- 収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察
- 発売元: ブッキング
- 価格: ¥ 3,675
- 発売日: 2006/08/03
現在、ソルジェニーツィン追悼月間です。
ソルジェニーツィン『収容所群島―1918-1956 文学的考察』(1973~1975年)を読了しました。
『収容所群島』は、全6巻です。トルストイの『戦争と平和』を上回る大長編でした。
痛くて痛くて、何度も読めなくなりました。
ほんとうに、絶望が行動の原動力となるのだということを、つよく感じました。
私はそこで過ごした十一年間を恥だとも呪わしい悪夢だとも思わず、かえって自分の血とし肉とした。いや、それどころか、私はあの醜い世界をほとんど愛さんばかりであった。
(木村浩訳、第1巻、序文)
◇◇◇
本書は、ソルジェニーツィン自身が「自分の目と耳を働かせ、自分の皮膚と記憶に焼きつけて《群島》から持ち出したもの」と、「総計二二七人に及ぶ人びとに物語や回想や手紙」をもとに織られた"収容所群島の歴史"です。この長大なタペストリーには、《群島》そのものの物語とその機構のからくり、《群島》の住人たちの物語、その住人の一人であったソルジェニーツィン自身の物語という三つの絵が巧みに織りこまれています。
本書におけるソルジェニーツィンは、まさに"真実の歴史"の語り部であると言えます。したがって、『イワン・デニーソヴィチの一日』や『ガン病棟』、『煉獄のなかで』のような文学作品とは大きく形式が異なります。ソルジェニーツィンの"語り"が、「氷層に閉ざされた」《群島》の氷を融かし、「まだ生きている肉」としてわたしたちに訴えかけています。
その"語り口"は、ソルジェニーツィン独特の反語を駆使した苦いユーモアです。革命後のソビエト体制、イデオロギーに対して激しく揶揄嘲弄し、完膚なきまでの批判を加えています。ときに挑戦的な攻撃調があり、脱獄囚たちの痛快な冒険譚があり、イワン・デニーソヴィチのような民話風の"語り"がありと、縦横に使い分けながら、重い事実を積み重ねていきます。
そして、ソルジェニーツィン自身の収容所におけるキリスト教への回心-信仰を受け入れ、内なる力にめざめていく過程-が、祈りにも似た静かなことばで告白されるのです。発刊当初から、本書がダンテの『神曲』と比較されてきたことは、そのためではないでしょうか。
ゆえに本書は、激しい"憤りの書"であるとともに、"祈りの書"でもあると思いました。
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印象に残った箇所をいくつか引用しておきます。
靴の泥を落とさなかったことがどうだというのか? 姑がどうだというのか? 人生で一番大事なこと、人生のすべての謎を、お望みなら私がさっそくあなた方にぶちまけてさしあげようか? はかないものを-財産や地位を追い求めてはいけない。そうしたものは何十年も神経をすりへらしてやっと手に入るものだが、一夜で没収されてしまうのだ。生活に超然とした態度で生きなさい。不幸におびえてはいけない。幸福を思いこがれてはいけない。結局のところ、辛いことは一生涯続くものではないし、一から十までいいことずくめということもないからだ。凍えることがないならば、飢えと渇きに苦しめられることがないならば、それでよしとするのだ。背骨が折れておらず、両脚が動き、両腕が曲がり、両目が見え、両耳が聞こえるならば、いったい誰を羨むことがあろう? 何のために? 他人に対する羨望は何よりも私たち自身をさいなむものだ。目をさまして、心をきれいにしなさい。そしてあなたを愛してくれる人びとを、あなたに好意を寄せてくれる人びとを、何よりも大切にすることだ。そういう人びとを立腹させてはいけない。罵ってはいけない。そういう人たちの誰とも喧嘩別れをしてはならない。ひょっとすると、それが逮捕される前のあなたの最後の行為となるかもしれないのだ! あなたはそのままその人たちの記憶にとどまるかもしれないからだ!(第2巻、pp.563)
われわれの足もとから石がくずれ落ちる。下へ、過去へむかって。それは過去の亡骸なのだ。
われわれは昇っていくのだ。(第4巻、pp.598)
われわれはもう何年も全ソ連邦の徒刑地でひどい労働をしている。そしてわれわれはゆっくりと年輪を重ねるように、人生理解の高みにのぼっていくのだ。その高みからは手に取るようにわかる-重要なのは結果ではないことが! いや、結果ではなくて、その精神なのだ! 何をしたかではなく、いかにしたかなのだ。何が達成されたかではなくて、どんな犠牲を払ってやったかなのである。
われわれ囚人の場合も、もし結果が重要ならば、どんな犠牲を払っても、生き残ること-という真理も正しいのだ。ということは-密告者になり、仲間を裏切ることであり、その報酬として良い場所を与えられ、ひょっとしたら、期限前の釈放も許されることである。《絶対に誤りのない教義》からすれば、ここはいかなる欠点もないだろう。もしそうならば、われわれに有利な結果となる。そして、重要なのは-その結果なのである。
誰も反対しないだろうが、結果を得ることは気持のいいことだ。しかし、人間らしさを犠牲にしてまでではないのである。
もし結果が重要なら、一般作業を避けるために、持っている力や能力を総動員しなければならない。頭をさげ、機嫌をとり、卑劣な行為までして、特権囚の地位を維持しなければならない。そして、そのことによって生き残るのである。
もし本質が重要なら、もはや一般作業を受け入れなければならない。ぼろぼろの衣服にも、むける手の皮にも、少量で粗末な食べ物にも、耐えなければならない。いや、ひょっとすると、死ななければならないのかもしれない。だが、生きている間は腰痛に耐えて、誇りをもって振舞わなければならない。そんなとき、つまり、あなたが脅しも恐れなくなり、報酬を追求しなくなったとき、あなたは主人たちのフクロウの目に最も危険な人物として映るのである。なぜなら、あなたを攻める方法がなくなってしまったからである。(第4巻、pp.600-601)
では、どうして本当に信心深い人びとは収容所でも堕落せずにいられるのだろうか(彼らのことはすでに一度ならずふれている)? われわれはこの本のいたるところで彼らが《群島》のなかで自身に満ちた足取りをしていることにすでに気づいてきた-それはまさに目に見えないろうそくを手にして黙々と進む十字架行列の人びとみたいだ。機関銃で射たれたように、行列のなかの人が倒れると、次の人がすぐその場所に立って、また歩きつづけるのである。これこそ二〇世紀には見られない不屈の精神ではないか! しかも、それは絵のように目立たず、日常的なのである。たとえば、それはどこかその辺のドゥーシャ・チミーリおばさんである。丸顔の落ちついた、まったく読み書きのできない老婆である。(第4巻、pp.614)
彼らには有利な条件があるのだろうか? そんなことはない! 《修道女たち》は常に売春婦はあばずれ女どもと一緒に懲罰独立収容地点にしか収容されていなかったことが知られている。それなのに、信者たちのなかで堕落した者がいるだろうか? 死んでいった者はいるが、堕落した者はいないのではないか?
また、一部の動揺していた人びとがほかならぬ収容所のなかで信仰を受け入れ、それによって強くなり、堕落せずに生き残ったという例はどう説明すべきだろうか?
さらにまた、多くの人びとは、バラバラになっていて目立たないけれども自分の定められた転機を体験して、その選択を決して間違わないのである。それは自分だけが辛いのではない。自分の隣にもっと辛い、もっとひどい状態におかれている人びとがいるのだ、ということに気づいた人たちなのである。(第4巻、pp.615)
読了日:第1巻 2008年9月27日 / 第2巻 10月5日 / 第3巻 10月11日 / 第4巻 10月17日 / 第5巻 10月22日 / 第6巻 10月30日