2009/11/02

トーマス・マン「魔の山」(2)

魔の山 下    新潮文庫 マ 1-3
魔の山 下  新潮文庫 マ 1-3
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 940
  • 発売日: 1969/03

★トーマス・マン『魔の山』(1)

ペーペルコンの死後に配置されている「巨大な鈍感」、「妙音の饗宴」、「ひどくいかがわしいこと」、「立腹病」の4節は、サナトリウムを包む異常な雰囲気をそれぞれの角度から描いています。この閉塞と退廃の状況は、「霹靂」に向かって加速していきます。

そして「霹靂」(第一次大戦の勃発)は、「魔の山を木端微塵に打ち砕き」ました。砲煙弾雨の中に消えゆくハンス・カストルプの姿をもって、『魔の山』は終わります。
『魔の山』において、1914年の戦争はもはやどうしようもなくなった世界の停滞からの解放、浄化の役割を果たしたのかもしれません。

◇◇◇

トーマス・マンは、『魔の山』において「時間という不可思議な要素の問題性と独特な二重性」(「まえおき」)を極めて効果的に表現しています。

「時間を物語る」ことができるというのは少しいいすぎかもしれないが、時間について物語ろうというのは、最初にそう思われたほどに不条理なことではないということは明らかである。―とすると、「時代小説」という名称は独特な夢幻的な二重の意味を持つことになりはしないだろうか。(第7章第1節「海辺の散歩」 , 以下同)

ハンス・カストルプの物語は、二重の意味でZeitromanとされています。第一に、一般的な語法である「時代小説」という意味です。第二に、Zeitという語句が持つ「時、時間」という意味から、「時間」を対象とする「時間の小説」というマン独特の意味が与えられています。


マンは、「時間の小説」として「時間」そのものの意味を問い直し、二つの特徴的な時間観を示しました。第一に、謹厳なヨーアヒムが最も大切にした低地における市民的・倫理的時間観です。第二に、「魔の山」を支配している超越的領域に属する神話的・形而上学的時間観です。

私たちはなおも歩きつづける―もうどのくらいの時間を歩いたであろうか。どのくらいの距離を歩いたのか。それはわからない。私たちがどれほど歩きつづけても、何ひとつ変わりはしない。向こうはここと同じであるし、さっきといまと、またこれからと同じである。はかり知られないほどに単調な空間の中では時間も消えうせてしまう。一点から一点への運動は、完全に均一不変な世界にあっては、運動でなくなってしまうし、そして運動が運動でなくなれば、時間もなくなってしまうのである。

ハンス・カストルプは、低地から三週間の予定で「魔の山」を訪れますが、彼が持っていた「現実的時間」感覚は、「魔の山」の「永遠の現在」に溶けてゆき、「7年間の惰眠」をむさぼることになります。しかしながら、ハンス・カストルプは、大戦勃発の「霹靂」によって「魔法を解かれ」、「永遠の現在」から激動する「現実的時間」へもどるのです。

したがって、「魔の山」と「低地」はそれぞれ、前者は「死・病気・永遠の現在(無時間、静止)」の原理を、後者は「生・健康・前進する時間」の原理を志向しており、この二つの相の対立・葛藤が物語を構成しているのだと思います。


読了日:上巻 2009年9月23日 / 下巻 2009年10月26日

2009/11/01

トーマス・マン「魔の山」(1)

魔の山 (上巻) (新潮文庫)
魔の山 (上巻) (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 860
  • 発売日: 1969/02

トーマス・マン『魔の山』(1924年)を読了しました。
「古今東西の名作を読もう」コミュニティの、2009年8月・9月課題本でした。
『魔の山』は、主人公ハンス・カストルプが、スイスのダヴォスにある国際サナトリウム「ベルクホーフ」に滞在した7年間を描いています。


トーマス・マンは、北ドイツ市民の「人好きはするが単純な青年」ハンス・カストルプを通して、根源的な「生」への志向と「死」への志向の対立を追求しています。
生(健康)の代表としてセテムブリーニ、ヨーアヒム、ペーペルコンが、死(病気)の代表として、ナフタ、ショーシャ夫人がそれぞれ配置されています。

イタリアの人文主義者セテムブリーニと、東方ユダヤ人のイエズス会士ナフタが展開する論争は、「人類の進歩」か「古典的中世」か、「民主主義革命」か「神の国の再建」か、「生と健康」か「死と病気」の浄化力か、笞刑・拷問・死刑の可否にまで至ります。
共産主義的イエズス会士であるナフタの思想は、ルカーチの思想と対応しているとともに、「病気の高貴性」という認識は、ニーチェのパラフレーズでもあります。


ハンス・カストルプは、「死への共感」すなわちショーシャ夫人への"悪しき愛"から、「生(生命)とは何か」を探究します。解剖学・生理学・生物学の専門書を研究し、「生命」とは「存在の淫らな形式」であり、生命に形と美を与える「肉体」は、「死にながら生きている有機物質」であることを理解します。そして主人公が見る「生命の像」は、ショーシャ夫人の裸像として表現され、ショーペンハウアー的な「死のエロティシズム」と結合しています。
ハンス・カストルプの「肉体」に対する官能的な愛は、セテムブリーニとナフタの論争から触発された彼自身が「鬼ごっこ」と名づけた瞑想(思考実験)を経て、普遍的な人間愛に昇華し、雪山の夢の中で、主人公に啓示されるのです。

己は人間の肉と血を知った。己は病気のクラウディアにプシービスラフ・ピッペの鉛筆を返してやった。しかしからだを、生命を知る者は、死を知る者だ。ただそれがすべてではない、―むしろそれは、ただのはじまりだ、教育的に考えるならば。それに他の半分を加えなければならない、反対側を。なぜなら、死と病気に寄せるいっさいの関心は、生に寄せる関心の一種の表現にほかならないからだ。
(第6章第7節「雪」, 高橋義孝訳)

したがって死(病気)の代表であるショーシャ夫人は、ハンス・カストルプの思慕の対象となることによって、逆説的ですが主人公を「生」への志向・新しい「人間性」の理念に導く役割を果たしています。

◇◇◇

人文主義的理想郷である古代ギリシアの美しい入り江のほとり、「太陽の子ら」の健康と礼儀、美と英知に満ちた明るい光景の背後には、不気味な神殿がそびえています。その中では、年老いた醜い女が二人、嬰児を引き裂いて食べていました。
「雪」の節で描かれる夢があらわしているのは、理性と反理性を併せもつ人間そのものの姿にほかなりません。

この夢を受けてハンス・カストルプは、「いつも理性の角笛を吹くばかり」のセテムブリーニにも、「普遍世界への神秘的な沈没を目ざす」ナフタにも与しないことを誓い、「人間は善意と愛のために、その思考に対する支配権を死に譲り渡すべきではない」という格率に達します。
すなわち、ハンス・カストルプの到達した新しい「人間性」は、貴族主義的な「死」の原理と民主主義的な「生」と「未来」の原理が均衡することによって成立します。


ジャヴァでコーヒー園を経営している年配のオランダ人ペーペルコンは、ディオニュソス的な生命力の代表であり、セテムブリーニとナフタの論争を沈黙させてしまう神秘的な力を持っています。ハンス・カストルプにとって、ペーペルコンはセテムブリーニとナフタの対立を解消させ、両者から距離をおくための役割を担っています。
ペーペルコンは、ワインや卵料理などの「素朴なもの、偉大なもの、神からの生れながらの賜物」(第7章)をよく味わうこと教えました。
勤勉な軍人である従兄弟のヨーアヒムは、市民的・道徳的な義務として、低地での市民生活を志向していたました。しかしディオニュソスであり、「パンとぶどう酒」のアナロジーからキリストとも重なるペーペルコンは、「生」のより根源的なもの、「人生の素朴な賜物」をすすめます。

ペーペルコンから「生」への親愛を受け、ハンス・カストルプの「肉体と精神の冒険」(内面的探究)はひとつの完成を迎えたのだと思います。


★トーマス・マン『魔の山』(2)

2009/10/01

トマス・ハーディ「テス」

テス 上 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 発売日: 1960/10/5

ハーディ(Tomas Hardy,1840-1928)の『テス』(Tess of the D’Urbervilles,1891)を読了しました。
『テス』は、美貌と豊満な肉体にめぐまれ、清純な心と強い感受性を持ったテスが、貧困ゆえにつぎつぎと苛酷な運命に弄ばれ、短い生涯を終える悲劇です。
なぜ彼女はこのような悲劇的人生を送らなければならなかったのでしょうか?
テスの生涯を通して、個人の自由意志と運命について考えてみました。

1.『テス』における「運命」とは何か?


テスがアレクのために純潔を汚された後、語り手はテスに同情し、彼女の運命の不合理さに憤ります。同時に、なぜそのような悲劇が起こったのかと問い、

あの片田舎に住むテスの村の人たちが、宿命論的にお互いのあいだで飽きもせず言っているように、「そうなるようになっていた」のだ。ここにこの事件の哀れさがあった。
(ハーディ『テス』 井上宗次・石田英二訳、第1編 第11章)

として、当然なるべくしてなった悲劇と結論づけます。
そしてこの事件を契機に、テスは悲劇の道をまるで追われるかのように突き進むのです。

しかしわたしは、この「宿命」あるいは「運命」と呼ばれるものを生み出しているのは、実際にはいわゆる「神」ではないと思います。
それは、「測り知れぬほど深い社会の裂け目」(1-11)、すなわち彼女を取り巻く社会環境です。
家庭の貧困こそが、この悲劇の根本なのです。悲劇の第一歩を踏み出す契機をつくった女中奉公に行かねばならなかったのは、家庭の貧しさゆえであり、夫に捨てられた後、フリントコム・アッシュの荒涼たる農場で苛酷な労働に従事しなければならないのも、この貧困のためです。
また、父の急死によって家を追い出された家族を救うためにアレクに身を任さなければならないのも、経済的困窮によるものなのです。


経済的困窮に加えて、テスの悲劇をつくりだした社会環境の第二の大きな要因として、男性の存在があります。
それは、アレクとエンジェルの対照的な二人の人物像として描かれています。
アレクは肉欲的で唯物主義的性格であり、エンジェルは教養もあり進歩的思想をいただいた、理想主義・精神主義的性格です。テスに向けられた二人の愛は、どちらもその悲劇を加速させるだけでした。

彼らどちらも、テスの中に"自然"を連想しています。
アレクにとってテスは「野獣」そのものであり、征服の対象であるウィルダネスでしかありませんでした。

一方、エンジェルにどうでしょうか。
彼は、テスを「自然の娘」と見ることで、彼女を理想化しました。
エンジェルは知性と教養といった表面の下に、強い因襲と硬直した道徳的偏見を保持していました。
すなわち、彼は無意識のうちに、日ごろ軽蔑していたヴィクトリア朝道徳にとらわれていたのです。
エンジェルが選んだ農業や農場での生活は、生まれ育った彼の基盤である厳格な福音主義や、近代的な都市での生活への反発として向かったユートピアにすぎませんでした。
彼はテス一家が辿る貧窮の生活も、農村社会の崩壊状態も知りません。
このようなエンジェルの牧歌的な自然観は、上記のテスへの理解の質に現れています。
エンジェルがテスに残酷な心変わりをすることは、彼自身の限界ゆえの必然であったと言えるでしょう。



2.「運命」に個人の自由意志は対抗しうるか


エンジェルの精神世界の限界性を鑑みると、反逆と自由のために農場経営に夢を燃やす彼の自由意志は、「運命」すなわち社会環境には対抗できないということを示しています。
テスの告白を聞いて、エンジェルの描いていた牧歌的世界と「清純な乙女」の夢は瓦解しました。
彼の精神世界は、両親のヴィクトリア朝的中産階級の、清教徒的な道徳から抜け切れていないのです。

エンジェルの因襲性とは対照的に、テスは近代的自我の持ち主ではないでしょうか。
彼女は性に対して、いわゆる「新しい女性」のように解放された考え方をする訳ではありません。
一方では処女性に自らこだわりながら、他方では自らの精神の潔白と品位とを守り抜くことで、自らの誇りを回復する女性だと言えます。
このアンビヴァレントな考え方に、20世紀のヒロインの原型を見ることができます。

テスは、単に置かれた社会環境に屈服し、敗北することなく、彼女の回復力、適応性、独立心ゆえに、自らの肉体を支配する男からわが身を解き放ち、尊厳と勇気とを持って厳しい現実に決然として立ち向かいました。
そして精神的な意味で、ようやく安住の地を見出し、ほんのひとときの幸福を得たテスは、自らの意思で、自らの犯した罪を償うために刑死を選ぶのです。

「そうなるのが当然ですわ」と、彼女はつぶやいた。「エンジェル、あたし、うれしいくらいなの―ええ、うれしいんですわ! このしあわせは、長つづきするはずがなかったんですもの。あまりしあわせすぎました。もう十分です。これで、もう、あなたに軽蔑されるために生きなくってすむんです!」
彼女は立ちあがると、身をゆすって塵をはらい、前に進みでた。男たちは、だれ一人として動かなかった。
「どうぞ」と、彼女は静かに言った。(第7編第58章)

これは、自らの「運命」に果敢に立ち向かった彼女の自由意志が、最後には勝利をおさめたとは言えないでしょうか。


3.おわりに


まとめとして、テスの悲劇をうみだした「運命」は社会環境であると思います。
その根本にあるのは、小農民ゆえの貧困であり、文明として表象される男性によって自然として見なされる、女性であることです。
ヴィクトリア朝時代において、自然は文明の征服、支配の対象であり、自然の表象である女性も同様でした。
ロレンスは、「女であり、生命であるテスは、共同体社会の法律の名の下に、機械的運命に滅ぼされるのだ」と表現しています。
すなわち『テス』は、ハーディによる近代文明批判であるとも言えます。

さらに、このような「運命」に敗北するか否かは、個人の自由意志にかかっています。
エンジェルは彼の知性と教養によって文明生活に反発し、農村への回帰を図りましたが、これは彼の精神世界の限界性を意味しています。
都市での生活を否定して農村を選んだ彼にとって、そこは必然的に理想化され、現実の厳しさに対して無理解のままだからです。

エンジェルという人物像は、ヴィクトリア朝中産階級出身者が自らの身分を批判し、そこから脱却を試みようとした場合の典型的な例であり、その牧歌的な観念と現実認識の甘さに対する、ハーディの強烈な批判が込められているのです。
そのようなハーディが示した新しい人間像、すなわち「運命」に対抗しうる近代的自我が、テスその人なのだと思います。



読了日:2007年2月4日

2009/05/09

ディケンズ「オリバー・ツイスト」

オリバー・ツイスト〈上〉 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 2005/12/14

ディケンズの『オリバー・ツイスト』(中村能三訳、新潮社)を読了しました。
主人公オリバーがひたすら不幸になる鬱展開で、それが(読者の同情を引き、劣悪な制度に対する怒りを誘うための)作者の狙いだとは分かっているのですけれど、やっぱり読んでいて辛くなりました。もちろんディケンズですから、結末は読者の期待どおり、典型的なメロドラマ風の大団円に終わります。
彼の作品は、読者に後味のよい泣き笑いを与えてくれる<大衆小説>だと思います。その役割を、ひと昔前のハリウッド映画だったり、連続テレビドラマだったりが担っていたような気がします。あるいは、テレビアニメや漫画が。

◇◇◇

オリバーの人物描写に関して、あまりに平面的で現実味を欠いているといった批判がしばしば見られます。Allan Grantは、「オリバーには個性も子供らしい性質もなく、作品内容の伝達手段にすぎない」と批判しています。
オリバーが批判にさらされる一方、ナンシーはその人物描写において高く評価されています。Wilkie Collinsは、ナンシーを「ディケンズが描いた最もよい人物」と述べているし、Brian Murrayは、ナンシーをディケンズの初期作品の中では比較的現実的な登場人物であると評価しています。

オリバーの存在が、主人公であるにも関わらず、希薄な印象を受けるのは確かです。
誕生から、養育院、救貧院、サワベリーの店、フェイギンの巣、ブラウンローによる救出が描かれる1章から16章までは、オリバーを中心に展開されます。しかし22章から23章に至る押し込み強盗の場面では、サイクスの脇役的存在となり、28章から36章に至るメイリー家での場面は、ローズやロスバーン、ハリーの方に重点が移ります。さらに、オリバーの出生の秘密を探る過程から、オリバー自身が除外され、37章から50章に至るまで、41章を除くと、オリバーは全く登場しません。
つまり、物語の進展とともに、オリバーの登場する場面が減っていくという作品構成になっているのです。

『オリバー・ツイスト』が、主人公オリバーの成長物語ではないことと、オリバーの人物描写が現実離れしていることは、結びついていると思います。
ディケンズは、1841年の序文でオリバーに対して "the principle of Good" という表現をしています。つまりオリバーは、「善の原理」を体現する<無垢な少年>として、精神的成長が止められた存在なのだと思います。そのため、彼はひたすら受動的=受苦的存在に甘んじなければいけません。
オリバーが少年期のさまざまな葛藤や苦しみ、喜びを経ながら精神的成長を得れば、その代償として「善の原理」=聖性を喪失するわけですから、作品の構造上不可能ですよね。

オリバーのそれに対して、ナンシーの人物造型が高い評価を得ているのは、彼女がこの作品中で、<成長する>ほとんど唯一のキャラクターだからでしょう。ナンシーは聖性を備えたオリバーと出会うことで、自分の運命と闘います。それは、キリストにおける改心と救済の寓話だと思います。


読了日:上巻 2009年4月27日 / 下巻 2009年5月5日