2013/09/05

太宰治「斜陽」

斜陽 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 2003/4/30

太宰治の『斜陽』を読みました。
『斜陽』は、1946年~1947年(昭和21年~22年)の日本を舞台に、華族階級の一家を描いた物語です。
一家の当主である父親はすでに亡くなっており、老いた母親、長女かず子、かず子の弟で長男の直治が登場します。
第二次大戦後、直治は南方の戦地から帰らず、母親とかず子は、叔父のすすめで東京・西片町の家を売り、伊豆の山荘に引っ越して、二人だけでひっそりと暮らし始めます。
思い出の家を離れる辛さからか、母親は引っ越してまもなく病に伏せ、かず子は病気がちな母親を気遣い、慣れない家事に取り組みます。
伊豆での新生活がようやく落ち着いた頃、消息不明だった直治が帰ってくるのです。


『斜陽』が構想された1945年~1947年(昭和20年~22年)頃は、財産調査および財産税法が執行され、新憲法の公布による華族制度の廃止が決定しました。
華族と同様に、皇族についても環境が大きく変化し、皇室典範改正にともなう臣籍降下(皇族離脱)や、皇族財産への財産税公布などが議論されます。
『斜陽』が執筆・連載された1947年(昭和22年)には、議論の末に11宮家の臣籍降下が決定し、51名が皇族籍を離脱しました。
当時の一般国民にとって、宮家の人々は、現在のスターやアイドルに近い存在であり、その一挙手一投足が注目されていたと言われています。

太宰治が1948年(昭和23年)6月に亡くなった後、同年7月に高木正得元子爵の失踪・自殺事件が起こります。
高木元子爵の遺書には、敗戦後の変革によって経済破綻に陥り、死を選ぶこととなった内容が記されており、「没落する華族階級」が世間の話題となります。
高木元子爵の事件を発端に、新聞や雑誌は旧華族階級の動向を特集し、名家の没落を彷彿とさせる事件をさかんと報道するようになります。
1948年(昭和23年)7月に、『斜陽』新版が刊行されると、没落華族の物語として、人々に熱狂的に受け入れられるのです。
実在の旧華族の没落と、小説『斜陽』が結び付けられ、「斜陽」という単語は、華族の没落を意味する言葉として用いられ、「斜陽族」という流行語まで生まれました。

このように、太宰治が『斜陽』を構想・執筆した時期は、華族よりも皇族の動向が注目されており、華族の没落が世間を騒がせ、『斜陽』がベストセラーとなったのは、太宰治の死後のことでした。
『斜陽』は、華族階級の没落を予見した作品であり、いち早く特権階級の没落というテーマを描いた、太宰治の先見性が垣間見えますね。


※ネタバレ注意※


直治の帰還をきっかけに、かず子は6年前に起こった「ひめごと」を思い起こします。
6年前、直治は麻薬中毒が原因の借金に苦しんでおり、山木へ嫁いだばかりのかず子は、自分のドレスやアクセサリーを売って、なんとか弟のためにお金を工面していました。
直治の頼みで、かず子は小説家の上原二郎宅にお金を届けていましたが、次第に多額のお金をねだられ、たまらなく心配になって、かず子はたった一人で上原に会いに行きました。
かず子は上原と一緒にコップで2杯のお酒を飲み、別れ際に上原からキスをされます。
この時から、かず子には「ひめごと」が出来ました。
その後、かず子は山木と離婚し、実家に帰って、山木の子を死産しました。

かず子は、6年前の「ひめごと」を思い起こして、上原に三つの手紙を送ります。
手紙の中で、かず子は上原に対する愛情を伝え、上原の子を熱烈に望みました。
夏に送った手紙に対する返事が無いまま、季節は秋になり、病気がちだった母がついに亡くなります。
母の死後、かず子は東京で上原と再会し、恋を成就させます。
かず子と上原が一夜をともにした朝、直治は伊豆の山荘で自殺していたのです。
直治の死後、上原の子を身ごもったかず子は、上原に最後の手紙を送りました。
手紙の中で、かず子は私生児とその母として、古い道徳とどこまでも闘い、太陽のように生きることを決意して、物語は終わります。



物語全体は、「私」=かず子の一人称の語りで進行しますが、第3章に直治の手記「夕顔日誌」、第7章に直治の「遺書」が挿入され、第4章と第8章にかず子の「手紙」が挿入されており、なかなか凝った構成だと思います。
上の図は、物語の構成を整理したもので、かず子が語った過去と現在の出来事を、時系列にまとめてみました。
断片的に語られる過去のエピソードから、かず子という女性の人生が少しずつ明らかになるところが、面白いですね。

かず子の視点だけでなく、「夕顔日誌」や「遺書」を通じて、直治の視点も描かれており、かず子の人生により立体感・奥行きが感じられます。
かず子の視点と、直治の視点で大きく異なるのが、上原二郎の人物評価です。

六年前の或る日、私の胸に幽かな淡い虹がかかって、それは恋でも愛でもなかったけれども、年月の経つほど、その虹はあざやかに色彩の濃さを増して来て、私はいままで一度も、それを見失った事はございませんでした。(第1の手紙、第4章、99-100頁)

私がはじめて、あなたとお逢いしたのは、もう六年くらい昔の事でした。あの時には、私はあなたという人に就いて何も知りませんでした。ただ、弟の師匠さん、それもいくぶん悪い師匠さん、そう思っていただけでした。そうして、一緒にコップでお酒を飲んで、それから、あなたは、ちょっと軽いイタズラをなさったでしょう。けれども、私は平気でした。ただ、へんに身軽になったくらいの気分でいました。あなたを、すきでもきらいでも、なんでもなかったのです。そのうちに、弟のお機嫌をとるために、あなたの著書を弟から借りて読み、面白かったり面白くなかったり、あまり熱心な読者ではなかったのですが、六年間、いつの頃からか、あなたの事が霧のように私の胸に沁み込んでいたのです。(第2の手紙、第4章、107頁)

私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。(第3の手紙、第4章、114頁)

直治は「遺書」の中で、自分が恋する女性と、その夫について「遠まわしに、ぼんやり、フィクションみたいに」書きます。
洋画家とその妻として語られている人物が、上原夫妻を指すことは明らかでしょう。

そのひとは、戦後あたらしいタッチの画をつぎつぎと発表して急に有名になった或る中年の洋画家の奥さんで、その洋画家の行いは、たいへん乱暴ですさんだものなのに、その奥さんは平気を装って、いつも優しく微笑んで暮らしているのです。(遺書、第7章、190頁)

僕がその洋画家のところに遊びに行ったのは、それは、さいしょはその洋画家の特異なタッチと、その底に秘められた熱狂的なパッションに、酔わされたせいでありましたが、しかし、附き合いの深くなるにつれて、そのひとの無教養、出鱈目、きたならしさに興覚めて、そうして、それと反比例して、そのひとの奥さんの心情の美しさにひかれ、いいえ、正しい愛情のひとがこいしくて、したわしくて、奥さんの姿を一目見たくて、あの洋画家の家へ遊びに行くようになりました。(遺書、第7章、193頁)

つまり、あのひとのデカダン生活は、口では何のかのと苦しそうな事を言っていますけれども、その実は、馬鹿な田舎者が、かねてあこがれの都に出て、かれ自身にも意外なくらいの成功をしたので有頂天になって遊びまわっているだけなんです。(遺書、第7章、195頁)

かず子の「手紙」からは、かず子が6年前の「ひめごと」を何度も思い出し、彼の著書や弟との会話から、上原の人物像を想像し、偶像化していく様子が読みとれます。
一方、直治の「遺書」は、かず子の上原像に対する、強烈な偶像破壊の効果を発揮しています。
かず子の視点とともに、直治の視点が描かれることによって、かず子の物語を、直治の視点から読み直すことが出来るのです。

◆◆◆

主人公かず子と、かず子の母親は、華族という出自は同じでも、全く対照的な人物として造形されています。

かず子の「お母さま」は、無心で可愛らしく、「ほんものの貴婦人の最後のひとり」として描かれています。
「お母さま」は、「お金の事は子供よりも、もっと何もわからない」女性で、10年前に夫を失くしているため、かず子が「和田の叔父さま」と呼ぶ、実弟に財産の管理をまかせていました。
「和田の叔父さま」の勧めで、東京・西片町の家を売り、使用人に暇を出し、伊豆へ引っ越すことを決め、「かず子がいてくれるから、私は伊豆へ行くのですよ」と言うなど、主体性のない女性として描かれています。
かず子が、「お母さまの和田の叔父さまに対する信頼心の美しさ」と言うように、「お母さま」の主体性のなさは、「信頼」という言葉で置き換えられ、彼女の「幼い童女のよう」な無心さ、美しさを強調しています。

しかし「お母さま」は、本心では、伊豆へ引っ越すことに全く不本意であり、西片町の家に一日でも長く暮らしたいと思っていました。
そのため、引越しの荷ごしらえが始まっても、「お母さま」は整理の手伝いも指図もせず、毎日部屋でぐずぐずするばかりで、引越し前夜には激しく泣き、伊豆へ到着した当日から、高熱に苦しみます。
その後、「お母さま」はたびたび病に伏せるようになり、食欲もなく、口数もめっきり少なく、伊豆へ引越してわずか1年以内に、亡くなりました。
伊豆における「お母さま」の「病気」は、西片町の家を売り、伊豆へ移住したことへの辛さや不満、抗議の気持ちを全身で表現していたのだと思います。

西片町の家から離れることが、死ぬほど苦しいのなら、「お母さま」はどうして「和田の叔父さま」の勧めに従ったのでしょうか?
「和田の叔父さま」から、かず子を再婚させるか、宮家へ奉公にあがるようにと勧められますが、かず子は思いきり泣いて、叔父の提案を拒絶します。
「お母さま」は、かず子の気持ちを思いやって、「私の子供たちの事は、私におまかせ下さい」と手紙を書き、「生まれてはじめて、和田の叔父さまのお言いつけに、そむいた」と言うのです。
女性は夫と親に仕えよ、従順で貞節であれ、という「女大学」の立場から教育され、「ほんものの貴婦人」として生きてきた「お母さま」にとって、不満や抗議の気持ちを言葉にすることは、現代のわたしたちには想像できないほど、大きなこと、難しいことだったのでしょう。



落ちぶれても生活感の無い「お母さま」に対し、娘のかず子は、戦時中に徴用されて「ヨイトマケ」の肉体労働を経験し、伊豆では使用人のように家事をこなし、「地下足袋」姿で畑仕事にまで取り組みます。
かず子は、華族の出自でありながら、だんだん「粗野な下品な女」、「野性の田舎娘」になっていくと自覚し、華族性(貴族性)を解体していくのです。

けれども、私は生きて行かなければならないのだ、子供かも知れないけれども、しかし、甘えてばかりもおられなくなった。私はこれから世間と争って行かなければならないのだ。ああ、お母さまのように、人と争わず、憎まずうらまず、美しく悲しく生涯を終る事の出来る人は、もうお母さまが最後で、これからの世の中には存在し得ないのではなかろうか。死んで行くひとは美しい。生きるという事。生き残るという事。それは、たいへん醜くて、血の匂いのする、きたならしい事のような気もする。私は、みごもって、穴を掘る蛇の姿を畳の上に思い描いてみた。けれども、私には、あきらめ切れないものがあるのだ。あさましくてもよい、私は生き残って、思う事をしとげるために世間と争って行こう。(第5章、149頁)

かず子は、「女大学」にそむいて、妻子ある上原と関係を持ち、上原の子を身ごもります。
上原の妻に恋していながら、最後まで思いをとげることが出来ずに、自殺した直治と比べて、最終章のかず子は「ひとすじの恋の冒険」を成就させ、「よい子を得たという満足」があり、「幸福」です。
しかし、かず子と「私生児」として生まれる子供の未来は、きわめて困難だろうと容易に予想できますよね。
かず子は、自分が「古い道徳はやっぱりそのまま、みじんも変わらず、私たちの行く手をさえぎっています」と言い、困難な未来を見据えて、すでに覚悟を決めているように見えます。
その覚悟があるからこそ、かず子の胸のうちは「森の中の沼のように静か」であり、「孤独の微笑」の境地に至っているのだと思います。

けれども私は、これまでの第一回戦では、古い道徳をわずかながら押しのけ得たと思っています。そうして、こんどは、生まれる子と共に、第二回戦、第三回戦をたたかうつもりでいるのです。
こいしいひとの子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。(第8章、202頁)

私生児と、その母。
けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。(第8章、202頁)

発表当時の読者にとって、かず子は主体的で、進歩的な女性像、自立する女性像として、賛否両論だったと思います。
現代の日本では、2010年度の総務省統計局調べによると、108万人強のシングルマザー人口があり、そのうち未婚のシングルマザーは12%程度で、13.2万人と言われています。
家族観が多様化した現代のわたしたちにとって、離婚や死産を経験して、未婚のシングルマザーになるという女性像は、新鮮さや衝撃は薄く、とても身近な存在として感じます。

『斜陽』には、「ほんものの貴婦人」である「お母さま」や、デカダン生活をする直治や上原、「地味な髪型」で「貧しい服装」でも清潔感があり、「高貴」なほど「正しい愛情のひと」である上原の妻など、生活感の無い、浮世離れした登場人物が多いです。
かず子だけは、生活が逼迫しても、「地下足袋」姿で「ヨイトマケ」までする<強さ>や<たくましさ>があり、「血の匂い」がするような、生き生きとした人物として感じられますね。


2013年9月4日に、結婚していない男女間に生まれた非嫡出子(婚外子)の遺産相続分を、結婚した夫婦の子の2分の1とした民法の規定について、最高裁大法廷が「法の下の平等」を保障した憲法に違反する、という決定を出しました。
最高裁は1995年に、民法のこの規定を「合憲」と判断しており、「合憲」判断を覆しての、歴史的な「違憲」判断です。
婚外子の相続格差の規定は明治時代に設けられ、戦後の民法に受け継がれたもので、婚外子に対する差別を助長してきたと言われています。
この「違憲」判断をきっかけに、『斜陽』発表から66年経った現在でも、かず子の言う「道徳革命」は未だ完成されておらず、まだまだ「革命」の途上であることを気づかされました。
「古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きる」というかず子の力強いメッセージは、これからも多くの女性たちを励まし、勇気づけることでしょう。

◆◆◆

『斜陽』では、<蛇>のモチーフが何度も登場します。
かず子の父親が亡くなる直前に、枕元に蛇があらわれ、父親が亡くなった当日には、庭の木という木すべてに蛇がまきついていました。
臨終の枕元の蛇は、かず子のほか、母親と「和田の叔父さま」も目撃しています。
庭木の蛇は、かず子しか目撃がおらず、現実には起こりそうもない、幻想的な光景なので、かず子の幻視かもしれません。

伊豆へ引越してから、庭の垣の竹藪に蛇の卵を見つけ、かず子は蝮の卵だと勘違いして、たき火で卵を燃やします。
どうしても卵は燃えず、かず子は卵を庭に埋葬して墓標を作りました。
その後、庭に何度か蛇があらわれるようになり、かず子と母親は、卵の母親である女蛇だと考えます。
かず子は、自分の胸の中に「蝮みたいにごろごろして醜い蛇」が住んでいるように感じ、「お母さま」を「悲しみが深くて美しい美しい母蛇」に重ね合わせて、かず子=蝮が、「お母さま」=美しい母蛇をいつか食い殺してしまうと感じます。

「卵を焼かれた女蛇」には、第一に、子供を死産したかず子自身が投影されています。
かず子は、「卵を焼かれた女蛇」と<子の喪失>感を共有していますが、かず子は卵の殺害者でもあり、死産=<子殺し>のイメージがあるのかもしれません。
かず子が、「卵を焼かれた女蛇」を「お母さま」に重ね合わせるのは、「お母さま」と<子の喪失>感を共有していたからでしょう。
蛇の卵を燃やす事件は、直治の帰還前の出来事です。
直治は、南方の戦地で消息不明になり、終戦後も帰還しなかったため、「お母さま」は「もう直治には逢えない」と覚悟しつつも、たびたび直治を思い出し、悲しみを深くしていました。
そのため、「物憂げ」な「美しい母蛇」と「お母さま」を重ね合わせたのだと思います。


『斜陽』の構成は、現在と過去の出来事が時系列順ではなく、順序バラバラに配置されています。
一見無造作に並べられているようですが、かず子が現在のある出来事から連想して、過去のある出来事を思い出すという形式であり、実は現在と過去の出来事は密接に結びついているのです。

伊豆の家で、朝食にスープを一さじ飲んだ時に、「あ」と小さな声を出します。
「あ」と言う時、母親は戦死したであろう息子を思い出しており、かず子は6年前の離婚を思い浮かべています。
この朝食の出来事から、<子の喪失>というイメージが連想され、かず子は数日前の蛇の卵を焼く事件を回想していくのです。
<蛇>から連想して、10年前の父親の臨終にあたって、枕元に蛇があらわれ、庭木に蛇がからみついていたことを回想します。
そして<喪失>のイメージは、日本の敗戦によって東京・西片町の家を売り、家財を売り、伊豆へ移住する出来事の回想へとつながっていきます。
再び現在の朝食の出来事にもどり、かず子は「私の過去の傷痕」がちっともなおっていないと実感し、自分の内面に「蝮」を宿す方向へ進んでいくのです。
朝食の出来事から数日後(蛇の卵の出来事から約10日後)に、火の不始末から、小火騒ぎが起こります。
小火騒ぎによって、かず子は自分の内面に「意地悪の蝮」が住み、「野生の田舎娘」になって行くという気持ちを強くし、畑仕事に精を出すようになります。
およそ貴族らしからぬ、肉体労働に汗を流すイメージは、かず子が戦時中に徴用され、「ヨイトマケ」までさせられた回想につながり、「畑仕事にも、べつに苦痛を感じない女」という自覚に至ります。


<喪失>の象徴としての「美しい母蛇」を母親と同化させ、自分は「蝮」のような「醜い蛇」と設定することにより、かず子は<生命力>の象徴としての「蛇」を内面化していきます。
毒をもたない「美しい蛇」よりも、毒をもつ「蝮」には、より<強さ>や<たくましさ>があります。
「蛇」は、脱皮をすることから<死と再生>のイメージがあり、豊穣神・地母神の象徴とされ、日本を含め、世界各地で古くから崇められてきました。
かず子は、敗戦による貴族階級の<死>、離婚と死産という「過去の傷痕」から<再生>し、生きることの「醜さ」や「きたなさ」を受け入れて、生命力あふれる「蝮」=「野生の田舎娘」へと変身していくのだと思います。


その後、かず子は「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」という新約聖書の言葉を引用して、上原に第1の手紙を書きます。
上原に対する「恋」は、「非常にずるくて、けがらわしくて、悪質の犯罪」であると、かず子は自覚しており、第1の手紙は「蛇のような奸策」に満ち満ちていたと書いています。
母親の死後、かず子は「蛇のごとく慧く」、直治を伊豆に残して、上原に会うために東京に行きます。
上原に対する「恋」において、かず子は聖書の「蛇」のイメージを繰り返し用いています。

旧約聖書『創世記』では、「主なる神が造られた野の生きもののうちで、最も賢いのは蛇」であり、「蛇」の<誘惑>に負けて、アダムとエバは主なる神にそむいて「善悪を知る者」となり、「エデンの園」から追放されました。
かず子が引用した「鳩のごとく素直に、蛇のごとく慧かれ」という言葉は、『マタイによる福音書』10章16節に記されています。
『マタイによる福音書』10章は、「天の国は近づいた」とイスラエルの人々に宣べ伝えるため、弟子たちを派遣するにあたり、イエスが弟子たちに心構えを語っています。
「天の国は近づいた」と宣べ伝え、病人をいやし、金貨や銀貨などの対価を受け取らず、「平和があるように」と願うことが語られています。
「迫害」があることもあらかじめ予告され、捕えられ、鞭打たれ、憎まれることが予告されますが、「蛇のように賢く、鳩のように素直になり」、むやみに殉教せず、一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げること、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」ことが語られています。

かず子は19歳までイギリス人の女教師のもとで学んでいたせいか、たびたび聖書の言葉を利用しています。
貴族として<死>に、民衆として<再生>することを、「イエスさまのような復活」と表現しています。
母親の死後、かず子は上原への「恋」をしとげるため、「古い道徳」に対して「戦闘、開始」を宣言し、『マタイによる福音書』10章から引用して、「恋ゆえに、イエスのこの教えをそっくりそのまま必ず守る」と誓います。
最後に、上原の子を身ごもったかず子は、自分を「マリヤ」になぞらえて、「マリヤが、たとい夫の子でない子を生んでも、マリヤに輝く誇りがあったら、それは聖母子になる」とまで語るのです。


かず子は、自然の生命力にあふれる「蝮」を内在化し、毒をもったずる賢い「蝮」として、上原を<誘惑>していきます。
このように、『斜陽』において<蛇>はきわめて重要なモチーフであり、<蛇>のイメージの内面化によって、かず子の内面の変化を描いています。
かず子が<蛇>化する過程において、太古からの<蛇=豊穣神・地母神>のイメージと、聖書における<蛇=賢い誘惑者>のイメージが、絶妙にミックスされており、読めば読むほど面白く感じました。



読了日:2012年11月27日

2013/07/31

ボフミル・フラバル「あまりにも騒がしい孤独」

あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)
あまりにも騒がしい孤独 (東欧の想像力 2)
  • 発売元: 松籟社
  • 発売日: 2007/12/14

ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』(石川達夫訳、松籟社)を読みました。
2013年6月の読書会課題本でした。

ボフミル・フラバル(1914年~1997年)は、ミラン・クンデラ(1929年~)と共に、20世紀のチェコ文学を代表する作家です。
フランスに亡命し、フランス語で著作したクンデラよりも、チェコ国内にとどまり、チェコ語で著作し、地下出版を続けたフラバルの方が、チェコ国民の人気が高いようです。
日本では、クンデラの方がよく知られていますが、フラバルも大変面白かったので、もっと翻訳が増えて、読者が増えてほしいですね。


『あまりにも騒がしい孤独』は、プラハで35年間にわたって、地下室の小さなプレスで、故紙を潰す作業をしてきた労働者ハニチャが主人公です。
この作品は、社会主義時代には出版を許されず、長い間タイプ印刷の地下出版で、読まれてきました。

「僕」=ハニチャの一人称の語りで物語が進みますが、大量に飲酒をしながら仕事をするハニチャは、明らかにアルコール依存症であり、信頼出来ない語り手です。
主人公ハニチャの青年時代の思い出と、アルコールによる幻視、地下室とアパートを往復する現在の生活が織り交ぜられた、幻想的な作風でした。
わたしは、ボリス・ヴィアンの『日々の泡』(『うたかたの日々』)のような、どこから幻想で、どこから現実なのか分からない作品が好きでして、フラバルも面白く読むことが出来ました。

※ネタバレ注意※


ハニチャの回想には、若かりし頃に交友のあったマンチンカという女性、亡母、叔父、そして青春の恋人であるジプシー娘(イロンカ)が登場します。
第1章では、ハニチャはすでに35年間働いており、あと5年で年金生活という年齢です。
物語開始現在では存命だった叔父も、第5章で亡くなり、ハニチャによって手厚く葬られます。
現在のハニチャを取り巻く人々として、ハニチャを罵倒する所長(ボス)や、地下室に故紙を運んで来る二人のジプシー娘、ハニチャが故紙の中からこっそり持ち出した新聞・雑誌や本を買い取る、元美学教授や聖三位一体教会の管理人フランチーク・シュトゥルムなどが登場します。
物語の中で断片的に描かれている、現在と過去の出来事、そして幻想を整理し、時系列にまとめると、上の図になります。
この図は、物語の構成を図示したものですが、ハニチャの人生そのものですね。


物語の中では、「35年間」という数字が何度も登場します。

三十五年間、僕は故紙に埋もれて働いている―これは、そんな僕のラヴ・ストーリーだ。(7頁、第1章冒頭)

三十五年間、僕は故紙を潰していて、その間に収集人たちが地下室にすてきな本を山ほど投げ入れたので、もし僕が納屋を三つ持っていたとしても、一杯になってしまったことだろう。(18頁、第2章冒頭)

三十五年間、僕は故紙を潰しているけれど、もしもう一度選ばなければならないとしても、この三十五年間にしてきたこと以外の何もしようとは思わないだろう。(32頁、第3章冒頭)

このように、「三十五年間」という言葉から始まる章が、第1章、第2章、第3章、第6章、第7章と、全部で8章あるうちの5章もあります。
第1章だけで、「三十五年間」という言葉は、12回も使われているのです。
作者ボフミル・フラバルは、なぜこれほど「35年間」という数字を強調したのでしょうか?
ハニチャの年齢について、物語中で明らかにされていませんが、「僕は三十五年間、水圧プレスで故紙を潰していて、年金生活まではあと五年だ。」(15頁、第1章)という記述から、20歳から60歳まで40年間働くとして、現在55歳頃であると推測できます。
『あまりにも騒がしい孤独』が1976年発表であることから、ヒトラーによってチェコが保護領となり、ドイツに占領された1939年3月から、執筆当時の現在(1974年頃)までの「35年間」を指しているのではないかと思います。
この物語は、同時代に生きるチェコの人々に向けて書かれており、当時の読者は、現代のわたしたちよりもはるかに敏感に、「35年間」という数字の象徴性や意味を読みとったことでしょう。


読書会では、グロテスクで生理的に受け付けない、二度と読みたくないといった感想も聞きました。
地下室の故紙集積場には、新聞・雑誌や本のほかに、アイスクリームの包み紙、ペンキの散った紙、食肉公社から出た血のついた紙までが運び込まれ、ハニチャは毎日紙の山全体に水を播きます。
そのため、地下室はいつも湿って黴臭く、ネズミが巣食い、ハニチャは血まみれで作業をします。
現代の古紙リサイクルの常識からすると、食品で汚れた紙や、油やペンキで汚れた紙、血のついた紙はもちろん、水に濡れた紙全体が、製紙工場で禁忌品とされるものです。
リサイクル産業の中でも、古紙リサイクルの現場は特にキレイですから、ハニチャの作業風景にはびっくりさせられました。
ハニチャの作業風景では、明らかにリサイクル不可能ですので、大変リアルに描かれていますが、全て作者フラバルの虚構である可能性があります。
あえて虚構の作業風景を描いたとすると、ハニチャの作業風景をグロテスクに、よりグロテスクに描き出すことに、作者の意図があったように思えるのです。

ハニチャは、小さなプレスで故紙を圧縮して紙塊を作るという単純な作業に、独特のこだわりを持って向き合い、手間と時間をかけて作業し、こだわりの紙塊を作ることに喜びを見出しています。
レンブラントの「夜警」や、マネの「草上の昼食」、ピカソの「ゲルニカ」で側面を飾り、心臓部にはゲーテの『ファウスト』や、ヘルダーリンの『ヒュペーリオン』、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を入れて、紙塊を作ります。
ハニチャは、紙塊を作る作業は「美しい創作になる仕事」であり、自分は自分にとって「芸術家であると同時に観客でもある」と言います。
ハニチャが「僕のミサ、僕の儀式」と言うように、彼の紙塊に対するこだわりは、名高い巨匠たちの複製画や、ドイツを代表する文学・哲学の<死>を悼み、手厚く<埋葬>する儀式として理解できます。
母や叔父についても、<死>と<埋葬>というテーマが共通して描かれています。
母が火葬され、遺骨を手回し臼でこなごなに砕かれる場面は、プレスによる故紙や本の圧縮を連想させますし、とっておきの美しい紙塊を作るように、叔父が生前大切にしたもので叔父の棺を飾ります。
ネズミが巣食い、蝿が飛び、湿って黴臭い地下室というグロテスクさと対照的に、ハニチャの紙塊作りは、美しく神聖ですらあります。
「きれいはきたない、きたないはきれい」という、シェイクスピアの『マクベス』の言葉を思い起こしますね。

◆◆◆

第4章では、醜悪さと神聖さが同時に描かれるという、この物語の特徴が、最も強烈に表現されています。
食肉公社の血まみれの紙が運ばれ、地下室には肉蝿が飛び回り、ハニチャは大量に飲酒をしながら、血まみれで紙塊を作ります。
アルコールの影響か、作業をするハニチャには、イエスと老子の幻が見えるのです。
血と蝿と、イエスと老子という組み合わせの強烈さ、混沌さにはくらくらしますね。

だから今日、僕の地下室に、僕の好きな二人の人物が来ても、別に驚かなかったし、二人が並んで立っていたので、どちらがどれくらいの年かということが、二人の思想を知るためにすごく重要だということに、初めて気づいた。そして、蝿たちが狂ったように踊って唸り、僕が作業衣を湿った血で濡らして、緑のボタンと赤のボタンを交互に押している間にも、イエスは絶えず丘の上に上って行き、一方、老子はもう頂上に立っているのが見えた。(48-49頁、第4章)

ハニチャが見た幻の中で、イエスと老子は、とても対照的な人物として描き出されています。

<イエス>
  • 絶えず丘に上って行く
  • 義憤に駆られた若者は世界を変えようとしている
  • 奇跡に向かう現実を祈りで呪っている
  • 若い男やきれいな娘たちの集団の真ん中で始終義憤に駆られている
  • 楽天的な螺旋
  • いつも葛藤とドラマに満ちた状況の中にいる

<老子>
  • もう頂上に立っている
  • 諦念に満ちたように周りを眺めて、原初への回帰によって自らの永遠を裏打ちしている
  • 「道」を通って自然の理法に従い、ただそのようにしてのみ博学な無知に至る
  • まったく独りで、威厳のある墓を探し求めている
  • 出口のない環
  • 静かな瞑想の中で、矛盾に満ちた道徳的状況の解決しがたさについて思いをめぐらせている

イエスを義憤に駆られる若者、老子を諦念に至った老人として描かれいますが、イエスと老子=<若者>と<老人>の優劣比較として解釈するのは間違いだろうと思います。
イエスと老子について、ハニチャはあらかじめ「僕の好きな二人の人物」と前置きしており、ハニチャがイエスと老子のどちらにも共感していることが分かります。
グロテスクさと神聖さが同時に存在することと、若々しさと老人の諦念が同時に存在することはつながっており、この物語の注目すべき特徴です。


イエスと老子=<若者>と<老人>と同じ対比が、第8章でも登場します。
ハニチャはイグナティウス・デ・ロヨラ教会を見て、「陸上選手みたいに躍動感にあふれている」カトリックの像たちと、「車椅子に麻痺したように座っている」チェコ文学の大家たちの像を見ます。

僕は、人間の体は砂時計なのだと思う―下にあるものは上にもあり、上にあるものは下にもある。それは、上下に重ね合わされた二つの三角形であり、ソロモンの印であり、ソロモン王の青春の書『雅歌』と、「空の空」という老君主としての彼のまなざしの結果である『伝道の書』との釣り合いだ。(126頁、第8章)

8章では、一人の人間の中に若さと老いが同時に存在することを、「砂時計」と「ソロモンの印」に喩えて説明しています。
上下に重ね合わされた二つの三角形である「ソロモンの印」は、「ダビデの星」と呼べば、すぐに六芒星(ヘキサグラム)をイメージ出来るでしょう。
この図形は、上下逆さまにしても同じであるため、<上>と<下>は相対的な概念になります。

若者の歌
恋人よ、あなたは美しい。
あなたは美しく、その目は鳩のよう。

おとめの歌
恋しい人、美しいのはあなた
わたしの喜び
わたしたちの寝床は緑の茂み。
レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。(「雅歌」1章15節-17節、新共同訳)

旧約聖書の『雅歌』は、若い男性と女性の間で交わされた、愛の相聞歌集です。
1章1節に「ソロモンの雅歌」と記されているため、ソロモン王が実際に書いたかどうかは別として、ハニチャが「ソロモン王の青春の書」と言うことは頷けます。
『雅歌』は、花婿役と花嫁役の歌と合唱が交互に進行し、オラトリオや教会カンタータのようです。
結婚へのあこがれや期待、夢、花嫁への礼讃、花嫁の舞踏、そして相思相愛が歌われ、若々しく幸福感にあふれています。

コヘレトは言う。
なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることはなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。(「コヘレトの言葉」1章2節-7節、新共同訳)

ハニチャの言う『伝道の書』は、旧約聖書の『コヘレトの言葉』を指します。
実際には、ソロモン王よりもずっと後の時代に書かれたものらしいと考えられていますが、1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と記されているため、ハニチャが『コヘレトの言葉』を老ソロモン王が書いたと言うのも分かります。
コヘレトは、「伝道」や「伝道者」という意味の言葉で、この当時の「伝道者」とは「会衆に向かって人生哲学を説く人」といった意味で、キリスト教の伝道や伝道者といった意味とは異なります。
『コヘレトの言葉』は、「すべては空しい」という虚無思想と、それに耐えようと努力する自問自答が記されています。

ハニチャは、上は下に、下は上になる「砂時計」や「ソロモンの印」のように、若さあふれる『雅歌』も、すべてが空しい『コヘレトの言葉』も、どちらもソロモン王その人の中で同時に存在し、釣り合っているのだと言いたいのでしょう。
この物語全体で、老いたハニチャの現在と、若かりし頃の回想が、交互に断片的に描かれていることも、ハニチャ自身が「砂時計」であり「ソロモンの印」であることを表現しているように思えます。

こうした思想を持ちながら、現実には、「社会主義労働班」の若者たちの登場によって、老いたハニチャは35年間勤めた故紙を潰す仕事から追われ、ついに自殺を選んでしまう結末が、なんとも皮肉ですね。

◆◆◆

この物語を通して、「プラハの春」が挫折した後の、「正常化」と呼ばれるバックラッシュの時代に、検閲と言論統制がどれだけ厳しかったかが、よく分かります。

でも、僕が一番感銘を受けたのは、クマネズミとドブネズミがちょうど人間と同じように全面戦争を行って、その一つの戦争はもうクマネズミの完勝に終わったという、学問的知見だった。けれども、クマネズミはすぐに二つのグループ、二つのクマネズミ党派、二つの組織されたネズミ社会に分裂して、ちょうど今、プラハの下のあらゆる下水道、あらゆる排水溝で、生死を賭けた熾烈な戦いが行われている―どちらが勝者になり、したがって、傾斜下水道を通ってポドババに流れ込むあらゆるゴミと汚物への権利をどちらが獲得するかをめぐる、大クマネズミ戦争が行われているんだ。(34頁、第3章)

35年間故紙を潰し、自分の仕事に誇りと生きがいを持っているハニチャは、『狙われたキツネ』の主人公アディーナのように、秘密警察から監視されたり、命を脅かされたりすることはありません。
しかし、この物語の中には、政治的メッセージが随所に盛り込まれています。
クマネズミとドブネズミの戦争はクマネズミの勝利で終わったが、すぐにクマネズミは内部分裂して、現在は大クマネズミ戦争の真っ最中であるというエピソードは、そのまま読んでも面白いですが、明らかに寓話として読めますよね。
共産党をクマネズミ、民主党、人民党などの反共勢力をドブネズミに見立て、共産党と反共勢力の全面戦争は、1948年のクーデターが失敗して、共産党の完勝に終わったが、共産党内部でも保守派と改革派に分裂し、1968年の「プラハの春」から、「正常化体制」の現在まで、生死を賭けた熾烈な戦いが行われている、というイメージでしょう。



チェコスロヴァキアとボフミル・フラバル


フラバルは、1914年にオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったチェコに生まれます。
1914年と言えば、ハプスブルク家の皇位継承者フランツ・フェルディナンドがセルビアで暗殺されたことを発端に、ヨーロッパが第一次世界大戦に突入した年です。
第一次大戦の激動と混乱のさなか、1918年に新国家チェコスロヴァキアは産声をあげます。
チェコスロヴァキアの民族構成は複雑で、1931年の統計によると、チェコ人とスロヴァキア人は両方で「チェコスロヴァキア民族」を構成するという建前になっており、チェコ・スロヴァキア人が66.9%、ドイツ人が22.3%、ハンガリー人が4.8%、ウクライナ人・ロシア人が3.8%、ユダヤ人が1.3%、ポーランド人が0.6%でした。
1930年代に、世界恐慌の影響がチェコスロヴァキアにも及び、特に軽工業が盛んなドイツ人地域が打撃を受けます。
ドイツ系住民が多数を占めるズデーテン地方では、チェコスロヴァキアからの分離独立を求めるズデーテン・ドイツ党(ズデーテン・ドイツ郷土戦線)が支持を広げ、1938年3月にオーストリアを併合したヒトラーは、9月にはズデーテン地方の割譲を要求し、10月にドイツ軍がズデーテン地方に侵攻しました。
1939年にはスロヴァキアはドイツの保護国となり、チェコはドイツの保護領として占領下に置かれ、チェコスロヴァキア共和国は消滅し、第二次世界大戦を経験することなります。
この年、フラバルは25歳です。

占領下のチェコでは、一切の政治的自由は奪われ、チェコのユダヤ人はもっとも悲惨な運命に見舞われ、チェコとスロヴァキア合わせて約27万人のユダヤ人が犠牲になったと言われています。
ロマもまた絶滅政策の対象となって、過酷な運命に見舞われました。
そして1945年、ドイツ軍はチェコとスロヴァキアの領土から、ソ連軍をはじめとする連合軍によって撃退され、5月には首都プラハがソ連軍の手によって解放されたのでした。
この年、フラバルは31歳です。

復活したチェコスロヴァキア共和国内では、ズデーテン・ドイツ人の存在自体が共和国解体の原因であるとみなされ、ドイツ系住民に対する報復行為が始まり、大統領令で正式にドイツ系住民の財産没収や権利の制限が行われ、組織的な強制移住が進められた結果、約300万人のドイツ系住民が追放され、ドイツやオーストリアに難民として移りました。
チェコスロヴァキアでは、長い間、この問題にふれること自体がタブーとされてきましたが、フラバルが結婚したエリシュカ・プレヴォヴァー(1926年~1987年)という女性は、国内に残った数少ないドイツ系住民の一人であり、フラバルはマイノリティである妻の視点を通して、チェコとチェコ人を見ることが出来たと言われています。

政治的には、チェコスロヴァキアは戦前の民主主義体制が復活し、1946年に総選挙が行われて、共産党が第1党となります。
1948年2月に、国民社会党、民主党、人民党が協力して、共産党党首ゴットヴァルトを首相とする内閣を倒そうとしましたが、失敗します。
その後、共産党による一党独裁体制が急速に形成され、6月にゴットヴァルトが大統領となり、チェコスロヴァキアは事実上、社会主義共和国となりました。
東西の冷戦が緊張の度を増すなかで、チェコスロヴァキアではソ連のスターリン体制にならった抑圧的な政治が行われました。
1953年にソ連でスターリンが死去し、フルシチョフによるスターリン批判が行われ、ハンガリーやポーランドなど東欧諸国で体制批判の運動が起こったときも、チェコスロヴァキアでは大きな動きはありませんでした。

しかし1960年代に入り、西側諸国との経済的格差が明らかになり、生活水準の低下が目立ち始めると、チェコスロヴァキアの共産党内部にも、これまでの路線を見直し、社会主義建設をやり直すべきだとの議論が高まります。
1968年1月にアレクサンデル・ドゥプチェクが第一書記に任命されたときから、「人間の顔をした社会主義」をスローガンに、検閲の廃止、旅行の規制緩和、市場原理導入の方針が決められ、改革の動きが急速に進みました。
後に「プラハの春」と呼ばれる1968年の改革に対して、ソ連政府はチェコスロヴァキアが東側陣営から離脱するのではないかとの懸念を強め、軍事介入に踏み切ります。
同年8月、ソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構5ヵ国の軍が、突如チェコスロヴァキア領内に侵攻し、進駐する戦車と抗議する群衆の衝突で、国内は大混乱に陥ります。
こうしてチェコスロヴァキアの大胆な試み「プラハの春」は挫折し、改革派の共産党指導部は排除され、全党員の三分の一にあたる約50万人が党から追放されました。
そして、「正常化」と呼ばれる極端に保守的な体制が訪れるのです。
この年、フラバルは54歳。

「正常化体制」は、経済的には停滞し、政治・社会的な自由も制限された重苦しい時代でしたが、政府の政策に異議を唱えない限り、国民には一定程度の生活が保障されていました。
社会主義政権によって、各都市に次々と集合住宅が建てられ、人々はそこに住居をあてがわれて、職場との往復をする毎日を過ごします。
スーパーマーケットの品揃えは貧弱で、品質も満足ではなく、サービス部門の劣悪さには定評があり、能率が悪い、応対が不親切などの不満は並べればきりがなかったと言います。
夏になれば、1~2週間の休暇をとって、山岳地帯の保養施設などでくつろぎ、人によっては同じ社会主義国のユーゴスラヴィアかブルガリアなどの海岸にある保養地に旅行することも出来、これが最高のぜいたくとみなされていました。
人々は、こうした暮らしに対し、一種のあきらめと、これもそれほど悪いものではない、という気持ちを半々に抱きながら暮らしていたようです。
もちろん、いつまでこの体制が続くかについては、一切口にしないという暗黙の了解も成り立っていました。
この政治的な無関心が社会を覆う中で、一部の知識人たちは、人権擁護運動というかたちの異議申し立てを続け、1977年からは人権運動「憲章77」を開始します。
「憲章77」の発起人のひとりである劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルは、何度も投獄されながら、運動の中心となって活動しました。

ソ連で始まったペレストロイカ政策は、チェコスロバキアにとっても転機となります。
1989年11月、プラハの学生たちは長年の抑圧に対する抗議の声をあげ、政府を批判するデモが連日繰り返され、政府はついに屈しました。
共産党は一党独裁体制を放棄し、12月には民主化運動の指導者であったヴァーツラフ・ハヴェルが大統領に選ばれます。この革命が、暴力を伴わずに成功した、いわゆる「ビロード革命」です。
この年、フラバルはすでに75歳。
検閲が厳しいために、フラバルは地下出版や亡命出版社から作品を発表していましたが、「ビロード革命」による検閲廃止の後、フラバルの作品はどっと出版され、全19巻のフラバル全集も出版されました。
新しい共和国は、政治的・社会的自由を保証し、早期に市場原理を導入して経済立て直しを目指しますが、大きな問題がたちはだかります。
急激な市場経済化を進めたいチェコ側と、穏健な改革を求めるスロヴァキア側との対立、さらにスロヴァキア側の民族的主張が強まり、主権国家を求める声が一気に噴出します。
1993年1月、ついにチェコとスロヴァキアは正式に分離し、「チェコスロヴァキア」は世界地図上から静かに消えていったのです。
そして1997年、いくつもの激動や大転換を経験したフラバルは、82歳で亡くなりました。


参考:薩摩秀登『図説 チェコとスロヴァキア』(河出書房新社、2006年)
林忠行『粛清の嵐と「プラハの春」 チェコとスロヴァキアの40年』(岩波ブックレット、1991年)



読了日:2013年6月23日

2013/05/27

ヨハンナ・シュピリ「アルプスの少女ハイジ」

アルプスの少女ハイジ (角川文庫)
アルプスの少女ハイジ (角川文庫)
  • 発売元: 角川書店
  • 発売日: 2006/07


ヨハンナ・シュピリ『アルプスの少女ハイジ』(関泰祐・阿部賀隆訳、角川書店)を読みました。
先日、アニメ「アルプスの少女ハイジ」の再放送を観て、手に取りました。
アニメよりも、原作の方がずっと良いと思います。とても感動しました!

アニメのハイジは、明るく元気なところが魅力です。
原作でも、明るく元気なところは同じですが、それよりもハイジの美点として強調されるのは、利発であることです。
原作では、ハイジの利発さが、作品冒頭から強調されているため、おじいさんがハイジを教会にも学校にも行かせず、学校に行かせるよう説得に来た牧師を拒否する、というエピソードが、より際立っています。

ゼーゼマン家において、ハイジは読み書きとともに、信仰を教えられます。
クララの祖母であるゼーゼマン夫人は、ハイジに祈ることを教え、挿絵つきの聖書物語をプレゼントしました。
クララの家庭教師が、どんなに苦労しても、読み書きを覚えなかったハイジは、「羊飼と羊の絵」を読みたいという気持ちから、読み書きを覚える意欲が湧き、持ち前の利発さで、あっという間に物語を読めるようになります。

ハイジの一番好きな絵は、やはりあの羊飼の絵でした。はじめの絵では羊飼いはまだ自分の家にいて山羊の世話をしていました。次の絵では、その羊飼が自分の家を逃げ出して、とうとう豚の番人をしなければならなくなり、食べ物もろくに食べないものだから、だんだん痩せ衰えてゆきました。そこでは太陽の光さえもあまり明るくなくて、何もかもぼんやりとしていました。けれども、このお話には第三の絵がついていました。そこでは、年とったお父さまが、後悔してもどって来た子供を迎えようと、腕を広げてかけ出していました。子供はぼろぼろの服を着、すっかり疲れ切って、おずおずと歩いて来るのでした。それがハイジの一番好きなお話で、幾度も繰り返し繰り返し読みました。(第10章、147-148頁)

ハイジは、聖書物語に収められている「放蕩息子」の物語が好きになり、本がすりきれるまで、何度も読みます。
ハイジは、「放蕩息子」の主人公と自分を重ね合わせて、いつか必ずアルプスの家に帰り、おじいさんが腕を広げて自分を迎え入れてくれることを夢見ていたのでしょう。


家に帰りたい気持ちがつのるも、誰にも打ち明けられないハイジの苦しみを察して、ゼーゼマン夫人は「神さま」に「すっかりお話する」ことを教えます。
ハイジは、その助言に喜んで従い、「神さまに自分の悲しみをすっかりお話しして」、「おじいさんのところへかえしてください」と熱心に祈りました。
しばらくたつと、ゼーゼマン夫人は、また悲しい顔をしているハイジを呼び、お祈りをしているかどうか尋ねます。
ハイジが、「毎日毎日、同じことをお祈りしましたけれど」、「神さまは聞いてくださらない」ため、「お祈りはやめました」と答えると、ゼーゼマン夫人は次のように諭します。

神さまはわたしたちみんなのよいお父さまなのです。そして、わたしたちのためになることは何でもしっていらっしゃるのです。だから、わたしたちが、ためにならないことをお願いしたりすると、神さまは許してくださいませんよ。でも、わたしたちが逃げてしまわないで、一生懸命にお祈りして神さまを信じていたら、だんだんと良くなってくるものです。神さまは、あなたのお願いしていることは、今かなえてあげてはかえってあなたのためにならないと、お考えになったのです。(第11章、150-151頁)

ハイジは、「もう神さまを忘れたりしません」と後悔して、再び神に祈りを奉げるようになります。
ついにスイス帰国が許され、おじいさんの家へ向かって、山を登っていく途中で、ハイジは緑の斜面に輝く夕日に心打たれ、初めて神への感謝を知るのです。

ハイジはあたりの景色をじっと見つめていました。幸福の思いで胸がいっぱいになって、涙は頬をつたって流れ落ちました。ハイジはわれを忘れて手を組み合わせると、空にむかって大きい声で神さまにお祈りを捧げました。家にかえれた嬉しさ、そしてあたりの景色がもとの通りに美しいことを、大声で神さまに感謝しました。ハイジは、赤々とした輝きが衰えはじめるまで、とても立ち去ることができませんでした。(第13章、184頁)

祈り、懐疑し、また祈り、やがて心から神を信頼して、被造世界を肯定し、感謝するに至る。
ヨハンナ・シュピリは、ハイジが信仰を獲得する過程を、子どもの目線に立って、丁寧に描き出していると思います。

◆◆◆

家へ帰ったハイジは、おじいさんに「放蕩息子」の物語を読み聞かせます。
作品冒頭で語られた、おじいさんの半生と「放蕩息子」の物語は、ぴったり重なり、まだ小さなハイジがこの物語を自分のこととして読んだように、おじいさんも「放蕩息子」に自分の人生を重ねて聞き入ります。

「放蕩息子」の物語は、ルカ福音書15章11~32節に記された有名な例話です。
家を出た息子が、落ちぶれて家に戻ってくると、罰するのではなく、心から喜んで受け入れる父親の愛が、神の愛である、というメッセージでしょう。
「放蕩息子」を読み聞かせる前に、ハイジとおじいさんは次のようなやりとりをしていました。

「一度したことはもうそれっきりで、取り返しがつかないんだ。誰も神さまにもどってゆくことはできないんだよ。いったん神さまに忘れられたら、永久に忘れられてしまうんだ」
「ちがうわ、おじいさん。神さまのところへはもどってゆけるのよ。」(第14章、197頁)

ハイジから「放蕩息子」の物語を聞かされた夜、おじいさんは大粒の涙を流して、神に立ち返るのです。
おじいさんは、もともと裕福な生まれで、教育も受けているので、もちろん「放蕩息子」の物語を知っていたはずです。
しかし、ハイジが「放蕩息子」の物語を、素朴に、生き生きと語った時、おじいさんは初めて、これは<自分の物語>であると悟ったのでしょう。

翌朝、おじいさんはハイジを連れて、村の教会に行くことを決心します。
おじいさんが、ハイジとともに礼拝に参加して、牧師や村人たちから再び受け入れられる場面は、作品全体の中で一番感動的でした。
おじいさんは、神も村人たちも、自分を軽蔑して見捨てたとして、教会や村から離れて暮らしていましたが、本当は自分から神を、村人たちを軽蔑し、見捨て、離れていたのですね。

ハイジが読み聞かせた「放蕩息子」の物語中で、父親は帰って来た息子を抱きしめ、「息子が生きかえったんだ」とお祝いします。

『アルプスの少女ハイジ』は、少女ハイジの成長物語(=信仰獲得)であるとともに、ハイジの素朴な信仰心による、おじいさんの「生き返り」物語(=信仰への復帰、共同体への復帰)だと言えます。

◆◆◆

角川文庫版の『アルプスの少女ハイジ』(関泰祐・阿部賀隆訳)は、第1章から第23章まで収められています。
実は、第1章「アルムおじさんの山小屋」から、第14章「日曜日の鐘」までが、『ハイジの修行と遍歴の時代』(Heidi's Lehr- und Wanderjahre , 1880年)として執筆・出版され、これだけで完結した独立の作品だったのです。
そして、第15章「旅行の準備」から、第23章「また逢う日まで」は、『ハイジは習ったことを役立てることができる』(Heidi kann brauchen, was es gelernt hat , 1881年)として、後から書かれた続編です。

『ハイジの修行と遍歴の時代』というタイトルは、ゲーテの2大長編小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』と『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』をもじったものです。
「修行」と「遍歴」の2つの時代を、一つの作品にまとめているのだから、ヨハンナ・シュピリにとって、『ハイジの修行と遍歴の時代』は完全な物語であり、もともと続編を書くつもりがなかったことは、明らかです。

現在では、第1部と第2部(続編)が1冊にまとめられていますが、おじいさんの社会復帰を描いた第14章「日曜の鐘」が、全体で最も盛り上がり、感動的に描かれていることも、本来はこの第14章で物語が完結していたことを知ると、大変納得ですね~。

ヨハンナ・シュピリは、第1部において、「修行と遍歴の時代」を経て、内面的成長を遂げたハイジに、おじいさんの社会復帰を導く役割を与えました。
続編を求める読者の手紙や、出版社の要望に応えて執筆した第2部(続編)では、持ち前の利発さと愛情深さ、素朴な信仰心によって、ハイジはさらに多くの人びとを幸福に導くのです。
讃美歌を歌って、ペーターのおばあさんの心を慰め、娘を失って悲しむ医者の心を慰め、クララの治癒を助けます。

そして、社会復帰を果たしたおじいさんは、第2部(続編)では経験豊かで、思慮深い人物に変わり、ハイジとともに人びとを幸福に導く役割が与えられています。
ゼーゼマン夫人から信頼され、戦地での看護経験を活かしてクララの治癒を助け、フランクフルトからアルプスに移住した医者と素晴らしい友情を築くのです。
ハイジの助力で立ち直った医者は、ハイジを養女に迎えることを希望し、おじいさんが心から医者に感謝し、ハイジの将来を託して、堅い握手を交わし、物語は終わります。

◆◆◆

アニメ「アルプスの少女ハイジ」では、ハイジの信仰獲得と、おじいさんの社会復帰という最重要テーマが、省かれています。

アニメでは、おじいさんが教会や村から離れて暮らしている理由が明らかにされず、ただ村人から恐れられ、嫌われているているだけです。
ハイジは、ゼーゼマン夫人から信仰を教えられることがなく、聖書物語もプレゼントされないので、おじいさんに「放蕩息子」の物語を読み聞かせるエピソードも無く、二人で教会に行く場面も無いのです。
ハイジが読み書きを覚えたことを知り、冬の間は山を降りて、学校に行かせる決心をしますが、最後まで共同体との和解は描かれません。

フランクフルトの医者が、翌年にアルプスを訪れますが、娘を失ったという重要設定が省かれているので、ハイジに慰められる必要はなく、最後にスイスに移住することもなく、ハイジを養女にする結末もないのです。

ペーターが、クララや医者に嫉妬して、不機嫌になり、医者を威嚇したり、クララの車いすを落として壊すエピソードも省かれ、最初から最後までクララに親切で、協力的です。
ペーターの弱さや情けなさが描かれるからこそ、ハイジの善良さ、やさしさが際立つのですが、アニメではペーターも善良でやさしい人物として描かれています。

ロッテンマイヤー女史は、クララのアルプス旅行に同行しないのですが、アニメではクララを連れてアルプスを訪れ、泥だらけになって山を登り、動物に悲鳴を上げて気絶したりします。
しつけに厳しいロッテンマイヤー女史の悪いイメージを打ち消し、本当は善良な人物であると演出するために、アニメ後半では愉快で滑稽な姿で描かれているのでしょう。

このようにアニメでは、原作の重要なエピソードをかなり省くとともに、エピソード改変による不自然さや不足分を補う創作エピソードを非常に多く加えています。
結果として、ハイジの利発さや愛情深さ、素朴な信仰心という美点が薄れてしまったように思います。
アニメのハイジは明るく元気なことだけが取り柄で、思慮の浅さや、分別の無さが悪目立ちし、自分勝手で聞きわけの無いわがままな子ども、という印象です。

原作からは、わたしたちは神を信頼し、祈り、感謝することによって、困難に耐え、乗り越えることが出来る。たとえ神を忘れ、離れてしまったとしても、わたしたちは神に立ち返ることが出来るし、神はいつでも赦し、受け入れてくださる、というヨハンナ・シュピリのメッセージが伝わってきます。
アニメは、神への信仰というテーマを全くなくしたことによって、シュピリの意図からはずれているばかりか、最終的な結末すら変わっていますね。

これほど原作のエピソードを省き、創作エピソードを盛り込むなら、いっそ完全オリジナルアニメした方が良かったのでは、とすら思いました。



読了日:2012年8月17日

2013/01/09

ドストエフスキー「九通の手紙にもられた小説」


ドストエフスキー『九通の手紙にもられた小説』(1847年)を読みました。
新潮社『ドストエフスキー全集 1』に収録されている、小泉猛訳です。
ドストエフスキー全作品を読む計画の第3作目です。

1845年5月、24歳の若い無名作家だったドストエフスキーは、駆け出し作家のグリゴローヴィチと、詩人ネクラーソフに『貧しき人びと』を絶賛され、当時の批評界の大立者であったベリンスキーに紹介されます。
同年夏に、ドストエフスキーは『分身』の執筆を始めます。
『分身』執筆中に、ドストエフスキーはネクラーソフ、グリゴローヴィチと3人で、ユーモア雑誌「ズボスカール」(嘲笑う人)を企画します。
同年11月、「ズボスカール」のために、ドストエフスキーは『九通の手紙にもられた小説』を一夜で書き上げたのです。
雑誌刊行の許可が下りなかったため、『九通の手紙にもられた小説』は1847年に、ネクラーソフとパナーエフによる雑誌「同時代人」に掲載されました。


『九通の手紙にもられた小説』は、デビュー作『貧しき人びと』と同じく、書簡体小説です。
ピョートル・イワーヌイチと、イワン・ペトローヴィチとの間で交わされる往復書簡で構成されています。
ロシア文学者・翻訳者として有名な米川正夫氏は、「彼の作中もっとも無価値のものであることは間違いない」と酷評していますが、わたしは抱腹絶倒でした!
チェーホフのユーモア小説がお好きな方は、楽しめる作品だと思います。


以下に、物語の構成を整理してみましょう。

<第1の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (おそらく11月7日付)
    イワン・ペトローヴィチに相談があり、直接会って話したい。 イワン・ペトローヴィチ宅を訪問したが会えず、ダンスパーティーや劇場を探しても会えなかった。→嘘
    エヴゲーニイ・ニコラーイチを、何とか遠ざけてもらいたい。→嘘?

<第2の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ
    自分を探していたらしいが、自分はちゃんと自宅にいた。
    昨日はピョートル・イワーヌイチ宅を訪問したが会えず、ペレパルキン氏宅で探しても会えず、翌日もピョートル・イワヌーイチ宅を3回訪問したが会えなかった。
    ピョートル・イワヌーイチは自分との約束を無視している。 エヴゲーニイ・ニコラーイチは富裕な地主貴族の生まれ。

<第3の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ
    昨晩5時に叔母が卒中を起こし、危篤であるため、一晩中付き添っていた。→嘘
    翌日、叔母が持ち直したので、イワン・ペトローヴィチ宅へ伺ったが、会えなかった。→嘘
    タチヤーナ・ペトローヴナから、イワン・ペトローヴィチがスラヴャーノフ宅を訪問すると聞いたので、自分もスラヴャーノフ宅を必ず訪問する。→嘘

<第4の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ
    自分はスラヴャーノフ宅を訪問する予定は無かったが、ピョートル・イワーヌイチの手紙を読み、スラヴャーノフ宅を訪問するように、という指示であると判断して、スラヴャーノフ宅を訪れたが、会えなかった。 今朝もピョートル・イワヌーイチ宅を訪問したが、会えなかった。

<第5の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月11日付)
    昨夜の午後11時に、叔母が死去したため、イワン・ペトローヴィチに会えなかった。→嘘
    先週、イワン・ペトローヴィチから受け取った銀貨350ルーブリは、借用証書が存在していないので、借用したわけではない。→嘘?

<第6の手紙> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ (11月14日付)
    自分は、エヴゲーニイ・ニコラーイチが、ピョートル・イワーヌイチ宅へ出入りするよう仕掛けた。
    カード賭博で、エヴゲーニイ・ニコラーイチから金を巻き上げ、ピョートル・イワーヌイチと自分とで利益を折半する約束だった。
    しかし、ピョートル・イワーヌイチは、自分から銀貨350ルーブリを借り、エヴゲーニイ・ニコラーイチから巻き上げた金をも独り占めしようとしている。 銀貨350ルーブリと、約束したカード賭博の利益の分け前を要求する。

<第7の手紙> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月15日付)
    今後いついかなる場合にも、イワン・ペトローヴィチと会うことはない。自分の妻が、タチヤーナ・ペトローヴナから借りていた『ラマンチャのドン・キホーテ』を返却する。

<第8の手紙①> イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ (11月16日付)
<第8の手紙②> アンナ・ミハイロヴナより、エヴゲーニイ・ニコラーイチへ (11月2日付)

<第9の手紙①> ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ (11月17日付)
<第9の手紙②> タチヤーナ・ペトローヴナより、エヴゲーニイ・ニコラーイチへ (8月4日付)


イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチは、カード賭博詐欺師であり、裕福な青年貴族のエヴゲーニイ・ニコラーイチから多額の金を巻き上げる計画をしていました。
カード賭博詐欺の利益をめぐって、イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチが仲間割れします。
イワン・ペトローヴィチは、腹いせに、ピョートル・イワーヌイチの妻アンナ・ミハイロヴナが、エヴゲーニイ・ニコラーイチと浮気していることを暴露します。
ピョートル・イワヌーイチも負けずに、イワン・ペトローヴィチの妻タチヤーナ・ペトローヴナが、エヴゲーニイ・ニコラーイチの元恋人であることを暴露するのです。

◆◆◆

ドストエフスキーの作品は、登場人物たちの生き生きとした会話や、大胆な心情吐露が魅力だと思います。
ドストエフスキーは、<会話>と<独白>の天才を遺憾無く発揮するために、デビュー作『貧しき人々』において、書簡体小説という形式を選んだのかもしれませんね。

『九通の手紙にもられた小説』も、ドストエフスキーらしい<会話>の面白さがあります。
イワン・ペトローヴィチとピョートル・イワーヌイチの、強烈な嫌味と皮肉の応酬には、思わず吹き出してしまいます。

(第2の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
すぐさま愚妻を伴い、失費をも顧みず、馬車を雇って、六時半ごろ、貴宅へ参上したところ、貴兄はお留守で、奥様がお出迎えくださいました。十時半まで貴兄のお帰りを待ちましたが、それ以上は不可能でしたので、再び愚妻を伴い、失費をも顧みず、馬車を雇い、愚妻を自宅へ送り届け、小生自身はペレパルキン氏宅へ向かいました。そこでならお会いできるのではあるまいかと思ったのですが、またしても計算違いでした。帰宅後も一晩中眠れず、不安の中に夜を明かし、翌朝は九時、十時、十一時の三回、失費をも顧みず、馬車を雇って貴兄宅を訪問したにもかかわらず、またしても、貴兄にしてやられました。

(第3の手紙 ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ)
かぎりなく尊いわが友イワン・ペトローヴィチ!
失礼、失礼、失礼、重ね重ね失礼、しかし取り急ぎ弁明いたします。

(第4の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
この手紙は貴兄のお宅で、貴兄の部屋で、貴兄のデスクに向かって書いております。ペンを取る前に二時間半あまりも貴兄をお待ちしたのです。

(第7の手紙 ピョートル・イワーヌイチより、イワン・ペトローヴィチへ)
貴兄の百姓じみた、しかも同時に奇怪な書簡を受け取ったとき、最初、小生はずたずたに引き裂いてしまおうかと思いましたが―珍品として保存することにいたしました。

(第8の手紙 イワン・ペトローヴィチより、ピョートル・イワーヌイチへ)
貴兄に言われるまでもなく、小生はもはや二度と再び貴兄のお宅に足を運ぶようなことは致しません。無駄に紙を一枚汚されたものですな。

第2の手紙で、イワン・ペトローヴィチが「失費をも顧みず」と、3回も繰り返して書いているところは、笑えますね~。

『九通の手紙にもられた小説』の原題を見てみると、さらに笑えました。
原題は、《Роман в девяти письмах》です。
роман(ラマーン)は「長編小説」という意味で、直訳すると「九通の手紙からなる長編小説」となります。

ロシア語で「小説」という言葉は、роман(ラマーン)「長編小説」、повесть(ポーヴェスチ)「中編小説」、рассказ(ラスカース)「短編小説」と、はっきり区別されています。
このような短編小説に、роман「長編小説」という大げさな表題が付いているのですから、笑いを誘います。

『九通の手紙にもられた小説』は、作品のタイトルからジョークであり、ドストエフスキーが随所に笑いを盛り込んだユーモア小説であることが分かりますね。



読了日:2011年12月25日