2012/02/20

『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (3)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
  • 発売元: 光文社
  • 発売日: 2006/11/09

『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (1)
『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (2)

イワンが創作した物語詩「大審問官」は、全編を通して「自由」の問題がテーマとなっています。
「大審問官」において、イエスは「奇跡と神秘と権威」に従う「囚人の奴隷的な」信仰ではなく、人間の「自由な愛」を望み、「信仰の自由」「良心の自由」を増大させたと語られていました。

イワンから「大審問官」を聞かされた時、アリョーシャ自身も「奇跡」に対する信仰に縛られていたと言えるでしょう。

長老が亡くなられるときは並々ならぬ栄光が修道院にもたらされるはずだという確信が、アリョーシャの心を支配していた。(1巻 p.76-77)

大聖人として慕われたゾシマ長老の死後、奇跡が行われることへの期待は、修道院の僧侶たちをはじめ、つめかけた巡礼や町の人々にとって共通のものでした。
身内の病人や病気の子どもたちを連れた人々は、治癒の奇跡がすぐにも現れることを期待していました。
遺骸はいっさい腐敗せず、光輝き、芳香すら感じられるはずでした。

これほど性急かつ露骨に示された信者たちの大きな期待が、もはや忍耐の緒も切れ、ほとんど催促に近いものを帯びてきたのを目にして、パイーシー神父にはそれはまぎれもない罪への誘惑のように思えた。(3巻 p.12)

しかし、奇跡は実現しなかったのです。
ゾシマ長老の遺骸は、すぐに治癒の力を発揮する代わりに、またたくまに腐敗しはじめ、腐臭を発します。
奇跡が実現せず、ゾシマ長老が「卑しめられ」「名誉がうばわれた」ことは、アリョーシャの心を無残に、唐突に傷つけ、動揺させました。
イワンは、大審問官の口を通して「人間は奇跡なしに生きることはできない」と語りましたが、アリョーシャもまた信仰を失ってしまうのでしょうか?

彼は自分の神を愛していたし、神に対してにわかな不満も抱きかけたが、それでも神をゆるぎなく信じていた。しかし、昨日イワンと交わした会話を思い出すと、何か漠とした重苦しい、悪い印象が、彼の魂のなかで今またふいにうごめきだし、それがますます力をおびて、魂の表面へ浮かび出ようとするのだった。(3巻 p.45)

ぼくはべつに、自分の神さまに反乱を起こしているわけじゃない、ただ『神が創った世界を認めない』だけさ。(3巻 p.47-48)

アリョーシャの『神が創った世界を認めない』という言葉は、イワンの言葉の影響が明らかであり、アリョーシャの信仰の揺らぎを意味しています。

このおれは神の世界というのを受け入れていないことになるんだ。むろん、それが存在していることは知っているが、でも、ぜったいにそれを認めない。おれが受け入れないのは神じゃない、いいか、ここのところをまちがうな、おれが受け入れないのは、神によって創られた世界、言ってみれば神の世界というやつで、こいつを受け入れることに同意できないんだ。(2巻 p.218-219)

そして、アリョーシャを「堕落」させようとするラキーチンに誘われて、アリョーシャはグルーシェニカのもとを訪れました。
しかし、「恐ろしい女性」グルーシェニカのもとで、アリョーシャは『一本の葱』という寓話を聞き、グルーシェニカの魂に「誠実な姉さん」「愛する心」、すばらしい「宝」を見出すのです。
アリョーシャは、グルーシェニカに対して「あなたがいま、ぼくの心を甦らせてくれたんです」と語っています。

その後、修道院へ戻ったアリョーシャは、つい先ほどまでは「恐ろしい不名誉なこと」に思えた腐臭についても、「あのときのような悲しみやいきどおり」を感じませんでした。
ゾシマ長老の棺が置かれた庵室で、福音書の「カナの婚礼」の朗読を聞き、アリョーシャの心は「歓び」で満たされます。
歓びに満ちあふれたアリョーシャは庵室を出て、大地に倒れこみ、大地に泣きながら口づけし、「大地を愛する」「永遠に愛する」と誓ったのです。

ドストエフスキーは、「長老が多くの人々を惹きつけたのは、奇跡というよりはむしろ愛の力」によってであると語っています。
したがってアリョーシャは、ゾシマ長老が生前に何度も語った「人を愛するものは、人の喜びをも愛する」という「愛の力」によって、「奇跡」を求める<誘惑>に打ち勝ったのだと思います。


※『カラマーゾフの兄弟』からの引用文は、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳です。


読了日:2011年10月22日

『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (2)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
  • 発売元: 光文社
  • 発売日: 2006/11/09

★『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (1)

★「三つの問い」の意味
大審問官は、福音書の「三つの誘惑」について論じることで、「彼」に問いかけている。
「悪魔が三つの問いのなかでおまえに告げ、おまえが退けたもの、つまり聖書のなかで<誘惑>と呼ばれている問い以上に、真実なことがほかに言えただろうか。」p.265
→大審問官は、福音書において「三つの誘惑」こそが「世界と人類の未来の歴史をあますところなく言い当てる」ものであると考えている。

  • 「三つの誘惑」(マタイによる福音書 第4章1節から11節)の位置づけ
    →イエスは、荒れ野で悪魔から試みを受けた。
    荒れ野での40日は、旧約聖書でイスラエルの人々が荒れ野を放浪した40年間を象徴している。
    悪魔の試みに対抗するために、イエスは旧約聖書の申命記から引用して応答している。
    申命記は、モーセが死を目前にしてイスラエルの人々にした説教であり、出エジプト以降のイスラエルの人々の足跡を辿る内容となっている。
    神がどのようにイスラエルを導いたか、神の導きにもかかわらずイスラエルの人々がたびたび不信仰に陥り、その不信仰の結果、40年間荒野を放浪したことが強調されている。
    ※申命記は、これまでモーセが民に伝えてきた律法の要約。「申命」とは「重ねて命じる」という意味。
  • ※マルコ1章12節から13節、ルカ4章1節から13節も「三つの誘惑」のバリアント。


→大審問官は、福音書の「三つの誘惑」をどのように解釈したのか?

第1の誘惑
  • <マタイによる福音書>
    さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
    イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」


    イエスの応答→申命記8章3節からの引用「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」

  • <大審問官>
    「おまえは世の中に出ようとし、自由の約束とやらをたずさえたまま、手ぶらで向かっている。ところが人間は生まれつき単純で、恥知らずときているから、その約束の意味がわからずに、かえって恐れおののくばかりだった。なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ!」p.267
    「その石ころをパンに変えてみろ、そうすれば人類は、感謝にあふれるおとなしい羊の群れのようにおまえのあとから走ってついてくるぞ。」p.267
    「ところがおまえは、人間から自由を奪うことを望まずに、相手の申し出をしりぞけてしまった。なぜなら、もしもその服従がパンで買われたなら、何が自由というのかと考えたからだ。」p.267-268
    「非力でどこまでも罪深く、どこまでも卑しい人間という種族の目からみて、天上のパンは、はたして地上のパンに匹敵しうるものだろうか?」p.269
    「パンを与えてみよ、人間はすぐにひざまずく。」p.272

    →大審問官は、イエスが最も大切にしたものは「自由」(=「信仰の自由」「良心の自由」)であると考えている。
    大審問官の考えでは、人間は「非力で、罪深く、ろくでもない存在でありながら、それでも反逆者」であるため、お互い分け合うことが出来ず、「自由」(=「天上のパン」)と「地上のパン」は両立しがたいものである。
    「自由」の問題の根底には、人間は「いっしょにひざまずける相手を求める」という問題がある。人間は、「地上のパン」を与えてくれる相手(=「ひざまずくべき相手」)に、自分の自由を喜んで差し出す。

    →しかし、「三つの誘惑」においてイエスは石をパンに変える奇跡を行わなかった。イエスは人間の「自由」を支配することをよしとせず、「地上のパン」を退けたことを意味している。
    イエスは「確固とした古代の掟」に従うのではなく、人間の「自由な愛」を望み、人間の自由を増大させた。
    →人間の自由が増大した一方で、「何が善で何が悪か」を自分なりに判断していかなくてはならないこと(=「良心の自由」)は、人間にとって恐ろしい重荷、苦しみとなった。


第2の誘惑
  • <マタイによる福音書>
    次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当ることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
    イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。


    ※第1の誘惑において、イエスが旧約聖書の言葉を引用して誘惑を退けた。そのため第2の誘惑では、悪魔自身も旧約聖書の言葉を引用して、巧みに誘惑している。

    悪魔の誘惑→詩編91章11節から12節の引用「主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び 足が石に当たらないように守る。」
    イエスの応答→申命記6章16節の引用「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」

  • <大審問官>
    「おまえはその誘いをしりぞけ、誘いに負けて下に飛び降りることはしなかった。」p.275
    「しかしくり返すが、おまえのような人間が、はたして数多くいるものだろうか?」p.275
    「はたして人間の本性が、奇跡をしりぞけるように創られているものだろうか?」p.276
    「ところが、おまえは知らなかった。人間が奇跡をしりぞけるや、ただちに神をもしりぞけてしまうことをな。なぜなら人間というのは、神よりもむしろ奇跡を求めているからだ。」p.276
    「人々がおまえをからかい、あざけりながら『十字架から降りてみろ、そしたらおまえだと信じてやる』と叫んだときも、おまえは十字架から降りなかった。おまえが降りなかったのは、あらためて人間を奇跡の奴隷にしたくなかったからだし、奇跡による信仰ではなく、自由な信仰を望んでいたからだ。」p.276-277

    →大審問官は、第2の誘惑では「奇跡」の問題を中心に論じている。人間の「自由」を支配することになるため、イエスは「奇跡」による信仰を退けた。
    この「奇跡」をめぐる議論も、第1の誘惑と同じく「自由」をめぐる問題が根底にある。大審問官の考えでは、イエスの望んだ「自由」に持ちこたえられる人間は数万人程度であり、残りの数十億人は「自由」を受け入れることが出来ない。
    →したがって大審問官たち(ローマ・カトリック)は、「自由」を重荷とする数十億人に対して、「信仰の自由」「良心の自由」よりも、「やみくもに従わなくてはならない神秘」こそが大事であると教えてきた。


第3の誘惑
  • <マタイによる福音書>
    更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
    すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。


    イエスの応答→申命記6章13節の引用「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」

  • <大審問官>
    「われわれは、もうだいぶまえからおまえにつかず、あれについている。おまえが憤ってしりぞけたもの、そう、あれがおまえに地上のすべての王国を指さして勧めた最後の贈りもを、あれから受け取ってちょうど八世紀になる。われわれはあれからローマと皇帝の剣を受け取り、われこそは地上の王、唯一の王と宣言した。」p.281
    「強大な悪魔のあの第三の忠告を受け入れていれば、おまえは、人間がこの地上で探しもとめているすべてを、埋め合わせられたではないか。つまり、だれにひざまずくべきか、だれに良心をゆだねるべきか、どのようにして、ついにはだれが、文句なしの、共通の仲むつまじい蟻塚に合一できるのかということだ。」p.282
    「世界と皇帝の帝衣を受け入れれば、全世界の王国の礎石を置き、全世界の平安を与えることができたのだ。なぜなら、人々の良心を支配し、その手に人々のパンを携えているものでなければ、人々を支配することはできないからだ。われわれは皇帝の剣を手にし、剣を手にすることで、むろんおまえをしりぞけ、あれのあとについて歩み出した。」p.282-283

    →大審問官の言う「あれ」とは、イエスを誘惑した「悪魔」を意味している。
    大審問官たち(ローマ・カトリック)は、イエスの「偉業を修正」して、「奇跡と神秘と権威」の上に築き上げた。「奇跡と神秘と権威」という三つの力こそ、イエスが「悪魔」から誘惑され、退けたものである。


→大審問官の解釈では、第1の誘惑と第2の誘惑は、「奇跡」「神秘」の問題を論じており、第3の誘惑は「権威」の問題を議論している。


★なぜアリョーシャは、物語詩「大審問官」を「イエス賛美」と言ったのか?

大審問官自身も、かつてはイエスの望んだ「自由」に耐え抜ける「選ばれた人々」の仲間となりたいと望み、荒れ野での修行に耐えた。
しかし、「自由」を重荷とする「従順な人々の幸せ」「何十億人の幸せ」のために、自分の「良心の自由」を犠牲にして、イエスの「偉業を修正」した人々(=「忌まわしい幸福のために権力を渇望する」)の仲間に入ったのである。

大審問官は、イエスではなく「悪魔」についていると語るが、実はイエスが大切にした「自由」(「信仰の自由」「良心の自由」)を批判しているのではなく、イエスの理想が絶対的に正しいと熱烈に信じている。

→そのため、アリョーシャはイワンの物語詩を「イエス賛美」と評したのである。
大審問官は、「自由」を受け入れられない何十億の人々に絶望しているが、同時に愛しており、彼らの望む幸福(=「囚人の奴隷的な歓び」)を与えるために、イエスの教えに反した自分の罪を自覚しながら、人々の「自由」を支配する権力者となった。

→イワンは、自らが創作した大審問官というキャラクターを「偉大な悲哀に苦しみ、人類を愛する受難者」「人類への愛を癒しきれなかった人間」と説明している。



※『カラマーゾフの兄弟』からの引用文は、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳です。
※聖書からの引用文は、新共同訳です。


★『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (3)

『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (1)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
  • 発売元: 光文社
  • 発売日: 2006/11/09

2011年の読書会では、6月から10月まで4回に渡って、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』から「大審問官」を読みました。
『カラマーゾフの兄弟』を初めて読んだのは、2007年9月で、今でも大好きな作品です。
初めて読んだ時は、愛着が強すぎて、作品を対象化出来ず、感想を書けなかったのでした。
今回は約4年ぶりに再読したということで、思ったことを書きます。
引用は、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳です。


★物語詩「大審問官」の舞台設定
「彼が自分の王国にやってくるという約束をして、もう十五世紀が経っている。」p.253
「心が語りかけることに対する信仰だけがあった。」p.254
=「当時は奇跡もたくさんあった。」p.254
→加熱する聖人信仰、天使信仰、聖母信仰。

「人々のあいだに、そういった奇跡の信憑性に対する疑いが早くも生まれはじめたんだ。」
「ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現れたのはまさにそのときだった。」p.254
→宗教改革の始まり。1517年、ルター『95ヶ条の論題』
「これらの異端者たちは、奇跡を冒瀆的に否定しはじめた。」p.254
→プロテンスタントは聖人信仰、聖母信仰を批判、拒否。

「ところが、そのまま信仰を失わずにいた連中は、逆にますますはげしく信じるようになった。」p.254
「おれの物語詩は、スペインのセヴィリアが舞台だ。」p.255
→スペイン異端審問は、15世紀にセヴィリアから始められた。主にユダヤ教徒、イスラム教徒を対象とした。
 宗教改革の時代では、プロテスタントも対象とし、反宗教改革を推進する。


★「大審問官」の物語構成
  • スペインのセヴィリア「南国の町」に、「彼」が姿を現す。
    →「彼」とは、「人間の姿を借りて」降臨したイエス・キリスト。
    降臨した場所は「熱い広場」で、つい前日には「百人ちかい異端者たちが、枢機卿である大審問官の手でいちどに焼き殺された」ばかり。
  • 民衆は「彼」の方に殺到し、「救ってください」と叫ぶ。
  • 大審問官が「彼」を捕えるよう命じ、「彼」を神聖裁判所の牢獄に閉じ込める。
     「明日にはおまえを裁きにかけ、最悪の異端者として火焙りにしてやる。そうしたら、今日おまえの足に口づけした民衆も、明日はわたしの指一本の合図で火焙りの焚き火めがけ、われ先に炭を投げ込むのだよ、それがわかっているのか?」p.261
    →「彼」の行う奇跡と群衆の熱狂は、福音書のアナロジー。
    イエスが「癒しの奇跡」「よみがえりの奇跡」を行い、民衆は「ホザナ」と叫んでエルサレムに迎え入れるが、逮捕され処刑が決まると、民衆はイエスをあざけり、罵倒する。
  • 大審問官が「彼」に問いかける。
    「いったいおまえはなぜ、われわれの邪魔をしにやってきたのか?」p.265
    「悪魔が三つの問いのなかでおまえに告げ、おまえが退けたもの、つまり聖書のなかで〈誘惑〉と呼ばれている問い以上に、真実なことがほかに言えただろうか。」p.265
    「おまえは世の中に出ようとし、自由の約束とやらをたずさえたまま、手ぶらで向かっている。ところが人間は生まれつき単純で、恥知らずときているから、その約束の意味がわからずに、かえって恐れおののくばかりだった。なぜなら人間にとって、人間社会にとって、自由ほど耐えがたいものはいまだかつて何もなかったからだ!」p.267
    「非力でどこまでも罪深く、どこまでも卑しい人間という種族の目からみて、天上のパンは、はたして地上のパンに匹敵しうるものだろうか?」p.269
    「パンを与えてみよ、人間はすぐにひざまずく。」p.272
    「われわれはおまえの偉業を修正し、それを奇跡と神秘と権威のうえに築きあげた。」p.280
    「われわれははたして人類を愛していなかったのか? あれほど謙虚に人類の無力さを認め、愛情をこめてその重荷を軽くしてやり、彼らの非力な本性を思って、われわれの許しさえ得れば罪さえも許されることにしてやってことが。」p.280
    「われわれは、もうだいぶまえからおまえにつかず、あれについている。」p.281
    「われわれはあれからローマと皇帝の剣を受け取り、われこそは地上の王、唯一の王と宣言した。」p.281
    「何十億の幸せのために、天上の永遠の褒美をえさに、彼らを呼び寄せる。」p.288
    「そして、彼らの幸せのために罪を引き受けたわれわれは、おまえの前に立ってこう言う。『できるものなら、やれるものなら、われわれを裁くがいい』と。」p.288
  • 「彼」は大審問官の話を聴き、何ひとつ反論しない。無言のまま、「彼」は大審問官にキスをする。
  • 大審問官は牢獄のドアを開け、「彼」を解放する。「彼」は町の暗い広場を立ち去って行く。
    →「彼」が奇跡を行い、逮捕・投獄されるところは福音書と同じだが、処刑を免れ、生き延びる結末は福音書と大きく異なる。

★「彼」が大審問官にキスをした意味
キス=祝福、受容、赦しの意思表示
→神は、大審問官の言うような人間の弱さ、惨めさ、愚かさを初めから理解していて、その上で人間を愛している。



★『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (2)
★『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (3)

2012/02/19

「ひまわり」(ヴィットリオ・デ・シーカ監督)

ひまわり デジタルリマスター版 [DVD]
ひまわり デジタルリマスター版 [DVD]
  • 発売元: 東北新社
  • 発売日: 1999/12/24

ヴィットリオ・デ・シーカ監督「ひまわり」(1970年、原題 I girasoli)を観ました。
映画部の2011年11月課題映画でした。

第二次大戦終結後のイタリア、ミラノが舞台。
主人公のジョバンナは、ロシア戦線に従軍した夫アントニオが、ソ連で行方不明になっており、夫が生きていると信じ、帰りを待ち続けている。
反戦映画として有名らしいですが、反戦メッセージよりも、はるばるソ連まで夫を捜しに行く、妻ジョバンナの意志の強さや、行動力、愛の深さに感動しました。

アントニオが従軍したスターリングラード攻防戦は、1942年~43年。
ジョバンナが、アントニオを探すためにソ連に渡るのは、雪解けムードの中。
スターリンが死んだのが1953年だから、ジョバンナは10年近い間、夫の帰りを待ち続けたわけですね。
わずか12日間しか、夫婦として共に過ごしていないのに、10年も変わらず愛し続けられるなんて、ジョバンナすごい。

ソフィア・ローレンは、撮影時35~36歳だったはずで、結婚当初のはじける若さのジョバンナと、10年後のうちひしがれて疲れたジョバンナを演じ分けられるのも、すごいですね。
服も髪型も飾って若さにあふれていた頃よりも、地味な服装と髪型で夫を待っている頃の方が、素の美しさが際立つな~と思いました。

◇◇◇

「ひまわり」は、西側初のソ連ロケが行われた記念すべき作品らしいです。
映画公開が1970年ということで、撮影はブレジネフ時代。
作品の中での年代設定は、フルシチョフ時代だと思われます。
撮影交渉は困難を極めたでしょうし、撮影を実現させたデ・シーカ監督ほか映画スタッフの熱意と努力が素晴らしいですね。

ジョバンナとアントニオが再会したソ連の駅は、すぐそばに大きな冷却塔が並んで立っています。
「ひまわり」のロケ地がウクライナなのは有名ですから、あれを見て、真っ先にチェルノブイリ原発が思い浮かんで、ゾッとしました~。
でも調べたら、チェルノブイリ原発は、1970年に建設が始まり、1977年に1号炉が完成したらしく、映画の撮影時期とズレるので、あのシーンはチェルノブイリ原発では無いようです。
モスクワ近郊で、発電所が隣接する駅はカナチコヴォ駅だけなので、そこがロケ地だろうと言われています。
したがって、「ひまわり」に登場した稼働中・建設中の冷却塔は、モスエネルゴ社の火力発電所のようです。


ソ連でのジョバンナの行動を整理すると、
  • ジョバンナがモスクワに着いて、外務省を訪れる。
  • 外務省の役人と列車でウクライナを訪れ、ひまわり畑と墓標の丘を案内される。
  • ウクライナで手掛かりが見つからなかったので、モスクワに戻り、レーニン・スタジアムで夫を捜す。
  • スタジアムの最寄の地下鉄のヴァラビヨーヴィ・ゴールィ駅で、イタリア人の元兵士と話す。
  • イタリア人と話をした地下鉄の駅から、東へわずか2kmほどのカナチコヴォ駅で、アントニオと再会。

◇◇◇

★ひまわり畑のロケ地はどこ?

無数のひまわりと、丘一面をおおう墓標のシーンは、強烈に印象に残りますね。
ひまわり畑に建てられた記念碑は、ロシア語で「ファシストに殺されたイタリアの兵士たち、ここに眠る」といった内容のようです。

ひまわり畑のロケ地について、日本語Wikipediaでは「ソ連で撮影されたものではなく、スペインで撮影されたもの」と書いてありますが、この記述は何をソースにした情報なのか、謎です。

IMDb(The Internet Movie Database)の撮影地情報では、
イタリアのロンバルディア州パヴィーア県ベレグアルド、
イタリアのロンバルディア州ミラノ、
ロシアのモスクワ市、
ロシアのモスクワ市クレムリン、
ウクライナ
と記述されていますし、英語Wiki、イタリア語Wiki、ロシア語Wiki、ウクライナ語Wikiでも、「ひまわり畑のロケ地はスペイン」と言う記述は全く見当たらなかったので、やはり日本語Wikiの情報は誤りでは、と思いました。

在ウクライナ日本大使館の公式サイトには、ひまわり畑のロケ地は、キエフから南へ500kmほど行ったヘルソン州だと書かれていました。
ひまわり畑の中で、ジョバンナが老婆に夫の写真を見せて、消息を尋ねるシーンがありますが、そのエキストラの老婆がウクライナ語で話していることが、ウクライナである証拠だそうです。

さらに、日本で販売された映画「ひまわり」のビデオの説明書には、 「(映画に出てくるひまわり畑は)ウクライナと信じておられる方には申し訳ないが,ひまわり畑はモスクワのシェレメチェボ国際空港の近くだった。」と記載されていたそうです。
在ウクライナ日本大使館のサイトでは、映画公開当時及びビデオが販売された時代は、ウクライナは旧ソ連の一共和国で、外国人はクレムリンから80km以上離れてはいけないと言う規則があったため、観光客がウクライナに押しかけるのを当局が恐れたため、あえて嘘情報を流したのではないかと書いてありました。

ウクライナでは現在でも、7月下旬頃には、一面に咲くひまわりを見ることができるみたいです。



鑑賞日:2011年11月22日

2012/02/02

ドストエフスキー「分身」


ドストエフスキー『分身』(1846年)を読みました。
新潮社『ドストエフスキー全集 1』に収録されている、江川卓訳です。
ドストエフスキー全作品を読む計画の2作目です。

下級官吏のゴリャートキン氏は、上役の娘であるクララに恋をし、彼女の誕生日を祝う晩餐会に招かれていないのに赴きますが、玄関ですげなく断られてしまいます。裏階段からなんとかもぐりこみますが、クララの前で大失態を演じ、会場から追い出されてしまいました。
その帰り道、自分と瓜二つの男と出会います。翌日出勤すると、昨晩の男が同じ職場に着任しており、同じゴリャートキンという名前だと知ります。
新ゴリャートキン氏は、上司にうまく取り入り、同僚に愛想を振りまき、役所での地位を乗っとります。旧ゴリャートキン氏は、新ゴリャートキン氏が自分を破滅させようとしていると思いこみます。"私と駆落ちしてください"と懇願するクララからの手紙を信じ、馬車で彼女を迎えに行った旧ゴリャートキン氏は、思いがけず屋敷に招き入られ、集まった上役一同から涙ながらの同情を受けます。
旧ゴリャートキン氏は、医者に連れられ、馬車に乗せられます。行き先は精神病院でした。

◇◇◇

【登場人物整理】

ヤコフ・ペトローヴィチ・ゴリャートキン(旧ゴリャートキン)...九等官、係長補佐
新ゴリャートキン...九等官、旧ゴリャートキンと瓜二つの顔、同じ姓、同じ土地の出身
ペトルーシカ...旧ゴリャートキンの従僕

アンドレイ・フィリッポヴィチ...課長
アントン・アントーノヴィチ...係長
オルスーフィイ・イワーノヴィチ・ベレンジェーエフ...五等官 旧ゴリャートキンのかつての後盾 クララの父
クララ・オルスーフィエヴナ...老五等官オルスーフィイの一人娘
ヴラジーミル・セミョーノヴィチ...八等官、アンドレイ課長の甥、26歳
ネストル・イグナーチエヴィチ・ワフラメーエフ...十二等官、役所の当直
役所の同僚...二人の記帳官(十四等官)、二人の書記(オスターフィエフ、ピサレンコ)
クリスチャン・イワーノヴィチ・ルーテンシュピッツ...内科兼外科医、旧ゴリャートキンの主治医
カロリーナ・イワーノヴナ...ドイツ人女性、食堂の女将、旧ゴリャートキンと結婚の約束をしていた

◇◇◇

主人公のゴリャートキン氏は、役所勤めをしながらも、クリスチャン医師の治療(投薬+カウンセリング)を受けている人物として、作品冒頭から設定されています。
彼は独身で、750紙幣ルーブリの蓄えがあり、アパート暮らしで使用人もおり、暮らし向きも世間並み以下ということはない。

★新ゴリャートキン氏は何者なのか?
→旧ゴリャートキン氏の「分身」=妄想(幻覚・幻視・幻聴)
理想の自分(新ゴリャートキン氏)と現実の自分(旧ゴリャートキン氏)

★『分身』に描かれているエピソードは、どこから妄想でどこが現実なのか?

  • 第1章...起床~貯金額を数える~出掛ける準備→現実 語り手「作者」
  • 第2章...クリスチャン医師のカウンセリングを受ける→現実
  • 第3章...オルスーフィイ家の玄関で追い返される→現実
  • 第4章...晩餐会の様子→現実 語り手「作者」
    裏階段から旧ゴリャートキンが晩餐会にもぐり込む→現実 旧ゴリャートキンの「意識の流れ」が地の文に描かれ始める。
  • 第5章...みぞれの中、分身に出会う→妄想
  • 第6章...翌朝、役所に新ゴリャートキンが着任→妄想?
  • 第7章...旧ゴリャートキン宅に新ゴリャートキンが招かれ、すっかり仲良くなる→妄想?
  • 第8章...新ゴリャートキンが役所で旧ゴリャートキンに冷たくし、仕事を横取りする→妄想?
  • 第9章...新ゴリャートキンに手紙を書く→妄想の手紙?
    ワフラメーエフの手紙を受け取る→妄想の手紙(第10章で手紙が消えている)
  • 第10章...役所で新ゴリャートキンとひと悶着→妄想?
  • 第11章...クララの手紙を受け取る→妄想の手紙(第13章で手紙が消えている)
    クリスチャン医師から処方された薬を見つけて錯乱する→現実?
  • 第12章...従僕が勝手に退職を決め、引っ越す準備をしている→現実
    オルスーフィイ家を訪れ、上役たちに弁明する→現実
  • 第13章...クララが駆落ちのために現れるのを待つ→現実
    オルスーフィイ家に招かれ、上役たちから歓待を受ける→現実
    クリスチャン医師と馬車に乗る→現実
    馬車の窓から新ゴリャートキンが馬車と共に走り続けているのが見える→妄想

『分身』は、幻想と現実が交錯していて、すごく面白いです。
<分身>というモチーフは、ゴーゴリ『鼻』から着想を得ていると思います。
『分身』の副題「ペテルブルグ叙事詩」は、プーシキンの叙事詩『青銅の騎士』へのオマージュだと思います。
『青銅の騎士』は、ペテルブルグを舞台に哀れな下級官吏の青年が発狂する物語です。
『分身』のゴリャートキン氏は、<ペトローヴィチ>という父称ですから、”ピョートルの息子”という意味です。ゴリャートキン氏は、ピョートル大帝の都=ペテルブルグが生んだ一類型の人間であることを示しているのかもしれません。
『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンと悪魔の対話は、<分身>のモチーフの発展だと思います。



読了日:2011年1月8日

二重人格 (岩波文庫)
二重人格 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1981/08/16