2018/01/07

和辻哲郎「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」

和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)
和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1995/09/18

2017年4月14日の読書会で、和辻哲郎「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」(坂部恵《編》『和辻哲郎随筆集』、岩波文庫、1995年)を読みました。
和辻哲郎(1889年-1960年)は、『古寺巡礼』(1919年)、『風土』(1935年)などの著作で知られる日本の思想家です。
「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」は、1951年(昭和26年)に発表され、のちに同名の随筆集に収録されました。

応仁以後においては、土一揆や宗教一揆は明らかに政治運動化してきた。(「埋もれた日本」、岩波文庫、99頁)

このころ以後の民衆の思想を何によって知るかということは、相当重大な問題であるが、私はその材料として室町時代の物語を使ってみたいと思う。その中には寺社の縁起物語の類が多く、題材は日本の神話伝説、仏典の説話、民間説話など多方面で、その構想力も実に奔放自在である。それらは、そういう寺社を教養の中心としていた民衆の心情を、最も反映したものとして取り扱ってよいであろう。(99-100頁)

さてそのつもりでこの時代の物語を読んで行くと、時々あっと驚くような内容のものに突き当たる。中でも最も驚いたのは、苦しむ神、蘇りの神を主題としたものであった。(100頁)

和辻は、応仁の乱以後(室町時代末期)の民衆が親しんでいた物語から、「キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」を明らかにしようとしています。
和辻が「苦しむ神、蘇りの神」をテーマとする物語の例として取り上げたのは、『熊野の本地』です。
また熊野神社の縁起物語の類話として、『厳島の縁起』も紹介しています。
『熊野の本地』、すなわち熊野権現の縁起物語は、熊野神社に今祀られている神々が、どういう経歴を経てインドから日本へ渡来したかという神話・伝説です。
インドのマガタ国王の宮廷で起こった出来事が『源氏物語』風に物語られています。

女主人公は観音の熱心な信者である一人の美しい女御である。宮廷には千人の女御、七人の后が国王に侍していたが、右の女御はその中から選び出されて、みかどの寵愛を一身に集め、ついに太子を身ごもるに至った。そのゆえにまたこの女御は、后たち九百九十九人の憎悪を一身に集めた。あらゆる排斥運動や呪詛が女御の上に集中してくる。ついに深山に連れて行かれ、首を切られることになる。その直後にこの后は、山中において王子を産んだ。そうして、首を切られた後にも、その胴体と四肢とは少しも傷つくことなく、双の乳房をもって太子を哺んだ。この后の苦難と、首なき母親の哺育ということが、この物語のヤマなのである。太子は四歳まで育って、母后の兄である祇園精舎の聖人の手に渡り、七歳の時大王の前に連れ出されて、一切の経緯を明らかにした。大王は即日太子に位を譲った。新王は十五歳の時に、大王と聖人とを伴って、女人の恐ろしい国を避け、飛車で日本国の熊野に飛んできた。これが熊野三所の権現だというのである。(101頁)

この物語では、首なくしてなお嬰児を養った女主人公が熊野の権現となったわけではなく、首なき母親に育てられた太子と、その父と伯父のみが熊野権現となります。
『熊野の本地』の異本の中には、苦難の女主人公自身を権現とする物語もあり、その物語では憐れな新王は、慈悲深い母后の蘇りに成功し、母后を伴って日本へ飛来して、熊野の権現となります。
厳島神社の『厳島の縁起』も同じような筋書きの物語で、『熊野の本地』の類話と言えます。
インドの宮廷には父王とその千人の妃がいましたが、若き新王はさまざまな冒険の後に、遠い異国から理想の王女を連れてきて、自分の妃とします。
新王の美しい妃に、父王の千人の妃たちの憎悪と迫害が集まり、新王の妃は山中に拉致され首を切られます。
ここで、『熊野の本地』と同じく、首なき母親の哺育が物語られるのです。
新王は、遠い地方への旅から帰ってきて、山中で妃の白骨と十二歳になった王子を見出します。
憐れな王子のその後の物語は、『熊野の本地』とは違っています。
『厳島の縁起』では、王子は宮廷に行き、祖父王の千人の妃の首を切って母妃の仇を討った後、母妃の首の骨を見つけ出して、母妃の蘇えりに成功します。この蘇った妃と、その王子と父王が厳島神社の神々です。

ここに我々は苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神の観念を見いだすことができる。奈良絵本には、首から血を噴き出しているむごたらしい妃の姿を描いたものがある。これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架上に槍あとの生々しい救世主のむごたらしい姿も、そう珍しいものではなかったであろう。(102頁)

このように苦しむ神、死んで蘇る神は、室町時代末期の日本の民衆にとって、非常に親しいものであった。もちろん、日本人のすべてがそれを信じていたというのではない。当時の宗教としては、禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが最も有力であった。しかし日本の民衆のなかに、苦しむ神、死んで蘇る神というごとき観念を理解し得る能力のあったことは、疑うべくもない。そういう民衆にとっては、キリストの十字架の物語は、決して理解し難いものではなかったであろう。(107頁)


このように和辻は、「苦しむ神、蘇りの神」をテーマとする縁起物語(神話・伝説)を紹介し、「キリシタン渡来」直前に、それを受け容れる素地が室町時代末期の民衆にあったと論じています。
さらに和辻は、新興武士階級の家訓書として『早雲寺殿二十一条』、『朝倉敏景十七箇条』、『多胡辰敬家訓』を紹介して、「近代を受け容れるだけの準備」がすでに出来ていたと論じています。
以上のように、民衆の思想と新興武士階級の思想とを見て、和辻は、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかで、「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想状況」が十分に成立していたと論じています。
したがって、「室町時代の文化」を貶めるのは「江戸幕府の政策に起因した一種の偏見」として、和辻は「室町時代の文化」を再評価しているのです。


熊野の縁起物語は、本当に日本人のキリスト教受容に影響を与えたのか?


わたしは、首なき母親が子育てをする『熊野の本地』や『厳島の縁起』が、大変興味深かったです。
しかし和辻が、熊野や厳島の縁起物語がキリスト教受容に役立ったと結論づけるているのは、論理に飛躍があると思いました。
当時の熊野神社の信者人口がどれだけいて、どのような職業集団で、そのうち何パーセントがキリスト教徒になったのかを明らかにしなければ、因果関係を立証できないのではないかと思います。

改宗前の信仰が、キリスト教受容に対して影響を与えていたと論じるのであれば、やはり長崎など、もっとも改宗者が多く、キリスト教信仰が盛んだった地域を取り上げるべきだと思います。
熊野や厳島が、キリスト教改宗者が特別多い地域だったとは考えられないので、長崎の寺社の縁起には、熊野のような「苦しむ神、蘇りの神」の物語がなかったので、和辻は取り上げなかったのではないか、自分の結論に都合の良い熊野の縁起を例示したのではないか、と思ってしまいます。

和辻の論証には納得できない点が多かったですが、<改宗前の信仰がキリスト教受容に対して影響を与えたかどうか>、というテーマ設定自体は非常に面白いと思ったので、もっと深く掘り下げた研究があればぜひ読んでみたいです。
和辻が取り上げなかった、たとえば島原の人々は、キリスト教改宗前はどんな信仰を持っていたのか?、キリスト教伝来直前の九州北部の思想傾向は?、など非常に疑問に思いました。
九州北部の寺社の縁起・由緒の史料分析を丹念に行えば、当時のキリスト教の急速な普及の背景がより明らかになるかもしれません。


日本人のキリスト教受容に影響を与えたかどうかとは関係なく、熊野の縁起物語自体は、非常に独特で興味深いと思いました。
首を切られてなお、山中でたった一人で赤子を育てた母親の姿は、想像するとすさまじいものです。
首なき母親の物語に、当時の人々は何を祈り、求めたのでしょうか? 死後も子供を守り続ける母性の象徴として、安産の祈願、子供の健康祈願など、たくさんの女性たちの願いが込められたのかな、と想像します。
熊野の縁起における、宮廷で一人だけ王の寵愛を受け、他の女御たちから嫉まれ、不幸な運命になるという物語は、『源氏物語』の桐壺更衣を思い起こされます。
女性同士の嫉妬や嫌がらせは、『源氏物語』をはじめ、インドが舞台の『熊野の本地』でも同じでおあり、時代や国を問わず普遍的なテーマであるため、熊野の縁起物語は当時の民衆に親しまれたのではないでしょうか。


わたしが、この首なき母親について、特に興味深く思うのは、<祟らない>ところです。
首なき母親は、物語中で完全な被害者であり、自分自身では加害者に復讐をしていません。
厳島の縁起では、息子が母親の復讐を果たしますが、母親自身は自分を殺した人々を怨む<祟り神>ではないのです。
「蘇り」についても、母親自身が成し遂げたのではなく、息子の努力によります。

「天神様」として祀られている菅原道真公は、苦しんで死んだ神であるのは間違いないですが、和辻が「苦しむ神」として取り上げていないのはなぜでしょうか。
早良親王や菅原道真、崇徳院、平将門など、苦しんで死んだ神々(元・人間)は、「祟り神」となったからこそ、人々は霊鎮めの祭りをして、畏怖し、信仰してきたのだと思います。
しかしイエス・キリストは、苦しんで死んだ神である点は同じですが、自分を殺した人々に呪いや疫病をふりまく「祟り神」ではないのです。

和辻が、菅原道真ではなく、この首なき母親神を取り上げたのは、この母親が<祟らない>点において、イエスとの共通性を感じとったからではないかと思います。
そのため和辻は、キリスト教受容の背景に、キリスト教と類似した信仰がすでに成立していたと論じるのに、熊野の縁起物語を取り上げたのだと思います。


また読書会では、キリスト教受容の背景には、熊野の縁起物語の影響よりも、貧困があったはずだ、という意見が多く出されました。
貧困状態であれば、キリスト教改宗につながるのでしょうか?
キリスト教は、五穀豊穣や商売繁盛といった現世利益をもたらす教えではないので、当時の人々が貧しさから脱出するために改宗したとは言い切れないのでは、と思います。
中世後期は、凶作や飢饉、疫病、内戦がたびたび発生し、人々にとって<死>が身近な極限の状況だったと考えると、<死後の救済>を求めて、キリスト教に改宗したのではないか、と考えられます。
キリスト教が急激に普及した同じ時期に、北陸・東海・畿内では、死後の安寧を約束する一向宗(浄土宗・浄土真宗)の勢力が強まったと言われています。

1591年~1600年頃に、天草・長崎などで刊行されたキリスト教の教義書『どちりな・きりしたん』の序文では、「一切人間に後生を扶かる道の眞の掟」(天正19年(1591年)、加津佐版)と書かれています。
当時の宣教師たちが、キリスト教の教義について、「後生を扶かる」すなわち<死後の救済>を保証するものとして、教えを広めていたことが分かります。
『どちりな・きりしたん』は、イエスの十字架上の死と復活の意義についてよりも、<死後の救済>の側面を強調しすぎているように感じます。
このような宣教師たちの教えを聞いて、人々がキリスト教に改宗したのであれば、それほどまでに死後の魂の行方に不安を感じていたということだと思います。



「埋もれた日本」はどこにあるのか?


論文の表題である「埋もれた日本」とは、何を意味しているのでしょうか?
和辻の議論では、「キリシタン渡来」直前の「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況」を指しています。

しかし文化的でない、別の理由から出た鎖国政策は、ヒステリックな迫害によって、この時代に日本人の受けたヨーロッパ文化の影響を徹底的に洗い落としてしまった。その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に湮滅させられてしまった。(114頁)

中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて新井白石、荻生徂徠などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分にヨーロッパのそれに伍することができたであろう。(128頁)

鎖国は、外からの刺戟を排除したという意味で、日本の不幸となったに相違ないが、しかしそれよりも一層大きい不幸は、国内で自由な討究の精神を圧迫し、保守的反動的な偏狭な精神を跋扈せしめたということである。(129頁)

和辻は、室町時代の文化を「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況」が成立していたとして、肯定的に評価しています。
そして、江戸時代の文化における、キリスト教の排斥と儒学の採用を「保守的反動的な偏向」と批判し、「日本人の自由な思索活動」を妨げたとして、否定的に評価しています。
以上の『埋もれた日本』の構成から、和辻の考え・歴史観を整理して、見取図を作成しました。(下図参照)


このことから、和辻は<西洋>を到達目標と見なしており、室町時代や江戸時代の文化について、いかに<西洋>に近づいていたか、ということを評価基準にしていたことが分かります。
和辻の議論において、<西洋>は<近代>とほぼ同義語として使われています。
したがって和辻は、江戸時代の「保守的反動的」な文化によって、「埋もれていた日本」こそが本来のあるべき「日本」であり、<西洋>に劣らない<近代>であった、と考えていたと言えます。
明治期以降の極端な西洋崇拝の影響を受けた、<西洋>もしくは<近代>への到達度を歴史的評価の基準とする考えは、和辻だけでなく、現代の日本でも少なからず引き継がれているのではないでしょうか。
和辻は、シェークスピアやベーコンについて「近代的」と評価する一方で、林羅山の儒学を「シナの古代の理想」と貶めています。
このような西洋崇拝の歴史観は、<西洋>が人種差別や植民地支配を正当化してきた間違った論理と同じであり、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ、ポリネシアなどの非西洋文化を差別することにつながる危険な考え方だと思うのです。

さらに、「埋もれた日本」と題して、熊野や厳島の縁起物語を紹介することで、「日本」を論じることができるのでしょうか?
京都や近畿地方など、京都近辺の思想・文化は、「日本」を構成する一つの部分ではあっても、「日本」全体を代表するとは言えないと思います。
古代では、北東北や南九州も「日本」ではなく、中世後期でもアイヌや琉球王国は「日本」に含まれません。
当時は、各地方の差異が現代とは比較にならないほど大きかったと考えると、一つの地方の思想・文化をもって「日本思想」「日本文化」とまとめることはできないと言えるでしょう。

中世後期の民衆の思想・文化を反映したものとして、熊野や厳島の縁起物語だけを取り上げることは議論が粗すぎると思いますが、首なき母親の物語の面白さ・独特さは間違いないです。
当時の「日本」を代表する思想・文化としてではなく、<思想の地域性>を考慮しながら、熊野や厳島周辺地域の思想・文化を明らかにする題材として、首なき母親の物語を取り上げれば、より興味深い議論になるのではないでしょうか。
当時の熊野・厳島周辺地域の信仰と、その他の地域との比較を行うことによって、熊野や厳島の縁起物語の特異点または類似点が明らかになり、<西洋>と似ている、と言った単純な評価ではない、新たな理解を得られるのではないかと思います。