2018/01/24

中島敦「山月記」

李陵・山月記 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 2003/12

2016年5月28日の読書会で、中島敦「山月記」(『李陵・山月記』、新潮社、2003年)を読みました。
中島敦(1909年-1942年)は、「弟子」、「名人伝」、「李陵」などで知られている日本の小説家で、33歳の若さで病没しました。
中島は、短い生涯の中で、中国古典を題材とした、漢文調の簡潔で美しい文体の作品を多く遺しています。
「山月記」は、国語の教科書にも採用されており、誰もが一度は読んだことがある名作です。

※ネタバレ注意※

唐の時代、主人公の李徴は若くして進士(上級官吏登用試験)に合格しますが、すぐに官吏を退職し、詩人として名声を得ようと努力します。
しかし、文名は思うように揚がらず、生活は日を追って苦しくなり、李徴は貧窮に堪えかね、妻子のために地方の下級官吏の職に就きます。
李徴が官吏に復職した時、かつての同輩はすでに上級官吏に昇進しており、李徴の自尊心は傷つけられ、ついにある夜、李徴は行方不明となりました。
翌年、李徴の親友であった上級官吏の袁傪は、旅の途中に野生の虎に襲われますが、袁傪を襲った虎は人語を話し、虎は自分が李徴であると名乗ります。
袁傪は虎の言葉を信じて会話を交わし、虎は自分の辛い身の上を語り、人間だった時に作った詩を吟じて、袁傪に伝録を頼みます。
そして、虎の中に李徴が生きているしるしに、即興で自分の心境を詩作して聞かせます。
虎は最後に、自分が行方不明になり、飢え凍えているであろう妻子の生活支援を袁傪に頼み、二人は別れました。


若きエリート官僚がなぜ詩人に転職したのか?


隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自恃ところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔よしとしなかった。(「山月記」、新潮社、8頁)

「山月記」では、李徴が進士に合格した年について、「天宝の末年」と書かれています。
「天宝」は、唐の玄宗皇帝の治世後半の元号で、西暦742年~755年にあたります。
李徴が進士に合格した755年は、安史の乱(755年-763年)が勃発して、反乱軍が長安に迫り、玄宗皇帝が長安を脱出するなど、国内が内戦状態で、非常に混乱していた時代です。
李徴が官吏を退職し、詩業に進み、数年後に再び官職復帰した頃は、玄宗が退位させられ、皇太子・粛宗が即位し、反乱鎮圧にあたっていた時代でしょう。
757年に粛宗は長安を奪還し、都に帰還しますが、反乱はまだ収まっておらず、762年に玄宗、粛宗が相次いで亡くなります。
安史の乱はおよそ10年にわたって続き、長引く内戦によって、皇帝の権威は大きく傷つき、国内は疲弊したと言えます。

李徴は進士に合格して、「江南尉」という江南地方の警察・軍事に関係する官僚となります。
李徴について、現代で言うところの、国家公務員試験に合格したばかりの若いエリート官僚として考えてみましょう。
反政府勢力によって首都が制圧され、政府首脳は都から避難、政治家たちも失脚したり死んでいくとしたら、<官僚として出世する人生>に希望を持てず、転職したくなる気持ちは分かります。
そのような政治的社会的情勢であっても、エリート官僚が<詩人>に転職するというのは、現代ではほとんど考えられないでしょう。
しかし、李徴を含む唐代のエリート官僚たちは皆、詩作の技術に優れており、詩人となるための素養を持っていたのです。

中国の官吏登用試験「科挙」は、有力豪族・貴族出身者による官職の世襲を防ぎ、有能な人材を官僚に登用する目的で、隋の時代に始まり、清の時代まで続きました。
唐の時代において、科挙の進士科(上級官吏)の試験は、「四書・五経」といった儒教の経書の知識を問う試験と、韻文で詩作・論述する「詩賦」の試験によって構成されていました。
「詩」の試験では、指定された題材や題字を用いて、五言六韻十二句による律詩という技巧的な定型の韻文形式で詩作することが求められます。
「賦」と呼ばれる論述試験では、指定された韻字を用いて、政治への意見などを指定字数以上で自由に論述することが求められます。

唐代の科挙は、不定期に実施される「制科」と、定期的に実施される「常科」があり、常科のうち「進士」と「明経」という二つの科がありました。
明経科は、経書の知識を問う試験のみであり、詩作・論述の試験はなかったと言われています。
進士科の試験で、詩と賦が重んじられたのは、古典の教養・知識とともに、言語運用能力の高い人材を求めていたのかもしれません。


中国史において、豊かな豪族・貴族の社交の席上で発達してきた詩歌の文化は、進士科の試験に「詩賦」として導入されたことにより、国家規模の詩作コンクールに発展し、技巧的な定型詩の文化として完成したと言えます。
玄宗の治世で、安史の乱が起こる前の50年間は、李白、杜甫、王維、孟浩然など大詩人の多くが活動しており、唐の文化が極盛期に達したため、唐詩の「盛唐」(710年-756年)時代と呼ばれています。

このように、唐代の上級官吏登用試験の内容が、ハイレベルな詩人養成試験であったことが分かると、李徴がエリート官僚から詩人に転身をはかることも、自然な流れだと言えます。
実際に、盛唐期を代表する大詩人の一人である王維(701年-761年)は若くして進士に合格し、官吏として高い地位にのぼりました。
同じように、若くして進士に合格した李徴は、自分の詩作のレベルの高さについて、非常に強い自負を持っていたことだと思います。
そのため、「下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そう」と考えたのでしょう。



李徴はなぜ詩人として成功しなかったのか?


李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次のように感じていた。成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処か(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがあるのではないか、と。(14頁)

官吏を退職し、ひたすら詩作にふけった李徴でしたが、詩人として名を成すことはできませんでした。
李徴がなぜ詩人として成功しなかったのか?、と考えることによって、李徴がなぜ虎と化したのか?、という謎が明らかになります。
なぜなら、もし李徴が詩人として名を成していたら、虎と化すこともなかったであろうからです。

袁傪は、李徴の詩について「第一流の作品となるのには、何処か欠けるところがある」と評価しています。
李徴と同年に進士に合格し、上級官吏に出世した袁傪は、李徴と同等か、それ以上の高い詩作レベルを持っていると言えます。
その袁傪が、李徴の詩を「第一流の作品」ではないと評価するのであれば、他のエリート官僚や知識階級人たちも同じ評価をすることでしょう。
人間であったとき、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云いわない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔よしとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。(16頁)

李徴は、自分が虎に変身した原因について、「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」であると語ります。
自尊心と羞恥心について言う場合、普通は<尊大な自尊心>と<臆病な羞恥心>と表現しますが、李徴は「自尊心」に「臆病な」、「羞恥心」に「尊大な」という、意味としては反対の形容詞を用いています。
中島敦は、「自尊心」と「臆病」、「羞恥心」と「尊大」という反対の意味の言葉をあえてつなぎ合わせ、わざと矛盾を生じさせることによって、李徴の内面の複雑な感情を簡潔に表現したと言えます。
このような表現は、「形容矛盾」または「撞着語法」と呼ばれており、共和政ローマ時代の詩人カトゥルスの「われ憎み、かつ愛す」(『詩集』85番より)という詩句が有名です。

李徴は、「己の珠なるべきを半ば信ずる」すなわち自分の才能に強い自負を持ちながら、「己の珠に非ざることを惧れる」という、自分の才能に確信がもてない不安を感じています。
強烈な「自尊心」と並立するほどの強い「惧れ」が、李徴の言う「臆病な自尊心」なのだと思います。
そして、李徴は「己の珠に非ざること」=「才能の不足」が明らかとなることを「惧れ」ていたため、師に教えを仰いだり、詩友たちとの交流を避けるようになりました。
李徴が、周囲の人々から「倨傲」「尊大」と見られる態度をとっていたのは、実は自分の「才能の不足」を隠すための虚勢だったのです。
自分の強い「惧れ」を隠すための強烈な虚勢が「尊大な羞恥心」だと言えます。

「羞恥心」は本来、自尊心を前提として生まれる心情です。
若くして進士に合格した李徴の「自尊心」は、思うように文名が揚がらないことで傷つけられ、自分の才能に不安を感じ、生活の苦しさから焦りや恐怖が大きくなり、その恐怖心の裏返しから、同輩たちをより見下す振る舞いをしたのでしょう。
李徴は、同輩たちを見下せば見下すほど、彼らの官位よりも自分の官位が劣ることに耐えられず、「尊大な羞恥心」ゆえに誰にも弱みを見せることが出来ず、ついには追い詰められて、詩業も官職も妻子も捨てて出奔してしまったのだと思います。

出奔した李徴が虎に変身したという物語は、知識階級としての身分や生活を全て捨て去り、路上や山林で野宿し、衣食に困れば道行く旅人を襲って略奪する生活に至ったことの比喩として解釈することが出来ます。



李徴が作った詩において、「欠けるところ」とは何だったのでしょうか?
袁傪は、李徴の詩を「格調高雅、意趣卓逸」と感嘆していますが、この評価は、詩作が技巧的に優れていることに対する誉め言葉であり、詩の内容について評価しているわけではないのです。
進士の試験に合格した李徴が、音調が巧みに整った、技巧的に大変高度な詩を作っていたことは間違いありません。
李徴の詩は、<試験の答案>の域を脱せず、人々の心を打つ心情表現や風景描写、李徴の人生経験や思想、信仰などを感じさせる<詩の個性>が欠けていたのではないでしょうか。

盛唐期の最大の詩人、李白と杜甫はそれぞれ全く対照的な詩風です。
「詩仙」と称えられる李白は、道教の思想に共感し、不老長生を願う神仙を理想としており、人生の賛歌を歌い、大らかで明朗闊達、壮大で幻想的な詩風と言われています。
一方、「詩聖」と称えられる杜甫は、憂鬱で悲哀に包まれており、個人的なものにとどまらず、社会全体の苦痛にみちた現実をえぐり出しています。

李白と杜甫は、実は二人とも進士の試験に合格していないのです。
李白は科挙を受験した記録がなく、杜甫は進士科を受験したものの、不合格でした。
同じように、盛唐期を代表する大詩人である孟浩然も、進士に合格しなかったため、官職を得られず、不遇の人生を送りました。
李白や杜甫、孟浩然などの詩業は、<試験の模範解答>をはるかに超えた、<芸術>に到達していたからこそ、人々に喜びをあたえ、人々の苦痛を表現し、現代まで長く愛謡されているのだと思います。

李徴は、若くして進士に合格し、官職に就いてすぐに退職して、詩作に専念したため、人生経験が乏しかったと言えます。
師に教えを仰ぎ、詩友と交流して批評し合えたなら、李徴は自分の詩の「欠けるところ」に気づき、<試験の模範解答>から<芸術>へと、詩業を磨き上げることができたかもしれません。
李徴が進んで師に就こうとしなかったのは、進士に合格していない先輩の大詩人たちに対して、見下すような気持ちがあったからとも考えられます。
李徴は、進士に同じ年に合格した同輩たちを「鈍物」と侮蔑しており、進士に合格していない詩人や知識階級人たちについては、より低く見ていた可能性があります。

李徴は、「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ」と語っています。
李徴が家庭の幸福を尊重し、善き夫、善き父であったならば、芸術的に優れた詩作が出来たでしょうか?
文学や音楽、美術などで歴史に名を遺した芸術家は、家庭の幸福に恵まれない場合が多く、不倫相手の女性と自殺した太宰治のように、家庭の幸福を自ら壊す作家もあります。
芸術家たちは、夫婦の不仲や、不倫、離婚、麻薬中毒、病気などの家庭の不幸を全部、自らの創作活動の糧とし、作品に昇華しています。
したがって、家庭の幸福を守ること、倫理・道徳的に善い行いをすることが、芸術性を高めるために絶対に必要であるとは言えないと思います。

李徴は、「己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ」たから、自分は詩人として成功しなかったと語っていますが、「己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ」た経験を、芸術作品に昇華できなかったことが、人々の心を打つ詩を作れなかった本当の理由であると思います。
また、師や詩友と交流することを嫌ったとしても、それを裏打ちする思想や哲学、世界観があれば、李徴は自らの孤独を芸術作品に昇華できたかもしれません。
盛唐期を代表する詩人である王維は、人間嫌いであったと言われていますが、仏教の信徒として、枯寂の境地に心をうちこみ、仏教の浄土観を詩作で表現しました。

官吏を退職して、世と離れ、人と遠ざかり、妻子を苦しめ、友人を傷つけた人生経験を、李徴が詩作に表現出来なかったのは、やはり「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」があったからだと思います。
李徴の自尊心が強ければ強いほど臆病になり、羞恥心が強くなって、自らの孤独や家庭の不幸を見つめることが出来ず、ますます尊大な態度になってしまったのでしょう。

李徴は、官職も妻子も全て捨てて出奔し、旅人を襲って略奪するような野宿生活者に身を堕としてしまいましたが、その情けなさ、恐ろしさ、悔しさを全て詩作の糧とすることが出来れば、人々の心を打つ、人々が涙する作品をこれから生み出すことが出来るのではないか、と思います。


「山月記」のルーツを探る


中島敦の『山月記』のルーツとなった中国の物語について調べてみて、とても面白い知見が得られました。
北宋の時代に書かれた『太平広記』(977年-978年)には、人間が虎になる物語が数多く収録されています。
その中で、『太平広記』427巻に「李徴」という題の物語が収録されており、次のような筋書きです。

隴西の李徴が進士に合格する。
数年後、江南の尉となるが、下級官吏に満足せず、才を鼻にかけて威張り他の役人に嫉まれる。
任期が終わると郷里に帰り、一年余り交際を絶つ。
衣食に困り、呉楚を歴遊し、各地で歓待を受け、選別を貯めこむ。
郷里に帰る途中、病気になり発狂して行方不明になる。
翌年、袁傪は天子の使者として嶺南に行く途中、宿場で虎が出没して人を食う話を聞く。
袁傪が虎になった同年進士、友人李徴と再会する。
虎(李徴)は袁傪と身の上話をし、遺稿、妻子のことを託して立ち去る
使いから帰った袁傪は、虎(李徴)から頼まれた妻子の面倒をみ、後に兵部侍郎に出世した。

隴西の李徴という進士が虎になり、友人の監察御史袁傪と再会し、身の上を語り、妻子の今後を託して別れるという筋書きは、中島敦の『山月記』と同じ物語と言えます。
『太平広記』の「李徴」には、『山月記』では描かれていない、袁傪と李徴の妻子の後日談が語られているのです。
使いから帰った袁傪は、李徴の子供に父が虎となったことを告げて、李徴の妻子の生活を援助をしました。
さらに、袁傪が兵部侍郎に出世したことも語られています。
このように、『太平広記』の「李徴」は、同年の進士でありながら、人生における没落者となった李徴と、立身出世した袁傪の対比を鮮やかに描いた物語であると言えます。
皇族の子で、家柄・才能ともに恵まれた李徴が、なぜ虎になったかについては、運命論的解釈を示しており、虎となった李徴の言葉を通して、運命の悲劇を表現しています。
当時、この小説を読んだ下級役人たちは、栄達者と没落者のテーマに共感し、李徴の悲劇に涙したかもしれません。

しかし、この『太平広記』の「李徴」には、李徴の心情を表現した七言律詩が書かれていないのです。
名島敦の『山月記』が、『太平広記』の「李徴」の物語に依拠しているのは明らかですが、『山月記』の詩はどこが出典なのでしょうか?
清の康熙帝の時代に成立し、唐代の詩を全て載録した『全唐詩』(1703年)の867巻に収められた「李徴」という人物の詩とその序文が、『太平広記』の「李徴」とつながっていると言われています。
『全唐詩』の「李徴詩」は、次のような序文が付されています。

皇族の子である李徴が天宝15年に進士に合格する。
後に、発狂し、夜に走り出でて、虎と成る。
同じ年、監察御史の李厳が嶺南を旅すると、虎に襲われる。
人語を話す虎の声を聞いて、李厳は虎のことを李徴だと分かる。
虎(李徴)は、虎となった理由を述べ、妻子を託して、詩を吟じる。

このような序文が付されて、李徴の詩が収められています。
『全唐詩』の「李徴詩」は、「偶因狂疾成殊類」で始まる『山月記』の詩と全く同じものです。
虎となった男と友人の名前が、『太平広記』では「李徴」と「袁傪」であるのに対して、『全唐詩』では「李徴」と「李厳」と書かれていますが、名前が異なるだけであり、同一の物語であると言えます。

明の時代に、陸楫によって編纂された『古今説海』(1544年)の説淵部52巻には、「人虎伝」と題する物語が収められています。
さらに、清の時代の陳蓮塘によって編纂された『唐代叢書』(『唐人説薈』)の6集にも、「人虎伝」と題する物語が収められています。
『古今説海』の「人虎伝」は、登場人物名が『全唐詩』と同じく、虎となった男「李徴」と、監察御史の友人「李厳」との物語です。
一方、『唐代叢書』の「人虎伝」は、登場人物名が『太平広記』と同じであり、虎となった男「李徴」、監察御史の友人「袁傪」との物語です。
この二つの「人虎伝」は、登場人物の名前が異なるだけで、同じ筋書きの物語であり、『全唐詩』の「李徴詩」も入っています。

『太平広記』の「李徴」と比べて、「人虎伝」は文の長さが約2倍に増えており、後世の加筆・修正によるものであると言われています。
『太平広記』の「李徴」と、「人虎伝」の最も大きな違いは、李徴が虎となった理由です。
李徴は、次のように告白しています。

南陽の郊外において、かつて、一人の寡婦と密かに通じていた。
その寡婦の家人は、密かにこれを知って、常に私を邪魔しようとした。
そのため、寡婦と再び会うことが出来なくなり、私は風に乗じて家に火を放ち、その一家数人を尽く焼き殺して、立ち去った。
これを恨みとなすのみである。

かつて李徴は、一人の寡婦と密通し、その一家全員を殺したことが残念でならないと語っており、その罪によって虎になったと解釈しています。
『太平広記』の「李徴」が、運命の悲劇であったのに対して、「人虎伝」は不倫と放火殺人による因果応報譚となっているのです。
したがって、「人虎伝」の作者は、『太平広記』の「李徴」に加筆・修正を加えて、物語のテーマそのものを大きく書き換えてしまったと言えます。
以上のことから、李徴が虎となる物語の系譜を整理し、それぞれの影響関係を示した図表を作成しました。(下表・図参照)



上図で示した通り、中島敦の『山月記』は、虎となった主人公を「李徴」、監察御史の友人を「袁傪」としており、「李徴詩」を収めていることから、『唐代叢書』の「人虎伝」に拠っている可能性が非常に高いと言えます。
そして、中島の依拠した「人虎伝」は、『太平広記』の「李徴」、および『全唐詩』の「李徴詩」をルーツをする物語であることが分かりました。

中島は、「人虎伝」を参照して創作していますが、「人虎伝」における不倫と放火殺人の筋書きを削除して、「人虎伝」とは全く異なるテーマの物語へと書き換えています。
前項「李徴はなぜ詩人として成功しなかったのか?」で述べた通り、『山月記』において、中島は因果応報譚ではなく、芸術の道を極める厳しさ、孤独を表現していると言えます。
虎となった理由についても、『太平広記』の「李徴」のように、ただ運命のなせるわざとしないで、李徴の「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」という内面の問題としているところが、中島のメッセージを感じます。

このように、『太平広記』および『全唐詩』の中国の古い物語が、『唐代叢書』の「人虎伝」へと書き換えられ、さらに長い年月を経て、日本の中島敦によって見出されて、新しい命を吹き込まれたということは、現代の読者にとって、奇跡のように幸福なことだと思いました。




参考:小川環樹『唐詩概説』(岩波書店、2005年)
上尾龍介「人虎伝と山月記」(中国文学論集、九州大学中国文学会、1974年)
富永一登 「「人虎伝」の系譜 : 六朝化虎譚から唐伝奇小説へ」(中国中世文学研究、1978年)



2018/01/07

和辻哲郎「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」

和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)
和辻哲郎随筆集 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1995/09/18

2017年4月14日の読書会で、和辻哲郎「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」(坂部恵《編》『和辻哲郎随筆集』、岩波文庫、1995年)を読みました。
和辻哲郎(1889年-1960年)は、『古寺巡礼』(1919年)、『風土』(1935年)などの著作で知られる日本の思想家です。
「埋もれた日本―キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」は、1951年(昭和26年)に発表され、のちに同名の随筆集に収録されました。

応仁以後においては、土一揆や宗教一揆は明らかに政治運動化してきた。(「埋もれた日本」、岩波文庫、99頁)

このころ以後の民衆の思想を何によって知るかということは、相当重大な問題であるが、私はその材料として室町時代の物語を使ってみたいと思う。その中には寺社の縁起物語の類が多く、題材は日本の神話伝説、仏典の説話、民間説話など多方面で、その構想力も実に奔放自在である。それらは、そういう寺社を教養の中心としていた民衆の心情を、最も反映したものとして取り扱ってよいであろう。(99-100頁)

さてそのつもりでこの時代の物語を読んで行くと、時々あっと驚くような内容のものに突き当たる。中でも最も驚いたのは、苦しむ神、蘇りの神を主題としたものであった。(100頁)

和辻は、応仁の乱以後(室町時代末期)の民衆が親しんでいた物語から、「キリシタン渡来文化前後における日本の思想的状況」を明らかにしようとしています。
和辻が「苦しむ神、蘇りの神」をテーマとする物語の例として取り上げたのは、『熊野の本地』です。
また熊野神社の縁起物語の類話として、『厳島の縁起』も紹介しています。
『熊野の本地』、すなわち熊野権現の縁起物語は、熊野神社に今祀られている神々が、どういう経歴を経てインドから日本へ渡来したかという神話・伝説です。
インドのマガタ国王の宮廷で起こった出来事が『源氏物語』風に物語られています。

女主人公は観音の熱心な信者である一人の美しい女御である。宮廷には千人の女御、七人の后が国王に侍していたが、右の女御はその中から選び出されて、みかどの寵愛を一身に集め、ついに太子を身ごもるに至った。そのゆえにまたこの女御は、后たち九百九十九人の憎悪を一身に集めた。あらゆる排斥運動や呪詛が女御の上に集中してくる。ついに深山に連れて行かれ、首を切られることになる。その直後にこの后は、山中において王子を産んだ。そうして、首を切られた後にも、その胴体と四肢とは少しも傷つくことなく、双の乳房をもって太子を哺んだ。この后の苦難と、首なき母親の哺育ということが、この物語のヤマなのである。太子は四歳まで育って、母后の兄である祇園精舎の聖人の手に渡り、七歳の時大王の前に連れ出されて、一切の経緯を明らかにした。大王は即日太子に位を譲った。新王は十五歳の時に、大王と聖人とを伴って、女人の恐ろしい国を避け、飛車で日本国の熊野に飛んできた。これが熊野三所の権現だというのである。(101頁)

この物語では、首なくしてなお嬰児を養った女主人公が熊野の権現となったわけではなく、首なき母親に育てられた太子と、その父と伯父のみが熊野権現となります。
『熊野の本地』の異本の中には、苦難の女主人公自身を権現とする物語もあり、その物語では憐れな新王は、慈悲深い母后の蘇りに成功し、母后を伴って日本へ飛来して、熊野の権現となります。
厳島神社の『厳島の縁起』も同じような筋書きの物語で、『熊野の本地』の類話と言えます。
インドの宮廷には父王とその千人の妃がいましたが、若き新王はさまざまな冒険の後に、遠い異国から理想の王女を連れてきて、自分の妃とします。
新王の美しい妃に、父王の千人の妃たちの憎悪と迫害が集まり、新王の妃は山中に拉致され首を切られます。
ここで、『熊野の本地』と同じく、首なき母親の哺育が物語られるのです。
新王は、遠い地方への旅から帰ってきて、山中で妃の白骨と十二歳になった王子を見出します。
憐れな王子のその後の物語は、『熊野の本地』とは違っています。
『厳島の縁起』では、王子は宮廷に行き、祖父王の千人の妃の首を切って母妃の仇を討った後、母妃の首の骨を見つけ出して、母妃の蘇えりに成功します。この蘇った妃と、その王子と父王が厳島神社の神々です。

ここに我々は苦しむ神、悩む神、人間の苦しみをおのれに背負う神の観念を見いだすことができる。奈良絵本には、首から血を噴き出しているむごたらしい妃の姿を描いたものがある。これを霊験あらたかな熊野権現の前身としてながめていた人々にとっては、十字架上に槍あとの生々しい救世主のむごたらしい姿も、そう珍しいものではなかったであろう。(102頁)

このように苦しむ神、死んで蘇る神は、室町時代末期の日本の民衆にとって、非常に親しいものであった。もちろん、日本人のすべてがそれを信じていたというのではない。当時の宗教としては、禅宗や浄土真宗や日蓮宗などが最も有力であった。しかし日本の民衆のなかに、苦しむ神、死んで蘇る神というごとき観念を理解し得る能力のあったことは、疑うべくもない。そういう民衆にとっては、キリストの十字架の物語は、決して理解し難いものではなかったであろう。(107頁)


このように和辻は、「苦しむ神、蘇りの神」をテーマとする縁起物語(神話・伝説)を紹介し、「キリシタン渡来」直前に、それを受け容れる素地が室町時代末期の民衆にあったと論じています。
さらに和辻は、新興武士階級の家訓書として『早雲寺殿二十一条』、『朝倉敏景十七箇条』、『多胡辰敬家訓』を紹介して、「近代を受け容れるだけの準備」がすでに出来ていたと論じています。
以上のように、民衆の思想と新興武士階級の思想とを見て、和辻は、応仁以後の無秩序な社会情勢のなかで、「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想状況」が十分に成立していたと論じています。
したがって、「室町時代の文化」を貶めるのは「江戸幕府の政策に起因した一種の偏見」として、和辻は「室町時代の文化」を再評価しているのです。


熊野の縁起物語は、本当に日本人のキリスト教受容に影響を与えたのか?


わたしは、首なき母親が子育てをする『熊野の本地』や『厳島の縁起』が、大変興味深かったです。
しかし和辻が、熊野や厳島の縁起物語がキリスト教受容に役立ったと結論づけるているのは、論理に飛躍があると思いました。
当時の熊野神社の信者人口がどれだけいて、どのような職業集団で、そのうち何パーセントがキリスト教徒になったのかを明らかにしなければ、因果関係を立証できないのではないかと思います。

改宗前の信仰が、キリスト教受容に対して影響を与えていたと論じるのであれば、やはり長崎など、もっとも改宗者が多く、キリスト教信仰が盛んだった地域を取り上げるべきだと思います。
熊野や厳島が、キリスト教改宗者が特別多い地域だったとは考えられないので、長崎の寺社の縁起には、熊野のような「苦しむ神、蘇りの神」の物語がなかったので、和辻は取り上げなかったのではないか、自分の結論に都合の良い熊野の縁起を例示したのではないか、と思ってしまいます。

和辻の論証には納得できない点が多かったですが、<改宗前の信仰がキリスト教受容に対して影響を与えたかどうか>、というテーマ設定自体は非常に面白いと思ったので、もっと深く掘り下げた研究があればぜひ読んでみたいです。
和辻が取り上げなかった、たとえば島原の人々は、キリスト教改宗前はどんな信仰を持っていたのか?、キリスト教伝来直前の九州北部の思想傾向は?、など非常に疑問に思いました。
九州北部の寺社の縁起・由緒の史料分析を丹念に行えば、当時のキリスト教の急速な普及の背景がより明らかになるかもしれません。


日本人のキリスト教受容に影響を与えたかどうかとは関係なく、熊野の縁起物語自体は、非常に独特で興味深いと思いました。
首を切られてなお、山中でたった一人で赤子を育てた母親の姿は、想像するとすさまじいものです。
首なき母親の物語に、当時の人々は何を祈り、求めたのでしょうか? 死後も子供を守り続ける母性の象徴として、安産の祈願、子供の健康祈願など、たくさんの女性たちの願いが込められたのかな、と想像します。
熊野の縁起における、宮廷で一人だけ王の寵愛を受け、他の女御たちから嫉まれ、不幸な運命になるという物語は、『源氏物語』の桐壺更衣を思い起こされます。
女性同士の嫉妬や嫌がらせは、『源氏物語』をはじめ、インドが舞台の『熊野の本地』でも同じでおあり、時代や国を問わず普遍的なテーマであるため、熊野の縁起物語は当時の民衆に親しまれたのではないでしょうか。


わたしが、この首なき母親について、特に興味深く思うのは、<祟らない>ところです。
首なき母親は、物語中で完全な被害者であり、自分自身では加害者に復讐をしていません。
厳島の縁起では、息子が母親の復讐を果たしますが、母親自身は自分を殺した人々を怨む<祟り神>ではないのです。
「蘇り」についても、母親自身が成し遂げたのではなく、息子の努力によります。

「天神様」として祀られている菅原道真公は、苦しんで死んだ神であるのは間違いないですが、和辻が「苦しむ神」として取り上げていないのはなぜでしょうか。
早良親王や菅原道真、崇徳院、平将門など、苦しんで死んだ神々(元・人間)は、「祟り神」となったからこそ、人々は霊鎮めの祭りをして、畏怖し、信仰してきたのだと思います。
しかしイエス・キリストは、苦しんで死んだ神である点は同じですが、自分を殺した人々に呪いや疫病をふりまく「祟り神」ではないのです。

和辻が、菅原道真ではなく、この首なき母親神を取り上げたのは、この母親が<祟らない>点において、イエスとの共通性を感じとったからではないかと思います。
そのため和辻は、キリスト教受容の背景に、キリスト教と類似した信仰がすでに成立していたと論じるのに、熊野の縁起物語を取り上げたのだと思います。


また読書会では、キリスト教受容の背景には、熊野の縁起物語の影響よりも、貧困があったはずだ、という意見が多く出されました。
貧困状態であれば、キリスト教改宗につながるのでしょうか?
キリスト教は、五穀豊穣や商売繁盛といった現世利益をもたらす教えではないので、当時の人々が貧しさから脱出するために改宗したとは言い切れないのでは、と思います。
中世後期は、凶作や飢饉、疫病、内戦がたびたび発生し、人々にとって<死>が身近な極限の状況だったと考えると、<死後の救済>を求めて、キリスト教に改宗したのではないか、と考えられます。
キリスト教が急激に普及した同じ時期に、北陸・東海・畿内では、死後の安寧を約束する一向宗(浄土宗・浄土真宗)の勢力が強まったと言われています。

1591年~1600年頃に、天草・長崎などで刊行されたキリスト教の教義書『どちりな・きりしたん』の序文では、「一切人間に後生を扶かる道の眞の掟」(天正19年(1591年)、加津佐版)と書かれています。
当時の宣教師たちが、キリスト教の教義について、「後生を扶かる」すなわち<死後の救済>を保証するものとして、教えを広めていたことが分かります。
『どちりな・きりしたん』は、イエスの十字架上の死と復活の意義についてよりも、<死後の救済>の側面を強調しすぎているように感じます。
このような宣教師たちの教えを聞いて、人々がキリスト教に改宗したのであれば、それほどまでに死後の魂の行方に不安を感じていたということだと思います。



「埋もれた日本」はどこにあるのか?


論文の表題である「埋もれた日本」とは、何を意味しているのでしょうか?
和辻の議論では、「キリシタン渡来」直前の「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況」を指しています。

しかし文化的でない、別の理由から出た鎖国政策は、ヒステリックな迫害によって、この時代に日本人の受けたヨーロッパ文化の影響を徹底的に洗い落としてしまった。その影響の下に日本人の作り出した文化産物も偶然に残存した少数の例外のほかは、実に徹底的に湮滅させられてしまった。(114頁)

中江藤樹、熊沢蕃山、山鹿素行、伊藤仁斎、やや遅れて新井白石、荻生徂徠などの示しているところを見れば、それはむしろ非常に優秀である。これらの学者がもし広い眼界の中で自由にのびのびとした教養を受けることができたのであったら、十七世紀の日本の思想界は、十分にヨーロッパのそれに伍することができたであろう。(128頁)

鎖国は、外からの刺戟を排除したという意味で、日本の不幸となったに相違ないが、しかしそれよりも一層大きい不幸は、国内で自由な討究の精神を圧迫し、保守的反動的な偏狭な精神を跋扈せしめたということである。(129頁)

和辻は、室町時代の文化を「ヨーロッパ文化に接してそれを摂取し得るような思想的情況」が成立していたとして、肯定的に評価しています。
そして、江戸時代の文化における、キリスト教の排斥と儒学の採用を「保守的反動的な偏向」と批判し、「日本人の自由な思索活動」を妨げたとして、否定的に評価しています。
以上の『埋もれた日本』の構成から、和辻の考え・歴史観を整理して、見取図を作成しました。(下図参照)


このことから、和辻は<西洋>を到達目標と見なしており、室町時代や江戸時代の文化について、いかに<西洋>に近づいていたか、ということを評価基準にしていたことが分かります。
和辻の議論において、<西洋>は<近代>とほぼ同義語として使われています。
したがって和辻は、江戸時代の「保守的反動的」な文化によって、「埋もれていた日本」こそが本来のあるべき「日本」であり、<西洋>に劣らない<近代>であった、と考えていたと言えます。
明治期以降の極端な西洋崇拝の影響を受けた、<西洋>もしくは<近代>への到達度を歴史的評価の基準とする考えは、和辻だけでなく、現代の日本でも少なからず引き継がれているのではないでしょうか。
和辻は、シェークスピアやベーコンについて「近代的」と評価する一方で、林羅山の儒学を「シナの古代の理想」と貶めています。
このような西洋崇拝の歴史観は、<西洋>が人種差別や植民地支配を正当化してきた間違った論理と同じであり、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ、ポリネシアなどの非西洋文化を差別することにつながる危険な考え方だと思うのです。

さらに、「埋もれた日本」と題して、熊野や厳島の縁起物語を紹介することで、「日本」を論じることができるのでしょうか?
京都や近畿地方など、京都近辺の思想・文化は、「日本」を構成する一つの部分ではあっても、「日本」全体を代表するとは言えないと思います。
古代では、北東北や南九州も「日本」ではなく、中世後期でもアイヌや琉球王国は「日本」に含まれません。
当時は、各地方の差異が現代とは比較にならないほど大きかったと考えると、一つの地方の思想・文化をもって「日本思想」「日本文化」とまとめることはできないと言えるでしょう。

中世後期の民衆の思想・文化を反映したものとして、熊野や厳島の縁起物語だけを取り上げることは議論が粗すぎると思いますが、首なき母親の物語の面白さ・独特さは間違いないです。
当時の「日本」を代表する思想・文化としてではなく、<思想の地域性>を考慮しながら、熊野や厳島周辺地域の思想・文化を明らかにする題材として、首なき母親の物語を取り上げれば、より興味深い議論になるのではないでしょうか。
当時の熊野・厳島周辺地域の信仰と、その他の地域との比較を行うことによって、熊野や厳島の縁起物語の特異点または類似点が明らかになり、<西洋>と似ている、と言った単純な評価ではない、新たな理解を得られるのではないかと思います。