- 悪について
- 発売元: 紀伊國屋書店
- 価格: ¥ 1,386
- 発売日: 1965/07
エーリッヒ・フロム『悪について』(鈴木重吉訳、紀伊国屋書店、1965年)を読了しました。
Lamiumさんのおすすめです。ありがとうございました。
フロムの著作をはじめて読みました。
すごく分かりやすくて、名著だな~と思いました。
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悪に向かう人間の性向(=人間に内在する悪の可能性)を、フロムは次のように三つの現象から説明します。
- a 「ネクロフィリア」(死を愛好すること)
- b ナルチシズム
- c 近親相姦的固着
「衰退の症候群」に対立するものとして、「生長の症候群」があります。
- a' 「バイオフィリア」(生への愛)
- b' 人間への愛
- c' 独立性
この二つの症候群の生の方向 / 死の方向が、すなわち善の方向 / 悪の方向と言えます。
フロムは、「衰退の症候群」の極端な例として、フロムはヒトラーとスターリンをたびたび登場させます。
暴力、憎悪、人種差別、民族主義などに陥る人々は、この症候群に罹っているのであり、愛国心、義務、名誉といったもので自分を合理化しようとします。
図示されている通り、いわゆる悪の方向へ進むか善の方向へ進むかは、「ネクロフィリア」-「バイオフィリア」、ナルチシズム-人間への愛、近親相姦的固着-独立・自由の三つのバランスによるのです。
完全にバイオフィラスな人間は聖人と呼ばれるでしょうし、完全にネクロフィラスな人間は狂人とみなされるでしょう。
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フロムの説明は簡潔ですけれど、とても説得力がありますよね。
印象に残った箇所をいくつか引用しておきます。
殺しは最も原初的な水準で、非常な興奮となり大きな自己確認となる。逆に殺されることは、殺すことに対する論理的な二者択一にすぎない。これが原初的な意味での生の均衡なのである。すなわちできるだけ多く殺すことであり、そして一人の生がこうして血に飽くとき、その人は殺される用意ができたことになる。この意味において、殺すことは本質的には死を愛好することではない。最も深い退行の水準で、生を確認し超越することなのである。(pp.32f.)
私が述べようとしてきたことは、母親とのきずなは、母の愛に対する願望も、母の破壊性に対する恐れも、ともに、フロイトが性的欲求に基づくと考えた「エディプス的きずな」よりもはるかに強度で、かつ根源的なものであるということである。(pp.137f.)
無節操で硬化した人間としてその生涯を終始した殆どの人は、ヒットラーやスターリンの部下のような場合でさえも、善人となりうるチャンスをもってその生をスタートしたのだ。かれらの生涯を詳細に分析すれば、それぞれの各時点における心の硬化度はどの程度か、そしてまた人間らしくあり得た最後のチャンスがいつ失われたのかがわかるかもしれない。それとは全く逆の光景もまた見られるのであって、最後の勝利が次の勝利を容易にし、遂には正しいものを選択するための努力は不要になる。
以上あげた例は、大抵の人が生きる技術に失敗するのは、かれらが生まれつき悪であるとか、よりよい生活を営む意志を持たないからではなくて、かれらが覚醒することなく、いつ岐れ道にさしかかり決定すべきかを見通し得ないからであるといことを示している。(pp.187)
フロムがa、b、c、を説明する際に言及していたG.フロベール『聖ジュリアン伝』と、リチャード・ヒューズ『屋根裏部屋の狐』も、読んでみたいなぁと思いました。
読了日:2008年8月23日