2018/05/28

藤木稟「バチカン奇跡調査官 ジェヴォーダンの鐘」

バチカン奇跡調査官 ジェヴォーダンの鐘
  • 発売元: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/4/11

藤木稟『バチカン奇跡調査官 ジェヴォーダンの鐘』(KADOKAWA、2018年)を読みました。
「バチカン奇跡調査官」は、ローマ教皇庁の列聖省に所属する二人の主人公、平賀・ヨゼフ・庚とロベルト・ニコラスが、世界中のさまざまな「奇跡」申請を調査し、本当に神の奇跡なのか、自然現象なのか、人の手による偽奇跡なのかを解き明かしていく物語です。
2018年5月現在、長編14巻、短編集3巻が刊行されており、アニメ化、漫画化も行われている人気作品です。
「バチカン奇跡調査官」シリーズの中で、「奇跡」と「信仰」をテーマとした作品としては、短編集2巻に収録されている『シンフォニア 天使の囁き』が、わたしの最も好きな作品です。

この『ジェヴォーダンの鐘』は、2018年4月に刊行された、シリーズ最新作です。
本作では、聖母崇敬の篤いフランスの山村を舞台に、舌の無い鐘が鳴り、青い鳥が聖歌を歌い、全盲の少女の目が癒された「奇跡」が起こります。
少女が突然全盲になった不幸な事件と、その目が癒された出来事を通して、「奇跡」とは何か、を深く考えさせられました。
「バチカン奇跡調査官」シリーズの中でも、本作は「奇跡の意味」を描いた作品として、非常に良作であり、とても感動しました。

【目次】
1.奇跡物語の意味 ←ネタバレ注意
2.カタリ派の思想と女性聖者崇拝 ←ネタバレのない考察
(1)カタリ派の思想的起源とは?
(2)カタリ派の二元論
(3)聖マドレーヌ信仰の流行
(4)女性聖者崇拝の急速な拡大と発展
最後に

1.奇跡物語の意味


『ジェヴォーダンの鐘』は、フランスのロゼール県にある小村、セレ村を舞台としています。
物語の舞台であるセレ村は、村人が山の洞穴で聖母マリアを見たという古い伝承があり、聖母が出現した山の洞穴に、礼拝堂が建てられ、聖母像が祀られています。
セレ村は架空の地名だと思いますが、巡礼地ル・ピュイ=アン=ヴレと司教都市マンドの間、かつてのジェヴォーダン伯領内に位置する設定です。

セレ村へ向かう主人公たちが、ル・ピュイ=アン=ヴレを通って、二つの奇岩と、その上に建てられた聖母子像と礼拝堂を目にしますが、これは実在する史跡です。
ル・ピュイ=アン=ヴレには、コルネイユ岩山とサン・ミッシェル岩山という二つの奇岩が聳え、その上にサン・ミシェル=デギュイユ礼拝堂、ノートルダム・ド・フランスの像が建てられています。
フランスからスペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の一つとして、「ル・ピュイの道」があり、中世にル・ピュイは巡礼路の拠点として大きく栄えました。
ル・ピュイの大聖堂には、「熱病の石」と呼ばれるドルメン(岩)の一部があります。
ガリア・ローマ時代、この石の上に聖母マリアが出現し、病に苦しむ女性が治癒したという「奇跡」が伝承されています。
かつては、毎年多くの巡礼者が訪れ、この石の上に寝転び、病の治癒を熱心に祈願したことでしょう。

物語にあるセレ村の聖母出現に近いと思われるのが、「ラ・サレットの聖母」(1846年)です。
1846年に、フランスのイゼール県、アルプスの高地で、二人の羊飼いの子供たちが「美しい女性」と遭遇します。
グルノーブル司教によって認定された、聖母出現の聖地ラ・サレットは、標高1800メートルという大自然の中にあります。
物語で描かれているような「聖母出現の奇跡」は、実際に世界中で数多く記録されており、ローマ教皇庁は24の出現地を公認しています。
上述した「ル・ピュイの聖母」(西暦70年と西暦221年)、「ラ・サレットの聖母」も公認されています。


物語において、セレ村は毎年4月末を聖母出現の祝日とし、聖母出現の地である山の礼拝堂で、特別な夜礼拝を行います。
山の礼拝堂には舌の無い鐘があり、「この鐘が鳴ると奇跡が起こる」という言い伝えがありました。
そのため、神父と村の聖歌隊に同行して、病や悩みに苦しむ村人たちが山の礼拝堂に参拝し、聖母子像に祈願しました。
その年、山の礼拝堂を訪れたのは、全盲の少女ファンターヌとその母親です。
ファンターヌと母親が、目の治癒を願って祈りを捧げている時、礼拝堂は眩い光に包まれ、舌の無い鐘が鳴ったのです。
伝説の鐘が鳴った奇跡に感動し、聖歌隊が聖母を賛美する聖歌を歌っていると、聖母子像に美しい青い鳥が舞い降りました。
青い鳥は、聖歌を口ずさみ、「人の子よ、今この時、貴方がたの罪の全てが贖われました」と告げます。
セレ村では、青い鳥は聖母の化身である、と伝えられてきたため、目撃者たちは聖母が福音を告げた、と確信します。
そして、全盲の少女ファンターヌの目が癒される奇跡が起こったのです。

※ネタバレ注意※

このセレ村で起こった奇跡譚は、次の三つの現象に分けられます。

①夜であるのに光に包まれ、舌の無い鐘が鳴る
②青い鳥が聖歌を歌い、福音を告げる
③ファンターヌの目が治癒する

主人公の平賀とロベルトは、この奇跡を調査するため、セレ村を訪れます。
科学者である平賀は、山の礼拝堂と舌の無い鐘、聖母子像、礼拝堂周辺の森などを自分で歩いて観察し、舌の無い鐘を鳴らす実験を行うなど、科学的な手法で上記①と②を解き明かします。
一方、古文書学者であり、語学堪能なロベルト・ニコラスは、奇跡の当事者であるファンターヌや、目撃者である神父や聖歌隊員たちから聞き取り調査し、上記③について明らかにするのです。

ファンターヌを診察した病院の診断書や聞き取り調査から、ファンターヌが生まれつきの視覚障碍者ではなく、この奇跡の三年前に、何らかの原因で失明したことが分かります。
ロベルトは、ファンターヌの失明の原因に注目し、三年前にセレ村で起こった事件を調査します。
ファンターヌの失明の原因が明らかになれば、視力が回復した奇跡を解き明かすことにつながります。

三年前、当時12歳のファンターヌを襲った突然の失明は、本人や家族にとって、原因不明の出来事でした。
同じ時期、同じ村の青年で、当時19歳のマティアスが山のふもとの森へ行ったきり、行方不明となっていました。
マティアスと同行して森へ行った、村の青年ブライアンは、マティアスと別れた後、森の中でぐったりしているファンターヌを保護します。
ブライアンに保護され、帰宅したファンターヌは、失明していました。
その後、村人たちが森の中を捜索しますが、マティアスは発見されませんでした。

実はブライアンは、マティアスが失踪した原因に心当たりがありましたが、警察にも家族にも言わずにいました。
しかし、バチカンから訪れた神父であるロベルトに、ブライアンは心を開き、失踪事件について重要な証言をします。
ブライアンの証言では、事件当日、ファンターヌは森の中を一人で散策しており、マティアスはそのファンターヌを暴行する目的で、追いかけていたのです。
ブライアンの証言を聞いて、ロベルトは平賀とともに、マティアスが失踪した事件の現場に行きます。
事件の手がかりを探して、森の中を捜索していた二人は、偶然にも洞窟の中でマティアスの遺体を発見します。
マティアスの遺体は埋葬途中であり、その遺体の近くに、5歳児程度の子供の遺体が横たわっていました。
二人の遺体は白骨化しており、死後数年経過しています。

ファンターヌは幼い頃、森の中で迷子になり、優しい精霊に助けられ、精霊と友人になりました。
ファンターヌは森の精霊をベートと呼び、一緒に遊びましたが、出会って数年経ち、彼女が成長しても、ベートは出会った頃と同じ身長のままでした。
村の子供たちは、ファンターヌをからかったり、いじめたりしますが、精霊ベートは小さくても大人びていて、彼女にとても優しく接してくれます。
ファンターヌはそんな精霊ベートを大好きでしたが、目が治癒して、再び森を訪れた彼女の前に、ベートは現れませんでした。

ロベルトは、ファンターヌが語ってくれた、ベートとのおとぎ話のような思い出を思い起こして、洞窟内で発見した子供の遺体はベートであると確信します。
ベートの正体は、山の所有者である大地主シュヴィニ家の長男アンドレで、先天的な成長ホルモン分泌不全の障碍を持っていました。
ファンターヌが森の中でベート、すなわちアンドレと初めて出会ったのは、彼が15歳の時でした。
アンドレは5歳児のような外見でしたが、内面は年齢にふさわしく成長していたため、ファンターヌは彼に心惹かれたのでしょう。
事件当時、ファンターヌは12歳、アンドレは18歳でした。
シュヴィニ家では、三年前からアンドレが行方不明になっていたのです。

平賀は、マティアスの遺体の傷と、アンドレの遺体の状況から、三年前の事件の真相を次のように推測します。
アンドレと会うため、森の中を歩いていたファンターヌは、マティアスに襲われます。
ファンターヌは必死に抵抗し、マティアスは打ち所が悪く、死んでしまった。
待ち合わせ場所に現れたアンドレは、パニック状態の彼女を慰め、髪や服の乱れを整え、全てを忘れるように言い聞かせたことでしょう。
アンドレは、森の中の洞窟に遺体を隠し、事件の発覚を防ぎました。
しかし、マティアスの遺体を運んだことで、アンドレの身体に重い負担がかかり、寝たきりとなります。
アンドレは病床で、ファンターヌが事件後に失明したことを知りました。

ファンターヌは、極度のストレスによって心因性視覚障碍を発症し、事件前後の記憶を失ったのです。
暴行被害を受けた強い恐怖、事故であっても人を殺めてしまった罪の意識、そしてファンターヌが心から慕っていた大切な人に、自分の醜く穢れた姿を見られてしまった、という思いが、彼女をもっとも苦しめ、絶望させたのでしょう。
ストレスにより、身体のどこかに症状が生じる心身症は、ストレス性の胃潰瘍がよく知られていますが、視覚や聴覚など感覚器官に症状があらわれる場合もあります。
心因性視力障碍は、眼球自体には悪い所が無いにもかかわらず、視力が低下し、メガネをかけても視力が矯正されません。
心因性視力障碍を治すためには、ストレスの原因を取り除くことが重要だと言われています。

アンドレは、ファンターヌの心を慰めるため、自分の飼っていた鳥に聖歌と「赦しの言葉」を覚えさせました。
事件から一か月後、アンドレは病床を抜け出し、洞窟内でマティアスの遺体をひそかに埋葬しようとしましたが、疲労骨折と生まれつきの内臓疾患が重なり、埋める過程で命を落としてしまったのです。


平賀の科学調査の結果、セレ村の奇跡①「夜であるのに光に包まれ、舌の無い鐘が鳴る」現象は、小さな隕石の落下によるものであると説明されました。
その夜、礼拝堂を包んだ眩い光は隕石であり、落下の衝撃波によって、舌の無い鐘が鳴ったのです。
そして、ファンターヌが失明した原因、すなわちマティアス失踪事件の真相が明らかになったことにより、奇跡②と③が解き明かされました。
村人たちが聖母マリアの化身と思った美しい青い鳥は、アンドレが育てたオナガであり、その夜偶然にも、山の礼拝堂に飛来し、アンドレが教えた通りに歌を歌い、赦しの言葉を告げました。
これによって、アンドレの生前の願い通り、ファンターヌの目は癒されたのです。

「聖歌をうまく歌った時、坊ちゃまがシブリアンを一層可愛がっていたのを覚えていたのでしょう。
ああ、いつか坊ちゃまとの約束を果たし、ファンターヌ嬢にこの歌声を聞かせてあげられれば良いのですが...。
それが今の私にとって、たった一つの望みです。
坊ちゃまを一人で逝かせてしまった、私の罪の償いとして...。」
エマーヌは悲しげに俯いた。
「エマーヌさん、春祭りの奇跡をご存知ないのですか?」
ロベルトが訊ねる。
「何でしょうか、それは?」
エマーヌは不思議そうに問い返した。
「アンドレさんと貴方の願いは既に叶っていたのです。奇跡は起こったんですよ」
平賀は厳かな声で答えた。(藤木稟『バチカン奇跡調査官 ジェヴォーダンの鐘』、410-411頁)

物語において、このようにセレ村で起こった「奇跡」が解き明かされましたが、この奇跡譚を「奇跡」と受け取るか、「偶然」と受け取るかは、当事者や目撃者たちの心しだいです。
超常現象のように思われても、この物質的世界で起こるわけですから、人の手が介在した人工的現象か、発生確率が非常に低い自然現象として、必ず説明できるのかもしれません。

ファンターヌが山の礼拝堂に参拝した夜に、隕石が落下する確率はどれくらいでしょうか?
逃げ出した青い鳥が、礼拝堂に飛来し、ファンターヌの前で言葉を告げる確率は?
偶然に偶然が重なって起こった、非常に珍しい自然現象であると考えることが出来ますし、その偶然には何らかの「意志」ある、神の見えざる手が働いていると考えることも出来るでしょう。
この自然現象の中に、「神の業」があると感じたからこそ、ファンターヌの目は治癒したと言えます。


新約聖書では、イエスがガリラヤ中を回って、いろいろな病気や苦しみに悩む者たちを癒された出来事が記されています。
癒された人々の中には、てんかんの者、中風の者、重い皮膚病患者、悪霊に取りつかれた者、婦人病の女性、口の利けない者、そして盲人もいます。
マタイによる福音書には、二人の盲人を癒したことが記されています。

イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。(マタイによる福音書、9章27-31節、新共同訳)

二人の盲人たちは、イエスを「主」と信じて、自分からイエスのみもとに近づいたからこそ、癒しの恵みにあずかり、彼らの信仰のとおりになったのです。
イエスによって癒された人々は、どれほど心が慰められたことでしょうか。

中世ヨーロッパでは、キリスト教公認以降、信徒が急増し、数多くの奇跡譚が記録されるようになります。
4世紀末から5世紀初めにかけては、聖者や聖遺物への崇敬が急速に拡大した時期でもあります。
この時代の奇跡譚は、病気治癒が最も多く、蘇生、悪霊憑きの治癒、示現、天災除け、捕囚解放などがあります。
このような奇跡譚は、科学や医療が進歩した現代から見ると、くだらないと思えるかもしれませんが、当時の人々が何に一番苦しみ、何を一番求めたか、奇跡譚を通して知ることが出来るのです。

J.ポールは、奇跡譚について「事実かどうかは問題ではない。体験者が信じていたことが問題」(『西欧の教会と文化』1986年)であると論じています。
わたしたちが今、「マタイによる福音書」における、二人の盲人たちの奇跡譚を読むとき、彼らの目は先天的な視覚障碍だったのか、白内障や緑内障などの眼病で失明したのか、あるいは心身症だったのかは誰にも分かりません。
この二人の目が本当に治癒したのかどうか、事実の真正を確かめることは不可能です。
しかし、当事者である二人の盲人たちが、「目が見えるようになった」と感じていたことは、福音書に記録されているとおりです。
したがって奇跡譚とは、当事者(奇跡体験者)の信仰を証しするものであると、わたしは考えます。



2.カタリ派の思想と女性聖者崇拝


『ジェヴォーダンの鐘』では、中世ヨーロッパ最大の異端と呼ばれたカタリ派について、大きく取り上げています。
物語に描かれたセレ村は、かつてのラングドック州のジェヴォーダン伯領内に位置する設定です。
「ジェヴォーダン」という地名は、作品の表題にも用いられており、この土地の文化や歴史に対する作者のこだわりが感じられます。

南フランスのラングドック地方は、ロマンス語の一つであるオック語を話す地域のことです。
オック語を用いる人々が住む地域は、オクシタニアと呼ばれており、現在のフランス南部からイタリア、スペインの一部が含まれます。
オクシタニア、すなわちオック地方では、12世紀からカタリ派教会が勢力を広げましたが、ローマ教会はカタリ派を異端として危険視し、カタリ派を殲滅するために、アルビジョワ十字軍(1209年~1229年)を起こしました。
アルビジョワ十字軍は、宗教紛争ではなく、オック地方に対する侵略戦争と言うべきものであり、十字軍が勝利した結果、オック地方は、カペー朝フランス王国に併合されました。
ローマ教会が起こしたアルビジョワ十字軍は、フランス王国の南北統一と言う、極めて重大な政治的変化をもたらしたのです。
十字軍に続く異端審問によって、オック地方のカタリ派教徒たちは迫害と消滅の歴史を辿り、最後の一人まで根絶やしにされました。

物語の中では、セレ村はかつてカタリ派信仰が盛んであり、平賀とロベルトが山の洞窟内に残されたカタリ派の痕跡を発見する出来事が描かれています。
南フランスのカタリ派教会は「アルビ派」とも呼ばれており、物語の中では「アルビ派」という呼び名で統一し、記載されています。

「この洞窟を神殿として使っていたのは、キリスト教最大の異端と呼ばれ、中世南フランスを席巻したアルビ派に間違いない。
アルビ派の教えでは、キリストは肉体を持っていない。だから、人の女性から生まれることは決してない。キリストは大いなる主の教えを人間に伝える為、霊体として天から遣わされたと、彼らは考えていた。これはその思想を絵にしたものなんだ」
「アルビ派といいますと、アルビジョワ十字軍で滅ぼされたんですよね」
「そうだとも。十字軍が終わった後も、南フランスでは異端審問官が長年に亘って異端狩りを推し進めた。その為に、アルビ派の信者はたった一人さえ残らず、教義は焚書されて一篇すら残っていないと言われている。それほどまでに徹底的に、容赦なく壊滅し尽くされた、まさに幻の異端派なんだ」(藤木稟『バチカン奇跡調査官 ジェヴォーダンの鐘』、318-319頁)

作中では、古文書学者であるロベルトの台詞として、ユダヤ・キリスト教の起源や、カタリ派の思想について語られます。
ロベルトが語った台詞を要約すると、次のような仮説となります。
  • 古代のメソポタミア神話やシュメール神話、エジプト神話が『旧約聖書』における人類誕生や楽園追放物語に継承された。
  • メソポタミア神話の男神エルと女神アシラトという夫婦神が、『旧約聖書』やイラン神話、インド神話にも影響を与え、エジプト神話の女神イシスとも習合し、ギリシャ・ローマ神話に継承され、キリスト教誕生に影響を与えた。
  • メソポタミアやエジプトの神話を継承したギリシャ・ローマ神話の女神崇拝は、ガリア・ローマ時代にケルトに伝わる豊穣の女神たちと習合し、後のキリスト教受容に影響を与え、キリスト教の聖母崇敬に継承された。
  • ケルトの豊穣の女神と『新約聖書』のマグダラのマリアが習合し、アルビ派はイエス・キリストの後継者としてマグダラのマリアを篤く崇敬した。

以上の仮説は、ロベルトという登場人物を通して、作者が論じている仮説です。
カタリ派が、古代の女神崇拝を継承しており、マグダラのマリアを篤く崇敬していたという仮説は、カタリ派の思想に対する作者独特の解釈であると言えます。

(1)カタリ派の思想的起源とは?


池上俊一は、カタリ派の思想的起源について「ボゴミール派をカタリ派の直接の起源とするのが通説となった」(『ラングドックのカタリ派:新たな視点の確立のために』、1985年)と論じています。
ミシェル・ロクベールは、ボゴミール派は、キリスト教会の東西分裂(1054年)以降、コンスタンティノープル教会およびローマ教会の権威と教義に異議申し立てする、二元論的宗教運動の「もっとも古い形態」であり、「ボゴミル派があちこちに拡散していった」(『異端カタリ派の歴史』、2016年)と論じています。
西暦950年頃、ボゴミルと呼ばれる修道僧が、ブルガリアに二元論的教義を広め始め、その信奉者たちはビザンチン帝国一帯で「ボゴミル派」と呼ばれるようになります。
「ボゴミル」とは、古スラブ語で「神の慈愛にふさわしい」「神に愛された」といった意味であり、教祖ボゴミルの名前をとって、彼の弟子たちをボゴミル派と呼んだと言われています。
ミシェル・ロクベールは、ブルガリアの一部で「ボゴミル」すなわち「神に愛された人々」という二元論的宗教運動が起こり、その土地だけで知られていた無名の指導者が、後に「ボゴミル」と名乗るようになったか、そう呼ばれるようになったのではないか、と推測しています。
ミシェル・ロクベールが紹介するボゴミル派の思想は、要約すると次のような特徴を示しています。

  • ボゴミル派は、「物質世界と肉体の創造は悪魔のなせる業」であると主張し、人類創造を記録した『旧約聖書』に対して、全く価値を認めない。
  • イエス・キリストが聖母マリアから生まれたこと、彼が奇跡を起こしたことを否定する。
  • 十字架や聖遺物、イコンを敬う儀礼習慣を否定し、最後の晩餐を寓話として解釈することによって、聖体の秘跡を無効とする。
  • 婚姻の秘跡、司祭への告白も無効であり、幼児洗礼に対しては特に強く否定する。
  • 水による洗礼をやめ、手とヨハネ福音書を信徒の頭に置いて聖霊を注ぐ独自の洗礼を行い、この按手による洗礼によって「選ばれた人」に昇格し、男女を問わず「選ばれた人」たちが教会の聖務を担う。

ボゴミル派は、イエス・キリストの受肉、贖いとしての受難を否定しますが、彼ら自身は「良きキリスト者」であることを自負していました。
以上のボゴミル派の基本的特徴は、カタリ派の思想・教義の基本構造ときわめて一致していると言えます。
ボゴミル派独自の按手による洗礼は、カタリ派の「コンソラメント」と呼ばれる儀式に相当し、ボゴミル派の信徒たちが受洗後に「選ばれた人」と呼ばれたように、カタリ派の信徒たちはコンソラメントよって「完徳者」ならびに「完徳女」と呼ばれました。
ボゴミル派の歴史は、カタリ派よりも2世紀古く、10世紀中頃にはバルカン半島全体に広がり、11世紀初頭にはエーゲ海沿岸まで広がったと言われています。
カタリ派の二元論的宇宙開闢論や人間論、キリスト論、按手による洗礼の儀式は、上述したボゴミル派と一致しており、カタリ派はボゴミル派の影響を受けたと考える方が自然でしょう。
ミシェル・ロクベールは次のように論じています。

結局のところ、カタリ派は完全にボゴミル派から生まれたのか、それともボゴミル派からの直接的影響なしに、自発的に発生したものなのか、を問うのはあまり意味のあることだとは思われない。カタリ派がボゴミル派から生まれたのではないとしても、両者が多くの本質的な点で一致していることはたしかであり、それゆえカタリ派をボゴミル派のいわば西欧版とみなしても事態を歪曲することにはならないだろう。(ミシェル・ロクベール『異端カタリ派の歴史』、講談社、2016年、80頁)


(2)カタリ派の二元論


上でロベルトの台詞を要約したとおり、『ジェヴォーダンの鐘』ではカタリ派が古代の女神崇拝を継承し、マグダラのマリアをイエス・キリストの後継者として篤く崇敬していた、という説が語られますが、カタリ派の世界観・人間観と豊穣の女神崇拝との間には大きな差異があり、思想的連続性が認められないのではないか、とわたしは考えます。
マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」の記事の中で、古代ギリシャの豊穣を司る女神デメテルについて詳しく検討したとおり、古代の女神崇拝は、自然の季節の循環と人間の生殖の営みを象徴しており、大地の恵みとともに、妊娠・出産による子孫繁栄の恵みを司っています。

一方、カタリ派にとっての現世とは、悪しき創造者すなわち悪魔が闇から創った醜く、暗く、悪意に満ちた世界であり、草木の芽生えや動物の誕生、降雨、雷などの自然現象は悪魔の所業なのです。
この物質的世界=現世とは対照的に、神によって創られた霊的世界=神の国は、飢えも乾きも寒さも暑さもなく、貧富・階級の差もなく、悪や醜い物質性が無い、完全に美しい世界であるとカタリ派は主張しました。
カタリ派の考えでは、人間の魂は、もともと霊的世界に属する清浄な天使でしたが、悪魔の王国である物的世界に引きずり降ろされ、肉体という牢獄に封じ込められ、性欲・貪欲・罪・死という悪徳を備えてしまった囚われの魂です。
囚われの魂は、罪を贖わないままでは、死んでも天国に戻ることはできず、再び現世の人間もしくは動物の肉体に宿って、贖罪が終わるまで何度でも輪廻転生を繰り返すと考えられていました。
そのため、カタリ派の信徒たちは、囚われの魂が悪の世界から解放されることを願い、コンソラメントを受けて「完徳者」ならびに「完徳女」となり、肉食・殺生・生殖を禁じる厳格な禁欲生活を送って徳性を高め、神の恩寵によって帰天することを目指しました。

このように、物的世界を地獄と認識して、霊的世界のみを希求する信仰と、草木の芽吹きや大地の実り、妊娠・出産という生の営みの中に神の業を感じ、豊作や子孫繁栄を神の恵みとして喜び、感謝する信仰とは、世界観・人間観が全く異なると言えます。

『ジェヴォーダンの鐘』における、カタリ派についての記述を読んだ際に、わたしが最も違和感を覚えたのは、このカタリ派の二元論的世界観・人間観について、全く言及していないことです。
作中のロベルトは、「アルビ派は、キリストは肉体のない霊体だと考えた」(358頁)と、カタリ派のキリスト論について語っているにもかかわらず、カタリ派のキリスト論の前提となる二元論的世界観については全く語らないため、非常に不自然に感じました。

そもそも、世界が創造されたのではないと考えれば、カトリックも、カタリ派も、どちらの創造論も誤りであり、どちらが正統か異端かという議論自体、意味を持たないことになります。
二元論の問題を検討する前に、世界が創造されたものである、という考えに立つことが大前提であると言えます。
カトリックもカタリ派も、原初の創造行為が存在した、という考えについては共通しています。
そして、世界が創造されたとするならば、世界を存在に至らしめた原因ないし原理は何なのか? という考察において、カトリックとカタリ派では大きく見解が異なっているのです。
カトリック教会では、よく知られているとおり、神は唯一の創造主であり、「天地の創造主」(『使徒信条』)、「見えるものと見えざるものすべての創造者」(『ニカイア信条』)、すなわち物質的現実世界および精神的世界すべての造り主です。

一方、13世紀イタリアのカタリ派によって書かれた『二原理の書』では、完全である神は、その無限の善性ゆえに、悪をなすことができる存在、すなわち不完全な存在を造り出すことができない、と主張します。
完全にして善なる神は、もろくはかなく腐敗する物質、苦しみ老い死んでいく肉体などを造り出すことができない、と論じます。
苦しみに満ちた物質的世界を生み出したのが、神ではないと考えるならば、神とは別の原因・原理が存在するということになり、このような教義は「二元論」と呼ばれました。

善と悪、物質と精神、魂と肉体、天と地、光と闇、無限と有限、善なる神と悪魔など、互いに相容れない対立概念によって、世界を説明しようとする「二元論」は、カタリ派が出発点ではなく、ギリシャ哲学のプラトンまで遡ります。
ヘーゲルやマルクスも、相対立し、矛盾し合う概念を措定し、両者を乗り越えることによって、哲学を発展させました。
『二原理の書』において、カタリ派は「至高にして真実の神」は、唯一ただひとりであり、「良き創造」の唯一の創造者であると主張します。
この「良き創造」に含まれるのは、純粋に精神的で目に見えないもの、天使や魂です。
目に見える物質的なものはすべて「悪しき創造」によって造られたものであり、人間や動物の肉体は「悪しき創造者」が造った魂の牢獄であると論じたのです。
以上のカタリ派の二元論的世界観の基本的特徴を整理して、わたしは下の図を作成しました。




『ジェヴォーダンの鐘』では、カタリ派の思想と古代の女神崇拝、女性聖者崇拝を結びつけて解釈していたため、作者はカタリ派の二元論的世界観・人間観の説明を、意図的に省いたのではないかと考えられます。
以上のカタリ派の二元論的世界観・人間観に基づいて考えると、作中で語られたような「豊穣や多産や癒しの力、蘇りの力」をカタリ派が重視したとは考えられず、「女性的側面を重視したアルビ派」(362頁)とは言えないでしょう。
上述したカタリ派の思想は、古代の女神崇拝よりも、むしろ仏教と類似しているのではないか、とわたしは感じます。
現世を地獄と考え、罪のある魂は輪廻転生を何度も繰り返し、徳を積んで罪を贖い、輪廻から解放されることを目指すという、カタリ派の信仰の基本構造は、上座仏教の構造とよく似ています。
カタリ派の「完徳者」や「完徳女」と、上座仏教の「出家者」は、厳しい禁欲生活を送り、自己救済を目指すという、信仰実践も似ていると言えます。

カタリ派の一般的な信徒たちは、この世界はあまりに多くの悪がはびこっており、苦しみで満たされていると、日々実感していたからこそ、そんな世界は「神さま」の被造物ではありえない、という説教師の言葉を聞いて、素朴に納得したのかもしれません。
現代では、当時のカタリ派教会の数百人の男女「完徳者」たち、数万人の信徒たちの名前の記録が発見されています。
カタリ派の一般信徒の大多数は、自分で『旧約聖書』や『新約聖書』を読むことが出来なかったのであり、カトリックとカタリ派の神学を比較し、精査した上で、自らの信仰を選んでいたわけではないのです。
12世紀のオック地方の人々が、カタリ派の思想を受容した背景として、階級制社会や貧困、病気、内戦などに苦しみ、生きる不安や死への恐怖を常に感じていたため、死後の魂の救済を強く求めた可能性が考えられます。

カトリック教会は、カタリ派を異端とし、十字軍と異端審問という暴力的な手段で迫害し、消滅させました。
カタリ派の消滅によって、オック地方の人々の心には、大きな空洞が生じたことは言うまでもないでしょう。
そのため、カトリック教会は、フランシスコ会、ドミニコ会などの托鉢修道会の僧院を、この地方に次々と建てることによって、人々の精神的空洞を埋めたのです。
「完徳者」や「完徳女」たちが実践した厳格な禁欲生活と同じように、カトリックの「修道士」や「修道女」たちが清貧・貞潔・自己放棄・労働と祈りの生活を送ることで、一般信徒たちが希求する、福音的生活を実践したと言えます。

もし、カタリ派が滅びず、中世からルネサンス、近代まで存続していたとすれば、人々の暮らしが豊かになり、安定していくにつれて、カタリ派の現世否定的な世界観・人間観は、しだいに共感を失い、ゆるやかに衰退していったのではないでしょうか。
ミシェル・ロクベールによれば、オック地方やイタリアのカタリ派教会が消滅した後も、ボスニアでは二元論的キリスト教派が生き残っていました
ボゴミル派の影響を受けたと考えられているボスニア教会は、ローマ=カトリック教会とギリシア正教会の両方から異端とされましたが、15世紀の中頃にオスマン帝国に併合されるまで、自分たちの信仰を守り続けていたのです。
強大なオスマン帝国に支配されてからは、なかば強制的にイスラム教徒に改宗しました。
彼らの遠い子孫たちである南スラブ系の人々は、現在はボシュニャク人と呼ばれています。



(3)聖マドレーヌ信仰の流行


また、『ジェヴォーダンの鐘』における、カタリ派がマグダラのマリアをイエス・キリストの後継者として篤く崇敬していたという説についても、わたしは疑問に感じます。
上述したとおり、カタリ派は肉体を悪しき被造物、魂の牢獄として認識したため、イエス・キリストが人間の女性から肉体を持って生まれたことを否定し、人類の罪を贖う受難も、肉体の復活も寓話であるとして、否定しました。
カタリ派にとって、イエス・キリストは悪しき肉体を持たない霊的な存在であり、囚われの魂を救うために地上に遣わされた、特別な天使なのです。
このようにイエス・キリストの人性を否認し、神性のみを認める教義にあって、不浄で悪しき肉体を持った人間であるマグダラのマリアをとりわけ崇敬するでしょうか?

カタリ派の前身であるボゴミル派は、キリストが起こした奇跡を否定し、十字架や聖遺物を敬うことを否定しています。
奇跡と聖者信仰は密接に結びついており、聖者たちの聖なる遺骸の一部、骨や髪などが聖遺物として敬われ、人々は奇跡を待望しました。
しかし、人間の肉体を、悪魔によって創られた不浄で悪しき被造物と考えるならば、遺骸を聖なるものと見なすことは不合理であり、遺骸の一部が奇跡を起こすなど妄言であるため、聖者・聖遺物信仰は否認されることでしょう。

前項「奇跡物語の意味」で述べたとおり、中世のヨーロッパでは聖者信仰が急速に拡大しました。
マグダラのマリアは聖マドレーヌと呼ばれ、聖母マリア、聖マルタとともに、中世の西ヨーロッパ全体で篤く崇敬されたことは事実です。
この女性聖者信仰の大流行と、カタリ派の思想・教義とは全く別の問題であり、分けて議論するべきであるとわたしは考えます。

聖マドレーヌ(マグダラのマリア)は、12世紀に西ヨーロッパでにわかに信仰が高まった、西欧的かつ中世的な聖者です。
『新約聖書』において、四つの福音書の中でマドレーヌは何度も登場し、それぞれ少しずつ違ったバリアントで伝承されています。

マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ福音書12章3節、新共同訳)

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。(ヨハネ福音書11章1-2節)

すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(ルカ福音書8章1-3節)

イエスの死に際して「大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」(マタイ福音書27章55-56節)

イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。(マルコ福音書16章9節)

マグダラのマリアは、イエスの死と復活に立ち会った女性の一人であり、復活したイエスは最初にマリアに現れました。
イエスの生涯において、何度も登場するこの女性が果たして同一人物なのかは、定かではないと言われています。
ギリシャの神学では伝統的に、マグダラのマリアとベタニアのマリア(香油を塗った女性)を別人と考える説が支持を集めていました。
ローマ教会では、大法王グレゴリウス1世が「ルカが罪ある女と呼び、ヨハネがマリアと呼びし女は同一人である。七つの悪鬼よ解き放たれし女であることは、マルコが証した」と断定して以来、同一人観が定着しました。
したがって、西欧と東欧ではマグダラのマリアの評価が異なり、東欧ではあまり崇敬されなかったため、聖マドレーヌは西欧的な聖者であると言われています。

フランス中部ブルゴーニュ地方の巡礼都市ヴェズレーに位置する、サント・マドレーヌ・バジリカ聖堂は、マドレーヌ信仰の中心地であり、中世ではサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の一つとして巡礼者たちが押し寄せました。
9世紀に創建された当初は、救世主と聖母(ノートル・ダム)に捧げられた聖堂であり、マドレーヌとは無関係でした。
11世紀前半に、この聖堂に聖マドレーヌの遺骸があると信じられるようになり、衰亡の危機にあったヴェズレー僧院は、新しい聖者崇拝すなわちマドレーヌ信仰によって復興したのです。
ヴェズレー僧院は、『聖女マドレーヌ奇蹟の書』や、マドレーヌの遺骸がなぜローマ帝国支配下のパレスチナから、ヴェズレーにもたらされたのかを説明する物語を巧妙に宣伝することによって、聖女の遺骸が真正であることを証明しました。
マドレーヌの遺骸の移葬にまつわる物語は、捏造の上に捏造を重ねたものであり、1279年にマドレーヌの遺骸がプロヴァンスのサン・マクシマン教会で出現したことで、ヴェズレー僧院の人気は凋落し、13世紀末以降はプロヴァンスがマドレーヌ信仰の聖地として栄えるのです。

渡邊昌美は、西欧でマドレーヌ信仰が急速に広がった背景について、宣伝の巧妙さだけでなく、次のような理由があると推察しています。

しかし一面では、彼女が隠遁、苦行、贖罪という敬虔実践の象徴となっていた事情も見逃せません。山野に逃れた隠者には庵室を聖女マドレーヌの保護に委ねる者が多かったと申します。先ほど見ました『歌』でも、アルデンヌの森で隠者が聖女に祈っておりました。『聖女マリ・マドレーヌの隠遁生活』という苦行譚が十二世紀に流行しますが、その結果人々は聖女が苦行した洞窟などという「史蹟」を求めるようになります。(渡邊昌美『中世の奇蹟と幻想』、岩波書店、1989年、154頁)

渡邊は、聖母崇拝をはじめとする女性聖者信仰が高まった中世の時代に、「聖女マドレーヌはもっとも人気のあった聖者の一人」であったと論じています。
『ジェヴォーダンの鐘』では、ロベルトが「アルビ派はただ、ペテロよりマリアを信じた」と語っていますが、そもそも女性聖者信仰はローマ=カトリック教会の信徒たちの間で急速かつ大規模に拡大した現象であり、カタリ派の思想・教義と女性聖者信仰の流行とは無関係であると言えるでしょう。
カタリ派において、コンソラメントは洗礼と同時に叙階の役割を果たしており、コンソラメントを受けた「完徳者」や「完徳女」たちは、厳格な禁欲に従って生活しました。
一方、カタリ派の一般信徒たちは、結婚して子供を作り、肉を食べるなど、ローマ教会の一般信徒と変わらない生活であったことから、聖者や聖遺物を崇敬していたかもしれません。

渡邊は「聖者と奇蹟と聖遺物の三つは切っても切れない関係」であると論じています。
16世紀以降、宗教改革を経て成立したプロテスタント教会では、カトリックが公認する聖者崇拝や聖遺物崇拝に対して批判し、聖者や聖遺物を否認しました。
ヴェズレーの聖マドレーヌの遺骸が真正か偽物か、聖者崇拝や聖遺物崇拝を公認するか否認するかに関係なく、『新約聖書』に記されているマグダラのマリアの行いは、マリアの信仰を証ししていると言えます。
マグダラのマリアは「聖者」ではないと考えたとしても、「敬虔実践の象徴」として、尊敬できる一人の女性信徒であることは変わらないでしょう。



(4)女性聖者崇拝の急速な拡大と発展


『ジェヴォーダンの鐘』の中では、「聖マルタの怪獣タラスク退治」の伝説についても語られています。
ヴェズレーにおけるマドレーヌ信仰の成功は、彼女の姉妹マルタと兄弟ラザロにまつわる、新しい聖遺物と聖地を生み出しました。
十二世紀、オータン司教座大聖堂は、マドレーヌの兄弟ラザロの遺骨があると主張し、人々から信じられるようになります。
ここも、本来は聖ナゼールに捧げられた聖堂でしたが、ヴェズレーのマドレーヌ信仰の高揚を受けて、ラザロの遺骨が出現したのです。
なぜラザロの遺骨がオータンにあるのかは、ヴェズレーにマドレーヌの遺骨があるのだから、近くに兄弟の遺骨があっても不思議ではないと受け容れられました。

プロヴァンスのタラスコンという町では、1187年に聖女マルタの遺骸が発見され、1197年にはサント・マルト寺院が創建されました。
遺骸発見より少し前に、『聖女マルタ伝』(12世紀中頃)が成立したと言われています。
『聖女マルタ伝』は、マルタの従者マルセルがヘブライ語で書いた本が発見され、それをラテン語に翻訳したものという体裁の聖者伝ですが、現代では贋作であることが分かっています。
聖女マルタ信仰は、この土地にもともと語り継がれていた、キリスト教改宗以前の神話と習合したと言えます。
この地に来たマルタは、怪獣タラスクを退治して、地域の大災害を除いたという伝説になり、聖女の怪獣退治を再現した民俗行事であるタラスク祭りは、現在でも毎年6月に開催されています。

『ジェヴォーダンの鐘』で語られている、古代の女神崇拝をカタリ派の思想的起源とする説に対して、わたしは疑義を呈しましたが、古代の女神崇拝が女性聖者崇拝に継承されたという説については、可能性が高いと考えます。
聖者がいかにして自分たちの土地に来たか、聖遺物の来歴を説明する物語は、『新約聖書』には全く語られていないことであり、『新約聖書』の登場人物たちのその後を描いた続編、いわば二次創作であると言えます。
ベタニアの一族(マドレーヌ、マルタ、ラザロ)の場合は、大迫害の時代にパレスチナから脱出し、海を渡ってマルセイユから上陸し、その土地を訪れた、という物語が語り継がれてきました。
上述した『聖女マルタ伝』は、ヴェズレーが創作したマドレーヌ渡来伝説を前提とした物語であり、三次創作と言えます。

聖者渡来伝説は、聖者とその土地との結びつきを説明する物語であるからこそ、「聖マルタの怪獣タラスク退治」のように、キリスト教改宗以前の伝説や神話と、『新約聖書』の登場人物が上手く融合したのだと考えます。
したがって、女神崇拝だけが聖者伝説の起源ではなく、その土地のキリスト教改宗以前の信仰が、聖者伝説に影響を与えたと言えます。
巨岩や大木、泉などに聖性を感じる古い信仰が、キリスト教的な説明を与えられ、キリスト教信仰に転化した例も多いと考えます。
前項「奇跡物語の意味」の冒頭で紹介した、ル・ピュイ=アン=ヴレの礼拝堂は岩山の上に建てられており、堂内には人々の病を癒す聖なる石があります。
この岩山は、キリスト教改宗前の時代にも聖所であり、この石の上に聖母が出現したというキリスト教的説明が与えられることによって、キリスト教改宗後も変わることなく、聖なる石は人々の病を癒し続けたのです。

聖者伝説や聖遺物が、捏造や贋作、二次創作、三次創作であったとしても、当時の一般信徒たちは、自分で『旧約聖書』も『新約聖書』も読むことが出来ないため、説教師たちが語る物語が説得的であれば、素朴に信じたのだと思います。
聖者や聖遺物そのものが奇跡を起こすと考える一般信徒たちを危惧して、アウグスティヌスは「奇蹟はあくまで神の業」であると主張し、聖者崇拝が独走することを戒めています。

「ステパノのために祭壇を設けるのではない。ステパノの遺物をもって神のための祭壇を造るのだ」(『説教』318)
「聖職者は神に仕えるのであって、殉教者に仕えるのではない」(『神の国』22巻)


最後に


『ジェヴォーダンの鐘』の中で論じられている、カタリ派の思想に対する作者独特の解釈をめぐって、カタリ派の二元論的世界観・人間観と、女性聖者崇拝を中心に考察しました。
作者のカタリ派解釈については、疑問に感じる部分も多少ありますが、物語全体としては、示唆に富む良作であることは、最初に述べたとおりです。
「バチカン奇跡調査官」シリーズの中で、本書は、猟奇的な連続殺人事件も、恐ろしい犯罪者集団の陰謀も起こらず、主人公たちが命の危機に陥ることもないので、ミステリやサスペンスを求める読者には、退屈に感じるかもしれません。
しかし、ミステリやサスペンス要素に頼らずに、「奇跡を調査する」という題材を丁寧に描いた本書は、物語を通して「奇跡」とは何か、「奇跡の意味」について考えさせられる良作であり、「バチカン奇跡調査官」というシリーズにふさわしい一冊であると、わたしは思います。




参考:渡邊昌美『中世の奇蹟と幻想』(岩波書店、1989年)
ミシェル・ロクベール『異端カタリ派の歴史:十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問』(講談社、2016年)
池上 俊一「ラングドックのカタリ派 : 新たな視点の確立のために」(史学雑誌、1985)

2018/05/12

マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」

世界を織りなおす―エコフェミニズムの開花
世界を織りなおす―エコフェミニズムの開花
  • 発売元: 學藝書林
  • 発売日: 1994/03

アイリーン・ダイアモンド/グロリア・フェマン・オレンスタイン編『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』奥田暁子/近藤和子訳、学芸書林、1994年)の中から、第一部「歴史と神秘」に収録されている、マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」の要点をまとめ、考察したいと思います。
『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』の構成と目次については、イネストラ・キング「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」の記事内にまとめてあります。

マラ・リン・ケラー(Mara Lynn Keller)は、エール大学で哲学Ph.D.取得。1960年代から公民権・平和・女性運動で活動。サンフランシスコ州立大学で、哲学、平和学、女性学の講義を担当しているとのことです。(本書刊行当時)
「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」は、Journal of Feminist Studies in Religion, 4(no.1:Spring 1988)に掲載された同執筆者の論文"The Eleusinian Mysteries of Demeter and Persephone:Fertility,Sexuality and Rebirth"(デメテルとペルセポネのエレウシスの秘儀:豊穣・セクシュアリティ・再生)を短く書き直したものです。



「エレウシスの秘儀」とは?



マラ・リン・ケラーは、古代ギリシャの豊穣を司る女神デメテルと、デメテルの娘ペルセポネ(乙女の意味の「コレ」とも呼ばれる)の神話について取り上げ、デメテル信仰における「エレウシスの秘儀」を中心に論じています。
筆者は、ギリシャの詩人ヘシオドス(紀元前750-650年頃)の「ガイアへの賛歌」を引用して、デメテルもガイア同様に「大地母神」であったとし、「創意と努力で大地の実りと物質的な豊かさを増やすことのできる穀物栽培をギリシア人に教えた女神」と定義します。
このようなデメテルと、デメテルの娘ペルセポネの神話は「いつの時代にあっても、最も神秘的なこと-誕生・性・死-と最大の神秘である性の経験-永遠の愛-をあきらかにするもの」であると論じています。

古代ギリシャにおけるデメテル信仰の中心地は、アテネの北東に位置するエレウシスだったと言われています。
マラ・リン・ケラーによれば、ミケーネ文明時代(紀元前1600-1200年頃)の人々によって、紀元前1450年頃にデメテルを祀る神殿が初めてエレウシスに建てられました。
古代には、ギリシャの全土からエレウシスに参詣者が訪れ、「エレウシスの秘儀」と呼ばれる祭儀は、男女、老若、奴隷・自由民を問わず、あらゆる人々に開放されました。
マラ・リン・ケラーは、古代ギリシャの宗教的儀式の中で、この「エレウシスの秘儀」が最大の儀式であったとし、9日間におよぶ祭儀について詳しく紹介しています。
マラ・リン・ケラーが紹介する祭儀の様子をまとめると、下記のような日程になります。

祭りを告げる使者がアテネとエレウシスからギリシャ全土に送られ、あらゆる戦闘が二日間停止される。儀式が行われる9日間は、訴訟もすべて中止される。
1日目:「メリッサ」と呼ばれるデメテルの巫女たちが、奉納物を入れた籠を頭に乗せて、エレウシスのデメテル神殿から、アテネの城砦のふもとにあるエレウシス神殿まで、聖なる道に花や果物をまきながら歩き始めて、祭儀が始まる。
祭司によって公式に告知され、祭儀が開始する。祭司は、その前年の春に小秘儀に入信した者を招集し、今年の大秘儀に入信させる。
2日目:入信者はエーゲ海に行き、海水で身をきよめる。
3日目:女性、子供、国家の指導者、市民のために祈りが行われる式典の日。
4日目:癒しの神アスクレピオスに奉げられた日。
5日目:入信者と共同体とが、「イアッコス」と呼ばれる少年を先頭に、アテネからエレウシスまで大行列で行進。夕刻には、エレウシス郊外の特別な水場で身体を清め、たいまつを持って儀式を行うために集まる。女性たちがデメテルを讃えて踊り、夜を徹してお祭り騒ぎをする。
6日目:入信者は一人ずつ「からかいの橋」と呼ばれる、町の人々がからかったり、嘲笑したりする橋を渡って、デメテルの聖域に入る。
7日目-8日目:夜に秘儀が行われる。入信者はデメテル神殿に入り、秘儀の核心的な部分を経験する。
9日目:祈りと死者への献酒が行われ、祭儀終了。入信者は家に帰る。

7日目と8日目の両夜に行われる儀式について、確実に明らかになっていることは、入信者が入信式の最中に「燃えている大きな炎」を目撃したということです。
マラ・リン・ケラーの推測に従えば、儀式は次のような構成となります。

・入信者はデメテル神殿内の聖域である子宮のような穴(プルートニオン)に下りて行く。
・初穂を授けられる聖餐式への列席。
・デメテルとペルセポネの神話の一部の舞台化。
・二柱の女神の聖なる物語を題材とする「デメテルへの讃歌」の詠唱。
・自然の豊穣力を表すシンボル(人間の生殖器のシンボルやひと粒の麦)をデメテルにささげる。

この儀式を通して、入信者は「特別な視覚」を得て、「目が開かれる」経験をしたと、マラ・リン・ケラーは推測しています。

入信式のなかで、入信者は地下の世界に誘いこまれるような気持ちになり、病・苦・死に負けたことがあったのを思い出し(記憶の底や意識下にある苦しみ、あるいは民族の歴史が意識していない苦しみさえも思い出した)、悲しみに圧倒されるのであった。それから、癒しや聖なる結合に加えられたよろこびを経験し、新しい生命に出会うのである。
入信者はおそらく、地母神である女神、死の世界から帰還したペルセポネ、母と子の再会、生と死という自然の本質などを夢想したのだろう。(マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」、『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』より100頁)

このような幻視体験について、入信者の断食と祈り、そして期待が役立っただろうとマラ・リン・ケラーは推測します。
しかし、アルコール類や幻覚作用のある植物を使用していた可能性も十分に考えられます。
入信者は、「プルートニオン」(冥界への入り口)を下って、地下の世界=死者の世界を体験し、日の出と同時に暗黒の世界から、明るい地上の世界に戻ることによって、「死と再生の体験」をしたのだろうと、マラ・リン・ケラーは推測しています。

これらの儀式を通じて、入信者たちはデメテルとペルセポネの神話を追体験し、娘を死者の世界へ奪われた母デメテルの悲しみを感じ、娘が死者の世界から地上の世界へ再び戻って来る喜びを感じたのかもしれません。
マラ・リン・ケラーは、「エレウシスの秘儀」は「わたしたちの時代の神話」であり、「魂がたどる旅の教えは、時代や場所、年齢や性を超越する」と論じています。



古代ローマ時代のギリシャの著作家アポロドーロス(紀元1世紀~2世紀頃)は、伝統的なギリシャ神話と英雄伝説を記した『ビブリオテーケー』(Biblioteke、邦題は『ギリシア神話』)の中で、「エレウシース」の「秘教」について伝承しています。
このアポロードロスが伝承する「秘教」は、「エレウシスの秘儀」と同じ祭儀を指していると考えられます。
英雄ヘラクレスが、地獄からケルベロスを持ってくることを命じられ、冥界に行くために「エレウシースの秘教」に入会し、死者の世界へ降りて行き、死者の世界でペイリトゥースやテーセウスを助け、猛獣ケルベロスと武器を使わずに格闘するなど、冒険を繰り広げたことが伝承されています。

第十二番目の仕事として地獄からケルベロスを持って来ることを命ぜられた。これは三つの犬の頭、竜の尾を持ち、背にはあらゆる種類の蛇の頭を持っていた。これを目指して出発しようとして、秘教に入会させてもらう目的でエレウシースのエウモルポスの所へ来た。しかしその当時は異邦人は入会を許さなかったので、ピュリオスの養子となって入会した。しかしケンタウロスの殺戮から身を潔められていなかったので、秘教を見ることができず、エウモルポスに潔められて、それから入会を許された。そして地獄へ降りる道の入口のあったラコーニアーのタイナロンに来たり、この入口から降りた。(アポロドーロス『ギリシア神話』、岩波文庫、102頁)

アポロドーロスが伝承した伝統的なギリシャ神話を読むと、エレウシスに死者の世界への入口があると広く知られており、「秘教」=「エレウシスの秘儀」によって、死者の世界へ行くことが出来ると、人々に広く信じられていたことが分かります。
一方で、「秘教」に入信したヘラクレス自身が、デメテルやペルセポネを信仰したり、崇敬する様子は全く記述されていません。
したがって、ヘラクレスにとって「秘教」に入信することは、死者の世界へ行くための単なる手段であったと言えます。
実際に行われた「エレウシスの秘儀」においても、ヘラクレスと同じように、死後の世界に対する不安・恐怖、興味・関心から入信・参詣した人々が少なくなかったと言えるでしょう。

また、マラ・リン・ケラーが説明する「エレウシスの秘儀」と、アポロードロスが伝承した「秘教」とは、入信条件が異なっています。
マラ・リン・ケラーは、年齢・性別・階級を問わず、あらゆる人々に開放されていたと説明していますが、アポロドーロスは「その当時は異邦人は入会を許さなかった」と記述しています。
「その当時」と言うのは、英雄ヘラクレスが生きていた当時のことであり、<神話時代>とも言える古い時代のことでしょう。
したがって、アポロードロスが生きていた紀元1世紀~2世紀頃のギリシャでは、「エレウシスの秘儀」は異邦人にも開放されていたが、はるか昔の神話時代では異邦人は入信を許されなかったという意味になります。
ヘラクレスが生きていた<神話時代>が、実際の歴史年代に換算すれば紀元前何世紀頃に当たるのか分かりませんが、エレウシスのデメテル崇拝が太古の時代から続いてきたことは明らかです。



デメテルは死者の女王なのか?


エレウシスのデメテル神殿に死者の世界への入口があり、死者の世界へ行くための儀式が「エレウシスの秘儀」の核心的な部分であるとすれば、豊穣を司る女神デメテルの本来の職能とはかけ離れており、わたしは不自然であるように感じます。
穀物栽培を司り、実りをもたらしてくれる女神が、なぜこれほど「死」と結びつけて信仰されたのでしょうか?
マラ・リンケラーの議論では、このような問いを立てていないため、なぜ豊穣の女神が「死」を司っているのか、なぜデメテルの神殿に死者世界への入口があるのか、という考察が欠けていると言えます。
そこで、祭儀の由来であるデメテルの神話について、検討してみたいと思います。

デメテルとペルセポネの神話を伝える最古の記録は、古代ギリシャの『ホメロス風讃歌』(紀元前7世紀~7世紀頃)と呼ばれる作者不詳の讃歌集に収録されている「デメテル讃歌」です。
この「デメテル讃歌」において、デメテルの娘ペルセポネは冥界の王ハデス(「プルートーン」とも呼ばれる)によって誘拐されます。母デメテルは、嘆き悲しんで、行方不明の娘を探し歩き、その間は大地の実りがもたらされなくなります。
これに困ったゼウスのとりなしで、デメテルは冥界から娘を連れ戻しますが、ペルセポネは一年のうち三分の一はハデスの后として冥界で暮らし、三分の二は母デメテルと一緒に地上で暮らすことになります。
この有名な神話について、前述のアポロドーロスも『ビブリオテーケー』の中で伝承しています。

プルートーンはペルセポネーに恋し、ゼウスの助力を得て彼女を密かに奪った。デーメーテールは夜となく昼となく炬火を手にして彼女を求めて全世界をめぐった。ヘルミオーンの人々よりプルートーンが娘を奪ったことを知って、神々に対して憤怒し、天界を捨てて身を一婦人の姿に変じ、エレウシースにやってきた。そしてまずカリコロン(「美しき舞」の意)という井戸の側の彼女にちなんでアゲラストス(「笑いなさい」の意)と呼ばれる石の上に座った。それからその時のエレウシースの人の王であったケレオスの所に赴いた。家の内に二三の女がいて、自分たちの側に坐るようにと言った。その時イアムベーなる一老女が戯談を言って女神を笑わせた。これがためにテスモポリア祭で女たちは嘲罵をたくましくするのであると言うことである。

ケレオスの妻メタネイラに一人の子供があって、これをデーメーテールが引きとって育てた。彼を不死にしようと思って夜な夜な嬰児を火中に置き、必滅の人の子の肉を剥ぎとろうとしていた。デーモポーンは-これが子供の名であったが-日毎に驚くほど成長したが、プラークシテアーが見張っていて、火中に入れられているのを見つけて大声をあげた。それがために嬰児は火に焼きつくされ、女神は本身を顕した。
しかしメタネイラの子供の中での兄であるトリプトレモスに有翼の竜の戦車を造ってやり、小麦を与えた。彼は空を飛んで人の住んでいるすべての地にこれを播いた。しかしパニュアッシスはトリプトレモスはエレウシースの子であると言っている。というのはデーメーテールは彼の所に来たのだと主張しているからである。ペレキューデースは、しかし、彼をオーケアノスと大地との間の子であると言う。

ゼウスがプルートーンに乙女を地上に帰せと命じた時に、プルートーンは彼女が母の側に永く留まらないように、彼女に柘榴の粒を食べるようにと与えた。彼女はその結果がどうなるかを予見せずにその粒を食べてしまった。アケローンとゴルギューラの子アスカラポスが彼女に不利な証言をしたので、デーメーテールは冥府で彼の上に重い石を置いた。ペルセポネーはしかし毎年三分の一はプルートーンとともに、残りの時は神々のもとに留まることを強いられた。
(アポロドーロス『ギリシア神話』、36-37頁)

アポロドーロスが伝えるデメテル神話は、三つの物語から構成されていると言えます。

①母デメテルが冥界から娘ペルセポネを取り戻す物語。
②娘を失ってから、デメテルがエレウシースに滞在し、人間の息子を養育する物語。
③デメテルが穀物栽培をエレウシースのトリプトレモスに教え、トリプトレモスが穀物栽培をギリシャ各地へ伝える物語。

デメテルによってエレウシスに穀物が授けられ、農耕発祥の地となったという物語は、エレウシスがデメテル信仰の中心地となった起源を示していると言えます。
トリプトレモスは、デメテルがもたらした農耕という恵みをギリシャ各地へ伝える使者の役割を担っています。
古代ギリシャの壺絵の研究によれば、紀元前6世紀頃から農耕伝播の使者としてのトリプトレモスが盛んに描かれたと言われています。
トリプトレモスを盛んに描くことは、農耕発祥の地であり、各地へ農耕を広めた自国の偉大さを讃える、広告的イメージだったと推測できます。
したがって、デメテルがトリプトレモスに小麦を授け、トリプトレモスが穀物栽培を各地に伝える物語は、明らかに政治的意図があり、アテナイのプロパガンダ的神話と言えるのではないでしょうか。



冥界の王ハデスの妻となったペルセポネが、死者の女王と見なされ、「死」と結びつけて信仰されることは自然な流れであるでしょう。
一方で、デメテルは明らかにハデスの妻ではなく、死者の女王ではないにもかかわらず、上述したように「死」と結びつけられて信仰されているのはなぜでしょうか?
母デメテルが冥界から娘ペルセポネを取り戻す物語の解釈として、私は次の三つの解釈を考えます。

(1)デメテルとペルセポネは同一神格であった
(2)大地の四季(春夏秋冬)と人間の人生(生と死、世代交代まで)を重ねる
(3)デメテルとイシスが習合した



(1)デメテルとペルセポネは同一神格であった

デメテルとペルセポネは同一神格であると考えると、デメテル=ペルセポネ(コレ)は女性の一生を象徴する女神とし解釈することが出来ます。
コレ(少女)→デメテル(母)→ペルセポネ(祖母)
少女から母へ、母から祖母へと年齢を重ねて変化する女性の三相を表現した女神であると解釈すれば、ペルセポネ(コレ)が体験した出来事は、デメテル自身が体験した出来事であると言えるでしょう。

デメテルとペルセポネは一つの神格として考えることは、大地の四季(春夏秋冬)を象徴しているという解釈にもつながります。
マラ・リン・ケラーは、次のように説明しています。

この聖なる物語は、母と娘の二人の女神の関係を描いているが、同時に大地の豊穣・不毛・再生という自然の季節の循環や、誕生と成長から死後にいたるまでの人間の経験する周期をも説明している。(マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」、『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』より92頁)

コレ(少女)=春、デメテル(成熟した女性)=夏・秋、ペルセポネ(老女)=冬
少女から成熟した女性を経て、老女にいたる女性の一生を、春から夏へ、実りの秋から不毛の冬へという大地の四季に重ね合わせて解釈します。
ペルセポネが冥界の柘榴を食べてしまったため毎年三分の一は冥界に下るという定めは、一年のうちで、必ず厳しい冬が訪れる自然のサイクルを神話的に説明しています。
古代の人々は、一年を通して、温暖で実りのある季節が続いてほしいと願い、その願いに反して必ず冬が訪れる理由を必死に考えていたことでしょう。
そして、豊穣の女神は必ず老いて死ぬ運命であり、女神が冥界に留まっている間は冬枯れの季節となるのだ、と理解していたのかもしれません。


(2)大地の四季(春夏秋冬)と人間の人生(生と死、世代交代まで)を重ねる

このデメテルとペルセポネの物語を、<女性の一生>の象徴というだけでなく、<すべての人間の人生>を表現していると解釈することはできないでしょうか?
デメテルとペルセポネ(コレ)を、一つの神格として考えずに、母と娘、それぞれ別の神格として考えれば、全く違った物語の解釈が出来ます。

冥界の王ハデスによって、ペルセポネが死者の国へ連れ去られたということは、突然訪れる「死」を意味すると解釈することが出来ます。
母デメテルは、愛する娘が突然「死んでしまった」からこそ、激しく嘆き悲しみ、各地を旅して「喪」の期間を過ごすのです。
一度死んでしまった娘は、二度と生き返ることはないと知っていたから、母デメテルは養子を育てたと言えます。

ペルセポネが人間的な意味で「死んだ」と解釈すれば、物語の結末で、ペルセポネが地上に帰ってくる筋書きはどのように理解すべきでしょうか?
現実の人間にとって、死は一回限りの出来事であり、繰り返し経験するものではなく、決して蘇りは起こりません。
養子を育てるなど、長い「喪」の期間を終え、母デメテルは再び新しい子を産んだと考えてはどうでしょうか。
最初に死んだ娘が生き返ったというよりも、新しい娘を迎えたと解釈する方が自然だと思います。

人間が子孫をつなぐことによって、世代から世代へ「死と再生」を繰り返していくことは、枯死の冬を乗り越え、再び芽吹きの春を迎える大地のサイクルとぴったり重なり合います。
このように、蘇りの出来事が、「出産」を意味していると考えれば、デメテルが古代の人々に出産の守護神として崇敬され、ペルセポネの添え名が「産婆」であったことと一致するのです。

農耕のための地母神祭儀とともに、古代の人びとは性的結合と新しい人間の誕生を通して、共同体の再生を祝った。デメテルの祭儀は「作物の成長と人間の子孫の繁栄に関して同じ意図をもって行われた」と言われている。母娘の女神を信仰する宗教のおもな目的の一つは、生殖力と女性の人生における成長のパターンを娘に教えることであった。デメテルが出産の守護神であったように、ペルセポネの添え名の一つは「産婆」であった。(マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」、90頁)

古代にあって、「出産」は命がけの出来事であり、産婦や乳幼児の死亡率は現在よりもはるかに高かったことは間違いありません。
出産を見守る「産婆」は、産婦や産児の「生と死」の両方を見届ける役目を果たしていたのかもしれません。
以上にように解釈すれば、デメテルが「出産」と「死」の両方を司る女神として、多くの人々の信仰を集めていた理由が説明できるでしょう。



(3)デメテルとイシスが習合した

さらに、(1)及び(2)で論じた、物語の解釈から離れて、外来の宗教の影響について考えます。
マラ・リン・ケラーは、「デメテルはエジプトのイシスと近い関係」にあるとし、エーゲ海のデロス島ではデメテルとイシスを並べて礼拝していたと紹介しています。

マラ・リン・ケラーのによれば、デメテルが娘を冥界から取り戻した神話と、イシスが亡夫オシリスの遺骸を集めて、夫を生き返らせた神話とが共通しており、この二柱の女神は「穀物と文明の法則を与える神、癒し手、死者の女王、生命の復活」という神秘をもたらす神として崇敬されていました。
アポロドーロスの『ビブリオテーケー』において、イシスは次のように伝承されています。

イーコナスの後裔である娘イーオーは、女神ヘーラーの祭官を務めていたが、天空を支配する神ゼウスに犯され、ゼウスの子を身籠る。
ゼウスの姉であり妻であるヘーラーの怒りから逃れるため、イーオーは広大な地域をさまよい、ついに海を渡ってエジプトに至る。
エジプトで息子エパポスを出産するが、ヘーラーのたくらみで子供は行方不明になり、イーオーは全シリアをさまよい歩いて子供を探す。
シリアのビュブロス王のもとで育てられているエパポスを発見し、イーオーは子供とともに再びエジプトに赴き、エジプト王テーレゴノスと結婚した。
そして、デーメーテールの像を建てた。
そのため、エジプト人はデーメーテールをイーシスと呼び、またイーオーをも同じ名で呼んだ。
エパポスはエジプトに君臨して、ナイルの娘メムピスを娶った。
(アポロドーロス『ギリシア神話』第二巻1章3節より抜粋)

古代エジプトにギリシャのデメテル信仰が伝道され、エジプトの人々はデメテルを「イシス」と呼び、また伝道者であるイーオーをも「イシス」と呼んだとアポロドーロスは伝承しています。
アポロドーロスにしたがえば、エジプトにおいてデメテルとイシスは習合し、二柱の女神は同一神格として崇敬されていたと言えます。

ローマ時代の弁論作家ルキウス・アプレイウス(123年頃-没年不詳)は、ラテン語小説『黄金の驢馬』の中で、イシス信仰に入信した主人公が、イシスの祭儀を受ける様子を詳しく描いています。
『黄金の驢馬』において主人公ルキウスは、「天上の女神よ、御身は慈母ケレースと呼ばれ、地上の作物の創造主であります。御身は御娘を探し出した喜びから、太古の食料だった樫の実の代わりに、それよりももっと甘い食物を授けて、未開の人々を養い、今日でもエレウシースの野に住み給う」と、イシスを賛美しています。

ローマ神話の豊穣を司る女神ケレースは、古くからギリシャ神話のデメテルと同一視されていました。
『黄金の驢馬』では、イシスをケレース=デメテルと同一視するだけでなく、「神々の母ペシヌンティア」、「ミネルウァ」、「ウェヌス」、「ディアーナ」、「プロセルピナ」、「ユーノー」、「ベッローナ」、「ヘカテー」など、起源の異なるさまざまな女神とも同一視しています。
アプレイウスの考えでは、さまざまな地域で崇敬されている多くの女神たちの全てがイシスであり、イシスこそ本来の名前であると語られています。
しかし実際に、イタリア半島にイシスの信仰が入ってきたのは、紀元前3世紀末~前2世紀初め頃と言われています。
ローマ時代は、帝国の版図拡大によって、勢力をもった宗教が、その教義本来の純度を失い、他の宗教を吸収し、同化する傾向にあったと考えられています。

アポロドーロスの『ビブリオテーケー』、アプレイウスの『黄金の驢馬』をふまえて考えると、デメテルとイシスは、マラ・リン・ケラーが指摘するような「近い関係」と言うよりも、同一視され、習合していたと言えます。
デメテルとイシス、どちらの神がより正統的であるかという議論は、信仰された時代や地域によって立場が異なるでしょう。
アプレイウスの生きた時代では、外来の宗教であるイシス信仰の方が、より人気があり、勢力が強かったのだろうと推測できます。

イシスは、殺害され、バラバラに切断された夫オシリスの遺骸を探し集め、繋ぎ合せて、亡夫を蘇らせます。
オシリスは、イシス自身の神秘的な力や秘術によって蘇るのであり、イシスは「生と死」を操る魔術の神と言えます。
一方、デメテルは娘が冥界へ連れ去られたとき、独力では取り戻すことが出来ず、諦めて養子を育てます。
ペルセポネが地上に戻ることになるのも、ゼウスのとりなしがあったためです。
イシスと比較すると、デメテルは死者を蘇らせる特別な力を持っている女神ではないのです。
娘が一度死んでしまったら、自分の力で蘇らせることは出来ず、養子を育てるしかない、というデメテルの物語は、女神の物語ではありますが、より人間的な真実味があり、まさに現実の母親の生き方を象徴していると言えるでしょう。

デメテル信仰における「エレウシスの秘儀」と、『黄金の驢馬』で描かれているイシス信仰の祭儀は、共通性があります。
本来のデメテルに特別な力が無く、現実の女性たちに近しい女神だったと考えると、「エレウシスの秘儀」において、入信者たちが神秘的で特別な体験をすることは、不自然に思えます。
デメテルとイシスが習合し、同一視されたことによって、イシスの持っていた神秘性や「生と死」を操る特別な力を、デメテルも持ち合わせることになったと考えられます。

以上のとおり、(1)及び(2)の物語解釈にあわせて、イシス信仰の影響が加わり、デメテル信仰はより「死」が強調された可能性があります。
それにより、人々はより神秘的な体験を求めて特別な祭儀を行うようになり、「死と再生」を疑似体験する「エレウシスの秘儀」へと発展したのだろうと考えられます。



デメテルとペルセポネの神話を読み直す


これまで検討してきた、デメテルとペルセポネの神話について、マラ・リン・ケラーは「家父長制以前の物語として再解釈」することを提案しています。
マラ・リンケラーは、冥界の王ハデスによってペルセポネが連れ去られた出来事を「ペルセポネの誘拐とレイプ」と衝撃的な言葉で表現しており、「家父長制時代になって強調されるようになった物語」であると論じています。
マラ・リン・ケラーの主張は、エコフェミニスト思想家のシャーリーン・スプレトナクの著作に依拠しています。
『世界を織りなおす-エコフェミニズムの開花』には、シャーリーン・スプレトナクの論文「エコフェミニズムーわたしたちの根と開花」も収録されています。

エコフェミニズムにいたる第二の道は、一般に女神の宗教とされる自然を基盤とする宗教にふれることである。1970年代半ばに、ラディカル・フェミニストは歴史的、人類学的源泉を通して、女性を崇敬し、自然そのものを「知識の源」としているように思われる宗教を発見するという心躍る経験をした。(シャーリーン・スプレトナク「エコフェミニズムーわたしたちの根と開花」、32-33頁)

それが実際に始まったのは、ユーラシアのステップ地帯の遊牧民がインド・ヨーロッパ語圏を侵略し、ヨーロッパ・中近東・ペルシア・インドにあった、自然に基盤をおき女性を崇拝する女神宗教にかえて、自分たちの破壊的な男性神をもちこんだ紀元前4500年ごろのことである。かれらは、神聖であるとされ崇敬されていた女神を、地球の生命のプロセスから遠く離れた、全能の、天の神の領域へと移したのである。(同、41頁)

シャーリーン・スプレトナクは、古代の女神信仰を再評価することによって、「神をわたしたちに内在する存在」として発見し、女性と自然の絆を回復し、女性のエンパワーメントにつながると主張しています。
このようなシャーリーン・スプレトナクとマラ・リン・ケラーの立場は、「ラディカルな文化フェミニズム」に分類できるでしょう。
フェミニズムの思想・運動の中では、女性と自然の結びつきを否認する立場と、女性と自然の結びつきを積極的に肯定する立場で大きく主張が対立しており、イネストラ・キング「傷を癒す-フェミニズム、エコロジー、そして自然と文化の二元論」の記事の中で、詳しく比較・分類を図示していますので、ご参照ください。


マラ・リン・ケラーが「家父長制以前の物語として再解釈」したデメテルとペルセポネの物語は、要約すると次のような筋書きです。

デメテルとペルセポネは美しい大地に恵まれ、ともに作物が育つのを見守っています。ある日ペルセポネは、苦しんでいる死者たちの魂を慰めるため、自ら冥界に通じる穴に入り、死者の祭儀を行います。一方、デメテルはペルセポネの不在による悲しみから、作物が育たなくなります。ペルセポネは地上へ戻ることを決心し、ペルセポネの帰還によって、畑の作物が成長します。
以後、ペルセポネが死者の国へ行く時には、彼女のいない寂しい季節をデメテルと人間が分かち合い、春になってペルセポネが母のところへ帰ってくると、活気づくのです。

マラ・リンケラーが再解釈したデメテルとペルセポネの物語には、冥界の王ハデスにペルセポネが突然連れ去られるエピソードが削除されています。

本稿でわたしが訴えたかったのは、初期には母親を中心とする画期的な時代があったのが、その後母と子の分離と誘拐が行われ、この古代の生のあり方が死んだことを思い出してほしいということである。その時代のあとに、わたしたちが家父長制と考えている時代が長期間続いてきた。(マラ・リン・ケラー「エレウシスの秘儀―デメテルとペルセポネを崇拝する古代自然宗教」、101頁)

マラ・リンケラーが言う「母親を中心とする画期的な時代」とは、「母権の時代」を指していることは明らかです。
したがって、ハデスによってペルセポネが連れ去られた物語は、母権(母系)の共同体に対する、父権(父系)の侵略を反映したものだとして解釈しています。
このようなマラ・リン・ケラーの議論の前提には、ヨハン・ヤコブ・バハオーフェン(1815年-1887年)の『母権論』(1861年)があると言えます。
スイスの法学者であったバハオーフェンは、古代法の研究から、ギリシャ神話における女神に着目して、女性が権力を有した「母権性」が古代社会で存在したと主張しました。
バハオーフェンの著作は、その後の古代の女神研究に大きな影響を与えましたが、人類学におけるフィールドワーク調査が進むにつれ、小数民族などの「未開社会」にも完全な母権制は存在しないことが明らかになり、母権制の実在について疑義が呈されています。

考古学においては、新石器時代の偶像として、女性像が多く発掘されており、その中には妊娠した女性を象ったものも見られます。
この女性像から、「生命を生み出す女性」を女神として崇めていたことが推測できますが、女神を崇拝することと、女性が権力を有する社会制度であることは、全く別の問題だと言えます。
女神を崇拝していたとしても、現実の女性の地位が高いかどうか、共同体の中で尊重されていたかどうかは分かりません。
先史時代の女神像は、女神を崇拝していた証拠と言えるかもしれませんが、母権制を示す証拠とは決して言えないのです。

シャーリーン・スプレトナクやマラ・リン・ケラーの議論は、バハオーフェンの母権論を受け継ぎ、古代の女神崇拝の事実と、母権制を混同しており、女性を敬い、自然と調和した平和な時代があったと、先史時代を理想化しています。
先史時代における母権社会の実在が不明にもかかわらず、平和な母権社会を、戦闘的な父権社会が破壊・征服したという議論は、推論に推論を重ねた主張であると言えます。
先史時代の女性像が、平和な母権社会で作られたという証拠は全くないため、戦闘的な父権社会で作られた可能性だってあるのです。
そもそも、女神を象ったとされる女性像が、誰が何の目的で作ったものかをはっきり示す証拠はないのであり、女神を象ったという説も、推論に大きく拠っています。
日本においても、妊娠した女性を象った縄文時代の土偶が東北地方から出土されていますが、女神を象ったという説だけでなく、死亡した妊婦を埋葬する時に供えた、葬送儀礼の道具だったという説もあります。

シャーリーン・スプレトナクやマラ・リン・ケラーは、女神を崇拝する母権社会、男神を崇拝する父権社会という二元論で論じていますが、女神を崇拝する父権社会があったと考える方が自然ではないでしょうか?
古代ギリシャや古代ローマは、極端な男性中心的社会でありながら、多くの女神を崇拝しており、まさに女神を崇拝する父権社会であったと言えます。
ギリシャのアテナイは、その名前の通り、女神アテナを守護神として崇敬していました。
女神アテナは、常に武装した女性として描かれ、英雄たちを守護する戦いの女神であり、知恵の女神でもあります。
父権社会が女神を守護神とすることは、母のごとく男性たちを守る女神アテナのイメージを考えれば、矛盾なく説明できます。
女神アテナは、男性の側に立った、男性のための女神であり、現実の女性たちの地位や生活とはかけ離れた存在だったと言えるでしょう。

夫と子を持たない女神アテナと比較して、農耕を司り、実りをもたらす女神デメテルは、子を産み育てる母親の象徴であり、女性の側に立った、女性のための女神であったと言えます。
古代ギリシャにおいて、デメテルに捧げられた祭儀は、上述の「エレウシスの秘儀」だけでなく、「テスモフォリア」がありました。
古代ギリシャの各地で行われていた「テスモフォリア」は、きわめて古い祭儀であり、秋の播種の時期に3日間にわたって開催され、市民の妻たちが参加しました。
女性たちは、家を出てアクロポリスのふもとの集会所に集まり、豊穣と子授かりを祈願したと言われています。
男も女も参加した「エレウシスの秘儀」とは異なり、「テスモフォリア」は女性だけが参加しました。
「エレウシスの秘儀」が「死」を意識する祭儀だったとすれば、「テスモフォリア」は大地の実りと重ねて、自分たちの生命を育む力を意識し、女性への敬い、女性同士の相互扶助を強める祭儀だったと推測できます。


以上のように考えると、冥界の王ハデスにペルセポネが連れ去られた物語は、「ペルセポネの誘拐とレイプ」として解釈し、家父長制時代に挿話されたと勝手に貶めるのではなく、古代の女性たちの人生や死生観を反映した物語として、そのまま受け入れるべきだと思います。
前項で、この物語の解釈を検討した通り、冥界に突然連れ去られるということは、「死」の象徴であると考えて、突然訪れる不条理な死の悲しみを描いた物語として解釈する方が、わたしは自然であると考えます。

マラ・リン・ケラーが再解釈した物語では、ハデスを排除しているため、ペルセポネが自ら死者の国へ赴きますが、これは現実的に考えれば「自死」にほかならないため、非常に不自然に思えます。
古代の人々にとっても、現代のわたしたちにとっても、「死」は自分の意志に反して、突然訪れる不条理なものと考える方が自然で、真実味があります。
古代の社会は、マラ・リンケラーが論じているような楽園や理想郷ではなく、妊産婦や乳幼児の死亡率がきわめて高く、平均寿命も短く、飢えや病、猛獣や災害、土地をめぐる争いなどで「死」が身近な極限状況だったと考えるべきです。

デメテルとペルセポネの物語を現実に即して解釈すれば、ハデスに連れ去られた時点でペルセポネは亡くなったと言えるでしょう。
娘を突然亡くした母デメテルの嘆きは深く、死んだ娘を蘇らせることはできないため、養子を育てることに決めるのです。
デメテルが嘆きながら放浪した旅は、娘の死を受け入れるための「喪」の期間を表現していると言えます。
デメテルは養子を育てますが、実母が邪魔したことにより、養子の命も失ってしまいます。
実母の立場からすれば、養母が自分の子に対して、恐ろしい虐待をしているように見えたのです。
当時でも、養子を育てるにあたって、実母と養母の間の不信やトラブルが多かったため、神話の中に投影されたのかもしれません。
デメテルはその後、ゼウスの計らいによって、ペルセポネを取り戻します。
これは、すでに述べたとおり、最初に亡くなった娘が蘇ったというよりも、デメテルが長い「喪」の期間を終え、再び新しい子を産んだことの比喩であると考えられます。
このように解釈すると、デメテルとペルセポネの物語を通して、古代の女性たちが実際に体験した、我が子を喪う耐えがたい悲しみ、養子を育てる難しさ、一人目の子の死を乗り越えて、再び子を産む強さ、たくましさを感じるのです。

マラ・リン・ケラーは、「エレウシスの秘儀」に着目し、デメテル信仰を積極的に評価することで、現在の女性を敬い、女性と自然の絆を回復させることを目的としています。
そのような目的は理解できますが、デメテルとペルセポネの物語を再解釈するとして、勝手に筋書きを大きく変えてしまうことは、もはや二次創作であり、再解釈ではなく誤読であると言えます。
古代の女神信仰や祭儀を紐解くことで、女性のエンパワーメントにつながるインスピレーションを得るのは良いと思いますが、古代の物語に対する敬意が必要であり、勝手に貶めたり、物語を捻じ曲げてはならないと思うのです。
デメテルとペルセポネの物語からは、当時の女性たちが敬われていたとか、権力を有していたとかは一切分かりませんが、自分たちの「生と死」に向き合い、必死で生きていた現実が伝わってきます。
ありのままのデメテルとペルセポネの物語の中に、古代の女性たちの真実が表現されているのだと思います。





参考:アポロードロス『ギリシア神話』(高津春繁訳、岩波書店、2015年)
アープレーイユス『黄金の驢馬』(呉茂一・国原吉之助訳、岩波書店、2013年)
庄子大亮「古代ギリシアにおける女神の象徴性:アテナ、アルテミス、デメテルを例に」(西洋古代史研究、2011年)