2013/07/31

ボフミル・フラバル「あまりにも騒がしい孤独」

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)
あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)
  • 発売元: 松籟社
  • 発売日: 2007/12/14

ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』(石川達夫訳、松籟社)を読みました。
2013年6月の読書会課題本でした。

ボフミル・フラバル(1914年~1997年)は、ミラン・クンデラ(1929年~)と共に、20世紀のチェコ文学を代表する作家です。
フランスに亡命し、フランス語で著作したクンデラよりも、チェコ国内にとどまり、チェコ語で著作し、地下出版を続けたフラバルの方が、チェコ国民の人気が高いようです。
日本では、クンデラの方がよく知られていますが、フラバルも大変面白かったので、もっと翻訳が増えて、読者が増えてほしいですね。


『あまりにも騒がしい孤独』は、プラハで35年間にわたって、地下室の小さなプレスで、故紙を潰す作業をしてきた労働者ハニチャが主人公です。
この作品は、社会主義時代には出版を許されず、長い間タイプ印刷の地下出版で、読まれてきました。

「僕」=ハニチャの一人称の語りで物語が進みますが、大量に飲酒をしながら仕事をするハニチャは、明らかにアルコール依存症であり、信頼出来ない語り手です。
主人公ハニチャの青年時代の思い出と、アルコールによる幻視、地下室とアパートを往復する現在の生活が織り交ぜられた、幻想的な作風でした。
わたしは、ボリス・ヴィアンの『日々の泡』(『うたかたの日々』)のような、どこから幻想で、どこから現実なのか分からない作品が好きでして、フラバルも面白く読むことが出来ました。

※ネタバレ注意※


ハニチャの回想には、若かりし頃に交友のあったマンチンカという女性、亡母、叔父、そして青春の恋人であるジプシー娘(イロンカ)が登場します。
第1章では、ハニチャはすでに35年間働いており、あと5年で年金生活という年齢です。
物語開始現在では存命だった叔父も、第5章で亡くなり、ハニチャによって手厚く葬られます。
現在のハニチャを取り巻く人々として、ハニチャを罵倒する所長(ボス)や、地下室に故紙を運んで来る二人のジプシー娘、ハニチャが故紙の中からこっそり持ち出した新聞・雑誌や本を買い取る、元美学教授や聖三位一体教会の管理人フランチーク・シュトゥルムなどが登場します。
物語の中で断片的に描かれている、現在と過去の出来事、そして幻想を整理し、時系列にまとめると、上の図になります。
この図は、物語の構成を図示したものですが、ハニチャの人生そのものですね。


物語の中では、「35年間」という数字が何度も登場します。

三十五年間、僕は故紙に埋もれて働いている―これは、そんな僕のラヴ・ストーリーだ。(7頁、第1章冒頭)

三十五年間、僕は故紙を潰していて、その間に収集人たちが地下室にすてきな本を山ほど投げ入れたので、もし僕が納屋を三つ持っていたとしても、一杯になってしまったことだろう。(18頁、第2章冒頭)

三十五年間、僕は故紙を潰しているけれど、もしもう一度選ばなければならないとしても、この三十五年間にしてきたこと以外の何もしようとは思わないだろう。(32頁、第3章冒頭)

このように、「三十五年間」という言葉から始まる章が、第1章、第2章、第3章、第6章、第7章と、全部で8章あるうちの5章もあります。
第1章だけで、「三十五年間」という言葉は、12回も使われているのです。
作者ボフミル・フラバルは、なぜこれほど「35年間」という数字を強調したのでしょうか?
ハニチャの年齢について、物語中で明らかにされていませんが、「僕は三十五年間、水圧プレスで故紙を潰していて、年金生活まではあと五年だ。」(15頁、第1章)という記述から、20歳から60歳まで40年間働くとして、現在55歳頃であると推測できます。
『あまりにも騒がしい孤独』が1976年発表であることから、ヒトラーによってチェコが保護領となり、ドイツに占領された1939年3月から、執筆当時の現在(1974年頃)までの「35年間」を指しているのではないかと思います。
この物語は、同時代に生きるチェコの人々に向けて書かれており、当時の読者は、現代のわたしたちよりもはるかに敏感に、「35年間」という数字の象徴性や意味を読みとったことでしょう。


読書会では、グロテスクで生理的に受け付けない、二度と読みたくないといった感想も聞きました。
地下室の故紙集積場には、新聞・雑誌や本のほかに、アイスクリームの包み紙、ペンキの散った紙、食肉公社から出た血のついた紙までが運び込まれ、ハニチャは毎日紙の山全体に水を播きます。
そのため、地下室はいつも湿って黴臭く、ネズミが巣食い、ハニチャは血まみれで作業をします。
現代の古紙リサイクルの常識からすると、食品で汚れた紙や、油やペンキで汚れた紙、血のついた紙はもちろん、水に濡れた紙全体が、製紙工場で禁忌品とされるものです。
リサイクル産業の中でも、古紙リサイクルの現場は特にキレイですから、ハニチャの作業風景にはびっくりさせられました。
ハニチャの作業風景では、明らかにリサイクル不可能ですので、大変リアルに描かれていますが、全て作者フラバルの虚構である可能性があります。
あえて虚構の作業風景を描いたとすると、ハニチャの作業風景をグロテスクに、よりグロテスクに描き出すことに、作者の意図があったように思えるのです。

ハニチャは、小さなプレスで故紙を圧縮して紙塊を作るという単純な作業に、独特のこだわりを持って向き合い、手間と時間をかけて作業し、こだわりの紙塊を作ることに喜びを見出しています。
レンブラントの「夜警」や、マネの「草上の昼食」、ピカソの「ゲルニカ」で側面を飾り、心臓部にはゲーテの『ファウスト』や、ヘルダーリンの『ヒュペーリオン』、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を入れて、紙塊を作ります。
ハニチャは、紙塊を作る作業は「美しい創作になる仕事」であり、自分は自分にとって「芸術家であると同時に観客でもある」と言います。
ハニチャが「僕のミサ、僕の儀式」と言うように、彼の紙塊に対するこだわりは、名高い巨匠たちの複製画や、ドイツを代表する文学・哲学の<死>を悼み、手厚く<埋葬>する儀式として理解できます。
母や叔父についても、<死>と<埋葬>というテーマが共通して描かれています。
母が火葬され、遺骨を手回し臼でこなごなに砕かれる場面は、プレスによる故紙や本の圧縮を連想させますし、とっておきの美しい紙塊を作るように、叔父が生前大切にしたもので叔父の棺を飾ります。
ネズミが巣食い、蝿が飛び、湿って黴臭い地下室というグロテスクさと対照的に、ハニチャの紙塊作りは、美しく神聖ですらあります。
「きれいはきたない、きたないはきれい」という、シェイクスピアの『マクベス』の言葉を思い起こしますね。

◆◆◆

第4章では、醜悪さと神聖さが同時に描かれるという、この物語の特徴が、最も強烈に表現されています。
食肉公社の血まみれの紙が運ばれ、地下室には肉蝿が飛び回り、ハニチャは大量に飲酒をしながら、血まみれで紙塊を作ります。
アルコールの影響か、作業をするハニチャには、イエスと老子の幻が見えるのです。
血と蝿と、イエスと老子という組み合わせの強烈さ、混沌さにはくらくらしますね。

だから今日、僕の地下室に、僕の好きな二人の人物が来ても、別に驚かなかったし、二人が並んで立っていたので、どちらがどれくらいの年かということが、二人の思想を知るためにすごく重要だということに、初めて気づいた。そして、蝿たちが狂ったように踊って唸り、僕が作業衣を湿った血で濡らして、緑のボタンと赤のボタンを交互に押している間にも、イエスは絶えず丘の上に上って行き、一方、老子はもう頂上に立っているのが見えた。(48-49頁、第4章)

ハニチャが見た幻の中で、イエスと老子は、とても対照的な人物として描き出されています。

<イエス>
  • 絶えず丘に上って行く
  • 義憤に駆られた若者は世界を変えようとしている
  • 奇跡に向かう現実を祈りで呪っている
  • 若い男やきれいな娘たちの集団の真ん中で始終義憤に駆られている
  • 楽天的な螺旋
  • いつも葛藤とドラマに満ちた状況の中にいる

<老子>
  • もう頂上に立っている
  • 諦念に満ちたように周りを眺めて、原初への回帰によって自らの永遠を裏打ちしている
  • 「道」を通って自然の理法に従い、ただそのようにしてのみ博学な無知に至る
  • まったく独りで、威厳のある墓を探し求めている
  • 出口のない環
  • 静かな瞑想の中で、矛盾に満ちた道徳的状況の解決しがたさについて思いをめぐらせている

イエスを義憤に駆られる若者、老子を諦念に至った老人として描かれいますが、イエスと老子=<若者>と<老人>の優劣比較として解釈するのは間違いだろうと思います。
イエスと老子について、ハニチャはあらかじめ「僕の好きな二人の人物」と前置きしており、ハニチャがイエスと老子のどちらにも共感していることが分かります。
グロテスクさと神聖さが同時に存在することと、若々しさと老人の諦念が同時に存在することはつながっており、この物語の注目すべき特徴です。


イエスと老子=<若者>と<老人>と同じ対比が、第8章でも登場します。
ハニチャはイグナティウス・デ・ロヨラ教会を見て、「陸上選手みたいに躍動感にあふれている」カトリックの像たちと、「車椅子に麻痺したように座っている」チェコ文学の大家たちの像を見ます。

僕は、人間の体は砂時計なのだと思う―下にあるものは上にもあり、上にあるものは下にもある。それは、上下に重ね合わされた二つの三角形であり、ソロモンの印であり、ソロモン王の青春の書『雅歌』と、「空の空」という老君主としての彼のまなざしの結果である『伝道の書』との釣り合いだ。(126頁、第8章)

8章では、一人の人間の中に若さと老いが同時に存在することを、「砂時計」と「ソロモンの印」に喩えて説明しています。
上下に重ね合わされた二つの三角形である「ソロモンの印」は、「ダビデの星」と呼べば、すぐに六芒星(ヘキサグラム)をイメージ出来るでしょう。
この図形は、上下逆さまにしても同じであるため、<上>と<下>は相対的な概念になります。

若者の歌
恋人よ、あなたは美しい。
あなたは美しく、その目は鳩のよう。

おとめの歌
恋しい人、美しいのはあなた
わたしの喜び
わたしたちの寝床は緑の茂み。
レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。(「雅歌」1章15節-17節、新共同訳)

旧約聖書の『雅歌』は、若い男性と女性の間で交わされた、愛の相聞歌集です。
1章1節に「ソロモンの雅歌」と記されているため、ソロモン王が実際に書いたかどうかは別として、ハニチャが「ソロモン王の青春の書」と言うことは頷けます。
『雅歌』は、花婿役と花嫁役の歌と合唱が交互に進行し、オラトリオや教会カンタータのようです。
結婚へのあこがれや期待、夢、花嫁への礼讃、花嫁の舞踏、そして相思相愛が歌われ、若々しく幸福感にあふれています。

コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることはなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。(「コヘレトの言葉」1章2節-7節、新共同訳)

ハニチャの言う『伝道の書』は、旧約聖書の『コヘレトの言葉』を指します。
実際には、ソロモン王よりもずっと後の時代に書かれたものらしいと考えられていますが、1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と記されているため、ハニチャが『コヘレトの言葉』を老ソロモン王が書いたと言うのも分かります。
コヘレトは、「伝道」や「伝道者」という意味の言葉で、この当時の「伝道者」とは「会衆に向かって人生哲学を説く人」といった意味で、キリスト教の伝道や伝道者といった意味とは異なります。
『コヘレトの言葉』は、「すべては空しい」という虚無思想と、それに耐えようと努力する自問自答が記されています。

ハニチャは、上は下に、下は上になる「砂時計」や「ソロモンの印」のように、若さあふれる『雅歌』も、すべてが空しい『コヘレトの言葉』も、どちらもソロモン王その人の中で同時に存在し、釣り合っているのだと言いたいのでしょう。
この物語全体で、老いたハニチャの現在と、若かりし頃の回想が、交互に断片的に描かれていることも、ハニチャ自身が「砂時計」であり「ソロモンの印」であることを表現しているように思えます。

こうした思想を持ちながら、現実には、「社会主義労働班」の若者たちの登場によって、老いたハニチャは35年間勤めた故紙を潰す仕事から追われ、ついに自殺を選んでしまう結末が、なんとも皮肉ですね。

◆◆◆

この物語を通して、「プラハの春」が挫折した後の、「正常化」と呼ばれるバックラッシュの時代に、検閲と言論統制がどれだけ厳しかったかが、よく分かります。

でも、僕が一番感銘を受けたのは、クマネズミとドブネズミがちょうど人間と同じように全面戦争を行って、その一つの戦争はもうクマネズミの完勝に終わったという、学問的知見だった。けれども、クマネズミはすぐに二つのグループ、二つのクマネズミ党派、二つの組織されたネズミ社会に分裂して、ちょうど今、プラハの下のあらゆる下水道、あらゆる排水溝で、生死を賭けた熾烈な戦いが行われている―どちらが勝者になり、したがって、傾斜下水道を通ってポドババに流れ込むあらゆるゴミと汚物への権利をどちらが獲得するかをめぐる、大クマネズミ戦争が行われているんだ。(34頁、第3章)

35年間故紙を潰し、自分の仕事に誇りと生きがいを持っているハニチャは、『狙われたキツネ』の主人公アディーナのように、秘密警察から監視されたり、命を脅かされたりすることはありません。
しかし、この物語の中には、政治的メッセージが随所に盛り込まれています。
クマネズミとドブネズミの戦争はクマネズミの勝利で終わったが、すぐにクマネズミは内部分裂して、現在は大クマネズミ戦争の真っ最中であるというエピソードは、そのまま読んでも面白いですが、明らかに寓話として読めますよね。
共産党をクマネズミ、民主党、人民党などの反共勢力をドブネズミに見立て、共産党と反共勢力の全面戦争は、1948年のクーデターが失敗して、共産党の完勝に終わったが、共産党内部でも保守派と改革派に分裂し、1968年の「プラハの春」から、「正常化体制」の現在まで、生死を賭けた熾烈な戦いが行われている、というイメージでしょう。



チェコスロヴァキアとボフミル・フラバル


フラバルは、1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったチェコに生まれます。
1914年と言えば、ハプスブルク家の皇位継承者フランツ・フェルディナンドがセルビアで暗殺されたことを発端に、ヨーロッパが第一次世界大戦に突入した年です。
第一次大戦の激動と混乱のさなか、1918年に新国家チェコスロヴァキアは産声をあげます。
チェコスロヴァキアの民族構成は複雑で、1931年の統計によると、チェコ人とスロヴァキア人は両方で「チェコスロヴァキア民族」を構成するという建前になっており、チェコ・スロヴァキア人が66.9%、ドイツ人が22.3%、ハンガリー人が4.8%、ウクライナ人・ロシア人が3.8%、ユダヤ人が1.3%、ポーランド人が0.6%でした。
1930年代に、世界恐慌の影響がチェコスロヴァキアにも及び、特に軽工業が盛んなドイツ人地域が打撃を受けます。
ドイツ系住民が多数を占めるズデーテン地方では、チェコスロヴァキアからの分離独立を求めるズデーテン・ドイツ党(ズデーテン・ドイツ郷土戦線)が支持を広げ、1938年3月にオーストリアを併合したヒトラーは、9月にはズデーテン地方の割譲を要求し、10月にドイツ軍がズデーテン地方に侵攻しました。
1939年にはスロヴァキアはドイツの保護国となり、チェコはドイツの保護領として占領下に置かれ、チェコスロヴァキア共和国は消滅し、第二次世界大戦を経験することなります。
この年、フラバルは25歳です。

占領下のチェコでは、一切の政治的自由は奪われ、チェコのユダヤ人はもっとも悲惨な運命に見舞われ、チェコとスロヴァキア合わせて約27万人のユダヤ人が犠牲になったと言われています。
ロマもまた絶滅政策の対象となって、過酷な運命に見舞われました。
そして1945年、ドイツ軍はチェコとスロヴァキアの領土から、ソ連軍をはじめとする連合軍によって撃退され、5月には首都プラハがソ連軍の手によって解放されたのでした。
この年、フラバルは31歳です。

復活したチェコスロヴァキア共和国内では、ズデーテン・ドイツ人の存在自体が共和国解体の原因であるとみなされ、ドイツ系住民に対する報復行為が始まり、大統領令で正式にドイツ系住民の財産没収や権利の制限が行われ、組織的な強制移住が進められた結果、約300万人のドイツ系住民が追放され、ドイツやオーストリアに難民として移りました。
チェコスロヴァキアでは、長い間、この問題にふれること自体がタブーとされてきましたが、フラバルが結婚したエリシュカ・プレヴォヴァー(1926年~1987年)という女性は、国内に残った数少ないドイツ系住民の一人であり、フラバルはマイノリティである妻の視点を通して、チェコとチェコ人を見ることが出来たと言われています。

政治的には、チェコスロヴァキアは戦前の民主主義体制が復活し、1946年に総選挙が行われて、共産党が第1党となります。
1948年2月に、国民社会党、民主党、人民党が協力して、共産党党首ゴットヴァルトを首相とする内閣を倒そうとしましたが、失敗します。
その後、共産党による一党独裁体制が急速に形成され、6月にゴットヴァルトが大統領となり、チェコスロヴァキアは事実上、社会主義共和国となりました。
東西の冷戦が緊張の度を増すなかで、チェコスロヴァキアではソ連のスターリン体制にならった抑圧的な政治が行われました。
1953年にソ連でスターリンが死去し、フルシチョフによるスターリン批判が行われ、ハンガリーやポーランドなど東欧諸国で体制批判の運動が起こったときも、チェコスロヴァキアでは大きな動きはありませんでした。

しかし1960年代に入り、西側諸国との経済的格差が明らかになり、生活水準の低下が目立ち始めると、チェコスロヴァキアの共産党内部にも、これまでの路線を見直し、社会主義建設をやり直すべきだとの議論が高まります。
1968年1月にアレクサンデル・ドゥプチェクが第一書記に任命されたときから、「人間の顔をした社会主義」をスローガンに、検閲の廃止、旅行の規制緩和、市場原理導入の方針が決められ、改革の動きが急速に進みました。
後に「プラハの春」と呼ばれる1968年の改革に対して、ソ連政府はチェコスロヴァキアが東側陣営から離脱するのではないかとの懸念を強め、軍事介入に踏み切ります。
同年8月、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構5ヵ国の軍が、突如チェコスロヴァキア領内に侵攻し、進駐する戦車と抗議する群衆の衝突で、国内は大混乱に陥ります。
こうしてチェコスロヴァキアの大胆な試み「プラハの春」は挫折し、改革派の共産党指導部は排除され、全党員の三分の一にあたる約50万人が党から追放されました。
そして、「正常化」と呼ばれる極端に保守的な体制が訪れるのです。
この年、フラバルは54歳。

「正常化体制」は、経済的には停滞し、政治・社会的な自由も制限された重苦しい時代でしたが、政府の政策に異議を唱えない限り、国民には一定程度の生活が保障されていました。
社会主義政権によって、各都市に次々と集合住宅が建てられ、人々はそこに住居をあてがわれて、職場との往復をする毎日を過ごします。
スーパーマーケットの品揃えは貧弱で、品質も満足ではなく、サービス部門の劣悪さには定評があり、能率が悪い、応対が不親切などの不満は並べればきりがなかったと言います。
夏になれば、1~2週間の休暇をとって、山岳地帯の保養施設などでくつろぎ、人によっては同じ社会主義国のユーゴスラヴィアかブルガリアなどの海岸にある保養地に旅行することも出来、これが最高のぜいたくとみなされていました。
人々は、こうした暮らしに対し、一種のあきらめと、これもそれほど悪いものではない、という気持ちを半々に抱きながら暮らしていたようです。
もちろん、いつまでこの体制が続くかについては、一切口にしないという暗黙の了解も成り立っていました。
この政治的な無関心が社会を覆う中で、一部の知識人たちは、人権擁護運動というかたちの異議申し立てを続け、1977年からは人権運動「憲章77」を開始します。
「憲章77」の発起人のひとりである劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルは、何度も投獄されながら、運動の中心となって活動しました。

ソ連で始まったペレストロイカ政策は、チェコスロバキアにとっても転機となります。
1989年11月、プラハの学生たちは長年の抑圧に対する抗議の声をあげ、政府を批判するデモが連日繰り返され、政府はついに屈しました。
共産党は一党独裁体制を放棄し、12月には民主化運動の指導者であったヴァーツラフ・ハヴェルが大統領に選ばれます。この革命が、暴力を伴わずに成功した、いわゆる「ビロード革命」です。
この年、フラバルはすでに75歳。
検閲が厳しいために、フラバルは地下出版や亡命出版社から作品を発表していましたが、「ビロード革命」による検閲廃止の後、フラバルの作品はどっと出版され、全19巻のフラバル全集も出版されました。
新しい共和国は、政治的・社会的自由を保証し、早期に市場原理を導入して経済立て直しを目指しますが、大きな問題がたちはだかります。
急激な市場経済化を進めたいチェコ側と、穏健な改革を求めるスロヴァキア側との対立、さらにスロヴァキア側の民族的主張が強まり、主権国家を求める声が一気に噴出します。
1993年1月、ついにチェコとスロヴァキアは正式に分離し、「チェコスロヴァキア」は世界地図上から静かに消えていったのです。
そして1997年、いくつもの激動や大転換を経験したフラバルは、82歳で亡くなりました。


参考:薩摩秀登『図説 チェコとスロヴァキア』(河出書房新社、2006年)
林忠行『粛清の嵐と「プラハの春」 チェコとスロヴァキアの40年』(岩波ブックレット、1991年)



読了日:2013年6月23日