- ガリレイの生涯 (岩波文庫 赤 439-2)
- 発売元: 岩波書店
- 発売日: 1979/11/16
ベルトルト・ブレヒト『ガリレイの生涯』(千田是也訳、『ブレヒト戯曲選集 第3巻』、白水社)を読みました。
『ガリレイの生涯』は、近代科学の先駆者ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)を描いた戯曲です。
ベルトルト・ブレヒト(1898-1956)は、20世紀のドイツを代表する劇作家です。
ミュンヘン大学在学中から劇作を始め、1922年上演の『夜打つ太鼓』が、一躍脚光を浴びます。
ベルリン移住後は、1928年に『三文オペラ』が大成功を収め、ドイツ国内で1年以上の連続上演となりました。
しかし、ヒトラーが首相に任命された1933年、ブレヒトはユダヤ人である妻と息子を連れて、ベルリンを脱出します。
プラハ、ウィーン、チューリヒを経由して、デンマークで亡命生活を送りましたが、1939年にストックホルムに移住。
1940年には、ナチスがデンマーク、ストックホルムに侵攻して、ヘルシンキに逃れます。
1941年、モスクワ、ウラジオストクを経由して、ついにアメリカ合衆国に移住しました。
『ガリレイの生涯』は、亡命生活中の1938年から1939年に執筆した戯曲で、1947年にニューヨークで初上演されました。
しかし、非米活動調査委員会(いわゆる「赤狩り」)の召喚・審問を受け、『ガリレイの生涯』が公演中だったにもかかわらず、審問の翌日に、パリ経由でチューリヒに逃亡。
1949年、ようやく東ドイツに居を定め、心臓発作で急逝する1956年まで、ベルリンで暮らしました。
ヴェネツィアのパドヴァにある、ガリレオの貧しい研究室。
ガリレオが、家政婦の息子アンドレアを相手に、コペルニクスの宇宙体系の新学説を証明するところから、第1場が始まります。
彼は、パドヴァ大学で数学を教えるかたわら、金持ちの子息に個人教授をして、なんとか生計を立てていました。
学務監督 しかしですな、たとえ共和国では、ある王国ほど俸給が支払えぬとしても、研究の自由は保証されておるということを、お忘れになりませんようにな。(88頁)
ガリレイ その思想の自由の保護という奴が、あなた方にはとてもいい商売になるじゃないんですか、ねえ? よそでは宗教裁判が支配し、燃えさかっているとおどしては、優秀な教授陣を安い金でここへ呼んで来る。宗教裁判から保護してやるかわりに、飛び切りやすい俸給で我慢しろというわけだ。 学務監督 違う、それは違います。研究のための自由な時間が思う存分あったにせよ、宗教裁判の無学な坊主どもが、あなたの思想を思う存分禁止できるとしたら、なんの役に立ちます? 棘のないバラはなく、坊主のいない王国はなしですわ、ガリレイ先生。(89頁)
15、16世紀のパドヴァ大学は、医学、天文学、哲学、法学が有名でした。
パドヴァ大学を保護したヴェネツィアが、当時のヨーロッパでオランダと共に、唯一の共和国であったため、自由な雰囲気に包まれていたと言えます。
当時のイタリアはルネサンスの末期にあたり、すでに停滞から衰退の時期になっていました。
ガリレオが生まれた1564年は、ルネサンスの大彫刻家、ミケランジェロが亡くなった年でもあります。
ガリレイ家はフィレンツェの名家でしたが、ガリレオの時代には財政的に窮乏していました。
1592年、彼はパドヴァ大学の数学教師に任命されます。その時、若干28歳。
すでに父は没し、母と弟妹を養わなければならなかったのです。
第2場において、ガリレオが望遠鏡を発明し、ヴェネツィア共和国総督と元老院議員たちが出席する贈呈式が、カーニバル的に描かれています。
第3場では、望遠鏡を初めて発明したのは、ガリレオではなかったことが分かり、学務監督が腹を立てます。
サグレド こういう器械がオランダで発明されたのを知っていたのかね? ガリレイ 勿論だ、人の噂でね。しかし、私がここの欲張りどもに組立ててやったのは、それよりは二倍も優秀だ。だって、執達吏どもに部屋で頑張られていたんでは、仕事のしようがないじゃないか。それもうじきヴィルジニアの持参金もいる。あの娘はあまり頭がよくないからね。おまけに私は本を買うのが好きだ、物理学の本だけでなく。それからうまいものを食べることも大好きだ。うまいものを食べてる最中が、一番いい考えが浮かぶ。(104頁)
ガリレオが、言葉巧みに望遠鏡を売りつける様子は、まるで詐欺師のようです。
「それでも地球は動く」という伝説的な名句とともに、科学と宗教の対立に巻き込まれた受難の科学者、というガリレオのイメージ(神話)を破壊する<異化効果>が感じられますね。
ブレヒト演劇の特徴である<異化効果>は、日常的に見慣れているものを、見慣れないもののように表現することで、観客に違和感を感じさせる手法です。
『ガリレイの生涯』では、借金があって貧しいけれど、うまいものが食べたい、本が買いたい、娘の結婚資金も用意したい、という人間くさいガリレオ像が、提案されています。
◆◆◆
ガリレオは1597年に、自分より7歳若いドイツの天文学者ケプラー(1571-1630)に宛てて、次のような手紙を書いています。
自分は数年前からコペルニクス説をとっているので、貴著、『神秘な宇宙』をいっそう楽しく拝見できるものと思う。自分は地動説の立場から、一般の学説ではとても説明できない自然界の出来事の原因を発見している。これに賛成と反対の論拠と論証を書いた。しかしまだ公表する勇気がない、というのは、その師、コペルニクス自身の運命に警告されているから。(青木靖三編『世界の思想家6 ガリレオ』平凡社)
この手紙を受け取ったケプラーは、地動説に対する意見の一致を喜び、ガリレオが地動説に賛成する根拠を公表するか、内密に報せてほしい、という返事を出しています。
しかし、ガリレオはその後、1609年に望遠鏡を使って天体観測を始めるまで、地動説については、私的にも公的にも全く沈黙しました。
『ガリレイの生涯』第3場は、ガリレオが木星の衛星を発見した1610年が舞台です。
新しい観測事実に興奮するガリレオと、恐怖にかられる友人サグレドの対照性が、ガリレオの発見の危険性を際立たせています。
ガリレイ そうだとも、ありとあらゆる星をもったこの巨大な宇宙は、これまで誰もが考えていたように、われわれのこのちっぽけな地球のまわりを回っているのではない。 サグレド 星ばかりだって言うんだな。―そんなら神はいったいどこにいるんだ? ガリレイ なんのことだね、それは? サグレド 神だよ。神はどこにいるんだ? ガリレイ (腹立たしそうに)あそこにはいない。もしあそこに生きものがいて、この地球に神をさがそうとしても、ここにはいないのと同じだ。 サグレド すると神はどこにいるんだ? ガリレイ 私は神学者かね? 私は数学者だ。 サグレド なによりもまず君は人間だ。そして僕は、君の宇宙体系のいったいどこに神がいるのだ、と聞いているのだ。 ガリレイ われわれの中にだ、でなかったらどこにもいない。(106-107頁)
ガリレオは、この発見を『星界の報告』(1610年)として発表しました。
ケプラーは、ガリレオの観測や発見を支持する『星界の報告者との対話』(1610年)を発表しています。
神はどこにいるのか、というサグレドの問いは、とても重要なテーマだと思います。
ガリレオは、神は「われわれの中に」いるか、「どこにもいない」と答えました。
ガリレオは無神論ではなく、キリスト教信仰の教義上の<真理>と、自分が研究しようとしている科学上の<真理>とを分けた、<二重真理>説を提案しています。
<二重真理>説には、宗教を人間の道徳的行動の面に限り、宗教から科学を切り離そうという、近代的(=脱宗教)な意図が感じられます。
宗教改革において、聖書は各人が解釈することができるか、それともカトリック教会の伝統的な、組織だった仲立ちを介してしか理解できないかという点が、重要な争点の一つでした。
カトリック教徒であったガリレオが、<二重真理>説を主張したことで、明らかにプロテスタントの立場に近いと見なされたため、ローマ教皇庁から異端とされたと言われています。
科学的知識と宗教的信念をめぐる問題は、19世紀になると、ダーウィンの進化論とともに再びあらわれます。
創造説と進化論は、現代においてなお、決着のついていない問題の一つかもしれません。
◆◆◆
第4場から、ヴェネツィア共和国からトスカーナ大公国に舞台が移ります。
木星の衛星を発見した1610年、ガリレオは発見した衛星にメディチ家の名前をつけ、トスカーナ大公付哲学者として任命されて、フィレンツェに移りました。
1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』を閲覧禁止とします。
第7場では、ガリレオの第1回異端審問所審査(宗教裁判)の様子が描かれています。
ガリレオの裁判を担当したロベルト・ベラルミーノ枢機卿は、科学と宗教の問題を結びつけ、神や創造説を批判する発言をしないよう、友人として忠告した上で、ガリレオに無罪判決を出しました。
ベラルミーノ枢機卿は、カトリック改革に尽力し、高い教養を持った知識人で、コペルニクスの地動説も擁護しています。
『天球の回転について』は、禁書指定からわずか4年後、単に数学的仮説であり、教会教理の批判ではないという但し書きを付けただけで、1620年に閲覧が許可されています。
地動説について、しばらくは沈黙していたガリレオでしたが、友人のバルベリーニ枢機卿が、ウルバヌス8世として教皇就任したことに勇気づけられ、執筆活動を再開します。
そして1632年、地動説の解説書である『天文対話』をフィレンツェで出版しました。
第12場では、ガリレオを擁護するウルバヌス8世と、ガリレオを異端として訴える宗教裁判主事の枢機卿の会話が描かれています。
法王 (非常に大きな声で)いけません! いけません! いけません! 宗教裁判主事 それなれば猊下は、いまここに集っておるあらゆる分野の博士たち、あらゆる聖教団及び全僧職の代表者たち、聖書に記された神のお言葉をみんな子供のように信じて、信仰のあかしをあなた様から受けようとして参っておる人々に、聖書はもはや真実ではないと告げようとお思いになるのですか?
法王 私は計算表を破り捨てるわけにはまいりません。いけません。 宗教裁判主事 あれは計算表であって、拒否や疑惑の精神ではないと、かれらは申します。だがあれは計算表ではありません。あれは恐るべき不安をこの世に呼び起こします。かれら自身の頭脳の不安を、この不動の大地に移すのです。かれらは、数字がそれをしいるのだ、と主張しております。だがその数字はどこから来たか。それが疑惑から来たものであることは、万人がこれを認めております。こうした徒輩はあらゆることに疑いをもちます。われわれは人間社会の土台を、もはや信仰の上にではなく、疑惑の上に置くべきだというのでしょうか? 「お前は私の主人だ、だがそのことがよいかどうかを、私は疑う。」(190-191頁)
第12場に先立ち、1632年の謝肉祭を描いた第10場では、瓦版屋や大道芸人たちによって、地動説が取り上げられ、社会風刺の歌や芝居となって、民衆に拡がっていく様子が描かれています。
宗教裁判主事が恐れたように、民衆は地動説を教皇や教会の権威・権力に結びつけ、権力者・支配階級を批判する根拠とするのです。
1633年、ガリレオの第2回異端審問所審査(宗教裁判)が行われました。
ガリレオは、1616年のベラルミーノ枢機卿が署名した無罪の判決文を提出して、反論しましたが、第2回裁判当時、すでにベラルミーノ枢機卿は亡くなっていたため、第1回裁判の無罪判決が無効となります。
友人であるウルバヌス8世もガリレオを擁護せず、ついに有罪の判決が出ました。
有罪判決後、ガリレオが軟禁生活の中で執筆を続けた『新科学対話』を、オランダで出版するために、弟子が密かに国外へ持ち出すところで、ブレヒトの『ガリレイの生涯』は幕を閉じます。
ガリレオの『新科学対話』は、1638年にオランダで出版されました。
◆◆◆
『ガリレオの生涯』においてブレヒトは、ガリレオの性格を、階級制度に批判的な<民衆と結びついた科学者>として描いています。
ガリレオの『天文対話』と『新科学対話』は、ラテン語ではなく、誰もが読めるイタリア語で書かれていました。
ガリレイ そうさ、俺だってあの男の家の百姓たちが新しい考えを持つように扇動することぐらいはできようさ。あの男の召使や親戚たちをな。 フェデルツォニ どうやって? 奴らの中にはラテン語の読める者は一人もいませんよ。
ガリレイ ラテン語で少数の人間のために書くかわりに、フィレンツェ語で大勢の人々のために書くことだってできるさ。新しい思想のためには、手で働く人々が必要だ。ほかに誰が物事の原因を知ろうとするものか。机にのったパンしか見たことのない連中は、それがどうして焼かれるか知ろうとはしない。こういうやからはパン職人よりはむしろ神に感謝する。だがパンを作ってる人間は、動かさなければなんにも動かないことを承知している。(第9場、175頁)
ブレヒトが仕掛けた最大の<異化効果>は、ガリレオを抵抗運動家として性格付けすることで、ガリレオの裁判を<科学と宗教の闘い>ではなく、<民衆と政治権力の闘い>(民衆革命)に置き換えたことだと思います。
『ガリレイの生涯』の中で、ブレヒトは、宗教そのものを否定しているのではなく、民衆への抑圧と搾取を正当化するために、聖書の教義を利用するローマ・カトリック教会や地主貴族たち(当時の支配階級)を批判していると言えます。
第2回裁判において、ガリレオが地動説を撤回したことは、戦術的撤退として肯定すべきか、革命の挫折・敗北として断罪すべきか、ブレヒトの中で迷いがあったようです。
ブレヒトは、亡命時代に『ガリレイの生涯』を三度も書き直しています。
初稿では、地動説撤回によってジョルダーノ・ブルーノのような処刑はまぬがれ、『新科学対話』を出版するチャンスを得たとして、ガリレオを肯定していたようです。
しかし、現在読むことが出来る最終稿では、ガリレオの地動説撤回を賢明な戦術だったと肯定する弟子に対して、ガリレオ自身が自説の撤回を反省し、自分の知識を権力者の手に渡し、民衆を裏切ったと断罪します。
ガリレイ 私は、科学の唯一の目的は、この苦しみに満ちた人間の生活を楽にすることだと考える。もし科学者が、己の利益のみを求める権力者におどかされて、ただ知識のための知識を積み重ねようとするならば、科学は不具にされ、君たちの発明する機械は新しい圧制の道具にされてしまうだろう。やがて君たちは、およそ発見できるあらゆるものを発見するだろうが、君たちの進歩は、人類の進歩とは無縁のものになるだろう。そして遂には、君たちと人間との溝が非常に大きくなり、なにかの新しい成果に対する君たちのの喜びの叫びが、世界中の人間の恐怖の叫びで迎えられるようになることも起こり得よう。(第14場、215頁)
地動説撤回を反省するガリレオが、弟子に対して語る警句は、ブレヒトから観客(未来の科学者)へのメッセージだと思います。
ブレヒトが、最終稿でガリレオに自己反省させ、未来の科学者への警告を語らせた理由は、1945年の広島・長崎への原爆投下に、大きな衝撃を受けたからだと思います。
ブレヒトは、「アメリカでの上演についてのあとがき」の中で、次のように書いています。
知って置かねばならぬのは、われわれの上演が原子爆弾が製造され、軍事目的に使用され、そのために原子物理学が厚い秘密の中につつみかくされていた時期と国とにおいて行われたということである。爆弾投下の日は、それをアメリカ合衆国で経験したすべての人々にとって、忘れ難いものになったろう。日本との戦争は、たしかにアメリカに多くの犠牲を払わせた。軍隊の輸送は西海岸から出て行き、負傷した者やアジアの病気の犠牲になった者が、またそこへ帰って来た。最初の号外がロスアンジェルスにとどいたとき、人々はこのことがおそろしい戦争の終了と、息子や兄弟たちの帰還を意味することを知った。だがこの大都市は驚くべき悲しみにつつまれた。この脚本の著者は、バスの運転手や女売子たちがただ恐怖だけを口にしているのを耳にした。それは確かに勝利であった。だが恥ずべき敗北でもあったのだ。(226頁)
参考:青木靖三編『世界の思想家6 ガリレオ』(平凡社)
青木靖三『ガリレイの道-近代科学の源流-』(平凡社)
内尾一美「ブレヒトの叙事的演劇と人間の復権」(長崎大学教養部紀要、1970)
読了日:2008年2月27日