2008/10/06

「デルス・ウザーラ」(黒澤明監督)


黒澤明監督「デルス・ウザーラ」(1975年、原題 Дерсу Узала)を観ました。
モスクワ国際映画祭金賞、そしてアカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞しています。

原作は、ウラディーミル・アルセーニエフ『デルス・ウザーラ』(1921年)で、著者アルセーニエフ(1872年-1930年)が、20世紀初頭にロシア極東地域を調査した探検記です。
1930年にモスクワで出版され有名になり、日本には1941年に紹介されました。


黒澤監督は、助監督時代に『デルス・ウザーラ』を読み、一度は、舞台を開拓時代の北海道に移して映画化しようと試みましたが、どうしても大自然のスケールの点から、日本の話に置き換えるのは無理があり、放棄されていたテーマでした。
ソ連では、黒澤監督の評価が非常に高く、黒澤監督に、ソ連で映画を作ってもらいたいという提案はソ連側からなされました。
当時、自殺未遂事件で再起を危ぶまれていた黒澤監督は、若い頃からの夢だった『デルス・ウザーラ』で、復活を遂げたのです。

ハリウッド進出の失敗から、黒澤監督は覚え書き「私の監督方針大要」を書き、演出や撮影方法を的確に伝えました。
黒澤監督に強い敬意を払っていたソ連側は、彼に全面的な協力を惜しまず、黒澤の芸術上、創作上の意見を100パーセント尊重したそうです。

◇◇◇

1889年、ウラジオストクへ赴任してきたウラディーミル・クラヴジェヴィチ・アルセーニエフは、その地で義勇兵部隊の隊長を拝命し、沿海州地方の地理学的、戦略的研究のための探検を開始します。
1906年にウスリー地方の本格的調査に着手した直後、野営中に出会ったナーナイ族の老人が、デルス・ウザーラでした。
ナーナイ族は、ツングース系の少数民族で、アムール川流域に居住しています。
作品中では、ナーナイの旧称であるゴリドが使われていました。

デルス・ウザーラは、家族をすべて天然痘で失い、一人で密林で猟をして暮らしていました。
アルセーニエフは、森に詳しいデルスに探検行のガイド役を頼みます。
河の氾濫、猛吹雪、猛虎の出現などが一行をまちうけますが、その度ごとに、タイガで身につけたデルスの驚くべき洞察力と知恵によって切り抜けます。

しかし64歳の黒澤監督は、力強い漁師としてのデルスのすばらしさに焦点を合わせるのではなく、迫りくる老いと死の恐怖におびえ、生の輝きが衰えたデルスに眼差しを向けています。
アルセーニエフの回想という形式をとったことによって、彼のデルスへの深い共感と厚い哀惜の気持ちが、全編を満たしています。
「小さな人間」の前では、シベリアの大自然は、あまりにも美しく残酷です。

◇◇◇

文法がめちゃくちゃな、単語だけのロシア語を話すデルスの姿が、ユーモラスに描かれています。
デルス役は、トゥヴァ族出身のマキシム・ムンズクが演じています。
トゥヴァ族は、ナーナイ族と同じロシアの北方少数民族で、エニセイ川源流域に居住しています。
「デルス・ウザーラ」は、北方少数民族の自然観や、自然観と密接に結びついたシャーマニズム信仰を分かりやすく描いた、貴重な作品だと思います。
デルスは、火も水も生きている「人」として扱い、話しかけます。
彼にとっては、太陽が「一番えらい人」であり、月が「二番目にえらい人」なのです。


アルセーニエフが、デルスと共に探検を行った1906年は、日露戦争が終結した翌年にあたります。
19世紀、ロシアのシベリア進出が行われましたが、シベリアのさらに東の沿海州は、1858年に清との条約で、清とロシアとの共有地とされていました。
1850年にロシア領となり、1882年には、沿海州南端のウラジオストクがロシア太平洋艦隊の基地に、そして1901年には、シベリア鉄道が開通。
さらに1903年には、シベリアのハバロフスクとウラジオストクを結ぶウスリー鉄道が完成して、帝政ロシアの極東への進出が本格化します。
翌1904年、これをアジアにおける脅威とみる日本との間に日露戦争が起こり、ロシア海軍の軍港であるウラジオストクは日本海軍の封鎖作戦を受けます。
すなわちアルセーニエフは、帝政末期の動揺の時代に生きたロシアの軍人でした。



鑑賞日:2008年7月14日