2013/01/09

ドストエフスキー「九通の手紙にもられた小説」


ドストエフスキー『九通の手紙にもられた小説』(1847年)を読みました。
新潮社『ドストエフスキー全集 1』に収録されている、小泉猛訳です。
ドストエフスキー全作品を読む計画の第3作目です。

1845年5月、24歳の若い無名作家だったドストエフスキーは、駆け出し作家のグリゴローヴィチと、詩人ネクラーソフに『貧しき人びと』を絶賛され、当時の批評界の大立者であったベリンスキーに紹介されます。
同年夏に、ドストエフスキーは『分身』の執筆を始めます。
『分身』執筆中に、ドストエフスキーはネクラーソフ、グリゴローヴィチと3人で、ユーモア雑誌「ズボスカール」(嘲笑う人)を企画します。
同年11月、「ズボスカール」のために、ドストエフスキーは『九通の手紙にもられた小説』を一夜で書き上げたのです。
雑誌刊行の許可が下りなかったため、『九通の手紙にもられた小説』は1847年に、ネクラーソフとパナーエフによる雑誌「同時代人」に掲載されました。


『九通の手紙にもられた小説』は、デビュー作『貧しき人びと』と同じく、書簡体小説です。
ピョートル・イワーヌイチと、イワン・ペトローヴィチとの間で交わされる往復書簡で構成されています。
ロシア文学者・翻訳者として有名な米川正夫氏は、「彼の作中もっとも無価値のものであることは間違いない」と酷評していますが、わたしは抱腹絶倒でした!
チェーホフのユーモア小説がお好きな方は、楽しめる作品だと思います。


以下に、物語の構成を整理してみましょう。

<第1の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (おそらく11月7日付)
    イワン・ペトローヴィチに相談があり、直接会って話したい。 イワン・ペトローヴィチ宅を訪問したが会えず、ダンスパーティーや劇場を探しても会えなかった。→嘘
    エヴゲーニイ・ニコラーイチを、何とか遠ざけてもらいたい。→嘘?

<第2の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ
    自分を探していたらしいが、自分はちゃんと自宅にいた。
    昨日はピョートル・イワーヌイチ宅を訪問したが会えず、ペレパルキン氏宅で探しても会えず、翌日もピョートル・イワヌーイチ宅を3回訪問したが会えなかった。
    ピョートル・イワヌーイチは自分との約束を無視している。 エヴゲーニイ・ニコラーイチは富裕な地主貴族の生まれ。

<第3の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ
    昨晩5時に叔母が卒中を起こし、危篤であるため、一晩中付き添っていた。→嘘
    翌日、叔母が持ち直したので、イワン・ペトローヴィチ宅へ伺ったが、会えなかった。→嘘
    タチヤーナ・ペトローヴナから、イワン・ペトローヴィチがスラヴャーノフ宅を訪問すると聞いたので、自分もスラヴャーノフ宅を必ず訪問する。→嘘

<第4の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ
    自分はスラヴャーノフ宅を訪問する予定は無かったが、ピョートル・イワーヌイチの手紙を読み、スラヴャーノフ宅を訪問するように、という指示であると判断して、スラヴャーノフ宅を訪れたが、会えなかった。 今朝もピョートル・イワヌーイチ宅を訪問したが、会えなかった。

<第5の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月11日付)
    昨夜の午後11時に、叔母が死去したため、イワン・ペトローヴィチに会えなかった。→嘘
    先週、イワン・ペトローヴィチから受け取った銀貨350ルーブリは、借用証書が存在していないので、借用したわけではない。→嘘?

<第6の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ (11月14日付)
    自分は、エヴゲーニイ・ニコラーイチが、ピョートル・イワーヌイチ宅へ出入りするよう仕掛けた。
    カード賭博で、エヴゲーニイ・ニコラーイチから金を巻き上げ、ピョートル・イワーヌイチと自分とで利益を折半する約束だった。
    しかし、ピョートル・イワーヌイチは、自分から銀貨350ルーブリを借り、エヴゲーニイ・ニコラーイチから巻き上げた金をも独り占めしようとしている。 銀貨350ルーブリと、約束したカード賭博の利益の分け前を要求する。

<第7の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月15日付)
    今後いついかなる場合にも、イワン・ペトローヴィチと会うことはない。自分の妻が、タチヤーナ・ペトローヴナから借りていた『ラマンチャのドン・キホーテ』を返却する。

<第8の手紙①> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ (11月16日付)
<第8の手紙②> アンナ・ミハイロヴナより、エヴゲーニイ・ニコラーイチへ (11月2日付)

<第9の手紙①> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月17日付)
<第9の手紙②> タチヤーナ・ペトローヴナより、エヴゲーニイ・ニコラーイチへ (8月4日付)


イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチは、カード賭博詐欺師であり、裕福な青年貴族のエヴゲーニイ・ニコラーイチから多額の金を巻き上げる計画をしていました。
カード賭博詐欺の利益をめぐって、イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチが仲間割れします。
イワン・ペトローヴィチは、腹いせに、ピョートル・イワーヌイチの妻アンナ・ミハイロヴナが、エヴゲーニイ・ニコラーイチと浮気していることを暴露します。
ピョートル・イワヌーイチも負けずに、イワン・ペトローヴィチの妻タチヤーナ・ペトローヴナが、エヴゲーニイ・ニコラーイチの元恋人であることを暴露するのです。

◆◆◆

ドストエフスキーの作品は、登場人物たちの生き生きとした会話や、大胆な心情吐露が魅力だと思います。
ドストエフスキーは、<会話>と<独白>の天才を遺憾無く発揮するために、デビュー作『貧しき人々』において、書簡体小説という形式を選んだのかもしれませんね。

『九通の手紙にもられた小説』も、ドストエフスキーらしい<会話>の面白さがあります。
イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチの、強烈な嫌味と皮肉の応酬には、思わず吹き出してしまいます。

(第2の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
すぐさま愚妻を伴い、失費をも顧みず、馬車を雇って、六時半ごろ、貴宅へ参上したところ、貴兄はお留守で、奥様がお出迎えくださいました。十時半まで貴兄のお帰りを待ちましたが、それ以上は不可能でしたので、再び愚妻を伴い、失費をも顧みず、馬車を雇い、愚妻を自宅へ送り届け、小生自身はペレパルキン氏宅へ向かいました。そこでならお会いできるのではあるまいかと思ったのですが、またしても計算違いでした。帰宅後も一晩中眠れず、不安の中に夜を明かし、翌朝は九時、十時、十一時の三回、失費をも顧みず、馬車を雇って貴兄宅を訪問したにもかかわらず、またしても、貴兄にしてやられました。

(第3の手紙 ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ)
かぎりなく尊いわが友イワン・ペトローヴィチ!
失礼、失礼、失礼、重ね重ね失礼、しかし取り急ぎ弁明いたします。

(第4の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
この手紙は貴兄のお宅で、貴兄の部屋で、貴兄のデスクに向かって書いております。ペンを取る前に二時間半あまりも貴兄をお待ちしたのです。

(第7の手紙 ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ)
貴兄の百姓じみた、しかも同時に奇怪な書簡を受け取ったとき、最初、小生はずたずたに引き裂いてしまおうかと思いましたが―珍品として保存することにいたしました。

(第8の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
貴兄に言われるまでもなく、小生はもはや二度と再び貴兄のお宅に足を運ぶようなことは致しません。無駄に紙を一枚汚されたものですな。

第2の手紙で、イワン・ペトローヴィチが「失費をも顧みず」と、3回も繰り返して書いているところは、笑えますね~。

『九通の手紙にもられた小説』の原題を見てみると、さらに笑えました。
原題は、《Роман в девяти письмах》です。
роман(ラマーン)は「長編小説」という意味で、直訳すると「九通の手紙からなる長編小説」となります。

ロシア語で「小説」という言葉は、роман(ラマーン)「長編小説」、повесть(ポーヴェスチ)「中編小説」、рассказ(ラスカース)「短編小説」と、はっきり区別されています。
このような短編小説に、роман「長編小説」という大げさな表題が付いているのですから、笑いを誘います。

『九通の手紙にもられた小説』は、作品のタイトルからジョークであり、ドストエフスキーが随所に笑いを盛り込んだユーモア小説であることが分かりますね。



読了日:2011年12月25日