2012/12/17

アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」(1)

半分のぼった黄色い太陽
  • 発売元: 河出書房新社
  • 発売日: 2010/8/25

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『半分のぼった黄色い太陽』(くぼたのぞみ訳、河出書房新社)を読みました。
2012年11月の読書会課題本でした。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは、1977年ナイジェリア生まれの女性です。
2007年に、イギリスの権威ある女流文学賞「オレンジ賞」を、最年少で受賞しています。

『半分のぼった黄色い太陽』(2006年)は、1960年代のナイジェリアが舞台です。
物語の主な登場人物は、以下の5人です。

ウグウ...13歳で貧しい村を離れ、大学教員であるオデニボの自宅でハウスボーイとして働く少年。
オデニボ...ウグウの「ご主人」で、スッカ大学の若い数学講師。理想に燃える進歩的知識人。
オランナ...大都市の裕福な家庭に育った、若く魅力的な女性。オデニボの恋人。
カイネネ...オランナの双子の姉で、父親から事業を引き継ぐ。理知的で現実主義。
リチャード...イボ=ウクウ美術に関心を持つ、作家志望のイギリス人。カイネネの恋人。

※ネタバレ注意※


物語は、1960年代前半のナイジェリア、スッカを舞台に始まります。
第1主人公のウグウは、13歳で村を離れ、大学教員であるオデニボの自宅で、ハウスボーイとして働き始めます。
ウグウは、地方の伝統社会と、都市部の近代社会の接点に置かれたキャラクターです。
生まれ育った村の伝統的な生活(土壁と草葺き屋根の小屋、パーム油ランプ、複数の妻と大勢の子どもたち、干し魚のスープなど)と、オデニボの近代的な生活(コンクリ壁、電気、冷蔵庫、ラジオグラム、パンとチキンなど)とが、ウグウの目を通して、対比されます。

ウグウがオデニボ宅での生活にすっかり慣れた頃、オデニボの恋人オランナが、イギリス留学から帰国します。
第2主人公のオランナは、両親が暮らす大都市ラゴスから、スッカに引っ越して、オデニボと暮らし始めます。
オランナは、成功した実業家夫妻の両親よりも、カノに住むムバエズィ伯父夫妻と従妹アリゼの方に、愛着を持っていました。
物質的に充足していても、どこかよそよそしい両親と、貧しいが愛情あふれる伯父夫妻とが、オランナの目を通して対比されます。
さらに、カノが舞台の場面では、ムバエズィ伯父と仲良く語り合い、オランナにも優しく接する商人アブドゥルマリクや、オランナの元恋人ムハンマドの特権的な暮らしも描かれています。

第3主人公のリチャードは、イボ=ウクウ美術に魅了されてナイジェリアを訪れた、イギリス人青年です。
実業家や政治家が集まる駐在イギリス人社会には馴染めず、カイネネとの出会いをきっかけに、駐在イギリス人社会から離れ、イボ人との交友を広げていきます。
カイネネは、成金の両親を軽蔑しながらも、賄賂にまみれた事業を引き継ぎ、実業家となります。
リチャードはスッカに、カイネネはポートハーコートに暮らしながら、二人は少しずつ愛を深めていきます。

スッカのオデニボ宅は、オデニボとオランナを中心に、教員仲間のミス・アデバヨやエゼカ教授、若い詩人のオケオマ、イギリス人のリチャードらが集まる、知的サロンとして華やいでいました。
オランナとオデニボの満ち足りていた生活は、オデニボの母親の登場によって、阻害されます。
オデニボの母親は、近代教育を受けたオランナを嫌い、オランナとオデニボの仲を裂こうとします。
オデニボは、オランナを気遣いつつも、母親に強く抗議することが出来ず、オランナとの信頼関係が少しずつ悪化していきます。
オデニボとオランナは、二人の子どもを希望しますが、オランナは子どもに恵まれません。
不妊に悩んだオランナが、婦人科医の診察を受けるため、イギリスに旅行している時、オデニボの母親が、再びオデニボ宅を訪問します。
オランナが帰宅した時、オデニボは母親が連れてきた村娘アマラを妊娠させていました。
オデニボとオランナの間に決定的な亀裂が生じ、オランナは自暴自棄になって、リチャードと関係を持ちます。
アマラは、女児を出産しましたが、アマラにとっては不本意な妊娠・出産であり、養育を拒否します。
オランナは赤ん坊を引き取り、オデニボと二人で育てることを決心するのです。
オランナの勇気ある決意を応援していたカイネネでしたが、オランナとリチャードのあやまちを知って、傷つき怒ります。

4年後。
オランナは、オデニボの娘チマアカを「ベイビー」と呼び、実の娘のように慈しんで育てていました。
4年間で、従妹アリゼは結婚し、ウグウは英語の読み書きが上達していました。
オランナとカイネネの関係は悪化したままでしたが、カイネネとリチャードは関係を修復して、再び愛を育んでいました。
リチャードは、イボ人社会への親しみを深くし、イボ語に堪能になっています。
1966年、イボ人将校によるクーデターが起き、北部出身の政治家や将校が殺害されました。
ナイジェリア国内の反イボ人感情が高まり、北部出身の将校による第2のクーデターが起こり、ラゴスでイボ人将校や兵士が殺害されました。
第2クーデターの後、カノでもイボ人虐殺が始まります。ムバエズィ伯父夫妻と従妹アリゼは、友人だったアブドゥルマリクによって殺害されました。
カノ滞在中だったオランナは、ムハンマドに助けられて辛うじてスッカに逃れますが、心に深い傷を負います。
1967年、オジュク中佐が「ビアフラ共和国」を公式に宣言しました。
ナイジェリア連邦軍によって、スッカが陥落し、オデニボとオランナ、ベイビー、ウグウは、オデニボの母親が住むアッバに避難します。
リチャードは、ポートハーコートに避難し、カイネネと共に暮らし始めます。
アッバも陥落寸前となり、オデニボ一家はウムアヒアに避難しましたが、オデニボの母親は、避難の説得に応じず、アッバに残りました。
ウムアヒアで、オデニボとオランナはついに結婚しますが、戦況は悪化していきます。

食糧事情が極度に悪化し、オデニボ一家も飢餓に追い込まれていきます。
オランナは、貧しい隣人に囲まれた避難生活の中でも、青空学校を開講して、子どもたちに英語や算数を教えます。
オデニボは、母親の死をきっかけにアルコールに逃避し、オランナとの関係が再び悪化します。
ウグウは、少年兵として徴発され、戦場に送られます。
カイネネは、難民キャンプを運営し、栄養失調に苦しむ女性や子どもたちを支援していました。
リチャードは、ビアフラ政府の依頼で、執筆・広報活動をしながら、愛するカイネネを支えます。
ウムアヒアが陥落し、オデニボ一家はオルルのカイネネ宅に避難します。
オランナとカイネネは和解し、オランナはカイネネの難民キャンプを助けます。
カイネネは、なんとか食糧を手に入れるため、占領下にあるナインス・マイル通りに出かけます。
1970年、ビアフラの降伏が宣言され、2年半に及んだ戦争が終結しました。
戦争が終わっても、カイネネは帰らず、オランナとリチャードは、必死でカイネネを探します。
カイネネが二度と帰らないことを理解しながらも、カイネネと再び会えることを信じて、物語は終わります。


◆◆◆

以下に、物語の構成を整理してみます。

【第1部 1960年代前半】
  • <第1章> 視点:ウグウ、場所:スッカ
  • <第2章> 視点:オランナ、場所:スッカ→ラゴス→カノ→スッカ
  • <第3章> 視点:リチャード、場所:ラゴス→スッカ→ポートハーコート
  • <一の書 私たちが死んだとき世界は沈黙していた>
  • <第4章> 視点:ウグウ、場所:スッカ
  • <第5章> 視点:オランナ、場所:スッカ
  • <第6章> 視点:リチャード、場所:スッカ→ポートハーコート
  • <二の書 私たちが死んだとき世界は沈黙していた>
【第2部 1960年代後半】
  • <第7章> 視点:ウグウ、場所:オピ村→スッカ
  • <第8章> 視点:オランナ、場所:カノ→ラゴス
  • <第9章> 視点:リチャード、場所:ポートハーコート
  • <第10章> 視点:ウグウ、場所:スッカ
  • <第11章> 視点:オランナ、場所:カノ
  • <第12章> 視点:リチャード、場所:カノ→ラゴス
  • <三の書 私たちが死んだとき世界は沈黙していた>
  • <第13章> 視点:オランナ、場所:スッカ
  • <第14章> 視点:リチャード、場所:オボシ→ポートハーコート→スッカ
  • <第15章> 視点:ウグウ、場所:スッカ→アッバ
  • <第16章> 視点:リチャード、場所:ポートハーコート
  • <第17章> 視点:オランナ、場所:アッバ
  • <第18章> 視点:ウグウ、場所:アッバ→ウムアヒア
  • <四の書 私たちが死んだとき世界は沈黙していた>
【第3部 1960年代前半】
  • <第19章> 視点:ウグウ、場所:スッカ
  • <第20章> 視点:オランナ、場所:ラゴス→スッカ→カノ
  • <第21章> 視点:リチャード、場所:スッカ→ラゴス
  • <五の書 私たちが死んだとき世界は沈黙していた>
  • <第22章> 視点:ウグウ、場所:スッカ
  • <第23章> 視点:オランナ、場所:スッカ
  • <第24章> 視点:リチャード、場所:ポートハーコート
  • <六の書 私たちが死んだとき世界は沈黙していた>
【第4部 1960年代後半】
  • <第25章> 視点:オランナ、場所:ウムアヒア
  • <第26章> 視点:ウグウ、場所:ウムアヒア
  • <第27章> 視点:リチャード、場所:ポートハーコート→オルル
  • <第28章> 視点:オランナ、場所:ウムアヒア→オルル
  • <第29章> 視点:ウグウ、場所:ウムアヒア→戦場
  • <第30章> 視点:リチャード、場所:オルル
  • <七の書 私たちが死んだとき世界は沈黙していた>
  • <第31章> 視点:オランナ、場所:ウムアヒア→オルル
  • <第32章> 視点:ウグウ、場所:病院→オルル
  • <第33章> 視点:リチャード、場所:オルル
  • <第34章> 視点:オランナ、場所:オルル→スッカ
  • <第35章> 視点:ウグウ、場所:スッカ
  • <第36章> 視点:リチャード、場所:ポートハーコート→ウムアヒア→ラゴス
  • <第37章> 視点:オランナ、場所:スッカ
  • <八の書 私たちが死んだとき世界は沈黙していた>

三人称の物語ですが、ウグウ、オランナ、リチャードという3人の視点が、交互に描かれています。
物語には、1967年から1970年にかけて起きたビアフラ戦争(ナイジェリア内戦)が、大きく取り上げられていますが、この史実を全く知らない読者であっても、支障なく読むことが出来ます。
ウグウ少年の成長、オランナとオデニボの恋愛、カイネネとリチャードの恋愛といった、物語の魅力に引っぱられるうちに、ビアフラ戦争という歴史を知ることになります。

そして、ウグウ、オランナ、リチャードの物語の合間に、「私たちが死んだとき世界は沈黙していた」と題された物語が挿入されています。
「一の書」は、第11章でのオランナの体験が、第三者の視点で描かれています。
「一の書」と「ニの書」は、ビアフラ戦争が起こる前の第1部に挿入されていて、登場人物たちの困難な行く末を暗示しているように、感じました。
「私たちが死んだとき世界は沈黙していた」は、ナイジェリア独立後の政治・経済の状況や、ビアフラ戦争にいたる過程を説明しています。

ビアフラ戦争をマクロな視点から描いたものが、「私たちが死んだとき世界は沈黙していた」であり、ミクロな視点から描いたものが、ウグウ、オランナ、リチャードの物語でしょう。
このような構成には、ビアフラ戦争を俯瞰で理解しつつ、そこに生きた人々のリアリティを感じてほしい、という作者の意図を感じますね。

◆◆◆

時系列順に並べると、第1部→第3部→第2部→第4部という構成です。
第1部と第2部の間に、4年が経過しています。
わたしは、第2部から登場する「ベイビー」について、オデニボとオランナの子どもだと思って読み進めていました。
しかし第3部で、「ベイビー」誕生にまつわるエピソードが明らかになり、とても驚かされました。

「ベイビー」の実母アマラというキャラクターによって、伝統的な社会でどれだけ女性が苦しい立場に置かれているか、分かります。
「英語を話し、車を所有している」オデニボは、「快く、即座に、服従」すべき「ご主人」であり、オデニボやオデニボの母親に対して、アマラは自分の意思を表明する「声をもたない」のです。
しかし、妊娠中に堕胎しようと試み、出産後も赤ん坊にふれようとせず、自分の食事さえも拒否する様子は、不本意な妊娠に対するアマラの無言の抗議だと思います。


オランナは、実母に抱くことすら拒否された無力な赤ん坊に、自分を投影させて、子どもを引き取ることを決意します。

でもいま、こうしてベビーベッドに寝ている無防備な人間といると、他者にこれほど依存しきっている存在はそれ自体が、より高貴な、善なるものが存在する証しであるに違いないと思った。事態が変わったのだ。
「わたしは信じるわ。善き神の存在を信じる」
「僕はどんな神も信じないよ」(289頁)

オランナは、赤ん坊に「神は美しい」という意味の「チマアカ」という名前を付けるのです。
オランナの「信じる」という言葉は、物語の終わりでも使われています。

「戦争は終わったけれど、飢餓は終わっていないんだよ、ンケム。そのディビアは山羊の肉がむしょうに食べたかっただけさ。そんなもの信じちゃだめだよ」
「わたしは信じるわ。あらゆることを信じるわ。カイネネを家に連れもどせるなら、なんだって信じるわよ」(491頁)

オランナの「信じる」気持ちは、未来への<希望>を持ち続ける強さへとつながっています。
キリスト教の神か、伝統宗教の神々かは重要ではなく、どんな困難に直面しても揺るぎない<心の支え・拠り所>を、オランナが持っていたことが、重要だと思います。

オデニボは、脱植民地化の理想に燃える進歩的知識人ですが、具体的な困難に直面した時に、意外な脆さ・弱さを露呈してしまいます。
伝統的な社会の後進性を否定しながらも、母親に強く抗議出来ないところや、「ベイビー」誕生にまつわるエピソードは、オデニボの弱さの表れです。
本来なら、オデニボは自分の理想に殉じて、潔く戦って死ぬべきだったのに、実際は戦争の暴力性に圧倒され、アルコールに逃避し、家族を省みなくなります。
オデニボが声高に語った民族主義、パン・イボの概念は、彼にとって本当の心の拠り所・支えにはならなかったのでしょう。

「エジマ・ム―マイ・ツイン、いったいどうしたの?」もう一度、彼女は訊いた。
「どうもしない、本当よ。べつにどうもしないわ」そういうとオランナはテーブルに置かれたブランデーのボトルに目をやった。
「この戦争が終わってほしい、彼がもとにもどるように。あの人、別人になってしまった」
「私たちはみんなこの戦争のただなかにいるの。別人になるかどうか決めるのは、私たち自身よ」とカイネネがいった。(442頁)

オランナは、戦争によって避難を余儀なくされ、窮乏生活を強いられても、青空学校で子どもたちに教え、カイネネの難民キャンプを手助けするなど、未来への<希望>を持ち続けます。
そして、「大義のために」オデニボやウグウを戦場へ送り出すのではなく、賄賂を使ってでも、戦場に行かせないよう奔走しました。
身近な家族を必死で守ろうとするオランナは、愛国心や民族主義に従うのではなく、「より高貴な、善なるもの」「善き神」に従っていたのだと思います。

◆◆◆

「一の書」から「八の書」までの、「私たちが死んだとき世界は沈黙していた」という物語内物語は、誰が書いたのでしょうか?

プロローグとして、彼はカラバッシュを持った女のことを物語る。泣き、叫び、祈る乗客たちがひしめく汽車の床に、女は座っていた。(「一の書」100頁)

ビアフラ人が死んだとき世界は沈黙していたことについて彼は書く。(「六の書」295頁)

エピローグのため、彼はオケオマの死をモデルにして詩を書く。彼はそれをこう名づける。「私たちが死んだとき、きみは黙っていたのか?」(「七の書」427頁)

ウグウは最後に献辞を書いた―ご主人へ。(「八の書」491頁)

「一の書」は、カノでの虐殺を生き延びたオランナの体験を、「彼」が聞き取って、記録しています。
第34章で、オランナはウグウに、自分の体験を語っています。
しかし、ウグウが語り手だとすると、一人称ではなく、「彼」という三人称が使われているのが、不自然です。
「一の書」から「七の書」まで、一貫して三人称「彼」が使われ、最後の「八の書」で、「彼」=「ウグウ」であることが明かされるのです。

リチャードがなにか書き留めていた。「僕の本のなかでこの逸話を使おう」
「本を書いているんですか?」
「ああ」
「どんなことですか、サー?」
「戦争について、その前になにが起きたか、起きてはならないことがどれほどあったか。タイトルは『私たちが死んだとき世界は沈黙していた』になると思う」(451-452頁)

マドゥ大佐の「私たちが死んだとき世界は沈黙していた」という言葉を借りて、リチャードは物語を書いていました。
同時に、戦場から負傷して帰還したウグウも、物語を書き始めます。
ウグウが書いた物語を読んで、リチャードは「この戦争は僕が語るべきものではない」と言います。

イギリス人であるリチャードは、自分が書こうとしていた物語は、本当はウグウが「語るべきもの」だと考えたのでしょう。
そのため、「私たちが死んだとき世界は沈黙していた」は、ウグウが「ある国の生涯を語る物語」を書くところを、リチャードが見ている、という構成なのだと思います。


★アディーチェ「半分のぼった黄色い太陽」(2)



読了日:2012年11月19日