- 幼年時代 (岩波文庫)
- 発売元: 岩波書店
2010年はトルストイ没後100周年ということで、トルストイのデビュー作『幼年時代』(1852年)を読みました。
『幼年時代』は、10歳のニコライ(愛称 ニコーレニカ)少年を主人公に、前半は狩りを中心とする一日の出来事、後半は舞踏会を中心とする祖母の「名の日」の出来事を描いています。
前半と後半をつなぐのは、<母親>のテーマです。前半の最後では、生まれ育ったペトロフスコエ村からモスクワへ旅立つことによる母親との別れが描かれ、後半の最後には母親の死が描かれています。
小さな綿入れのガウンを着て、聖像の前に立ち、「主よ、パパとママを救いたまえ」と言ったとき、どれほどすばらしい気持ちをあじわったことか! はじめてのとき、愛する母のあとについて、おさない私の口がたどたどしくとなえたお祈りを、こうしてくりかえすと、母への愛と神への愛が、なにか奇妙に一つの感情にとけあうのだった。
(トルストイ『幼年時代』藤沼 貴訳、以下同)
幼年時代に人が持っている清らかさと、無心と、愛の欲求と、信仰の力は、いつの日かよみがえるのだろうか? この上もなくすばらしい二つの美徳―無邪気な快活さと無限の愛の欲求―だけが人生の原動力だった時にまさる時期があるのだろうか?
『幼年時代』の前半では、ニコーレニカは「無邪気な快活さと無限の愛の欲求」を持っていました。
「無限の愛の欲求」とは、母親や神を無心に愛する気持ちのことで、両者は一体であったため、「愛の欲求」は「信仰の力」と同じでした。
◇◇◇
モスクワでの一日を描いた後半では、ニコーレニカは母と神に対する「無限の愛」とは別の愛を知るようになります。
かれが私の心に呼びさました、はげしい愛着の気もちのほかに、かれがそばにいると、私はそれに劣らずはげしい、もう一つの感情をあじわった、それは、かれを悲しますまい、なにかで気を悪くさせまい、きらわれまいという恐怖だった...(中略)...私たちはお互いに、愛情のことなどひとことも話さなかった。しかし、かれは自分が私にたいして権力を持っていることを感じていて、私の子どもらしい関係の中で、その権力を、無意識だが、暴君のように行使するのだった。
ニコーレニカは、親戚のセリョージャ少年に強く憧れ、「愛情」と同じ程度の「恐怖」を感じます。
セリョージャは、貧しい外国人のイーレニカ少年をいじめて遊びますが、ニコーレニカはイーレニカに対して同情の心を持たず、「軽蔑すべき存在」とさえ感じていました。ニコーレニカの心の変化は、セリョージャへの愛情と、彼と同じような「威勢のいい男を気どりたいという願い」のためでした。
しかしその夜、ニコーレニカは舞踏会で一緒にカドリールを踊った少女、ソーネチカに恋をします。
イーピン兄弟と別れをつげるとき、私はとてもざっくばらんに、いくらかつめたいぐらいに、セリョージャとことばをかわし、握手をした。かれはきょうから自分が私の愛を失い、私にたいする自分の権力を失ったことをさとったら、まったく平気なふりをしようとつとめたにしても、きっと、残念に思ったに違いない。
私は生まれてはじめて愛の裏切りをし、はじめてその愛情の甘美さをあじわった。私は手あかのついたなれきった愛を、神秘と未知にあふれた新鮮な愛の感情にとりかえるのがうれしかった。
故郷の村を出て、母から離れたことで、ニコーレニカは幼年時代から新しい時代へと移りはじめました。
「大人のまねをしたいという奇妙な願い」のために、無邪気さや多感さを捨て、慎重さや冷淡さ、軽蔑することや自尊心、残酷なふるまいを身につけます。
そして、「神秘と未知」の喜びはあるけれど、同じ程度に「恐怖」であり、「心がわり」もする不安定な愛を知り、「こまやかな子どもらしい愛情の清純な喜び」を失っていくのです。
◇◇◇
母親は、死を目前にして夫と子供たちに手紙を書きます。
私はあなたたちといっしょにはいなくなります。でも、私の愛はけっしてあなたたちを離れないだろうと、かたく信じています、そして、この考えが私の心をとても喜ばせてくれるので、私は静かに、恐れることもなく、死が近づくのを待ち受けています。
子供たちへ向けた母親の愛情は、見返りを求めない「無限の愛」、神の愛にも似たものでした。
幼年時代に、ニコーレニカが「清らかさと、無心と、愛の欲求と、信仰の力」を持ち、母親や神に「無邪気な快活さと無限の愛の欲求」を向けることができたのは、母親のより大きな愛に満たされていたからだと思います。
そのため、母親の死とともに、ニコーレニカの幼年時代は終わったのでしょう。
ママの死と同時に、私にとって、しあわせな幼年時代が終り、新しい時代 ― 少年時代がはじまった。
読了日:2010年12月4日