2011/08/16

「サラエボ、希望の街角」(ヤスミラ・ジュバニッチ監督)

サラエボ、希望の街角 [DVD]
サラエボ、希望の街角 [DVD]
  • 発売元: ビデオメーカー
  • 発売日: 2011/09/02

ヤスミラ・ジュバニッチ監督「サラエボ、希望の街角」(2010年、原題 Na Putu)を観ました。
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボが舞台。
痛ましい内戦の傷跡を、若いカップルの心のすれ違いを通して描いています。 

主人公のルナは、子供の頃に故郷の町をセルビア軍に占領され、両親を殺害され、家を追い出された避難民。
戦争から15年経った今でも、ルナの年老いた祖母は、自分の娘を殺したセルビア人を憎み続けています。
ルナが、かつて住んでいた故郷の家を訪ねる場面が、すごく印象的でした。
現在、そこに住んでいる少女に「どうして出て行ったの」と聞かれ、ルナは何も言わず、ただ少女の頭をなでるのです。
その少女は、ルナにとって両親を殺した「敵」セルビア人の娘。
わたしは、ルナが少女に戦争があったことを教えるのだろうと思いました。でも、ルナは何も言わなかった。
憎しみではなく、寛容と愛。
戦争を知らない世代が生まれていて、その子供たちにあえて戦争の記憶を伝えないことは、憎しみの連鎖を断ち切るために必要なことなのかもしれない、と思わせられました。

◇◇◇

ルナの恋人アマルは、アルコール依存症のため停職処分となります。
アマルも元兵士で、内戦で弟を殺されていました。彼のアルコール依存は、戦争後遺症でしょう。
禁酒セラピーにも馴染めず、失意の日々を過ごしていた時に、イスラム原理主義者となったかつての戦友と出会います。
アマルは、イスラム原理主義者たちのキャンプに参加し、厳格だけれど平和で友愛に満ちた生活を通して、精神的な癒しと支えを得ます。
イスラム原理主義の教えを通して、アマルは「紛争で虐殺され、故郷を追われたのは、不信心だったから」という明確な“答え”を得たのです。

ルナの祖母の家で、断食明けの犠牲祭が祝われた時、アマルは集まった親族たちに「みんな不信心でいいのか。また虐殺されるぞ」と説教します。
ルナもその親族たちも、もともとイスラム教徒ですが、お酒も飲むし、タバコも吸うし、肌を露出したドレスも着るし、歌い踊りにぎわう。
イスラム原理主義者ではない、ごく平凡なボシュニャク人たちは、ルナやその親族たちのようなのでしょう。
犠牲祭のような宗教行事が、西欧のクリスマスのように、家族が集まる伝統的行事として根付いていて、アッラーへの素朴な信仰を持っている。
急速に原理主義に傾倒したアマルには、それが堕落と罪悪にしか感じられないのでしょう。

愛する恋人が次第に頑なになり、別人になっていく様子に、ルナは困惑し、理解しようと努力します。
アマルの子供を身ごもっていたルナは、アマルに別れを告げるところで、映画は終わります。
子供を産むか産まないか、悩んでいたルナ。
監督インタビューによれば、観客に解釈をゆだねたラストシーンに、大きく二通りの反応があったそうです。
西欧ではルナは子供を中絶し二度とアマルには会わないだろうと、東欧では彼女は子供を生んで一人で育てるだろうと。

また、ボスニアの人々の反応もさまざまで、あまり宗教的でない人たちはルナに感情移入し、厳格なイスラム教徒は「アマルの正しさについていけないルナの物語」と理解したそうです。


『サラエボ、希望の街角』の原題は「Na Putu」。ボスニア語で、何かに向かう道の途中という意味。英題は、原題を直訳した「On the Path」となっています。
ルナや、ルナの親友たちは「戦争で傷ついたのは彼だけじゃない」と、いつまでも立ち直れないアマルの弱さを理解しようとしていません。
日々を懸命に生きる彼女たちの言葉は、正しいけれど、実はとても厳しい要求です。
きっと誰もが戦争で傷つき、深い悲しみを抱えているけれど、その傷跡を修復し、再生する道のりは一人一人がそれぞれ歩むもの。
アマルにとって、信仰だけが自分の弱さや痛みを、無条件に全面的に受け入れてくれたのでしょうね。



鑑賞日:2011年8月15日、映画館。