2008/11/04

ソルジェニーツィン「収容所群島」

収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察
収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察
  • 発売元: ブッキング
  • 価格: ¥ 3,675
  • 発売日: 2006/08/03

現在、ソルジェニーツィン追悼月間です。
ソルジェニーツィン『収容所群島―1918-1956 文学的考察』(1973~1975年)を読了しました。
『収容所群島』は、全6巻です。トルストイの『戦争と平和』を上回る大長編でした。

痛くて痛くて、何度も読めなくなりました。
ほんとうに、絶望が行動の原動力となるのだということを、つよく感じました。

私はそこで過ごした十一年間を恥だとも呪わしい悪夢だとも思わず、かえって自分の血とし肉とした。いや、それどころか、私はあの醜い世界をほとんど愛さんばかりであった。
(木村浩訳、第1巻、序文)

◇◇◇

本書は、ソルジェニーツィン自身が「自分の目と耳を働かせ、自分の皮膚と記憶に焼きつけて《群島》から持ち出したもの」と、「総計二二七人に及ぶ人びとに物語や回想や手紙」をもとに織られた"収容所群島の歴史"です。この長大なタペストリーには、《群島》そのものの物語とその機構のからくり、《群島》の住人たちの物語、その住人の一人であったソルジェニーツィン自身の物語という三つの絵が巧みに織りこまれています。

本書におけるソルジェニーツィンは、まさに"真実の歴史"の語り部であると言えます。したがって、『イワン・デニーソヴィチの一日』や『ガン病棟』、『煉獄のなかで』のような文学作品とは大きく形式が異なります。ソルジェニーツィンの"語り"が、「氷層に閉ざされた」《群島》の氷を融かし、「まだ生きている肉」としてわたしたちに訴えかけています。

その"語り口"は、ソルジェニーツィン独特の反語を駆使した苦いユーモアです。革命後のソビエト体制、イデオロギーに対して激しく揶揄嘲弄し、完膚なきまでの批判を加えています。ときに挑戦的な攻撃調があり、脱獄囚たちの痛快な冒険譚があり、イワン・デニーソヴィチのような民話風の"語り"がありと、縦横に使い分けながら、重い事実を積み重ねていきます。
そして、ソルジェニーツィン自身の収容所におけるキリスト教への回心-信仰を受け入れ、内なる力にめざめていく過程-が、祈りにも似た静かなことばで告白されるのです。発刊当初から、本書がダンテの『神曲』と比較されてきたことは、そのためではないでしょうか。
ゆえに本書は、激しい"憤りの書"であるとともに、"祈りの書"でもあると思いました。

◇◇◇

印象に残った箇所をいくつか引用しておきます。

靴の泥を落とさなかったことがどうだというのか? 姑がどうだというのか? 人生で一番大事なこと、人生のすべての謎を、お望みなら私がさっそくあなた方にぶちまけてさしあげようか? はかないものを-財産や地位を追い求めてはいけない。そうしたものは何十年も神経をすりへらしてやっと手に入るものだが、一夜で没収されてしまうのだ。生活に超然とした態度で生きなさい。不幸におびえてはいけない。幸福を思いこがれてはいけない。結局のところ、辛いことは一生涯続くものではないし、一から十までいいことずくめということもないからだ。凍えることがないならば、飢えと渇きに苦しめられることがないならば、それでよしとするのだ。背骨が折れておらず、両脚が動き、両腕が曲がり、両目が見え、両耳が聞こえるならば、いったい誰を羨むことがあろう? 何のために? 他人に対する羨望は何よりも私たち自身をさいなむものだ。目をさまして、心をきれいにしなさい。そしてあなたを愛してくれる人びとを、あなたに好意を寄せてくれる人びとを、何よりも大切にすることだ。そういう人びとを立腹させてはいけない。罵ってはいけない。そういう人たちの誰とも喧嘩別れをしてはならない。ひょっとすると、それが逮捕される前のあなたの最後の行為となるかもしれないのだ! あなたはそのままその人たちの記憶にとどまるかもしれないからだ!(第2巻、pp.563)

われわれの足もとから石がくずれ落ちる。下へ、過去へむかって。それは過去の亡骸なのだ。
われわれは昇っていくのだ。(第4巻、pp.598)

われわれはもう何年も全ソ連邦の徒刑地でひどい労働をしている。そしてわれわれはゆっくりと年輪を重ねるように、人生理解の高みにのぼっていくのだ。その高みからは手に取るようにわかる-重要なのは結果ではないことが! いや、結果ではなくて、その精神なのだ! 何をしたかではなく、いかにしたかなのだ。何が達成されたかではなくて、どんな犠牲を払ってやったかなのである。
われわれ囚人の場合も、もし結果が重要ならば、どんな犠牲を払っても、生き残ること-という真理も正しいのだ。ということは-密告者になり、仲間を裏切ることであり、その報酬として良い場所を与えられ、ひょっとしたら、期限前の釈放も許されることである。《絶対に誤りのない教義》からすれば、ここはいかなる欠点もないだろう。もしそうならば、われわれに有利な結果となる。そして、重要なのは-その結果なのである。
誰も反対しないだろうが、結果を得ることは気持のいいことだ。しかし、人間らしさを犠牲にしてまでではないのである。
もし結果が重要なら、一般作業を避けるために、持っている力や能力を総動員しなければならない。頭をさげ、機嫌をとり、卑劣な行為までして、特権囚の地位を維持しなければならない。そして、そのことによって生き残るのである。
もし本質が重要なら、もはや一般作業を受け入れなければならない。ぼろぼろの衣服にも、むける手の皮にも、少量で粗末な食べ物にも、耐えなければならない。いや、ひょっとすると、死ななければならないのかもしれない。だが、生きている間は腰痛に耐えて、誇りをもって振舞わなければならない。そんなとき、つまり、あなたが脅しも恐れなくなり、報酬を追求しなくなったとき、あなたは主人たちのフクロウの目に最も危険な人物として映るのである。なぜなら、あなたを攻める方法がなくなってしまったからである。(第4巻、pp.600-601)

では、どうして本当に信心深い人びとは収容所でも堕落せずにいられるのだろうか(彼らのことはすでに一度ならずふれている)? われわれはこの本のいたるところで彼らが《群島》のなかで自身に満ちた足取りをしていることにすでに気づいてきた-それはまさに目に見えないろうそくを手にして黙々と進む十字架行列の人びとみたいだ。機関銃で射たれたように、行列のなかの人が倒れると、次の人がすぐその場所に立って、また歩きつづけるのである。これこそ二〇世紀には見られない不屈の精神ではないか! しかも、それは絵のように目立たず、日常的なのである。たとえば、それはどこかその辺のドゥーシャ・チミーリおばさんである。丸顔の落ちついた、まったく読み書きのできない老婆である。(第4巻、pp.614)

彼らには有利な条件があるのだろうか? そんなことはない! 《修道女たち》は常に売春婦はあばずれ女どもと一緒に懲罰独立収容地点にしか収容されていなかったことが知られている。それなのに、信者たちのなかで堕落した者がいるだろうか? 死んでいった者はいるが、堕落した者はいないのではないか?
また、一部の動揺していた人びとがほかならぬ収容所のなかで信仰を受け入れ、それによって強くなり、堕落せずに生き残ったという例はどう説明すべきだろうか?
さらにまた、多くの人びとは、バラバラになっていて目立たないけれども自分の定められた転機を体験して、その選択を決して間違わないのである。それは自分だけが辛いのではない。自分の隣にもっと辛い、もっとひどい状態におかれている人びとがいるのだ、ということに気づいた人たちなのである。(第4巻、pp.615)



読了日:第1巻 2008年9月27日 / 第2巻 10月5日 / 第3巻 10月11日 / 第4巻 10月17日 / 第5巻 10月22日 / 第6巻 10月30日

2008/11/01

ソルジェニーツィン「風にゆらぐ燈火」

鹿とラーゲリの女
鹿とラーゲリの女
  • 発売元: 河出書房新社
  • 発売日: 1970

ソルジェニーツィン『風にゆらぐ燈火-汝の内なる光-』(1969年)を読みました。
ソルジェニーツィン追悼月間です。

◇◇◇

『風にゆらぐ燈火』は、1960年の"ラーゲリの外"を描いた戯曲です。
"ラーゲリの内"を描いた『鹿とラーゲリの女』とは、対をなす設定と言えます。
主人公アレックスは、刑事犯として10年の刑期のうち9年をつとめあげ、あと1年というところで殺人の真犯人がみつかり、釈放された元徒刑囚です。釈放後5年を経て、叔父のマヴリーキー宅を訪ねる場面から劇がはじまります。

本作では、都市に暮らすソビエト市民の「健康で人生を楽しんでいる」生活が描かれています。
音楽学校の教授である70歳のマヴリーキーは、「月刊食通」を購読し、自ら料理を楽しみ、「食事は人生の快楽」と断言します。
彼の自宅にはガス・レンジ、電気冷蔵庫、レコード棚があり、ステレオからはベートーヴェンのピアノ・コンチェルト二番の歓喜にあふれるロンドが流れています。
19歳の息子ジュームは父親に水上スキーをねだり、40歳の妻チーリヤは315馬力「バーガンディ・スプラッシュ」色のカブリオレ・スーパー88が持ちたくてしょうがありません。
彼女は、国際評論誌「アルゴル」の編集所で働くジャーナリストです。彼女によれば、「国内の方はわが国では万事オーケーだから、書くことがない」ため、「海外諸国の経済上の欠陥、その社会的病患の展望」を扱っており、「平和のために、力の均衡がわたしたちの側にいつも有利になるように闘っている」のです。

マヴリーキー  失われた年月というやつだな!
アレックス    いや、失われたというわけではありません。これはむずかしい問題です。もしかすると、かえって、必要な年月だったかも知れません。
マヴリーキー  どうしてまた「必要」だなんて? するとなんだね、お前の考えでは、人間には投獄は欠かせない、ということになるのかね? 監獄だなんで、こいつあみんな世の中から消え失せちまうがいいんだ!
アレックス    (溜息をつく)いや、そんなに手軽にはいかないのですよ。ぼくは、監獄よ、汝に祝福あれ、ということだってあります。
ソルジェニーツィン『風にゆらぐ燈火』(染谷茂・内村剛介訳、以下同)

このように言うアレックスは、釈放後そのままカレドニアに5年留まり、「九年じゃ足りなかったので、残って考え足し」ていました。一方、アレックスと小、中学校、大学、戦地でも一緒だった三十年来の親友であるフィリップは、同じ罪でラーゲリ生活を送りながらも、アレックスとは正反対の立場をとります。フィリップは、ラーゲリのことを周囲に隠し、「なかったこと」にしました。

アレックス    おれにはわからないな。おれは監獄にいたことを恥と思ってない。たいへんためになったし...
フィリップ    ためになった? よく君はそんなことがいえるな。ここのこの修理工用の大ばさみで、命の一片-やわらかい神経、赤い血、若い肉、をきりとられたようなもんじゃないか。おれたちは石切り場で猫車を押したり、鉱山で銅の粉を吸いこんだりしていたのに、奴らはここの砂浜でぬくぬくと白い肌のからだを伸ばしておれたんだ。アル、逆だよ、とりもどすんだ、モーレツにとりもどすんだ! (拳を振りまわす)人生から二倍でも三倍でもふんだくってやるんだ! それがおれたちの権利というもんだ!

釈放後、フィリップは、アレックスがカレドニアに留まっていた5年の間に学位論文を提出し、大学附属の生物サイバネチックス研究所の創設に奮闘し、研究所所長として実績をあげ、「もりもり上に昇っている」のです。あと二、三か月もすると博士になり、教授になる計算です。マヴリーキー宅の隣にあるフィリップの自宅には、ピアノ、ステレオ、電話のある大きな客間、テレビのある小さな客間があり、休日にはジュームがうらやむ水上スキーを楽しんでいます。

他方アレックスは、都市には「有害なのと無益なのとそれから鼻もちならんほどつまらないのと、あるだけ」であると実感し、「何ももたないから、何も失う心配がない」生活を選ぶのです。

◇◇◇

ラーゲリの"内と外"に対する、この二つの異なった受け取り方は、「苦しみ」をどのように位置づけるかに対応しています。それはすなわち、「幸福」をどのように定義するかということでもあります。
フィリップの研究所に実習生としてアフリカからきているカビンバと、アレックスは次のような対話をします。

カビンバ     ...みんな金持ちで、苦労がない。あの人たちには、ほかの人たちがなんで生きているのかわかることはない! わたしはあの人たちにくっついた自分を憎んでいます! あの人たちをみんな憎んでいます!
アレックス    カビンバ君! そう、ぼくもあの人たちからすっかり遅れてしまった。監獄のせいでね。だからといって、どうする? 彼らを押しのけるか? 彼らの鼻っぱしをなぐりつけるか? カビンバ君! 憎悪、憤懣というやつはなんのたしにもならない。地上で最もむなしい感情なんだ。高みに立って理解しないといけない-君とぼくは幾世紀か何十年かを喪くした、ぼくたちは侮辱され、おとしめられたけど、復讐するというわけにはいかないのだ。それに、その必要もない。いずれにしても、われわれの方が彼らよりも豊かなのだ。
カビンバ      (憤然と)われわれが? 何が豊かなのですか? 何が?
アレックス     非常に苦しんできたことさ、カビンバ君。苦しみは魂の成長の核心だ。満ち足りた者は常に心の貧しき者だ。だからそっとゆっくり築いていこうじゃないか。

「苦しみは魂の成長の核心」であるという確信が、アレックスに「監獄よ、汝に祝福あれ」と言わせるのでしょう。わたしはアレックスの、「人生の充実感は善い原因からも悪い原因からも起こり得る。学者の人生も充実していれば、病気の猫をたくさん治療してやってる孤独な老婆の人生も充実している。」という言葉が、すごく好きです。

◇◇◇

本作の「汝の内なる光」という副題は、新約聖書のルカによる福音書第11章33節~36節からきていると思います。"病気の猫をたくさん治療してやってる孤独な老婆"であるフリスチーナおばさんが、マヴリーキーの死に際してローソクのともし火のなかで、「誰も燈火をともして、穴蔵の中または升の下におく者なし。すべての者の光を見んために、燈台の上に置くなり/この故に汝の内の光、闇にはあらぬか、省みよ」と読み上げる言葉に、本作の副題が織りこまれています。

ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。
ルカによる福音書第11章33節~36節(新共同訳)

表題である「風にゆらぐ燈火」とは、内なるともし火-アレックスの言う「内面的道徳律」-が、「幸福者の船」である「バーガンディ・スプラッシュ」に乗り、水上スキーで遊び、「もりもり上昇」することを求める"風"にゆらぎ、今にもかき消されそうになっている現代の状況を意味しているのだと思います。わたしのなかのともし火は、濁っているでしょうか、明るいでしょうか...。



読了日:2008年9月17日