2008/04/28

村上春樹「東京奇譚集」

東京奇譚集 (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 2007/11/28

村上春樹『東京奇譚集』(2007年)を読了しました。
桜井春也さんのおすすめで、手に取りました。
村上作品は、ほとんど読んだことがないです。高校時代に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだ程度です。

『東京奇譚集』は、不思議な余韻を残す5つの短編が収められています。
「ハナレイ・ベイ」が特に良いです。

「彼女は現在という常に移行する時間性の中に座り込んで、波とサーファーたちによって単調にくり返される風景を、ただ機械的に目で追っていた。」という一節が、とても心に残りました。
プロットは平凡なのですが、全体的に文章表現がすばらしいと思いました。

サチは毎晩、88個の象牙色と黒の鍵盤の前に座り、おおむね自動的に指を動かす。そのあいだほかのことは何も考えない。ただ音の響きだけが意識を通り過ぎていく。こちら側の戸口から入ってきて、向こう側の戸口から出ていく。ピアノを弾いていないときには、秋の終わりに三週間ハナレイに滞在することを考える。打ち寄せる波の音と、アイアン・ツリーのそよぎのことを考える。貿易風に流される雲、大きく羽を広げて空を舞うアルバトロス。そしてそこで彼女を待っているはずのもののことを考える。彼女にとって今のところ、それ以外に思いめぐらすべきことはなにもない。ハナレイ・ベイ。

作品の終わりの8行です。
このきっぱりとして、ひんやりとした空気が大好きです。


読了日:2008年4月28日

2008/04/20

トルストイ「クロイツェル・ソナタ」

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)
イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)
  • 発売元: 光文社
  • 価格: ¥ 660
  • 発売日: 2006/10/12

『イワン・イリイチの死』に引き続き、『クロイツェル・ソナタ』(1889年)を読みました。
古典新訳文庫の望月哲男訳です。

妻を殺した男の思想は、フェミニズム思想史の視点から見ると、なかなか面白いです。
リベラル・フェミニズムの限界を批判し、「私」的領域での不平等の問題を扱っていると言う点では、ケイト・ミレットらラディカル・フェミニズムの立場にとても近いような気がします。
「私」での不平等を是正するためにためには、「男性の女性観が変わり、女性自身の女性観が変わることしかない」という帰結は、その通りなのですが、そのための方法が"禁欲"になるのが、トルストイらしいと言うか、ラディカル・フェミニズムの主流の議論と大きく異なるところです。

時代の制約でしょうか。キリスト教の影響でしょうか。
でも、同じキリスト教を思想的バックボーンにしている、メアリー・デイリーらポスト・キリスト教フェミニズムの立場や、フェミニスト神学の立場とも一致しないので、やはり時代の制約かもしれません。
時代の制約があったとはいえ、

ではひとつ、あの軽蔑の的となっている不幸な女性たちと最上流の社交界の貴婦人たちを見比べてみてください。衣装も同じ、ファッションも同じ、香水も同じ、腕、肩、胸のむき出し方も同じなら、ヒップを強調するぴっちりしたスカートも同じ、宝石や高価な光物への情熱も同じ、気晴らしもダンスも音楽も歌も同じではないですか。一方がありとあらゆる手段で男を誘惑しようとしているとすれば、他方も同じことをしているのです。何の違いもありません。もし厳密に定義するならば、こう言うしかないでしょう―短期型の売春婦は通例軽蔑され、長期型の売春婦は尊敬される、と。

という一文を見ると、現代でも論争が続いている「性の商品化」問題の本質を見事に捉えていて、なかなか鋭いなぁと思います。



読了日:2008年4月13日

2008/04/13

トルストイ「イワン・イリイチの死」

イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)
イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)
  • 発売元: 光文社
  • 価格: ¥ 660
  • 発売日: 2006/10/12

トルストイ『イワン・イリイチの死』(1886年)を読みました。
古典新訳文庫の望月哲男訳です。

とても良いです。
感動した、とかそういう言葉では感想を正しく表現できないのですが、このテーマで書きうる最高レベルに到達していると思いました。
終章は、すぐにはよく意味が分からなくて、でも強烈な印象で、何度も何度も繰り返し読みました。

「なんと良いことだろう、そしてなんと簡単なことだろう」彼は思った。「だが痛みは?」彼は自問した。「痛みはどこへいった? おい痛みよ、おまえはどこにいる?」
 彼は耳をすました。
「ほら、ここだぞ。かまうな、痛みなど放っておけ」
「では、死は? 死はどこだ?」
 彼は自分がかねてからなじんできた死の恐怖を探してみたが、見出せなかった。死とは何だ?恐怖はまったくなかった。死がなかったからだ。
 死の代わりにひとつの光があった。

すばらしいですね。
トルストイ、すごいなぁ。


読了日:2008年4月13日