2020/11/29

メアリー・メラー「境界線を破る!-エコ・フェミ社会主義に向かって」



メアリー・メラーの『境界線を破る!-エコ・フェミ社会主義に向かって』(新評論)を読みました。
メアリー・メラー(Mary Mellor)は現在、ノーザンブリア大学の名誉教授であり、同大学の持続可能な都市研究所(the Sustainable Cities Research Institute (SCRI))の創設委員長を務めました。
メラーは、社会主義、フェミニスト、グリーンの視点を統合したオルタナティブ経済学について幅広く発表しています。
以下に、本書の要点をまとめた上で、メラーのディープ・エコロジー批判の妥当性について考察したいと思います。

【目次】
1.メアリー・メラー『境界線を破る!-エコ・フェミ社会主義に向かって』を読む
2.メアリー・メラーのディープ・エコロジー批判の妥当性に対する考察

◆◆◆

1.メアリー・メラー『境界線を破る!-エコ・フェミ社会主義に向かって』を読む


本書の論点は、①緑派の運動の潜在的可能性と限界、②家父長制的資本主義が女性と自然界に与えたインパクト、③男性支配の社会主義が資本主義と対峙するのに失敗した次第の考察、④女性の生活と仕事およびエコロジー的限界の拘束の分析を基礎にして、エコ・フェミ社会主義の諸要素の構築。


緑派の運動の代表的なグループ:

「俺の裏庭に足を踏み入れるな」NIMBYS(Not In My Back Yard)、「世界自然保護基金」WWF(World Wide Fund for Nature)、「ウィルダネス協会」(Wilderness Society)、「シエラ・クラブ」(Siera Club)、「グリーン・ピース」(Green Peace)、「地球の友」(Friends of the Earth)、「新時代における女性のオールタナティヴな発展をめざす」DAWN(Development Alternatives for Women in a New Era)、「世界女性環境会議」World WIDE(World Women Working for Women dedicated to the Environment)、「女性環境保護ネットワーク」(Women's Environmental Network)、「黒人環境保護ネットワーク」(Black Environmental Network)、「動物解放戦線」(Animal Liberation Front)、「地球第一!」(Earth First!)、「海の警察犬協会」(Canadian Sea Shepherd Conservation Socitety)

「グリーン・ピース」と「地球の友」はもっとも積極的な活動家たちの最大のキャンペーングループである。
「動物解放戦線」、「地球第一!」、「シー・シェパード協会」はキャンペーングループのなかで一番急進的であり、後者二つは「ウィルダネス協会」や「グリーン・ピース」から生まれてきた。このような急進的なグループのメンバーは、「エコタージュ」(エコロジー的に害を与えるものにたいする直接行動以外の、例えばサボタージュのようなもの)を実践しており、メラーによれば「地球を守るために」自ら進んで代償を払う「エコ革命家」である。
上記の代表的なグループについては、以前に読んだフレッド・ピアス『緑の戦士たち-世界環境保護運動の最前線-』に詳しく記されている。


緑の政治:

はじめて緑の党がつくられたのは、1973年イギリスにおいてであり、緑派がはじめて地方政権をとったのはフランスにおいてであるが、もっとも国際的に注目を集めたのは1983年にドイツ緑の党(グリューネン Die Grünen)が旧西ドイツ連邦議会で28議席を取得し、ペトラ・ケリーの名が世界中に知られたときである。
メラーによれば、グリューネンがつくり始めた四つの主な政治的原則(=エコロジー、社会主義、非暴力、分権化)は、エコ・フェミ社会主義的政治のヴィジョンである。
しかし、グリューネンはドイツ社会民主党との同盟以降、「レアロス」(現実派)と「フンディス」(原理派)とに分裂し、派閥間の対立に陥ってしまった。

フンディス(原理派)内には、ディープ緑派と「左翼的」緑派があり、レアロス内には「社会主義的」緑派とライトな緑派がいる。
さらに、草の根民主主義の原理に忠実であろうとするグループと、伝統的な路線を踏まえた政党をつくろうとするグループがあり、区分は複雑である。
グリューネン初期の指導的メンバーのひとりであったルドルフ・バーロは「たとえすべての提案が拒否されるとしても、全体的なメッセージを含んでいるわれわれの提案の方が、たとえ受けいれられはしても全体のプロセスがもっている自殺行為的な論理に手をつけずに、ただ徴候の修正に着手するだけの提案より、100倍もの価値がある」と述べている。
このバーロの立場は北アメリカの緑派の運動に影響をもたらしていると言える。
カリフォルニアでは強力な運動があったにも関わらず、ソーシャル・エコロジーを提唱するマレイ・ブクチンは、伝統的な政治システムの「薄汚れた現実」に関与すべきではない、と主張している。

メラーは、「改良主義か革命か」と選択をつきつけるのは、私たちを分断する「不要な境界線」であるとし、「革命家と改良主義者は対立すべきではなく、パートナー関係を結ぶべき」であると論じている。


ディープ・エコロジーとエコ・フェミニズムに関して

共通点:

メラーによれば、現在と過去、人間と自然、物質的なものと霊的精神的なもの、その間にある境界線に根底から挑戦してきたのが、エコ・フェミニストとディープ・エコロジストである。
両者とも、選挙に基づく政治や環境政策の問題を超えて、人間的実存にたいするもっと根源的な問いかけへと私たちを導いている。
エコ・フェミニズムは、ディープ・エコロジーとともに緑派の運動の内部において理論的、哲学的にいちばん活発に発展している分野である。

エコ・フェミニズム:

メラーによれば、エコ・フェミニストたちは女性のもっている自然との親和力と、男性の手による自然と女性の搾取というボーヴォワールの分析を共有しているが、彼女とは異なり、自然から「自由な」女性を求めてはおらず、むしろ自然と女性の親和的関係を讃え、これを利用して、男性がつくってきた自然と文化の間にある境界線をうち破りたいと考えている。
エコ・フェミニズムの考え方のなかには、次のような緊張関係が存在している。
女性と自然の関係は社会的につくられたもので、したがって社会的に解決できると考える人々と、特定の社会と時代を超えた生物学的かつ霊的精神的な親和関係があるため、女性と自然はより深い関係と考える人々の対立である。
キャロリン・マーチャントは社会主義的なエコ・フェミニズムのパースペクティヴから、アドリエンヌ・リッチはラディカル・フェミニズムのパースペクティヴから、生物学的なものと社会的なものは女性の生活のなかで絡みあっていると見ており、一方を他方から「きり離そう」としてきたものこそ男性的思考であると論じている。

親和的エコ・フェミニズムは、ニューエイジの考えとも、メアリ・ダリーやスーザン・グリフィンと結びついたラディカルな文化フェミニズムとも重なり合っている。
しかし、エコ・フェミニズムのインスピレーションの多くは、先住アメリカ人の文化がもっている霊的精神に由来しているため、埋もれた文化遺産を略奪する「文化的墓荒らし」に満足してしまう危険性があると、メラーは論じている。
社会的エコ・フェミニストのジャネット・ビールは、この種の研究は焦点を逸らすものであり、「私たちの神話をたんに『悪しき』ものから『良き』ものへ変えるだけで、私たちの社会的現実も変わるだろう、といった誤った前提をつくるもの」であると非難している。
一方で、霊的精神性とは社会的現実を変革する闘争のなかで女性を鼓舞する一源泉なのであり、スターホークによればエコ・フェミニズムの霊的精神性は「内在性、相互の結びつき、コミュニティ」の三本の糸によって貫かれている。

メラーは、女性は明るみに出されるべき真理を「その忠実な信者として」探し求めている、と仮定されうるのか、それとも、女性そのものが、新しい方法で、自然と関連している人間について「知ること」の源泉となりうるのか、と論じる。
この問いはエコ・フェミニズムの霊的精神性と政治行動の関係において重要な意味を持っている。
もし、神秘的なものが自然との親和関係を表す隠喩ではなく、「現実である」と考えられるのであれば、変化の動員は、社会や既成の政治組織を超えたところに移り、政治的な原動力は、各個人と神秘的源泉の間にあるということになる。
したがってメラーは、そのメッセージを「自覚して」いる人々や、それを「悟った」人々とそうでない人々との間に、ヒエラルキー的でも分裂的でもある関係をつくる結果になると、危惧している。
メラーは、「私たちに必要なのは、女性の惑星との生物学的な親和力に目を向けるより、男性にその親和力が欠けているのはなぜか、その理由を探ること」であり、「男性が母親にならないようにし向けているものはなにか」を問う必要があると主張する。

また、社会的エコ・フェミニズムに対して親和的エコ・フェミニズムが優勢になった場合、フェミニズムのダイナミズムを失ってエコ・フェミ二ンの原理、つまり「女性」原理、「フェミニン」原理の賞賛に転化してしまう危険性がある。
エコ・フェミニズムは男性がつくりあげてきた二元性の克服を強調する場合、男性の社会支配をフェミニズム的世界ととり替えることを求めているのか、それとも男性原理の圧倒的優位のバランスをとるために失われた二元性の半分である「フェミニン原理」を補うことを求めているのか、明確ではないとメラーは主張する。

メラーは、前者の立場をエコ・フェミニストと称するのは適切だが、後者の立場はエコ・フェミ二ンと表現するべきであると主張する。
フェミニンとは、男性的なものの失われた半片などではなく、家父長制的文化のなかで男性的なものをつくるために男性が必要としているものであり、ボーヴォワールが指摘しているように、男性の権力の源泉となっているものである。
したがって、家父長制的社会の中で、女性が抑圧を体験しているからこそ、自然に対するものも含めてそれ以外の抑圧と搾取の形態を分析するユニークな視点が女性に可能となるのである。

このように親和的エコ・フェミニズムによって、社会問題や政治問題から目が逸らさせることになる危険性はあるが、それでも女性の「生物学的特殊性」と霊的精神性は力を呼びおこす巨大な源泉であるとメラーは論じる。
メラーによれば、女性のもっている統合的な力を明証しているのがチプコ運動である。
結論としてメラーは、社会的エコ・フェミニズムと親和的エコ・フェミニズムの両者の洞察がともに必要なのであり、あれかこれかの問題ではないと主張する。

メラーが論じた「親和的エコ・フェミニズム」と「社会的エコ・フェミニズム」の対立は、以前に読んだイネストラ・キングが「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」の中でも詳しく論じられている。
リンク先記事に、イネストラ・キングによる分類に則り、リベラル、社会主義、文化の各フェミニズムの見取図を掲載しているので、参照のこと。
キングは、ラディカル・フェミニズムにおいて社会主義フェミニズムと文化フェミニズムの対立があることを示し、そのどちらの意見も取り入れたエコフェミニズムを提唱した。
社会的エコ・フェミニズムと親和的エコ・フェミニズムとの意見対立を乗り越えようとする姿勢は、メラーとイネストラ・キングは共通していると言える。

ディープ・エコロジー批判:

ディープ・エコロジーには、二つの原理的矛盾があるとメラーは指摘する。
第一の矛盾は、人間を含めて存在するものすべてに平等な内在的価値があるとする考え方(生物中心の平等主義)と、自然中心主義(エコ中心主義)の関係にある。
メラーによれば、ディープ・エコロジーの本質は、全体つまりガイアのニーズが優先権をもたねばならないということにあるため、エコ中心主義はアンチ・ヒューマニズムへと容易に転落する。

第二の矛盾は、自然の内在的価値という考えと、人間の自己実現という目的の関係にある。
ディヴォールとセッションズが「ディープ・エコロジーはいわゆる事実のレヴェルを越えて、自己と地球の叡知のレヴェルへと進み...包括的な宗教的、哲学的世界観を明瞭に表現し...エコロジー的意識を包含した私たち自身と自然を根本的に直感し体験する」と論じていることから明らかなように、ディープ・エコロジーの目的のひとつは自然界との関係を通じて「私たち自身をより深く体験すること」とされており、このような動機は自然中心ではなく、人間中心であり、ディヴォールにとって自然保護とは「自己防衛」なのである。
メラーは、この二つの矛盾の結果、ディープ・エコロジーは人間中心主義の底流にアンチ・ヒューマニズムの要素を結びつけることになり、潜在的に人種差別主義、性差別主義、階級差別主義であると論じる。
メラーは、有効なエコロジーの政治をつくりあげるためには、ディープ・エコロジーの洞察を、社会内部の社会的、経済的な分裂の理解と結びつける必要があると主張する。

メラーによれば、ディープ・エコロジー運動における北アメリカでもっとも強力な直接行動グループである「地球第一!」は、驚くほど性差別的である。
元海兵隊員のデイヴ・フォアマンらカウボーイ風の靴と帽子で身を固め、「たくましく元気な顔をした」6フィート5インチの長身ですっくと立ち、ブルドーザーの(おそらく同じように男性的な)運転手に立ち向かうといったイメージが賞賛されている。
そこで語られるロック・クライミング技術を使って300フィートの木によじ登るというような、メンバーの手柄話には肉体的な技術と力強さが要求されており、女性メンバーが多数いるにも関わらず、女性参加の歴史は書かれていない。
なお、カナダの強力な直接行動グループ「シー・シェパード協会」も同じである。
メラーによれば、原野保護の闘いのなかには強いフロンティア精神の匂いがあり、カウボーイとインディアンの代わりに、エコ戦士の移住者と木材伐採や道路建設の「新植民者」が登場する。
双方とも白人男性であり、最後のフロンティアに手を伸ばそうとしているが、ある者は搾取すべき原材料の源泉として、他方は体験すべき「処女」地として見ているのである。

しかし、原野保護の問題はけっして単純ではなく、潜在的な人種差別の要素があり、誰が原野の所有者なのかという階級的問題もあると、メラーは批判する。
ある土地が原野であると宣言することは、そこが(先住民もワイルドだと想定しないかぎり)先住民にとって故郷ではない、と想定することなのである。


エコ・フェミ社会主義(Feminist Green Socialism)

緑派の社会運動、緑の党の政治、エコフェミニズム、ディープ・エコロジーの議論を踏まえて、メラーが提唱する新しいヴィジョン.は、「女性中心でありなおかつ地球中心でもあるヴィジョンであり、人間社会のなかの、また人類と自然界の間の創造的関係を回復し再建することになるようなヴィジョン」である。

メラーによれば、従来の社会主義は「女性の不払い労働や、植民地化された人々の搾取と抑圧、地球資源の「無料」の搾取を無視したもの」である。
したがって、メラーは「私たちに必要なのは、男性と資本主義双方の拘束から私たちを解放できる社会主義」と主張する。

将来の社会主義(エコ社会主義):

メラーの提唱するエコ社会主義の出発点は、世界の天然資源が私的所有によっても、国民という境界線によっても分割されない状態をうちたてることでなければならず、私たちが持続可能で、社会的に公正な社会をつくらねばならないとすれば、富を共有するようにしなければならない。
将来の社会主義が意味するものは、真に分裂のない世界を実現することである。
神秘主義的転回を遂げた緑派の人々は、私たちが自然界との結びつきを意識の変革として認識すべきであると強く主張し、この結びつきを精神的かつ敬虔な仕方で認識すれば私たちの責任が自覚され、その責任感から行動するようになると仮定している。

一方でメラーは、私たちは地球との結びつきを認識していないかもしれない、実質的にはこれまで地球と結びつき、相互に結びつき合ってきていることに問題の本質があると論じる。
メラーによれば、「初期の社会が地球に対して抱いていた敬虔さはたんに精神的なものではなく、世界を文字どおり境界のないものと見なす物質的現実を反映したものであり、問題は、境界なき世界の精神的認識の再創造ではなく、国民国家、私的土地所有、分裂した個々人によって境界線を引かれている世界のなかで、境界なき世界を実質的現実として実現する政治ルートを発見すること」なのである。

エコ・フェミ社会主義:

メラーが提唱するエコ社会主義の社会が実現されるとすれば、それはフェミニズム的な社会でなければならない
エコ・フェミ社会主義の課題は、男性の利害と経験に基づいてうちたてられた世界、男性の体験する世界、私=ミーの世界から、女性の利害と経験に基づいてうちたてられた世界、女性の体験する世界、私たち=ウィーの世界へと転換することである。
女性の経験に基づくわれわれの世界が必要とするのは分権であり、エコロジー的、物理的、社会的な安全と言える。



◆◆◆

2.メアリー・メラーのディープ・エコロジー批判の妥当性に対する考察

メラーが論じた、ディープ・エコロジーにおける生物中心の平等主義と自然中心主義(エコ中心主義)は矛盾しており、アンチ・ヒューマニズムに陥りやすいという批判に関して考えてみたい。
ディープ・エコロジーを最初に提唱したアルネ・ネスは、次のように応答している。

平等の権利という言葉でもって定義された生命圏平等主義の原理は、これまで時々誤解され、人間の必要は人間以外のものたちの必要に対してけっして優先されるべきものではないことを意味していると受け取られた。しかしこのような意図はまったくない。実際において私たちは、たとえば私たちにより近いものに対しより大きな責任を負う。これは、義務には時として人間以外のものの殺生や傷害が含まれることを意味している。(アルネ・ネス『ディープ・エコロジーとは何か』文化書房博文社、1996年、271頁)

上記のように、ネス自身はそもそも、生態圏中心主義(自然中心主義またはエコ中心主義)という言葉を用いていない。
彼は、生態圏中心主義ではなく、生命圏平等主義ないし生態圏平等主義という言葉を用いている。
ネスの提唱した生命圏平等主義は、人間と人間以外のものすべての権利が尊重される社会である。
生態圏中心主義という言葉には、人間中心に対して生態圏中心という、人間対自然の二元論的思考が根底にあると言える。
ネスは、人間対自然の二元論的思考を回避するために、生態圏中心主義ではなく、生命圏平等主義を構想したと言える。
したがって、生態圏中心主義に対するメラーの批判は、ネスの哲学を厳密に読み解く限りにおいて、妥当ではない。

しかし、現実のディープ・エコロジストの多くは、生態圏中心主義という言葉を用いている上に、人間嫌いの傾向も強い。
このような事実から、ディープ・エコロジーは生態圏中心主義の立場からのウィルダネス保存の運動として誤解され、批判されてきたと言える。

さらに、メラーが論じたディープ・エコロジーにおける自然の内在的価値という考えと、人間の自己実現という目的の矛盾について考えてみたい。
アルネ・ネスが提唱した「エコソフィT」において、最高の規範、究極の目標を示す言葉として、「自己実現」(Self-realization)がある。
ネスによれば、この用語は次の四つの段階に厳密化される。
T0 : 自己実現(self-realization)
T1 : 自我実現(ego-realization)
T2 : 自己実現(self-realization)
T3 : 自己実現(Self-realization)
ネスは、自我(ego)と自己(self)を区別するだけでなく、小文字ではじまる自己(self)と大文字ではじまる自己(Self)を区別して、言葉を用いている。
個人主義的で功利主義的な思考の中で用いられる、自己実現、自己表現、自己利益などの言葉は、ネスの言う「自我実現」に対応している。
ネスは、我々が自我(ego)あるいは偏狭な自己(self)から出発して、深遠にして包括的なエコロジー的自己(Self)を目指すことを「エコソフィT」の究極の目標と構想したのである。

したがって、「エコソフィT」における「自己実現」(Self-realization)という概念は、他のものから導き出せない究極の規範であるため、自然の内在的価値という仮定から導出されたものではない。
「エコソフィT」において最も基本的な規範(最高の規範)である「自己実現」から導出された「生態学に由来する規範と前提」に、自然の内在的価値が含意される。
すなわち、自己実現と内在的価値は矛盾しないため、これについてのメラーの批判は妥当ではないと言える。

ネスの哲学は、すべてのものの相互関係性(関係主義的思考、ゲシュタルト的思考)を前提としており、自己実現(すなわち、自己の拡張)が進むことによって、我々自身にとっての最善が、また他の存在にとっての最善になる。
したがって、究極の目標としての「自己実現」の追求から、生態系全体における階級なき社会、すなわち「生態圏平等主義」(ecospherical egalitarianism)が導き出されるのである。
ネスは、「生態圏平等主義」あるいは「生命圏平等主義」というディープ・エコロジーの原理を、「全生物種の民主制」(a democracy of life forms)という言葉で説明してしている。

このように、ネスの「エコソフィT」における「自己実現」と「生態圏平等主義」を読み解けば、ディープ・エコロジーはアンチ・ヒューマニズムであり、人種差別主義、性差別主義、階級差別主義であるという批判は的外れであることが分かる。
しかし、メラーを含めたエコフェミニズム、ソーシャル・エコロジー、ポスト・コロニアリズムの人々が、ディープ・エコロジー運動をアンチ・ヒューマニズムであると批判する理由は、ディープ・エコロジーを標榜する急進的な活動団体の存在があると言える。
また、ネスの哲学を継承しディープ・エコロジー哲学を展開しているGeorge SessionsやBill Devallも、ウィルダネスと野性を重視し、原始を理想化する傾向がある。
ネス自身は、ウィルダネスの保存と拡充の必要性に言及してはいるが、ウィルダネス保存を重視することが人間を敵視し人権を蹂躙するアンチ・ヒューマニズムになってはならないと警告している。

メラーのディープ・エコロジー批判は、ネスの「エコソフィT」に対しては明らかに誤解と言えるが、一部のディープ・エコロジストの極端な意見や行動に対しては、妥当な批判であると言える。
メラーが批判したとおり、アンチ・ヒューマニズムな生態圏中心主義の思考を前提としたウィルダネス保存運動は、非常に差別的であり、貧しく抑圧された人々や女性に対して著しく公正さを欠いていると言えるだろう。
ディープ・エコロジストの極端に抑圧的で厭世的な意見は批判されるべきであると思うが、ネスの提唱した「エコソフィT」の「生態圏平等主義」の原理と、そこから導き出される「全生物種の民主制」は、メラーの提唱するエコ・フェミ社会主義の理想と重なり合う部分が多いのではないか、とわたしは考える。



読了日:2008年10月10日