2008/08/25

ソルジェニーツィン「ガン病棟」(2)

ガン病棟〈第2部〉 (1969年)
ガン病棟〈第2部〉 (1969年)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 1969

★ソルジェニーツィン「ガン病棟」(1)


ソルジェニーツィン『ガン病棟』に登場する、オレーク・フィリモノーヴィチに注目してみましょう。

わたしは、オレークが、流刑地である農村に郷愁を感じ、強い愛着を持つのと、『マトリョーナの家』のイグナーチッチが農村に心の安らぎを見出すのは、同じメンタリティだろうと思いました。
イグナーチッチも、10年あまりラーゲリに抑留されています。
オレークの手紙には次のように綴られています。

特に長生きをしたいわけではないのです! 将来の計画を立てたところで何になりましょう。絶えず警護兵に監視され、あるいは絶えず痛みを感じながら生きてきたのですから、今は僅かの間でも警護兵と痛みの両者を抜きにして生きたい―それが精いっぱいの望みなのです。何もレニングラードやリオ・デ・ジャネイロに行きたいというのではなく、ただあの鄙びた村へ、つつましいウシ・テレクへ帰りたいだけなのです。もうじき夏ですね。この夏は星空の下で眠り、夜中に目醒めたら、白鳥座やペガソス座の傾き具合で時刻を知りたい。この夏、脱走防止用のライトに消されていない、あの星空を眺めることさえできれば、もう再び目醒めなくても構いません。
(ソルジェニーツィン『ガン病棟』小笠原豊樹訳、以下同)

一方で、オレークは都市の生活に対しては「疲労」と「吐き気」を感じます。

なんだって? 大勢の人間が塹壕の中で死に、同胞墓地や、極地のツンドラに掘った小穴の中へ投げこまれ、中継監獄で寒さに震え、鶴嘴を担いで疲労困憊し、継ぎあてをあてた綿入れ一枚で寒さを凌いでいたというのに、この潔癖な男ときたら、自分のルバシカのサイズのみならず、カラーのサイズまで覚えているのか?!

このカラーのサイズがオレークを打ちのめしたのである! カラーにまでいろいろなサイズがあろうとは夢にも思わなかった! 傷ついた呻き声を発しながら、オレークはルバシカ売り場から離れて行った。カラーのサイズか! なんのためにそんな繊細な生活を送らなければならないのか。なぜそんな生活に復帰しなければならないのだ。カラーのサイズを覚えるということは、すなわち、ほかの何かを忘れるということではないか! もっと大切な何かを!

あまりに非人間的な生活を体験した後では、オレークは「頭脳を根本的に裏返されてしまった」ため、「もう何であろうと無邪気に客観的に受け入れることはできない」のです。

都市の人々の、経済成長の恩恵を受けた豊かで文化的な―ラーゲリやそこに抑留されている人間としての尊厳を奪われたたくさんの人々が、まるで存在していないないかのような―生活は、オレークにとってうわべだけの"大切な何かを忘れた"生活に思えるのでしょう。


ここから、ソルジェニーツィンの分身と言えるオレークやイグナーチッチが、農村に心を寄せる理由がわかります。
そして、ソルジェニーツィンがマトリョーナ・ワシーリエブナやザハール・ドミトリッチのように、素朴で誠実な"人間らしい"人々を、愛情と尊敬を込めて描いた理由も、ここにあると思います。

◇◇◇

雑役婦のエリザヴェータ・アナトーリエヴナも、ラーゲリを終えた女性でした。
暇な夜勤のときなどフランス語の小説を読むほどの教養ある彼女が、看護婦は触れることのない不潔なもの、不都合なものの出し入れを一手に引き受け、まめまめしく働いています。

オレークやイグナーチッチが「古き良きロシア」に心の安らぎを覚えるように、彼女は古いフランスの小説を読みます。

「悲劇的な小説といっても、私たちの経験と比べれば、なんだか滑稽な話ばかりですね」と、エリザヴェータは言います。
彼女は、ほんとうは古いフランスの小説ではなく、現代のロシアの小説を読みたいのでしょう。
しかし「安全な道」を選んだ著者たちは、彼女にとって「現在生きている人たち、現在苦しんでいる人たちには、なんの関心もないように思えるのです。
表現はオレークと異なりますが、エリザヴェータも同じ違和感を共有しているのだと思います。

「いつになったら、私たちのことが小説に書かれるのでしょう。百年経たないと駄目なのですか」

彼女の心の叫びとも言える訴えが、強くわたしの胸に残りました。



読了日:第1部 2008年8月18日 / 第2部 2008年8月19日

2008/08/24

ソルジェニーツィン「ガン病棟」(1)

ガン病棟〈第1部〉 (1969年)
ガン病棟〈第1部〉 (1969年)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 1969

現在、ソルジェニーツィン追悼月間です。
ソルジェニーツィンの長編『ガン病棟』(1968年)を読了しました。

『ガン病棟』は、人間が自分の病気と死に向き合うことを描いた作品です。
このテーマを扱った作品と言えば、トルストイ『イワン・イリイチの死』や、映画「生きる」(黒澤明監督)が思い浮かびます。

◇◇◇

『ガン病棟』は、ウズベク共和国の首都タシケント市の総合病院のガン病棟が舞台の、いわゆる<主人公不在の小説>です。第1部は1955年2月初旬の1週間、第2部はそれから1ヶ月後の3月初めを描いています。

第13病棟すなわちガン病棟には、ラーゲリ生活を終え、永久追放の身であるオレーク、党官僚として権力のあるパーヴェル・ニコラーエヴィチ、若く才能を認められた地質学者ヴァジム・ザツィルコ、旋盤工として働きながら勉強をするまだ16歳のジョームカなど、さまざまな階層を代表する患者たちが収容されており、誰もが等しく同じ死の淵に立たされています。
彼らの治療に当たる女医、看護婦、雑役婦など数多い登場人物たちも、死と向き合う普遍的な人間像であり、それぞれが人には言えない暗い影を背負っています。

普遍的な人間存在を描いていると同時に、『ガン病棟』は1955年のソビエト社会の縮図であり、そこに描かれた人々は、1955年のソビエト社会に"生きた具体的な人間"なのです。
本作の特徴と言えるポリフォニーの手法は、きわめて効果的に"生きた"人間を浮かび上がらせていますね。

◇◇◇

『ガン病棟』は、1968年ソビエト作家同盟機関紙「文学新聞」によって「思想的に見て本質的に改作を要する作品」と決めつけられ、ソルジェニーツィンは激しく批判されました。

「ノーヴィ・ミール」誌にすでに発表されていた『イワン・デニーソヴィチの一日』、『クレチェトフカ駅の出来事』、『マトリョーナの家』、『公共のためには』、『胴巻のザハール』の単行本は出版を拒否され、彼の作品の公開朗読会やラジオでの朗読放送も禁止されていました。『ガン病棟』も、数章ずつの掲載は5つの雑誌に拒否され、全編の掲載は3つの雑誌に拒否されたと言われています。ついに西欧での『ガン病棟』の出版という事態を迎え、国内でのソルジェニーツィンをめぐる状況はいっそう厳しくなりました。

そして1969年10月、彼は突如としてソ連作家同盟リャザン支部から除名されました。それまでに、彼はどんな小さな文章をも国内では発表できない状況にありましたが、ソ連作家同盟の会員であることは、ソビエト社会における彼の身分を保証するものだったのです。

皮肉にも翌1970年秋、ノーベル文学賞が決定しました。スェーデンの文芸評論家たちはこの受賞について、「ソルジェニーツィンの文学が生き残るためにはノーベル賞は不要であろうが、ノーベル文学賞の権威のためにはソルジェニーツィンの文学が必要である」と論評したといいます。
この讃辞が暗示した通り、どれだけ当局に禁じられようとも、ソルジェニーツィンの文学は現在まで生き残っています。


★ソルジェニーツィン「ガン病棟」(2)

2008/08/23

ソルジェニーツィン「胴巻のザハール」

ソルジェニーツィン短篇集 (岩波文庫)
ソルジェニーツィン短篇集 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 価格: ¥ 798
  • 発売日: 1987/06

現在、ソルジェニーツィン追悼月間です。
ソルジェニーツィンの「胴巻のザハール」(1966年)を読了しました。

◇◇◇

「胴巻のザハール」は、語り手が自転車旅行をしたクリコーボの古戦場と、その番人である「赤毛の精霊」ザハール・ドミトリッチの思い出を描いた短編です。

 この身にしみる寒さだというのに、ザハールは干草の山で寝たのだ! なんのために? どんな不安に、あるいはどんな愛着に、この男はつきうごかされたのか。
 わたしたちが前の日に感じていた、この男をあざけり、見下す気持ちは、みるみる消え失せた。この寒い朝、干草の山から立ちあがったザハールは、すでにして単なる番人ではなく、この古戦場の精霊であり、この野原から決して立ち去らぬ警護の牧神だったのである。
(ソルジェニーツィン「胴巻のザハール」小笠原豊樹訳)

ザハールの胴巻の中には感想帳と、許された唯一の武器である斧がしっくり収まっています。



ザハールの人物像は、『マトリョーナの家』のマトリョーナ・ワシーリエブナと同じ系譜だと思いました。マトリョーナは「敬虔の人」であり、ザハールは「警護の牧神」です。

マトリョーナは、親類や村人から「お人よしで馬鹿で、他人に無料奉仕ばかり」しているとされ、軽蔑のまじった憐みの眼差しを向けられています。
いたずらをやりそうな見学者に一々喰ってかかり、土地の荒廃について毎回熱烈に腹を立てるザハールも、野卑で滑稽な人物としてみなされ、権限は全くなく、給与は最低賃銀以下の27ルーブリです。

しかしながら、大地とそこに住まう無数のマトリョーナやザハールがいたからこそ、わたしたちの村や町が成り立ってきたのであり、誰にも評価されないところで、彼らの「素朴さや誠意」がわたしたちの生活を支えているのです。
これが、『マトリョーナの家』そして『胴巻のザハール』に織りこまれた、ソルジェニーツィンのメッセージだと思いました。 読了日:2008年8月13日

2008/08/22

ソルジェニーツィン「マトリョーナの家」

ソルジェニーツィン短篇集 (岩波文庫)
ソルジェニーツィン短篇集 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 価格: ¥ 798
  • 発売日: 1987/06

現在、ソルジェニーツィン追悼月間です。
ソルジェニーツィンの「マトリョーナの家」(1963年)を読了しました。

◇◇◇

まず書き出しが、すばらしいです。

 もう、かれこれ半年はつづいているだろうか、モスクワから百八十四キロ離れた地点にさしかかると、どの列車も申し合わせたように速力をゆるめ、ちょうど手探りで歩くほどのスピードになる。乗客は窓ガラスに顔を押しつけたり、デッキに出てみたりする。線路の修理でもしているのだろうか。運行表からズレたのか。
 いいや。踏切を一つ通りすぎると、列車はふたたび速力を盛りかえし、乗客はほっとして座席に戻る。
 なぜこうなのか、そのわけを知り、かつ忘れないのは、機関手だけである。
 それから、わたしも。
(ソルジェニーツィン「マトリョーナの家」小笠原豊樹訳、以下同)

ロシア文学史において、「マトリョーナの家」は農村派文学の古典と言われています。
スターリン死後のソビエト文学の中には、農村に保持されている古き良き価値に共感を寄せる一連の作品が現れるようになり、とくに1960年代後半以降この傾向は顕著なものとなって、「農村派」という呼び方が一般化しました。
農村を扱った文学の歴史は古く、カラムジーン、グリゴローヴィチ、トゥルゲーネフ、トルストイ、ブーニンなどによる古典的作品が多くあります。現代の農村派の特徴は、農村に寄せる作家の共感がある種の喪失感や郷愁の念とないまぜられている点です。

「マトリョーナの家」は、語り手であるイグナーチッチが、「古き良きロシア」タリノボ村にある、マトリョーナ・ワシーリエブナの家での下宿生活を回想する物語です。
誰もが農村を出て都会へ就職したがる時代に、イグナーチッチは「鉄道から離れた所」に就職し、そこで永住したいと考えています。「古き良きロシア」の農村は、彼の心に安らぎを与えるのです。
ここからも、ソルジェニーツィンが思想的には農村派に極めて近い所に位置していたことが分かります。

◇◇◇

ソルジェニーツィンのヒューマニズムの精神は、マトリョーナという人物像にぎゅっとつまっていると思います。

 きれいな服を欲しがらなかった。畸型や悪徳を美しく飾るためのきれいな服を。
 自分の夫にすら理解されず、棄てられたひと。六人の子供をつぎつぎと失ったが、善良そのもののような性格は決して失わなかったひと。妹や義理の姉たちとは、あまりにもかけはなれた生涯をすごしたひと。他人のために無料奉仕する、間の抜けた、愚かなひと。このひとは、死んだとき、何の貯えもなかった。薄汚れた山羊と、びっこの猫と、イチジクと......。
 わたしたちは、このひとのすぐそばで暮らしていながら、だれひとりとして、このひとが敬虔の人であることを知らなかった。諺に言う。敬虔の人がいなければ、村は成り立たない。
 町も。
 わたしたちの地球ぜんたいも。

彼女の素朴で、おだやかな、やさしい人柄は、「古き良きロシア」を象徴しているのでしょう。 読了日:2008年8月13日

2008/08/19

ソルジェニーツィン「クレチェトフカ駅の出来事」

ソルジェニーツィン短篇集 (岩波文庫)
ソルジェニーツィン短篇集 (岩波文庫)
  • 発売元: 岩波書店
  • 価格: ¥ 798
  • 発売日: 1987/06

現在、ソルジェニーツィン追悼月間です。
ソルジェニーツィンの「クレチェトフカ駅の出来事」を読了しました。

◇◇◇

大祖国戦争初期、ソビエト時代に育った正しく"成熟した純潔なソビエト青年"であるゾトフ中尉が、密告者に変貌する一瞬を切り取った短編です。

「いや、もう御心配なく、ゾトフさん」いろんな種類のボタンがついている汚れた上着の胸に、トベリチノフは片手の指を扇のようにひろげて押しあてた。「これだけで、もう充分に感謝しております」男の目つきも声つきも、もはや悲しそうではなかった。「おかげさまで体も心もあたたまりました。あなたは、いい方ですね。こういう苦しい時代には、たいへん貴重な体験です。で、教えていただきたいのですが、わたしはこれからどこを経由して、どう行ったらよろしいのですか」
「まずですね」と、ゾトフは満足そうに説明を始めた。「グリャージ駅まで行ってください。ああ、地図がないと説明に不便だな。わかりますか、グリャージがどの辺にあるか」
「いや、どうも、あまり........名前は聞いたことがあるようだけれども」
「そりゃ、あるでしょう、有名な駅だから! もしグリャージ到着が明るいうちでしたらこの証明書を持って―この駅を通られたことを、ここに添え書きしておきます―グリャージの司令部へ行ってください。司令官が配給所に紹介しますから、二日分の食糧が受け取れます」
「どうもいろいろお世話様です」
「もし到着が夜だったら、列車からおりずに、じっと乗っていてください! それこそ毛布がひとりでに運んでくれますよ! ......グリャージから、この列車はポボーリノへ行きます。ポボーリノにも配給所があるけれども、乗りおくれないように気をつけてくださいね! 列車はさらにアルチェーダまで行きます。アルチェーダで、あなたが乗り継ぐ列車は二四五四一三列車となっています」
ゾトフは遅延証明書をトベリチノフに手渡した。それを、上着の、ボタンのついているほうのポケットに収めてから、トベリチノフは訊ねた。
「アルチェーダ? それは聞いたことがありません。どの辺ですか」
「スターリングラードのちょっと手前ですよ」
「スターリングラードの手前」と、トベリチノフはうなずいた。だが、額に皺を寄せた。かすかに努力の色を見せて、訊き返した。「失礼ですが.......スターリングラードというと.......昔は何と呼ばれていましたか」
この瞬間、ゾトフの内部で何かが破裂し、ひんやりするものが胸をかすめた。こんなことがあり得るだろうか。ソビエトの人間が、スターリングラードを知らないのか。いや、こんなことは絶対にあり得ない! 絶対に! 絶対に! とうてい考えられない!
だが、ゾトフは辛うじて感情を隠した。なんとなく服装を直した。眼鏡にさわった。それから冷静な声で言った。
「昔はツァリツィンです」
(してみると、包囲脱出兵じゃないんだ。潜入したんだ! スパイだ! 白系のエミグラントかもしれない。だから、こんなに礼儀正しいんだ。)
ソルジェニーツィン「クレチェトフカ駅の出来事」(小笠原豊樹訳)

そしてゾトフは、「感じのいい喋り方」で「教養のある賢い男」と見なしていたトベリチノフを騙して勾留し、本部へ護送しました。しかし彼は、トベリチノフのことを一生涯、どうしても忘れることができませんでした。

◇◇◇

興味深いなぁと思ったのは、"非情な密告者"となったゾトフのメンタリティです。
彼の密告は、「良心の命じるままに」行われたものでした。
トベリチノフがほんとうに「変装した破壊活動分子」であったかどうかはゾトフには分かりません。しかし、最後に「こんなことは、あとで取り消すわけにはいかないのですよ!」と、トベリチノフが叫んだように、ゾトフの密告がトベリチノフの一生を無残に変えてしまったということは、ゾトフも気づいていたと思います。それゆえ、彼は「縞模様のワンピース姿の少女の写真」を大切に持っていたトベリチノフのことを、一生涯忘れることができなかったのでしょう。
"ソビエト青年"としてではなく、"人間"としての彼の良心が、一生涯消えない罪の意識を彼の心に刻みつけたのだと思います。 読了日:2008年8月13日

2008/08/17

サリンジャー「シーモア-序章-」

大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)
大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 580
  • 発売日: 1980/08

サリンジャーの「シーモア-序章」(1963年)を読んで、"グラース・サーガ"の全体像が見えてきました。
これまで、断片化されていた作品が、わたしの中で有機的なつながりを取り戻しつつあります。
『ナイン・ストーリーズ』から、『フラニーとゾーイー』、『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章-』までを少し整理してみます。

◇◇◇

<グラース家>
両親:レス(父)、ベシー(母)
子供:シーモア、バディ、ブーブー、ウォルト、ウェーカー、ゾーイー、フラニー



★1942年:シーモアとミュリエルの結婚(「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」)

 シーモア(25歳)...空軍の伍長
 バディ(23歳)...陸軍に召集されたばかり
 ブーブー(21歳)...婦人予備部隊の海軍少尉
 ウォルト(19歳)...野砲部隊
 ウェーカー(19歳)...良心的参戦拒否者の強制労働場
 ゾーイー(13歳)、フラニー(8歳)...『これは神童』に出演中

→「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」は、1955年にバディによって執筆された作品。


★1945年:ウォルトの事故死(「コネティカットのひょこひょこおじさん」)
 
 ウォルト(22歳)...日本で軍務中に爆発事故。
→「コネティカット~」は、大学時代の恋人エロイーズによって、生前のウォルトのエピソードが語られる場面がある。時代的にはウォルトの死後、数年か。


★1948年:シーモアの自殺(「バナナフィッシュにうってつけの日」)

 シーモア(31歳)...休暇を取ってミュリエルとフロリダに旅行滞在中自殺

→「バナナフィッシュ~」はバディが1940年代の末に執筆した作品。執筆時期はシーモア自殺から2か月しかたっておらず、バディはヨーロッパの戦場から帰還したばかりだった。


★「テディ」
→バディが執筆した作品。大西洋航路の船に乗っている天才的少年を描いている。
 天才少年テディのモデルはシーモアでは?


★「小舟のほとりで」
母親ブーブーと息子ライオネルの生活が描かれる。

 ブーブー(25歳)...4歳の息子をもつ主婦。夫もユダヤ人。


★1955年:「フラニー」「ゾーイー」

 バディ(36歳)...大学講師をしながら作家業
 ブーブー(34歳)...3児の母
 ウェーカー(32歳)...ローマ・カトリックの司祭
 ゾーイー(25歳)...新進俳優
 フラニー(21歳)...大学生 

→シーモアの没後約7年、ウォルトの没後約10年

「ゾーイー」の中のバディの手紙から分かること
→バディはシーモアの遺体をフロリダまで引き取りに行き、5時間びっしり飛行機の中で泣いていた。
→シーモアの自殺を怒っているのはゾーイーだけであり、そしてそれを本当に許しているのもゾーイーだけである。ゾーイー以外はみな、外面では怒らず、内面では許していない。


★1963年:「シーモア-序章-」


 バディ(40歳)...大学講師をしながら作家業
 ブーブー(38歳)...ウェストチェスターに住む財力のある中年の主婦
 ウェーカー(36歳)...カルトゥジオ会の元海外伝道牧師兼通信員だったが現在蟄居中
 ゾーイー(29歳)...俳優
 フラニー(25歳)...新進女優


◇◇◇

興味深いのは、「バナナフィッシュ~」、「テディ」、「大工よ~」がバディが執筆し、出版された作品として「シーモア-序章-」に登場することです。
つまり、それらは物語内物語ということになります。
技巧的ですね。



読了日:2008年8月9日

2008/08/16

サリンジャー「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」

大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)
大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 580
  • 発売日: 1980/08

サリンジャーの『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章-』(野崎孝/井上謙治訳、新潮社)を読了しました。
『フラニーとゾーイー』につづく、グラース家の物語です。
ここまで読んでくると、『ナイン・ストーリーズ』に収められているいくつかの短編も、いわゆる"グラース・サーガ"の重要な一部分であることが分かってきました。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」と「シーモア-序章-」は、グラース家の次兄バディの語りによって書かれています。

◇◇◇

「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」は、長兄シーモアの結婚式当日の数時間を描きながら、ブーブーに言わせれば「最低」だけれど「すごい美人」のミュリエルと、シーモアがなぜ結婚することになったかの真相を浮かび上がらせています。

ミュリエルにとって結婚は、「まっ黒に日焼けして、どこかいきなホテルのフロントへ行って、主人がもう郵便物を持って行ったかと尋ねてみたい」、「カーテンの買い物がしたい」、「マタニティ・ドレスを買ってみたい」、「母親のクリスマス・ツリーではなくて、自分のクリスマス・ツリーの飾りつけを毎年箱から取り出してみたい」といった欲求を満たすためであり、そのことをシーモアはよく理解しています。
彼女の結婚の動機を、彼女そのものを、バディやブーブーやフラニーのようなグラース家の子供たちは軽蔑するでしょう。
ミュリエルの母親に対しても、同じでしょう。
ブーブーは、「お母さんという人は絶望ね―あらゆる芸術にちょっぴりずつ通じていて、週に二度ずつユングの流れを汲む立派な精神分析の先生に会っています」と、バディに書き送っています。

一方で、グラース家の子供たちではなく、ミュリエルを取り巻く人々から見れば、ミュリエルや彼女の両親は「そりゃすてきな人たち」であり、「本当にいい人たち」なのです。
シーモアは、ミュリエルの母親に言わせれば「同性愛の気があって、精神分裂症の傾向を持っている」のであり、彼女の親戚からは「いつまでも大人になれないでいる」、「イカレタ気違い」に見えるのです。
このコントラストは、非常に象徴的ですね。

しかしながら、シーモアは、バディやブーブーがミュリエルやミュリエルの母親を軽蔑するようには、彼女たちを軽蔑しません。
シーモアは日記のなかで、ミュリエルの結婚の動機について次のように書きます。

彼は彼女を軽蔑するだろう。が、しかし、それははたして軽蔑さるべき動機だろうか? ある意味ではたしかに軽蔑されても仕方あるまい。だが、ぼくには実に人間並みで美しく思われて、これを書いている今ですら、それを思うと深い深い感動を禁じ得ない。
(サリンジャー「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」野崎孝訳、以下同)

ミュリエルの母親に対しても、シーモアは次のように書いています。

独善的で、いらいらさせられる女で、バディの我慢ならないタイプだ。おそらく彼女のありのままの姿を見ることは彼にできないだろう。事物を貫いて流れている、万物を貫いて流れている太い詩の本流、これに対する理解力をも愛好心をも、生涯ついに恵まれることのなかった人間。むしろ死んだ方がましかもしれないが、それでも彼女は生き続けてゆく。デリカテッセンに立ち寄ったり、かかりつけの分析医に会ったり、毎晩一編ずつ小説を読破したり、ガードルを着けたり、ミュリエルの健康と繁栄のために画策したりしながら。ぼくは彼女を愛している。想像を絶するほど勇敢な人だ

わたしはシーモアがミュリエルとの結婚を決めた理由は、ここにあると思います。彼の哲学は、『フラニーとゾーイー』における「太っちょのオバサマ」の比喩と同じテーゼです。
「フラニー」(1955年)→「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」(1955年)→「ゾーイー」(1957年)という執筆順からも分かるように、サリンジャーの"答え"は、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」の時点ですでに固まっていたのでしょう。
サリンジャーの哲学において、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」のシーモアが到達点であり、『フラニーとゾーイー』はフラニーが、ミュリエルやミュリエルの母親を軽蔑するような人間観を、乗り越える過程を描いているのだろうと思いました。

◇◇◇

結婚後の二人がどうなったかは、「バナナフィッシュにうってつけの日」(『ナイン・ストーリーズ』に収録されています)に描かれています。
シーモアがなぜ自殺したかは、謎のままです。



読了日:2008年8月9日

2008/08/09

サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」

ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)
  • 発売元: 白水社
  • 価格: ¥ 924
  • 発売日: 1984/05


サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳、白水社)を再読しました。
今回、再読してはじめて、『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンは、『フラニーとゾーイー』のフラニーへとつながっているのだと気づきました。

ホールデンは、彼が「インチキだ」と告発するあらゆるものから結局は逃れることができず、その抵抗は挫折します。
『ライ麦畑でつかまえて』が、ホールデンが精神病院で医師に語った話という形式になっているのも、それをいっそう際立たせています。
皮肉ですね。

ホールデンが「どっか遠くへ」行って、「唖でつんぼの人間のふり」をして一生をすごそうと願うのと同じように、フラニーは『イエスの祈り』を唱えます。

ホールデンが、「遠くへ行く」ことを思いとどまらせる役割をしているのは、フィービーという子供ですが、フラニーにとってそれはゾーイーという大人が行っています。この変化は、何かすごく意味があるように思えます。

  • フィービー=子供→生れながらの純粋さが保たれていて、大人の社会との間で葛藤がない存在。
  • ゾーイー=大人→ホールデンやフラニーが経験した葛藤を乗り越え、純粋さを失わずに社会に順応している存在。

フィービーがホールデンと共に遠くへ行こうとするのに対照的に、ゾーイーはフラニーを「インチキ」な現実に引き戻そうと必死になります。
ゾーイーに言わせれば、フラニーの『祈り』の目的は「お人形と聖者とがいっぱいいて、タッパー教授が一人もいない世界」を求めるもので、「きみを両腕に掻き抱いて、きみの義務をすべて解除し、きみの薄汚い憂鬱病とタッパー教授を追い出して二度と戻ってこなくしてくれるような、べとついた、ほれぼれするような、神々しい人物と密会する、居心地のよい、いかにも清浄めかした場所」を設定することです。
それは、「祈りの使い方を誤ってる」ことだと彼は言います。


ゾーイーは、フラニーがその葛藤を乗り越え、"痛々しいまでの純粋さ"を保ったまま、社会に再び戻っていくことを促す役割です。
フラニーは、ゾーイーが話す『太っちょのオバサマ』の喩えによって、彼女が軽蔑していたあらゆるものを、受け入れることができるようになります。
ゾーイーは言います。
「『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ。その中にはタッパー教授も入るんだよ、きみ。それから何十何百っていう彼の兄弟分もそっくり。」
そして、この『太っちょのオバサマ』こそが、「キリストその人にほかならない」のです。


これは、サリンジャーが辿り着いたひとつの"答え"だろうと思います。



読了日:2008年8月4日

2008/08/07

ソルジェニーツィン ; 略歴メモ


略歴メモ
年代 出来事
1918年コーカサスのキスロヴォツスク市に生まれる。
ソルジェニーツィン家は革命前まで南ロシア有数の裕福な家庭で、当時ロシアに9台しかなかったロールスロイスを所有していた。
1936年18歳。ドン河畔ロストフ市の中学を卒業、ロストフ大学理学部数学科へ入学。
1941年23歳。ロストフ大学理学部数学科を卒業。6月、独ソ開戦となり、輜重部隊へ編入される。
1942年24歳。偵察砲兵中隊長に任ぜられる。以後、レニングラード、オリョール・クールスク湾曲部の有名な戦闘に参加。白ロシア、ポーランドを経てベルリン進攻作戦に参加。この間、戦功により、「祖国戦争」ニ等勲章および赤い星勲章を授与される。
1945年27歳。2月、砲兵大尉として東プロシャのケーニヒスベルグ近郊において逮捕される。理由は友人宛の書簡において匿名ながらスターリンを批判したため。
ただちに、モスクワのルビャンカ刑務所へ送られ、6月、欠席裁判により8年の刑を宣告され、矯正労働収容所で働く。
数学と物理の専門家として『煉獄のなかで』の舞台となっている「特別収容所」へ移される。
1950年32歳。北カザフスタンのエキパトゥーゼ市の政治犯収容所へ移され、そこにおいて石工および鋳工として働く。『イワン・デニーソヴィチの一日』に舞台となったところである。ここにおいてガンを患い、手術を受けたが根治にいたらなかった。
1953年35歳。2月、8年の刑期を1か月余分に勤めあげて釈放され、行政命令によりコシテレク(カザフスタン南部)へ「永久追放」に処せられた。ガンがふたたび悪化し、生死の間をさまよった末、タシケントの病院へ送られた。そこが『ガン病棟』、『右手』の舞台となった。
3月、スターリン死去。
1954年36歳。密かに執筆活動をはじめる。
1956年38歳。2月、第20回ソ連共産党大会においてスターリン批判が行われる。ようやく追放を解かれ、ロシア・ヨーロッパ地区へ戻る。ウラジーミル州にて『マトリョーナの家』で描かれているエピソードを体験する。
1957年39歳。正式に名誉回復される。リャザン市に移り、同市の中学校で数学・物理を教えながら創作活動に没頭する。
1962年44歳。「ノーヴィ・ミール」誌11号に『イワン・デニーソヴィチの一日』が発表され、世界的な話題となった。シーモノフはじめ文壇の大御所たちから讃辞を浴び、ただちにソ連作家同盟の会員に推された。戯曲『鹿とラーゲリの女』をモスクワの「現代人」劇場で上演する契約ができた。しかし、最終的な上演許可がおりず、上演されなかった。
1963年45歳。「ノーヴィ・ミール」誌1号に『クレチェトフカ駅の出来事』、『マトリョーナの家』の2編を同時に発表する。同誌7号に『公共のためには』を発表。『イワン・デニーソヴィチの一日』はレーニン賞候補として最終予選まで残る。
1965年47歳。イギリスの「エンカウンター」誌3号に『十五の断章』が発表される。『煉獄のなかで』の草稿が国家保安委員会によって没収されるという事件が起こる。
1968年48歳。「ノーヴィ・ミール」誌1号に『胴巻のザハール』を発表。『ガン病棟』の一部が完成、作家同盟モスクワ支部の推薦を受けたが、各文芸誌からその掲載を断られる。
1967年49歳。いわゆる「ソルジェニーツィン事件」がはじまる。
1968年50歳。『ガン病棟』は西欧で出版される。
1969年51歳。『煉獄のなかで』も西欧で出版される。短編『右手』、『復活祭の行列』も西欧で出版される。11月12日、ソ連作家同盟リャザン支部より除名される。
1970年52歳。10月、ノーベル文学賞がソルジェニーツィンに決定する。
1971年53歳。『一九一四年八月』をパリのYMCA社から出版。ソ連では完全に黙殺された。春、息子エルモライ生まれる。





2008/08/06

ソルジェニーツィンの死を悼む


8月3日夜(日本時間で4日朝)、アレクサンドル・ソルジェニーツィンが亡くなりました。
1918年生まれ、89歳でした。
ソルジェニーツィンという作家は、非常にシンボリックな存在でしたから、彼の死はほんとうに、ひとつの時代が終わったのだということを実感させます。

◇◇◇

亀山郁夫氏が、ソルジェニーツィンを追悼して寄稿していました。

敬虔なロシア正教徒であり、キリスト教的ヒューマニズムの視点から社会の「悪」を告発する作家精神は、同世代の誰よりも19世紀的であり、その意味ではレフ・トルストイやドストエフスキーの正統な後継者だったと言える。
社会主義の非人間性を糾弾し、検閲の廃止を訴えたソルジェニーツィンは、体制への批判と賛美を「二枚舌」で使い分けた多くの知識人と違い、ドン・キホーテのような直情さで権力に闘いを挑んだ。その最高傑作はソ連最大のタブーを克明に記録した『収容所群島』(73~76年刊)だ。
(亀山郁夫「ソルジェニーツィン氏を悼む」読売新聞2008年8月5日朝刊)

亀山氏が言うように、思想的には彼は、ロシア農村の古い宗教的美徳を称える保守派です。文学的にも、多くが19世紀の伝統的なリアリズムを負っており、モダニズムの精神からは遠い所に位置していました。
『収容所群島』や『赤い車輪』も、文学作品として成功しているかどうかについては意見が分かれるようです。


    主要作品 : 『イワン・デニーソヴィチの一日』、『マトリョーナの家』、『ガン病棟』、『煉獄のなかで』、『収容所群島』、『赤い車輪』、『仔牛が樫の木に角突いた』

2008/08/04

サリンジャー「フラニーとゾーイー」

フラニーとゾーイー (新潮文庫)
フラニーとゾーイー (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 価格: ¥ 500
  • 発売日: 1976/04

サリンジャーの『フラニーとゾーイー』(野崎孝訳、新潮社)を読了しました。
『ナイン・ストーリーズ』で、高校時代に『ライ麦畑でつかまえて』を読んで以来わたしの中にあった、サリンジャーに対する苦手意識がなんとなく払しょくされた気がしたので、つづけて『フラニーとゾーイー』に挑戦してみたのですけれど...。
びっくりしました。
そしてたぶん、わたしはサリンジャーが好きになりました。

◇◇◇

作中で、フラニーが傾倒している『巡礼の道』に描かれているロシアの巡礼さんは、おそらく「ユロージヴイ」(聖痴愚)か、「カリーキ・ペレホージェ」(遍歴の巡礼靴)のことだと思います。
それよりも、サリンジャーを読んでいて、ロシアの巡礼の話に出会うなんて、夢にも思いませんでしたよ。

『戦争と平和』では、公爵令嬢マリヤは、アンドレイ公爵が「神がかりども」と冷笑する巡礼たちを、やさしく屋敷に迎え入れ、心から愛する様子が描かれています。
彼女が特に愛するのは、フェドーシュシカという50歳以上の巡礼の老婆で、30年以上も苦行の鉄鎖をつけて裸足で巡礼をしています。
公爵令嬢マリヤは、シャツ、草鞋、百姓外套、黒いプラトークなどの巡礼の身支度をすっかりそろえ、貴族の身分を捨てて自分も巡礼に出ようと悩みます。
彼女は、「家族も、故郷も、現世の幸福を思ういっさいの悩みを捨てて、何ものにも思いをのこさず、粗衣をまとい、名も捨てて巡礼を重ね、他人に害を加えず、他人のために祈る」、「自分を追いはらう人々のためにも、自分をかばってくれる人々のためにも、ひとしく、ひたすら祈る」巡礼の生活に入りたいと願います。

『カラマーゾフの兄弟』には、「カリーキ・ペレホージェ」たちが歌う有名な巡礼歌がモチーフとして使われています。
16、7世紀頃からロシアには、「カリーキ・ペレホージェ」と呼ばれる巡礼たちが、巡礼歌を歌って門づけをしてまわる風習があり、彼らの大半は盲目あるいは身体になんらかの障害をもっていました。
そのため、本来は「カリーキ」(巡礼靴)と呼ばれていた彼らの名称が、いつのまにか「カレーキ」(不具者)と呼ばれるようになったそうです。
『フラニーとゾーイ』に出てくる巡礼も、片腕が麻痺しているという描写がありますね。
『カラマーゾフの兄弟』には、ルカ福音書のたとえ話をもとにした「ラザロの歌」と、ローマの聖者伝にもとづく「神の人アレクセイ」の歌が、明らかにモチーフとして使われています。

◇◇◇

ゾーイーに宛てたバディの手紙に、「スズキ博士がどっかで言ってるよ」とありますが、これは有名な鈴木大拙禅師のことでしょうね。

サリンジャーは、フラニーの書棚に「『ドラキュラ』が『パーリ語初歩』の隣に並んでいる」と、さりげなく叙述していますが、これだけでもフラニーという人物がどれだけ仏教に造詣が深いかということが分かりますね。
原始仏教の仏典はパーリ語で書かれていますから。

『ゾーイー』が書かれたのは1957年ですから、まだニューエイジのような東洋思想ブームが訪れていない時期に、サリンジャーは、どんなモティベーションでそれらを学んだのでしょうね?
不思議です。



読了日:2008年7月31日

2008/08/02

「ハーヴェイ・ミルク」(ロバート・エプスタイン監督)

ハーヴェイ・ミルク [コレクターズ・エディション] [DVD]
ハーヴェイ・ミルク [コレクターズ・エディション] [DVD]
  • 発売元: マクザム
  • 価格: ¥ 3,877
  • 発売日: 2009/06/26


ロバート・エプスタイン監督「ハーヴェイ・ミルク」(アメリカ、1984年)を見ました。
原題は、The Times of Harvey Milk(「ハーヴェイ・ミルクの時代」)です。
アカデミー賞最優秀長編ドキュメンタリー賞を受賞しています。

アメリカで初めて、自らゲイであることを公表し、市政執行委員に当選したハーヴェイ・ミルク。
今年2008年は、彼が凶弾に倒れてから、ちょうど30年になります。
政治家としての彼の活動と、暗殺事件、そしてその裁判を通してアメリカ社会の本質を描いています。本当にすばらしいドキュメンタリー映画でした。

◇◇◇

サンフランシスコ市は、住民のおよそ4分の1がセクシュアル・マイノリティであると言われています。
1930年にアメリカのニューヨーク州で生まれたミルクは、海軍に在籍した後、ウォール街の証券アナリストなどの職に就き、60年代後半には演劇の仕事に携わるなどしていました。
70年代初頭に恋人のスコットとともにサンフランシスコに移り住み、ゲイタウンとして名高いカストロ地区でカメラ店を始めました。

このカストロ地区は、ゲイたちが居住し始める前には、アイルランド系労働者の居住地区でした。
60年代から70年代にかけてのアメリカの郊外化の動きに伴って、アイルランド系労働者たちが郊外に移り住んだのち、荒廃した地区にゲイの芸術家たちが家を借りたり、購入したりして、取り壊されようとしていたヴィクトリア朝風の建築物を改築し、メンテナンスを施したのが、ゲイの街カストロ地区の始まりです。

このようなカストロ地区を中心としたコミュニティ形成期を背景として、1973年にミルクはゲイの候補者として市政執行委員の選挙に立候補しました。
73年、75年と二度の落選を乗り越え、ミルクは77年の選挙で市政執行委員に当選しました。

映画のなかで、ミルクの生前にさまざまな場面でかかわりのあった人々が、彼を偲んで記憶や思い出を語ります。
そのエピソードから、ミルクのカリスマ性や、達成されたことの大きさ、ゲイのみならず他のマイノリティに対しても配慮を怠らなかったヒューマニストとしてのイメージが伝わってきます。
ミルクの政治家としての最大の業績は、「提案6号」というレズビアンやゲイの教師を学校から合法的に追放することを目的とした、反同性愛的な法案を廃案に追い込んだことです。

サンフランシスコでもっとも大きなイベントのひとつに、プライド・パレードがあります。
レズビアンやゲイをはじめとするセクシュアル・マイノリティのパレードで、映画のなかでも、ミルクがオープンカーに乗ってパレードを進んでいる姿を目にすることができます。
ミルクのようなコミュニティの功労者は、プライド・パレードでは「グランドマーシャル」と呼ばれ、参加者や街頭の観衆から栄誉を受ける慣わしがあります。

まさに政治家としてのミルクの絶頂期、「カムアウトしよう!」と力強く訴えるミルクの姿をパレードで目にするのは、これが最後となってしまいました。
ミルクは、同僚議員であるダン・ホワイトの手による銃で、当時のサンフランシスコ市長ジョージ・モスコーニとともに、市庁舎内で殺害されてしまったからです。


世界中のひとびとの人権が尊重され、あらゆるマイノリティに対する差別が是正されることを願ってやみません。
たくさんの人々に観てもらいたい映画です。



鑑賞日:2008年7月27日、第3回青森インターナショナルLGBTフィルムフェスティバルにて。