2007/07/29

ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」

ダロウェイ夫人 (角川文庫)
  • 発売元: 角川書店
  • 発売日: 2003/04

はじめに


ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」を読了しました。
『ダロウェイ夫人』は、それまでウルフが実験的に試みてきた「意識の流れ」(stream of consciousness)の新手法を、みごとに使いこなした作品です。
ダロウェイ夫人の内的独白から始まり、彼女をとり巻く複数の登場人物たちの間で、その流れるような意識の主体となる「語り手」はリレーされていきます。そうして、とぎれとぎれの行動と心理が連鎖して、とりとめもない一日は過ぎていくのです。『ダロウェイ夫人』は、6月のロンドンの日常を映し出した群像劇です。

このたゆたうような「意識の流れ」のリレーの中で、劇的な「筋立て」を与えられている人物がいます。
セプティマス・ウォレン・スミスとその妻、ルクレチアです。
戦争の後遺症から精神錯乱に陥ったセプティマスと、夫の変貌に困惑し悩みながらも、必死に彼を支えるルクレチア。彼らにとって、この一日は再び繰り返すことのない、永遠に記憶される一日でしょう。
セプティマスが、窓から身を投げて自殺をしたのです。
なぜ、彼は自殺しなければならなかったのでしょうか。
セプティマスとルクレチアに注目し、発狂するセプティマスについて考えてみたいと思います。


1.発狂するセプティマス


セプティマス・ウォレン・スミスは、その登場から発狂する"ちっぽけな人間"としての表象を与えられています。

顔が蒼白く、鼻がとんがり、褐色の靴とみすぼらしい外套をつけ、榛色の眼をしているが、その眼は、あの見ず知らずの他人にまで不安をいだかせるような不安の色をたたえている。(富田彬訳、以下同)

セプティマスは、「自分自身に話しかけ、死人に話しかけ」ます。常に罪の意識に苛まれ、恐怖に眼を瞠っています。
一方、若い妻のルクレチアは、夫の変貌を敏感に察知し、夫が自殺を口にすることに恐れおののきます。しかし、イタリア人である彼女に話し相手はおらず、「人々」に夫の変化を悟られないように振舞うのに必死です。実の母親にでさえ、不安を打ち明けることができません。ルクレチアは、「もう誰にも話せない」と語ります。それゆえ、彼女の悩みと苦しみは、どんどんふりつもっていくのです。

わたしがレースの襟をかける。新しい帽子をかぶる。それでもあのひとは気づかない。わたしなんかいなくても、あのひとは幸せでいられるんだわ。わたしは、あのひとなしでは、どうしたって幸せにはなれない!

戦争から帰ってきたセプティマスは、ルクレチアにとって「もうセプティマスじゃない」のです。


ですが、作中で暗示されているように、彼は第一次大戦従軍中の「砲弾炸裂などによる精神障害(shell shock)が遅れて出てきた症例」の一つでした。ここにおけるルクレチアの不幸は、セプティマスを正しく診断できる精神科医がいなかったことでしょう。彼女は、「ホームズ先生はなんでもないと言っている」と町医者の誤診を信じてきっているのです。
セプティマスにとっても、ルクレチアの理解を得られないことは不幸でした。彼にとって、自身の精神は正常だったのですから。彼は、自らをキリストの再来と信じて、新しい宗教を模索していたのです。

ルクレチアの「心の闇」。すなわち、セプティマスに対する不信は、結婚指輪をはずすに至って決定的になります。指輪がするりとはずれるほど、生活苦により彼女の指は細くなっていました。それは、夫婦の絆の弱まりをも意味していると言えます。指輪をはずした妻に、セプティマスは、「二人の結婚はおしまいだ」と感じます。
このとき、二人の長い一日のうち、半日が過ぎようとしていました。


2.セプティマスはなぜ自殺したのか


12時きっかりに、夫婦は有名な老医師ウィリアム・ブラッドショー卿を訪ねます。ルクレチアは夫を治してくれるよう、なかば最後の望みをかけて。

ブラッドショー卿は、セプティマスを目にした瞬間に症状を見抜きました。ブラッドショー卿は、ただちにセプティマスに対して転地療養を命じ、ルクレチアに彼と離れるよう諭します。「万事私にまかせておきなさい」と言うブラッドショー卿に、激しく失望する、ルクレチア。

こんな、こんな、苦しい思いをしたことは、レチアは生まれてはじめてだった! 彼女は助けを求めたのに、みはなされたのだ! あのひとはわたしたちを見すてた! ウィリアム・ブラッドショー卿は親切なひとじゃない。

ブラッドショー卿は、礼儀正しい偉大な医者でしたが、本質的にはホームズと同様、差別的な人間でした。ルクレチアが直観的に見抜いたのは、彼の本姓であったと言えるでしょう。

狂人どもを隔離し、彼らが子を生むことを禁じ、彼らが絶望するのは罪悪であると宣告し、適当ならざる人間が自分の意見など発表すべきではない、

すなわち彼の実際の目的は、社会の秩序を乱すものを排除することにあったのです。

夕刻。家へ帰って内職の帽子を縫っているルクレチアを見て、セプティマスは「なんにもおそれることなんかありやしない」と気づきます。「奇跡も、啓示も、苦痛も、孤独も」必要ないことを悟ります。そしてはじめて、彼は「あたりまえの口」で妻に話しかけることができたのです。
それによってルクレチアは、「このひとは、今われにかえったんだわ。今笑ったんだわ」と幸福に打ち震え、再びセプティマスへの愛に目覚めます。彼女は、ホームズの誤診からの夫への不信を克服し、
"正しい診断"をしたブラッドショー卿をも、乗り越えるのです。

たといあのひとたちがあなたを連れて行くとしても、と彼女は言った。わたしあなたといっしょに行くわ。あのひとたちは、わたしたちがいやなら、わたしたちを引きはなすことなんかできないわ、と彼女は言った。

二人が夫婦の絆を回復し、はじめて互いに理解しあったと言えるでしょう。


夜、ホームズが訪れます。彼とブラッドショー卿は、どちらもセプティマスが「人間性」と呼んで嫌悪しています。それは、冷酷に彼を排除する、既成の社会秩序そのものを象徴しているからだと思います。ホームズが戸を開けた瞬間。
セプティマスは「これでも、食らえ!」と勢いよく力いっぱいに、窓から飛び降りたのです。そうして、夫婦の二度と来ない一日は終わりました。



彼の自殺は、ホームズらが判断したように、精神錯乱による「咄嗟の衝動」ではありません。その時彼は、目覚めていたのですから。「死ぬのはいやだ。人生はいい」と。決して社会への絶望など、していませんでした。

それではなぜ、セプティマスは窓から身を投げたのでしょうか。

それは、「これでも、食らえ!」という言葉が示しているように、セプティマスのような人間を排除する社会秩序に対する"異議申し立て"だったのではないでしょうか。彼は命を投げ捨てて彼らを抑圧する館力に対して抵抗を試みたのです。

ウォレン・スミス夫妻を中心に、『ダロウェイ夫人』を見てきましたが、これらの出来事は、すべてたった一日に起こったことです。刻々と変化する心理を描き出し、一日小説という枠組みを実に見事に使いこなしています。
この一日には、二人の人生そのものが凝縮されていると言っても、過言ではないかもしれません。


セプティマスの不幸は、彼を正しく理解することができなかった社会。あるいは正しく判断していながらも受け入れなかった社会の責任です。セプティマスに不信を持ち、反発しながらも最後には理解して受け入れるルクレチアは、オルタナティブな社会の姿を暗示していると思います。
ウルフは、スミス夫妻を通して、他者排除的な既存の社会を批判し、マイノリティに対する寛容性を訴えているのではないでしょうか。



3.クラリッサ・ダロウェイから見た<セプティマスの死>


セプティマスの死を、主人公クラリッサ・ダロウェイの視点からアプローチしたいと思います。
クラリッサ・ダロウェイは、政治家夫人。「あだっぽい女」と表現される、美しい女性として登場します。

五十の坂をこして、病気をしてからはめっきり頭の白さがめだってきたようなものの、まだまだ鳥のような、青味をおびた緑色の軽快で活発な懸巣のようなところがある

今夜、自邸で「総理大臣もくる」重要なパーティを予定しているクラリッサ。彼女は、「十八世紀以前の家柄の出」であり、

今やクラリッサは、白髪まじりの髪もいかめしく、得々と歩を遊び、光彩をはなちながら、首相閣下につき添って部屋を通った。耳輪をつけ、銀縁の人魚の衣服かと思われるドレスを着て。

ダロウェイ夫妻のパーティに、少し遅れてブラッドショー夫妻が到着します。セプティマスを初めて"正しく診断"したウィリアム・ブラッドショー卿とその夫人です。
ウィリアム卿とクラリッサの夫リチャードは、ウィリアム卿が議会を通過させたがっている法案について話しています。二人を見ながら、想像をふくらませるクラリッサ。

ある患者のことに、ウィリアム卿は声をひそめてふれている。その患者のことは、砲弾炸裂による震盪の遅発影響について彼の話していることに関係があるんだわ。この法案へある規定条項をいれなければならないので。

すると、ブラッドショー令夫人がクラリッサにささやきます。

「ちょうど出がけに、主人に電話がかかりましたの、とてもいたましい事件なんです。若い男が(主人のウィリアム卿がダロウェイ氏に話しているのはこのことなんです)自殺したんです。戦争に行ったひとです」

この「若い男」こそ、セプティマス・ウォレン・スミスその人でしょう。クラリッサの意識のなかに、泉のようにあふれだす想念。セプティマスの自殺の話を聞いて彼女は、その死を追体験します。

窓から飛びおりたんだって。上に、地面に突きあがった。彼の体へ、つまづき進み、傷痕を負わせながら、錆びた釘がつきささる。そこに彼は横たわる。脳天がズキン、ズキン、ズキン、と脈打ち、それから息もとまりそうな闇黒が押し寄せてきて。こんなふうに彼女はその死を眼のあたりに見た。

セプティマスに「とっても似ているような気がする」クラリッサ。彼女は、かつて「今死んだら、これ以上の幸せはなかろう」と、自分に言い聞かせていたことを、思い出します。

大切な一つのものがある。わたし自身の生活では、おしゃべりの花環で飾り立てられ、よごされ、曖昧なものにされてしまい、毎日腐敗と嘘とおしゃべりとなって、滴りおとされる一つのものが。この大切なものを彼は保存していたのだ。死は挑戦なのだ。死は中心部に通じようとする企てなのだ。人々は、中心部に達することが不可能だと感じている。それは神秘的に彼らを避けるのだ。近さは遠くなり、有頂天は消え失せて、ひとはひとりぽっちになる。死の中にこそ抱擁があるのだ。

クラリッサにとって、「挑戦」であり、「大切なもの」を保存することであり、その中にこそ「抱擁」がある「死」に、セプティマスは到達したのです。


クラリッサは、昔サーペンタイン池に銀貨を一枚投げたことがありました。しかし、自分の体は投げ込みませんでした。銀貨は、彼女の代わりに池へ身を投げたと言えます。
セプティマスの自殺は、クラリッサにとって、かつて彼女が池に投げこんだ銀貨と同じ役目を果たしたと言えるでしょう。
すなわち、身がわりの「死」です。

作者ヴァージニア・ウルフが。『ダロウェイ夫人』の「序文」でもらすように、セプティマスは、クラリッサの「分身」として描かれていると言えるでしょう。

のちにはダロウェイ夫人の分身にもち出したセプティマスは、最初の草稿では存在しなかったということ、それからもう一つは、初めはダロウェイ夫人が自殺をするか、おそらくパーティのあとで死ぬかするようになっていたということ。(「モダン・ライブラリ版への序文」)

議員の夫をもちパーティを取り仕切るクラリッサは非常に裕福でしたが、けっして「幸福」ではありませんでした。
クラリッサは、セプティマス同様に「人生は堪え難い」と感じ、セプティマスが嫌悪した卑俗な「人間性」すなわち、ウィリアム・ブラッドショー卿のような「やつらが、人生を堪え難くする」と感じています。
彼女の心の奥には、常に「おそろしい恐怖」と「圧倒的な無力感」があるのです。

もしあそこにリチャードが「タイムズ紙」を読んでいてくれなかったとしたら、わたしは滅び去っていたにちがいない。わたしはのがれた。だけど、その若い男は自殺した。

同じ「生き難さ」の中に身をおきながら、セプティマスは「自殺」を選び、クラリッサは「生きる」ことを選びました。彼女は、「大切なもの」を守りたいと思いながらも、「ベックスバラー夫人などのような一人になりたい」と「出世」を望んだのです。
それは、クラリッサにとって果たして"正しい選択"だったのでしょうか。

それは、わたしにあたえられる災難―わたしに加えられる恥辱なんだわ。この深い闇の中で、ここで一人の男が、あそこで一人の女が、沈んで姿を没するのを見ているのは、しかもわたしは夜会服を着てここに立っていなければならないというのは、わたしに科された罰なんだわ。

卑俗の中に、恥辱と刑罰に堪えながら、孤独と不安と対峙して生きること。それが、ウルフの提示したもう一つの道だと思います。クラリッサは、シェイクスピアの「もうおそれるな」という言葉に支えられながら、常に"生の不安"と戦っています。

もうおそれるな烈日を
猛り狂う厳冬も
(シェイクスピア作『シンベリン』第四幕第ニ場に出てくる挽歌から)

『ダロウェイ夫人』の中で、繰り返し語られるこの警句は、クラリッサを「みな」のところにつなぎとめる、ひとつの「呪文」なのでしょう。

そのひとがそれをやりおおせたことがうれしいの、それを投げすてたことが、みなは生きているのに。時計が鳴っている。鉛の輪が空に溶ける、そのひとはわたしにうつくしさを感じさせてくれる、おもしろさを感じさせてくれる。でも、わたしは行かなければなかない。みなといっしょにならなくちゃ。

そうして、「死」の誘惑からもう一度、クラリッサは「生」を選びとるのです。


4.おわりに


ピーター・ウォルシュやサリー・シートンなど、彼らに視点をおいて複雑に絡み合っている意識の糸を、丹念にほぐし、その「生」を追っていけば、わたしたちはまた新たな「物語」に出会うことができるでしょう。

ウルフ自身が「序文」の中で言っているように、本当は「意識の流れ」の手法がどのように使われているかなんて、気にしなくったっていいのです。
それは、ウルフの言葉を使えば、『ダロウェイ夫人』という「観念」が、自分の「住む家」を創り出した「観念の住むべき家」の設計図なのですから。

読者は、どうかこの本の手法の有無など、考えないでください。この本が全体として心にあたえた効果だけを考えるのです。このいちばん大事な問題については、読者は著者よりもはるかにすぐれた裁判官である。実際、自分の意見をつくりあげるだけの時間と自由があれば、読者こそけっきょく誤つことのない裁判官なのである。では、著者は読者に『ダロウェイ夫人』をゆだねて、判決が即刻の死であろうと、あと何年かの命と自由であろうと、どちらの場合も公正であるものとの確信をもって、法廷を去ることにする。(「モダン・ライブラリ版への序文」)




読了日:2007年2月19日