101歳だったそうです。
Леонид Аронович Шварцман(レオニード・アロノヴィチ・シュワルツマン)は、1920年にベラルーシのミンスクで生まれました。
レオニードの出生時の本名は「イスラエル」。その名の通り、彼の両親はユダヤ人で、家庭ではイディッシュ語を話していたそうです。
イディッシュ語とは、ドイツ語圏や東欧に暮らすアシュケナジムの主要言語で、20世紀の初めには約1100万人のユダヤ人によって話されていました。
レオニードの父親はレンガ工場で会計士として働いていましたが、彼が13歳のときに交通事故で亡くなりました。
すでに働いていた姉を頼って、一家はレニングラードへ移住しました。
1941年にレオニードはロシア美術アカデミー(現・サンクトペテルブルク美術大学)を卒業し、軍隊に徴兵されました。
彼の母親はレニングラード包囲戦のせいで、1942年に餓死したそうです。
1945年、レオニードはモスクワの全ソ国立映画大学(現・全ロシア映画大学)に入学します。
ソユーズムリトフィルムで働きながら、1951年に学位を取得して卒業し、レオニードのアニメーターとしてのキャリアが始まったのです。
レオニードは、レフ・アタマーノフ監督の「雪の女王」(1957年)の美術監督を務めました。
これはソビエトアニメの傑作として名高く、宮崎駿監督が影響を受けた映画として知られています。
1953年にスターリンが死去し、いわゆる「雪解け」の時代が始まります。
レオニードは、ロマン・カチャーノフ監督の「ミトン」(1967年)の美術監督を務めます。
カチャーノフは、アタマーノフ監督のもとで経験を重ねてきたのでした。
レオニードとカチャーノフがタッグを組んだ制作活動は大きな成功をもたらし、「チェブラーシカ」シリーズへとつながります。
そして「チェブラーシカ」シリーズの第1作である「ワニのゲーナ」(1969年)が発表されました。
映画「ワニのゲーナ」の原作は、エドゥアルド・ウスペンスキーの児童文学『ワニのゲーナとその仲間たち』(1966年)です。
あれ? この子グマかタヌキみたいに見えるのが、本当にチェブラーシカなの?
原作の挿絵は、モスクワ生まれのソビエトの画家、Валерий Алфеевский(ヴァレリー・アルフィーフスキー)が描きました。
実は、出版当初のチェブラーシカは、わたしたちがよく知るビジュアルとはまったく違っていたのです!
映画「チェブラーシカ」(1971年)より
大きな耳と真ん丸の目、ふさふさの茶色い毛という、標準的なチェブラーシカのイメージは、レオニード・シュワルツマンがデザインしたもので、1969年の映画で初めて登場しました。
レオニードは、まさにチェブラーシカの生みの親と言えます。
映画「ワニのゲーナ」(1969年)の続編として、「チェブラーシカ」(1971年)、「シャパクリャーク」(1974年)、「チェブラーシカ学校へ行く」(1983年)が発表されました。
レオニードがデザインしたチェブラーシカは、ソビエト国内のみならず、世界中で愛されるキャラクターとなりました。
近年、日本でも公式ライセンスのチェブラーシカ・シリーズが制作されたのです。
工藤進監督のテレビアニメ『チェブラーシカ あれれ?』(2009年)が放映され、中村誠監督のパペットアニメ映画「チェブラーシカ」(2010年)、「チェブラーシカ 動物園へ行く」(2016年)が公開されました。
日本で制作されたチェブラーシカ・シリーズは、レオニード・シュワルツマンが生み出したチェブラーシカのビジュアルを引き継いでいます。
チェブラーシカが、これほど長く親しまれるキャラクターとなったのは、レオニードのデザインのおかげでしょう。
レオニードさん、ありがとう!
2002年、レオニードは82歳でロシア連邦人民芸術家の称号を授与されました。
2016年には「子供と若者のための文章と芸術のための大統領賞」を授与され、2020年にアレクサンドル・ネフスキー勲章まで授与されました。
7月5日に、モスクワにあるノヴァヤ・スロボダのミラ・リキヤの大主教奇蹟者聖ニコライ教会で、レオニード・シュワルツマンの葬儀が行われたそうです。
この教会は16世紀の創建ですが、革命後の反宗教政策で1934年に閉鎖され、モダンな外観に建て直されて、1945年から2017年までソユーズムリトフィルムのスタジオとして使われていたのです。
ロシア正教の教会として正式に返還されたのは、2018年のことです。
レオニードはこのスタジオで、70本の映画の制作に参加しました。
彼が長年勤めたゆかりの場所で、天国へ見送られたのでした。
2022年7月6日
(対話形式にリライトした記事をNOVEL DAYSで掲載しています)