2009/11/01

トーマス・マン「魔の山」(1)

魔の山 (上巻) (新潮文庫)
魔の山 (上巻) (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 860
  • 発売日: 1969/02

トーマス・マン『魔の山』(1924年)を読了しました。
「古今東西の名作を読もう」コミュニティの、2009年8月・9月課題本でした。
『魔の山』は、主人公ハンス・カストルプが、スイスのダヴォスにある国際サナトリウム「ベルクホーフ」に滞在した7年間を描いています。


トーマス・マンは、北ドイツ市民の「人好きはするが単純な青年」ハンス・カストルプを通して、根源的な「生」への志向と「死」への志向の対立を追求しています。
生(健康)の代表としてセテムブリーニ、ヨーアヒム、ペーペルコンが、死(病気)の代表として、ナフタ、ショーシャ夫人がそれぞれ配置されています。

イタリアの人文主義者セテムブリーニと、東方ユダヤ人のイエズス会士ナフタが展開する論争は、「人類の進歩」か「古典的中世」か、「民主主義革命」か「神の国の再建」か、「生と健康」か「死と病気」の浄化力か、笞刑・拷問・死刑の可否にまで至ります。
共産主義的イエズス会士であるナフタの思想は、ルカーチの思想と対応しているとともに、「病気の高貴性」という認識は、ニーチェのパラフレーズでもあります。


ハンス・カストルプは、「死への共感」すなわちショーシャ夫人への"悪しき愛"から、「生(生命)とは何か」を探究します。解剖学・生理学・生物学の専門書を研究し、「生命」とは「存在の淫らな形式」であり、生命に形と美を与える「肉体」は、「死にながら生きている有機物質」であることを理解します。そして主人公が見る「生命の像」は、ショーシャ夫人の裸像として表現され、ショーペンハウアー的な「死のエロティシズム」と結合しています。
ハンス・カストルプの「肉体」に対する官能的な愛は、セテムブリーニとナフタの論争から触発された彼自身が「鬼ごっこ」と名づけた瞑想(思考実験)を経て、普遍的な人間愛に昇華し、雪山の夢の中で、主人公に啓示されるのです。

己は人間の肉と血を知った。己は病気のクラウディアにプシービスラフ・ピッペの鉛筆を返してやった。しかしからだを、生命を知る者は、死を知る者だ。ただそれがすべてではない、―むしろそれは、ただのはじまりだ、教育的に考えるならば。それに他の半分を加えなければならない、反対側を。なぜなら、死と病気に寄せるいっさいの関心は、生に寄せる関心の一種の表現にほかならないからだ。
(第6章第7節「雪」, 高橋義孝訳)

したがって死(病気)の代表であるショーシャ夫人は、ハンス・カストルプの思慕の対象となることによって、逆説的ですが主人公を「生」への志向・新しい「人間性」の理念に導く役割を果たしています。

◇◇◇

人文主義的理想郷である古代ギリシアの美しい入り江のほとり、「太陽の子ら」の健康と礼儀、美と英知に満ちた明るい光景の背後には、不気味な神殿がそびえています。その中では、年老いた醜い女が二人、嬰児を引き裂いて食べていました。
「雪」の節で描かれる夢があらわしているのは、理性と反理性を併せもつ人間そのものの姿にほかなりません。

この夢を受けてハンス・カストルプは、「いつも理性の角笛を吹くばかり」のセテムブリーニにも、「普遍世界への神秘的な沈没を目ざす」ナフタにも与しないことを誓い、「人間は善意と愛のために、その思考に対する支配権を死に譲り渡すべきではない」という格率に達します。
すなわち、ハンス・カストルプの到達した新しい「人間性」は、貴族主義的な「死」の原理と民主主義的な「生」と「未来」の原理が均衡することによって成立します。


ジャヴァでコーヒー園を経営している年配のオランダ人ペーペルコンは、ディオニュソス的な生命力の代表であり、セテムブリーニとナフタの論争を沈黙させてしまう神秘的な力を持っています。ハンス・カストルプにとって、ペーペルコンはセテムブリーニとナフタの対立を解消させ、両者から距離をおくための役割を担っています。
ペーペルコンは、ワインや卵料理などの「素朴なもの、偉大なもの、神からの生れながらの賜物」(第7章)をよく味わうこと教えました。
勤勉な軍人である従兄弟のヨーアヒムは、市民的・道徳的な義務として、低地での市民生活を志向していたました。しかしディオニュソスであり、「パンとぶどう酒」のアナロジーからキリストとも重なるペーペルコンは、「生」のより根源的なもの、「人生の素朴な賜物」をすすめます。

ペーペルコンから「生」への親愛を受け、ハンス・カストルプの「肉体と精神の冒険」(内面的探究)はひとつの完成を迎えたのだと思います。


★トーマス・マン『魔の山』(2)