2007/10/13

ディケンズ「大いなる遺産」

大いなる遺産(上) (新潮文庫)
  • 発売元: 新潮社
  • 発売日: 1951/11/1

ディケンズ『大いなる遺産』(Great Expectations,1860-1) を読了しました。
ディケンズ後期の代表作である『大いなる遺産』 は、主人公ピップが語り手となり、生い立ちを回想する一種の「自伝」として構成されています。
そのため、「大遺産相続の見込み」をめぐって、ピップがどのように自己を形成していくかが主要なテーマだと思います。
ピップがどのように「野心」を持ち、なぜ「覚醒」するに至ったのかについて見ていきたいです。


1.ピップの「野心」


ピップの「野心」が芽生える最初のきっかけは、自分自身に対する失望です。
彼は、美しい貴族の娘エステラによって、貧乏人の鍛冶屋の家庭で育った自分の身の上を、恥だと知らされます。
すなわち、エステラによって知恵の実を与えられたために、初めて自らの境遇に対する幻滅と不満が生まれたのです。

自分はつまらない労働者の子供だということ、自分の手がざらざらしていること、自分の靴は厚いどた靴だということ、自分は兵隊をジャックだなんていういやしい癖がついているということ、自分はゆうべ考えたよりかはるかに無知だということ、そして、つまり自分は、下等な、いやらしい生活をしているのだということを、つくづく考えた。(山西英一訳、以下同)

自分自身に対して失望すると同時に、ピップは自分の家や職業に対しても不満を持ち始めます。
「この上もなく高雅な客間」や、「神厳な殿堂の神秘不可思議な正門」は消え失せ、「大人となり、独立独行するための輝かしい道だと信じていた」鍛冶場は、完全に一変して「粗野で下等なもの」にすぎなくなるのです。

この自分と自分の家に対する不満は、冷酷な美少女エステラへの恋心が根底にあると言えます。
ピップの言葉、服装、容姿のすべてを労働者のものと蔑むエステラは、二人の間の近づきがたい距離を強調します。エステラの影響から階級意識が芽生えたピップは、二人の距離を生み出しているのは、階級差であると認識します。
すなわち、ピップは報われない恋を階級差の問題に置き換えて、紳士に成り上がる「上昇の夢」に、魅せられていくのです。これこそが、ピップの「野心」の芽生えであると言えるでしょう。
彼の「野心」は、謎の恩人から莫大な遺産相続の見込みを得て、かねてから不満を抱いていた自分の家や友をあっさりと捨て、ロンドンにおもむかせます。

わが少年時代の単調な友よ、さらば! わが行く手は、ロンドンであり、偉大なるものの世界である! 鍛冶屋の仕事やおまえたちではないのだ!

こうして義兄で親友のジョー・ガージャリを見捨て、ロンドン紳士への道を歩み始めたピップは、「スノッブ」(snob)としての人間像を見出すことができます。
スノッブとは、社会的地位や富を大げさに持ち上げ、社会的に身分の低い親戚縁者を恥ずかしがり、上流階級にへりくだり、外見によって価値判断する気質を持つ人を意味しています。
バーナーズ・インで思いがけなくジョーの訪問を受けた際の、「もし金で彼を遠ざけておくことができたとしたら、わたしはきっと金をだしたことだろう。」というピップの態度は、スノッブとしての特徴を端的にあらわしているでしょう。

これはみんな自分のせいであって、もし自分がジョーに気楽にたいしたら、ジョーは自分にたいしてもっと気楽になれたろうと悟ることができるほど、わたしは分別もなければ、良い感情ももっていなかった。わたしは彼にたいしていらいらし、不きげんだった。こんな気分でいるところへ、彼はわたしの頭上に燃えさかる炭をつみあげたのだった。
「わたしたちはふたりきりですのでね、あんた!」と、ジョーがいいはじめた。
「ジョー」と、わたしは怒りっぽく口をはさんだ。「あんた、どうしてぼくをあんただなんていうんだい?」
ジョーはほんの一瞬間、かすかにとがめるような眼つきでわたしを見た。彼のえり飾りやえりがまったく途方もないものだったにもかかわらず、わたしはその眼つきに一種の威厳を感じた。

ピップにとってジョーは、もはや愛情あふれる父親代わりの鍛冶屋の親方ではなく、話しかけられることも嫌悪する貧しい労働者にすぎなかったのです。


2.ピップの「覚醒」


ピップの人生が生産よりも浪費に向かうことは、前述の通りスノッブであることから予測されます。
ピップが紳士として労働のない生活の中で、意志力の麻痺とともに倦怠感に取り付かれ始め、退廃ムードに深入りしていくのも、当然の成り行きと言えます。

かつて誇りと憧れに胸をふくらませながらはじめてロンドンへとやってきたピップの眼前に、「醜い、いびつな、狭っくるしい、うす汚い」街並みが現れたのは、非常に暗示的です。
また、ピップが幼少期の原体験として持っている罪の意識も、ロンドンに赴くことによってますます意識されています。
ロンドン生活において、何ともいえない苛立ちと歯がゆさに悩まされる日々が続くのも、そのためです。

ピップの大いなる期待は、ことごとく期待はずれに転じ、徐々に失望を味わっていくのです。
そして、10年間も続いた大いなる期待は、マグウィッチ出現によって大いなる幻滅に転じます。
それによって、ミス・ハヴィシャムがピップの恩人でなかったばかりか、「機械の心臓をもった人間の模型」として「都合のいい道具」になっていただけだという真実に気づくのです。

考える力がやっとよみがえったとき、はじめて自分がどんなにみじめであるか、いままで自分がのっていた船が、どんなに粉みじんにくだけさったかということが、はっきりとわかりはじめた。

このようにして、ピップの成功の神話はその虚構性を暴露され、完全に消滅するのです。
この大いなる失望が、彼の精神的「覚醒」への第一歩であると言えます。
当初、ピップはマグウィッチに対して、反感と嫌悪をあらわにします。
しかしこれが、犯罪者に対して誰もが持つ、道徳的嫌悪感の表れでないことは、のちにマグウィッチに対する嫌悪感を克服し、深い愛情と憐憫の気持ちを抱くようになるピップが肯定的に描かれていることから、明らかです。

命がけで自分の信じる善を尽くしたマグウィッチの前で、ピップがその身分を失いながらも、マグウィッチ救済のために献身的な働きに乗り出す瞬間こそ、彼の「覚醒」であると言えるでしょう。
紳士の体面に固執するのではなく、それを乗り越えることによって、彼の受動的な幻想が能動的な現実認識に変わったからです。
マグウィッチの国外逃亡計画の挫折、国による財産の没収、そしてマグウィッチの死。
この間にあらわれてくるピップと、マグウィッチすなわちピップの「第二の父」との間の完全な溶け合いの中に、新たな紳士像の誕生を見出すことができます。


3.おわりに


『大いなる遺産』において最も重要なのは、紳士階級をめぐる大きい社会的な物語でしょう。
サチス荘を中心としたロマンスは、ヴィクトリア朝の人々が共有した階層意識の枠組みと、紳士への夢の上に描かれています。
ピップがつかんだ「大遺産相続の見込み」が、19世紀イギリス社会の夢を象徴していることは、エドガー・ジョンソンが指摘している通りです。

ピップは、エステラが提示した階層の枠組みによって、労働者としての自分の立場を発見し、彼女への恋心を社会的上昇の夢に読みかえて紳士に成り上がっていきます。
しかし、階級的にはロンドン紳士となったピップを、ディケンズはあえてスノッブとして表現し、従来の成功のロマンティシズムに対して、反対の立場をとっています。
そして、マグウィッチによって恩人の正体が明かされ、ピップのロマンスが崩壊することで見えてくるのは、彼のロマンスを支えていた紳士階級をめぐる虚構と、その実体です。

ピップは、この虚構の物語を乗り越えて「覚醒」し、マグウィッチと自分との関係をとらえなおしていく物語の終盤は、ディケンズによる新しい紳士像の提案であると言えます。
すなわち、遺産相続の見込みの上につくられた、虚構と欺瞞に満ちたロンドン紳士ではなく、階級性を超越した精神的な意味での紳士像です。
まとめとして言い換えれば、『大いなる遺産』は、ピップの遍歴によって、ディケンズが価値の再編成を提示した物語であると言えるのです。




読了日:2007年1月11日

2007/07/29

ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」

ダロウェイ夫人 (角川文庫)
  • 発売元: 角川書店
  • 発売日: 2003/04

はじめに


ヴァージニア・ウルフ「ダロウェイ夫人」を読了しました。
『ダロウェイ夫人』は、それまでウルフが実験的に試みてきた「意識の流れ」(stream of consciousness)の新手法を、みごとに使いこなした作品です。
ダロウェイ夫人の内的独白から始まり、彼女をとり巻く複数の登場人物たちの間で、その流れるような意識の主体となる「語り手」はリレーされていきます。そうして、とぎれとぎれの行動と心理が連鎖して、とりとめもない一日は過ぎていくのです。『ダロウェイ夫人』は、6月のロンドンの日常を映し出した群像劇です。

このたゆたうような「意識の流れ」のリレーの中で、劇的な「筋立て」を与えられている人物がいます。
セプティマス・ウォレン・スミスとその妻、ルクレチアです。
戦争の後遺症から精神錯乱に陥ったセプティマスと、夫の変貌に困惑し悩みながらも、必死に彼を支えるルクレチア。彼らにとって、この一日は再び繰り返すことのない、永遠に記憶される一日でしょう。
セプティマスが、窓から身を投げて自殺をしたのです。
なぜ、彼は自殺しなければならなかったのでしょうか。
セプティマスとルクレチアに注目し、発狂するセプティマスについて考えてみたいと思います。


1.発狂するセプティマス


セプティマス・ウォレン・スミスは、その登場から発狂する"ちっぽけな人間"としての表象を与えられています。

顔が蒼白く、鼻がとんがり、褐色の靴とみすぼらしい外套をつけ、榛色の眼をしているが、その眼は、あの見ず知らずの他人にまで不安をいだかせるような不安の色をたたえている。(富田彬訳、以下同)

セプティマスは、「自分自身に話しかけ、死人に話しかけ」ます。常に罪の意識に苛まれ、恐怖に眼を瞠っています。
一方、若い妻のルクレチアは、夫の変貌を敏感に察知し、夫が自殺を口にすることに恐れおののきます。しかし、イタリア人である彼女に話し相手はおらず、「人々」に夫の変化を悟られないように振舞うのに必死です。実の母親にでさえ、不安を打ち明けることができません。ルクレチアは、「もう誰にも話せない」と語ります。それゆえ、彼女の悩みと苦しみは、どんどんふりつもっていくのです。

わたしがレースの襟をかける。新しい帽子をかぶる。それでもあのひとは気づかない。わたしなんかいなくても、あのひとは幸せでいられるんだわ。わたしは、あのひとなしでは、どうしたって幸せにはなれない!

戦争から帰ってきたセプティマスは、ルクレチアにとって「もうセプティマスじゃない」のです。


ですが、作中で暗示されているように、彼は第一次大戦従軍中の「砲弾炸裂などによる精神障害(shell shock)が遅れて出てきた症例」の一つでした。ここにおけるルクレチアの不幸は、セプティマスを正しく診断できる精神科医がいなかったことでしょう。彼女は、「ホームズ先生はなんでもないと言っている」と町医者の誤診を信じてきっているのです。
セプティマスにとっても、ルクレチアの理解を得られないことは不幸でした。彼にとって、自身の精神は正常だったのですから。彼は、自らをキリストの再来と信じて、新しい宗教を模索していたのです。

ルクレチアの「心の闇」。すなわち、セプティマスに対する不信は、結婚指輪をはずすに至って決定的になります。指輪がするりとはずれるほど、生活苦により彼女の指は細くなっていました。それは、夫婦の絆の弱まりをも意味していると言えます。指輪をはずした妻に、セプティマスは、「二人の結婚はおしまいだ」と感じます。
このとき、二人の長い一日のうち、半日が過ぎようとしていました。


2.セプティマスはなぜ自殺したのか


12時きっかりに、夫婦は有名な老医師ウィリアム・ブラッドショー卿を訪ねます。ルクレチアは夫を治してくれるよう、なかば最後の望みをかけて。

ブラッドショー卿は、セプティマスを目にした瞬間に症状を見抜きました。ブラッドショー卿は、ただちにセプティマスに対して転地療養を命じ、ルクレチアに彼と離れるよう諭します。「万事私にまかせておきなさい」と言うブラッドショー卿に、激しく失望する、ルクレチア。

こんな、こんな、苦しい思いをしたことは、レチアは生まれてはじめてだった! 彼女は助けを求めたのに、みはなされたのだ! あのひとはわたしたちを見すてた! ウィリアム・ブラッドショー卿は親切なひとじゃない。

ブラッドショー卿は、礼儀正しい偉大な医者でしたが、本質的にはホームズと同様、差別的な人間でした。ルクレチアが直観的に見抜いたのは、彼の本姓であったと言えるでしょう。

狂人どもを隔離し、彼らが子を生むことを禁じ、彼らが絶望するのは罪悪であると宣告し、適当ならざる人間が自分の意見など発表すべきではない、

すなわち彼の実際の目的は、社会の秩序を乱すものを排除することにあったのです。

夕刻。家へ帰って内職の帽子を縫っているルクレチアを見て、セプティマスは「なんにもおそれることなんかありやしない」と気づきます。「奇跡も、啓示も、苦痛も、孤独も」必要ないことを悟ります。そしてはじめて、彼は「あたりまえの口」で妻に話しかけることができたのです。
それによってルクレチアは、「このひとは、今われにかえったんだわ。今笑ったんだわ」と幸福に打ち震え、再びセプティマスへの愛に目覚めます。彼女は、ホームズの誤診からの夫への不信を克服し、
"正しい診断"をしたブラッドショー卿をも、乗り越えるのです。

たといあのひとたちがあなたを連れて行くとしても、と彼女は言った。わたしあなたといっしょに行くわ。あのひとたちは、わたしたちがいやなら、わたしたちを引きはなすことなんかできないわ、と彼女は言った。

二人が夫婦の絆を回復し、はじめて互いに理解しあったと言えるでしょう。


夜、ホームズが訪れます。彼とブラッドショー卿は、どちらもセプティマスが「人間性」と呼んで嫌悪しています。それは、冷酷に彼を排除する、既成の社会秩序そのものを象徴しているからだと思います。ホームズが戸を開けた瞬間。
セプティマスは「これでも、食らえ!」と勢いよく力いっぱいに、窓から飛び降りたのです。そうして、夫婦の二度と来ない一日は終わりました。



彼の自殺は、ホームズらが判断したように、精神錯乱による「咄嗟の衝動」ではありません。その時彼は、目覚めていたのですから。「死ぬのはいやだ。人生はいい」と。決して社会への絶望など、していませんでした。

それではなぜ、セプティマスは窓から身を投げたのでしょうか。

それは、「これでも、食らえ!」という言葉が示しているように、セプティマスのような人間を排除する社会秩序に対する"異議申し立て"だったのではないでしょうか。彼は命を投げ捨てて彼らを抑圧する館力に対して抵抗を試みたのです。

ウォレン・スミス夫妻を中心に、『ダロウェイ夫人』を見てきましたが、これらの出来事は、すべてたった一日に起こったことです。刻々と変化する心理を描き出し、一日小説という枠組みを実に見事に使いこなしています。
この一日には、二人の人生そのものが凝縮されていると言っても、過言ではないかもしれません。


セプティマスの不幸は、彼を正しく理解することができなかった社会。あるいは正しく判断していながらも受け入れなかった社会の責任です。セプティマスに不信を持ち、反発しながらも最後には理解して受け入れるルクレチアは、オルタナティブな社会の姿を暗示していると思います。
ウルフは、スミス夫妻を通して、他者排除的な既存の社会を批判し、マイノリティに対する寛容性を訴えているのではないでしょうか。



3.クラリッサ・ダロウェイから見た<セプティマスの死>


セプティマスの死を、主人公クラリッサ・ダロウェイの視点からアプローチしたいと思います。
クラリッサ・ダロウェイは、政治家夫人。「あだっぽい女」と表現される、美しい女性として登場します。

五十の坂をこして、病気をしてからはめっきり頭の白さがめだってきたようなものの、まだまだ鳥のような、青味をおびた緑色の軽快で活発な懸巣のようなところがある

今夜、自邸で「総理大臣もくる」重要なパーティを予定しているクラリッサ。彼女は、「十八世紀以前の家柄の出」であり、

今やクラリッサは、白髪まじりの髪もいかめしく、得々と歩を遊び、光彩をはなちながら、首相閣下につき添って部屋を通った。耳輪をつけ、銀縁の人魚の衣服かと思われるドレスを着て。

ダロウェイ夫妻のパーティに、少し遅れてブラッドショー夫妻が到着します。セプティマスを初めて"正しく診断"したウィリアム・ブラッドショー卿とその夫人です。
ウィリアム卿とクラリッサの夫リチャードは、ウィリアム卿が議会を通過させたがっている法案について話しています。二人を見ながら、想像をふくらませるクラリッサ。

ある患者のことに、ウィリアム卿は声をひそめてふれている。その患者のことは、砲弾炸裂による震盪の遅発影響について彼の話していることに関係があるんだわ。この法案へある規定条項をいれなければならないので。

すると、ブラッドショー令夫人がクラリッサにささやきます。

「ちょうど出がけに、主人に電話がかかりましたの、とてもいたましい事件なんです。若い男が(主人のウィリアム卿がダロウェイ氏に話しているのはこのことなんです)自殺したんです。戦争に行ったひとです」

この「若い男」こそ、セプティマス・ウォレン・スミスその人でしょう。クラリッサの意識のなかに、泉のようにあふれだす想念。セプティマスの自殺の話を聞いて彼女は、その死を追体験します。

窓から飛びおりたんだって。上に、地面に突きあがった。彼の体へ、つまづき進み、傷痕を負わせながら、錆びた釘がつきささる。そこに彼は横たわる。脳天がズキン、ズキン、ズキン、と脈打ち、それから息もとまりそうな闇黒が押し寄せてきて。こんなふうに彼女はその死を眼のあたりに見た。

セプティマスに「とっても似ているような気がする」クラリッサ。彼女は、かつて「今死んだら、これ以上の幸せはなかろう」と、自分に言い聞かせていたことを、思い出します。

大切な一つのものがある。わたし自身の生活では、おしゃべりの花環で飾り立てられ、よごされ、曖昧なものにされてしまい、毎日腐敗と嘘とおしゃべりとなって、滴りおとされる一つのものが。この大切なものを彼は保存していたのだ。死は挑戦なのだ。死は中心部に通じようとする企てなのだ。人々は、中心部に達することが不可能だと感じている。それは神秘的に彼らを避けるのだ。近さは遠くなり、有頂天は消え失せて、ひとはひとりぽっちになる。死の中にこそ抱擁があるのだ。

クラリッサにとって、「挑戦」であり、「大切なもの」を保存することであり、その中にこそ「抱擁」がある「死」に、セプティマスは到達したのです。


クラリッサは、昔サーペンタイン池に銀貨を一枚投げたことがありました。しかし、自分の体は投げ込みませんでした。銀貨は、彼女の代わりに池へ身を投げたと言えます。
セプティマスの自殺は、クラリッサにとって、かつて彼女が池に投げこんだ銀貨と同じ役目を果たしたと言えるでしょう。
すなわち、身がわりの「死」です。

作者ヴァージニア・ウルフが。『ダロウェイ夫人』の「序文」でもらすように、セプティマスは、クラリッサの「分身」として描かれていると言えるでしょう。

のちにはダロウェイ夫人の分身にもち出したセプティマスは、最初の草稿では存在しなかったということ、それからもう一つは、初めはダロウェイ夫人が自殺をするか、おそらくパーティのあとで死ぬかするようになっていたということ。(「モダン・ライブラリ版への序文」)

議員の夫をもちパーティを取り仕切るクラリッサは非常に裕福でしたが、けっして「幸福」ではありませんでした。
クラリッサは、セプティマス同様に「人生は堪え難い」と感じ、セプティマスが嫌悪した卑俗な「人間性」すなわち、ウィリアム・ブラッドショー卿のような「やつらが、人生を堪え難くする」と感じています。
彼女の心の奥には、常に「おそろしい恐怖」と「圧倒的な無力感」があるのです。

もしあそこにリチャードが「タイムズ紙」を読んでいてくれなかったとしたら、わたしは滅び去っていたにちがいない。わたしはのがれた。だけど、その若い男は自殺した。

同じ「生き難さ」の中に身をおきながら、セプティマスは「自殺」を選び、クラリッサは「生きる」ことを選びました。彼女は、「大切なもの」を守りたいと思いながらも、「ベックスバラー夫人などのような一人になりたい」と「出世」を望んだのです。
それは、クラリッサにとって果たして"正しい選択"だったのでしょうか。

それは、わたしにあたえられる災難―わたしに加えられる恥辱なんだわ。この深い闇の中で、ここで一人の男が、あそこで一人の女が、沈んで姿を没するのを見ているのは、しかもわたしは夜会服を着てここに立っていなければならないというのは、わたしに科された罰なんだわ。

卑俗の中に、恥辱と刑罰に堪えながら、孤独と不安と対峙して生きること。それが、ウルフの提示したもう一つの道だと思います。クラリッサは、シェイクスピアの「もうおそれるな」という言葉に支えられながら、常に"生の不安"と戦っています。

もうおそれるな烈日を
猛り狂う厳冬も
(シェイクスピア作『シンベリン』第四幕第ニ場に出てくる挽歌から)

『ダロウェイ夫人』の中で、繰り返し語られるこの警句は、クラリッサを「みな」のところにつなぎとめる、ひとつの「呪文」なのでしょう。

そのひとがそれをやりおおせたことがうれしいの、それを投げすてたことが、みなは生きているのに。時計が鳴っている。鉛の輪が空に溶ける、そのひとはわたしにうつくしさを感じさせてくれる、おもしろさを感じさせてくれる。でも、わたしは行かなければなかない。みなといっしょにならなくちゃ。

そうして、「死」の誘惑からもう一度、クラリッサは「生」を選びとるのです。


4.おわりに


ピーター・ウォルシュやサリー・シートンなど、彼らに視点をおいて複雑に絡み合っている意識の糸を、丹念にほぐし、その「生」を追っていけば、わたしたちはまた新たな「物語」に出会うことができるでしょう。

ウルフ自身が「序文」の中で言っているように、本当は「意識の流れ」の手法がどのように使われているかなんて、気にしなくったっていいのです。
それは、ウルフの言葉を使えば、『ダロウェイ夫人』という「観念」が、自分の「住む家」を創り出した「観念の住むべき家」の設計図なのですから。

読者は、どうかこの本の手法の有無など、考えないでください。この本が全体として心にあたえた効果だけを考えるのです。このいちばん大事な問題については、読者は著者よりもはるかにすぐれた裁判官である。実際、自分の意見をつくりあげるだけの時間と自由があれば、読者こそけっきょく誤つことのない裁判官なのである。では、著者は読者に『ダロウェイ夫人』をゆだねて、判決が即刻の死であろうと、あと何年かの命と自由であろうと、どちらの場合も公正であるものとの確信をもって、法廷を去ることにする。(「モダン・ライブラリ版への序文」)




読了日:2007年2月19日

2007/06/17

青山七恵「ひとり日和」

ひとり日和 (河出文庫)
  • 発売元: 河出書房新社
  • 発売日: 2010/3/5

読書会の課題本ということで、青山七恵『ひとり日和』(2010年)を読了しました。
第136回芥川賞受賞作です。

  • 春夏秋冬の構成で、主人公の成長を描いている。
  • 春夏秋冬という循環構成で、主人公の成長物語ではない。

読書会では、『ひとり日和』を主人公の成長物語として解釈できるかどうかで、参加者によって意見が分かれました。
同じ作品でも、読み手に真逆の印象を与えているとは、面白いですね。

手に入れては投げ出し、投げ出され、投げ出したいものはいつまでも一掃できず、そんなことばっかりで人生が出来ている。(青山七恵『ひとり日和』)

わたしは、主人公と彼女を取り巻く若者の人間類型に、<断絶した「個」>を、強く感じました。
「春夏秋冬」そして「春の手前」という構成は、円環的世界観を暗示させます。確かにイニシエーションのパターンにあてはまるけれど、本当に主人公は成長したのでしょうか?
わたしには、完璧な機会を与えられながら、それを拒み続けたように感じられました。

したがって、単純なビルドゥンクス・ロマンではないと思うのです。



読了日:2007年6月16日

2007/06/03

イギリス文学の名作を読みたい

イギリス文学の読書計画です。読了本は、感想記事にリンクしています。
(読みたい本の優先順位が高いものに★)
2012年2月16日現在

【古英語・中英語の文学】
  • 『ベオウルフ』
  • チョーサー(1340-1400) : 『カンタベリー物語』★

【ルネサンスの散文と詩と演劇】
  • モア(1478-1535) : 『ユートピア』★
  • シェイクスピア(1564-1616) : 『ソネット集』、 『リチャード三世』、 『ロミオとジュリエット』★、 『夏の夜の夢』、 『ヴェニスの商人』、 『ヘンリー四世』、 『ヘンリー五世』、 『ジュリアス・シーザー』、 『十二夜』、 『お気に召すまま』、 『ハムレット』★、 『オセロゥ』、 『マクベス』、 『尺には尺を』、 『あらし』 

【清教徒革命~王政復古】
  • ベイコン(1561-1626) : 『随筆集』
  • ベン・ジョンソン(1572-1637) : 『十人十色』、 『ヴォルポーニ』、 『連金術師』
  • ミルトン(1608-1674) : 『失楽園』★、 『復楽園』、 『闘技者サムソン』
  • バニヤン(1628-1688) : 『天路歴程』★

【18世紀初期~19世紀初期】
  • スウィフト(1667-1745) : 『ガリヴァー旅行記』★
  • デフォー(1660-1731) : 『ロビンソン・クルーソー』
  • リチャードソン(1689-1761) : 『パミラ』、 『クラリッサ』
  • ウォルポール(1717-1797) : 『オトラント城』
  • メアリー・シェリー(1797-1851) : 『フランケンシュタイン』
  • オースティン(1775-1817) : 『分別と多感』、 『ノーサンガー・アビー』、 『高慢と偏見』★、 『エマ』、『説得』、『マンスフィールド・パーク』

【ロマン主義時代】
  • ブレイク(1757-1827) : 『無垢の歌』、 『経験の歌』、 『天国と地獄の結婚』
  • ワーズワス(1770-1850) : 『不死のオード』、 『抒情歌謡集』、 『序詩』
  • コールリッジ(1772-1834) : 「クブラ・カーン」
  • バイロン(1788-1824) : 『チャイルド・ハロルドの遍歴』
  • シェリー(1792-1822) : 『縛めを解かれたプロメテウス』、 「西風に捧げるオード」
  • キーツ(1795-1821) : 『エンディミオン』、 「ギリシアの壺のオード」、 「ナイチンゲールに捧げるオード」
  • スコット(1771-1832) : 『湖上の麗人』、 『アイヴァンホー』

【ヴィクトリア朝時代】
  • ワイルド(1854-1900) : 『ドリアン・グレイの肖像』★、 『まじめが大切』
  • ディケンズ(1812-1870) : 『ボズのスケッチ』、 『ピクウィック・ペーパーズ』、 『オリヴァー・ツィスト』、 『ニコラス・ニクルビー』、 『デイヴィッド・カパフィールド』、 『骨董屋』、 『クリスマス・キャロル』、 『二都物語』、 『大いなる遺産』
  • サッカレー(1811-1863) : 『虚栄の市』
  • シャーロット・ブロンテ(1816-1855) : 『ジェイン・エア』★
  • エミリー・ブロンテ(1818-1848) : 『嵐が丘』★
  • ジョージ・エリオット(1819-1880) : 『ミドルマーチ』
  • ハーディ(1840-1928) :『テス』、『日蔭者ジュード』

【第二次大戦後まで】
  • ヘンリー・ジェイムズ(1843-1916) : 『ある淑女の肖像』
  • コンラッド(1857-1924) : 『闇の奥』
  • ウルフ(1882-1941) : 『ダロウェイ夫人』、 『灯台へ』★、 『波』
  • ジョイス(1882-1941) : 『ダブリン市民たち』、 『若き芸術家の肖像』★、 『ユリシーズ』★
  • キャロル(1832-1898) : 『不思議の国のアリス』、 『鏡の国のアリス』
  • E.M.フォースター(1879-1970) : 『インドへの道』
  • イエイツ(1865-1939) : 『責任』、 『クールの白鳥』、 『塔』
  • エリオット(1888-1965) : 『荒地』
  • モーム(1874-1965) : 『人間の絆』★
  • ロレンス(1885-1930) :『チャタレー夫人の恋人』
  • オーウェル(1903-1950) : 『動物農場』、 『1984年』
  • ゴールディング(1911-1993) : 『蝿の王』

2007/06/02

ロシア文学の名作を読みたい

ロシア文学の読書計画です。読了本は、感想記事にリンクしています。
(読みたい本の優先順位が高いものに★)
2012年2月21日現在


  • プーシキン(1799-1837):『エヴゲーニイ・オネーギン』、 『ベールキン物語』★、 『スペードの女王』★、 『青銅の騎士』、 『ボリース・ゴドノーフ』、 叙事詩多数

  • グリボエードフ(1795-1829):『知恵の悲しみ』

  • レールモントフ(1814-41):『現代の英雄』★、 『帆』、 『悪魔』、 『ムツィリ』

  • ゴーゴリ(1809-52):『死せる魂』★、 『ジカーニカ近郷夜話』、 『鼻』、 『狂人日記』、 『ネフスキイ大通り』、 『外套』、 『査察官』、 『ヴィー』

  • トゥルゲーネフ(1818-83):『猟人日記』、 『ルージン』★、 『アーシャ』、 『父と子』★、 『初恋』、 『貴族の巣』、 『その前夜』、 『余計者の日記』、 『シチグロフ群のハムレット』

  • ゴンチャローフ(1812-91):『オブローモフ』★,『日本渡航記』

  • ゲルツェン(1812-1870):『誰の罪か』

  • チェルヌィシェーフスキイ(1828-89):『何をなすべきか』★

  • トルストイ(1828-1910):『幼年時代』、 『戦争と平和』、 『アンナ・カレーニナ』、 『コサック』、 『懺悔』、 『イワン・イリイチの死』、 『クロイツェル・ソナタ』、 『神父セルギイ』、 『悪魔』、 『復活』、 『家庭の平和』、 その他民話

  • ドストエーフスキイ(1821-81):『貧しき人々』★、『分身』、 『百夜』、 『死の家の記録』、 『地下室の手記』、 『罪と罰』、『白痴』、 『悪霊』、 『未成年』、 『おかしな人間の夢』、 『カラマーゾフの兄弟』

  • ガルシン(1855-88):『赤い花』、 『信号』、 『四日間』

  • チェーホフ(1860-1904):『ともしび』、 『犬を連れた奥さん』、 『可愛い女』、 『決闘』、 『六号室』、 『いいなずけ』、 『かもめ』★、 『ワーニャ叔父さん』★、 『三人姉妹』、 『桜の園』

  • ゴーリキイ(1868-1936):『チェルカッシ』、 『小市民』、 『どん底』★、 『母』、 『二十六人の男と一人の女』、 『秋の一夜』

  • ザミャーチン(1884-1937):『島の人々』,『われら』★

  • ソルジェニーツィン(1918-2008):『イワン・デニーソヴィチの一日』、 『クレチェトフカ駅の出来事』、 『マトリョーナの家』、 『胴巻のザハール』、 『ガン病棟』、 『煉獄の中で』、 『風にゆらぐ燈火』、 『鹿とラーゲリの女』、 『収容所群島』


2007/06/01

このブログについて

管理人 : みか


ご訪問ありがとうございます!
こちらのブログは、本好きの管理人が、読んだ本の感想を書いています。
ブログタイトルの由来は、宮澤賢治の『春と修羅』に収められている詩「真空溶媒」(Eine Phantasie im Morgen)より。

コメント機能・トラックバック機能はオフにしていますが、本を通じて、皆さんとの交流を深めたいと思っています。
読書メーターに登録していますので、お気軽にコメント・メッセージくださいね。


ロシア文学が大好きです。
2012年2月から、ロシア語の勉強を始めました。
いつか、ロシア語原文で、ドストエフスキーやトルストイを読みたいです。

2011年から、読書会の活動に力を入れています。
最近は、読書会の課題本を中心に、感想を書いています。

★読書会記録

2020年10月マルセー・ルドゥレダ『ダイヤモンド広場』
2020年8月ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』
2020年6月大岡昇平『俘虜記』
2020年4月ウィリアム・フォークナー『熊』
2020年2月多和田葉子『献灯使』
2019年12月オルガ・トカルチュク『逃亡派』
2019年8月トニ・モリスン『青い眼がほしい』
2019年8月ジュリー・オオツカ『屋根裏の仏さま』
2019年6月ギュスターヴ・フローベール『三つの物語』
2019年5月イザベル・アジェンデ『精霊たちの家』
2019年3月クリシャン・チャンダル『ペシャーワル急行』『アンヌ・ダーター』
2019年2月織田作之助『六白金星・可能性の文学』
2019年1月マリーズ・コンデ『わたしはティチューバ~セイラムの黒人魔女』
2018年12月村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』
2018年10月ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』
2018年8月石牟礼道子『椿の海の記』
2018年6月アントワーヌ・ド サン=テグジュペリ『戦う操縦士』
2018年4月ザカリーヤー・ターミル『酸っぱいブドウ/はりねずみ』
2018年3月芥川龍之介『奉教人の死』『きりしとほろ上人伝』
2018年2月坂口安吾『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』
2018年1月エミール・ゾラ『水車小屋攻撃』
2017年12月カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』
2017年10月ルイジ・ピランデッロ『月を見つけたチャウラ』
2017年9月ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』
2017年7月シャルル・バルバラ『赤い橋の殺人』
2017年6月宮本常一『忘れられた日本人』
2017年5月バルガス・リョサ『密林の語り部』
2017年4月和辻哲郎『埋もれた日本』
2017年3月津島祐子『狩りの時代』
2017年1月ナディン・ゴーディマ『ジャンプ』
2016年12月アープレーイユス『黄金の驢馬』
2016年10月ハインリヒ・ハイネ『流刑の神々・精霊物語』
2016年9月ドリス・レッシング『老首長の国』
2016年7月ソポクレス『オイディプス王』
2016年6月巴 金『寒い夜』
2016年5月中島 敦『山月記』
2016年4月フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男』
2016年3月スベトラーナ・アレクシェービッチ『チェルノブイリの祈り』
2016年1月パトリック・モディアノ『1941年、パリの尋ね人』
2015年11月ウィモン・サイニムヌアン『蛇』
2015年8月パトリック・シャモワゾー『素晴らしきソリボ』
2015年7月M.A.アストゥリアス『グアテマラ伝説集』
2015年5月リュドミラ・ウリツカヤ『通訳ダニエル・シュタイン』
2015年2月遅 子建『アルグン川の右岸』
2014年11月アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』
2014年8月エイモス・チュツオーラ『やし酒のみ』
2014年6月ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』
2014年3月アリス・マンロー『イラクサ』
2013年11月老舎『駱駝祥子(らくだのシアンツ)』
2013年8月アブラハム・B・イエホシュア『詩人の、絶え間なき沈黙』
2013年6月ボフミル・フラバル『あまりにも騒がしい孤独』
2013年4月ミゲル・シフーコ『イルストラード』
2013年1月ガルシア=マルケス『百年の孤独』
2012年11月アディーチェ『半分のぼった黄色い太陽』
2012年9月アティーク・ラヒーミー『悲しみを聴く石』
2012年7月オルハン・パムク『雪』
2012年5月ヘルタ・ミュラー『狙われたキツネ』
2012年3月円城塔『道化師の蝶』
2012年1月ジェーン・オースティン『高慢と偏見』
2011年12月カミュ『ペスト』
2011年6月~10月ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』より「大審問官」


★好きな本

  • ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、『分身』
  • レフ・トルストイ『戦争と平和』、『イワン・イリイチの死』
  • ソルジェニーツィン『ガン病棟』、『煉獄のなかで』
  • オースティン『分別と多感』、『エマ』
  • ディケンズ『デイヴィッド・カパフィールド』、『大いなる遺産』
  • サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』、『フラニーとゾーイー』

★読みたい本



(最終更新:2020年11月8日)