2018/03/03

支倉凍砂「狼と香辛料」

狼と香辛料
  • 発売元: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/4/25

支倉凍砂『狼と香辛料』(KADOKAWA、2006年)を読みました。
「狼と香辛料」は、中世ヨーロッパをモデルとした架空世界を舞台に、行商人である主人公クラフト・ロレンスと、豊作を司る狼神ホロが出会い、ホロの生まれ故郷を目指して共に旅をする物語です。
2018年現在、長編と短編集合わせて19巻まで刊行されており、アニメ化、漫画化も行われている人気作品です。

「狼と香辛料」シリーズのテーマは、整理すると次の2点となります。

1.中世ヨーロッパにおける商業活動
2.キリスト教と非キリスト教(異教)の対比

まず、<中世ヨーロッパにおける商業活動>については、主人公ロレンスが行商を生業とする青年であることから、新しい商人階級の台頭による貨幣経済の発展、同業組合、定期大市、都市内部の権力抗争などが描かれています。
トールキン『指輪物語』をはじめ、中世ヨーロッパをモデルとした物語は、剣や魔法を武器に戦争を繰り広げる大きな物語であることが多いです。
しかし「狼と香辛料」は、商人・職人・ブルジョワなどの都市に暮らす人々や、農民などの働く人々に光を当てており、その文化や生活を生き生きと魅力的に描き出しています。

次に、<キリスト教と非キリスト教(異教)の対比>については、キリスト教化以前の神々に対する信仰がしだいに失われていく様子を、ヒロインである狼神ホロの眼差しを通して、悲しく描いています。
「狼と香辛料」シリーズが進むにつれ、キリスト教伝道という表向きで、実際は経済的・政治的利害から、異教(非キリスト教)の住民たちを陥れ、時には軍事力を用いて征服しようとする貪欲な聖職者や、世俗的な教会権力についても、物語の中で描き出しています。
わたしは、ハインリヒ・ハイネ『流刑の神々・精霊物語』を読んで、古代ローマや古代ゲルマンの神々が、キリスト教化の過程で「悪魔」へと変化させられたり、聖人・聖遺物崇拝に習合して、民話や伝説の中でかろうじて保存された、という歴史に関心を持ちました。
この「狼と香辛料」シリーズは、娯楽小説でありながら、キリスト教世界が拡大し、非キリスト教世界の文化が侵略・征服されていくという難しいテーマを、物語の中に上手に織り込んでおり、大変興味深いです。



来る年も来る年も麦を育ててきたこの村の者達も、せいぜい長生きして七十年なのだ。
むしろ何百年も変わらないほうが悪いのかもしれない。
ただ、だからもう昔の約束を律義に守る必要はないのかもしれないとも思った。
何よりも、自分はもうここでは必要とされていないと思った。
東にそびえる山のせいで、村の空を流れる雲はたいてい北へと向かっていく。
その雲の流れる先、北の故郷のことを思い出してため息をつく。(支倉凍砂『狼と香辛料』、13頁)

行商人のロレンスは、ヨーレンツにある山奥の村に塩を売り、テンの毛皮を仕入れ、おまけに麦を譲り受けて山を下り、麦の大産地パスロエ村を訪れました。
パスロエ村の麦はかつて、重税を課されるせいで値段が高く、市場で不人気でしたが、ロレンスはパスロエ村の麦を買い、地道に薄利で売っていました。
ロレンスが長年取引してきたパスロエ村は、現在は新しい領主エーレンドット伯爵の管理のもとで、麦の収穫高が上がり、より豊かになりつつあります。

ロレンスがパスロエ村を訪れた時、村の伝統である収穫祭がちょうど行われていました。
パスロエ村では長い間、豊作を司る狼神ホロが祀られており、キリスト教化した現在でも、狼神の収穫祭を盛大に行い、昔の狼信仰の名残をとどめています。
パスロエ村の人々は、最後に刈り取られる麦の中に、豊作の神が宿っていると信じていました。

パスロエ村郊外で、ロレンスが野営していた夜、荷馬車の荷台に美しい女性が出現し、自分はホロであると名乗ります。
彼女の身体には狼の耳と尻尾があり、豊作の神ホロの化身だったのです。
豊作の神が麦の中に宿るという言い伝えは本当で、いつもは最後に刈り取られる麦の中に宿っていましたが、今回は最後に刈り取られる麦よりも多くの麦が、ロレンスの荷馬車に積んであったため、ロレンスの麦に宿り、村から逃げ出すことに成功したのです。

狼神ホロは数百年の間、パスロエ村の麦の実りのために心を尽くしてきましたが、近年は新しい領主が新しい農法を指導し、生産性をますます高めており、もはやこの村で豊作の神は必要とされていないことを感じていました。
そのため、ホロは豊作の神としての役目を捨て、村を立ち去ることを決意したのです。
ホロは、生まれ故郷である北の大地に帰りたいと願い、ロレンスの旅に同行することを決めます。
ロレンスは、ホロを旅の道連れとして受け入れ、再び行商の旅を続けます。

中世ヨーロッパの世界:森林・動物


前述の通り、『狼と香辛料』は中世ヨーロッパをモデルとしています。
中世の千年間の歴史で、やがて近代の主役となる商人とブルジョワが台頭してきた、中世末の世界を描き出していると言えます。
より時代を特定すれば、14世紀頃が舞台ではないかと思います。
その理由は、14世紀に為替手形システムが商人の間でしだいに広がり、『狼と香辛料』においても、ロレンスが為替手形の仕組みを説明する場面が描かれているからです。

中世ヨーロッパの世界を想像するとき、現代のわたしたちが思い描く自然の風景と、当時の実際の生物分布はかなり違っており、地域的特色もよりはっきりと分かれていました。
人間は、森林を全面的または部分的伐採を行って、開墾し、羊や家畜を放して、森林を破壊していきました。
地中海周辺やイベリア半島の森林は、中世を通じて羊によって食い尽くされ、現代に見られるような一面の草原に変わったと言われています。
残された森でも、プラタナスやポプラなど、人間が意識して植樹したため、森林を構成する樹種が変わってしまったのです。
人間によるさまざまな働きかけが、自然の森や動物たちに根本的な変化を与え、中世の西ヨーロッパにはありふれた生物種たちの多くが、現代では絶滅したか、数を非常に少なくしました。

当時、どこにでもいた動物たちと言えば、狐、穴熊、野兎、雉、ノロ鹿(小型の鹿)、野生の山羊などです。
ビーバーは、カロリング朝時代(751年~987年)ではすでに数を減らしており、ドイツ以外の地域では稀だったと言われています。
家畜牛の先祖である野生の牛オーロックは、1627年に絶滅したと言われています。
16世紀にポーランド大使を務めたオーストリア人のヘルベルシュタインは、ポーランドで生息していたオーロックについて見聞録を残していますが、当時ですらあまりにも少なく珍しい動物でした。
オーロックは、中世の狩猟手引き書や文学作品にも登場することが少なく、中世初期の頃にはすでにほとんど見られなくなっていたと考えられています。

熊が数を減らしたのは、農民たちや山岳民たち、とりわけ大領主たちの狩の獲物にされたためです。
領主たちは、熊狩り用に訓練したマスティフ犬を飼い、熟練した腕で槍を振りました。
猪は食用としても好まれたため、領主たちによる頻繁な攻撃にさらされ、聖ルイ王の弟アルフォンス・ド・ポワティエは、十字軍遠征に備えて二千頭の猪を殺させ、塩漬け肉にさせたと記録されています。

狼は、群れを作って集団で行動し、身軽で敏捷、数日間で何百キロも移動することができ、長く寒い冬も動き回ることから、中世には際立っており、肉食獣の中でも王者でした。
ブルターニュ半島、オーヴェルニュ、シチリア、カンタブリア(イベリア半島北部)、メセタ高地(イベリア半島中央部)、ハルツ山脈(ドイツ中央部)などは、狼がたくさん生息する地域として有名でした。
ブリテン島だけは、海に隔てられていたため、中世を通じて狼は生息していなかったと言われています。
狼がいかに人々の日常生活に溶け込んでいたかは、中世の文学や民間伝説が伝えています。
12世紀半ばに中世ラテン語で書かれた動物叙事詩『イセングリムス』(Ysengrimus)において、主人公のイセングリンは狼です。
『イセングリムス』では、猟師は狼を、力と知恵・勇気を備えた優れた獣として称えています。
民間伝説では、狼は子供や女性、老人を襲って食べる恐ろしい獣として語られ、人狼の伝説まで伝えられています。
狼の群れが人里近くまで移動して、家畜を襲ったりするのは、田園が荒廃した危機的状況のときで、15世紀にはパリの町なかに狼が迷い込んだり、パリ近郊に出没したことが記録されています。

熊や狼以外の肉食獣では、もともとヨーロッパに生息していた野生の猫、大山猫がいましたが、狼が王者であるかぎり、山猫の生息圏は限られていたと言われています。

狼の伝説


人狼についての最古の文献の一つは、古代ローマ時代にペトロニウスによって書かれた『サテュリコン』です。
『サテュリコン』では、一人の兵士が月夜に墓で狼に変身し、どこかの農園の家畜を襲おうとしたところを反撃に遭い、逃げ帰って人間の姿に戻ったという逸話が書かれています。
ギリシア神話のアルカディア王リュカオンは、ゼウス神を試してみようとして、わが子を殺して、調理して食べさせます。
ゼウスはただちにそれを見抜いて、リュカオンを罰し、リュカオンは狼となって荒野をさまようのです。
人狼伝説は、『サテュリコン』のように定期的に狼に変身する人間の物語と、リュカオンのように永遠に狼となり、二度と人間には戻らない物語があります。

定期的に狼に変身する物語には、狼の毛皮をまとって、自分の意志で変身する物語も多く伝えられています。
中世の『メリオンのレ』では、狼に変身して人間に戻れなくなった男が、狼軍団を率いて人間たちに立ち向かうという逸話が語られています。
その影響を受けてか、デュマの『狼のチボー』は、悪魔と契約して狼となった人間の物語で、狼となったチボーは乱暴な領主に対して復讐するため、狼の群れを率いて領内を荒らし回り、最後には狼の毛皮を脱いで人間に戻ります。

狼の毛皮をまとって、狼の知恵と獰猛さを手に入れるという伝説は、ゲルマン社会の男性が狼試練、熊試練によって、儀式的な変身を行った歴史がルーツだと言えます。
グリムの「熊の皮を着た男」では、熊の毛皮を着て、身体を洗わず、髪も爪も切らずに数年間過ごす試練に服する男の物語が語られていますが、このような動物試練が古代では行われていたかもしれません。
熊や狼の凶暴さを身につけて凶暴戦士となり、試練の期間が終われば普通の人間に戻りますが、戦争になれば凶暴戦士として勇猛に戦います。

人間が獣に変化する人獣伝承は、世界各地で伝えられており、その地域でもっとも恐れられる獣がモチーフとなっています。
アフリカでは人ライオンや豹男がいて、ヨーロッパでは人狼、熊男、中国では人虎、東南アジア沿海部では人鰐、東南アジア海洋部では人鮫となるのです。
日本では、狼が鍛冶屋の婆を食い殺して、婆になりすましていたという「鍛冶屋の婆」伝承があります。
「鍛冶屋の婆」の類話である「弥三郎婆」や「崎浜の婆」の異伝では、狼だと思って婆を殺したが、いつまでたっても死体が狼にならないので不安になるという話があり、狼が婆を食い殺したのではなく、女性が異類(鬼、獣)に変身する話として解釈することができます。
しかし、これらの人獣が神として崇拝されることはなかったと言われています。


ヨーロッパで非常に親しまれている「赤頭巾」や「狼と七匹の仔山羊」は、人狼ではなく、現実の獣として恐れられていた狼が語られています。
北欧では、フェンリル狼が神々にとっての最大の敵として描かれ、テュールが片腕を失って鎖につなぎますが、世界の終わりラグナレクのときに解き放たれて、オーディンを呑み込むのです。
また、双子の狼スコルとハティが、天空で太陽と月をそれぞれ追いかけており、ラグナレクのときには、スコルは太陽に追いついて食べてしまい、ハティは月に追いついて食べてしまいます。
このように、北欧では狼が太陽・月を食べるという日食・月食神話があり、世界の終わりをもたらす天災の象徴として狼が語られています。
現在、北欧神話として知られている物語は、キリスト教化以前のゲルマン神話であることから、古代ゲルマン社会において、どれほど狼の害が多く、人々から恐れられてきたか分かります。

ロシアの『原初年代記』や『イーゴリ戦記』では、古代ロシアの王たちは夜ごと狼となって、ツンドラを走ったと伝えられています。
蒼き狼からモンゴル族が生まれたとする伝承は、トルコ=モンゴル族に広く伝えられる伝承の一つで、『元朝秘史』が有名です。
匈奴や突厥など、モンゴル系の諸族には狼を祖とする伝承がいくつも伝わっています。
ローマ建国神話のロムルスとレムスが、牝狼に育てられたという伝承も同じ系譜であり、これらは始祖信仰すなわちトーテム的な信仰です。
恐ろしい猛獣を「祖先」として考えることによって、猛獣はその部族を守る神となり、その猛獣を祖とし、祖先である神に守られる自分たちは、特別に勇猛な戦士集団であると考えるようになります。
このように、人々を襲う神が部族の守り神とすることは、野生の動物たちを理解し、共生するための認識方法だったと言えます。
世界には、白鳥始祖、狼始祖、蛇始祖の伝承など、さまざまな動物始祖信仰があります。

ロシアのフセスラス公が夜ごと狼になって凍土を走ったのは、戦士たちの長である勇猛さを表す神話です。
猛獣の残虐さ、凶暴さを身につけた、選ばれた勇猛な戦士であることは、戦を勝ち抜くためには必要なことだったのかもしれません。
しかし、戦争が終わり、平和な社会を統治することが求められるようになると、凶暴な武将のままでは、人々から恐れられ、遠ざけられる存在となってしまいます。
そのため、狼や熊、虎、鰐、鮫などのトーテム獣(祖先獣)が、すべてを取り仕切る神、その地域の最高の神として祀られることはなかったと考えられています。
したがって、狼を自分たちの「祖先」として祀り、守り神として敬した人々は、農業生産の拡大やさまざまな勢力争いの結果、トーテム的な信仰をしだいに失っていったのでしょう。
国の建国神話や部族の語り部が伝えた英雄たちの神話は、トーテム的な信仰の喪失とともに、庶民の間で恐ろしげに語り伝えられる人狼物語へと変容していったのではないでしょうか。



『狼と香辛料』では、巨狼ホロは豊作を司る神として祀られていました。
ロレンスと旅する時は、若く美しい女性に変身しますが、ホロの本性は巨大な牝狼であり、非常に長命で、優れた知性を持ち、人語を話します。
前述した狼伝説と比較して考えると、ホロの豊かな知恵は過去の多くの伝承・伝説と共通していますが、豊穣の神という役割は独特で、過去の類例がほとんど無い、珍しい設定だと思います。
豊穣の動物神としては「牛」の方が代表的であり、インドでは聖牛として大切にされ、エジプトでは牛は豊穣の女神ハトホルやイシスの化身とされていました。

国の祖となる英雄が捨てられて、牝狼に育てられるという物語は、ローマの建国神話やモンゴルの「蒼き狼」の伝承など、数多く語り伝えられています。
人間の乳飲み子を育てた牝狼は、知恵と獰猛さの象徴としてだけでなく、母性の象徴でもあると言えます。
『狼と香辛料』のホロは、知性のある牝狼であることから、獰猛で凶暴な獣としてではなく、母性の象徴として見なされたのかもしれません。
母性を表す存在として考えると、母性と豊穣力は密接に結びついているため、牛女神ハトホルやイシスと同じく、牝狼ホロも豊穣を司る女神として祀られたと解釈することができます。



中世ヨーロッパの世界:貨幣経済の発展


※ネタバレ注意※

『狼と香辛料』では、銀貨の改鋳に関わる大きな取引が描かれています。
ロレンスは、若い行商人ゼーレンから、トレニ―銀貨が近々改鋳され、銀の純度が高くなるため、銀貨を買い集める取引を持ちかけられます。
純度の下がった古い銀貨を大量に集めて、純度の上がった新しい銀貨と交換すれば、差額分が儲かるという仕組みです。
ロレンスはゼーレンの儲け話に乗ったふりをして、商業の発展した港町パッツィオで、銀貨の純度を上げて改鋳されるという情報の真偽を確かめます。
そして、銀貨の純度を上げて改鋳されるという情報は嘘であり、実際は銀貨の純度を下げて改鋳される予定であることを突き止めるのです。
銀貨が悪鋳されると、その銀貨の信用が低下し、価値が下がります。
それでは、なぜゼーレンは嘘情報を広めて、銀貨を買い集めさせようとしたのでしょうか?

ゼーレンに詐欺を指示していたのは、パッツィオで麦を中心とした農産物取引を行うメディオ商会でした。
メディオ商会が、ゼーレンら手下たちを使って大量にトレニー銀貨を集める目的は、トレニ―国王に取引を持ち掛けることです。
財政が逼迫しているトレニー国王は、現在流通しているトレニー銀貨を鋳潰し、地金として使用し、銀の純度を下げて新しい銀貨を発行する計画です。
銀の純度を下げれば、同じ銀の量からより多くの銀貨を発行することができます。
しかしメディオ商会が、王政府よりも早く、市場に流通している全てのトレニー銀貨を回収すれば、新しい銀貨の地金が不足します。
メディオ商会は、集めた銀貨と引き換えに、国王から関税設定権などの有益な特権を引き出そうと考えていたのです。
さらに、メディオ商会を操っていたのは、エーレンドット伯爵であり、麦の大産地を領地に持つ伯爵は、麦の取引相手である商会と協力して、麦に関する様々な関税の撤廃を目論んでいました。
トレニ―銀貨を悪鋳するという王政府の極秘情報を、メディオ商会に流したのは、エーレンドット伯爵であることは明らかで、現代で言えばインサイダー取引に当たると言えます。
このような、トレニ―銀貨の改鋳をめぐるマネーゲームに関わり、行商人ロレンスはどのような役割を演じたのでしょうか?
詳しくは、ぜひ小説を手に取って、読んでみてください。



中世ヨーロッパにおいて、11世紀より以前は、大多数の人々にとって通貨はほとんど無縁の存在でした。
当時、取引には「銀」が使用されていましたが、それは「貨幣」という形ではなく、銀そのものとして、農産物などと同じように、重さを量って取引されていました。
したがって、すでに貨幣の形になっているものは、切り刻んだり、鋳潰して使用されたのです。

古くからローマ帝国の植民地であった地域の貴族や、彼らと取引していた商人たちは、「ソリドゥス金貨」を使用していました。
『狼と香辛料』の中に登場するトレニ―銀貨は架空の銀貨ですが、この物語と同じく、ソリドゥス金貨もしだいに悪鋳されていった歴史があります。
ソリドゥス金貨は、大帝と呼ばれたコンスタンティヌス1世によって、4世紀前半に鋳造された金貨であり、もともとは純度95.8パーセントの金貨でした。
この金貨の重量と純度は、西ローマ帝国滅亡後も、東ローマ帝国の皇帝によって守られたため、貨幣の信用度が非常に高く、数世紀にわたって各地で使用されました。
しかし、東ローマ帝国の財政が悪化したため、このソリドゥス金貨もしだいに小さくなり、金の純度も悪化して、信用を低下させていきます。
11世紀のマンツィケルトの戦いで、セルジュール朝トルコに敗北した後は、金の純度がさらに減って、銀の含有量が50パーセントを超えるまでになり、ソリドゥス金貨は姿を消していったのです。


中世ヨーロッパの銀貨は、ローマ時代のデナリウス銀貨が引き続き使用され、カール大帝と呼ばれるシャルルマーニュ(在位768年-814年)によって重さ・刻印が改良されて、ドゥニエ銀貨と呼ばれるようになります。
1ドゥニエ銀貨は、オート麦50リットルまたはパン12個に相当する値打ちがあったと言われており、農民など庶民の日常生活にはほとんど使われませんでした。
当時の農村では、基本的に自給自足であり、物々交換か、交易自体が行われなかったため、領主が貨幣を鋳造しても、ごく狭い範囲でしか通用しなかったのです。

商人たちは、遠隔地からの品物の仕入れには、7世紀から鋳造されたイスラム世界のディナール金貨や、ソリドゥス金貨の後継である東ローマ帝国のベザント金貨を使用していました。
イスラム製のディナール金貨は、金の純度が高く、当時の国際通貨でした。
商人たちは、ある領主領だけでしか通用しない貨幣ではなく、西欧のどこでも使える、より強く、より安定した銀貨を必要としていました。
そこで、12世紀末のヴェネツィアで「グロス銀貨」が造られ、続いてイングランドの「エステルラン(スターリング)銀貨」、フランスの聖ルイ王による「グロ銀貨」などが造られたのです。

ヨーロッパでは、金の産地はハンガリーのみだったため、独自の金貨を鋳造しはじめるのは11世紀から12世紀以後になります。
イタリアのフィレンツェ、ジェノヴァ、ヴェネツィアといった諸都市や、イベリア半島のカタルーニャ、カスティーリャ、ポルトガルなどで、イスラム世界やオリエントとの交易で金の備蓄量が増えると、金貨が鋳造され始めます。
フィレンツェの「フローリン金貨」、ヴェネツィアの「ドゥカート金貨」は特に有名で、金の純度が非常に高く、信用度が高いため、西欧で急速に普及しました。
13世紀から14世紀になって、イングランドやフランスなどの王制諸国家も自前の金貨を鋳造し始めますが、フローリン金貨を模した金貨が造られました。

『狼と香辛料』では、ピレオン金貨とヌマイ金貨が二大金貨として登場しますが、これはフローリン金貨とドゥカート金貨をモデルとしていると思います。
作品中で、金の純度が高く「最強の金貨」と呼ばれるリュミオーネ金貨は、イスラム製のディナール金貨をイメージしているのではないでしょうか。


このように、貨幣が普及することによって、商人たちは新しい問題に直面します。
最も大きな問題は、大金を持っての旅の危険、そして通過する地域ごとに異なる貨幣を使い分ける不便などです。
この問題は、14世紀にしだいに広がった為替手形システムによって解決されました。
『狼と香辛料』においても、ロレンスが為替手形システムについて簡単に説明する場面があります。

「しかし、ここからまたヨーレンツに帰るのは骨じゃありませんか」
「そこは商人の知恵です」
「ほほう、興味深い」
「私がヨーレンツで塩を買った際、そこでお金は払いません。私は別の町にあるその塩を買った先の商会の支店にほぼ同額の麦を売っていたからです。私はその支店から麦の代金を受け取らない代わりに、塩の代金を払いません。お金のやり取りをせず、二つの契約が完遂されるのです」
百年以上前に南の商業国で発明された為替のシステムだ。ロレンスも師匠になる親戚の行商人からこれを聞いた時ひどく感動した。ただ、それは二週間ほど散々悩んでようやく理解してからのことだ。目の前の初老の男性も、一回聞いただけでは理解できないようだった。(80頁)

さらに、商人たちの間で、事業の拡大のために、資金を持っている人々に呼びかけて、投資を募る「コンメンダ方式」という手法が広がります。
ヴェネツィアでは、10世紀頃から航海の資金集めにこの手法が行われていました。
商人が出資を呼びかけると、出資者は航海に同行せず、資金をこの商人に託し、帰港を待ちます。
航海から帰ってくると、持ち帰った商品を売り、それによって出資額が返済されるとともに、利益の四分の三が出資者に、四分の一が商人および船員のものになるのです。

陸路による通商は、航海よりも危険が少なかったですが、その場合も「組合」が形成されました。
「組合」の多くは、同じ家族で構成され、同じパンを分け合う人々が資本金を互いに分割し合い、利益の分配は貢献度に応じ、組合員は連帯責任を負います。
組合員のうち何人かに商品の輸送を担当させたり、商取引の人員を都市に配置し、常駐させることもできます。
このような「組合」が発展して、「商会」が出来ていきます。
イタリアの大きな商会は、13世紀末には連帯責任制の支店を各地に作り始めました。
14世紀初め、フィレンツェのバルディ家によるバルディ商会は、25の子会社を持ち、資本金は15万フローリン、年間取引額は90万フローリンに達したと言われています。
フローリンとう通貨単位は、前述のフローリン金貨に由来しており、フローリン金貨は3.5368グラムの純金で、現代の140USドルに相当すると言われています。

14世紀末には、支店相互が連帯責任を持つ「商会」が廃れ、支店の大部分を互いに連携しない自律的組織として、最大の株主は全般的方向性を立てるだけ、という「新しい商会」が隆盛します。
ダティーニ家やメディチ家による「新しい商会」は、14世紀末から15世紀にかけて、プラート、フィレンツェ、ジェノヴァ、ピサ、アヴィニョン、バルセロナ、バレンシア、マヨルカに設立された複合体で、ブルッヘ、ロンドン、パリ、ヴェネツィア、ミラノなどにも代理人を置き、年に20パーセント以上の利益を生み出しました。
ドイツでは、ハンザ商人や北方の大商人たちの多くは、小規模の商社を利用していました。
しかし、ライン地方や南ドイツでは、巨大な複合商社が活躍し、有名なフッガー家のヤーコプ・フッガーは、当時の世界で一番の富豪となりました。
ヤーコプ・フッガーの個人資産は、約200万~300万フローリンだったと言われています。

まず、商人たちは、農民たちが税として納入した物資(小麦、羊毛、ワインなど)の余剰分を貴族たちから買い取って、商いました。
さらに、貴族たちに金を貸し付けてまで、奢侈品を買わせ、その貸付金の担保として、貴族から開拓地の独占権や領地の年貢徴収権、ときには土地そのものまで手に入れたのです。
商人たちは、このようにして手に入れた土地や権利を、より安定性を持った資本として事業を拡大するとともに、社会的地位を増していきます。
貴族たちが失った権力の一部が、新興の市民のものになっていったのです。
伝統的な中世社会は、商人階級の台頭によって、大きく変化していったと言えます。

『狼と香辛料』においても、麦に関する税の特権を手に入れるために画策する大商会が描かれています。
実際に、成功した商人たちは、ときに詐欺まがいの悪どい手法まで使って、さまざまな特権を手に入れ、資本を増やしていったのかもしれません。




アニメとの比較


「狼と香辛料」シリーズは、2008年から2009年にかけてアニメ化されています。
アニメ第1期(2008年)の第1話~第6話が、今回の『狼と香辛料』にあたります。
アニメは、原作小説に基本的に忠実で、丁寧に制作されており、原作を未読でも楽しめますし、原作を読んでいれば、よりいっそう楽しめる良作となっています。

アニメと原作を比較すると、パスロエ村の村人で、狼神ホロを教会に引き渡そうとする人物の描き方に大きな違いがあります。

原作では、パスロエ村の麦を取引する際に、村側の値段交渉人を務めるヤレイという男性が登場します。
値段交渉人のヤレイは、麦の大口取引相手であるメディオ商会に協力し、トレニ―銀貨改鋳をめぐる取引に加担していました。
港町パッツィオで、ロレンスがヤレイと再会した時、ヤレイは農夫とは思えない上等な衣服を着ていました。
パスロエ村の麦畑で、「土と汗に汚れた真っ黒な顔」をしていた農夫ヤレイが、パッツィオでは「つつましい農村生活をしていてはとても手に入らないようなもの」を身にまとっているのです。
このことから、ヤレイが村側の値段交渉人という立場を悪用し、ひそかに私腹を肥やしていたことが伺えます。
身分不相応に上等な衣服は、メディオ商会から賄賂として受け取ったものかもしれません。

ヤレイはロレンスの肩越しに後ろのホロに視線を向けて、後を続ける。
「俺もまさかとは思ったが、昔話の中に出てくるそれとあまりにそっくりだ。村の麦畑に住みつき、その豊作凶作を自在に操れる狼の化身に」
ホロがぴくりと動いたのが分かったが、ロレンスは後ろを振り向かなかった。
「そいつをこっちに渡せ。俺達は、そいつを教会に差し出して古い時代と決別する」(294頁)

メディオ商会が、トレニー銀貨の取引で特権を手に入れることに成功すれば、ヤレイ自身もさらに財をなすことが出来ます。
農夫ヤレイは、大商会と付き合うことで、商人や都市の生活に憧れ、領主に隷従する農民の身分から抜け出したいと考えていたのだと思います。
ホロが教会に引き渡されれば、悪魔または悪魔憑きとして異端審問され、命がないでしょう。
ヤレイは、自分たちの先祖が代々、大切に祀ってきた豊作を司る神を、「古い時代と決別する」ために殺そうとしているのです。
ホロは「豊作凶作を自在に操れる」神であり、ときに「気まぐれ」によって凶作をもたらし、村人を苦しめる「理不尽」な神であると、ヤレイは考えていました。
ヤレイは、ホロに対する信仰を失っているのではなく、むしろホロの豊穣力を信じているからこそ、自分たちの望む実りをもたらさない、自分たちを助けてくれないホロを憎んでいるのです。
初めから、ホロという神の実在を全く信じていなければ、ホロを名乗る女性を憎むこともなく、殺そうと思うこともなかったでしょう。

信仰を持つがゆえに、神を憎むという複雑な感情は、ヤレイだけでなく、過去から現在まで多くの人々に共通する思いです。
それは、現代のキリスト教徒にとっても、古代のイスラエルの民にとっても同じです。
旧約聖書の詩編には、神さまどうしてですか、なぜわたしをお見捨てになったのですか、という心の叫びが繰り返し綴られています。

わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。(「詩編:第22章2節」、新共同訳)

ホロは、パスロエ村の村人たちを数百年間見守り続けてきて、村人たちの祈りの言葉や祭礼に変化があらわれ、ヤレイが言葉にしたような感情を抱いている者が増えてきたことを敏感に感じていたのでしょう。
だからこそ、前述したように、作品冒頭で「自分はもうここでは必要とされていない」と考え、豊作を司る神の役目を捨て、ロレンスと共に旅に出ることを選んだのだと思います。


アニメ版では、このヤレイという人物は登場しません。
代わりに、クロエという若い女性がパスロエ村の値段交渉人として登場します。
クロエは、麦の取引で毎年訪れるロレンスに、思いを寄せていました。
ロレンスは、クロエを商取引ではまだ未熟な後輩として接しており、クロエの誘いをさりげなく断っていました。
そしてヤレイに代わって、ホロを教会に引き渡そうと追い詰める役割を、クロエが演じています。

前述のように、ヤレイがホロを殺そうとする場面は、神と人との間の問題、人生の不条理と信仰の揺らぎの問題を表していると言えます。
アニメにおいて、クロエがホロを殺そうとする場面は、ロレンスに対する愛情ゆえの憎悪と嫉妬が描かれています。
「二人で成功してこの町にお店を構えましょう」と手を差し伸べるクロエを断り、ロレンスはホロと旅することを選び取ります。
クロエの言葉は、明らかに求婚を意味しており、それを断って、ホロと旅すると宣言することは、ロレンスがホロを伴侶とするという意味で受け取られるでしょう。
クロエは、ロレンスの言葉を聞き、差し出した手を握りしめ、ため息をつき、ロレンスを殺すよう命じます。
アニメ第1話では、パスロエ村において、クロエとロレンスが会話中に、上の空であるロレンスに対して、誰かほかの女性のせいでは、とクロエが問い詰める場面が描かれています。
このように、以前からロレンスに思いを寄せていたクロエにとって、その思い強ければ強いほど、自分の気持ちを裏切られた怒りや憎しみが強まり、ロレンスを殺そうとしたのだと思います。
クロエには、第1話で「どうせ本物のホロなんかいない」と語っており、もともとホロという神の実在を全く信じていないことが分かります。
クロエにとって、ホロは神というよりも、自分からロレンスを奪った女性という感情しかないでしょう。
狼神ホロが、若く美しい女性の姿に変身していたことによって、クロエの嫉妬心がより燃え上がったと言えます。

農夫ヤレイの役割を、クロエという女性に置き換えることによって、原作とアニメでは、ホロの立場に対する印象が大きく異なると思います。
アニメでは、女性の嫉妬や憎悪の感情が強調されることで、信仰のゆらぎの問題は描かれておりません。
原作では、神への不信、信仰のゆらぎの問題を描くことで、神自身が信者たちから離れていく、という人と神の関係の脆さ、悲しさが感じられます。




参考:ロベール・ドロール『中世ヨーロッパ生活誌』(論創社、2014年)
篠田知和基『世界動物神話』(八坂書房、2008年)

2018/01/24

中島敦「山月記」

李陵・山月記 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 2003/12

2016年5月28日の読書会で、中島敦「山月記」(『李陵・山月記』、新潮社、2003年)を読みました。
中島敦(1909年-1942年)は、「弟子」、「名人伝」、「李陵」などで知られている日本の小説家で、33歳の若さで病没しました。
中島は、短い生涯の中で、中国古典を題材とした、漢文調の簡潔で美しい文体の作品を多く遺しています。
「山月記」は、国語の教科書にも採用されており、誰もが一度は読んだことがある名作です。

※ネタバレ注意※

唐の時代、主人公の李徴は若くして進士(上級官吏登用試験)に合格しますが、すぐに官吏を退職し、詩人として名声を得ようと努力します。
しかし、文名は思うように揚がらず、生活は日を追って苦しくなり、李徴は貧窮に堪えかね、妻子のために地方の下級官吏の職に就きます。
李徴が官吏に復職した時、かつての同輩はすでに上級官吏に昇進しており、李徴の自尊心は傷つけられ、ついにある夜、李徴は行方不明となりました。
翌年、李徴の親友であった上級官吏の袁傪は、旅の途中に野生の虎に襲われますが、袁傪を襲った虎は人語を話し、虎は自分が李徴であると名乗ります。
袁傪は虎の言葉を信じて会話を交わし、虎は自分の辛い身の上を語り、人間だった時に作った詩を吟じて、袁傪に伝録を頼みます。
そして、虎の中に李徴が生きているしるしに、即興で自分の心境を詩作して聞かせます。
虎は最後に、自分が行方不明になり、飢え凍えているであろう妻子の生活支援を袁傪に頼み、二人は別れました。


若きエリート官僚がなぜ詩人に転職したのか?


隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自恃ところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔よしとしなかった。(「山月記」、新潮社、8頁)

「山月記」では、李徴が進士に合格した年について、「天宝の末年」と書かれています。
「天宝」は、唐の玄宗皇帝の治世後半の元号で、西暦742年~755年にあたります。
李徴が進士に合格した755年は、安史の乱(755年-763年)が勃発して、反乱軍が長安に迫り、玄宗皇帝が長安を脱出するなど、国内が内戦状態で、非常に混乱していた時代です。
李徴が官吏を退職し、詩業に進み、数年後に再び官職復帰した頃は、玄宗が退位させられ、皇太子・粛宗が即位し、反乱鎮圧にあたっていた時代でしょう。
757年に粛宗は長安を奪還し、都に帰還しますが、反乱はまだ収まっておらず、762年に玄宗、粛宗が相次いで亡くなります。
安史の乱はおよそ10年にわたって続き、長引く内戦によって、皇帝の権威は大きく傷つき、国内は疲弊したと言えます。

李徴は進士に合格して、「江南尉」という江南地方の警察・軍事に関係する官僚となります。
李徴について、現代で言うところの、国家公務員試験に合格したばかりの若いエリート官僚として考えてみましょう。
反政府勢力によって首都が制圧され、政府首脳は都から避難、政治家たちも失脚したり死んでいくとしたら、<官僚として出世する人生>に希望を持てず、転職したくなる気持ちは分かります。
そのような政治的社会的情勢であっても、エリート官僚が<詩人>に転職するというのは、現代ではほとんど考えられないでしょう。
しかし、李徴を含む唐代のエリート官僚たちは皆、詩作の技術に優れており、詩人となるための素養を持っていたのです。

中国の官吏登用試験「科挙」は、有力豪族・貴族出身者による官職の世襲を防ぎ、有能な人材を官僚に登用する目的で、隋の時代に始まり、清の時代まで続きました。
唐の時代において、科挙の進士科(上級官吏)の試験は、「四書・五経」といった儒教の経書の知識を問う試験と、韻文で詩作・論述する「詩賦」の試験によって構成されていました。
「詩」の試験では、指定された題材や題字を用いて、五言六韻十二句による律詩という技巧的な定型の韻文形式で詩作することが求められます。
「賦」と呼ばれる論述試験では、指定された韻字を用いて、政治への意見などを指定字数以上で自由に論述することが求められます。

唐代の科挙は、不定期に実施される「制科」と、定期的に実施される「常科」があり、常科のうち「進士」と「明経」という二つの科がありました。
明経科は、経書の知識を問う試験のみであり、詩作・論述の試験はなかったと言われています。
進士科の試験で、詩と賦が重んじられたのは、古典の教養・知識とともに、言語運用能力の高い人材を求めていたのかもしれません。


中国史において、豊かな豪族・貴族の社交の席上で発達してきた詩歌の文化は、進士科の試験に「詩賦」として導入されたことにより、国家規模の詩作コンクールに発展し、技巧的な定型詩の文化として完成したと言えます。
玄宗の治世で、安史の乱が起こる前の50年間は、李白、杜甫、王維、孟浩然など大詩人の多くが活動しており、唐の文化が極盛期に達したため、唐詩の「盛唐」(710年-756年)時代と呼ばれています。

このように、唐代の上級官吏登用試験の内容が、ハイレベルな詩人養成試験であったことが分かると、李徴がエリート官僚から詩人に転身をはかることも、自然な流れだと言えます。
実際に、盛唐期を代表する大詩人の一人である王維(701年-761年)は若くして進士に合格し、官吏として高い地位にのぼりました。
同じように、若くして進士に合格した李徴は、自分の詩作のレベルの高さについて、非常に強い自負を持っていたことだと思います。
そのため、「下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そう」と考えたのでしょう。



李徴はなぜ詩人として成功しなかったのか?


李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。(14頁)

官吏を退職し、ひたすら詩作にふけった李徴でしたが、詩人として名を成すことはできませんでした。
李徴がなぜ詩人として成功しなかったのか?、と考えることによって、李徴がなぜ虎と化したのか?、という謎が明らかになります。
なぜなら、もし李徴が詩人として名を成していたら、虎と化すこともなかったであろうからです。

袁傪は、李徴の詩について「第一流の作品となるのには、何処か欠けるところがある」と評価しています。
李徴と同年に進士に合格し、上級官吏に出世した袁傪は、李徴と同等か、それ以上の高い詩作レベルを持っていると言えます。
その袁傪が、李徴の詩を「第一流の作品」ではないと評価するのであれば、他のエリート官僚や知識階級人たちも同じ評価をすることでしょう。
人間であったとき、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔よしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。(16頁)

李徴は、自分が虎に変身した原因について、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」であると語ります。
自尊心と羞恥心について言う場合、普通は<尊大な自尊心>と<臆病な羞恥心>と表現しますが、李徴は「自尊心」に「臆病な」、「羞恥心」に「尊大な」という、意味としては反対の形容詞を用いています。
中島敦は、「自尊心」と「臆病」、「羞恥心」と「尊大」という反対の意味の言葉をあえてつなぎ合わせ、わざと矛盾を生じさせることによって、李徴の内面の複雑な感情を簡潔に表現したと言えます。
このような表現は、「形容矛盾」または「撞着語法」と呼ばれており、共和政ローマ時代の詩人カトゥルスの「われ憎み、かつ愛す」(『詩集』85番より)という詩句が有名です。

李徴は、「己の珠なるべきを半ば信ずる」すなわち自分の才能に強い自負を持ちながら、「己の珠に非ざることを惧れる」という、自分の才能に確信がもてない不安を感じています。
強烈な「自尊心」と並立するほどの強い「惧れ」が、李徴の言う「臆病な自尊心」なのだと思います。
そして、李徴は「己の珠に非ざること」=「才能の不足」が明らかとなることを「惧れ」ていたため、師に教えを仰いだり、詩友たちとの交流を避けるようになりました。
李徴が、周囲の人々から「倨傲」「尊大」と見られる態度をとっていたのは、実は自分の「才能の不足」を隠すための虚勢だったのです。
自分の強い「惧れ」を隠すための強烈な虚勢が「尊大な羞恥心」だと言えます。

「羞恥心」は本来、自尊心を前提として生まれる心情です。
若くして進士に合格した李徴の「自尊心」は、思うように文名が揚がらないことで傷つけられ、自分の才能に不安を感じ、生活の苦しさから焦りや恐怖が大きくなり、その恐怖心の裏返しから、同輩たちをより見下す振る舞いをしたのでしょう。
李徴は、同輩たちを見下せば見下すほど、彼らの官位よりも自分の官位が劣ることに耐えられず、「尊大な羞恥心」ゆえに誰にも弱みを見せることが出来ず、ついには追い詰められて、詩業も官職も妻子も捨てて出奔してしまったのだと思います。

出奔した李徴が虎に変身したという物語は、知識階級としての身分や生活を全て捨て去り、路上や山林で野宿し、衣食に困れば道行く旅人を襲って略奪する生活に至ったことの比喩として解釈することが出来ます。



李徴が作った詩において、「欠けるところ」とは何だったのでしょうか?
袁傪は、李徴の詩を「格調高雅、意趣卓逸」と感嘆していますが、この評価は、詩作が技巧的に優れていることに対する誉め言葉であり、詩の内容について評価しているわけではないのです。
進士の試験に合格した李徴が、音調が巧みに整った、技巧的に大変高度な詩を作っていたことは間違いありません。
李徴の詩は、<試験の答案>の域を脱せず、人々の心を打つ心情表現や風景描写、李徴の人生経験や思想、信仰などを感じさせる<詩の個性>が欠けていたのではないでしょうか。

盛唐期の最大の詩人、李白と杜甫はそれぞれ全く対照的な詩風です。
「詩仙」と称えられる李白は、道教の思想に共感し、不老長生を願う神仙を理想としており、人生の賛歌を歌い、大らかで明朗闊達、壮大で幻想的な詩風と言われています。
一方、「詩聖」と称えられる杜甫は、憂鬱で悲哀に包まれており、個人的なものにとどまらず、社会全体の苦痛にみちた現実をえぐり出しています。

李白と杜甫は、実は二人とも進士の試験に合格していないのです。
李白は科挙を受験した記録がなく、杜甫は進士科を受験したものの、不合格でした。
同じように、盛唐期を代表する大詩人である孟浩然も、進士に合格しなかったため、官職を得られず、不遇の人生を送りました。
李白や杜甫、孟浩然などの詩業は、<試験の模範解答>をはるかに超えた、<芸術>に到達していたからこそ、人々に喜びをあたえ、人々の苦痛を表現し、現代まで長く愛謡されているのだと思います。

李徴は、若くして進士に合格し、官職に就いてすぐに退職して、詩作に専念したため、人生経験が乏しかったと言えます。
師に教えを仰ぎ、詩友と交流して批評し合えたなら、李徴は自分の詩の「欠けるところ」に気づき、<試験の模範解答>から<芸術>へと、詩業を磨き上げることができたかもしれません。
李徴が進んで師に就こうとしなかったのは、進士に合格していない先輩の大詩人たちに対して、見下すような気持ちがあったからとも考えられます。
李徴は、進士に同じ年に合格した同輩たちを「鈍物」と侮蔑しており、進士に合格していない詩人や知識階級人たちについては、より低く見ていた可能性があります。

李徴は、「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ」と語っています。
李徴が家庭の幸福を尊重し、善き夫、善き父であったならば、芸術的に優れた詩作が出来たでしょうか?
文学や音楽、美術などで歴史に名を遺した芸術家は、家庭の幸福に恵まれない場合が多く、不倫相手の女性と自殺した太宰治のように、家庭の幸福を自ら壊す作家もあります。
芸術家たちは、夫婦の不仲や、不倫、離婚、麻薬中毒、病気などの家庭の不幸を全部、自らの創作活動の糧とし、作品に昇華しています。
したがって、家庭の幸福を守ること、倫理・道徳的に善い行いをすることが、芸術性を高めるために絶対に必要であるとは言えないと思います。

李徴は、「己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ」たから、自分は詩人として成功しなかったと語っていますが、「己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ」た経験を、芸術作品に昇華できなかったことが、人々の心を打つ詩を作れなかった本当の理由であると思います。
また、師や詩友と交流することを嫌ったとしても、それを裏打ちする思想や哲学、世界観があれば、李徴は自らの孤独を芸術作品に昇華できたかもしれません。
盛唐期を代表する詩人である王維は、人間嫌いであったと言われていますが、仏教の信徒として、枯寂の境地に心をうちこみ、仏教の浄土観を詩作で表現しました。

官吏を退職して、世と離れ、人と遠ざかり、妻子を苦しめ、友人を傷つけた人生経験を、李徴が詩作に表現出来なかったのは、やはり「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」があったからだと思います。
李徴の自尊心が強ければ強いほど臆病になり、羞恥心が強くなって、自らの孤独や家庭の不幸を見つめることが出来ず、ますます尊大な態度になってしまったのでしょう。

李徴は、官職も妻子も全て捨てて出奔し、旅人を襲って略奪するような野宿生活者に身を堕としてしまいましたが、その情けなさ、恐ろしさ、悔しさを全て詩作の糧とすることが出来れば、人々の心を打つ、人々が涙する作品をこれから生み出すことが出来るのではないか、と思います。


「山月記」のルーツを探る


中島敦の『山月記』のルーツとなった中国の物語について調べてみて、とても面白い知見が得られました。
北宋の時代に書かれた『太平広記』(977年-978年)には、人間が虎になる物語が数多く収録されています。
その中で、『太平広記』427巻に「李徴」という題の物語が収録されており、次のような筋書きです。

隴西の李徴が進士に合格する。
数年後、江南の尉となるが、下級官吏に満足せず、才を鼻にかけて威張り他の役人に嫉まれる。
任期が終わると郷里に帰り、一年余り交際を絶つ。
衣食に困り、呉楚を歴遊し、各地で歓待を受け、選別を貯めこむ。
郷里に帰る途中、病気になり発狂して行方不明になる。
翌年、袁傪は天子の使者として嶺南に行く途中、宿場で虎が出没して人を食う話を聞く。
袁傪が虎になった同年進士、友人李徴と再会する。
虎(李徴)は袁傪と身の上話をし、遺稿、妻子のことを託して立ち去る
使いから帰った袁傪は、虎(李徴)から頼まれた妻子の面倒をみ、後に兵部侍郎に出世した。

隴西の李徴という進士が虎になり、友人の監察御史袁傪と再会し、身の上を語り、妻子の今後を託して別れるという筋書きは、中島敦の『山月記』と同じ物語と言えます。
『太平広記』の「李徴」には、『山月記』では描かれていない、袁傪と李徴の妻子の後日談が語られているのです。
使いから帰った袁傪は、李徴の子供に父が虎となったことを告げて、李徴の妻子の生活を援助をしました。
さらに、袁傪が兵部侍郎に出世したことも語られています。
このように、『太平広記』の「李徴」は、同年の進士でありながら、人生における没落者となった李徴と、立身出世した袁傪の対比を鮮やかに描いた物語であると言えます。
皇族の子で、家柄・才能ともに恵まれた李徴が、なぜ虎になったかについては、運命論的解釈を示しており、虎となった李徴の言葉を通して、運命の悲劇を表現しています。
当時、この小説を読んだ下級役人たちは、栄達者と没落者のテーマに共感し、李徴の悲劇に涙したかもしれません。

しかし、この『太平広記』の「李徴」には、李徴の心情を表現した七言律詩が書かれていないのです。
名島敦の『山月記』が、『太平広記』の「李徴」の物語に依拠しているのは明らかですが、『山月記』の詩はどこが出典なのでしょうか?
清の康熙帝の時代に成立し、唐代の詩を全て載録した『全唐詩』(1703年)の867巻に収められた「李徴」という人物の詩とその序文が、『太平広記』の「李徴」とつながっていると言われています。
『全唐詩』の「李徴詩」は、次のような序文が付されています。

皇族の子である李徴が天宝15年に進士に合格する。
後に、発狂し、夜に走り出でて、虎と成る。
同じ年、監察御史の李厳が嶺南を旅すると、虎に襲われる。
人語を話す虎の声を聞いて、李厳は虎のことを李徴だと分かる。
虎(李徴)は、虎となった理由を述べ、妻子を託して、詩を吟じる。

このような序文が付されて、李徴の詩が収められています。
『全唐詩』の「李徴詩」は、「偶因狂疾成殊類」で始まる『山月記』の詩と全く同じものです。
虎となった男と友人の名前が、『太平広記』では「李徴」と「袁傪」であるのに対して、『全唐詩』では「李徴」と「李厳」と書かれていますが、名前が異なるだけであり、同一の物語であると言えます。

明の時代に、陸楫によって編纂された『古今説海』(1544年)の説淵部52巻には、「人虎伝」と題する物語が収められています。
さらに、清の時代の陳蓮塘によって編纂された『唐代叢書』(『唐人説薈』)の6集にも、「人虎伝」と題する物語が収められています。
『古今説海』の「人虎伝」は、登場人物名が『全唐詩』と同じく、虎となった男「李徴」と、監察御史の友人「李厳」との物語です。
一方、『唐代叢書』の「人虎伝」は、登場人物名が『太平広記』と同じであり、虎となった男「李徴」、監察御史の友人「袁傪」との物語です。
この二つの「人虎伝」は、登場人物の名前が異なるだけで、同じ筋書きの物語であり、『全唐詩』の「李徴詩」も入っています。

『太平広記』の「李徴」と比べて、「人虎伝」は文の長さが約2倍に増えており、後世の加筆・修正によるものであると言われています。
『太平広記』の「李徴」と、「人虎伝」の最も大きな違いは、李徴が虎となった理由です。
李徴は、次のように告白しています。

南陽の郊外において、かつて、一人の寡婦と密かに通じていた。
その寡婦の家人は、密かにこれを知って、常に私を邪魔しようとした。
そのため、寡婦と再び会うことが出来なくなり、私は風に乗じて家に火を放ち、その一家数人を尽く焼き殺して、立ち去った。
これを恨みとなすのみである。

かつて李徴は、一人の寡婦と密通し、その一家全員を殺したことが残念でならないと語っており、その罪によって虎になったと解釈しています。
『太平広記』の「李徴」が、運命の悲劇であったのに対して、「人虎伝」は不倫と放火殺人による因果応報譚となっているのです。
したがって、「人虎伝」の作者は、『太平広記』の「李徴」に加筆・修正を加えて、物語のテーマそのものを大きく書き換えてしまったと言えます。
以上のことから、李徴が虎となる物語の系譜を整理し、それぞれの影響関係を示した図表を作成しました。(下表・図参照)



上図で示した通り、中島敦の『山月記』は、虎となった主人公を「李徴」、監察御史の友人を「袁傪」としており、「李徴詩」を収めていることから、『唐代叢書』の「人虎伝」に拠っている可能性が非常に高いと言えます。
そして、中島の依拠した「人虎伝」は、『太平広記』の「李徴」、および『全唐詩』の「李徴詩」をルーツをする物語であることが分かりました。

中島は、「人虎伝」を参照して創作していますが、「人虎伝」における不倫と放火殺人の筋書きを削除して、「人虎伝」とは全く異なるテーマの物語へと書き換えています。
前項「李徴はなぜ詩人として成功しなかったのか?」で述べた通り、『山月記』において、中島は因果応報譚ではなく、芸術の道を極める厳しさ、孤独を表現していると言えます。
虎となった理由についても、『太平広記』の「李徴」のように、ただ運命のなせるわざとしないで、李徴の「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」という内面の問題としているところが、中島のメッセージを感じます。

このように、『太平広記』および『全唐詩』の中国の古い物語が、『唐代叢書』の「人虎伝」へと書き換えられ、さらに長い年月を経て、日本の中島敦によって見出されて、新しい命を吹き込まれたということは、現代の読者にとって、奇跡のように幸福なことだと思いました。




参考:小川環樹『唐詩概説』(岩波書店、2005年)
上尾龍介「人虎伝と山月記」(中国文学論集、九州大学中国文学会、1974年)
富永一登 「「人虎伝」の系譜 : 六朝化虎譚から唐伝奇小説へ」(中国中世文学研究、1978年)



2018/01/07

和辻哲郎「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」

和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)
和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1995/09/18

2017年4月14日の読書会で、和辻哲郎「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」(坂部恵《編》『和辻哲郎随筆集』、岩波文庫、1995年)を読みました。
和辻哲郎(1889年-1960年)は、『古寺巡礼』(1919年)、『風土』(1935年)などの著作で知られる日本の思想家です。
「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」は、1951年(昭和26年)に発表され、のちに同名の随筆集に収録されました。

応仁以後においては、土一揆や宗教一揆は明らかに政治運動化してきた。(「埋もれた日本」、岩波文庫、99頁)

このころ以後の民衆の思想を何によって知るかということは、相当重大な問題であるが、私はその材料として室町時代の物語を使ってみたいと思う。その中には寺社の縁起物語の類が多く、題材は日本の神話伝説、仏典の説話、民間説話など多方面で、その構想力も実に奔放自在である。それらは、そういう寺社を教養の中心としていた民衆の心情を、最も反映したものとして取り扱ってよいであろう。(99-100頁)

さてそのつもりでこの時代の物語を読んで行くと、時々あっと驚くような内容のものに突き当たる。中でも最も驚いたのは、苦しむ神、蘇りの神を主題としたものであった。(100頁)

和辻は、応仁の乱以後(室町時代末期)の民衆が親しんでいた物語から、「キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」を明らかにしようとしています。
和辻が「苦しむ神、蘇りの神」をテーマとする物語の例として取り上げたのは、『熊野の本地』です。
また熊野神社の縁起物語の類話として、『厳島の縁起』も紹介しています。
『熊野の本地』、すなわち熊野権現の縁起物語は、熊野神社に今祀られている神々が、どういう経歴を経てインドから日本へ渡来したかという神話・伝説です。
インドのマガタ国王の宮廷で起こった出来事が『源氏物語』風に物語られています。

女主人公は観音の熱心な信者である一人の美しい女御である。宮廷には千人の女御、七人の后が国王に侍していたが、右の女御はその中から選び出されて、みかどの寵愛を一身に集め、ついに太子を身ごもるに至った。そのゆえにまたこの女御は、后たち九百九十九人の憎悪を一身に集めた。あらゆる排斥運動や呪詛が女御の上に集中してくる。ついに深山に連れて行かれ、首を切られることになる。その直後にこの后は、山中において王子を産んだ。そうして、首を切られた後にも、その胴体と四肢とは少しも傷つくことなく、双の乳房をもって太子を哺んだ。この后の苦難と、首なき母親の哺育ということが、この物語のヤマなのである。太子は四歳まで育って、母后の兄である祇園精舎の聖人の手に渡り、七歳の時大王の前に連れ出されて、一切の経緯を明らかにした。大王は即日太子に位を譲った。新王は十五歳の時に、大王と聖人とを伴って、女人の恐ろしい国を避け、飛車で日本国の熊野に飛んできた。これが熊野三所の権現だというのである。(101頁)

この物語では、首なくしてなお嬰児を養った女主人公が熊野の権現となったわけではなく、首なき母親に育てられた太子と、その父と伯父のみが熊野権現となります。
『熊野の本地』の異本の中には、苦難の女主人公自身を権現とする物語もあり、その物語では憐れな新王は、慈悲深い母后の蘇りに成功し、母后を伴って日本へ飛来して、熊野の権現となります。
厳島神社の『厳島の縁起』も同じような筋書きの物語で、『熊野の本地』の類話と言えます。
インドの宮廷には父王とその千人の妃がいましたが、若き新王はさまざまな冒険の後に、遠い異国から理想の王女を連れてきて、自分の妃とします。
新王の美しい妃に、父王の千人の妃たちの憎悪と迫害が集まり、新王の妃は山中に拉致され首を切られます。
ここで、『熊野の本地』と同じく、首なき母親の哺育が物語られるのです。
新王は、遠い地方への旅から帰ってきて、山中で妃の白骨と十二歳になった王子を見出します。
憐れな王子のその後の物語は、『熊野の本地』とは違っています。
『厳島の縁起』では、王子は宮廷に行き、祖父王の千人の妃の首を切って母妃の仇を討った後、母妃の首の骨を見つけ出して、母妃の蘇えりに成功します。この蘇った妃と、その王子と父王が厳島神社の神々です。

ここに我々は苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神の観念を見いだすことができる。奈良絵本には、首から血を噴き出しているむごたらしい妃の姿を描いたものがある。これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架上に槍あとの生々しい救世主のむごたらしい姿も、そう珍しいものではなかったであろう。(102頁)

このように苦しむ神、死んで蘇る神は、室町時代末期の日本の民衆にとって、非常に親しいものであった。もちろん、日本人のすべてがそれを信じていたというのではない。当時の宗教としては、禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが最も有力であった。しかし日本の民衆のなかに、苦しむ神、死んで蘇る神というごとき観念を理解し得る能力のあったことは、疑うべくもない。そういう民衆にとっては、キリストの十字架の物語は、決して理解し難いものではなかったであろう。(107頁)


このように和辻は、「苦しむ神、蘇りの神」をテーマとする縁起物語(神話・伝説)を紹介し、「キリシタン渡来」直前に、それを受け容れる素地が室町時代末期の民衆にあったと論じています。
さらに和辻は、新興武士階級の家訓書として『早雲寺殿二十一条』、『朝倉敏景十七箇条』、『多胡辰敬家訓』を紹介して、「近代を受け容れるだけの準備」がすでに出来ていたと論じています。
以上のように、民衆の思想と新興武士階級の思想とを見て、和辻は、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかで、「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想状況」が十分に成立していたと論じています。
したがって、「室町時代の文化」を貶めるのは「江戸幕府の政策に起因した一種の偏見」として、和辻は「室町時代の文化」を再評価しているのです。


熊野の縁起物語は、本当に日本人のキリスト教受容に影響を与えたのか?


わたしは、首なき母親が子育てをする『熊野の本地』や『厳島の縁起』が、大変興味深かったです。
しかし和辻が、熊野や厳島の縁起物語がキリスト教受容に役立ったと結論づけるているのは、論理に飛躍があると思いました。
当時の熊野神社の信者人口がどれだけいて、どのような職業集団で、そのうち何パーセントがキリスト教徒になったのかを明らかにしなければ、因果関係を立証できないのではないかと思います。

改宗前の信仰が、キリスト教受容に対して影響を与えていたと論じるのであれば、やはり長崎など、もっとも改宗者が多く、キリスト教信仰が盛んだった地域を取り上げるべきだと思います。
熊野や厳島が、キリスト教改宗者が特別多い地域だったとは考えられないので、長崎の寺社の縁起には、熊野のような「苦しむ神、蘇りの神」の物語がなかったので、和辻は取り上げなかったのではないか、自分の結論に都合の良い熊野の縁起を例示したのではないか、と思ってしまいます。

和辻の論証には納得できない点が多かったですが、<改宗前の信仰がキリスト教受容に対して影響を与えたかどうか>、というテーマ設定自体は非常に面白いと思ったので、もっと深く掘り下げた研究があればぜひ読んでみたいです。
和辻が取り上げなかった、たとえば島原の人々は、キリスト教改宗前はどんな信仰を持っていたのか?、キリスト教伝来直前の九州北部の思想傾向は?、など非常に疑問に思いました。
九州北部の寺社の縁起・由緒の史料分析を丹念に行えば、当時のキリスト教の急速な普及の背景がより明らかになるかもしれません。


日本人のキリスト教受容に影響を与えたかどうかとは関係なく、熊野の縁起物語自体は、非常に独特で興味深いと思いました。
首を切られてなお、山中でたった一人で赤子を育てた母親の姿は、想像するとすさまじいものです。
首なき母親の物語に、当時の人々は何を祈り、求めたのでしょうか? 死後も子供を守り続ける母性の象徴として、安産の祈願、子供の健康祈願など、たくさんの女性たちの願いが込められたのかな、と想像します。
熊野の縁起における、宮廷で一人だけ王の寵愛を受け、他の女御たちから嫉まれ、不幸な運命になるという物語は、『源氏物語』の桐壺更衣を思い起こされます。
女性同士の嫉妬や嫌がらせは、『源氏物語』をはじめ、インドが舞台の『熊野の本地』でも同じでおあり、時代や国を問わず普遍的なテーマであるため、熊野の縁起物語は当時の民衆に親しまれたのではないでしょうか。


わたしが、この首なき母親について、特に興味深く思うのは、<祟らない>ところです。
首なき母親は、物語中で完全な被害者であり、自分自身では加害者に復讐をしていません。
厳島の縁起では、息子が母親の復讐を果たしますが、母親自身は自分を殺した人々を怨む<祟り神>ではないのです。
「蘇り」についても、母親自身が成し遂げたのではなく、息子の努力によります。

「天神様」として祀られている菅原道真公は、苦しんで死んだ神であるのは間違いないですが、和辻が「苦しむ神」として取り上げていないのはなぜでしょうか。
早良親王や菅原道真、崇徳院、平将門など、苦しんで死んだ神々(元・人間)は、「祟り神」となったからこそ、人々は霊鎮めの祭りをして、畏怖し、信仰してきたのだと思います。
しかしイエス・キリストは、苦しんで死んだ神である点は同じですが、自分を殺した人々に呪いや疫病をふりまく「祟り神」ではないのです。

和辻が、菅原道真ではなく、この首なき母親神を取り上げたのは、この母親が<祟らない>点において、イエスとの共通性を感じとったからではないかと思います。
そのため和辻は、キリスト教受容の背景に、キリスト教と類似した信仰がすでに成立していたと論じるのに、熊野の縁起物語を取り上げたのだと思います。


また読書会では、キリスト教受容の背景には、熊野の縁起物語の影響よりも、貧困があったはずだ、という意見が多く出されました。
貧困状態であれば、キリスト教改宗につながるのでしょうか?
キリスト教は、五穀豊穣や商売繁盛といった現世利益をもたらす教えではないので、当時の人々が貧しさから脱出するために改宗したとは言い切れないのでは、と思います。
中世後期は、凶作や飢饉、疫病、内戦がたびたび発生し、人々にとって<死>が身近な極限の状況だったと考えると、<死後の救済>を求めて、キリスト教に改宗したのではないか、と考えられます。
キリスト教が急激に普及した同じ時期に、北陸・東海・畿内では、死後の安寧を約束する一向宗(浄土宗・浄土真宗)の勢力が強まったと言われています。

1591年~1600年頃に、天草・長崎などで刊行されたキリスト教の教義書『どちりな・きりしたん』の序文では、「一切人間に後生を扶かる道の眞の掟」(天正19年(1591年)、加津佐版)と書かれています。
当時の宣教師たちが、キリスト教の教義について、「後生を扶かる」すなわち<死後の救済>を保証するものとして、教えを広めていたことが分かります。
『どちりな・きりしたん』は、イエスの十字架上の死と復活の意義についてよりも、<死後の救済>の側面を強調しすぎているように感じます。
このような宣教師たちの教えを聞いて、人々がキリスト教に改宗したのであれば、それほどまでに死後の魂の行方に不安を感じていたということだと思います。



「埋もれた日本」はどこにあるのか?


論文の表題である「埋もれた日本」とは、何を意味しているのでしょうか?
和辻の議論では、「キリシタン渡来」直前の「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況」を指しています。

しかし文化的でない、別の理由から出た鎖国政策は、ヒステリックな迫害によって、この時代に日本人の受けたヨーロッパ文化の影響を徹底的に洗い落としてしまった。その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に湮滅させられてしまった。(114頁)

中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて新井白石、荻生徂徠などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分にヨーロッパのそれに伍することができたであろう。(128頁)

鎖国は、外からの刺戟を排除したという意味で、日本の不幸となったに相違ないが、しかしそれよりも一層大きい不幸は、国内で自由な討究の精神を圧迫し、保守的反動的な偏狭な精神を跋扈せしめたということである。(129頁)

和辻は、室町時代の文化を「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況」が成立していたとして、肯定的に評価しています。
そして、江戸時代の文化における、キリスト教の排斥と儒学の採用を「保守的反動的な偏向」と批判し、「日本人の自由な思索活動」を妨げたとして、否定的に評価しています。
以上の『埋もれた日本』の構成から、和辻の考え・歴史観を整理して、見取図を作成しました。(下図参照)


このことから、和辻は<西洋>を到達目標と見なしており、室町時代や江戸時代の文化について、いかに<西洋>に近づいていたか、ということを評価基準にしていたことが分かります。
和辻の議論において、<西洋>は<近代>とほぼ同義語として使われています。
したがって和辻は、江戸時代の「保守的反動的」な文化によって、「埋もれていた日本」こそが本来のあるべき「日本」であり、<西洋>に劣らない<近代>であった、と考えていたと言えます。
明治期以降の極端な西洋崇拝の影響を受けた、<西洋>もしくは<近代>への到達度を歴史的評価の基準とする考えは、和辻だけでなく、現代の日本でも少なからず引き継がれているのではないでしょうか。
和辻は、シェークスピアやベーコンについて「近代的」と評価する一方で、林羅山の儒学を「シナの古代の理想」と貶めています。
このような西洋崇拝の歴史観は、<西洋>が人種差別や植民地支配を正当化してきた間違った論理と同じであり、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ、ポリネシアなどの非西洋文化を差別することにつながる危険な考え方だと思うのです。

さらに、「埋もれた日本」と題して、熊野や厳島の縁起物語を紹介することで、「日本」を論じることができるのでしょうか?
京都や近畿地方など、京都近辺の思想・文化は、「日本」を構成する一つの部分ではあっても、「日本」全体を代表するとは言えないと思います。
古代では、北東北や南九州も「日本」ではなく、中世後期でもアイヌや琉球王国は「日本」に含まれません。
当時は、各地方の差異が現代とは比較にならないほど大きかったと考えると、一つの地方の思想・文化をもって「日本思想」「日本文化」とまとめることはできないと言えるでしょう。

中世後期の民衆の思想・文化を反映したものとして、熊野や厳島の縁起物語だけを取り上げることは議論が粗すぎると思いますが、首なき母親の物語の面白さ・独特さは間違いないです。
当時の「日本」を代表する思想・文化としてではなく、<思想の地域性>を考慮しながら、熊野や厳島周辺地域の思想・文化を明らかにする題材として、首なき母親の物語を取り上げれば、より興味深い議論になるのではないでしょうか。
当時の熊野・厳島周辺地域の信仰と、その他の地域との比較を行うことによって、熊野や厳島の縁起物語の特異点または類似点が明らかになり、<西洋>と似ている、と言った単純な評価ではない、新たな理解を得られるのではないかと思います。


2017/07/24

イネストラ・キング「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」

世界を織りなおす―エコフェミニズムの開花
世界を織りなおす―エコフェミニズムの開花
  • 発売元: 學藝書林
  • 発売日: 1994/03

『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』とは?


アイリーン・ダイアモンド/グロリア・フェマン・オレンスタイン編『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』奥田暁子/近藤和子訳、学芸書林、1994年)を読みました。
『世界を織りなおす』は、1987年3月に南カリフォルニア大学で開催された、カリフォルニア人文科学委員会主催の「エコフェミニストの視点―文化・自然・理論」会議で発表された論文やエッセイが収録されています。
編者であるアイリーン・ダイアモンドは、オレゴン大学で教え、地元の緑の政治やエコフェミニストの教育活動などに参加しているとのことです。リー・クインビーとの共編著書『フェミニズムとフーコー―抵抗に関する省察』を出版。
同じく編者のグロリア・F・オレンスタインは、南カリフォルニア大学社会女性男性研究プログラムで教えているとのこと。著書に『女神の再開花』、『怪異の演劇―シュールレアリスムと現代劇』。「ニューヨーク市文学女性サロン」を共同主宰。

序論において、「エコフェミニズム」とは、「地球を救おうとする女たちの多様な行動」を表現する言葉であり、「女と自然についての新しい見方から影響を受けた欧米のフェミニズム」を表現する言葉でもある、と定義されています。

エコフェミニズムは地球を救おうとする女たちの多様な行動を表すために使われることばであるとともに、女と自然についての新しい見方から影響を受けた欧米のフェミニズムをあらわすために使われることばである。(『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』、序論、15頁)

このエコフェミニズムの源流として、自然の汚染と悪化に抗議した、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(1962年)が紹介されており、カーソン自身はフェミニストを自認していませんでしたが、1970年の「地球の日」(アース・デー)運動につながる環境運動を先導しました。
そのため、エコフェミニズムは「まず最初に社会運動であり、思想でもある」と言われています。

「男が文化であれば、女は自然である」という伝統的な公式に代わるものを見つけようとしてきたフェミニストは、公的世界である市場に女性が入っていくことを求めるよりも根本的な意識の転換を求めて、自然対文化の二元論そのものを問い始めた。これらの活動家、理論家、芸術家たちは、世話をすることや育てることの価値を尊重する新しい文化を意識的に創りだそうとしてきた。この新しい文化は、文化よりも自然を、男よりも女を上位におくことによって二元論を永続化しよう、というのではない。そうではなく、地球上のすべての人が生態系と生命のサイクルのなかで生きていることを肯定し、祝福するのである。(序論、17頁)

序論によれば、エコフェミニズムには、「三つの思想の流れ」が生まれています。

①地球それ自体が聖なるものであり、地球上の森、川、さまざまな生物はそれ自体に価値があると強調する立場。
→抽象的な「地球全体」は個々の生物の特定のいのちより優先されるという立場ではない。

②社会的正義は地球の幸福と無関係に達成することはできない。
→わたしたちの生存と幸福が地球の生存と幸福に直接結びついているため。

③生まれた土地との結びつきが自己の存在とアイデンティティに非常に重要な意味を持つ、という先住民の視点から見る立場。
→地球がそれ自体価値をもっていることと、わたしたちが地球に依存していることは両方とも真実であると考える。

これら①~③の立場に沿って、『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』は、三部に分かれて構成されています。

①第一部「歴史と神秘」
  • シャーリーン・スプレトナク「エコフェミニズム」
  • ブライアン・スウィム「ロボトミーの癒し方」
  • リーアン・アイスラー「ガイアの伝統と共生の未来―エコフェニスト宣言」
  • サリー・アボット「子羊の血としての神の起源」
  • マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」
  • ポーラ・ガン・アレン「わたしが愛する女性は地球、わたしが愛する地球は樹木」
  • キャロル・P・クリスト「神学と自然を再考する」

第一部「歴史と神秘」では、「大地を神聖なものとして崇拝していた古代の女神文化を語る神話やシンボル」や、「先住民文化のシンボルや習慣」からインスピレーションを受けた論文やエッセイを収録しています。
古代の家父長制以前の歴史に戻り、エコフェミニズムの視点から、いくつかの神話の読み替え(再話と再構成)することで、「地球とともに生きる新しい文化」について提案しています。


②第ニ部「世界を織りなおす―政治と倫理の新しい関係」
  • スターホーク「権力・権威・神秘―エコフェミニズムと地球にもとづく霊性」
  • スーザン・グリフィン「道にそったカーブ」
  • キャロリン・マーチャント「エコフェミニズムとフェミニズム理論」
  • イネストラ・キング「傷を癒す―フェミニズム、エコロジー、自然-文化二元論」
  • リー・クインビー「エコフェミニズムと抵抗の政治」
  • マーチ・キール「エコフェミニズムとディープ(深層)・エコロジー―類似点と相違点についての考察」
  • マイケル・E・ジンマーマン「ディープ・エコロジーとエコフェミニズム―対話を求めて」
  • ジュディス・プラント「共通基盤を求めて―エコフェミニズムと生命圏地域主義」

第ニ部では、エコフェミニズムの政治学と倫理学について、詳しく論じられています。
第三世界では、毎日の生活に必要な水、燃料、飼料を集めるために何マイルも歩かなければならない女性にとって、水や土地や森を維持し保護しようとする行動は、必然的に「環境闘争」と言えます。
リー・クインビーはミシェル・フーコーの理論を使って、エコフェミニズムを「抵抗の政治」として検討しています。
キャロリン・マーチャントとイネストラ・キングは、リベラル・フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、社会主義フェミニズムのいずれもが、エコフェミニストの視点に貢献してきたことを論じ、それぞれのフェミニズムにおける、人間と自然の関係、自然に対する姿勢をより深く掘り下げています。
マーチ・キールとマイケル・ジンマーマンは、エコフェミニズムとディープ・エコロジーの相違点・類似点を論じています。


③第三部「わたしたちを癒し、地球を癒す」
  • アリシカ・ラザク「出産についてのウーマニストの分析」
  • リン・ネルソン「汚染された地での女性の居場所」
  • ヴァンダナ・シヴァ「西欧家父長制の新しいプロジェクトとしての開発」
  • アイリーン・ダイアモンド「胎児、先端医療技術専門家、汚染された地球」
  • アイリーン・ジェイヴォアス「都市の女神」
  • シンシア・ハミルトン「女性、家庭、地域社会―都市の環境を守るたたかい」
  • ジュリア・スコフィールド・ラッセル「エコフェミニストの誕生」
  • レイチェル・L・バグビィ「のびゆくものの娘たち」
  • キャサリン・ケラー「世界の浪費に反対する女たち―終末論とエコロジーに関する覚え書」
  • ヤーコブ・ジェローム・ガーブ「眺望、それとも逃避? 現代的地球像に関するエコフェミニストの黙想」
  • グロリア・F・オレンスタイン「癒しの芸術家―いのちを産む文化をめざして」

第三部は、「出産」や「生殖の産業化」など、今日の具体的な諸問題を分析し、「いのちの尊厳と幸福」を回復するための努力を提示しています。


第一部~第三部までの「三つの思想の流れ」があることは、エコフェミニズムが「一枚岩の、均質的なイデオロギーではない」ことを意味しています。
本書では、エコフェミニズムの「多様で多文化的なビジョン」を共有するため、学者や科学者による学問的な論文だけでなく、詩人、小説家、環境保護の活動家、宗教家らの書いた感情豊かな詩やエッセイをともに収録し、ジャンルによる区分を越えた構成となっています。

地球の荒廃と女性の搾取を結びつけた詩や儀式や社会活動を通じて、活動家たちはフェミニズムと社会の変革活動をともに活性化したのである。彼女たちがつくりだしたことばは、これまでのカテゴリーの領域を越えている。これらのことばは、理性と感情、思考と経験とのあいだには、生きたつながりがあることを認めた。このつながりのなかには、さまざまな人種の女や男だけでなく、人間以外の動物や植物などあらゆる形態のいのちと、そして生きている地球も含まれている。この再話と再構成の多様な糸がよりあわされて、生態系の相互関係性という、新しく、そしてより複雑な倫理が生み出されたのである。(序論、18頁)

本書の表題である「世界を織りなおす」とは、エコフェミニズムの思想と行動を「多様な糸」に喩えて、聖書や神話の読み替え(再解釈)による<世界観の変革>と、<政治・倫理の変革>を通じて、「わたしたちの考え方そのものを根本から変える」ことを意味しているのだと思います。
しかし、古代から<機織り>が女性を象徴する仕事であった歴史を考えると、世界を<織物>に喩えることは、女性性をより強調し、「伝統的な公式」を固定・補強するものになるのではないか、とわたしは疑問に感じました。
おそらくエコフェミニズムは、「伝統的な公式」にあえて乗っかるような表現を使って、その読み直し(再解釈・再構成)によって、「世話をすることや育てることの価値を尊重する新しい文化」の創造を目指しているのかもしれません。


イネストラ・キング「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」


『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』の中から、第ニ部「世界を織りなおす―政治と倫理の新しい関係」に収録されているイネストラ・キングの「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」の要点をまとめ、考察したいと思います。

イネストラ・キング(Ynestra King)は、ニューヨーク社会調査新学校のラング・カレッジで教えているとのことです。「ウィメンズ・ペンタゴン・アクション」を組織し、「女性・自然研究所」の共同創設者。著書に『女と世界を再び魔法にかけること』(Women and the Reenchantment of the world)があります。

現代のエコロジー危機は確かに、フェミニストにエコロジーを考えるきっかけを与えたが、エコロジーがフェミニズム哲学や政治の中心にくる理由は別である。エコロジー危機は、哲学・技術・殺人発明品をつくった白人・男・西洋の、自然と女性にたいする憎悪の体制につながる。労働者階級・白人でない人びと・女・動物の体系的蔑視は、西洋文明の根にある二元論にかかわる、とわたしは主張したい。しかし、ヒエラルキーをつくりだす心は、人間社会のなかにある。(イネストラ・キング「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」、『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』より186頁)

イネストラ・キングは、フェミニズム・エコロジー・人種差別反対・先住民族生存運動の目標はつながっており、「世界的な真の生命尊重運動」(プロライフ)として理解するべきであると主張しています。
この"pro-life"という言葉は、一般的には、人工妊娠中絶をめぐる議論において、中絶反対派によって使われており、中絶反対派を指して「プロライフ派」と呼ぶこともあります。
しかし、イネストラ・キングの考えでは、中絶反対派は「中絶禁止による強制出産を推進する戦闘的右翼」であり、「プロライフという言葉を曲解している」と論じています。
したがって、イネストラ・キングの主張する「プロライフ」は、中絶反対という狭い意味ではなく、この言葉本来の「生命尊重」という意味で使っていると言えます。


自然を是認するか・否認するか


イネストラ・キングは、フェミニズム運動におけるラディカル・フェミニズムの立場と、社会主義フェミニズムの立場、それぞれの女性と自然に対する姿勢を考察しています。
近代人権思想とともに生まれた第一波フェミニズムと比較して、1960年代後半にアメリカで起こった新しい潮流のフェミニズム(第二波フェミニズム)は、ラディカル・フェミニズムと呼ばれています。
登場当時は、このラディカル・フェミニズムも含めて、アメリカの新しい女性解放運動は、ウィメンズ・リベレーション・ムーヴメントと呼ばれました。
そのため、アメリカの運動に強い影響を受けて登場した日本の新しい女性解放運動は「ウーマン・リブ」と呼ばれました。
イネストラ・キングの定義では、ラディカル・フェミニストは「生物学的差異にもとづく男による女性支配が抑圧の根本原因とするフェミニスト」です。

男は女を自然と同一視し、男の恐れる自然と死から身を守る男の「プロジェクト」に両方が協力してくれるよう求めるのだ。女が自然に近いとするイデオロギーはこのプロジェクトには欠かせない。だから、家父長制が人間抑圧の原型とするなら、それをのぞけば、他の抑圧も同時に崩壊しよう。しかし、ラディカル・フェミニズムのなかには、二つの違いがある。すなわち、女・自然関係が解放につながるのか、それとも女に従属を強いるのか。(190頁)

イネストラ・キングによると、ラディカル・フェミニズムの女性と自然に対する意見は、「女性と自然の結びつきが解放のために役立つ可能性があるのか」女性と自然の結びつきが「女性の従属が続くことの理論的根拠になるのか」という論点があります。

この論点に対して、ラディカル・フェミニズムの中でも意見が大きく分かれています。
イネストラ・キングは、次の二派に分類しています。
女性と自然の結びつきを称賛し、女=自然関係は女性の「従属」の源ではなく、「自由」源という主張する立場が、「ラディカルな文化フェミニズム」
一方で、女性と自然の結びつきを否定し、女=自然関係は性差別を強化する「女のゲットー」と主張する立場が「ラディカルなリベラル・フェミニズム」です。


イネストラ・キングは、「文化フェミニズム」という言葉は、「歴史をつくるのは第一に経済力」と考えるフェミニストによってつくられたと論じています。
これは、マルクス主義の影響を受けた、マルクス主義フェミニズムもしくは社会主義フェミニズムの立場を指しているのだと思います。
歴史をつくるのは経済力であり、文化ではないという立場に対して、文化に誇りを持ち、文化を強調する立場が「文化フェミニズム」であると言えます。

文化フェミニズムは、男と女の違いを評価し、女を自然と同一視するイデオロギーを良しとし、フェミニズムとエコロジーとを一体化することを提唱しています。
イギリスの女性作家ヴァージニア・ウルフ(1882年-1941年)が、『三ギニー』(1938年)の中で「職業の隊列」で男世界に入りたくないと語ったように、文化フェミニストたちは女特有のものを評価し、男文化の一部となるのではなく、女独自の文化を創造することを目標としています。
イネストラ・キングによれば、文化フェミニズムとは「女のアイデンティティ運動」なのです。

文化フェミニズムの運動としての実践は、フェミニストのスピリチュアリティ運動から影響を受けたものであると、キングは考察しています。
フェミニスト・スピリチュアリティ運動(フェミニスト霊性運動)は、ユダヤ=キリスト教の超越的男神に対抗して、ギリシャ神話の女神など内在的な女神概念を称揚し、地球を一つの生命有機体と見る「ガイア仮説」を支持しています。
フェミニスト・スピリチュアリティ運動から発想を得て、文化フェミニストは音楽・芸術・文学・詩・魔女集会・コミューンなどのアクションで、女性と自然の一体化をたたえています。

しかし、イネストラ・キング自身が「女と自然を結びつけ、女は善で、男や文化の破廉恥行為とは無関係だ、と女をロマンティックに考えるのはどうだろう」と問いかけており、上述のとおり、女性を自然と同一視するイデオロギーを拒否する立場もあります。
イネストラ・キングは、近代フェミニズムの母と呼ばれるシモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908年-1986年)について、この「ラディカルな合理主義フェミニスト」を代表する立場でると考察しています。
ボーヴォワールは、『第二の性その後-ボーヴォワール対談集』(1984年)の中で、次のように語っています。

女と自然との関係、女と母性本能、女と肉体のような古い女性観を強化する立場…女を古い役割にとどめようとする最近の動きは、たとえ、女の要求に応えるような譲歩をしても、女を静かにさせる常套手段といえよう。

なぜ、女のほうが男より平和を好むとするのか。男女両方の問題だと思う! …母親であることが平和のための存在を意味するとは。エコロジーをフェミニズムと同一視するのは、なにかいらだちを覚える。それらは自動的に一つではないし、同じものではまったくない。

ボーヴォワールは、初期の名著『第二の性』(1953年-1955年)の中で論じた、「男より女のほうが自然に近いとする決めつけは性差別の策略」であるという主張を、晩年においても強く語っています。
この立場にとっては、「閉鎖的なゲットー」である「自然の原始的領域」から、女性は解放されることによって、「自由」が得られるのです。
エコロジーをフェミニズムの課題とすることは、性別役割分業の強化につながる逆行であると感じているため、ボーヴォワールは「いらだちを覚える」のだと思います。


イネストラ・キングは、ラディカル・フェミニズムのうち、女性と自然の結びつきを是認するか・否認するかという視点から、二派に分類・比較した上で、さらに「社会主義フェミニズム」の立場を比較しています。

「社会主義フェミニズム」は、キングの定義では、「ラディカルとリベラルの合理主義フェミニズムとマルクス主義の伝統である史的唯物論の統合を目指す奇妙な混合物」です。
社会主義フェミニズムは、社会主義がリベラリズムを批判したのと同様に、リベラル・フェミニズムに対して政治経済分析や階級認識が足りないと批判しています。
社会主義フェミニズムは、社会経済権力の体制的不平等を克服すれば、男女同権の課題が達成できると考えています。

社会主義フェミニズムは、「再生産の自由」という発想から、「産む産まないは女の自由」という画期的な思想を生み出し、「自分の体を管理する」女の権利を主張しています。
この「産む産まないは女の自由」という思想は、「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」(性と生殖に関する健康・権利)として、1994年にエジプトのカイロで開かれた国際人口開発会議(ICPD)で提唱され、現在では国際的にも認められています。
一方で、イネストラ・キングは、社会主義フェミニストは新しい生殖技術に対抗する理論が不十分であると考察しており、女性の再生産能力(=妊娠・出産能力)が、賃労働の一形態として市場売買されている実態を紹介しています。
キングは、代理母出産ビジネスのような「卵子や子宮を取引する女」を批判しているのではなく、仲介業者が罰せられるべきであり、明らかに重大な経済的・階級的問題があると語っています。

イネストラ・キングによれば、社会主義フェミニストも、ラディカルなリベラル・フェミニストも、政治・経済という「公」領域における男女同権という目標は同じであり、女性と自然の関係についての認識も同じです。
社会主義フェミニズムは、社会主義運動と歩を合わせているため、人間のあいだの支配には問題意識を持っていますが、人間の自然支配、さらに内なる自然支配(女性=自然関係)にはあまり注意を払っていないと、キングは論じています。

社会主義フェミニストは、マルクス主義理論に依拠して、上部構造(文化・再生産)より下部構造(経済・生産)のほうが重要だと考えているため、ラディカルな文化フェミニズムに対して、非歴史的で本質論者、そして非知性的であると非難しています。
しかし、「公」的領域において、権利や義務の平等が達成されても、「私」的領域の性差別はいまだに残り続けているという問題があるからこそ、ラディカル・フェミニズムが生み出された時代背景があります。
イネストラ・キングは、「社会主義フェミニストは、文化フェミニズムが認識した重要な真実を無視」することになると批判しています。


自然-文化二元論を超えたエコフェミニズム



イネストラ・キングは、文化フェミニズム、リベラル・フェミニズム、社会主義フェミニズムの各理論における、女性と自然の関係について検討した結果、どれも「二元論的思考」におちいっていると考察しています。
したがって、キングは、「自然」と「文化」の二元論を弁証法的に克服し、「自然と文化の架け橋」としてエコフェミニズムを提唱しています。
以上のイネストラ・キングによる分類に依拠して、リベラル、社会主義、文化の各フェミニズムの見取図を作成しました。(下図参照)


リベラル・フェミニストの、女性と自然を結びつけることは、伝統的な性差別を強化するという主張に対して、キングは次のように答えています。

フェミニズムの仕事は、男より自然と思われがちな女の活動が絶対的に社会的である、と主張することだ。たとえば、出産は自然だが(方法はひじょうに社会的)、母親業は絶対的に社会活動である。子育てにおいて、母親は、政治家や倫理家のように複雑な倫理的・道徳的選択を迫られる。フェミニズムの隆盛にもかかわらず、女はこれらの仕事を続けるだろうし、人間と自然の関係問題は、認識し解決すべきものだろう。(197頁)

このように、キングは、女性の伝統的な活動「母親・料理・癒し・農業・食糧調達」が「自然であり社会的である」と主張します。
文化フェミニズムにおけるスピリチュアリティは、社会主義フェミニストは「人民の阿片」として批判しますが、エコフェミニズムにとっては、超合理化による人間疎外に対する答えとして、キングは評価しています。
しかし、文化フェミニズムの「個人的な変化と力を強調して、個人的なものを政治的にする」傾向は、文化フェミニズムの「最大の弱点」であると論じています。
そのため、文化フェミニズムだけではエコフェミニズムの実践理論にはならず、社会主義フェミニズムの批判的視点をエコフェミニズムに取り入れる必要があると提案します。

人間と人間以外の自然の関連を認めて、心の政治と愛の共同体を文化フェミニズムと共有しよう。社会主義フェミニズムは、歴史の理解と変革に強力な批判的視点を与える。が、各々の「精神」-「自然」二元論は変わらない。いっしょになれば、それらは、自然と文化の新しいエコロジカルな関係をつくれるだろう。精神と自然、心と理性が力を合わせれば、地球の生命存在をおびやかす内外の抑圧システムを変えることができる。(199頁)

このような反二元論的で弁証法的な実践として、インドのチプコ運動(チプコ・アンドラン)と呼ばれる森林保護運動について、キングは紹介しています。
1970年代に、ガンジー主義の影響を受けた女性たちが、森林を伐採するブルドーザーに対して、チプコ(抱擁)という言葉どおりに、木に抱きついて、命がけで抵抗する森林保護の非暴力運動です。
イネストラ・キングは、チプコ運動は「反二元論的な力を持つ革命」と評価しています。

さらに、「フェミニズム健康運動」について、「自然との仲介的で弁証的な関係」の代表例として紹介しています。
20世紀前半からの出産の医療化と再生産技術(生殖医療)の進歩と独占は、女性同士で仲立ちしてきた自然分娩を男性が管理する分野に変え、資本主義の新たな利潤技術を生み出したと、キングは論じます。
日本における出産の医療化の歴史は、以前に『「お産」の社会史』で詳しく読みました。
日本では、女性同士の経験と相互扶助によって受け継がれてきた助産者(とりあげ婆さん)が、明治政府の産婆制度整備事業により、医学校で教育を受けた若い助産者(「新産婆」「西洋産婆」)に取って代わられ、旧世代の助産者は医師に「不潔」と見なされ、排除されていきました。

イネストラ・キングは、西洋科学・医療すべてを拒否すべきであると主張しているのではなく、「技術化に潜む利潤と管理」を問題と主張しています。
この問いかけは、前述の女性の再生産能力の市場売買(「卵子や子宮を取引する女」)の問題とつながっていると言えます。
キングは、便利な技術を拒否するのではなく、「技術介入がベストか、自分で判断できる力をつけよう」と呼びかけています。
近年日本では、「無痛分娩」によって、妊産婦が死亡したり、生まれた子が重い障害を負うなど、重大な医療事故が起きています。
キングの言うように、「専門家の世話に身をまかせ、わからないまま専門家に従う」ことを考え直し、危険な医療技術を選ぶことについて、「自分で判断できる力」をつけることは、重要な運動だと思います。

このように、エコフェミニズムの視座は、「自然にたいする介入と支配」という問題において、森林保護運動や環境汚染反対運動から、「自分の自然」(からだ=内なる自然)まで含むと言えます。
さらに、外見を気にして、まるで自分の肉体が天敵のように、危険なダイエットにいどむ実態について、イネストラ・キングは「女は男をよろこばせようと自分の体を支配する共犯者」であると批判しています。
自分の肉体を敵にまわし、「自然支配に加担」するのではなく、自分の体をあるがままに受け入れ、「自分の自然」とうまく折り合うことをキングは提唱しています。

キングが指摘するような、餓死するほどのダイエットについては、『女はなぜやせようとするのか:摂食障害とジェンダー』(浅野千恵、勁草書房)で詳しく読んだことがあります。
わたしは、母親業が「自然であり社会的である」ことと同様に、おしゃれをする、ダイエットする、筋肉をきたえるなど、女性が「自分の体を支配する」ことは、意識的な社会的活動だと思います。
女性は、さまざまなメディアから生き方モデルを学習し続けており、「女性はやせなければならない」という社会的イデオロギー(=「女らしい体であれ」という社会的圧力)を拒否して、自分の体をあるがままに受け入れ、自分の体と折り合いをつけることは、とても難しいことです。

このように考えると、イネストラ・キングが提唱するエコフェミニズムにおいて、社会主義フェミニズムと文化フェミニズムという対立する意見をどちらも取り入れた理由が分かりました。
環境汚染問題に取り組むなど、人間が外の自然と調和していくためには、社会主義フェミニズムの批判的視点が役に立ちます。
そして、わたしたち自身の内なる自然と折り合いをつけ、調和していくためには、文化フェミニズムの力に可能性があるのでしょう。
人間を内と外の自然に調和させるという目標は、イネストラ・キングが最初に提唱した、「世界的な真の生命尊重運動」(プロライフ)とつながっていると言えます。



2017/01/28

ハインリヒ・ハイネ「流刑の神々・精霊物語」

流刑の神々・精霊物語 (岩波文庫 赤 418-6)
流刑の神々・精霊物語 (岩波文庫 赤 418-6)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1980/02/18

2016年10月15日の読書会で、ハインリヒ・ハイネ『流刑の神々・精霊物語』(小沢俊夫訳、岩波文庫)を読みました。
ハイネは、『精霊物語』(1835~1836年)において、グリム兄弟の『ドイツ伝説集』(上巻:1816 年、下巻:1818 年)から引用して、古代ゲルマンの精霊たち(コーボルト、エクセ、エルフェなど)の伝説を紹介しています。

……よく言われることだが、ヴェストファーレンには、古い神々の聖像がかくされている場所をいまだに知っている老人たちがいるということだ。彼らは臨終の床で、孫のうちでいちばん幼いものにそれを言って聞かせる。そしてそれを聞いた孫は、口のかたいザクセン人の心のなかにその秘密をじっとだいている。むかしのザクセン領だったヴェストファーレンでは、埋葬されたものすべてが死んでしまうわけではない。そして古い樫の森を逍遥していると、いまでも古代の声が聞こえてくる。(『精霊物語』、7頁、岩波文庫)

「タンホイザーの歌」(ヴェヌスの山)―ハイネとワーグナーを比較


『精霊物語』では、騎士タンホイザーが女神ヴェヌスの山に入り、ヴェヌスの宮廷で過ごしたという「タンホイザー伝説」について、もっとも多くのページを割いて紹介している(92頁~最後121頁まで)ので、注目して読みたいと思います。
ハイネは、コルンマンの『ヴェヌスの山』(1614年)と、クレーメンス・ブレンターノ『魔法の角笛』(『少年の魔法の角笛』三巻、1806-1808年)からの引用という体裁をとっていますが、実際にはハイネ自身が改作した翻案詩となっています。

コルンマンの例にならって、わたしも精霊のことをのべたついでに、古代異教の神々の変容について語らざるをえなかった。彼らはけっして幽霊ではない。なぜならば、すでにたびたびのべたように、彼らは死んではいないからである。彼らは被造物ではなく、不死の存在であって、キリストの勝利ののちには地下の隠棲場所にひきこもり、ほかの精霊たちと同居して、悪魔的生活をおくらざるをえなかったのである。ドイツ民族のなかでもっとも独特で、ロマンティックで奇異なひびきをもっているのは女神ヴェヌスの伝説である。彼女はその寺院が破壊されたときに、秘密の山のなかへ逃げこんで、そこできわめて陽気な無頼の空気の精や、美しい森のニンフ、水のニンフ、そのほか突然に人の世から消え去った多くの有名な立役者たちとともに、奇怪きわまる歓楽の生活をおくっている。あなたがその山に近づくと、ずっと遠くからすでに満足げな笑い声や甘いツィターの音が聞こえてきて、まるで目にみえない鎖のようにあなたの心をしめつけ、あなたを山のなかへひきこむだろう。(91頁)

高貴にして善良な騎士タンホイザーは、
愛と快楽を得んものと
ヴェヌスの山へおもむき、七年間をすごした。

「ヴェヌスよ、わたしの美しい妻、
いとしい人よ、さらば、
今日をかぎりにそなたのもとを去ろうと思う。
いとまをもらいたい。」

「タンホイザーさま、わたしの高貴な騎士よ、
今日は接吻もしてくださらないのね、
はやく接吻してください。
いったい、わたしになんの不足がおありなの?
わたしは毎日あなたに
世にも甘美な酒をさしあげたでしょうに、
毎日あなたの頭を
ばらの冠で飾ってさしあげたでしょうに。」(103-104頁)

ボルヒマイヤーによれば、ハイネの『精霊物語』から直接インスピレーションを受けて、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)は有名な歌劇「タンホイザー」(原題「タンホイザーとヴァルトブルクにおける歌合戦」)を執筆しました。
ワーグナーの「タンホイザー」は、1842年に当初は「ヴェーヌスヴェルグ Venusberg」(ヴェヌス山)という題名で作曲され始めます。そして、ワーグナーは完成した歌劇「タンホイザー」の劇詩の序文に、ワーグナー自身による「解説」を付しています。

古代ゲルマンの女神ホルダ、親しみのある、穏やかで慈悲深い女神、このホルダが毎年国じゅうを巡り歩くと、耕牧地は豊かに実ったものだが、キリスト教が導入されたことにより、ホルダは(ゲルマン神話の主神の)ヴォーダンや他の神々と運命を分かちあわねばならなかった。すなわち、神々に対する信仰は民衆の間に非常に深く浸透していたので、神々の存在や神々の持つ数々の不思議な力にまったき疑いを持たれることはなかったのだが、しかし、それ以前の女神の幸多き働きは怪しまれ、悪しき働きへと変えられてしまったのであった。ホルダは地下の洞窟、奥深い山々の中に追放されたのである。ホルダがそこから出てくると、それは災いをもたらすものとなった。(中略)ホルダという名称は、後にヴェーヌスに変わってしまった。この名称には、人を悪しき感覚的欲望へと誘惑する不吉な魔法の、ありとあらゆる観念がたやすく結び付いた。この女神の本拠地の一つは、テューリンゲンのアイゼナハ近郊にあるヘルゼルベルクの奥地である。ここがヴェーヌスにとっては淫蕩と快楽の宮廷であった。この宮廷の外にいてさえ、歓喜に満ちた音楽をしばしば聴くことができた。しかし、魅惑的なこの響きは、その心にすでに感覚的欲望を芽生えさせている者たちだけを誘き寄せた。つまり、彼らは楽しげに誘惑する響きに魅せられ導かれて、知らぬ間に山の中へ入り込んだのだ。―こうして騎士歌人タンホイザーの伝説は広まってゆく。(中略)この伝説によると、タンホイザーはヴェーヌスベルクに入って、ヴェーヌスの宮廷で丸々一年を過ごしたという。(山地良造「ワーグナーの歌劇『タンホイザー』とヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』」より)

ワーグナーは、ヤーコプ・グリム(1785-1863、 グリム兄弟の兄の方) が出版した『ドイツ神話学』(1835年)の影響を受けて、「タンホイザー伝説」に対するより深い考察を行っています。
『ドイツ神話学』の中で、「タンホイザーは長年山の中のホルダのもとで過ごしている」と引用されていることから、ワーグナーは、タンホイザー伝説に登場するローマ神話の女神ヴェヌスが、ゲルマン神話の女神ホルダと同化したものであると解説しました。
タンホイザー伝説のもともとの原話は、タンホイザーと女神ホルダの物語であったが、ホルダはヴェヌスと同化していったため、15~16世紀頃にホルダの名称はヴェヌスへと変わり、現在に伝わる物語となったと言えます。

※ネタバレ注意※

『精霊物語』に収録されている、タンホイザー伝説を改作したハイネの詩は、教皇から救済を拒絶されたタンホイザーが、ヴェヌスの山へ戻る結末です。

「わたしは彼女を全身全霊で愛しています、
激しく奔放な炎で愛しています。
これがもう地獄の火なのでしょうか?
わたしは神に永劫に罰せられるのでしょうか?

おお、聖なる父、法王ウルバンさま、
あなたは呪縛も救済も意のまま。
わたしを地獄の責め苦から、悪の力からお救いください。」

法王は両手を天に向けて高くあげ、
嘆きつつ言われた。
「タンホイザー、不幸な男よ、
魔法をうち消すことはできない。

ヴェヌスという悪魔は
あらゆる悪魔のうちでもっとも悪い。
その美しい悪魔の手から
そなたを救い出すことはできない。

そなたは今、みずからの魂で
肉の快楽の償いをしなければならない、
そなたは永遠の地獄の苦しみに突き落とされ、罰せられるのだ。」

騎士タンホイザーは旅を急いだ、足は傷だらけになった、
真夜中に
ヴェヌスの山に着いた。(『精霊物語』、113-115頁)

一方で、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」は、全く異なる結末を与えています。
ヴェヌス風の官能的な愛を讃美して罪人とされたタンホイザーの帰りを、故郷のエリーザベトは待ち続けます。
エリーザベトは、タンホイザーが教皇の赦しを得て戻ってくるようにと毎日マリア像に祈り続けますが、タンホイザーは帰らず、ついに自らの死をもってタンホイザーの赦しを得ようと決意します。
教皇に拒絶され、絶望して故郷に帰ったタンホイザーを、ヴェヌスが再び誘惑し、タンホイザーはヴェヌスへ引き寄せられていくところへ、エリーザベトの葬列が現れます。タンホイザーは我に帰り、異界は消滅しました。
エリーザベトが、自分の命と引き換えにタンホイザーの赦しを神に乞うたことを友人から聞き、タンホイザーはエリーザベトの亡骸に寄り添う形で息を引き取ります。ちょうどそこへローマからの行列が、緑に芽吹く教皇の杖を掲げて到着し、特赦が下りたことを知らせて幕が下ります。
教皇の手にある、枯れ枝でできた杖に瑞々しい緑が芽吹いたのは、タンホイザーの罪が許されたことの象徴です。
ワーグナーは、エリーザベトの自己犠牲によるタンホイザーの救済の成就を表現しているのです。

同じタンホイザー伝説を題材にしながら、ハイネの詩とワーグナーの歌劇が、全く異なる結末を与えているのは、その詩・歌劇を通じて読者・観客に伝えたいメッセージが、ハイネとワーグナーとは、それぞれ全く異なっていたためでしょう。


ハイネ「タンホイザーの歌」における風刺、皮肉、遊び心


ハイネの「タンホイザーの歌」には、タンホイザーが、イタリアからヴェヌス住む山へ帰る旅の道中、ヴァイマールやハンブルクなど、ドイツのさまざまな都市を見聞した内容が歌われています。

「タンホイザーさま、わたしの高貴な騎士よ、
ずいぶん長いお留守でした、
こんなに長いこと、どこを歩き廻っていらしたのか
どうぞおはなしください。」

「ヴェヌス、わたしの美しい妻よ、
わたしはイタリアに行ってきたのだ、
ローマで用事をすませて
急いでここへ帰ってきたのだ。(『精霊物語』、117頁)

聖ゴットハルトの峠に立つと、
ドイツがいびきをかいて寝ているのが聞こえた。
三十六人の独裁君主の保護のもとで
安らかに眠っていた。(118頁)

フランクフルトには安息日に着いた。
そしてシャレットとだんごを食べ、こう言ってやったのだ、
あなた方はいい宗教をおもちだ、
わたしも鵞鳥の臓物が好きですよ、と。(119頁)

詩人ミューズの未亡人の町ヴァイマールでは
しきりに悲嘆の声を聞いた。
悲しそうに泣き叫ぶのだ、ゲーテは死んだ、
だのにエッカーマンはまだ生きている、と。
ボツダムでは大きな叫び声を聞こえたので
どうかしたのですが、とわたしは驚いて尋ねた
「あれはベルリンのガンス教授ですよ、
前世紀について講義しているのです。」(119-120頁)

ツェレの刑務所ではハノーファー人しか見かけなかった―
おお、ドイツ人は!
我々には国家の刑務所が必要だ、
それにドイツ人全体に鞭が必要だ。(120頁)

善良な町ハンブルクには、
悪い連中がかなり住んでいる。
そして取引所へ行ったときには
まだツェレにいるのかと思った。

善良な町ハンブルクには、二度とふたたび足を踏み入れまい、
わたしはもうこれから、ヴェヌスの山の美しい妻のもとから離れまい。」(121頁)

中世の騎士であるタンホイザーが、ゲーテの死を嘆くヴァイマールを訪れるなど、とてもおかしく、ハイネの風刺と遊び心を感じますね。
このように、ハイネは「タンホイザーの歌」の中で、出版当時のドイツ諸都市(ゴットハルト、シュヴァーベン、フランクフルト、ドレースデン、ヴァイマール、ポツダム、ゲッティンゲン、ツェレ、ハンブルク)の政治や社会制度、民衆に対する風刺や皮肉を歌っているのです。

グリム兄弟は、ドイツの人々が語り伝えてきた民話を収集し、原話を忠実に採録した『ドイツ伝説集』や、キリスト教化以前の古代ゲルマンの神々を研究する『ドイツ神話学』を出版しました。
ハイネとグリム兄弟では、この原話に対して取り組む姿勢が、明らかに違うと思います。
ハイネは『精霊物語』において、「タンホイザーの歌」を中世の原話をそのまま採録したという体裁で、実際はハイネ自身が大幅に改作して、「タンホイザーの歌」を題材とした政治風刺詩に仕立て直しています。

ハイネの「タンホイザーの歌」には、ワーグナーが歌劇「タンホイザー」に付した解説のような、ローマの神々と同化させられた、古代ゲルマンの神々について深く考察する姿勢が欠けています。
おそらく、ハイネには、グリム兄弟のように、古代ゲルマンの神話・民話を本気で収集・研究する意図は、はじめからなかったのだと思います。

キリスト教批判として書かれた『精霊物語』・『流刑の神々』


『精霊物語』(1835-36年)の後に執筆した『流刑の神々』(1853年)では、ハイネは、ドイツ各地に伝わる幽霊や悪魔の伝説を紹介し、ローマの神々がキリスト教化以後に「悪魔化」させられたと論じています。
『精霊物語』で強烈だった、ドイツの社会・政治に対する風刺や皮肉は、『流刑の神々』ではあまり主張していませんが、キリスト教批判とローマ神話賛美というテーマは、『精霊物語』から『流刑の神々』へと引き継がれています。

『精霊物語』とテーマを同じくする『流刑の神々』においても、ローマの神々と同化させられた、古代ゲルマンの神々については、ハイネはほとんど論じていません。
ローマ帝国に支配される以前の古代ゲルマンの人々は、古代ゲルマンの神々を信仰していたはずです。
キリスト教公認以前のローマ帝国時代において、支配地域の広がりとともに、起源の異なる神々が同化し、人々の間で同時に信仰されていました。
ローマ帝国時代の諸宗教は混合主義であり、より勢力を持った宗教が、他の宗教を吸収し、同化する傾向にあり、この同化の過程は闘争や反発が少なく、互いに自由に伝説や教義上の慣例が交換されたと言われています。
そのため、ローマ帝国の文化・信仰の影響を受けて、古代ゲルマンの神々も、しだいにローマの神々と同化していったのだと思います。

そしてキリスト教化以後は、ローマの神々に対する信仰が失われ、キリスト教によってローマの神々は人々を誘惑する「悪魔」と変化させられ、民話や伝説の中に保存されたと、ハイネは『精霊物語』と『流刑の神々』で主張しています。

キリスト教が古代ゲルマンの宗教をどうやって抹殺しようとしたか、あるいは自分のなかにとりいれようとしたかというそのやりかた、また古代ゲルマンの宗教の痕跡が民間信仰のなかにどのように保存されているかということである。あの抹殺戦争がどのようにおこなわれたかは周知のとおりである。(『精霊物語』、60-61頁)

わたしはここでふたたび、キリスト教が世界を支配したときにギリシア・ローマの神々が強いられた魔神への変身のことをのべてみようと思っているのである。民間信仰は今ではギリシア・ローマの神々を、たしかに実在するが呪われた存在にしてしまっている。(『流刑の神々』、125頁)

古代のあわれな神々は当時屈辱的な逃亡をし、あらゆる可能な限りの覆面をして人間の住むこの地上に身をかくしたものだった。(127頁)

ハイネの考えでは、ギリシャ・ローマの神々は、キリスト教の主なる神によって創造された「被造物ではない」、「不死の存在」であるため、決して死ぬことはないのです。
「抹殺」できない存在であるため、キリスト教会では、ギリシャ・ローマの神々を「悪魔」「魔神」「呪われた存在」と位置づけました。
このように、キリスト教によってギリシャ・ローマの神々が「悪魔化」させられた過程を、ハイネは「流刑」と表現しています。
表題である「流刑の神々」とは、地下の洞窟や奥深い山々、秘密の隠棲場所にかくれて、今もなお生きているギリシャ・ローマの神々のことを意味していると言えます。



ハインリヒ・ハイネは、1797年にデュッセルドルフの裕福なユダヤ人の家庭に生まれました。
フランス支配下のデュッセルドルフの町で、フランス革命後の自由・平等の喜びと、1815年以後の反動化の時代を体験し、「自由・解放」への強い思いを持って成長したのだと思います。
ハイネは、早くから「ユダヤ問題」を論じていて、ベルリン大学時代は「ユダヤ人文化学術協会」の活動にも参加しています。
しかし、1825年にハイネはプロテスタントに改宗します。
『精霊物語』や『流刑の神々』では、強烈にキリスト教を批判しているハイネ自身が、この時、なぜキリスト教に改宗したのでしょうか?

ハイネのプロテスタント改宗は、「ユダヤ教徒からもキリスト教徒からも憎まれる」結果となったと、ハイネは友人に手紙を送っています。
ハイネの改宗前、「ユダヤ人文化学術協会」の指導者ガンスの改宗に対して、ハイネは「裏切り者(背教者)」(Einem Abtrünnigen)と題した詩を歌っています。

君は十字架に向かって這っていった
君が軽蔑していた十字架に、
ほんの数週間前、君が、
芥の中にふみにじろうとしていた十字架に!(Einem Abtrünnigen、"Nachgelesene Gedichte"(1812-27)所収)

このように、ガンスの改宗を痛烈に皮肉し、批判していたハイネ自身が、今度は「十字架に向かって這っていった」のですから、友人たちの理解・賛同を得るのは、難しかったでしょう。

1824年頃からハイネはヨーロッパ各地を旅して、1831年にパリに移住しました。
ハイネが移住した前年の1830年に、フランスでは7月革命が起こっています。
パリ移住後のハイネは、空想的社会主義者サン・シモンの流れを汲むサン・シモン派の人々と交流し、「第三の福音」を提唱するサン・シモン派の新しい宗教論の影響を受けたと言われています。
プロテスタント改宗後の、「ユダヤ教徒からもキリスト教徒からも憎まれる」苦しい体験を経て、ハイネはユダヤ教でもキリスト教でもない、「新しい宗教」に希望を見出したのかもしれません。

『精霊物語』は、ハイネがパリ移住後の1835年から1836年にかけて、フランス人に向けてドイツの文化を紹介するために、フランス語で発表されました。
『流刑の神々』も1853年に、フランスの『両世界評論』誌に、フランス語で発表されました。

トイフェル(悪魔)は論理家である。彼は世俗的栄光や官能的喜びや肉体の代表者であるばかりでなく、物質のあらゆる権利の返還を要求しているのだから人間理性の代表者でもあるわけだ。かくてトイフェルはキリストに対立するものである。すなわちキリストは精神と禁欲的非官能性、天国の救済を代表するばかりでなく、信仰をも代表しているからである。トイフェルは信じない。彼はむしろ自己独自の思考を信頼しようとする。彼は理性をはたらかせるのである!(『精霊物語』、69頁)

むしろたいせつなことは、ヘレニズム自身を、つまりギリシア的感情と思考方法を守護し、ユダヤ教、つまりユダヤ的感情と思考方法の伸展をはばむことだったのである。問題は、ナザレ人の陰気な、やせ細った、反感覚的、超精神的なユダヤ教が世界を支配すべきか、それともヘレニズムの快活と美を愛する心と薫るがごとき生命の歓びが世界を支配すべきであるかということなのだ。(82頁)

『精霊物語』において、ハイネはユダヤ教とキリスト教を、「陰気な、やせ細った、反感覚的、超精神的な」禁欲主義の宗教であると批判しています。
ハイネの考えでは、ユダヤ教とキリスト教の禁欲主義と対照的な存在が、「ヘレニズム」「ギリシア的感情と思考方法」であり、キリスト教によって「悪魔化」させられたギリシャ・ローマの宗教です。
ハイネは、ギリシャ・ローマの神々を、「世俗的栄光や官能的喜びや肉体の代表者」であり、「人間理性の代表者」であると賛美しています。

ハイネはプロテスタントに改宗しましたが、改宗後の悲劇的状況を経て、『精霊物語』を執筆していた時には、もはやユダヤ・キリスト教の信仰から心が離れ、サン・シモン派の影響を受けた「新しい宗教」を精神的支柱としたのでしょう。
ハイネによれば、この「新しい宗教」は、「神々の民主主義国家を地上に建設」する宗教で、「地上の天国」を説いています。
ハイネの考える、現世主義の「新しい宗教」にもっとも近い宗教が、古代ギリシャ・ローマの神々であり、「ヘレニズム」「ギリシア的感情と思考方法」だったのだと思います。

このようなハイネの事情を考えると、『精霊物語』と『流刑の神々』における、ユダヤ・キリスト教批判とギリシャ・ローマ神話賛美も理解することが出来ます。
そして、『精霊物語』の「タンホイザーの歌」は、ハイネ自身の心情を歌った詩であると解釈出来るでしょう。
ハイネの「タンホイザーの歌」は、タンホイザーが教皇に救済を拒絶され、ヴェヌスの山へ帰るという結末です。
タンホイザーの「善良な町ハンブルクには、二度とふたたび足を踏み入れまい、わたしはもうこれから、ヴェヌスの山の美しい妻のもとから離れまい」という最後の台詞は、ハイネ自身の心情が重なっているように思います。
この台詞に、フランスに移住し、二度とドイツには戻らないというハイネの強い決意を感じます。
ユダヤ・キリスト教の支配から解放された、自由で「新しい宗教」を提案するハイネのメッセージは、タンホイザーが<ヴェヌスのもとへ帰る>という結末が、もっとも分かりやすく象徴していると思います。

「新しい宗教」において、ハイネのイメージする「地上の天国」「神々の民主主義国家」は、実現しようとすれば、社会主義的なものであることは明らかです。
しかし、新しい教会の建設、世界観の変革がどのような方法で確立されるかは、ハイネは語っていません。
ハイネは、サン・シモン派の宗教論に希望を見出していますが、経済理論の方には関心を寄せなかったと言われています。
ハイネにとっての革命は、社会的・政治的領域よりも、人々の世界観を変革することの方が重要だったのでしょう。
これは、ハイネがもともと素晴らしい詩人であったからこそ、「新しい宗教」による<世界観の革命>にこだわったのだと思います。

革命詩人ハイネは生涯、詩によって闘争を続け、ドイツの社会・政治、キリスト教、教会・僧侶階級、多くの論敵たちを攻撃しています。
もし、ハイネが経済理論や社会制度にもっと目を向けていたら、詩を武器とする革命詩人ではなく、武力革命を目指す革命家となっていたかもしれません。




参考:宮野悦義「ハインリヒ・ハイネ」(一橋論叢:61(4)、1969年)
山地良造「ワーグナーの歌劇『タンホイザー』とヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』」(帝京平成大学紀要:第26巻第2号、2015年)

2013/09/05

太宰治「斜陽」

斜陽 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 2003/4/30

太宰治の『斜陽』を読みました。
『斜陽』は、1946年~1947年(昭和21年~22年)の日本を舞台に、華族階級の一家を描いた物語です。
一家の当主である父親はすでに亡くなっており、老いた母親、長女かず子、かず子の弟で長男の直治が登場します。
第二次大戦後、直治は南方の戦地から帰らず、母親とかず子は、叔父のすすめで東京・西片町の家を売り、伊豆の山荘に引っ越して、二人だけでひっそりと暮らし始めます。
思い出の家を離れる辛さからか、母親は引っ越してまもなく病に伏せ、かず子は病気がちな母親を気遣い、慣れない家事に取り組みます。
伊豆での新生活がようやく落ち着いた頃、消息不明だった直治が帰ってくるのです。


『斜陽』が構想された1945年~1947年(昭和20年~22年)頃は、財産調査および財産税法が執行され、新憲法の公布による華族制度の廃止が決定しました。
華族と同様に、皇族についても環境が大きく変化し、皇室典範改正にともなう臣籍降下(皇族離脱)や、皇族財産への財産税公布などが議論されます。
『斜陽』が執筆・連載された1947年(昭和22年)には、議論の末に11宮家の臣籍降下が決定し、51名が皇族籍を離脱しました。
当時の一般国民にとって、宮家の人々は、現在のスターやアイドルに近い存在であり、その一挙手一投足が注目されていたと言われています。

太宰治が1948年(昭和23年)6月に亡くなった後、同年7月に高木正得元子爵の失踪・自殺事件が起こります。
高木元子爵の遺書には、敗戦後の変革によって経済破綻に陥り、死を選ぶこととなった内容が記されており、「没落する華族階級」が世間の話題となります。
高木元子爵の事件を発端に、新聞や雑誌は旧華族階級の動向を特集し、名家の没落を彷彿とさせる事件をさかんと報道するようになります。
1948年(昭和23年)7月に、『斜陽』新版が刊行されると、没落華族の物語として、人々に熱狂的に受け入れられるのです。
実在の旧華族の没落と、小説『斜陽』が結び付けられ、「斜陽」という単語は、華族の没落を意味する言葉として用いられ、「斜陽族」という流行語まで生まれました。

このように、太宰治が『斜陽』を構想・執筆した時期は、華族よりも皇族の動向が注目されており、華族の没落が世間を騒がせ、『斜陽』がベストセラーとなったのは、太宰治の死後のことでした。
『斜陽』は、華族階級の没落を予見した作品であり、いち早く特権階級の没落というテーマを描いた、太宰治の先見性が垣間見えますね。


※ネタバレ注意※


直治の帰還をきっかけに、かず子は6年前に起こった「ひめごと」を思い起こします。
6年前、直治は麻薬中毒が原因の借金に苦しんでおり、山木へ嫁いだばかりのかず子は、自分のドレスやアクセサリーを売って、なんとか弟のためにお金を工面していました。
直治の頼みで、かず子は小説家の上原二郎宅にお金を届けていましたが、次第に多額のお金をねだられ、たまらなく心配になって、かず子はたった一人で上原に会いに行きました。
かず子は上原と一緒にコップで2杯のお酒を飲み、別れ際に上原からキスをされます。
この時から、かず子には「ひめごと」が出来ました。
その後、かず子は山木と離婚し、実家に帰って、山木の子を死産しました。

かず子は、6年前の「ひめごと」を思い起こして、上原に三つの手紙を送ります。
手紙の中で、かず子は上原に対する愛情を伝え、上原の子を熱烈に望みました。
夏に送った手紙に対する返事が無いまま、季節は秋になり、病気がちだった母がついに亡くなります。
母の死後、かず子は東京で上原と再会し、恋を成就させます。
かず子と上原が一夜をともにした朝、直治は伊豆の山荘で自殺していたのです。
直治の死後、上原の子を身ごもったかず子は、上原に最後の手紙を送りました。
手紙の中で、かず子は私生児とその母として、古い道徳とどこまでも闘い、太陽のように生きることを決意して、物語は終わります。



物語全体は、「私」=かず子の一人称の語りで進行しますが、第3章に直治の手記「夕顔日誌」、第7章に直治の「遺書」が挿入され、第4章と第8章にかず子の「手紙」が挿入されており、なかなか凝った構成だと思います。
上の図は、物語の構成を整理したもので、かず子が語った過去と現在の出来事を、時系列にまとめてみました。
断片的に語られる過去のエピソードから、かず子という女性の人生が少しずつ明らかになるところが、面白いですね。

かず子の視点だけでなく、「夕顔日誌」や「遺書」を通じて、直治の視点も描かれており、かず子の人生により立体感・奥行きが感じられます。
かず子の視点と、直治の視点で大きく異なるのが、上原二郎の人物評価です。

六年前の或る日、私の胸に幽かな淡い虹がかかって、それは恋でも愛でもなかったけれども、年月の経つほど、その虹はあざやかに色彩の濃さを増して来て、私はいままで一度も、それを見失った事はございませんでした。(第1の手紙、第4章、99-100頁)

私がはじめて、あなたとお逢いしたのは、もう六年くらい昔の事でした。あの時には、私はあなたという人に就いて何も知りませんでした。ただ、弟の師匠さん、それもいくぶん悪い師匠さん、そう思っていただけでした。そうして、一緒にコップでお酒を飲んで、それから、あなたは、ちょっと軽いイタズラをなさったでしょう。けれども、私は平気でした。ただ、へんに身軽になったくらいの気分でいました。あなたを、すきでもきらいでも、なんでもなかったのです。そのうちに、弟のお機嫌をとるために、あなたの著書を弟から借りて読み、面白かったり面白くなかったり、あまり熱心な読者ではなかったのですが、六年間、いつの頃からか、あなたの事が霧のように私の胸に沁み込んでいたのです。(第2の手紙、第4章、107頁)

私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。(第3の手紙、第4章、114頁)

直治は「遺書」の中で、自分が恋する女性と、その夫について「遠まわしに、ぼんやり、フィクションみたいに」書きます。
洋画家とその妻として語られている人物が、上原夫妻を指すことは明らかでしょう。

そのひとは、戦後あたらしいタッチの画をつぎつぎと発表して急に有名になった或る中年の洋画家の奥さんで、その洋画家の行いは、たいへん乱暴ですさんだものなのに、その奥さんは平気を装って、いつも優しく微笑んで暮らしているのです。(遺書、第7章、190頁)

僕がその洋画家のところに遊びに行ったのは、それは、さいしょはその洋画家の特異なタッチと、その底に秘められた熱狂的なパッションに、酔わされたせいでありましたが、しかし、附き合いの深くなるにつれて、そのひとの無教養、出鱈目、きたならしさに興覚めて、そうして、それと反比例して、そのひとの奥さんの心情の美しさにひかれ、いいえ、正しい愛情のひとがこいしくて、したわしくて、奥さんの姿を一目見たくて、あの洋画家の家へ遊びに行くようになりました。(遺書、第7章、193頁)

つまり、あのひとのデカダン生活は、口では何のかのと苦しそうな事を言っていますけれども、その実は、馬鹿な田舎者が、かねてあこがれの都に出て、かれ自身にも意外なくらいの成功をしたので有頂天になって遊びまわっているだけなんです。(遺書、第7章、195頁)

かず子の「手紙」からは、かず子が6年前の「ひめごと」を何度も思い出し、彼の著書や弟との会話から、上原の人物像を想像し、偶像化していく様子が読みとれます。
一方、直治の「遺書」は、かず子の上原像に対する、強烈な偶像破壊の効果を発揮しています。
かず子の視点とともに、直治の視点が描かれることによって、かず子の物語を、直治の視点から読み直すことが出来るのです。

◆◆◆

主人公かず子と、かず子の母親は、華族という出自は同じでも、全く対照的な人物として造形されています。

かず子の「お母さま」は、無心で可愛らしく、「ほんものの貴婦人の最後のひとり」として描かれています。
「お母さま」は、「お金の事は子供よりも、もっと何もわからない」女性で、10年前に夫を失くしているため、かず子が「和田の叔父さま」と呼ぶ、実弟に財産の管理をまかせていました。
「和田の叔父さま」の勧めで、東京・西片町の家を売り、使用人に暇を出し、伊豆へ引っ越すことを決め、「かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ」と言うなど、主体性のない女性として描かれています。
かず子が、「お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさ」と言うように、「お母さま」の主体性のなさは、「信頼」という言葉で置き換えられ、彼女の「幼い童女のよう」な無心さ、美しさを強調しています。

しかし「お母さま」は、本心では、伊豆へ引っ越すことに全く不本意であり、西片町の家に一日でも長く暮らしたいと思っていました。
そのため、引越しの荷ごしらえが始まっても、「お母さま」は整理の手伝いも指図もせず、毎日部屋でぐずぐずするばかりで、引越し前夜には激しく泣き、伊豆へ到着した当日から、高熱に苦しみます。
その後、「お母さま」はたびたび病に伏せるようになり、食欲もなく、口数もめっきり少なく、伊豆へ引越してわずか1年以内に、亡くなりました。
伊豆における「お母さま」の「病気」は、西片町の家を売り、伊豆へ移住したことへの辛さや不満、抗議の気持ちを全身で表現していたのだと思います。

西片町の家から離れることが、死ぬほど苦しいのなら、「お母さま」はどうして「和田の叔父さま」の勧めに従ったのでしょうか?
「和田の叔父さま」から、かず子を再婚させるか、宮家へ奉公にあがるようにと勧められますが、かず子は思いきり泣いて、叔父の提案を拒絶します。
「お母さま」は、かず子の気持ちを思いやって、「私の子供たちの事は、私におまかせ下さい」と手紙を書き、「生まれてはじめて、和田の叔父さまのお言いつけに、そむいた」と言うのです。
女性は夫と親に仕えよ、従順で貞節であれ、という「女大学」の立場から教育され、「ほんものの貴婦人」として生きてきた「お母さま」にとって、不満や抗議の気持ちを言葉にすることは、現代のわたしたちには想像できないほど、大きなこと、難しいことだったのでしょう。



落ちぶれても生活感の無い「お母さま」に対し、娘のかず子は、戦時中に徴用されて「ヨイトマケ」の肉体労働を経験し、伊豆では使用人のように家事をこなし、「地下足袋」姿で畑仕事にまで取り組みます。
かず子は、華族の出自でありながら、だんだん「粗野な下品な女」、「野性の田舎娘」になっていくと自覚し、華族性(貴族性)を解体していくのです。

けれども、私は生きて行かなければならないのだ、子供かも知れないけれども、しかし、甘えてばかりもおられなくなった。私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯を終る事の出来る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得ないのではなかろうか。死んで行くひとは美しい。生きるという事。生き残るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。私は、みごもって、穴を掘る蛇の姿を畳の上に思い描いてみた。けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をしとげるために世間と争って行こう。(第5章、149頁)

かず子は、「女大学」にそむいて、妻子ある上原と関係を持ち、上原の子を身ごもります。
上原の妻に恋していながら、最後まで思いをとげることが出来ずに、自殺した直治と比べて、最終章のかず子は「ひとすじの恋の冒険」を成就させ、「よい子を得たという満足」があり、「幸福」です。
しかし、かず子と「私生児」として生まれる子供の未来は、きわめて困難だろうと容易に予想できますよね。
かず子は、自分が「古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています」と言い、困難な未来を見据えて、すでに覚悟を決めているように見えます。
その覚悟があるからこそ、かず子の胸のうちは「森の中の沼のように静か」であり、「孤独の微笑」の境地に至っているのだと思います。

けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけ得たと思っています。そうして、こんどは、生まれる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。
こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。(第8章、202頁)

私生児と、その母。
けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。(第8章、202頁)

発表当時の読者にとって、かず子は主体的で、進歩的な女性像、自立する女性像として、賛否両論だったと思います。
現代の日本では、2010年度の総務省統計局調べによると、108万人強のシングルマザー人口があり、そのうち未婚のシングルマザーは12%程度で、13.2万人と言われています。
家族観が多様化した現代のわたしたちにとって、離婚や死産を経験して、未婚のシングルマザーになるという女性像は、新鮮さや衝撃は薄く、とても身近な存在として感じます。

『斜陽』には、「ほんものの貴婦人」である「お母さま」や、デカダン生活をする直治や上原、「地味な髪型」で「貧しい服装」でも清潔感があり、「高貴」なほど「正しい愛情のひと」である上原の妻など、生活感の無い、浮世離れした登場人物が多いです。
かず子だけは、生活が逼迫しても、「地下足袋」姿で「ヨイトマケ」までする<強さ>や<たくましさ>があり、「血の匂い」がするような、生き生きとした人物として感じられますね。


2013年9月4日に、結婚していない男女間に生まれた非嫡出子(婚外子)の遺産相続分を、結婚した夫婦の子の2分の1とした民法の規定について、最高裁大法廷が「法の下の平等」を保障した憲法に違反する、という決定を出しました。
最高裁は1995年に、民法のこの規定を「合憲」と判断しており、「合憲」判断を覆しての、歴史的な「違憲」判断です。
婚外子の相続格差の規定は明治時代に設けられ、戦後の民法に受け継がれたもので、婚外子に対する差別を助長してきたと言われています。
この「違憲」判断をきっかけに、『斜陽』発表から66年経った現在でも、かず子の言う「道徳革命」は未だ完成されておらず、まだまだ「革命」の途上であることを気づかされました。
「古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きる」というかず子の力強いメッセージは、これからも多くの女性たちを励まし、勇気づけることでしょう。

◆◆◆

『斜陽』では、<蛇>のモチーフが何度も登場します。
かず子の父親が亡くなる直前に、枕元に蛇があらわれ、父親が亡くなった当日には、庭の木という木すべてに蛇がまきついていました。
臨終の枕元の蛇は、かず子のほか、母親と「和田の叔父さま」も目撃しています。
庭木の蛇は、かず子しか目撃がおらず、現実には起こりそうもない、幻想的な光景なので、かず子の幻視かもしれません。

伊豆へ引越してから、庭の垣の竹藪に蛇の卵を見つけ、かず子は蝮の卵だと勘違いして、たき火で卵を燃やします。
どうしても卵は燃えず、かず子は卵を庭に埋葬して墓標を作りました。
その後、庭に何度か蛇があらわれるようになり、かず子と母親は、卵の母親である女蛇だと考えます。
かず子は、自分の胸の中に「蝮みたいにごろごろして醜い蛇」が住んでいるように感じ、「お母さま」を「悲しみが深くて美しい美しい母蛇」に重ね合わせて、かず子=蝮が、「お母さま」=美しい母蛇をいつか食い殺してしまうと感じます。

「卵を焼かれた女蛇」には、第一に、子供を死産したかず子自身が投影されています。
かず子は、「卵を焼かれた女蛇」と<子の喪失>感を共有していますが、かず子は卵の殺害者でもあり、死産=<子殺し>のイメージがあるのかもしれません。
かず子が、「卵を焼かれた女蛇」を「お母さま」に重ね合わせるのは、「お母さま」と<子の喪失>感を共有していたからでしょう。
蛇の卵を燃やす事件は、直治の帰還前の出来事です。
直治は、南方の戦地で消息不明になり、終戦後も帰還しなかったため、「お母さま」は「もう直治には逢えない」と覚悟しつつも、たびたび直治を思い出し、悲しみを深くしていました。
そのため、「物憂げ」な「美しい母蛇」と「お母さま」を重ね合わせたのだと思います。


『斜陽』の構成は、現在と過去の出来事が時系列順ではなく、順序バラバラに配置されています。
一見無造作に並べられているようですが、かず子が現在のある出来事から連想して、過去のある出来事を思い出すという形式であり、実は現在と過去の出来事は密接に結びついているのです。

伊豆の家で、朝食にスープを一さじ飲んだ時に、「あ」と小さな声を出します。
「あ」と言う時、母親は戦死したであろう息子を思い出しており、かず子は6年前の離婚を思い浮かべています。
この朝食の出来事から、<子の喪失>というイメージが連想され、かず子は数日前の蛇の卵を焼く事件を回想していくのです。
<蛇>から連想して、10年前の父親の臨終にあたって、枕元に蛇があらわれ、庭木に蛇がからみついていたことを回想します。
そして<喪失>のイメージは、日本の敗戦によって東京・西片町の家を売り、家財を売り、伊豆へ移住する出来事の回想へとつながっていきます。
再び現在の朝食の出来事にもどり、かず子は「私の過去の傷痕」がちっともなおっていないと実感し、自分の内面に「蝮」を宿す方向へ進んでいくのです。
朝食の出来事から数日後(蛇の卵の出来事から約10日後)に、火の不始末から、小火騒ぎが起こります。
小火騒ぎによって、かず子は自分の内面に「意地悪の蝮」が住み、「野生の田舎娘」になって行くという気持ちを強くし、畑仕事に精を出すようになります。
およそ貴族らしからぬ、肉体労働に汗を流すイメージは、かず子が戦時中に徴用され、「ヨイトマケ」までさせられた回想につながり、「畑仕事にも、べつに苦痛を感じない女」という自覚に至ります。


<喪失>の象徴としての「美しい母蛇」を母親と同化させ、自分は「蝮」のような「醜い蛇」と設定することにより、かず子は<生命力>の象徴としての「蛇」を内面化していきます。
毒をもたない「美しい蛇」よりも、毒をもつ「蝮」には、より<強さ>や<たくましさ>があります。
「蛇」は、脱皮をすることから<死と再生>のイメージがあり、豊穣神・地母神の象徴とされ、日本を含め、世界各地で古くから崇められてきました。
かず子は、敗戦による貴族階級の<死>、離婚と死産という「過去の傷痕」から<再生>し、生きることの「醜さ」や「きたなさ」を受け入れて、生命力あふれる「蝮」=「野生の田舎娘」へと変身していくのだと思います。


その後、かず子は「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」という新約聖書の言葉を引用して、上原に第1の手紙を書きます。
上原に対する「恋」は、「非常にずるくて、けがらわしくて、悪質の犯罪」であると、かず子は自覚しており、第1の手紙は「蛇のような奸策」に満ち満ちていたと書いています。
母親の死後、かず子は「蛇のごとく慧く」、直治を伊豆に残して、上原に会うために東京に行きます。
上原に対する「恋」において、かず子は聖書の「蛇」のイメージを繰り返し用いています。

旧約聖書『創世記』では、「主なる神が造られた野の生きもののうちで、最も賢いのは蛇」であり、「蛇」の<誘惑>に負けて、アダムとエバは主なる神にそむいて「善悪を知る者」となり、「エデンの園」から追放されました。
かず子が引用した「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」という言葉は、『マタイによる福音書』10章16節に記されています。
『マタイによる福音書』10章は、「天の国は近づいた」とイスラエルの人々に宣べ伝えるため、弟子たちを派遣するにあたり、イエスが弟子たちに心構えを語っています。
「天の国は近づいた」と宣べ伝え、病人をいやし、金貨や銀貨などの対価を受け取らず、「平和があるように」と願うことが語られています。
「迫害」があることもあらかじめ予告され、捕えられ、鞭打たれ、憎まれることが予告されますが、「蛇のように賢く、鳩のように素直になり」、むやみに殉教せず、一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げること、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」ことが語られています。

かず子は19歳までイギリス人の女教師のもとで学んでいたせいか、たびたび聖書の言葉を利用しています。
貴族として<死>に、民衆として<再生>することを、「イエスさまのような復活」と表現しています。
母親の死後、かず子は上原への「恋」をしとげるため、「古い道徳」に対して「戦闘、開始」を宣言し、『マタイによる福音書』10章から引用して、「恋ゆえに、イエスのこの教えをそっくりそのまま必ず守る」と誓います。
最後に、上原の子を身ごもったかず子は、自分を「マリヤ」になぞらえて、「マリヤが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になる」とまで語るのです。


かず子は、自然の生命力にあふれる「蝮」を内在化し、毒をもったずる賢い「蝮」として、上原を<誘惑>していきます。
このように、『斜陽』において<蛇>はきわめて重要なモチーフであり、<蛇>のイメージの内面化によって、かず子の内面の変化を描いています。
かず子が<蛇>化する過程において、太古からの<蛇=豊穣神・地母神>のイメージと、聖書における<蛇=賢い誘惑者>のイメージが、絶妙にミックスされており、読めば読むほど面白く感じました。



読了日:2012年11月27日

2013/07/31

ボフミル・フラバル「あまりにも騒がしい孤独」

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)
あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)
  • 発売元: 松籟社
  • 発売日: 2007/12/14

ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』(石川達夫訳、松籟社)を読みました。
2013年6月の読書会課題本でした。

ボフミル・フラバル(1914年~1997年)は、ミラン・クンデラ(1929年~)と共に、20世紀のチェコ文学を代表する作家です。
フランスに亡命し、フランス語で著作したクンデラよりも、チェコ国内にとどまり、チェコ語で著作し、地下出版を続けたフラバルの方が、チェコ国民の人気が高いようです。
日本では、クンデラの方がよく知られていますが、フラバルも大変面白かったので、もっと翻訳が増えて、読者が増えてほしいですね。


『あまりにも騒がしい孤独』は、プラハで35年間にわたって、地下室の小さなプレスで、故紙を潰す作業をしてきた労働者ハニチャが主人公です。
この作品は、社会主義時代には出版を許されず、長い間タイプ印刷の地下出版で、読まれてきました。

「僕」=ハニチャの一人称の語りで物語が進みますが、大量に飲酒をしながら仕事をするハニチャは、明らかにアルコール依存症であり、信頼出来ない語り手です。
主人公ハニチャの青年時代の思い出と、アルコールによる幻視、地下室とアパートを往復する現在の生活が織り交ぜられた、幻想的な作風でした。
わたしは、ボリス・ヴィアンの『日々の泡』(『うたかたの日々』)のような、どこから幻想で、どこから現実なのか分からない作品が好きでして、フラバルも面白く読むことが出来ました。

※ネタバレ注意※


ハニチャの回想には、若かりし頃に交友のあったマンチンカという女性、亡母、叔父、そして青春の恋人であるジプシー娘(イロンカ)が登場します。
第1章では、ハニチャはすでに35年間働いており、あと5年で年金生活という年齢です。
物語開始現在では存命だった叔父も、第5章で亡くなり、ハニチャによって手厚く葬られます。
現在のハニチャを取り巻く人々として、ハニチャを罵倒する所長(ボス)や、地下室に故紙を運んで来る二人のジプシー娘、ハニチャが故紙の中からこっそり持ち出した新聞・雑誌や本を買い取る、元美学教授や聖三位一体教会の管理人フランチーク・シュトゥルムなどが登場します。
物語の中で断片的に描かれている、現在と過去の出来事、そして幻想を整理し、時系列にまとめると、上の図になります。
この図は、物語の構成を図示したものですが、ハニチャの人生そのものですね。


物語の中では、「35年間」という数字が何度も登場します。

三十五年間、僕は故紙に埋もれて働いている―これは、そんな僕のラヴ・ストーリーだ。(7頁、第1章冒頭)

三十五年間、僕は故紙を潰していて、その間に収集人たちが地下室にすてきな本を山ほど投げ入れたので、もし僕が納屋を三つ持っていたとしても、一杯になってしまったことだろう。(18頁、第2章冒頭)

三十五年間、僕は故紙を潰しているけれど、もしもう一度選ばなければならないとしても、この三十五年間にしてきたこと以外の何もしようとは思わないだろう。(32頁、第3章冒頭)

このように、「三十五年間」という言葉から始まる章が、第1章、第2章、第3章、第6章、第7章と、全部で8章あるうちの5章もあります。
第1章だけで、「三十五年間」という言葉は、12回も使われているのです。
作者ボフミル・フラバルは、なぜこれほど「35年間」という数字を強調したのでしょうか?
ハニチャの年齢について、物語中で明らかにされていませんが、「僕は三十五年間、水圧プレスで故紙を潰していて、年金生活まではあと五年だ。」(15頁、第1章)という記述から、20歳から60歳まで40年間働くとして、現在55歳頃であると推測できます。
『あまりにも騒がしい孤独』が1976年発表であることから、ヒトラーによってチェコが保護領となり、ドイツに占領された1939年3月から、執筆当時の現在(1974年頃)までの「35年間」を指しているのではないかと思います。
この物語は、同時代に生きるチェコの人々に向けて書かれており、当時の読者は、現代のわたしたちよりもはるかに敏感に、「35年間」という数字の象徴性や意味を読みとったことでしょう。


読書会では、グロテスクで生理的に受け付けない、二度と読みたくないといった感想も聞きました。
地下室の故紙集積場には、新聞・雑誌や本のほかに、アイスクリームの包み紙、ペンキの散った紙、食肉公社から出た血のついた紙までが運び込まれ、ハニチャは毎日紙の山全体に水を播きます。
そのため、地下室はいつも湿って黴臭く、ネズミが巣食い、ハニチャは血まみれで作業をします。
現代の古紙リサイクルの常識からすると、食品で汚れた紙や、油やペンキで汚れた紙、血のついた紙はもちろん、水に濡れた紙全体が、製紙工場で禁忌品とされるものです。
リサイクル産業の中でも、古紙リサイクルの現場は特にキレイですから、ハニチャの作業風景にはびっくりさせられました。
ハニチャの作業風景では、明らかにリサイクル不可能ですので、大変リアルに描かれていますが、全て作者フラバルの虚構である可能性があります。
あえて虚構の作業風景を描いたとすると、ハニチャの作業風景をグロテスクに、よりグロテスクに描き出すことに、作者の意図があったように思えるのです。

ハニチャは、小さなプレスで故紙を圧縮して紙塊を作るという単純な作業に、独特のこだわりを持って向き合い、手間と時間をかけて作業し、こだわりの紙塊を作ることに喜びを見出しています。
レンブラントの「夜警」や、マネの「草上の昼食」、ピカソの「ゲルニカ」で側面を飾り、心臓部にはゲーテの『ファウスト』や、ヘルダーリンの『ヒュペーリオン』、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を入れて、紙塊を作ります。
ハニチャは、紙塊を作る作業は「美しい創作になる仕事」であり、自分は自分にとって「芸術家であると同時に観客でもある」と言います。
ハニチャが「僕のミサ、僕の儀式」と言うように、彼の紙塊に対するこだわりは、名高い巨匠たちの複製画や、ドイツを代表する文学・哲学の<死>を悼み、手厚く<埋葬>する儀式として理解できます。
母や叔父についても、<死>と<埋葬>というテーマが共通して描かれています。
母が火葬され、遺骨を手回し臼でこなごなに砕かれる場面は、プレスによる故紙や本の圧縮を連想させますし、とっておきの美しい紙塊を作るように、叔父が生前大切にしたもので叔父の棺を飾ります。
ネズミが巣食い、蝿が飛び、湿って黴臭い地下室というグロテスクさと対照的に、ハニチャの紙塊作りは、美しく神聖ですらあります。
「きれいはきたない、きたないはきれい」という、シェイクスピアの『マクベス』の言葉を思い起こしますね。

◆◆◆

第4章では、醜悪さと神聖さが同時に描かれるという、この物語の特徴が、最も強烈に表現されています。
食肉公社の血まみれの紙が運ばれ、地下室には肉蝿が飛び回り、ハニチャは大量に飲酒をしながら、血まみれで紙塊を作ります。
アルコールの影響か、作業をするハニチャには、イエスと老子の幻が見えるのです。
血と蝿と、イエスと老子という組み合わせの強烈さ、混沌さにはくらくらしますね。

だから今日、僕の地下室に、僕の好きな二人の人物が来ても、別に驚かなかったし、二人が並んで立っていたので、どちらがどれくらいの年かということが、二人の思想を知るためにすごく重要だということに、初めて気づいた。そして、蝿たちが狂ったように踊って唸り、僕が作業衣を湿った血で濡らして、緑のボタンと赤のボタンを交互に押している間にも、イエスは絶えず丘の上に上って行き、一方、老子はもう頂上に立っているのが見えた。(48-49頁、第4章)

ハニチャが見た幻の中で、イエスと老子は、とても対照的な人物として描き出されています。

<イエス>
  • 絶えず丘に上って行く
  • 義憤に駆られた若者は世界を変えようとしている
  • 奇跡に向かう現実を祈りで呪っている
  • 若い男やきれいな娘たちの集団の真ん中で始終義憤に駆られている
  • 楽天的な螺旋
  • いつも葛藤とドラマに満ちた状況の中にいる

<老子>
  • もう頂上に立っている
  • 諦念に満ちたように周りを眺めて、原初への回帰によって自らの永遠を裏打ちしている
  • 「道」を通って自然の理法に従い、ただそのようにしてのみ博学な無知に至る
  • まったく独りで、威厳のある墓を探し求めている
  • 出口のない環
  • 静かな瞑想の中で、矛盾に満ちた道徳的状況の解決しがたさについて思いをめぐらせている

イエスを義憤に駆られる若者、老子を諦念に至った老人として描かれいますが、イエスと老子=<若者>と<老人>の優劣比較として解釈するのは間違いだろうと思います。
イエスと老子について、ハニチャはあらかじめ「僕の好きな二人の人物」と前置きしており、ハニチャがイエスと老子のどちらにも共感していることが分かります。
グロテスクさと神聖さが同時に存在することと、若々しさと老人の諦念が同時に存在することはつながっており、この物語の注目すべき特徴です。


イエスと老子=<若者>と<老人>と同じ対比が、第8章でも登場します。
ハニチャはイグナティウス・デ・ロヨラ教会を見て、「陸上選手みたいに躍動感にあふれている」カトリックの像たちと、「車椅子に麻痺したように座っている」チェコ文学の大家たちの像を見ます。

僕は、人間の体は砂時計なのだと思う―下にあるものは上にもあり、上にあるものは下にもある。それは、上下に重ね合わされた二つの三角形であり、ソロモンの印であり、ソロモン王の青春の書『雅歌』と、「空の空」という老君主としての彼のまなざしの結果である『伝道の書』との釣り合いだ。(126頁、第8章)

8章では、一人の人間の中に若さと老いが同時に存在することを、「砂時計」と「ソロモンの印」に喩えて説明しています。
上下に重ね合わされた二つの三角形である「ソロモンの印」は、「ダビデの星」と呼べば、すぐに六芒星(ヘキサグラム)をイメージ出来るでしょう。
この図形は、上下逆さまにしても同じであるため、<上>と<下>は相対的な概念になります。

若者の歌
恋人よ、あなたは美しい。
あなたは美しく、その目は鳩のよう。

おとめの歌
恋しい人、美しいのはあなた
わたしの喜び
わたしたちの寝床は緑の茂み。
レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。(「雅歌」1章15節-17節、新共同訳)

旧約聖書の『雅歌』は、若い男性と女性の間で交わされた、愛の相聞歌集です。
1章1節に「ソロモンの雅歌」と記されているため、ソロモン王が実際に書いたかどうかは別として、ハニチャが「ソロモン王の青春の書」と言うことは頷けます。
『雅歌』は、花婿役と花嫁役の歌と合唱が交互に進行し、オラトリオや教会カンタータのようです。
結婚へのあこがれや期待、夢、花嫁への礼讃、花嫁の舞踏、そして相思相愛が歌われ、若々しく幸福感にあふれています。

コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることはなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。(「コヘレトの言葉」1章2節-7節、新共同訳)

ハニチャの言う『伝道の書』は、旧約聖書の『コヘレトの言葉』を指します。
実際には、ソロモン王よりもずっと後の時代に書かれたものらしいと考えられていますが、1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と記されているため、ハニチャが『コヘレトの言葉』を老ソロモン王が書いたと言うのも分かります。
コヘレトは、「伝道」や「伝道者」という意味の言葉で、この当時の「伝道者」とは「会衆に向かって人生哲学を説く人」といった意味で、キリスト教の伝道や伝道者といった意味とは異なります。
『コヘレトの言葉』は、「すべては空しい」という虚無思想と、それに耐えようと努力する自問自答が記されています。

ハニチャは、上は下に、下は上になる「砂時計」や「ソロモンの印」のように、若さあふれる『雅歌』も、すべてが空しい『コヘレトの言葉』も、どちらもソロモン王その人の中で同時に存在し、釣り合っているのだと言いたいのでしょう。
この物語全体で、老いたハニチャの現在と、若かりし頃の回想が、交互に断片的に描かれていることも、ハニチャ自身が「砂時計」であり「ソロモンの印」であることを表現しているように思えます。

こうした思想を持ちながら、現実には、「社会主義労働班」の若者たちの登場によって、老いたハニチャは35年間勤めた故紙を潰す仕事から追われ、ついに自殺を選んでしまう結末が、なんとも皮肉ですね。

◆◆◆

この物語を通して、「プラハの春」が挫折した後の、「正常化」と呼ばれるバックラッシュの時代に、検閲と言論統制がどれだけ厳しかったかが、よく分かります。

でも、僕が一番感銘を受けたのは、クマネズミとドブネズミがちょうど人間と同じように全面戦争を行って、その一つの戦争はもうクマネズミの完勝に終わったという、学問的知見だった。けれども、クマネズミはすぐに二つのグループ、二つのクマネズミ党派、二つの組織されたネズミ社会に分裂して、ちょうど今、プラハの下のあらゆる下水道、あらゆる排水溝で、生死を賭けた熾烈な戦いが行われている―どちらが勝者になり、したがって、傾斜下水道を通ってポドババに流れ込むあらゆるゴミと汚物への権利をどちらが獲得するかをめぐる、大クマネズミ戦争が行われているんだ。(34頁、第3章)

35年間故紙を潰し、自分の仕事に誇りと生きがいを持っているハニチャは、『狙われたキツネ』の主人公アディーナのように、秘密警察から監視されたり、命を脅かされたりすることはありません。
しかし、この物語の中には、政治的メッセージが随所に盛り込まれています。
クマネズミとドブネズミの戦争はクマネズミの勝利で終わったが、すぐにクマネズミは内部分裂して、現在は大クマネズミ戦争の真っ最中であるというエピソードは、そのまま読んでも面白いですが、明らかに寓話として読めますよね。
共産党をクマネズミ、民主党、人民党などの反共勢力をドブネズミに見立て、共産党と反共勢力の全面戦争は、1948年のクーデターが失敗して、共産党の完勝に終わったが、共産党内部でも保守派と改革派に分裂し、1968年の「プラハの春」から、「正常化体制」の現在まで、生死を賭けた熾烈な戦いが行われている、というイメージでしょう。



チェコスロヴァキアとボフミル・フラバル


フラバルは、1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったチェコに生まれます。
1914年と言えば、ハプスブルク家の皇位継承者フランツ・フェルディナンドがセルビアで暗殺されたことを発端に、ヨーロッパが第一次世界大戦に突入した年です。
第一次大戦の激動と混乱のさなか、1918年に新国家チェコスロヴァキアは産声をあげます。
チェコスロヴァキアの民族構成は複雑で、1931年の統計によると、チェコ人とスロヴァキア人は両方で「チェコスロヴァキア民族」を構成するという建前になっており、チェコ・スロヴァキア人が66.9%、ドイツ人が22.3%、ハンガリー人が4.8%、ウクライナ人・ロシア人が3.8%、ユダヤ人が1.3%、ポーランド人が0.6%でした。
1930年代に、世界恐慌の影響がチェコスロヴァキアにも及び、特に軽工業が盛んなドイツ人地域が打撃を受けます。
ドイツ系住民が多数を占めるズデーテン地方では、チェコスロヴァキアからの分離独立を求めるズデーテン・ドイツ党(ズデーテン・ドイツ郷土戦線)が支持を広げ、1938年3月にオーストリアを併合したヒトラーは、9月にはズデーテン地方の割譲を要求し、10月にドイツ軍がズデーテン地方に侵攻しました。
1939年にはスロヴァキアはドイツの保護国となり、チェコはドイツの保護領として占領下に置かれ、チェコスロヴァキア共和国は消滅し、第二次世界大戦を経験することなります。
この年、フラバルは25歳です。

占領下のチェコでは、一切の政治的自由は奪われ、チェコのユダヤ人はもっとも悲惨な運命に見舞われ、チェコとスロヴァキア合わせて約27万人のユダヤ人が犠牲になったと言われています。
ロマもまた絶滅政策の対象となって、過酷な運命に見舞われました。
そして1945年、ドイツ軍はチェコとスロヴァキアの領土から、ソ連軍をはじめとする連合軍によって撃退され、5月には首都プラハがソ連軍の手によって解放されたのでした。
この年、フラバルは31歳です。

復活したチェコスロヴァキア共和国内では、ズデーテン・ドイツ人の存在自体が共和国解体の原因であるとみなされ、ドイツ系住民に対する報復行為が始まり、大統領令で正式にドイツ系住民の財産没収や権利の制限が行われ、組織的な強制移住が進められた結果、約300万人のドイツ系住民が追放され、ドイツやオーストリアに難民として移りました。
チェコスロヴァキアでは、長い間、この問題にふれること自体がタブーとされてきましたが、フラバルが結婚したエリシュカ・プレヴォヴァー(1926年~1987年)という女性は、国内に残った数少ないドイツ系住民の一人であり、フラバルはマイノリティである妻の視点を通して、チェコとチェコ人を見ることが出来たと言われています。

政治的には、チェコスロヴァキアは戦前の民主主義体制が復活し、1946年に総選挙が行われて、共産党が第1党となります。
1948年2月に、国民社会党、民主党、人民党が協力して、共産党党首ゴットヴァルトを首相とする内閣を倒そうとしましたが、失敗します。
その後、共産党による一党独裁体制が急速に形成され、6月にゴットヴァルトが大統領となり、チェコスロヴァキアは事実上、社会主義共和国となりました。
東西の冷戦が緊張の度を増すなかで、チェコスロヴァキアではソ連のスターリン体制にならった抑圧的な政治が行われました。
1953年にソ連でスターリンが死去し、フルシチョフによるスターリン批判が行われ、ハンガリーやポーランドなど東欧諸国で体制批判の運動が起こったときも、チェコスロヴァキアでは大きな動きはありませんでした。

しかし1960年代に入り、西側諸国との経済的格差が明らかになり、生活水準の低下が目立ち始めると、チェコスロヴァキアの共産党内部にも、これまでの路線を見直し、社会主義建設をやり直すべきだとの議論が高まります。
1968年1月にアレクサンデル・ドゥプチェクが第一書記に任命されたときから、「人間の顔をした社会主義」をスローガンに、検閲の廃止、旅行の規制緩和、市場原理導入の方針が決められ、改革の動きが急速に進みました。
後に「プラハの春」と呼ばれる1968年の改革に対して、ソ連政府はチェコスロヴァキアが東側陣営から離脱するのではないかとの懸念を強め、軍事介入に踏み切ります。
同年8月、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構5ヵ国の軍が、突如チェコスロヴァキア領内に侵攻し、進駐する戦車と抗議する群衆の衝突で、国内は大混乱に陥ります。
こうしてチェコスロヴァキアの大胆な試み「プラハの春」は挫折し、改革派の共産党指導部は排除され、全党員の三分の一にあたる約50万人が党から追放されました。
そして、「正常化」と呼ばれる極端に保守的な体制が訪れるのです。
この年、フラバルは54歳。

「正常化体制」は、経済的には停滞し、政治・社会的な自由も制限された重苦しい時代でしたが、政府の政策に異議を唱えない限り、国民には一定程度の生活が保障されていました。
社会主義政権によって、各都市に次々と集合住宅が建てられ、人々はそこに住居をあてがわれて、職場との往復をする毎日を過ごします。
スーパーマーケットの品揃えは貧弱で、品質も満足ではなく、サービス部門の劣悪さには定評があり、能率が悪い、応対が不親切などの不満は並べればきりがなかったと言います。
夏になれば、1~2週間の休暇をとって、山岳地帯の保養施設などでくつろぎ、人によっては同じ社会主義国のユーゴスラヴィアかブルガリアなどの海岸にある保養地に旅行することも出来、これが最高のぜいたくとみなされていました。
人々は、こうした暮らしに対し、一種のあきらめと、これもそれほど悪いものではない、という気持ちを半々に抱きながら暮らしていたようです。
もちろん、いつまでこの体制が続くかについては、一切口にしないという暗黙の了解も成り立っていました。
この政治的な無関心が社会を覆う中で、一部の知識人たちは、人権擁護運動というかたちの異議申し立てを続け、1977年からは人権運動「憲章77」を開始します。
「憲章77」の発起人のひとりである劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルは、何度も投獄されながら、運動の中心となって活動しました。

ソ連で始まったペレストロイカ政策は、チェコスロバキアにとっても転機となります。
1989年11月、プラハの学生たちは長年の抑圧に対する抗議の声をあげ、政府を批判するデモが連日繰り返され、政府はついに屈しました。
共産党は一党独裁体制を放棄し、12月には民主化運動の指導者であったヴァーツラフ・ハヴェルが大統領に選ばれます。この革命が、暴力を伴わずに成功した、いわゆる「ビロード革命」です。
この年、フラバルはすでに75歳。
検閲が厳しいために、フラバルは地下出版や亡命出版社から作品を発表していましたが、「ビロード革命」による検閲廃止の後、フラバルの作品はどっと出版され、全19巻のフラバル全集も出版されました。
新しい共和国は、政治的・社会的自由を保証し、早期に市場原理を導入して経済立て直しを目指しますが、大きな問題がたちはだかります。
急激な市場経済化を進めたいチェコ側と、穏健な改革を求めるスロヴァキア側との対立、さらにスロヴァキア側の民族的主張が強まり、主権国家を求める声が一気に噴出します。
1993年1月、ついにチェコとスロヴァキアは正式に分離し、「チェコスロヴァキア」は世界地図上から静かに消えていったのです。
そして1997年、いくつもの激動や大転換を経験したフラバルは、82歳で亡くなりました。


参考:薩摩秀登『図説 チェコとスロヴァキア』(河出書房新社、2006年)
林忠行『粛清の嵐と「プラハの春」 チェコとスロヴァキアの40年』(岩波ブックレット、1991年)



読了日:2013年6月23日