが、彼の変貌の根底にあると考えます。
原住民たちを支配し、神として野蛮の権化と化したクルツは、それを可能にする原住民たちへの憎悪と、常に同居していたと言えます。
前述の報告書の最後に付け加えた、「よろしく彼等野獣を根絶せよ!」という言葉から明らかです。
これは、決して彼の性格に起因するものではありません。
彼が受けてきた教育の成果なのです。
西欧の文明化をもたらした啓蒙思想は、理性と教養ある市民のみを人間とみなすものと言えます。
それゆえ、人間の枠に入れられることがなかった二級市民としての貧困層や女性、そして何より植民地の原住民たちへの搾取を正当化しました。
わたしは、こうした差別の思想がクルツの原住民に対する憎悪を増長させ、彼の支配と抑圧を思想的に正当化したと思います。

すなわち、クルツが象牙への際限のない欲望に身を委ね、自分に逆らった原住民たちの首を柱の先にのせて並べる悪魔と化したのは、人間を人間と見なさない差別の思想が根本にあったと言えるのではないでしょうか。
植民地事業が「闇の入り口」であるとするならば、闇の奥へ深く入っていったマーロウが発見した「闇の奥」は、文明化の思想の根底にある、深刻な差別意識だったと言えるでしょう。


3.おわりに


クルツと同じ旅路を辿ったマーロウは、しだいに黒人たちを支配の対象としてではなく、同じ人間として親近感すら抱くようになります。
彼は、クルツのような多くの白人にとっては「サハラ砂漠の砂一粒ほどの値もない」黒人の舵手の死を悼み、非常な悲しみを感じるのです。

あの彼が傷を負った時、じっと僕の顔を見た底知れぬ親愛に満ちた表情は、―いわば人生至上の瞬間に突如として確認される遥かな肉親の繋がりのように―いまなお僕の記憶にはっきり残っている。

この点において、クルツとマーロウは大きく異なると言えます。
原始の闇に包まれ、孤独と恐怖にさいなまれた二人は、全く異なる人間観を抱くに至りました。理性と教養を兼ね備えたクルツではなく、
根っからの船乗りであるマーロウが、植民地事業に対する疑問や、黒人に対する愛着を、直観的に見出すのです。
これは、きわめて暗示的です。


コンラッドは、『闇の奥』を通して、文明開化を唱えながら物質的利益獲得のためには、原住民を搾取する植民地主義を批判しているだけではありません。
たとえクルツのような、文明社会の理想に対するひたむきな姿勢があったとしても、搾取と抑圧の構造をもたらすことを指摘していると思います。
言い換えれば、文明開化の理念そのものを、告発しているのです。
そして、理性と教養の限界性を告発し、人間性の回復を図る担い手となるのが、「生ける人間」としての労働者であることを、暗示しているのではないでしょうか。




読了日:2007年2月18日

2008/07/24

トルストイ「復活」(下巻)

復活〈下〉 (新潮文庫)
復活〈下〉 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 660
  • 発売日: 2004/12

★トルストイ「復活」(上巻)

トルスイ『復活』、下巻を読了しました。

『復活』は、"「淪落の女」を救い出す"恋物語の系譜だと思います。
しかし、刑務所とそこで生きる囚人たちを徹底して写実し、裁判制度や貴族の土地所有制度など、犯罪を生む貧困の構造をつくっている社会体制に、批判の眼差しを向けているのは、他の"「淪落の女」を救い出す"恋物語にはない試みです。

今回、メロドラマの背景にあるトルストイ主義を、色濃く感じました。
すごく、「転回」後のトルストイらしい作品です。


"「淪落の女」を救い出す"というテーマは、19世紀のロシア文学の流行でした。
男性が自己を犠牲にして女性に尽くすことは、当時の知識人の間では、理想の恋とされていたようです。

売春婦に恋をして、彼女を奈落から救い出そうと献身的に尽くす男性の愛は、ほんどんどが報われずに、拒絶されてしまうんですよね。
そういう意味では、悲恋物語です。
ペテルブルグのような20万都市に、3~4万人もの売春婦がいたという悲惨な現実を、やっぱり反映していたのでしょう。


読了日:下巻 2008年7月22日

2008/07/15

トルストイ「復活」(上巻)

復活 (上巻) (新潮文庫)
復活 (上巻) (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 660
  • 発売日: 2004/10

トルストイ『復活』(1889-99年)、上巻を読了しました。
新潮文庫の木村浩訳です。

『戦争と平和』を読んだあとに、最後の長編である『復活』を再読すると、
トルストイの、作家としての成熟がよく分かる気がします。
上巻は、トルストイお得意の生き生きとした貴族社会の描写が、ほとんどありません。刑務所の劣悪すぎる環境と、悲惨で滑稽で、それでいて愛おしい女囚たちの生が、描かれています。

◇◇◇

トルストイの人間観察眼の鋭さに、今回あらためて気づかされたので、引用します。

 ふつう世間では、泥棒とか、人殺しとか、スパイとか、売春婦などというものは、自分の職業をよくないものと認めて、それを恥じているにちがいない、と考えがちである。ところが実際はまったくその逆なのである。世間の人びとはその運命なり、自分の罪悪や、過失なりによって、ある特定の立場に置かれると、たとえそれがいかに間違ったものであろうとも、自分の立場が立派な尊敬すべきものに見えるように、人生ぜんたいに対する見方を、自分に都合よく作り上げてしまうものなのである。そのような見方を維持するために、人びとは自分の作り上げた人生観なり、人生における自分の位置なりを認めてくれるような仲間たちに本能的にすがりつくのである。われわれにしても、その腕のよさを鼻にかける泥棒とか、淫蕩を自慢する売春婦とか、残忍ぶりを誇る人殺しなどについては、驚きあきれざるをえない。しかし、われわれがあきれるのは、これらの人びとの仲間や雰囲気があまりにも限定されたものであり、われわれ自身がその外に置かれているためである。しかし、自分の富すなわち略奪を誇る金持ちとか、自分の勝利すなわち殺人行為を誇る軍司令官とか、自分の権力すなわち圧政を誇る権力者などの間にも、やはりこれと同じ現象が生まれているのではないだろうか? われわれはこれらの人びとの中に、自分の立場を正当化するために、人生観や善悪の観念の歪曲を見出さないのは、そのような歪曲された観念をもつ人びとがはるかに多数をしめ、しかもわれわれ自身がそれに属しているからにすぎないのである。
(トルストイ『復活 上』木村浩訳、新潮文庫)


自己肯定できるような人生観や人間観を作り上げて、それによって自己肯定する犯罪者たちのメンタリティに、まず驚かされました。
そして、このようなメンタリティが、金持ちや軍司令官や権力者といった社会の多数派の人びとにも当てはまり、さらに悪いことに彼らが多数派であため、彼らの人生観や人間観が、主流(正統)なものとされるという指摘には、ほんとうに学ばされました。


トルストイは、情景描写や人物描写がすばらしく上手い作家です。貴族も農民も兵卒も仕官も役人も、囚人たちでさえ、いま息をしているかのようなリアルさがあります。
でも、トルストイの描写力のもっともすばらしいところは、目に見える表層部分だけでなく、人間の内面の奥深いところ、その精神的特徴までつかみとって、活写しているところなのだと、今回あらためて思いました。


読了日:上巻 2008年7月14日

★トルストイ「復活」(下巻)

2008/07/10

関口和男「環境問題・哲学・科学-環境の哲学の可能性を探る序論その2」を読む


関口和男氏の「環境問題・哲学・科学-環境の哲学(Environmental Philosophy)の可能性を探る序論その2-」(法政大学人間環境学会、2002年)を読みました。構成は以下の通りです。

はじめに
1.環境問題・哲学・科学とは何か?
2.環境問題と哲学
3.環境問題と科学
4.哲学と科学
おわりに

関口氏は第2章において、アルネ・ネスのディープ・エコロジー論とピーター・シンガーの実践の倫理について論じていますが、ここではディープ・エコロジー論についてのみ書きます。

◆◆◆

関口氏は、「ここにおいては、彼の思想の内実を詳細に検討するのではなく、むしろ1973年の論文でのテーゼから、1984年のセッションズとの共同構想を経て翌年(1985年)デュヴァル・セッションズの共著『ディープエコロジー』の中へ明確に仕上げられたテーゼ("platform")への移行がなぜ起こったのか、その理由を中心してディープエコロジーの哲学的な性格を考えてみたい。」と問題提起し、フレア・マシューズの見解を引用して理由づけしています。

関口氏がディープ・エコロジーについて論じるのに参照しているのは、"A Companion to Environmental Philosophy"(edited by Dale Jamieson,2001)に収録されている、フレア・マシューズが執筆した"Deep ecology"です。関口氏が論じている、アルネ・ネスの1973年論文でのテーゼから、1984-85年のplatformへの移行がなぜ起こったのか、という問題提起は、フレア・マシューズが"Deep ecology"の中ですでに詳しく論じています。したがって、関口氏の論文は、フレア・マシューズのディープ・エコロジー論の影響を強く受けていると言えます。
ちなみに、マシューズの"Deep ecology"は、ディープ・エコロジーについての良いまとめになっていると思います。

◆◆◆

関口氏は、ネスの自己実現論を、トマス・ヒル・グリーンの哲学を利用しながら論じ、「グリーンの思想のうちで共通善の概念が果たす役割を、ネスのエコソフィーでは何が果たしているのであろうか。たしかに、ネスは「自己の外への熱愛("fallin in love outward")」なる言葉を使うが、この神秘的、よく言って情緒的観念をもって、抽象概念とすることに、ネスのエコソフィーの哲学的営為としての限界が垣間見られるのである。」と、結論づけています。

この部分に、すごく違和感を覚えました。ネスの著作中で、「自己の外への熱愛("fallin in love outward")」という表現を見た記憶がなかったからです。本当にネスがそう表現しているとすれば、たしかに関口氏が言うように、ネスのエコソフィーは哲学ではなく「賢者の箴言」でしょう。でも、この箇所には注釈が付けられていなかったので、引用元がはっきりしませんでした。本当にネスの発言かどうか気になったので、"Companion"をみてみますと、フレア・マシューズは以下のように表現しています。
Although Naess is careful not to equate self-realization with happiness,in any personal sense thereof,he promises that the joy and meaningfulness of life are increased through increasing self-realization.The conditions under which the self is widened are,he says,experienced as positive and basically joyful;such expansion is akin to "falling in love outward".
(Mathews,Freya."Deep ecology",in Dale Jamieson(ed.),A Companion to Environmental Philosophy,Massachusetts:Blackwell Publishers,2001,pp.218-232.)

関口氏は、おそらくこの箇所から上述の見解を導出しているのでしょう。
しかし、マシューズが言っているのは、<ネスの言う自己実現は、いわゆる "falling in love outward"の状態だよ>ということです。このことから、 "falling in love outward"は、ディープ・エコロジストが自然との一体化を説明する際にしばしば利用する一種の慣用表現で、ネスが直接言っているわけではないのでは?と思いました。

そこで、 "falling in love outward"で調べてみたところ、デヴァルの論文に行き当たりました。
1995年のTrumpeter(ディープ・エコロジーに関する専門誌)に掲載された"Greening our Lifestyles:The Demise Of The Ecology Movement?"です。

The ecosophical poet Robinson Jeffers suggested that,in the post-exuberant era,we learn to "falling in love outward",with the great beingness of life.Lovers who fall in love outward do not "harvest" their love of a forest, a seashore,or nature.
(Devall,Bill."Greening our Lifestyles:The Demise Of The Ecology Movement?",in Trumpeter,Vol 12,No 3,1995)

というわけで、 "falling in love outward"という言葉はロビンソン・ジェファーズが用いた表現だったのですね。
詩人であるロビンソン・ジェファーズであれば、「自己の外への熱愛」という情緒的な表現も理解できます。
また、ロビンソン・ジェファーズの"falling in love outward"という表現は、ジョアンナ・メイシーの『世界は恋人 世界はわたし』と通じる部分があると思います。

1973年に、アルネ・ネスが初めて提唱したディープ・エコロジー論は、多くの人々の共感を呼びました。現在では、アルネ・ネスの思想からインスピレーションを受けて、数多くの詩人や活動家たちが、実際にディープ・エコロジー運動を展開しています。
関口氏の論文を読んで、ディープ・エコロジーについて論じるとき、アルネ・ネス自身が執筆したアルネ・ネス哲学と、アルネ・ネスに共感する思想家・哲学者たちの議論、さらに実際の活動家たちの行動は、厳密に分けて考える必要があると思いました。




2008/07/06

トルストイ「戦争と平和」(4)

戦争と平和〈4〉 (新潮文庫)
戦争と平和〈4〉 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 820
  • 発売日: 2006/02

★トルストイ「戦争と平和」(1)
★トルストイ「戦争と平和」(2)
★トルストイ「戦争と平和」(3)

ついに『戦争と平和』全4巻読了しました。
わたしのいまの感動を、音楽であらわすと、ヘンデルの「祭司ザドク」です。ぴったりです。
というわけで、Zadok the Priestを聴きながら書きましょう。

◇◇◇

4巻は、トルストイの歴史観が雄弁に語られます。
3巻から、少しずつ彼の独創的な歴史解釈が語られているので、引用してみます。

カルル九世によってその命令をあたえられた聖バーソロミュー祭の夜が、彼の意志によって起こったことではなく、それをおこなうことを命令したように彼に錯覚されたにすぎないのだという想定、ボロジノの八万人の殺戮がナポレオンの意志によって起こったものではなく(彼が会戦の開始と進行について命令をあたえた、という事実にもかかわらず)、それを命じたように彼に錯覚されたにすぎないのだという想定、これらの想定が一見していかに奇異に思われようとも、われわれの一人一人が偉大なナポレオンより、人間として以上でないまでも、けっして以下ではない、とわたしに語りかける人間の価値というものが、この解答を認めることを命じるし、歴史上の研究がいくらでもこの想定を裏づけてくれるのである。
(トルストイ『戦争と平和 3』工藤精一郎訳、新潮文庫)

4巻からも、同様のテーゼを引用します。

人類の運動の目的としていずれかの抽象概念を措定したうえで、これらの歴史家たちは、皇帝、大臣、司令官、作家、改革者、法王、ジャーナリストなど、もっとも多くの足跡をのこした人々を、―それらの人々が、彼らの観点から、所定の抽象概念に協力または妨害した度合いに応じて、―研究するのである。しかし、人類の目的が、自由、平等、啓蒙、あるいは文明にあったことが、何によっても証明されていないし、大衆と支配者や人類の啓蒙家との関係が、大衆の意志の総和は常にわれわれの目にたつ人々に移されるものだという恣意的な仮定を基にしているだけなので、住んでいる土地をはなれたり、家を焼いたり、農業を捨てたり、殺しあったりしている数百万の人々の活動が、家も焼かないし、農業も営まないし、自分と同じような人々を殺しもしない、一にぎりの人々の活動の記述に表現されることは、ぜったいにないのである。
(トルストイ『戦争と平和 4』工藤精一郎訳、新潮文庫)

彼の歴史観は、独創的なのかもしれないのですけれど、『戦争と平和』がその思想に基づいて書かれているので、読者としては、読みすすめているうちにその歴史観が自然と身につくというか、上記のように作者があらためて語りを入れなくとも、実感によって理解できます。

最下層の兵卒たちの、なんと生き生きと描かれていることでしょう!
トルストイの歴史観が、ちっとも奇異に感じられません。
そこが、トルストイのすごいところだなぁと思います。


読了日:第4巻 2008年7月6日

2008/07/05

「ベニスに死す」(ルキーノ・ヴィスコンティ監督)

ベニスに死す [DVD]
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  • 発売元: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • レーベル: ワーナー・ホーム・ビデオ
  • 発売日: 2010/04/21

ルキーノ・ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」(1971年、原題 Morte a Venezia)を観ました。
トーマス・マンの同名小説が原作、1976年に死去したヴィスコンティ監督の晩年の名作です。

夏のヴェネツィアへ、転地療養に訪れた作曲家アシェンバッハは、ホテルのサロンで、完璧な美を具現する少年タジオに出会い、一目で心を奪われます。
初老の作曲家が美少年に恋いこがれ、苦悩しながらも、まるで、すいよせられるように「死」へと導かれていく姿が描かれています。


この映画には不吉な「死」の影が、全編にわたってちりばめられています。
ヴェネツィアに到着したばかりの船の中で、アシェンバッハに話しかける、化粧をした醜悪な老人。
彼はタジオとの出会いを予告するかのように、「あなたの可愛い方によろしく」と言います。
あるいはホテルのテラスで演奏する、化粧をした辻音楽師。彼は、わざとアシェンバッハに見せつけるように、彼の前で歌います。それは、「死」の告知を暗示しているのではないでしょうか。
辻音楽師が、一度ホテルの支配人に追い出されても、もう一度戻って演奏する演出は、抗うことが困難な「死」の強さを、意味していると思います。
理髪師が施したアシェンバッハの若返りの化粧も、彼自身は若返って、タジオに愛の告白ができると喜んでいますが、死化粧そのものであり、彼の運命をを「死」へと加速させます。


ヴェネツィアの街も、しだいに「死」の影を色濃くしていきます。
ホテルの優雅なサロンや、バカンスを楽しむ浜辺の情景とは対照的に、もう一つの醜悪な姿が浮き彫りになります。
駅では浮浪者が伝染病で突然たおれ、広場には消毒液の鼻につく異臭、アシェンバッハが通りかかると、物乞いの黒衣の老女が、膝に顔を埋めたまま手を差し出します。
街じゅうの人々が伝染病の蔓延を知りながら、観光客が減ることをおそれて、それをひた隠しにしているのです。
やがて路地のあちこちでは病人の物が焼かれてるようになり、街は薄汚れて荒涼としていきます。
その醜悪な情景こそ、「海の女王」と称えられたヴェネツィアの、退廃し、疲弊した真実の姿かもしれません。
アシェンバッハの老いと共に、滅びゆく都ヴェネツィアも、避けがたい「死」の運命にあるというメッセージでしょうか。

◇◇◇

そして、浜辺でタジオを見つめながら、恍惚としてアシェンバッハは死んでいきます。
その死は、化粧の白粉が汗で溶け、白髪染めが黒い筋となって流れ落ち、冷酷なほど醜悪に描かれています。

わたしは、彼の「死」が耽美的だとは思いません。
煙と煤にまみれて病んだヴェネツィアが、どうしようもなく醜悪なように、ヴィスコンティ監督は、滅びゆくものの美しさを、はっきりと否定しているのだと思います。
アシェンバッハの死の場面は、美しく描こうと思えばいくらでも美しくできたでしょうに、それをしなかったのは、監督に美しく描く意志がそもそも無かったからでは、と思うのです。

ただ、その醜悪さにすら、ヴィスコンティ監督は愛おしさを含んだ眼差しを向けているため、わたしたち観る側に、彼の死を「美しいもの」と錯覚させるのかもしれません。
全編を流れるマーラーの交響曲第5番嬰ハ短調 第4楽章アダージェットの、甘く哀しい旋律が、醜悪な滅びゆくものへの、アンビヴァレントな愛着心を、いっそうかきたてますね。


鑑賞日:2008年4月29日