2008/01/27

「いのちの食べかた」(ニコラウス・ゲイハルター監督)

いのちの食べかた [DVD]
いのちの食べかた [DVD]
  • 発売元: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2008/11/29

生きとし生けるものはみな、安全、繁栄、安楽、長寿、安心を求めて闘っている。シカはしなやかな脚で闘い、牛飼いは罠や毒で、政治家はペンで、その他大勢の者は機械や投票や金銭を頼りにして闘っている。だが、すべての帰するところはひとつだ―みな、自分が生きているあいだの平和を願っているのである。--アルド・レオポルド『野生の歌が聞こえる』

ニコラウス・ゲイハルター監督「いのちの食べかた」(2006年)を観ました。
原題は「日々の糧」を意味する "OUR DAILY BREAD"で、<食>をテーマにしたドキュメンタリーです。

わたしたちが農業・畜産と言った時にイメージする、牧歌的な農村風景や農民はそこにはいません。
工業製品さながらに管理・生産される野菜や果物、オートマティックに飼育・屠殺される動物。
そこは最高に高度に機械化され、合理化した食料工場なのです。
工場労働者たちは、まるで巨大な機械の一部品のようです。

わたしたちが食べて、生きるということはどういうことなのでしょうか?
「いのちの食べかた」は、それを考える具体的な素材を生々しく与えてくれます。
巨大な機械化食料工場は、わたしたちの「食」の背景にある、まぎれもない現実のひとつ。
これらの工場がどこにあり、どの企業のものなのか、字幕やナレーションでいっさい説明を加えていないのは、個別の事象を普遍化をしようとする試みなのかもしれません。

◇◇◇

その映像の残酷さゆえに、機械的な屠殺方法に倫理的問題性を感じる方も、多いでしょう。
わたしは近代合理性の帰結として、あの巨大な機械化食料工場があるのだと思います。
わたしが問題意識を持つのは、むしろ「生き物を殺してはいけない」と言いつつも、誰か知らない人が育て、殺している生き物の肉を、なんの葛藤も感じないまま平気で食べている、わたしたちのメンタリティです。
決して相容れないはずの二つの事柄が、わたしたちの中で矛盾なく同居しているのは、なぜなのでしょうか?

わたしたちが「いのち」をつなぐ「食」は、言うまでもなく、ウシ、ブタ、トリ、魚などの動物、あるいは野菜、果物などの植物であり、なんらかの「いのち」です。
しかし、わたしたちの口に入る食品とそれが生産されている現場は、今、あまりにも隔てられています。
「いのち」を奪うことと、食品として食べることがなんの葛藤も引き起こさないくらい、完全に分断されているのです。

わたしたちは、目の前にある食品が「いのち」ある存在であったことを意識しません。
「いのち」あるものとして、他の「いのち」を殺して生きているということ、すなわち、「いのちのつながり」が見えなくなってしまっています。
近代産業社会の合理化が「食」の工業化をもたらし、分業化が生産の現場とわたしたちの分断をもたらしたと言えるでしょう。


また、ヨーロッパでは、社会の都市化とともに、人々の屠殺への嫌悪感・不快感が大きくなり、18世紀末には、首をつけたままブタやウサギを食卓に出す伝統的な習慣は廃れ、それと同時に、屠殺場を大衆の目から隠すようになっていった歴史があります。
日本では、食肉処理業務に対する差別や偏見があり、歴史的経緯によって部落差別とも密接に結びついています。
このような屠殺を嫌悪・差別する人々の感情が、近代の分業化を加速させ、生産と消費の現場をより分断したのかもしれません。

人間にとって「食」は、文化システム・社会システム全体が関わる、極めて社会的な問題です。
しかし、この社会的な「食」は自然に支えられています。
鬼頭秀一が言うように、近代産業社会によって自然とのトータルな関わりを失い、「切り身」の関係しかない現代人には、自然が生々しい具体的なものではなく、曖昧な想念・観念になってしまっているのでしょう。
「いのちのつながり」を取り戻すためには、自然との「生身」の関わりが必要だと思います。

「いのちの食べかた」を観て、わたしは"生きるために「いのち」を奪っているのだ"という、痛みを感じながら生きなければ、と思いました。



鑑賞日:2008年1月27日、映画館にて。