2017/07/24

イネストラ・キング「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」

世界を織りなおす―エコフェミニズムの開花
世界を織りなおす―エコフェミニズムの開花
  • 発売元: 學藝書林
  • 発売日: 1994/03

『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』とは?


アイリーン・ダイアモンド/グロリア・フェマン・オレンスタイン編『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』奥田暁子/近藤和子訳、学芸書林、1994年)を読みました。
『世界を織りなおす』は、1987年3月に南カリフォルニア大学で開催された、カリフォルニア人文科学委員会主催の「エコフェミニストの視点―文化・自然・理論」会議で発表された論文やエッセイが収録されています。
編者であるアイリーン・ダイアモンドは、オレゴン大学で教え、地元の緑の政治やエコフェミニストの教育活動などに参加しているとのことです。リー・クインビーとの共編著書『フェミニズムとフーコー―抵抗に関する省察』を出版。
同じく編者のグロリア・F・オレンスタインは、南カリフォルニア大学社会女性男性研究プログラムで教えているとのこと。著書に『女神の再開花』、『怪異の演劇―シュールレアリスムと現代劇』。「ニューヨーク市文学女性サロン」を共同主宰。

序論において、「エコフェミニズム」とは、「地球を救おうとする女たちの多様な行動」を表現する言葉であり、「女と自然についての新しい見方から影響を受けた欧米のフェミニズム」を表現する言葉でもある、と定義されています。

エコフェミニズムは地球を救おうとする女たちの多様な行動を表すために使われることばであるとともに、女と自然についての新しい見方から影響を受けた欧米のフェミニズムをあらわすために使われることばである。(『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』、序論、15頁)

このエコフェミニズムの源流として、自然の汚染と悪化に抗議した、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962年)が紹介されており、カーソン自身はフェミニストを自認していませんでしたが、1970年の「地球の日」(アース・デー)運動につながる環境運動を先導しました。
そのため、エコフェミニズムは「まず最初に社会運動であり、思想でもある」と言われています。

「男が文化であれば、女は自然である」という伝統的な公式に代わるものを見つけようとしてきたフェミニストは、公的世界である市場に女性が入っていくことを求めるよりも根本的な意識の転換を求めて、自然対文化の二元論そのものを問い始めた。これらの活動家、理論家、芸術家たちは、世話をすることや育てることの価値を尊重する新しい文化を意識的に創りだそうとしてきた。この新しい文化は、文化よりも自然を、男よりも女を上位におくことによって二元論を永続化しよう、というのではない。そうではなく、地球上のすべての人が生態系と生命のサイクルのなかで生きていることを肯定し、祝福するのである。(序論、17頁)

序論によれば、エコフェミニズムには、「三つの思想の流れ」が生まれています。

①地球それ自体が聖なるものであり、地球上の森、川、さまざまな生物はそれ自体に価値があると強調する立場。
→抽象的な「地球全体」は個々の生物の特定のいのちより優先されるという立場ではない。

②社会的正義は地球の幸福と無関係に達成することはできない。
→わたしたちの生存と幸福が地球の生存と幸福に直接結びついているため。

③生まれた土地との結びつきが自己の存在とアイデンティティに非常に重要な意味を持つ、という先住民の視点から見る立場。
→地球がそれ自体価値をもっていることと、わたしたちが地球に依存していることは両方とも真実であると考える。

これら①~③の立場に沿って、『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』は、三部に分かれて構成されています。

①第一部「歴史と神秘」
  • シャーリーン・スプレトナク「エコフェミニズム」
  • ブライアン・スウィム「ロボトミーの癒し方」
  • リーアン・アイスラー「ガイアの伝統と共生の未来―エコフェニスト宣言」
  • サリー・アボット「子羊の血としての神の起源」
  • マラ・イン・ケラー「エレウシウスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」
  • ポーラ・ガン・アレン「わたしが愛する女性は地球、わたしが愛する地球は樹木」
  • キャロル・P・クリスト「神学と自然を再考する」

第一部「歴史と神秘」では、「大地を神聖なものとして崇拝していた古代の女神文化を語る神話やシンボル」や、「先住民文化のシンボルや習慣」からインスピレーションを受けた論文やエッセイを収録しています。
古代の家父長制以前の歴史に戻り、エコフェミニズムの視点から、いくつかの神話の読み替え(再話と再構成)することで、「地球とともに生きる新しい文化」について提案しています。


②第ニ部「世界を織りなおす―政治と倫理の新しい関係」
  • スターホーク「権力・権威・神秘―エコフェミニズムと地球にもとづく霊性」
  • スーザン・グリフィン「道にそったカーブ」
  • キャロリン・マーチャント「エコフェミニズムとフェミニズム理論」
  • イネストラ・キング「傷を癒す―フェミニズム、エコロジー、自然-文化二元論」
  • リー・クインビー「エコフェミニズムと抵抗の政治」
  • マーチ・キール「エコフェミニズムとディープ(深層)・エコロジー―類似点と相違点についての考察」
  • マイケル・E・ジンマーマン「ディープ・エコロジーとエコフェミニズム―対話を求めて」
  • ジュディス・プラント「共通基盤を求めて―エコフェミニズムと生命圏地域主義」

第ニ部では、エコフェミニズムの政治学と倫理学について、詳しく論じられています。
第三世界では、毎日の生活に必要な水、燃料、飼料を集めるために何マイルも歩かなければならない女性にとって、水や土地や森を維持し保護しようとする行動は、必然的に「環境闘争」と言えます。
リー・クインビーはミシェル・フーコーの理論を使って、エコフェミニズムを「抵抗の政治」として検討しています。
キャロリン・マーチャントとイネストラ・キングは、リベラル・フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、社会主義フェミニズムのいずれもが、エコフェミニストの視点に貢献してきたことを論じ、それぞれのフェミニズムにおける、人間と自然の関係、自然に対する姿勢をより深く掘り下げています。
マーチ・キールとマイケル・ジンマーマンは、エコフェミニズムとディープ・エコロジーの相違点・類似点を論じています。


③第三部「わたしたちを癒し、地球を癒す」
  • アリシカ・ラザク「出産についてのウーマニストの分析」
  • リン・ネルソン「汚染された地での女性の居場所」
  • ヴァンダナ・シヴァ「西欧家父長制の新しいプロジェクトとしての開発」
  • アイリーン・ダイアモンド「胎児、先端医療技術専門家、汚染された地球」
  • アイリーン・ジェイヴォアス「都市の女神」
  • シンシア・ハミルトン「女性、家庭、地域社会―都市の環境を守るたたかい」
  • ジュリア・スコフィールド・ラッセル「エコフェミニストの誕生」
  • レイチェル・L・バグビィ「のびゆくものの娘たち」
  • キャサリン・ケラー「世界の浪費に反対する女たち―終末論とエコロジーに関する覚え書」
  • ヤーコブ・ジェローム・ガーブ「眺望、それとも逃避? 現代的地球像に関するエコフェミニストの黙想」
  • グロリア・F・オレンスタイン「癒しの芸術家―いのちを産む文化をめざして」

第三部は、「出産」や「生殖の産業化」など、今日の具体的な諸問題を分析し、「いのちの尊厳と幸福」を回復するための努力を提示しています。


第一部~第三部までの「三つの思想の流れ」があることは、エコフェミニズムが「一枚岩の、均質的なイデオロギーではない」ことを意味しています。
本書では、エコフェミニズムの「多様で多文化的なビジョン」を共有するため、学者や科学者による学問的な論文だけでなく、詩人、小説家、環境保護の活動家、宗教家らの書いた感情豊かな詩やエッセイをともに収録し、ジャンルによる区分を越えた構成となっています。

地球の荒廃と女性の搾取を結びつけた詩や儀式や社会活動を通じて、活動家たちはフェミニズムと社会の変革活動をともに活性化したのである。彼女たちがつくりだしたことばは、これまでのカテゴリーの領域を越えている。これらのことばは、理性と感情、思考と経験とのあいだには、生きたつながりがあることを認めた。このつながりのなかには、さまざまな人種の女や男だけでなく、人間以外の動物や植物などあらゆる形態のいのちと、そして生きている地球も含まれている。この再話と再構成の多様な糸がよりあわされて、生態系の相互関係性という、新しく、そしてより複雑な倫理が生み出されたのである。(序論、18頁)

本書の表題である「世界を織りなおす」とは、エコフェミニズムの思想と行動を「多様な糸」に喩えて、聖書や神話の読み替え(再解釈)による<世界観の変革>と、<政治・倫理の変革>を通じて、「わたしたちの考え方そのものを根本から変える」ことを意味しているのだと思います。
しかし、古代から<機織り>が女性を象徴する仕事であった歴史を考えると、世界を<織物>に喩えることは、女性性をより強調し、「伝統的な公式」を固定・補強するものになるのではないか、とわたしは疑問に感じました。
おそらくエコフェミニズムは、「伝統的な公式」にあえて乗っかるような表現を使って、その読み直し(再解釈・再構成)によって、「世話をすることや育てることの価値を尊重する新しい文化」の創造を目指しているのかもしれません。


イネストラ・キング「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」


『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』の中から、第ニ部「世界を織りなおす―政治と倫理の新しい関係」に収録されているイネストラ・キングの「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」の要点をまとめ、考察したいと思います。

イネストラ・キング(Ynestra King)は、ニューヨーク社会調査新学校のラング・カレッジで教えているとのことです。「ウィメンズ・ペンタゴン・アクション」を組織し、「女性・自然研究所」の共同創設者。著書に『女と世界を再び魔法にかけること』(Women and the Reenchantment of the world)があります。

現代のエコロジー危機は確かに、フェミニストにエコロジーを考えるきっかけを与えたが、エコロジーがフェミニズム哲学や政治の中心にくる理由は別である。エコロジー危機は、哲学・技術・殺人発明品をつくった白人・男・西洋の、自然と女性にたいする憎悪の体制につながる。労働者階級・白人でない人びと・女・動物の体系的蔑視は、西洋文明の根にある二元論にかかわる、とわたしは主張したい。しかし、ヒエラルキーをつくりだす心は、人間社会のなかにある。(イネストラ・キング「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」、『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』より186頁)

イネストラ・キングは、フェミニズム・エコロジー・人種差別反対・先住民族生存運動の目標はつながっており、「世界的な真の生命尊重運動」(プロライフ)として理解するべきであると主張しています。
この"pro-life"という言葉は、一般的には、人工妊娠中絶をめぐる議論において、中絶反対派によって使われており、中絶反対派を指して「プロライフ派」と呼ぶこともあります。
しかし、イネストラ・キングの考えでは、中絶反対派は「中絶禁止による強制出産を推進する戦闘的右翼」であり、「プロライフという言葉を曲解している」と論じています。
したがって、イネストラ・キングの主張する「プロライフ」は、中絶反対という狭い意味ではなく、この言葉本来の「生命尊重」という意味で使っていると言えます。


自然を是認するか・否認するか


イネストラ・キングは、フェミニズム運動におけるラディカル・フェミニズムの立場と、社会主義フェミニズムの立場、それぞれの女性と自然に対する姿勢を考察しています。
近代人権思想とともに生まれた第一波フェミニズムと比較して、1960年代後半にアメリカで起こった新しい潮流のフェミニズム(第二波フェミニズム)は、ラディカル・フェミニズムと呼ばれています。
登場当時は、このラディカル・フェミニズムも含めて、アメリカの新しい女性解放運動は、ウィメンズ・リベレーション・ムーヴメントと呼ばれました。
そのため、アメリカの運動に強い影響を受けて登場した日本の新しい女性解放運動は「ウーマン・リブ」と呼ばれました。
イネストラ・キングの定義では、ラディカル・フェミニストは「生物学的差異にもとづく男による女性支配が抑圧の根本原因とするフェミニスト」です。

男は女を自然と同一視し、男の恐れる自然と死から身を守る男の「プロジェクト」に両方が協力してくれるよう求めるのだ。女が自然に近いとするイデオロギーはこのプロジェクトには欠かせない。だから、家父長制が人間抑圧の原型とするなら、それをのぞけば、他の抑圧も同時に崩壊しよう。しかし、ラディカル・フェミニズムのなかには、二つの違いがある。すなわち、女・自然関係が解放につながるのか、それとも女に従属を強いるのか。(190頁)

イネストラ・キングによると、ラディカル・フェミニズムの女性と自然に対する意見は、「女性と自然の結びつきが解放のために役立つ可能性があるのか」女性と自然の結びつきが「女性の従属が続くことの理論的根拠になるのか」という論点があります。

この論点に対して、ラディカル・フェミニズムの中でも意見が大きく分かれています。
イネストラ・キングは、次の二派に分類しています。
女性と自然の結びつきを称賛し、女=自然関係は女性の「従属」の源ではなく、「自由」源という主張する立場が、「ラディカルな文化フェミニズム」
一方で、女性と自然の結びつきを否定し、女=自然関係は性差別を強化する「女のゲットー」と主張する立場が「ラディカルなリベラル・フェミニズム」です。


イネストラ・キングは、「文化フェミニズム」という言葉は、「歴史をつくるのは第一に経済力」と考えるフェミニストによってつくられたと論じています。
これは、マルクス主義の影響を受けた、マルクス主義フェミニズムもしくは社会主義フェミニズムの立場を指しているのだと思います。
歴史をつくるのは経済力であり、文化ではないという立場に対して、文化に誇りを持ち、文化を強調する立場が「文化フェミニズム」であると言えます。

文化フェミニズムは、男と女の違いを評価し、女を自然と同一視するイデオロギーを良しとし、フェミニズムとエコロジーとを一体化することを提唱しています。
イギリスの女性作家ヴァージニア・ウルフ(1882年-1941年)が、『三ギニー』(1938年)の中で「職業の隊列」で男世界に入りたくないと語ったように、文化フェミニストたちは女特有のものを評価し、男文化の一部となるのではなく、女独自の文化を創造することを目標としています。
イネストラ・キングによれば、文化フェミニズムとは「女のアイデンティティ運動」なのです。

文化フェミニズムの運動としての実践は、フェミニストのスピリチュアリティ運動から影響を受けたものであると、キングは考察しています。
フェミニスト・スピリチュアリティ運動(フェミニスト霊性運動)は、ユダヤ=キリスト教の超越的男神に対抗して、ギリシャ神話の女神など内在的な女神概念を称揚し、地球を一つの生命有機体と見る「ガイア仮説」を支持しています。
フェミニスト・スピリチュアリティ運動から発想を得て、文化フェミニストは音楽・芸術・文学・詩・魔女集会・コミューンなどのアクションで、女性と自然の一体化をたたえています。

しかし、イネストラ・キング自身が「女と自然を結びつけ、女は善で、男や文化の破廉恥行為とは無関係だ、と女をロマンティックに考えるのはどうだろう」と問いかけており、上述のとおり、女性を自然と同一視するイデオロギーを拒否する立場もあります。
イネストラ・キングは、近代フェミニズムの母と呼ばれるシモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908年-1986年)について、この「ラディカルな合理主義フェミニスト」を代表する立場でると考察しています。
ボーヴォワールは、『第二の性その後-ボーヴォワール対談集』(1984年)の中で、次のように語っています。

女と自然との関係、女と母性本能、女と肉体のような古い女性観を強化する立場…女を古い役割にとどめようとする最近の動きは、たとえ、女の要求に応えるような譲歩をしても、女を静かにさせる常套手段といえよう。

なぜ、女のほうが男より平和を好むとするのか。男女両方の問題だと思う! …母親であることが平和のための存在を意味するとは。エコロジーをフェミニズムと同一視するのは、なにかいらだちを覚える。それらは自動的に一つではないし、同じものではまったくない。

ボーヴォワールは、初期の名著『第二の性』(1953年-1955年)の中で論じた、「男より女のほうが自然に近いとする決めつけは性差別の策略」であるという主張を、晩年においても強く語っています。
この立場にとっては、「閉鎖的なゲットー」である「自然の原始的領域」から、女性は解放されることによって、「自由」が得られるのです。
エコロジーをフェミニズムの課題とすることは、性別役割分業の強化につながる逆行であると感じているため、ボーヴォワールは「いらだちを覚える」のだと思います。


イネストラ・キングは、ラディカル・フェミニズムのうち、女性と自然の結びつきを是認するか・否認するかという視点から、二派に分類・比較した上で、さらに「社会主義フェミニズム」の立場を比較しています。

「社会主義フェミニズム」は、キングの定義では、「ラディカルとリベラルの合理主義フェミニズムとマルクス主義の伝統である史的唯物論の統合を目指す奇妙な混合物」です。
社会主義フェミニズムは、社会主義がリベラリズムを批判したのと同様に、リベラル・フェミニズムに対して政治経済分析や階級認識が足りないと批判しています。
社会主義フェミニズムは、社会経済権力の体制的不平等を克服すれば、男女同権の課題が達成できると考えています。

社会主義フェミニズムは、「再生産の自由」という発想から、「産む産まないは女の自由」という画期的な思想を生み出し、「自分の体を管理する」女の権利を主張しています。
この「産む産まないは女の自由」という思想は、「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」(性と生殖に関する健康・権利)として、1994年にエジプトのカイロで開かれた国際人口開発会議(ICPD)で提唱され、現在では国際的にも認められています。
一方で、イネストラ・キングは、社会主義フェミニストは新しい生殖技術に対抗する理論が不十分であると考察しており、女性の再生産能力(=妊娠・出産能力)が、賃労働の一形態として市場売買されている実態を紹介しています。
キングは、代理母出産ビジネスのような「卵子や子宮を取引する女」を批判しているのではなく、仲介業者が罰せられるべきであり、明らかに重大な経済的・階級的問題があると語っています。

イネストラ・キングによれば、社会主義フェミニストも、ラディカルなリベラル・フェミニストも、政治・経済という「公」領域における男女同権という目標は同じであり、女性と自然の関係についての認識も同じです。
社会主義フェミニズムは、社会主義運動と歩を合わせているため、人間のあいだの支配には問題意識を持っていますが、人間の自然支配、さらに内なる自然支配(女性=自然関係)にはあまり注意を払っていないと、キングは論じています。

社会主義フェミニストは、マルクス主義理論に依拠して、上部構造(文化・再生産)より下部構造(経済・生産)のほうが重要だと考えているため、ラディカルな文化フェミニズムに対して、非歴史的で本質論者、そして非知性的であると非難しています。
しかし、「公」的領域において、権利や義務の平等が達成されても、「私」的領域の性差別はいまだに残り続けているという問題があるからこそ、ラディカル・フェミニズムが生み出された時代背景があります。
イネストラ・キングは、「社会主義フェミニストは、文化フェミニズムが認識した重要な真実を無視」することになると批判しています。


自然-文化二元論を超えたエコフェミニズム



イネストラ・キングは、文化フェミニズム、リベラル・フェミニズム、社会主義フェミニズムの各理論における、女性と自然の関係について検討した結果、どれも「二元論的思考」におちいっていると考察しています。
したがって、キングは、「自然」と「文化」の二元論を弁証法的に克服し、「自然と文化の架け橋」としてエコフェミニズムを提唱しています。
以上のイネストラ・キングによる分類に依拠して、リベラル、社会主義、文化の各フェミニズムの見取図を作成しました。(下図参照)


リベラル・フェミニストの、女性と自然を結びつけることは、伝統的な性差別を強化するという主張に対して、キングは次のように答えています。

フェミニズムの仕事は、男より自然と思われがちな女の活動が絶対的に社会的である、と主張することだ。たとえば、出産は自然だが(方法はひじょうに社会的)、母親業は絶対的に社会活動である。子育てにおいて、母親は、政治家や倫理家のように複雑な倫理的・道徳的選択を迫られる。フェミニズムの隆盛にもかかわらず、女はこれらの仕事を続けるだろうし、人間と自然の関係問題は、認識し解決すべきものだろう。(197頁)

このように、キングは、女性の伝統的な活動「母親・料理・癒し・農業・食糧調達」が「自然であり社会的である」と主張します。
文化フェミニズムにおけるスピリチュアリティは、社会主義フェミニストは「人民の阿片」として批判しますが、エコフェミニズムにとっては、超合理化による人間疎外に対する答えとして、キングは評価しています。
しかし、文化フェミニズムの「個人的な変化と力を強調して、個人的なものを政治的にする」傾向は、文化フェミニズムの「最大の弱点」であると論じています。
そのため、文化フェミニズムだけではエコフェミニズムの実践理論にはならず、社会主義フェミニズムの批判的視点をエコフェミニズムに取り入れる必要があると提案します。

人間と人間以外の自然の関連を認めて、心の政治と愛の共同体を文化フェミニズムと共有しよう。社会主義フェミニズムは、歴史の理解と変革に強力な批判的視点を与える。が、各々の「精神」-「自然」二元論は変わらない。いっしょになれば、それらは、自然と文化の新しいエコロジカルな関係をつくれるだろう。精神と自然、心と理性が力を合わせれば、地球の生命存在をおびやかす内外の抑圧システムを変えることができる。(199頁)

このような反二元論的で弁証法的な実践として、インドのチプコ運動(チプコ・アンドラン)と呼ばれる森林保護運動について、キングは紹介しています。
1970年代に、ガンジー主義の影響を受けた女性たちが、森林を伐採するブルドーザーに対して、チプコ(抱擁)という言葉どおりに、木に抱きついて、命がけで抵抗する森林保護の非暴力運動です。
イネストラ・キングは、チプコ運動は「反二元論的な力を持つ革命」と評価しています。

さらに、「フェミニズム健康運動」について、「自然との仲介的で弁証的な関係」の代表例として紹介しています。
20世紀前半からの出産の医療化と再生産技術(生殖医療)の進歩と独占は、女性同士で仲立ちしてきた自然分娩を男性が管理する分野に変え、資本主義の新たな利潤技術を生み出したと、キングは論じます。
日本における出産の医療化の歴史は、以前に『「お産」の社会史』で詳しく読みました。
日本では、女性同士の経験と相互扶助によって受け継がれてきた助産者(とりあげ婆さん)が、明治政府の産婆制度整備事業により、医学校で教育を受けた若い助産者(「新産婆」「西洋産婆」)に取って代わられ、旧世代の助産者は医師に「不潔」と見なされ、排除されていきました。

イネストラ・キングは、西洋科学・医療すべてを拒否すべきであると主張しているのではなく、「技術化に潜む利潤と管理」を問題と主張しています。
この問いかけは、前述の女性の再生産能力の市場売買(「卵子や子宮を取引する女」)の問題とつながっていると言えます。
キングは、便利な技術を拒否するのではなく、「技術介入がベストか、自分で判断できる力をつけよう」と呼びかけています。
近年日本では、「無痛分娩」によって、妊産婦が死亡したり、生まれた子が重い障害を負うなど、重大な医療事故が起きています。
キングの言うように、「専門家の世話に身をまかせ、わからないまま専門家に従う」ことを考え直し、危険な医療技術を選ぶことについて、「自分で判断できる力」をつけることは、重要な運動だと思います。

このように、エコフェミニズムの視座は、「自然にたいする介入と支配」という問題において、森林保護運動や環境汚染反対運動から、「自分の自然」(からだ=内なる自然)まで含むと言えます。
さらに、外見を気にして、まるで自分の肉体が天敵のように、危険なダイエットにいどむ実態について、イネストラ・キングは「女は男をよろこばせようと自分の体を支配する共犯者」であると批判しています。
自分の肉体を敵にまわし、「自然支配に加担」するのではなく、自分の体をあるがままに受け入れ、「自分の自然」とうまく折り合うことをキングは提唱しています。

キングが指摘するような、餓死するほどのダイエットについては、『女はなぜやせようとするのか:摂食障害とジェンダー』(浅野千恵、勁草書房)で詳しく読んだことがあります。
わたしは、母親業が「自然であり社会的である」ことと同様に、おしゃれをする、ダイエットする、筋肉をきたえるなど、女性が「自分の体を支配する」ことは、意識的な社会的活動だと思います。
女性は、さまざまなメディアから生き方モデルを学習し続けており、「女性はやせなければならない」という社会的イデオロギー(=「女らしい体であれ」という社会的圧力)を拒否して、自分の体をあるがままに受け入れ、自分の体と折り合いをつけることは、とても難しいことです。

このように考えると、イネストラ・キングが提唱するエコフェミニズムにおいて、社会主義フェミニズムと文化フェミニズムという対立する意見をどちらも取り入れた理由が分かりました。
環境汚染問題に取り組むなど、人間が外の自然と調和していくためには、社会主義フェミニズムの批判的視点が役に立ちます。
そして、わたしたち自身の内なる自然と折り合いをつけ、調和していくためには、文化フェミニズムの力に可能性があるのでしょう。
人間を内と外の自然に調和させるという目標は、イネストラ・キングが最初に提唱した、「世界的な真の生命尊重運動」(プロライフ)とつながっていると言えます。



2017/01/28

ハインリヒ・ハイネ「流刑の神々・精霊物語」

流刑の神々・精霊物語 (岩波文庫 赤 418-6)
流刑の神々・精霊物語 (岩波文庫 赤 418-6)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1980/02/18

2016年10月15日の読書会で、ハインリヒ・ハイネ『流刑の神々・精霊物語』(小沢俊夫訳、岩波文庫)を読みました。
ハイネは、『精霊物語』(1835~1836年)において、グリム兄弟の『ドイツ伝説集』(上巻:1816 年、下巻:1818 年)から引用して、古代ゲルマンの精霊たち(コーボルト、エクセ、エルフェなど)の伝説を紹介しています。

……よく言われることだが、ヴェストファーレンには、古い神々の聖像がかくされている場所をいまだに知っている老人たちがいるということだ。彼らは臨終の床で、孫のうちでいちばん幼いものにそれを言って聞かせる。そしてそれを聞いた孫は、口のかたいザクセン人の心のなかにその秘密をじっとだいている。むかしのザクセン領だったヴェストファーレンでは、埋葬されたものすべてが死んでしまうわけではない。そして古い樫の森を逍遥していると、いまでも古代の声が聞こえてくる。(『精霊物語』、7頁、岩波文庫)

「タンホイザーの歌」(ヴェヌスの山)―ハイネとワーグナーを比較


『精霊物語』では、騎士タンホイザーが女神ヴェヌスの山に入り、ヴェヌスの宮廷で過ごしたという「タンホイザー伝説」について、もっとも多くのページを割いて紹介している(92頁~最後121頁まで)ので、注目して読みたいと思います。
ハイネは、コルンマンの『ヴェヌスの山』(1614年)と、クレーメンス・ブレンターノ『魔法の角笛』(『少年の魔法の角笛』三巻、1806-1808年)からの引用という体裁をとっていますが、実際にはハイネ自身が改作した翻案詩となっています。

コルンマンの例にならって、わたしも精霊のことをのべたついでに、古代異教の神々の変容について語らざるをえなかった。彼らはけっして幽霊ではない。なぜならば、すでにたびたびのべたように、彼らは死んではいないからである。彼らは被造物ではなく、不死の存在であって、キリストの勝利ののちには地下の隠棲場所にひきこもり、ほかの精霊たちと同居して、悪魔的生活をおくらざるをえなかったのである。ドイツ民族のなかでもっとも独特で、ロマンティックで奇異なひびきをもっているのは女神ヴェヌスの伝説である。彼女はその寺院が破壊されたときに、秘密の山のなかへ逃げこんで、そこできわめて陽気な無頼の空気の精や、美しい森のニンフ、水のニンフ、そのほか突然に人の世から消え去った多くの有名な立役者たちとともに、奇怪きわまる歓楽の生活をおくっている。あなたがその山に近づくと、ずっと遠くからすでに満足げな笑い声や甘いツィターの音が聞こえてきて、まるで目にみえない鎖のようにあなたの心をしめつけ、あなたを山のなかへひきこむだろう。(91頁)

高貴にして善良な騎士タンホイザーは、
愛と快楽を得んものと
ヴェヌスの山へおもむき、七年間をすごした。

「ヴェヌスよ、わたしの美しい妻、
いとしい人よ、さらば、
今日をかぎりにそなたのもとを去ろうと思う。
いとまをもらいたい。」

「タンホイザーさま、わたしの高貴な騎士よ、
今日は接吻もしてくださらないのね、
はやく接吻してください。
いったい、わたしになんの不足がおありなの?
わたしは毎日あなたに
世にも甘美な酒をさしあげたでしょうに、
毎日あなたの頭を
ばらの冠で飾ってさしあげたでしょうに。」(103-104頁)

ボルヒマイヤーによれば、ハイネの『精霊物語』から直接インスピレーションを受けて、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)は有名な歌劇「タンホイザー」(原題「タンホイザーとヴァルトブルクにおける歌合戦」)を執筆しました。
ワーグナーの「タンホイザー」は、1842年に当初は「ヴェーヌスヴェルグ Venusberg」(ヴェヌス山)という題名で作曲され始めます。そして、ワーグナーは完成した歌劇「タンホイザー」の劇詩の序文に、ワーグナー自身による「解説」を付しています。

古代ゲルマンの女神ホルダ、親しみのある、穏やかで慈悲深い女神、このホルダが毎年国じゅうを巡り歩くと、耕牧地は豊かに実ったものだが、キリスト教が導入されたことにより、ホルダは(ゲルマン神話の主神の)ヴォーダンや他の神々と運命を分かちあわねばならなかった。すなわち、神々に対する信仰は民衆の間に非常に深く浸透していたので、神々の存在や神々の持つ数々の不思議な力にまったき疑いを持たれることはなかったのだが、しかし、それ以前の女神の幸多き働きは怪しまれ、悪しき働きへと変えられてしまったのであった。ホルダは地下の洞窟、奥深い山々の中に追放されたのである。ホルダがそこから出てくると、それは災いをもたらすものとなった。(中略)ホルダという名称は、後にヴェーヌスに変わってしまった。この名称には、人を悪しき感覚的欲望へと誘惑する不吉な魔法の、ありとあらゆる観念がたやすく結び付いた。この女神の本拠地の一つは、テューリンゲンのアイゼナハ近郊にあるヘルゼルベルクの奥地である。ここがヴェーヌスにとっては淫蕩と快楽の宮廷であった。この宮廷の外にいてさえ、歓喜に満ちた音楽をしばしば聴くことができた。しかし、魅惑的なこの響きは、その心にすでに感覚的欲望を芽生えさせている者たちだけを誘き寄せた。つまり、彼らは楽しげに誘惑する響きに魅せられ導かれて、知らぬ間に山の中へ入り込んだのだ。―こうして騎士歌人タンホイザーの伝説は広まってゆく。(中略)この伝説によると、タンホイザーはヴェーヌスベルクに入って、ヴェーヌスの宮廷で丸々一年を過ごしたという。(山地良造「ワーグナーの歌劇『タンホイザー』とヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』」より)

ワーグナーは、ヤーコプ・グリム(1785-1863、 グリム兄弟の兄の方) が出版した『ドイツ神話学』(1835年)の影響を受けて、「タンホイザー伝説」に対するより深い考察を行っています。
『ドイツ神話学』の中で、「タンホイザーは長年山の中のホルダのもとで過ごしている」と引用されていることから、ワーグナーは、タンホイザー伝説に登場するローマ神話の女神ヴェヌスが、ゲルマン神話の女神ホルダと同化したものであると解説しました。
タンホイザー伝説のもともとの原話は、タンホイザーと女神ホルダの物語であったが、ホルダはヴェヌスと同化していったため、15~16世紀頃にホルダの名称はヴェヌスへと変わり、現在に伝わる物語となったと言えます。

※ネタバレ注意※

『精霊物語』に収録されている、タンホイザー伝説を改作したハイネの詩は、教皇から救済を拒絶されたタンホイザーが、ヴェヌスの山へ戻る結末です。

「わたしは彼女を全身全霊で愛しています、
激しく奔放な炎で愛しています。
これがもう地獄の火なのでしょうか?
わたしは神に永劫に罰せられるのでしょうか?

おお、聖なる父、法王ウルバンさま、
あなたは呪縛も救済も意のまま。
わたしを地獄の責め苦から、悪の力からお救いください。」

法王は両手を天に向けて高くあげ、
嘆きつつ言われた。
「タンホイザー、不幸な男よ、
魔法をうち消すことはできない。

ヴェヌスという悪魔は
あらゆる悪魔のうちでもっとも悪い。
その美しい悪魔の手から
そなたを救い出すことはできない。

そなたは今、みずからの魂で
肉の快楽の償いをしなければならない、
そなたは永遠の地獄の苦しみに突き落とされ、罰せられるのだ。」

騎士タンホイザーは旅を急いだ、足は傷だらけになった、
真夜中に
ヴェヌスの山に着いた。(『精霊物語』、113-115頁)

一方で、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」は、全く異なる結末を与えています。
ヴェヌス風の官能的な愛を讃美して罪人とされたタンホイザーの帰りを、故郷のエリーザベトは待ち続けます。
エリーザベトは、タンホイザーが教皇の赦しを得て戻ってくるようにと毎日マリア像に祈り続けますが、タンホイザーは帰らず、ついに自らの死をもってタンホイザーの赦しを得ようと決意します。
教皇に拒絶され、絶望して故郷に帰ったタンホイザーを、ヴェヌスが再び誘惑し、タンホイザーはヴェヌスへ引き寄せられていくところへ、エリーザベトの葬列が現れます。タンホイザーは我に帰り、異界は消滅しました。
エリーザベトが、自分の命と引き換えにタンホイザーの赦しを神に乞うたことを友人から聞き、タンホイザーはエリーザベトの亡骸に寄り添う形で息を引き取ります。ちょうどそこへローマからの行列が、緑に芽吹く教皇の杖を掲げて到着し、特赦が下りたことを知らせて幕が下ります。
教皇の手にある、枯れ枝でできた杖に瑞々しい緑が芽吹いたのは、タンホイザーの罪が許されたことの象徴です。
ワーグナーは、エリーザベトの自己犠牲によるタンホイザーの救済の成就を表現しているのです。

同じタンホイザー伝説を題材にしながら、ハイネの詩とワーグナーの歌劇が、全く異なる結末を与えているのは、その詩・歌劇を通じて読者・観客に伝えたいメッセージが、ハイネとワーグナーとは、それぞれ全く異なっていたためでしょう。


ハイネ「タンホイザーの歌」における風刺、皮肉、遊び心


ハイネの「タンホイザーの歌」には、タンホイザーが、イタリアからヴェヌス住む山へ帰る旅の道中、ヴァイマールやハンブルクなど、ドイツのさまざまな都市を見聞した内容が歌われています。

「タンホイザーさま、わたしの高貴な騎士よ、
ずいぶん長いお留守でした、
こんなに長いこと、どこを歩き廻っていらしたのか
どうぞおはなしください。」

「ヴェヌス、わたしの美しい妻よ、
わたしはイタリアに行ってきたのだ、
ローマで用事をすませて
急いでここへ帰ってきたのだ。(『精霊物語』、117頁)

聖ゴットハルトの峠に立つと、
ドイツがいびきをかいて寝ているのが聞こえた。
三十六人の独裁君主の保護のもとで
安らかに眠っていた。(118頁)

フランクフルトには安息日に着いた。
そしてシャレットとだんごを食べ、こう言ってやったのだ、
あなた方はいい宗教をおもちだ、
わたしも鵞鳥の臓物が好きですよ、と。(119頁)

詩人ミューズの未亡人の町ヴァイマールでは
しきりに悲嘆の声を聞いた。
悲しそうに泣き叫ぶのだ、ゲーテは死んだ、
だのにエッカーマンはまだ生きている、と。
ボツダムでは大きな叫び声を聞こえたので
どうかしたのですが、とわたしは驚いて尋ねた
「あれはベルリンのガンス教授ですよ、
前世紀について講義しているのです。」(119-120頁)

ツェレの刑務所ではハノーファー人しか見かけなかった―
おお、ドイツ人は!
我々には国家の刑務所が必要だ、
それにドイツ人全体に鞭が必要だ。(120頁)

善良な町ハンブルクには、
悪い連中がかなり住んでいる。
そして取引所へ行ったときには
まだツェレにいるのかと思った。

善良な町ハンブルクには、二度とふたたび足を踏み入れまい、
わたしはもうこれから、ヴェヌスの山の美しい妻のもとから離れまい。」(121頁)

中世の騎士であるタンホイザーが、ゲーテの死を嘆くヴァイマールを訪れるなど、とてもおかしく、ハイネの風刺と遊び心を感じますね。
このように、ハイネは「タンホイザーの歌」の中で、出版当時のドイツ諸都市(ゴットハルト、シュヴァーベン、フランクフルト、ドレースデン、ヴァイマール、ポツダム、ゲッティンゲン、ツェレ、ハンブルク)の政治や社会制度、民衆に対する風刺や皮肉を歌っているのです。

グリム兄弟は、ドイツの人々が語り伝えてきた民話を収集し、原話を忠実に採録した『ドイツ伝説集』や、キリスト教化以前の古代ゲルマンの神々を研究する『ドイツ神話学』を出版しました。
ハイネとグリム兄弟では、この原話に対して取り組む姿勢が、明らかに違うと思います。
ハイネは『精霊物語』において、「タンホイザーの歌」を中世の原話をそのまま採録したという体裁で、実際はハイネ自身が大幅に改作して、「タンホイザーの歌」を題材とした政治風刺詩に仕立て直しています。

ハイネの「タンホイザーの歌」には、ワーグナーが歌劇「タンホイザー」に付した解説のような、ローマの神々と同化させられた、古代ゲルマンの神々について深く考察する姿勢が欠けています。
おそらく、ハイネには、グリム兄弟のように、古代ゲルマンの神話・民話を本気で収集・研究する意図は、はじめからなかったのだと思います。

キリスト教批判として書かれた『精霊物語』・『流刑の神々』


『精霊物語』(1835-36年)の後に執筆した『流刑の神々』(1853年)では、ハイネは、ドイツ各地に伝わる幽霊や悪魔の伝説を紹介し、ローマの神々がキリスト教化以後に「悪魔化」させられたと論じています。
『精霊物語』で強烈だった、ドイツの社会・政治に対する風刺や皮肉は、『流刑の神々』ではあまり主張していませんが、キリスト教批判とローマ神話賛美というテーマは、『精霊物語』から『流刑の神々』へと引き継がれています。

『精霊物語』とテーマを同じくする『流刑の神々』においても、ローマの神々と同化させられた、古代ゲルマンの神々については、ハイネはほとんど論じていません。
ローマ帝国に支配される以前の古代ゲルマンの人々は、古代ゲルマンの神々を信仰していたはずです。
キリスト教公認以前のローマ帝国時代において、支配地域の広がりとともに、起源の異なる神々が同化し、人々の間で同時に信仰されていました。
ローマ帝国時代の諸宗教は混合主義であり、より勢力を持った宗教が、他の宗教を吸収し、同化する傾向にあり、この同化の過程は闘争や反発が少なく、互いに自由に伝説や教義上の慣例が交換されたと言われています。
そのため、ローマ帝国の文化・信仰の影響を受けて、古代ゲルマンの神々も、しだいにローマの神々と同化していったのだと思います。

そしてキリスト教化以後は、ローマの神々に対する信仰が失われ、キリスト教によってローマの神々は人々を誘惑する「悪魔」と変化させられ、民話や伝説の中に保存されたと、ハイネは『精霊物語』と『流刑の神々』で主張しています。

キリスト教が古代ゲルマンの宗教をどうやって抹殺しようとしたか、あるいは自分のなかにとりいれようとしたかというそのやりかた、また古代ゲルマンの宗教の痕跡が民間信仰のなかにどのように保存されているかということである。あの抹殺戦争がどのようにおこなわれたかは周知のとおりである。(『精霊物語』、60-61頁)

わたしはここでふたたび、キリスト教が世界を支配したときにギリシア・ローマの神々が強いられた魔神への変身のことをのべてみようと思っているのである。民間信仰は今ではギリシア・ローマの神々を、たしかに実在するが呪われた存在にしてしまっている。(『流刑の神々』、125頁)

古代のあわれな神々は当時屈辱的な逃亡をし、あらゆる可能な限りの覆面をして人間の住むこの地上に身をかくしたものだった。(127頁)

ハイネの考えでは、ギリシャ・ローマの神々は、キリスト教の主なる神によって創造された「被造物ではない」、「不死の存在」であるため、決して死ぬことはないのです。
「抹殺」できない存在であるため、キリスト教会では、ギリシャ・ローマの神々を「悪魔」「魔神」「呪われた存在」と位置づけました。
このように、キリスト教によってギリシャ・ローマの神々が「悪魔化」させられた過程を、ハイネは「流刑」と表現しています。
表題である「流刑の神々」とは、地下の洞窟や奥深い山々、秘密の隠棲場所にかくれて、今もなお生きているギリシャ・ローマの神々のことを意味していると言えます。



ハインリヒ・ハイネは、1797年にデュッセルドルフの裕福なユダヤ人の家庭に生まれました。
フランス支配下のデュッセルドルフの町で、フランス革命後の自由・平等の喜びと、1815年以後の反動化の時代を体験し、「自由・解放」への強い思いを持って成長したのだと思います。
ハイネは、早くから「ユダヤ問題」を論じていて、ベルリン大学時代は「ユダヤ人文化学術協会」の活動にも参加しています。
しかし、1825年にハイネはプロテスタントに改宗します。
『精霊物語』や『流刑の神々』では、強烈にキリスト教を批判しているハイネ自身が、この時、なぜキリスト教に改宗したのでしょうか?

ハイネのプロテスタント改宗は、「ユダヤ教徒からもキリスト教徒からも憎まれる」結果となったと、ハイネは友人に手紙を送っています。
ハイネの改宗前、「ユダヤ人文化学術協会」の指導者ガンスの改宗に対して、ハイネは「裏切り者(背教者)」(Einem Abtrünnigen)と題した詩を歌っています。

君は十字架に向かって這っていった
君が軽蔑していた十字架に、
ほんの数週間前、君が、
芥の中にふみにじろうとしていた十字架に!(Einem Abtrünnigen、"Nachgelesene Gedichte"(1812-27)所収)

このように、ガンスの改宗を痛烈に皮肉し、批判していたハイネ自身が、今度は「十字架に向かって這っていった」のですから、友人たちの理解・賛同を得るのは、難しかったでしょう。

1824年頃からハイネはヨーロッパ各地を旅して、1831年にパリに移住しました。
ハイネが移住した前年の1830年に、フランスでは7月革命が起こっています。
パリ移住後のハイネは、空想的社会主義者サン・シモンの流れを汲むサン・シモン派の人々と交流し、「第三の福音」を提唱するサン・シモン派の新しい宗教論の影響を受けたと言われています。
プロテスタント改宗後の、「ユダヤ教徒からもキリスト教徒からも憎まれる」苦しい体験を経て、ハイネはユダヤ教でもキリスト教でもない、「新しい宗教」に希望を見出したのかもしれません。

『精霊物語』は、ハイネがパリ移住後の1835年から1836年にかけて、フランス人に向けてドイツの文化を紹介するために、フランス語で発表されました。
『流刑の神々』も1853年に、フランスの『両世界評論』誌に、フランス語で発表されました。

トイフェル(悪魔)は論理家である。彼は世俗的栄光や官能的喜びや肉体の代表者であるばかりでなく、物質のあらゆる権利の返還を要求しているのだから人間理性の代表者でもあるわけだ。かくてトイフェルはキリストに対立するものである。すなわちキリストは精神と禁欲的非官能性、天国の救済を代表するばかりでなく、信仰をも代表しているからである。トイフェルは信じない。彼はむしろ自己独自の思考を信頼しようとする。彼は理性をはたらかせるのである!(『精霊物語』、69頁)

むしろたいせつなことは、ヘレニズム自身を、つまりギリシア的感情と思考方法を守護し、ユダヤ教、つまりユダヤ的感情と思考方法の伸展をはばむことだったのである。問題は、ナザレ人の陰気な、やせ細った、反感覚的、超精神的なユダヤ教が世界を支配すべきか、それともヘレニズムの快活と美を愛する心と薫るがごとき生命の歓びが世界を支配すべきであるかということなのだ。(82頁)

『精霊物語』において、ハイネはユダヤ教とキリスト教を、「陰気な、やせ細った、反感覚的、超精神的な」禁欲主義の宗教であると批判しています。
ハイネの考えでは、ユダヤ教とキリスト教の禁欲主義と対照的な存在が、「ヘレニズム」「ギリシア的感情と思考方法」であり、キリスト教によって「悪魔化」させられたギリシャ・ローマの宗教です。
ハイネは、ギリシャ・ローマの神々を、「世俗的栄光や官能的喜びや肉体の代表者」であり、「人間理性の代表者」であると賛美しています。

ハイネはプロテスタントに改宗しましたが、改宗後の悲劇的状況を経て、『精霊物語』を執筆していた時には、もはやユダヤ・キリスト教の信仰から心が離れ、サン・シモン派の影響を受けた「新しい宗教」を精神的支柱としたのでしょう。
ハイネによれば、この「新しい宗教」は、「神々の民主主義国家を地上に建設」する宗教で、「地上の天国」を説いています。
ハイネの考える、現世主義の「新しい宗教」にもっとも近い宗教が、古代ギリシャ・ローマの神々であり、「ヘレニズム」「ギリシア的感情と思考方法」だったのだと思います。

このようなハイネの事情を考えると、『精霊物語』と『流刑の神々』における、ユダヤ・キリスト教批判とギリシャ・ローマ神話賛美も理解することが出来ます。
そして、『精霊物語』の「タンホイザーの歌」は、ハイネ自身の心情を歌った詩であると解釈出来るでしょう。
ハイネの「タンホイザーの歌」は、タンホイザーが教皇に救済を拒絶され、ヴェヌスの山へ帰るという結末です。
タンホイザーの「善良な町ハンブルクには、二度とふたたび足を踏み入れまい、わたしはもうこれから、ヴェヌスの山の美しい妻のもとから離れまい」という最後の台詞は、ハイネ自身の心情が重なっているように思います。
この台詞に、フランスに移住し、二度とドイツには戻らないというハイネの強い決意を感じます。
ユダヤ・キリスト教の支配から解放された、自由で「新しい宗教」を提案するハイネのメッセージは、タンホイザーが<ヴェヌスのもとへ帰る>という結末が、もっとも分かりやすく象徴していると思います。

「新しい宗教」において、ハイネのイメージする「地上の天国」「神々の民主主義国家」は、実現しようとすれば、社会主義的なものであることは明らかです。
しかし、新しい教会の建設、世界観の変革がどのような方法で確立されるかは、ハイネは語っていません。
ハイネは、サン・シモン派の宗教論に希望を見出していますが、経済理論の方には関心を寄せなかったと言われています。
ハイネにとっての革命は、社会的・政治的領域よりも、人々の世界観を変革することの方が重要だったのでしょう。
これは、ハイネがもともと素晴らしい詩人であったからこそ、「新しい宗教」による<世界観の革命>にこだわったのだと思います。

革命詩人ハイネは生涯、詩によって闘争を続け、ドイツの社会・政治、キリスト教、教会・僧侶階級、多くの論敵たちを攻撃しています。
もし、ハイネが経済理論や社会制度にもっと目を向けていたら、詩を武器とする革命詩人ではなく、武力革命を目指す革命家となっていたかもしれません。




参考:宮野悦義「ハインリヒ・ハイネ」(一橋論叢:61(4)、1969年)
山地良造「ワーグナーの歌劇『タンホイザー』とヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』」(帝京平成大学紀要:第26巻第2号、2015年)

2013/09/05

太宰治「斜陽」

斜陽 (新潮文庫)
斜陽 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 2003/05

太宰治の『斜陽』を読みました。
『斜陽』は、1946年~1947年(昭和21年~22年)の日本を舞台に、華族階級の一家を描いた物語です。
一家の当主である父親はすでに亡くなっており、老いた母親、長女かず子、かず子の弟で長男の直治が登場します。
第二次大戦後、直治は南方の戦地から帰らず、母親とかず子は、叔父のすすめで東京・西片町の家を売り、伊豆の山荘に引っ越して、二人だけでひっそりと暮らし始めます。
思い出の家を離れる辛さからか、母親は引っ越してまもなく病に伏せ、かず子は病気がちな母親を気遣い、慣れない家事に取り組みます。
伊豆での新生活がようやく落ち着いた頃、消息不明だった直治が帰ってくるのです。


『斜陽』が構想された1945年~1947年(昭和20年~22年)頃は、財産調査および財産税法が執行され、新憲法の公布による華族制度の廃止が決定しました。
華族と同様に、皇族についても環境が大きく変化し、皇室典範改正にともなう臣籍降下(皇族離脱)や、皇族財産への財産税公布などが議論されます。
『斜陽』が執筆・連載された1947年(昭和22年)には、議論の末に11宮家の臣籍降下が決定し、51名が皇族籍を離脱しました。
当時の一般国民にとって、宮家の人々は、現在のスターやアイドルに近い存在であり、その一挙手一投足が注目されていたと言われています。

太宰治が1948年(昭和23年)6月に亡くなった後、同年7月に高木正得元子爵の失踪・自殺事件が起こります。
高木元子爵の遺書には、敗戦後の変革によって経済破綻に陥り、死を選ぶこととなった内容が記されており、「没落する華族階級」が世間の話題となります。
高木元子爵の事件を発端に、新聞や雑誌は旧華族階級の動向を特集し、名家の没落を彷彿とさせる事件をさかんと報道するようになります。
1948年(昭和23年)7月に、『斜陽』新版が刊行されると、没落華族の物語として、人々に熱狂的に受け入れられるのです。
実在の旧華族の没落と、小説『斜陽』が結び付けられ、「斜陽」という単語は、華族の没落を意味する言葉として用いられ、「斜陽族」という流行語まで生まれました。

このように、太宰治が『斜陽』を構想・執筆した時期は、華族よりも皇族の動向が注目されており、華族の没落が世間を騒がせ、『斜陽』がベストセラーとなったのは、太宰治の死後のことでした。
『斜陽』は、華族階級の没落を予見した作品であり、いち早く特権階級の没落というテーマを描いた、太宰治の先見性が垣間見えますね。


※ネタバレ注意※


直治の帰還をきっかけに、かず子は6年前に起こった「ひめごと」を思い起こします。
6年前、直治は麻薬中毒が原因の借金に苦しんでおり、山木へ嫁いだばかりのかず子は、自分のドレスやアクセサリーを売って、なんとか弟のためにお金を工面していました。
直治の頼みで、かず子は小説家の上原二郎宅にお金を届けていましたが、次第に多額のお金をねだられ、たまらなく心配になって、かず子はたった一人で上原に会いに行きました。
かず子は上原と一緒にコップで2杯のお酒を飲み、別れ際に上原からキスをされます。
この時から、かず子には「ひめごと」が出来ました。
その後、かず子は山木と離婚し、実家に帰って、山木の子を死産しました。

かず子は、6年前の「ひめごと」を思い起こして、上原に三つの手紙を送ります。
手紙の中で、かず子は上原に対する愛情を伝え、上原の子を熱烈に望みました。
夏に送った手紙に対する返事が無いまま、季節は秋になり、病気がちだった母がついに亡くなります。
母の死後、かず子は東京で上原と再会し、恋を成就させます。
かず子と上原が一夜をともにした朝、直治は伊豆の山荘で自殺していたのです。
直治の死後、上原の子を身ごもったかず子は、上原に最後の手紙を送りました。
手紙の中で、かず子は私生児とその母として、古い道徳とどこまでも闘い、太陽のように生きることを決意して、物語は終わります。



物語全体は、「私」=かず子の一人称の語りで進行しますが、第3章に直治の手記「夕顔日誌」、第7章に直治の「遺書」が挿入され、第4章と第8章にかず子の「手紙」が挿入されており、なかなか凝った構成だと思います。
上の図は、物語の構成を整理したもので、かず子が語った過去と現在の出来事を、時系列にまとめてみました。
断片的に語られる過去のエピソードから、かず子という女性の人生が少しずつ明らかになるところが、面白いですね。

かず子の視点だけでなく、「夕顔日誌」や「遺書」を通じて、直治の視点も描かれており、かず子の人生により立体感・奥行きが感じられます。
かず子の視点と、直治の視点で大きく異なるのが、上原二郎の人物評価です。

六年前の或る日、私の胸に幽かな淡い虹がかかって、それは恋でも愛でもなかったけれども、年月の経つほど、その虹はあざやかに色彩の濃さを増して来て、私はいままで一度も、それを見失った事はございませんでした。(第1の手紙、第4章、99-100頁)

私がはじめて、あなたとお逢いしたのは、もう六年くらい昔の事でした。あの時には、私はあなたという人に就いて何も知りませんでした。ただ、弟の師匠さん、それもいくぶん悪い師匠さん、そう思っていただけでした。そうして、一緒にコップでお酒を飲んで、それから、あなたは、ちょっと軽いイタズラをなさったでしょう。けれども、私は平気でした。ただ、へんに身軽になったくらいの気分でいました。あなたを、すきでもきらいでも、なんでもなかったのです。そのうちに、弟のお機嫌をとるために、あなたの著書を弟から借りて読み、面白かったり面白くなかったり、あまり熱心な読者ではなかったのですが、六年間、いつの頃からか、あなたの事が霧のように私の胸に沁み込んでいたのです。(第2の手紙、第4章、107頁)

私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。(第3の手紙、第4章、114頁)

直治は「遺書」の中で、自分が恋する女性と、その夫について「遠まわしに、ぼんやり、フィクションみたいに」書きます。
洋画家とその妻として語られている人物が、上原夫妻を指すことは明らかでしょう。

そのひとは、戦後あたらしいタッチの画をつぎつぎと発表して急に有名になった或る中年の洋画家の奥さんで、その洋画家の行いは、たいへん乱暴ですさんだものなのに、その奥さんは平気を装って、いつも優しく微笑んで暮らしているのです。(遺書、第7章、190頁)

僕がその洋画家のところに遊びに行ったのは、それは、さいしょはその洋画家の特異なタッチと、その底に秘められた熱狂的なパッションに、酔わされたせいでありましたが、しかし、附き合いの深くなるにつれて、そのひとの無教養、出鱈目、きたならしさに興覚めて、そうして、それと反比例して、そのひとの奥さんの心情の美しさにひかれ、いいえ、正しい愛情のひとがこいしくて、したわしくて、奥さんの姿を一目見たくて、あの洋画家の家へ遊びに行くようになりました。(遺書、第7章、193頁)

つまり、あのひとのデカダン生活は、口では何のかのと苦しそうな事を言っていますけれども、その実は、馬鹿な田舎者が、かねてあこがれの都に出て、かれ自身にも意外なくらいの成功をしたので有頂天になって遊びまわっているだけなんです。(遺書、第7章、195頁)

かず子の「手紙」からは、かず子が6年前の「ひめごと」を何度も思い出し、彼の著書や弟との会話から、上原の人物像を想像し、偶像化していく様子が読みとれます。
一方、直治の「遺書」は、かず子の上原像に対する、強烈な偶像破壊の効果を発揮しています。
かず子の視点とともに、直治の視点が描かれることによって、かず子の物語を、直治の視点から読み直すことが出来るのです。

◆◆◆

主人公かず子と、かず子の母親は、華族という出自は同じでも、全く対照的な人物として造形されています。

かず子の「お母さま」は、無心で可愛らしく、「ほんものの貴婦人の最後のひとり」として描かれています。
「お母さま」は、「お金の事は子供よりも、もっと何もわからない」女性で、10年前に夫を失くしているため、かず子が「和田の叔父さま」と呼ぶ、実弟に財産の管理をまかせていました。
「和田の叔父さま」の勧めで、東京・西片町の家を売り、使用人に暇を出し、伊豆へ引っ越すことを決め、「かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ」と言うなど、主体性のない女性として描かれています。
かず子が、「お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさ」と言うように、「お母さま」の主体性のなさは、「信頼」という言葉で置き換えられ、彼女の「幼い童女のよう」な無心さ、美しさを強調しています。

しかし「お母さま」は、本心では、伊豆へ引っ越すことに全く不本意であり、西片町の家に一日でも長く暮らしたいと思っていました。
そのため、引越しの荷ごしらえが始まっても、「お母さま」は整理の手伝いも指図もせず、毎日部屋でぐずぐずするばかりで、引越し前夜には激しく泣き、伊豆へ到着した当日から、高熱に苦しみます。
その後、「お母さま」はたびたび病に伏せるようになり、食欲もなく、口数もめっきり少なく、伊豆へ引越してわずか1年以内に、亡くなりました。
伊豆における「お母さま」の「病気」は、西片町の家を売り、伊豆へ移住したことへの辛さや不満、抗議の気持ちを全身で表現していたのだと思います。

西片町の家から離れることが、死ぬほど苦しいのなら、「お母さま」はどうして「和田の叔父さま」の勧めに従ったのでしょうか?
「和田の叔父さま」から、かず子を再婚させるか、宮家へ奉公にあがるようにと勧められますが、かず子は思いきり泣いて、叔父の提案を拒絶します。
「お母さま」は、かず子の気持ちを思いやって、「私の子供たちの事は、私におまかせ下さい」と手紙を書き、「生まれてはじめて、和田の叔父さまのお言いつけに、そむいた」と言うのです。
女性は夫と親に仕えよ、従順で貞節であれ、という「女大学」の立場から教育され、「ほんものの貴婦人」として生きてきた「お母さま」にとって、不満や抗議の気持ちを言葉にすることは、現代のわたしたちには想像できないほど、大きなこと、難しいことだったのでしょう。



落ちぶれても生活感の無い「お母さま」に対し、娘のかず子は、戦時中に徴用されて「ヨイトマケ」の肉体労働を経験し、伊豆では使用人のように家事をこなし、「地下足袋」姿で畑仕事にまで取り組みます。
かず子は、華族の出自でありながら、だんだん「粗野な下品な女」、「野性の田舎娘」になっていくと自覚し、華族性(貴族性)を解体していくのです。

けれども、私は生きて行かなければならないのだ、子供かも知れないけれども、しかし、甘えてばかりもおられなくなった。私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯を終る事の出来る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得ないのではなかろうか。死んで行くひとは美しい。生きるという事。生き残るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。私は、みごもって、穴を掘る蛇の姿を畳の上に思い描いてみた。けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をしとげるために世間と争って行こう。(第5章、149頁)

かず子は、「女大学」にそむいて、妻子ある上原と関係を持ち、上原の子を身ごもります。
上原の妻に恋していながら、最後まで思いをとげることが出来ずに、自殺した直治と比べて、最終章のかず子は「ひとすじの恋の冒険」を成就させ、「よい子を得たという満足」があり、「幸福」です。
しかし、かず子と「私生児」として生まれる子供の未来は、きわめて困難だろうと容易に予想できますよね。
かず子は、自分が「古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています」と言い、困難な未来を見据えて、すでに覚悟を決めているように見えます。
その覚悟があるからこそ、かず子の胸のうちは「森の中の沼のように静か」であり、「孤独の微笑」の境地に至っているのだと思います。

けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけ得たと思っています。そうして、こんどは、生まれる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。
こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。(第8章、202頁)

私生児と、その母。
けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。(第8章、202頁)

発表当時の読者にとって、かず子は主体的で、進歩的な女性像、自立する女性像として、賛否両論だったと思います。
現代の日本では、2010年度の総務省統計局調べによると、108万人強のシングルマザー人口があり、そのうち未婚のシングルマザーは12%程度で、13.2万人と言われています。
家族観が多様化した現代のわたしたちにとって、離婚や死産を経験して、未婚のシングルマザーになるという女性像は、新鮮さや衝撃は薄く、とても身近な存在として感じます。

『斜陽』には、「ほんものの貴婦人」である「お母さま」や、デカダン生活をする直治や上原、「地味な髪型」で「貧しい服装」でも清潔感があり、「高貴」なほど「正しい愛情のひと」である上原の妻など、生活感の無い、浮世離れした登場人物が多いです。
かず子だけは、生活が逼迫しても、「地下足袋」姿で「ヨイトマケ」までする<強さ>や<たくましさ>があり、「血の匂い」がするような、生き生きとした人物として感じられますね。


2013年9月4日に、結婚していない男女間に生まれた非嫡出子(婚外子)の遺産相続分を、結婚した夫婦の子の2分の1とした民法の規定について、最高裁大法廷が「法の下の平等」を保障した憲法に違反する、という決定を出しました。
最高裁は1995年に、民法のこの規定を「合憲」と判断しており、「合憲」判断を覆しての、歴史的な「違憲」判断です。
婚外子の相続格差の規定は明治時代に設けられ、戦後の民法に受け継がれたもので、婚外子に対する差別を助長してきたと言われています。
この「違憲」判断をきっかけに、『斜陽』発表から66年経った現在でも、かず子の言う「道徳革命」は未だ完成されておらず、まだまだ「革命」の途上であることを気づかされました。
「古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きる」というかず子の力強いメッセージは、これからも多くの女性たちを励まし、勇気づけることでしょう。

◆◆◆

『斜陽』では、<蛇>のモチーフが何度も登場します。
かず子の父親が亡くなる直前に、枕元に蛇があらわれ、父親が亡くなった当日には、庭の木という木すべてに蛇がまきついていました。
臨終の枕元の蛇は、かず子のほか、母親と「和田の叔父さま」も目撃しています。
庭木の蛇は、かず子しか目撃がおらず、現実には起こりそうもない、幻想的な光景なので、かず子の幻視かもしれません。

伊豆へ引越してから、庭の垣の竹藪に蛇の卵を見つけ、かず子は蝮の卵だと勘違いして、たき火で卵を燃やします。
どうしても卵は燃えず、かず子は卵を庭に埋葬して墓標を作りました。
その後、庭に何度か蛇があらわれるようになり、かず子と母親は、卵の母親である女蛇だと考えます。
かず子は、自分の胸の中に「蝮みたいにごろごろして醜い蛇」が住んでいるように感じ、「お母さま」を「悲しみが深くて美しい美しい母蛇」に重ね合わせて、かず子=蝮が、「お母さま」=美しい母蛇をいつか食い殺してしまうと感じます。

「卵を焼かれた女蛇」には、第一に、子供を死産したかず子自身が投影されています。
かず子は、「卵を焼かれた女蛇」と<子の喪失>感を共有していますが、かず子は卵の殺害者でもあり、死産=<子殺し>のイメージがあるのかもしれません。
かず子が、「卵を焼かれた女蛇」を「お母さま」に重ね合わせるのは、「お母さま」と<子の喪失>感を共有していたからでしょう。
蛇の卵を燃やす事件は、直治の帰還前の出来事です。
直治は、南方の戦地で消息不明になり、終戦後も帰還しなかったため、「お母さま」は「もう直治には逢えない」と覚悟しつつも、たびたび直治を思い出し、悲しみを深くしていました。
そのため、「物憂げ」な「美しい母蛇」と「お母さま」を重ね合わせたのだと思います。


『斜陽』の構成は、現在と過去の出来事が時系列順ではなく、順序バラバラに配置されています。
一見無造作に並べられているようですが、かず子が現在のある出来事から連想して、過去のある出来事を思い出すという形式であり、実は現在と過去の出来事は密接に結びついているのです。

伊豆の家で、朝食にスープを一さじ飲んだ時に、「あ」と小さな声を出します。
「あ」と言う時、母親は戦死したであろう息子を思い出しており、かず子は6年前の離婚を思い浮かべています。
この朝食の出来事から、<子の喪失>というイメージが連想され、かず子は数日前の蛇の卵を焼く事件を回想していくのです。
<蛇>から連想して、10年前の父親の臨終にあたって、枕元に蛇があらわれ、庭木に蛇がからみついていたことを回想します。
そして<喪失>のイメージは、日本の敗戦によって東京・西片町の家を売り、家財を売り、伊豆へ移住する出来事の回想へとつながっていきます。
再び現在の朝食の出来事にもどり、かず子は「私の過去の傷痕」がちっともなおっていないと実感し、自分の内面に「蝮」を宿す方向へ進んでいくのです。
朝食の出来事から数日後(蛇の卵の出来事から約10日後)に、火の不始末から、小火騒ぎが起こります。
小火騒ぎによって、かず子は自分の内面に「意地悪の蝮」が住み、「野生の田舎娘」になって行くという気持ちを強くし、畑仕事に精を出すようになります。
およそ貴族らしからぬ、肉体労働に汗を流すイメージは、かず子が戦時中に徴用され、「ヨイトマケ」までさせられた回想につながり、「畑仕事にも、べつに苦痛を感じない女」という自覚に至ります。


<喪失>の象徴としての「美しい母蛇」を母親と同化させ、自分は「蝮」のような「醜い蛇」と設定することにより、かず子は<生命力>の象徴としての「蛇」を内面化していきます。
毒をもたない「美しい蛇」よりも、毒をもつ「蝮」には、より<強さ>や<たくましさ>があります。
「蛇」は、脱皮をすることから<死と再生>のイメージがあり、豊穣神・地母神の象徴とされ、日本を含め、世界各地で古くから崇められてきました。
かず子は、敗戦による貴族階級の<死>、離婚と死産という「過去の傷痕」から<再生>し、生きることの「醜さ」や「きたなさ」を受け入れて、生命力あふれる「蝮」=「野生の田舎娘」へと変身していくのだと思います。


その後、かず子は「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」という新約聖書の言葉を引用して、上原に第1の手紙を書きます。
上原に対する「恋」は、「非常にずるくて、けがらわしくて、悪質の犯罪」であると、かず子は自覚しており、第1の手紙は「蛇のような奸策」に満ち満ちていたと書いています。
母親の死後、かず子は「蛇のごとく慧く」、直治を伊豆に残して、上原に会うために東京に行きます。
上原に対する「恋」において、かず子は聖書の「蛇」のイメージを繰り返し用いています。

旧約聖書『創世記』では、「主なる神が造られた野の生きもののうちで、最も賢いのは蛇」であり、「蛇」の<誘惑>に負けて、アダムとエバは主なる神にそむいて「善悪を知る者」となり、「エデンの園」から追放されました。
かず子が引用した「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」という言葉は、『マタイによる福音書』10章16節に記されています。
『マタイによる福音書』10章は、「天の国は近づいた」とイスラエルの人々に宣べ伝えるため、弟子たちを派遣するにあたり、イエスが弟子たちに心構えを語っています。
「天の国は近づいた」と宣べ伝え、病人をいやし、金貨や銀貨などの対価を受け取らず、「平和があるように」と願うことが語られています。
「迫害」があることもあらかじめ予告され、捕えられ、鞭打たれ、憎まれることが予告されますが、「蛇のように賢く、鳩のように素直になり」、むやみに殉教せず、一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げること、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」ことが語られています。

かず子は19歳までイギリス人の女教師のもとで学んでいたせいか、たびたび聖書の言葉を利用しています。
貴族として<死>に、民衆として<再生>することを、「イエスさまのような復活」と表現しています。
母親の死後、かず子は上原への「恋」をしとげるため、「古い道徳」に対して「戦闘、開始」を宣言し、『マタイによる福音書』10章から引用して、「恋ゆえに、イエスのこの教えをそっくりそのまま必ず守る」と誓います。
最後に、上原の子を身ごもったかず子は、自分を「マリヤ」になぞらえて、「マリヤが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になる」とまで語るのです。


かず子は、自然の生命力にあふれる「蝮」を内在化し、毒をもったずる賢い「蝮」として、上原を<誘惑>していきます。
このように、『斜陽』において<蛇>はきわめて重要なモチーフであり、<蛇>のイメージの内面化によって、かず子の内面の変化を描いています。
かず子が<蛇>化する過程において、太古からの<蛇=豊穣神・地母神>のイメージと、聖書における<蛇=賢い誘惑者>のイメージが、絶妙にミックスされており、読めば読むほど面白く感じました。



読了日:2012年11月27日

斜陽 他1篇 (岩波文庫)
斜陽 他1篇 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1988/05/16

2013/07/31

ボフミル・フラバル「あまりにも騒がしい孤独」

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)
あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)
  • 発売元: 松籟社
  • 発売日: 2007/12/14

ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』(石川達夫訳、松籟社)を読みました。
2013年6月の読書会課題本でした。

ボフミル・フラバル(1914年~1997年)は、ミラン・クンデラ(1929年~)と共に、20世紀のチェコ文学を代表する作家です。
フランスに亡命し、フランス語で著作したクンデラよりも、チェコ国内にとどまり、チェコ語で著作し、地下出版を続けたフラバルの方が、チェコ国民の人気が高いようです。
日本では、クンデラの方がよく知られていますが、フラバルも大変面白かったので、もっと翻訳が増えて、読者が増えてほしいですね。


『あまりにも騒がしい孤独』は、プラハで35年間にわたって、地下室の小さなプレスで、故紙を潰す作業をしてきた労働者ハニチャが主人公です。
この作品は、社会主義時代には出版を許されず、長い間タイプ印刷の地下出版で、読まれてきました。

「僕」=ハニチャの一人称の語りで物語が進みますが、大量に飲酒をしながら仕事をするハニチャは、明らかにアルコール依存症であり、信頼出来ない語り手です。
主人公ハニチャの青年時代の思い出と、アルコールによる幻視、地下室とアパートを往復する現在の生活が織り交ぜられた、幻想的な作風でした。
わたしは、ボリス・ヴィアンの『日々の泡』(『うたかたの日々』)のような、どこから幻想で、どこから現実なのか分からない作品が好きでして、フラバルも面白く読むことが出来ました。

※ネタバレ注意※


ハニチャの回想には、若かりし頃に交友のあったマンチンカという女性、亡母、叔父、そして青春の恋人であるジプシー娘(イロンカ)が登場します。
第1章では、ハニチャはすでに35年間働いており、あと5年で年金生活という年齢です。
物語開始現在では存命だった叔父も、第5章で亡くなり、ハニチャによって手厚く葬られます。
現在のハニチャを取り巻く人々として、ハニチャを罵倒する所長(ボス)や、地下室に故紙を運んで来る二人のジプシー娘、ハニチャが故紙の中からこっそり持ち出した新聞・雑誌や本を買い取る、元美学教授や聖三位一体教会の管理人フランチーク・シュトゥルムなどが登場します。
物語の中で断片的に描かれている、現在と過去の出来事、そして幻想を整理し、時系列にまとめると、上の図になります。
この図は、物語の構成を図示したものですが、ハニチャの人生そのものですね。


物語の中では、「35年間」という数字が何度も登場します。

三十五年間、僕は故紙に埋もれて働いている―これは、そんな僕のラヴ・ストーリーだ。(7頁、第1章冒頭)

三十五年間、僕は故紙を潰していて、その間に収集人たちが地下室にすてきな本を山ほど投げ入れたので、もし僕が納屋を三つ持っていたとしても、一杯になってしまったことだろう。(18頁、第2章冒頭)

三十五年間、僕は故紙を潰しているけれど、もしもう一度選ばなければならないとしても、この三十五年間にしてきたこと以外の何もしようとは思わないだろう。(32頁、第3章冒頭)

このように、「三十五年間」という言葉から始まる章が、第1章、第2章、第3章、第6章、第7章と、全部で8章あるうちの5章もあります。
第1章だけで、「三十五年間」という言葉は、12回も使われているのです。
作者ボフミル・フラバルは、なぜこれほど「35年間」という数字を強調したのでしょうか?
ハニチャの年齢について、物語中で明らかにされていませんが、「僕は三十五年間、水圧プレスで故紙を潰していて、年金生活まではあと五年だ。」(15頁、第1章)という記述から、20歳から60歳まで40年間働くとして、現在55歳頃であると推測できます。
『あまりにも騒がしい孤独』が1976年発表であることから、ヒトラーによってチェコが保護領となり、ドイツに占領された1939年3月から、執筆当時の現在(1974年頃)までの「35年間」を指しているのではないかと思います。
この物語は、同時代に生きるチェコの人々に向けて書かれており、当時の読者は、現代のわたしたちよりもはるかに敏感に、「35年間」という数字の象徴性や意味を読みとったことでしょう。


読書会では、グロテスクで生理的に受け付けない、二度と読みたくないといった感想も聞きました。
地下室の故紙集積場には、新聞・雑誌や本のほかに、アイスクリームの包み紙、ペンキの散った紙、食肉公社から出た血のついた紙までが運び込まれ、ハニチャは毎日紙の山全体に水を播きます。
そのため、地下室はいつも湿って黴臭く、ネズミが巣食い、ハニチャは血まみれで作業をします。
現代の古紙リサイクルの常識からすると、食品で汚れた紙や、油やペンキで汚れた紙、血のついた紙はもちろん、水に濡れた紙全体が、製紙工場で禁忌品とされるものです。
リサイクル産業の中でも、古紙リサイクルの現場は特にキレイですから、ハニチャの作業風景にはびっくりさせられました。
ハニチャの作業風景では、明らかにリサイクル不可能ですので、大変リアルに描かれていますが、全て作者フラバルの虚構である可能性があります。
あえて虚構の作業風景を描いたとすると、ハニチャの作業風景をグロテスクに、よりグロテスクに描き出すことに、作者の意図があったように思えるのです。

ハニチャは、小さなプレスで故紙を圧縮して紙塊を作るという単純な作業に、独特のこだわりを持って向き合い、手間と時間をかけて作業し、こだわりの紙塊を作ることに喜びを見出しています。
レンブラントの「夜警」や、マネの「草上の昼食」、ピカソの「ゲルニカ」で側面を飾り、心臓部にはゲーテの『ファウスト』や、ヘルダーリンの『ヒュペーリオン』、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を入れて、紙塊を作ります。
ハニチャは、紙塊を作る作業は「美しい創作になる仕事」であり、自分は自分にとって「芸術家であると同時に観客でもある」と言います。
ハニチャが「僕のミサ、僕の儀式」と言うように、彼の紙塊に対するこだわりは、名高い巨匠たちの複製画や、ドイツを代表する文学・哲学の<死>を悼み、手厚く<埋葬>する儀式として理解できます。
母や叔父についても、<死>と<埋葬>というテーマが共通して描かれています。
母が火葬され、遺骨を手回し臼でこなごなに砕かれる場面は、プレスによる故紙や本の圧縮を連想させますし、とっておきの美しい紙塊を作るように、叔父が生前大切にしたもので叔父の棺を飾ります。
ネズミが巣食い、蝿が飛び、湿って黴臭い地下室というグロテスクさと対照的に、ハニチャの紙塊作りは、美しく神聖ですらあります。
「きれいはきたない、きたないはきれい」という、シェイクスピアの『マクベス』の言葉を思い起こしますね。

◆◆◆

第4章では、醜悪さと神聖さが同時に描かれるという、この物語の特徴が、最も強烈に表現されています。
食肉公社の血まみれの紙が運ばれ、地下室には肉蝿が飛び回り、ハニチャは大量に飲酒をしながら、血まみれで紙塊を作ります。
アルコールの影響か、作業をするハニチャには、イエスと老子の幻が見えるのです。
血と蝿と、イエスと老子という組み合わせの強烈さ、混沌さにはくらくらしますね。

だから今日、僕の地下室に、僕の好きな二人の人物が来ても、別に驚かなかったし、二人が並んで立っていたので、どちらがどれくらいの年かということが、二人の思想を知るためにすごく重要だということに、初めて気づいた。そして、蝿たちが狂ったように踊って唸り、僕が作業衣を湿った血で濡らして、緑のボタンと赤のボタンを交互に押している間にも、イエスは絶えず丘の上に上って行き、一方、老子はもう頂上に立っているのが見えた。(48-49頁、第4章)

ハニチャが見た幻の中で、イエスと老子は、とても対照的な人物として描き出されています。

<イエス>
  • 絶えず丘に上って行く
  • 義憤に駆られた若者は世界を変えようとしている
  • 奇跡に向かう現実を祈りで呪っている
  • 若い男やきれいな娘たちの集団の真ん中で始終義憤に駆られている
  • 楽天的な螺旋
  • いつも葛藤とドラマに満ちた状況の中にいる

<老子>
  • もう頂上に立っている
  • 諦念に満ちたように周りを眺めて、原初への回帰によって自らの永遠を裏打ちしている
  • 「道」を通って自然の理法に従い、ただそのようにしてのみ博学な無知に至る
  • まったく独りで、威厳のある墓を探し求めている
  • 出口のない環
  • 静かな瞑想の中で、矛盾に満ちた道徳的状況の解決しがたさについて思いをめぐらせている

イエスを義憤に駆られる若者、老子を諦念に至った老人として描かれいますが、イエスと老子=<若者>と<老人>の優劣比較として解釈するのは間違いだろうと思います。
イエスと老子について、ハニチャはあらかじめ「僕の好きな二人の人物」と前置きしており、ハニチャがイエスと老子のどちらにも共感していることが分かります。
グロテスクさと神聖さが同時に存在することと、若々しさと老人の諦念が同時に存在することはつながっており、この物語の注目すべき特徴です。


イエスと老子=<若者>と<老人>と同じ対比が、第8章でも登場します。
ハニチャはイグナティウス・デ・ロヨラ教会を見て、「陸上選手みたいに躍動感にあふれている」カトリックの像たちと、「車椅子に麻痺したように座っている」チェコ文学の大家たちの像を見ます。

僕は、人間の体は砂時計なのだと思う―下にあるものは上にもあり、上にあるものは下にもある。それは、上下に重ね合わされた二つの三角形であり、ソロモンの印であり、ソロモン王の青春の書『雅歌』と、「空の空」という老君主としての彼のまなざしの結果である『伝道の書』との釣り合いだ。(126頁、第8章)

8章では、一人の人間の中に若さと老いが同時に存在することを、「砂時計」と「ソロモンの印」に喩えて説明しています。
上下に重ね合わされた二つの三角形である「ソロモンの印」は、「ダビデの星」と呼べば、すぐに六芒星(ヘキサグラム)をイメージ出来るでしょう。
この図形は、上下逆さまにしても同じであるため、<上>と<下>は相対的な概念になります。

若者の歌
恋人よ、あなたは美しい。
あなたは美しく、その目は鳩のよう。

おとめの歌
恋しい人、美しいのはあなた
わたしの喜び
わたしたちの寝床は緑の茂み。
レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。(「雅歌」1章15節-17節、新共同訳)

旧約聖書の『雅歌』は、若い男性と女性の間で交わされた、愛の相聞歌集です。
1章1節に「ソロモンの雅歌」と記されているため、ソロモン王が実際に書いたかどうかは別として、ハニチャが「ソロモン王の青春の書」と言うことは頷けます。
『雅歌』は、花婿役と花嫁役の歌と合唱が交互に進行し、オラトリオや教会カンタータのようです。
結婚へのあこがれや期待、夢、花嫁への礼讃、花嫁の舞踏、そして相思相愛が歌われ、若々しく幸福感にあふれています。

コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることはなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。(「コヘレトの言葉」1章2節-7節、新共同訳)

ハニチャの言う『伝道の書』は、旧約聖書の『コヘレトの言葉』を指します。
実際には、ソロモン王よりもずっと後の時代に書かれたものらしいと考えられていますが、1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と記されているため、ハニチャが『コヘレトの言葉』を老ソロモン王が書いたと言うのも分かります。
コヘレトは、「伝道」や「伝道者」という意味の言葉で、この当時の「伝道者」とは「会衆に向かって人生哲学を説く人」といった意味で、キリスト教の伝道や伝道者といった意味とは異なります。
『コヘレトの言葉』は、「すべては空しい」という虚無思想と、それに耐えようと努力する自問自答が記されています。

ハニチャは、上は下に、下は上になる「砂時計」や「ソロモンの印」のように、若さあふれる『雅歌』も、すべてが空しい『コヘレトの言葉』も、どちらもソロモン王その人の中で同時に存在し、釣り合っているのだと言いたいのでしょう。
この物語全体で、老いたハニチャの現在と、若かりし頃の回想が、交互に断片的に描かれていることも、ハニチャ自身が「砂時計」であり「ソロモンの印」であることを表現しているように思えます。

こうした思想を持ちながら、現実には、「社会主義労働班」の若者たちの登場によって、老いたハニチャは35年間勤めた故紙を潰す仕事から追われ、ついに自殺を選んでしまう結末が、なんとも皮肉ですね。

◆◆◆

この物語を通して、「プラハの春」が挫折した後の、「正常化」と呼ばれるバックラッシュの時代に、検閲と言論統制がどれだけ厳しかったかが、よく分かります。

でも、僕が一番感銘を受けたのは、クマネズミとドブネズミがちょうど人間と同じように全面戦争を行って、その一つの戦争はもうクマネズミの完勝に終わったという、学問的知見だった。けれども、クマネズミはすぐに二つのグループ、二つのクマネズミ党派、二つの組織されたネズミ社会に分裂して、ちょうど今、プラハの下のあらゆる下水道、あらゆる排水溝で、生死を賭けた熾烈な戦いが行われている―どちらが勝者になり、したがって、傾斜下水道を通ってポドババに流れ込むあらゆるゴミと汚物への権利をどちらが獲得するかをめぐる、大クマネズミ戦争が行われているんだ。(34頁、第3章)

35年間故紙を潰し、自分の仕事に誇りと生きがいを持っているハニチャは、『狙われたキツネ』の主人公アディーナのように、秘密警察から監視されたり、命を脅かされたりすることはありません。
しかし、この物語の中には、政治的メッセージが随所に盛り込まれています。
クマネズミとドブネズミの戦争はクマネズミの勝利で終わったが、すぐにクマネズミは内部分裂して、現在は大クマネズミ戦争の真っ最中であるというエピソードは、そのまま読んでも面白いですが、明らかに寓話として読めますよね。
共産党をクマネズミ、民主党、人民党などの反共勢力をドブネズミに見立て、共産党と反共勢力の全面戦争は、1948年のクーデターが失敗して、共産党の完勝に終わったが、共産党内部でも保守派と改革派に分裂し、1968年の「プラハの春」から、「正常化体制」の現在まで、生死を賭けた熾烈な戦いが行われている、というイメージでしょう。



チェコスロヴァキアとボフミル・フラバル


フラバルは、1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったチェコに生まれます。
1914年と言えば、ハプスブルク家の皇位継承者フランツ・フェルディナンドがセルビアで暗殺されたことを発端に、ヨーロッパが第一次世界大戦に突入した年です。
第一次大戦の激動と混乱のさなか、1918年に新国家チェコスロヴァキアは産声をあげます。
チェコスロヴァキアの民族構成は複雑で、1931年の統計によると、チェコ人とスロヴァキア人は両方で「チェコスロヴァキア民族」を構成するという建前になっており、チェコ・スロヴァキア人が66.9%、ドイツ人が22.3%、ハンガリー人が4.8%、ウクライナ人・ロシア人が3.8%、ユダヤ人が1.3%、ポーランド人が0.6%でした。
1930年代に、世界恐慌の影響がチェコスロヴァキアにも及び、特に軽工業が盛んなドイツ人地域が打撃を受けます。
ドイツ系住民が多数を占めるズデーテン地方では、チェコスロヴァキアからの分離独立を求めるズデーテン・ドイツ党(ズデーテン・ドイツ郷土戦線)が支持を広げ、1938年3月にオーストリアを併合したヒトラーは、9月にはズデーテン地方の割譲を要求し、10月にドイツ軍がズデーテン地方に侵攻しました。
1939年にはスロヴァキアはドイツの保護国となり、チェコはドイツの保護領として占領下に置かれ、チェコスロヴァキア共和国は消滅し、第二次世界大戦を経験することなります。
この年、フラバルは25歳です。

占領下のチェコでは、一切の政治的自由は奪われ、チェコのユダヤ人はもっとも悲惨な運命に見舞われ、チェコとスロヴァキア合わせて約27万人のユダヤ人が犠牲になったと言われています。
ロマもまた絶滅政策の対象となって、過酷な運命に見舞われました。
そして1945年、ドイツ軍はチェコとスロヴァキアの領土から、ソ連軍をはじめとする連合軍によって撃退され、5月には首都プラハがソ連軍の手によって解放されたのでした。
この年、フラバルは31歳です。

復活したチェコスロヴァキア共和国内では、ズデーテン・ドイツ人の存在自体が共和国解体の原因であるとみなされ、ドイツ系住民に対する報復行為が始まり、大統領令で正式にドイツ系住民の財産没収や権利の制限が行われ、組織的な強制移住が進められた結果、約300万人のドイツ系住民が追放され、ドイツやオーストリアに難民として移りました。
チェコスロヴァキアでは、長い間、この問題にふれること自体がタブーとされてきましたが、フラバルが結婚したエリシュカ・プレヴォヴァー(1926年~1987年)という女性は、国内に残った数少ないドイツ系住民の一人であり、フラバルはマイノリティである妻の視点を通して、チェコとチェコ人を見ることが出来たと言われています。

政治的には、チェコスロヴァキアは戦前の民主主義体制が復活し、1946年に総選挙が行われて、共産党が第1党となります。
1948年2月に、国民社会党、民主党、人民党が協力して、共産党党首ゴットヴァルトを首相とする内閣を倒そうとしましたが、失敗します。
その後、共産党による一党独裁体制が急速に形成され、6月にゴットヴァルトが大統領となり、チェコスロヴァキアは事実上、社会主義共和国となりました。
東西の冷戦が緊張の度を増すなかで、チェコスロヴァキアではソ連のスターリン体制にならった抑圧的な政治が行われました。
1953年にソ連でスターリンが死去し、フルシチョフによるスターリン批判が行われ、ハンガリーやポーランドなど東欧諸国で体制批判の運動が起こったときも、チェコスロヴァキアでは大きな動きはありませんでした。

しかし1960年代に入り、西側諸国との経済的格差が明らかになり、生活水準の低下が目立ち始めると、チェコスロヴァキアの共産党内部にも、これまでの路線を見直し、社会主義建設をやり直すべきだとの議論が高まります。
1968年1月にアレクサンデル・ドゥプチェクが第一書記に任命されたときから、「人間の顔をした社会主義」をスローガンに、検閲の廃止、旅行の規制緩和、市場原理導入の方針が決められ、改革の動きが急速に進みました。
後に「プラハの春」と呼ばれる1968年の改革に対して、ソ連政府はチェコスロヴァキアが東側陣営から離脱するのではないかとの懸念を強め、軍事介入に踏み切ります。
同年8月、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構5ヵ国の軍が、突如チェコスロヴァキア領内に侵攻し、進駐する戦車と抗議する群衆の衝突で、国内は大混乱に陥ります。
こうしてチェコスロヴァキアの大胆な試み「プラハの春」は挫折し、改革派の共産党指導部は排除され、全党員の三分の一にあたる約50万人が党から追放されました。
そして、「正常化」と呼ばれる極端に保守的な体制が訪れるのです。
この年、フラバルは54歳。

「正常化体制」は、経済的には停滞し、政治・社会的な自由も制限された重苦しい時代でしたが、政府の政策に異議を唱えない限り、国民には一定程度の生活が保障されていました。
社会主義政権によって、各都市に次々と集合住宅が建てられ、人々はそこに住居をあてがわれて、職場との往復をする毎日を過ごします。
スーパーマーケットの品揃えは貧弱で、品質も満足ではなく、サービス部門の劣悪さには定評があり、能率が悪い、応対が不親切などの不満は並べればきりがなかったと言います。
夏になれば、1~2週間の休暇をとって、山岳地帯の保養施設などでくつろぎ、人によっては同じ社会主義国のユーゴスラヴィアかブルガリアなどの海岸にある保養地に旅行することも出来、これが最高のぜいたくとみなされていました。
人々は、こうした暮らしに対し、一種のあきらめと、これもそれほど悪いものではない、という気持ちを半々に抱きながら暮らしていたようです。
もちろん、いつまでこの体制が続くかについては、一切口にしないという暗黙の了解も成り立っていました。
この政治的な無関心が社会を覆う中で、一部の知識人たちは、人権擁護運動というかたちの異議申し立てを続け、1977年からは人権運動「憲章77」を開始します。
「憲章77」の発起人のひとりである劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルは、何度も投獄されながら、運動の中心となって活動しました。

ソ連で始まったペレストロイカ政策は、チェコスロバキアにとっても転機となります。
1989年11月、プラハの学生たちは長年の抑圧に対する抗議の声をあげ、政府を批判するデモが連日繰り返され、政府はついに屈しました。
共産党は一党独裁体制を放棄し、12月には民主化運動の指導者であったヴァーツラフ・ハヴェルが大統領に選ばれます。この革命が、暴力を伴わずに成功した、いわゆる「ビロード革命」です。
この年、フラバルはすでに75歳。
検閲が厳しいために、フラバルは地下出版や亡命出版社から作品を発表していましたが、「ビロード革命」による検閲廃止の後、フラバルの作品はどっと出版され、全19巻のフラバル全集も出版されました。
新しい共和国は、政治的・社会的自由を保証し、早期に市場原理を導入して経済立て直しを目指しますが、大きな問題がたちはだかります。
急激な市場経済化を進めたいチェコ側と、穏健な改革を求めるスロヴァキア側との対立、さらにスロヴァキア側の民族的主張が強まり、主権国家を求める声が一気に噴出します。
1993年1月、ついにチェコとスロヴァキアは正式に分離し、「チェコスロヴァキア」は世界地図上から静かに消えていったのです。
そして1997年、いくつもの激動や大転換を経験したフラバルは、82歳で亡くなりました。


参考:薩摩秀登『図説 チェコとスロヴァキア』(河出書房新社、2006年)
林忠行『粛清の嵐と「プラハの春」 チェコとスロヴァキアの40年』(岩波ブックレット、1991年)



読了日:2013年6月23日

2013/05/27

ヨハンナ・シュピリ「アルプスの少女ハイジ」

アルプスの少女ハイジ (角川文庫)
アルプスの少女ハイジ (角川文庫)
  • 発売元: 角川書店
  • 発売日: 2006/07


ヨハンナ・シュピリ『アルプスの少女ハイジ』(関泰祐・阿部賀隆訳、角川書店)を読みました。
先日、アニメ「アルプスの少女ハイジ」の再放送を観て、手に取りました。
アニメよりも、原作の方がずっと良いと思います。とても感動しました!

アニメのハイジは、明るく元気なところが魅力です。
原作でも、明るく元気なところは同じですが、それよりもハイジの美点として強調されるのは、利発であることです。
原作では、ハイジの利発さが、作品冒頭から強調されているため、おじいさんがハイジを教会にも学校にも行かせず、学校に行かせるよう説得に来た牧師を拒否する、というエピソードが、より際立っています。

ゼーゼマン家において、ハイジは読み書きとともに、信仰を教えられます。
クララの祖母であるゼーゼマン夫人は、ハイジに祈ることを教え、挿絵つきの聖書物語をプレゼントしました。
クララの家庭教師が、どんなに苦労しても、読み書きを覚えなかったハイジは、「羊飼と羊の絵」を読みたいという気持ちから、読み書きを覚える意欲が湧き、持ち前の利発さで、あっという間に物語を読めるようになります。

ハイジの一番好きな絵は、やはりあの羊飼の絵でした。はじめの絵では羊飼いはまだ自分の家にいて山羊の世話をしていました。次の絵では、その羊飼が自分の家を逃げ出して、とうとう豚の番人をしなければならなくなり、食べ物もろくに食べないものだから、だんだん痩せ衰えてゆきました。そこでは太陽の光さえもあまり明るくなくて、何もかもぼんやりとしていました。けれども、このお話には第三の絵がついていました。そこでは、年とったお父さまが、後悔してもどって来た子供を迎えようと、腕を広げてかけ出していました。子供はぼろぼろの服を着、すっかり疲れ切って、おずおずと歩いて来るのでした。それがハイジの一番好きなお話で、幾度も繰り返し繰り返し読みました。(第10章、147-148頁)

ハイジは、聖書物語に収められている「放蕩息子」の物語が好きになり、本がすりきれるまで、何度も読みます。
ハイジは、「放蕩息子」の主人公と自分を重ね合わせて、いつか必ずアルプスの家に帰り、おじいさんが腕を広げて自分を迎え入れてくれることを夢見ていたのでしょう。


家に帰りたい気持ちがつのるも、誰にも打ち明けられないハイジの苦しみを察して、ゼーゼマン夫人は「神さま」に「すっかりお話する」ことを教えます。
ハイジは、その助言に喜んで従い、「神さまに自分の悲しみをすっかりお話しして」、「おじいさんのところへかえしてください」と熱心に祈りました。
しばらくたつと、ゼーゼマン夫人は、また悲しい顔をしているハイジを呼び、お祈りをしているかどうか尋ねます。
ハイジが、「毎日毎日、同じことをお祈りしましたけれど」、「神さまは聞いてくださらない」ため、「お祈りはやめました」と答えると、ゼーゼマン夫人は次のように諭します。

神さまはわたしたちみんなのよいお父さまなのです。そして、わたしたちのためになることは何でもしっていらっしゃるのです。だから、わたしたちが、ためにならないことをお願いしたりすると、神さまは許してくださいませんよ。でも、わたしたちが逃げてしまわないで、一生懸命にお祈りして神さまを信じていたら、だんだんと良くなってくるものです。神さまは、あなたのお願いしていることは、今かなえてあげてはかえってあなたのためにならないと、お考えになったのです。(第11章、150-151頁)

ハイジは、「もう神さまを忘れたりしません」と後悔して、再び神に祈りを奉げるようになります。
ついにスイス帰国が許され、おじいさんの家へ向かって、山を登っていく途中で、ハイジは緑の斜面に輝く夕日に心打たれ、初めて神への感謝を知るのです。

ハイジはあたりの景色をじっと見つめていました。幸福の思いで胸がいっぱいになって、涙は頬をつたって流れ落ちました。ハイジはわれを忘れて手を組み合わせると、空にむかって大きい声で神さまにお祈りを捧げました。家にかえれた嬉しさ、そしてあたりの景色がもとの通りに美しいことを、大声で神さまに感謝しました。ハイジは、赤々とした輝きが衰えはじめるまで、とても立ち去ることができませんでした。(第13章、184頁)

祈り、懐疑し、また祈り、やがて心から神を信頼して、被造世界を肯定し、感謝するに至る。
ヨハンナ・シュピリは、ハイジが信仰を獲得する過程を、子どもの目線に立って、丁寧に描き出していると思います。

◆◆◆

家へ帰ったハイジは、おじいさんに「放蕩息子」の物語を読み聞かせます。
作品冒頭で語られた、おじいさんの半生と「放蕩息子」の物語は、ぴったり重なり、まだ小さなハイジがこの物語を自分のこととして読んだように、おじいさんも「放蕩息子」に自分の人生を重ねて聞き入ります。

「放蕩息子」の物語は、ルカ福音書15章11~32節に記された有名な例話です。
家を出た息子が、落ちぶれて家に戻ってくると、罰するのではなく、心から喜んで受け入れる父親の愛が、神の愛である、というメッセージでしょう。
「放蕩息子」を読み聞かせる前に、ハイジとおじいさんは次のようなやりとりをしていました。

「一度したことはもうそれっきりで、取り返しがつかないんだ。誰も神さまにもどってゆくことはできないんだよ。いったん神さまに忘れられたら、永久に忘れられてしまうんだ」
「ちがうわ、おじいさん。神さまのところへはもどってゆけるのよ。」(第14章、197頁)

ハイジから「放蕩息子」の物語を聞かされた夜、おじいさんは大粒の涙を流して、神に立ち返るのです。
おじいさんは、もともと裕福な生まれで、教育も受けているので、もちろん「放蕩息子」の物語を知っていたはずです。
しかし、ハイジが「放蕩息子」の物語を、素朴に、生き生きと語った時、おじいさんは初めて、これは<自分の物語>であると悟ったのでしょう。

翌朝、おじいさんはハイジを連れて、村の教会に行くことを決心します。
おじいさんが、ハイジとともに礼拝に参加して、牧師や村人たちから再び受け入れられる場面は、作品全体の中で一番感動的でした。
おじいさんは、神も村人たちも、自分を軽蔑して見捨てたとして、教会や村から離れて暮らしていましたが、本当は自分から神を、村人たちを軽蔑し、見捨て、離れていたのですね。

ハイジが読み聞かせた「放蕩息子」の物語中で、父親は帰って来た息子を抱きしめ、「息子が生きかえったんだ」とお祝いします。

『アルプスの少女ハイジ』は、少女ハイジの成長物語(=信仰獲得)であるとともに、ハイジの素朴な信仰心による、おじいさんの「生き返り」物語(=信仰への復帰、共同体への復帰)だと言えます。

◆◆◆

角川文庫版の『アルプスの少女ハイジ』(関泰祐・阿部賀隆訳)は、第1章から第23章まで収められています。
実は、第1章「アルムおじさんの山小屋」から、第14章「日曜日の鐘」までが、『ハイジの修行と遍歴の時代』(Heidi's Lehr- und Wanderjahre , 1880年)として執筆・出版され、これだけで完結した独立の作品だったのです。
そして、第15章「旅行の準備」から、第23章「また逢う日まで」は、『ハイジは習ったことを役立てることができる』(Heidi kann brauchen, was es gelernt hat , 1881年)として、後から書かれた続編です。

『ハイジの修行と遍歴の時代』というタイトルは、ゲーテの2大長編小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』と『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』をもじったものです。
「修行」と「遍歴」の2つの時代を、一つの作品にまとめているのだから、ヨハンナ・シュピリにとって、『ハイジの修行と遍歴の時代』は完全な物語であり、もともと続編を書くつもりがなかったことは、明らかです。

現在では、第1部と第2部(続編)が1冊にまとめられていますが、おじいさんの社会復帰を描いた第14章「日曜の鐘」が、全体で最も盛り上がり、感動的に描かれていることも、本来はこの第14章で物語が完結していたことを知ると、大変納得ですね~。

ヨハンナ・シュピリは、第1部において、「修行と遍歴の時代」を経て、内面的成長を遂げたハイジに、おじいさんの社会復帰を導く役割を与えました。
続編を求める読者の手紙や、出版社の要望に応えて執筆した第2部(続編)では、持ち前の利発さと愛情深さ、素朴な信仰心によって、ハイジはさらに多くの人びとを幸福に導くのです。
讃美歌を歌って、ペーターのおばあさんの心を慰め、娘を失って悲しむ医者の心を慰め、クララの治癒を助けます。

そして、社会復帰を果たしたおじいさんは、第2部(続編)では経験豊かで、思慮深い人物に変わり、ハイジとともに人びとを幸福に導く役割が与えられています。
ゼーゼマン夫人から信頼され、戦地での看護経験を活かしてクララの治癒を助け、フランクフルトからアルプスに移住した医者と素晴らしい友情を築くのです。
ハイジの助力で立ち直った医者は、ハイジを養女に迎えることを希望し、おじいさんが心から医者に感謝し、ハイジの将来を託して、堅い握手を交わし、物語は終わります。

◆◆◆

アニメ「アルプスの少女ハイジ」では、ハイジの信仰獲得と、おじいさんの社会復帰という最重要テーマが、省かれています。

アニメでは、おじいさんが教会や村から離れて暮らしている理由が明らかにされず、ただ村人から恐れられ、嫌われているているだけです。
ハイジは、ゼーゼマン夫人から信仰を教えられることがなく、聖書物語もプレゼントされないので、おじいさんに「放蕩息子」の物語を読み聞かせるエピソードも無く、二人で教会に行く場面も無いのです。
ハイジが読み書きを覚えたことを知り、冬の間は山を降りて、学校に行かせる決心をしますが、最後まで共同体との和解は描かれません。

フランクフルトの医者が、翌年にアルプスを訪れますが、娘を失ったという重要設定が省かれているので、ハイジに慰められる必要はなく、最後にスイスに移住することもなく、ハイジを養女にする結末もないのです。

ペーターが、クララや医者に嫉妬して、不機嫌になり、医者を威嚇したり、クララの車いすを落として壊すエピソードも省かれ、最初から最後までクララに親切で、協力的です。
ペーターの弱さや情けなさが描かれるからこそ、ハイジの善良さ、やさしさが際立つのですが、アニメではペーターも善良でやさしい人物として描かれています。

ロッテンマイヤー女史は、クララのアルプス旅行に同行しないのですが、アニメではクララを連れてアルプスを訪れ、泥だらけになって山を登り、動物に悲鳴を上げて気絶したりします。
しつけに厳しいロッテンマイヤー女史の悪いイメージを打ち消し、本当は善良な人物であると演出するために、アニメ後半では愉快で滑稽な姿で描かれているのでしょう。

このようにアニメでは、原作の重要なエピソードをかなり省くとともに、エピソード改変による不自然さや不足分を補う創作エピソードを非常に多く加えています。
結果として、ハイジの利発さや愛情深さ、素朴な信仰心という美点が薄れてしまったように思います。
アニメのハイジは明るく元気なことだけが取り柄で、思慮の浅さや、分別の無さが悪目立ちし、自分勝手で聞きわけの無いわがままな子ども、という印象です。

原作からは、わたしたちは神を信頼し、祈り、感謝することによって、困難に耐え、乗り越えることが出来る。たとえ神を忘れ、離れてしまったとしても、わたしたちは神に立ち返ることが出来るし、神はいつでも赦し、受け入れてくださる、というヨハンナ・シュピリのメッセージが伝わってきます。
アニメは、神への信仰というテーマを全くなくしたことによって、シュピリの意図からはずれているばかりか、最終的な結末すら変わっていますね。

これほど原作のエピソードを省き、創作エピソードを盛り込むなら、いっそ完全オリジナルアニメした方が良かったのでは、とすら思いました。



読了日:2012年8月17日

2013/01/09

ドストエフスキー「九通の手紙にもられた小説」


ドストエフスキー『九通の手紙にもられた小説』(1847年)を読みました。
新潮社『ドストエフスキー全集 1』に収録されている、小泉猛訳です。
ドストエフスキー全作品を読む計画の第3作目です。

1845年5月、24歳の若い無名作家だったドストエフスキーは、駆け出し作家のグリゴローヴィチと、詩人ネクラーソフに『貧しき人びと』を絶賛され、当時の批評界の大立者であったベリンスキーに紹介されます。
同年夏に、ドストエフスキーは『分身』の執筆を始めます。
『分身』執筆中に、ドストエフスキーはネクラーソフ、グリゴローヴィチと3人で、ユーモア雑誌「ズボスカール」(嘲笑う人)を企画します。
同年11月、「ズボスカール」のために、ドストエフスキーは『九通の手紙にもられた小説』を一夜で書き上げたのです。
雑誌刊行の許可が下りなかったため、『九通の手紙にもられた小説』は1847年に、ネクラーソフとパナーエフによる雑誌「同時代人」に掲載されました。


『九通の手紙にもられた小説』は、デビュー作『貧しき人びと』と同じく、書簡体小説です。
ピョートル・イワーヌイチと、イワン・ペトローヴィチとの間で交わされる往復書簡で構成されています。
ロシア文学者・翻訳者として有名な米川正夫氏は、「彼の作中もっとも無価値のものであることは間違いない」と酷評していますが、わたしは抱腹絶倒でした!
チェーホフのユーモア小説がお好きな方は、楽しめる作品だと思います。


以下に、物語の構成を整理してみましょう。

<第1の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (おそらく11月7日付)
    イワン・ペトローヴィチに相談があり、直接会って話したい。 イワン・ペトローヴィチ宅を訪問したが会えず、ダンスパーティーや劇場を探しても会えなかった。→嘘
    エヴゲーニイ・ニコラーイチを、何とか遠ざけてもらいたい。→嘘?

<第2の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ
    自分を探していたらしいが、自分はちゃんと自宅にいた。
    昨日はピョートル・イワーヌイチ宅を訪問したが会えず、ペレパルキン氏宅で探しても会えず、翌日もピョートル・イワヌーイチ宅を3回訪問したが会えなかった。
    ピョートル・イワヌーイチは自分との約束を無視している。 エヴゲーニイ・ニコラーイチは富裕な地主貴族の生まれ。

<第3の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ
    昨晩5時に叔母が卒中を起こし、危篤であるため、一晩中付き添っていた。→嘘
    翌日、叔母が持ち直したので、イワン・ペトローヴィチ宅へ伺ったが、会えなかった。→嘘
    タチヤーナ・ペトローヴナから、イワン・ペトローヴィチがスラヴャーノフ宅を訪問すると聞いたので、自分もスラヴャーノフ宅を必ず訪問する。→嘘

<第4の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ
    自分はスラヴャーノフ宅を訪問する予定は無かったが、ピョートル・イワーヌイチの手紙を読み、スラヴャーノフ宅を訪問するように、という指示であると判断して、スラヴャーノフ宅を訪れたが、会えなかった。 今朝もピョートル・イワヌーイチ宅を訪問したが、会えなかった。

<第5の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月11日付)
    昨夜の午後11時に、叔母が死去したため、イワン・ペトローヴィチに会えなかった。→嘘
    先週、イワン・ペトローヴィチから受け取った銀貨350ルーブリは、借用証書が存在していないので、借用したわけではない。→嘘?

<第6の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ (11月14日付)
    自分は、エヴゲーニイ・ニコラーイチが、ピョートル・イワーヌイチ宅へ出入りするよう仕掛けた。
    カード賭博で、エヴゲーニイ・ニコラーイチから金を巻き上げ、ピョートル・イワーヌイチと自分とで利益を折半する約束だった。
    しかし、ピョートル・イワーヌイチは、自分から銀貨350ルーブリを借り、エヴゲーニイ・ニコラーイチから巻き上げた金をも独り占めしようとしている。 銀貨350ルーブリと、約束したカード賭博の利益の分け前を要求する。

<第7の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月15日付)
    今後いついかなる場合にも、イワン・ペトローヴィチと会うことはない。自分の妻が、タチヤーナ・ペトローヴナから借りていた『ラマンチャのドン・キホーテ』を返却する。

<第8の手紙①> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ (11月16日付)
<第8の手紙②> アンナ・ミハイロヴナより、エヴゲーニイ・ニコラーイチへ (11月2日付)

<第9の手紙①> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月17日付)
<第9の手紙②> タチヤーナ・ペトローヴナより、エヴゲーニイ・ニコラーイチへ (8月4日付)


イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチは、カード賭博詐欺師であり、裕福な青年貴族のエヴゲーニイ・ニコラーイチから多額の金を巻き上げる計画をしていました。
カード賭博詐欺の利益をめぐって、イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチが仲間割れします。
イワン・ペトローヴィチは、腹いせに、ピョートル・イワーヌイチの妻アンナ・ミハイロヴナが、エヴゲーニイ・ニコラーイチと浮気していることを暴露します。
ピョートル・イワヌーイチも負けずに、イワン・ペトローヴィチの妻タチヤーナ・ペトローヴナが、エヴゲーニイ・ニコラーイチの元恋人であることを暴露するのです。

◆◆◆

ドストエフスキーの作品は、登場人物たちの生き生きとした会話や、大胆な心情吐露が魅力だと思います。
ドストエフスキーは、<会話>と<独白>の天才を遺憾無く発揮するために、デビュー作『貧しき人々』において、書簡体小説という形式を選んだのかもしれませんね。

『九通の手紙にもられた小説』も、ドストエフスキーらしい<会話>の面白さがあります。
イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチの、強烈な嫌味と皮肉の応酬には、思わず吹き出してしまいます。

(第2の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
すぐさま愚妻を伴い、失費をも顧みず、馬車を雇って、六時半ごろ、貴宅へ参上したところ、貴兄はお留守で、奥様がお出迎えくださいました。十時半まで貴兄のお帰りを待ちましたが、それ以上は不可能でしたので、再び愚妻を伴い、失費をも顧みず、馬車を雇い、愚妻を自宅へ送り届け、小生自身はペレパルキン氏宅へ向かいました。そこでならお会いできるのではあるまいかと思ったのですが、またしても計算違いでした。帰宅後も一晩中眠れず、不安の中に夜を明かし、翌朝は九時、十時、十一時の三回、失費をも顧みず、馬車を雇って貴兄宅を訪問したにもかかわらず、またしても、貴兄にしてやられました。

(第3の手紙 ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ)
かぎりなく尊いわが友イワン・ペトローヴィチ!
失礼、失礼、失礼、重ね重ね失礼、しかし取り急ぎ弁明いたします。

(第4の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
この手紙は貴兄のお宅で、貴兄の部屋で、貴兄のデスクに向かって書いております。ペンを取る前に二時間半あまりも貴兄をお待ちしたのです。

(第7の手紙 ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ)
貴兄の百姓じみた、しかも同時に奇怪な書簡を受け取ったとき、最初、小生はずたずたに引き裂いてしまおうかと思いましたが―珍品として保存することにいたしました。

(第8の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
貴兄に言われるまでもなく、小生はもはや二度と再び貴兄のお宅に足を運ぶようなことは致しません。無駄に紙を一枚汚されたものですな。

第2の手紙で、イワン・ペトローヴィチが「失費をも顧みず」と、3回も繰り返して書いているところは、笑えますね~。

『九通の手紙にもられた小説』の原題を見てみると、さらに笑えました。
原題は、《Роман в девяти письмах》です。
роман(ラマーン)は「長編小説」という意味で、直訳すると「九通の手紙からなる長編小説」となります。

ロシア語で「小説」という言葉は、роман(ラマーン)「長編小説」、повесть(ポーヴェスチ)「中編小説」、рассказ(ラスカース)「短編小説」と、はっきり区別されています。
このような短編小説に、роман「長編小説」という大げさな表題が付いているのですから、笑いを誘います。

『九通の手紙にもられた小説』は、作品のタイトルからジョークであり、ドストエフスキーが随所に笑いを盛り込んだユーモア小説であることが分かりますね。



読了日:2011年12月25日

2012/12/29

読書計画 ; ドストエフスキー全作品を読む

ドストエフスキー全作品を読む、という計画を2011年にスタートしました。
ドストエフスキー全集は、戦後に出版されたものとして、河出書房新社版、新潮社版、筑摩書房版がありますが、わたしは新潮社版(全27巻・別巻1)で集めています。
10年くらいかけて、少しずつ読みたいです。

2013年1月9日現在

    1848年
  • 『弱い心』
  • 『ポルズンコフ』
  • 『正直な泥棒』
  • 『クリスマス・ツリーと結婚式』
  • 『白夜』
  • 『他人の妻とベッドの下の夫』
    1849年
  • 『ネートチカ・ネズワーノワ』
    1857年
  • 『小英雄』
    1859年
  • 『伯父様の夢』
  • 『ステパンチコヴォ村とその住人』
    1860年
  • 『死の家の記録』
    1861年
  • 『虐げられた人びと』
    1862年
  • 『いまわしい話』
    1863年
  • 『冬に記す夏の印象』
    1864年
  • 『地下室の手記』
    1865年
  • 『鰐』
    1866年
  • 『罪と罰』
  • 『賭博者』
    1868年
  • 『白痴』
    1870年
  • 『永遠の夫』
    1871年
  • 『悪霊』
    1873年
  • 『ボボーク』(『作家の日記』に収録)
    1875年
  • 『未成年』
    1876年
  • 『キリストのヨルカに召されし少年』(『作家の日記』に収録)
  • 『百姓マレイ』(『作家の日記』に収録)
  • 『百歳の老婆』(『作家の日記』に収録)
  • 『やさしい女』(『作家の日記』に収録)
    1877年
  • 『おかしな人間の夢』(『作家の日記』に収録)
  • 『宣告』(『作家の日記』に収録)
  • 『現代生活から取った暴露小説のプラン』(『作家の日記』に収録)
    1880年
  • 『カラマーゾフの兄弟』