- カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
- 発売元: 光文社
- 発売日: 2006/11/09
『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (1)
『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」を読む (2)
イワンが創作した物語詩「大審問官」は、全編を通して「自由」の問題がテーマとなっています。
「大審問官」において、イエスは「奇跡と神秘と権威」に従う「囚人の奴隷的な」信仰ではなく、人間の「自由な愛」を望み、「信仰の自由」「良心の自由」を増大させたと語られていました。
イワンから「大審問官」を聞かされた時、アリョーシャ自身も「奇跡」に対する信仰に縛られていたと言えるでしょう。
長老が亡くなられるときは並々ならぬ栄光が修道院にもたらされるはずだという確信が、アリョーシャの心を支配していた。(1巻 p.76-77)
大聖人として慕われたゾシマ長老の死後、奇跡が行われることへの期待は、修道院の僧侶たちをはじめ、つめかけた巡礼や町の人々にとって共通のものでした。
身内の病人や病気の子どもたちを連れた人々は、治癒の奇跡がすぐにも現れることを期待していました。
遺骸はいっさい腐敗せず、光輝き、芳香すら感じられるはずでした。
これほど性急かつ露骨に示された信者たちの大きな期待が、もはや忍耐の緒も切れ、ほとんど催促に近いものを帯びてきたのを目にして、パイーシー神父にはそれはまぎれもない罪への誘惑のように思えた。(3巻 p.12)
しかし、奇跡は実現しなかったのです。
ゾシマ長老の遺骸は、すぐに治癒の力を発揮する代わりに、またたくまに腐敗しはじめ、腐臭を発します。
奇跡が実現せず、ゾシマ長老が「卑しめられ」「名誉がうばわれた」ことは、アリョーシャの心を無残に、唐突に傷つけ、動揺させました。
イワンは、大審問官の口を通して「人間は奇跡なしに生きることはできない」と語りましたが、アリョーシャもまた信仰を失ってしまうのでしょうか?
彼は自分の神を愛していたし、神に対してにわかな不満も抱きかけたが、それでも神をゆるぎなく信じていた。しかし、昨日イワンと交わした会話を思い出すと、何か漠とした重苦しい、悪い印象が、彼の魂のなかで今またふいにうごめきだし、それがますます力をおびて、魂の表面へ浮かび出ようとするのだった。(3巻 p.45)
ぼくはべつに、自分の神さまに反乱を起こしているわけじゃない、ただ『神が創った世界を認めない』だけさ。(3巻 p.47-48)
アリョーシャの『神が創った世界を認めない』という言葉は、イワンの言葉の影響が明らかであり、アリョーシャの信仰の揺らぎを意味しています。
このおれは神の世界というのを受け入れていないことになるんだ。むろん、それが存在していることは知っているが、でも、ぜったいにそれを認めない。おれが受け入れないのは神じゃない、いいか、ここのところをまちがうな、おれが受け入れないのは、神によって創られた世界、言ってみれば神の世界というやつで、こいつを受け入れることに同意できないんだ。(2巻 p.218-219)
そして、アリョーシャを「堕落」させようとするラキーチンに誘われて、アリョーシャはグルーシェニカのもとを訪れました。
しかし、「恐ろしい女性」グルーシェニカのもとで、アリョーシャは『一本の葱』という寓話を聞き、グルーシェニカの魂に「誠実な姉さん」「愛する心」、すばらしい「宝」を見出すのです。
アリョーシャは、グルーシェニカに対して「あなたがいま、ぼくの心を甦らせてくれたんです」と語っています。
その後、修道院へ戻ったアリョーシャは、つい先ほどまでは「恐ろしい不名誉なこと」に思えた腐臭についても、「あのときのような悲しみやいきどおり」を感じませんでした。
ゾシマ長老の棺が置かれた庵室で、福音書の「カナの婚礼」の朗読を聞き、アリョーシャの心は「歓び」で満たされます。
歓びに満ちあふれたアリョーシャは庵室を出て、大地に倒れこみ、大地に泣きながら口づけし、「大地を愛する」「永遠に愛する」と誓ったのです。
ドストエフスキーは、「長老が多くの人々を惹きつけたのは、奇跡というよりはむしろ愛の力」によってであると語っています。
したがってアリョーシャは、ゾシマ長老が生前に何度も語った「人を愛するものは、人の喜びをも愛する」という「愛の力」によって、「奇跡」を求める<誘惑>に打ち勝ったのだと思います。
※『カラマーゾフの兄弟』からの引用文は、光文社古典新訳文庫の亀山郁夫訳です。
読了日:2011年10月22日