2012/12/18

アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」(2)

Half of a Yellow Sun
  • 発売元: Fourth Estate
  • 発売日: 2007/1/1

★アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」(1)

カノにおけるイボ人の虐殺

ナイジェリアは、使用言語・祖先の歴史・宗教観・共同体の組織原理などを異にする人々の集団が、多数存在します。
1963年の人口調査によると、ハウサ人が1165万人(総人口の21%)、ヨルバ人が1132万人(20%)、イボ人が925万人(17%)、フラニ人が478万人(9%)、カヌリ人が226万人(4%)、イビビオ人が201万人(4%)となっています。
ハウサ人、ヨルバ人、イボ人が総人口の58%を占めており、この三大民族間の権力均衡が、ナイジェリアの政治的安定をもたらします。
ビアフラ戦争は、三大民族間の均衡が崩壊したために勃発した、と言われています。

「話す」という動詞は、ハウサ語で「イ-マガナ yi-magana」、ヨルバ語で「ソロ soro」、イボ語で「クゥ kwu」と発音します。
旧宗主国の言語である英語の「スピーク speak」を介してはじめて、お互いの意思疎通が可能になるほど、おのおの独自の言語を持っています。
ハウサ人は、ナイジェリア北部に居住し、イスラームの伝統を維持しています。
ヨルバ人は、ナイジェリア西部の各地に王国と都市を形成しましたが、19世紀に入ると伝統的社会構造が変化し、キリスト教の普及が始まります。
イボ人は、ナイジェリア南部に居住し、単系血縁集団が集まった村落共同体による、民主主義的な「国家なき社会」を形成していました。
イボ人は、民主主義的かつ進歩主義的な性格を持っていて、奴隷貿易やパーム油貿易を通じて、ヨーロッパ商人と早い時代から接触し、キリスト教を受容しています。

『半分のぼった黄色い太陽』では、ハウサ人のムハンマド、ヨルバ人のミス・アデバヨ、そしてオランナ、ウグウ、オデニボといった多くのイボ人が登場します。


イギリス植民地政府は、伝統的権威とその政治機構を温存させ、地方行政府として利用する「間接統治」方式で、ナイジェリアを統治しました。
北部ハウサ人社会は北部州、西部ヨルバ人社会と東部イボ人社会は南部州として、切り離して発展させられます。
イスラーム圏の北部では、「間接統治」方式が成功し、北部における伝統権威が存続します。
西部ヨルバ人国家のオバ(王)やチーフ(首長)は、北部のスルタンやエミールのような絶対的権威ではなく、東部イボ人社会では、権威者そのものが存在していませんでした。
そのため東部では、植民地政府が勝手に首長を創り出し、「任命首長制」が導入され、イボ人が強く反発して、1929年に暴動を起こしています。
南北分離発展のため、公用語についても、北部はハウサ語、南部は英語でした。


ビアフラ戦争勃発前は、多くのイボ人が、事務職員、行政官、技師、商工人、教師などとして、ナイジェリア各地の都市部に移住していました。
北部に130万人、西部に50万人のイボ人が居住していたと推定されています。
北部の都市カノにおいて、イボ人やヨルバ人などの「よそ者」は、「サボン-ガリ」(ハウサ語で「新しい町」の意味)と呼ばれる居住区に住んでいました。
「サボン-ガリ」は、1911年頃に植民地政府によって設置された居住区で、植民地政府はキリスト教徒や、高度に西欧化した移住者が、ムスリムと接触しないような、隔離した居住パターンを採用したのです。

カノに移住したヨルバ人の多くが、イスラームに改宗したのに対して、イボ人が改宗することはほとんどなかったと言われています。
各地に移住したイボ人を支援するためのイボ人同盟は、1960年代にカノにおいて活発な活動を行い、イスラームの学校に対抗して、独自のキリスト教系の小学校を設置・運営していました。

オランナのムバエズィ伯父さんとイフェカ伯母さん夫妻は、カノに移住したイボ人で、「サボン-ガリ」に暮らしています。
ムバエズィ伯父さんを中心に、イボ人移住者たちが「イボ人の子どもを入学させない北部の学校」に抗議し、「イボ連合小学校」が建てられるエピソードが描かれています。


こうした中で勃発した、1966年の二度のクーデターは、北部の都市におけるイボ人とハウサ人の対立を危機的状況にしました。
イボ人の中堅将校による「1月クーデター」と、その報復である「7月クーデター」の後、カノにおけるイボ人の大量虐殺が起こりました。

イボ人の大量虐殺はカドゥナ、ザリア、ジョスなどの各都市に波及し、同年10月半ば頃までには、北部の各都市には東部出身のイボ人はいなくなりました。
虐殺されたイボ人の人数は、連邦政府資料で4700人、臨時調査団の資料で6000~8000人であり、北部から脱出したイボ人難民は158万人に達したと言われています。
イボ人の大量虐殺が、イボ人による連邦からの独立と、それを阻止しようとした連邦軍との内戦にまで、発展したのです。

◆◆◆

"Half of a Yellow Sun" を読んで

『半分のぼった黄色い太陽』の原文“Half of a Yellow Sun”を手に取ってみて、「語り」に対する強いこだわりを感じました。

"Yes,sah. It will be part of a big book. It will take me many more years to finish it and I will call it 'Narrative of the Life of a Country.'"
"Very ambitious," Mr.Richard said.
"I wish I had that Frederick Douglass book."(Page 530)

ウグウは、"Narrative of the Life of Frederick Douglass,an American Slave"(「アメリカ人奴隷、フレデリック・ダグラスの生涯の物語」)に、軍事教練所で偶然出会います。
フレデリック・ダグラスは、アメリカの歴史において、重要なアフリカ系アメリカ人指導者の一人です。
1818年にメリーランド州に奴隷として生まれ、農場や造船所の奴隷として働いていましたが、当時禁じられていた読み書きを覚えて、1838年にニューヨークへ逃亡します。
その後は、奴隷制廃止論を訴えて、アメリカ合衆国中を旅し、新聞を発行するなど、奴隷解放運動に尽力しました。

ウグウは、このフレデリック・ダグラスの自伝を真似て、自分が書いている物語を 'Narrative of the Life of a Country.' (「ある国の生涯の物語」)と名付けます。

"narrative"(ナラティブ)とは、「物語」「物語を語ること」の意味で、storytelling(「語る」という行為)とstory(語られた内容「物語」)という、二重の意味が込められています。
"narrative"には、語り手が聞き手に向けた<人格的で相互作用的な語り>といったニュアンスがあり、医療・福祉の分野で特に注目されている言葉です。

For the prologue,he recounts the story of the woman with the calabash.

Olanna tells him this story and he notes the details.

After he writes this, he mentions the German women who fled Hamburg with the charred bodies of their children stuffed in suitcases, the Rwandan women who pocketed tiny parts of their mauled babies.
(1.The Book:The World Was Silent When We Died)

オランナは、カラバッシュを持った女性の物語を、ウグウに "tell"(「語る」「話す」)し、ウグウはオランナから聞き取った物語を "recount"(「物語る」「詳しく話す」)します。
オランナとウグウの間のミクロな(私的な)ナラティブを、ドイツやルワンダの例を引いて、マクロな(社会的な)ナラティブまで引き上げる時に、"write"(「書く」)という行為になっています。

"Are you still writing your book, sah?"
"No."
"'The World Was Silent When We Died.' It is a good title."
"Yes, it is. It came from something Colonel Madu said once." Richard paused. "The war isn't my story to tell, really."
Ugwu nodded. He had never thought that it was.(Page 530)

リチャードは、"The war isn't my story to tell"(「その戦争は私の語るべき物語ではない」)と言いました。

Then he felt more frightened at the thought that perhaps he had been nothing more than a voyeur. (Page 210)

ビアフラ戦争を内部で経験しながらも、リチャードは "voyeur"(「窃視者」)かもしれない、という負い目を感じていて、ビアフラ人というアイデンティティを持つことが出来ない、悲しさがあります。
虐殺を生き延びたオランナや、戦場で傷ついたウグウにとってこそ、"my story to tell" なのだと、リチャードは感じたのでしょう。

ウグウが書こうとしている物語は、"Narrative of the Life of Ugwu" なのだし、"Narrative of the Life of Olanna" なのでしょう。
1977年生まれの作者アディーチェにとって、ビアフラ戦争は"my story"ではないかもしれませんが、『半分のぼった黄色い太陽』は、両親や親戚、家族が彼女に語った"my story"を、アディーチェが自分のこととして "narrative" 語り継いでいる証しだと思います。

日本においても、第二次世界大戦を体験した世代から、戦争体験をめぐる「物語」を、どのように子世代、孫世代へ伝承するかは、重要な問題でしょう。
戦争体験者の「語り」と、語り継ぐ側の「語り」では、どのような違いがあるでしょうか。
戦争体験者の祖父たちはすでに他界し、わたし自身は「物語」を聞き取ることも、語り継ぐことも不可能であることを思うと、ビアフラ戦争のリアリティを、世代を超えて語り継ぐアディーチェに対して、より強い尊敬の気持ちを感じます。



参考:室井義雄『ビアフラ戦争 叢林に消えた共和国』(山川出版社、2003年)