2008/07/06

トルストイ「戦争と平和」(4)

戦争と平和〈4〉 (新潮文庫)
戦争と平和〈4〉 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 820
  • 発売日: 2006/02

★トルストイ「戦争と平和」(1)
★トルストイ「戦争と平和」(2)
★トルストイ「戦争と平和」(3)

ついに『戦争と平和』全4巻読了しました。
わたしのいまの感動を、音楽であらわすと、ヘンデルの「祭司ザドク」です。ぴったりです。
というわけで、Zadok the Priestを聴きながら書きましょう。

◇◇◇

4巻は、トルストイの歴史観が雄弁に語られます。
3巻から、少しずつ彼の独創的な歴史解釈が語られているので、引用してみます。

カルル九世によってその命令をあたえられた聖バーソロミュー祭の夜が、彼の意志によって起こったことではなく、それをおこなうことを命令したように彼に錯覚されたにすぎないのだという想定、ボロジノの八万人の殺戮がナポレオンの意志によって起こったものではなく(彼が会戦の開始と進行について命令をあたえた、という事実にもかかわらず)、それを命じたように彼に錯覚されたにすぎないのだという想定、これらの想定が一見していかに奇異に思われようとも、われわれの一人一人が偉大なナポレオンより、人間として以上でないまでも、けっして以下ではない、とわたしに語りかける人間の価値というものが、この解答を認めることを命じるし、歴史上の研究がいくらでもこの想定を裏づけてくれるのである。
(トルストイ『戦争と平和 3』工藤精一郎訳、新潮文庫)

4巻からも、同様のテーゼを引用します。

人類の運動の目的としていずれかの抽象概念を措定したうえで、これらの歴史家たちは、皇帝、大臣、司令官、作家、改革者、法王、ジャーナリストなど、もっとも多くの足跡をのこした人々を、―それらの人々が、彼らの観点から、所定の抽象概念に協力または妨害した度合いに応じて、―研究するのである。しかし、人類の目的が、自由、平等、啓蒙、あるいは文明にあったことが、何によっても証明されていないし、大衆と支配者や人類の啓蒙家との関係が、大衆の意志の総和は常にわれわれの目にたつ人々に移されるものだという恣意的な仮定を基にしているだけなので、住んでいる土地をはなれたり、家を焼いたり、農業を捨てたり、殺しあったりしている数百万の人々の活動が、家も焼かないし、農業も営まないし、自分と同じような人々を殺しもしない、一にぎりの人々の活動の記述に表現されることは、ぜったいにないのである。
(トルストイ『戦争と平和 4』工藤精一郎訳、新潮文庫)

彼の歴史観は、独創的なのかもしれないのですけれど、『戦争と平和』がその思想に基づいて書かれているので、読者としては、読みすすめているうちにその歴史観が自然と身につくというか、上記のように作者があらためて語りを入れなくとも、実感によって理解できます。

最下層の兵卒たちの、なんと生き生きと描かれていることでしょう!
トルストイの歴史観が、ちっとも奇異に感じられません。
そこが、トルストイのすごいところだなぁと思います。


読了日:第4巻 2008年7月6日